へっぽこ院長の独り言

【闘病記】


最初に、入院した○○総合病院では、突然の四肢麻痺で、急医でも原因が分からず、たいした検査もせず、頸椎ヘルニアがあったので、整形医が緊急手術となった。友人の開業している整形医の友人が、腑に落ちない顔をしていたと、かみさんが言っていた。術後、死にそうな激痛と、ピクリとも動かない体に、死にたいと思った。何日たっても病状は好転せず、毎日、検査の日々だった、レントゲン・MRI・CT・筋通電テスト・髄液検査、何度も執拗にやられたが原因・診断はつかなかった。担当医・医長もそれほどあせらず、他人事のように、いたずらに時間が流れた。脊髄梗塞の専門は、脳外か神経内科らしいが、私の元に来た神経内科医は、簡単な徒手検査して、『私の診るものではありません』と言い、病室を出て行った。リハビリも始まらぬまま、時間だけが過ぎていった。脊髄梗塞に一番大切な早期リハビリが遅れてしまった。それに危機感を覚えた、家族・患者さん・仕事仲間が立ち替わりリハビリに訪れてくれた。握ったままで開かない指や手を、マッサージしほぐしてくれ固まらずにすんだ。全身マッサージ・ストレッチ・低周波・鍼そして、体幹が定まらないのに、ベットで支えながら単座・みんなで支え立位をとらしてくれたとき、感動したことを忘れない。後から考えれば、このことによって、完全麻痺に近い状態から脱したと、今も思っている。みんなのリハビリがなったら、今の自分はないと思う。後から始まった病院のリハビリは、一日一時間もなく上肢のリハビリだけ、足などは、はなから見捨てられた。それもそのはず、足の親指がわずかながら動くようになったと医長に言ったところ『わっははは、動いてる』だから、何なんだと言いたげにバカにした笑い声を残して、病室を出て行った、そしてある日、背もたれ車椅子で起立性低血圧に慣れるため、病棟を漕いでいたとき、医長と副師長が来て、腕を後ろにねじ上げるようにして『曲がった肘をのばしてごらん』『肘がのばせないと、車椅子無理だな』『あんたの奥さん、トランスできるの?』『肘伸びないと、トランス出来ないもな』何も分からず困惑しながら私は『まだ、リハビリが始まったばかりで、分かりません』すると、傍にいた副師長か『先生、リフターがあるから、大丈夫ですよ』そして、笑いながら私の傍から、離れていった。私は、このまま一生かみさんに迷惑かけて、リフターに吊られて生きていかなければ行けないのかと思いました。だから、もっと動けるようになったら、エレベーターの脇の、階段に突っ込んで死んでしまおうと考えたほどでした。さらに、担当医は、診断が付かないので、回診日にも、来なくなりました。そしていたずらに約5月近く入院するはめとなりました。退院を告げられた日に『手術は、しなくてよかたみたいです、ごめんなさい』たった10秒で謝罪、間髪入れず『脊髄梗塞なので、うちとしては、もうすることがないので、退院してください』悪びれることもなく、淡々と説明は終わりました。その後入院した○○リハ病院の担当医から、『脊髄梗塞なのに、何で切ったんですかね』『わかんなかったのかな・・』と笑っている笑顔がいまでも、心に残っています。






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