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鼠の歌 自分評伝の試み4 小学4年 〈2〉 「ほうたいレスラーかげ」とは、当然ながら当時人気だった「タイガーマスク」の影響の元に作られている。 次々とやってくるライバルを倒すこと。包帯の下の正体は何かという「ひっぱり」。ともかく割れた腹筋や盛り上がった筋肉が作画上の大きなポイントになること。このような作りは、ほとんどアニメのパクリといっていいと思う。 「必殺技」でライバルを倒したあとに「こんなことがわからないぐらいじゃまだ小ぞうだぞ」とライバルに威張って見せる。 「まっ、まけた」がっくり崩れるライバル。 ところが、突然包帯の下でかげは泣いている。「だが、先生の所へ帰れないおれは、一人で知らなければならない。一人で…!」どうやら、かげは1人で生きて行く悲しみに暮れているらしい。 そして冒頭の「第一部終」の一ページ使った終わり方になるのである。話の展開が急に「小学生のセンチメンタル」になっているところが面白い。大の大人ならば、「先生」の所に帰れようが、帰れなまいが、1人で戦わなくてはならないはずなのだが、かげ君にとっては重要なことのようだ。 今回マンガを見る限り、ストーリー全体の組み立てに「独創性」はまったくないと言える。あるのは、「少年マガジン」の過激なスポーツバトルであり、「少年ジャンプ」の編集方針だった「友情」「努力」「勝利」である。 実はそれと外れたストーリーになる可能性のあるマンガも描いている。後述する一回だけで終わってしまった連載マンガの一部である。どのように「友情」「努力」「勝利」から外れるのかは、今となっては想像のしようもない。基本的に当時の私に、オリジナルマンガを描こうという欲求はなかった。アニメのパロディみたいなマンガを、楽しく描ければ良かったようだ。 ちなみに、カラスの描写は下手な割には雰囲気をつかんでいるし、なぜか右に咲いている梅の花は案外特徴を捕まえている。こういう無意識のうちに描いている絵に何故か絵心を感じてしまう。(しかし、今もそうだけど、このころは字が恐ろしいほど酷い!) ちなみに、右下に「落書き」がある。オバQは、当時目をつぶってでも描いていた落書きの定番。その左の男の子は、手塚治虫でいう自画像の絵である。あの丸顔にギザギザ髪、たれ目の男の子はその後、一生私について回ることになる。 第一部最終回を受けて、直ぐ右に「新連載」のお知らせが入っているのが、私のマンガを描くときのモチベーションになっているようだ。このノートは、おそらく誰にも見せることなく終わっているはずなのだが、このサービス精神!はすごいと思う。結局私は一冊の雑誌を作りたかったようだ。「ひみつそしき台風やろう」って、表紙を見ただけでもワクワクするようなキャラになっているが、記憶の上からも、このあと一切描かれることはなかった。 今回のノートをざっと見ると、実はいくつかの連載を始めている。アマチュアレスリングまんが「大ようにつっぱしれ」。うさぎの親子が大熊に出会うところでつづくになる「子うさぎ物語」。「私」の自画像が主人公で、小学生一年生の始業式の日に「6年前の入り口」に入って赤ちゃんとして出てきたところで終わる「思い出」。「野球王子」とは違い、連載二回掲載6ページほど書いた野球マンガ「ナンバー7」。二匹の神の犬と、超能力者らしきものが登場する「のら犬ケン、ガブ」。ほとんどが一回描いて、続きが描かれていない。描いた記憶もない。一冊の雑誌には様々なタイプの「連載マンガ」が必要である。と、どうやら信じていたらしい。 今回ビックリしたのは、ともかくその「サービス精神」である。発想の仕方は、漫画家よりも編集者に向いていたかもしれない。実際、大学卒業時には本気で小学館や集英社の編集者になりたいと思い、大学4年の夏に(←遅いで!^_^;)、資料を取り寄せている。それはともかく、今回感心したサービス精神をいくつか紹介する。 「大ようにつっぱしれ」では、手紙を主人公が読むのだが、突然パズル型式の手紙になっているのである。ストーリーマンガで突然それをやるシュールさが恐ろしい(手塚は初期からそういう遊び心を持っていたので、少し影響されている)。 そして、ノートの裏表紙に書かれていたこれである。曲は何かを援用したかどうかもわからない。非常に稚拙な詞ではあるが、オリジナルな「歌詞」を作っていることは間違いない。しかも驚いたことに、反対側の裏表紙には、始まったばかりの野球マンガ「ナンバー7」の歌も作っているのである。それは以下のような歌詞である。 ナンバー7の歌 1. 野球一筋かけたならーかけたならーくたばるまでやれよーそれがそれが男の生きる道 2.人なみすぐれたこのうではーこのうではー野球をやるためのーうでだ、うでだ、ナンバー7 うーむ途中までは巨人の星の歌がかぶるけれども、途中からはまったく未知の曲になっている(^_^;)。 どうやら「私」は雑誌を作るだけでは飽き足らず、アニメまでプロデュースしようとしていたらしい(^_^;)。 この文章を書くまでは、自覚はなかったのだけど、どうやら私は「根っからのエンターテイメント志向」のクリエイターらしい。間違っても純文学方面には行ってはいけない、と自分に言い聞かす必要が出てきた。 と、いうことでマンガ編はこれで一応終わります。
2015年05月17日
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鼠の歌 自分評伝の試み3 小学校4年 〈1〉 「男一匹ガキ大将」のノートから描き始めたマンガノートには、実はもう一つの連載が始まっている。「青空へアタック」というマンガである。 なぜバレーボールだったのか。わからない。当時「巨人の星」と人気を二分していたアニメの「アタックNO1」の影響があった事は明らかだとは思う。それ以外はどうしても思い出せないから、多分描きやすかったのだと思う。表紙を見ると、ちゃんとボールは特徴をとらえている。どうやら「エスファイター」というチームの女の子らしい。表紙にはものすごい「ドロップ魔球」が描かれているが、その後この魔球が描かれる事はない。つまり描いているうちに、他の魔球にとって代わられることになる。そういう移り気の早さは現代の私に通じている(^_^;)。 女の子らしい表現にも気を使っている事に、我なからビックリする。ブルマーだからといって変な目で見ないで欲しい。当時女の子の体操服姿はそれしかなかったのだから、仕方ない。足の丸みや、靴のリボンなどはよく描いているな〜、と思う。今の私ならば描けない。 話は、猛特訓のチームに「あのう、チームにいれてください」と登場する主人公の女の子という展開で始まる。(一話では全員名前がない)キャプテンは「こいつはこれまで1番てごたえがありそうなやつ」と冷や汗をかき、特別に直々にジャンプテストをさせる。 「ただしわたしのたまは、はやいから一きゅうですませてあげる」とトスをあげる。女の子がジャンプする足。そしてキャプテンが「あ!」と驚き、後ろで他の選手も小さく驚いているコマ。次のページは一ページ二段という大胆なコマ割りを使って、なぜか太陽を背に振りかぶっている場面と、「バシッ」と太い効果音を使ってシュートしている場面で「つづく」になる。 感心するのは、「やきゅう王子」からたったいくつかの落書きを挟んで数ページあとのこのマンガで、「私」は数段の成長を遂げていることである。 ちゃんと起承転結の「起」が描けていること。 目の描き方が少女マンガみたいな星いっぱいではなくて、意思のある瞳に変わっていること。 感情の表現にバリエーションがあること。 コマ割りにメリハリがあること。 そのあと春になって小学校3年と4年の両方の記入があるマンガノートに、その続きが描かれている。驚いたことに「巨だん10ページ」と銘打って長編に変貌し、なおかつ同じノートの最後にもう一度3ページの続きを描いているのである。 続きを見て見よう。 キャプテン「あれは中村キャプテンの魔球だ‼」 選手「え‼」 主人公「こんなにおどろくところをみると、ねえさんはすごいせんしゅだったんだな」 選手(北川)「じゃあんたは中村さんの…」 主人公(中村)「そう、あねのいもうと中村とも子です。よろしく。それであんたは?」 北川「わたしはエースの北川です」 主人公「まあ、あなたが」(目のみの表現) 主人公「あねからよくいわされて(ママ)いますよ、エスファイターにはけたはずれのすごい人がいるって。その名前は北川だって」 北川「まあ‼」(ポーと頬を染める) 主人公「がんばりましょう‼」 北川「ええ!」 キャプテン「おいわいにわたしからプレゼントをするわ」 「これは星マークで、キャプテンをゆずるしるしだよ」 主人公「え!」 北川「おめでとう」 おいおい、新入部員にキャプテンを譲っちゃったよ!こういう理不尽な展開も、私家版マンガの宿命なのだろうか。ただ、ここで書き出したセリフは冒頭の一ページで全部済ませているのだ。ここで、このチームの関係がハッキリし、なおかつこの下のページにつながっているのだが、ひたすら「アクション場面」に移るのである。あ、あともう一人美少女が新入部員として入る場面がある。3人ではバレーボールとして弱いと思ったのだろう。 しかし、「血のにじむような練習」の描写の的確なこと。中村とも子は、あっという間にキャプテンになってしまっている。 5P目からは、実況アナウンサーが「おに(鬼)になり過ぎている」というほどのエスファイターたちの容貌が変化して、第一試合が始まる。中村とも子は、相手のキャプテンが放つ魔球を既によんでいた。それはS字に曲がる魔球だった。一ページを使ってそれを描き、ここで「つづく」となる。 ところが、ノートの後ろで再び始まった「青空へアタック」は、中村とも子と美少女新入部員が同時にアタックしている明るい表紙で始まっている。始まると、敵キャプテンは「あ」と叫び、S字魔球はらせん状に曲がる魔球として返され、キャプテンの頬を直撃して救急車で運ばれてしまう。そしてこんなト書きが入るのである。 「けがは一日でもとどうりになったが、あの二人はあのわざをにどとつかわないことにした。しかし、このわざをつかっているほかの二人がいる。それは、」 「水野きょうだいだった」と書いて二人の新しいキャラの顔が出てきて「つづく」となる。 直ぐわかるように、話の展開だけは「アタックNO1」のパクリである。しかし一挙に表紙を含めて15Pも描いている事に、私はビックリした。 ここで、徹底しているのは、ともかく「盛り上げた上で、つづきに持って行く」という作劇方法が既に完成しているということだ。 「青空へアタック」とほぼ同時期に描かれていると思うのが最初四冊あったノートの写真で極東ノートに何人かのマンガキャラがついていたノートがある。そこには特別11ページと銘打って「アタックコンビ青空」という作品が描かれていた。これは「青空へアタック」の前日潭で、中村とも子のお姉さんが敵の魔球に目を潰されて救急車で運ばれるところから始まるのである。だから話の構造は「青空へアタック」とまったく同じである。しかし、ほんの少し変えている。それはラストの描き方である。なぜかとも子はすぐに敵に仕返しの球を返して、相手キャプテンも救急車で運ばれる。とも子は、「だがなぜかうれしくはなかった」とト書きが呟き、汗のような涙のような水玉が三コマにわたって落ちてゆき「な」「に」「か…!」とト書きが描かれて「つづく」となるのである。 「勝利のあとの虚しさ」の表現に挑戦していることで、注目出来る。 「私」は、マンガを描き始めて半年ぐらいの間に、実に成長(試行錯誤)しているようだ。それを今度は「ほうたいレスラーかげ」を元に語ってみよう。
2015年05月16日
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鼠の歌 自分評伝の試み 2 小学3年 〈2〉 おそらく初めて書いた「連載マンガ」がこの「やきゅう王子」である。 改めてみて欲しい。「うわー」と球が足に当たっている少年が主人公の「やきゅう王子」である。申し訳ないが、左から右に読んで欲しい。申し訳ないが、漫画家志望にしては絵はおそろしく下手だが、それも無視して欲しい。 恐ろしい事が二つある。これは連載一回目であり、なんの説明もなくこういう場面から始まっているのである。恐ろしい事のもう一つは、連載一回目はこの一ページで完結しているのだ。 私にとってマンガ初体験は、星飛雄馬と花形満が初めて対決して、打球が一塁上でぐるぐる回っていた場面から始まった。というのは、前回書いた。3年半経って、そういう「突然のクライマックスから始まる」マンガを無意識のうちに描いていたのである。「私はマンガのドラマトゥルギーに魅了された」と言った根拠はこれである。 ただ、改めてこれを見て感心した事が二つある。 一つはこの一ページに「キャラの立った人物」が四人もいるのだ。上右の2人。左はちょび髭を生やして同じユニフォームを着ているので監督である。右は年寄りだが、ダンディな髪型、キラキラした目を持っている。チームのOBで、今は野球選手か監督(王さん?)の可能性が高い。左下の学生はバットを持っている。目が主人公と同じ目だ。明らかにライバルの選手である。たった一ページしかないけど、私の中では既に長い長いストーリーが作られていて、この場面から始まらなければならなかったし、このコマで終わらなければならなかったようだ。 もう一つは、ユニフォームに「PAP」と書くのは、いったいどういう意図があったのか是非昔の私にお聞きしたいのだけど、ともかくオリジナリティを重視しているということである。帽子のマークの「独創性」を見よ。私は生涯一度もヤクルトにシンパシーを感じた事がないから、これも何かの意味があったのに違いない。 ただし、気持ちが燃えている表現を炎で表すのは、完全に当時大人気だった「巨人の星」のアニメのパクリである。 このノートでは実はもう一つの連載が始まっている。こちらはなんと最初から3Pも描かれているし、その後も連載が続いているので、乗って描いている事がうかがわれる。驚いたことにバレーボールマンガなのである。当時マーガレットで連載されていたらしい「アタックNO1」は読んだ記憶がないので、テレビアニメの影響だろうと思う。「青空へアタック」という題名だ。
2015年05月15日
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鼠の歌 自分評伝の試み1 小学校3年1 倉庫を解体した時に、昔のノート類を放り込んだダンボール箱が出てきた。小学校時代のマンガノート4冊に中学校時代から始めているらしい詩のノート4冊に、日記類が5冊ほどある。私はこんなものをまとめた覚えはない。おそらく私が大学に行った時に、妹が私の元いた部屋の住人になって本棚にあったいくつかの日記やノート類をまとめたのだと思う。修学旅行の時に10冊も買いこんだポストカードも入っていたから、その箱自体は本棚の1番下に私がしまっていて忘れていたのかもしれない。 このマンガノートは、小学校3年の冬の頃に書き始めて、小学校4年の春まで書いて突然終わっている。その後も幾つかマンガは書いていたので、これは私がストーリーマンガを書き始めた最初の頃のもので、他のは散逸したらしい。 最初のマンガは、当時大好きだった週刊少年ジャンプ連載の本宮ひろ志「男一匹ガキ大将」が表紙になったショウワノート20P(20円)の数ページに書かれている。このノートの表紙は本宮ひろ志がショウワノートのために書き下ろしたのだと思う。今見ると、顔の輪郭は筆を使っている。線は少し歪んでいるが、そんな事お構いなしにいっぺんに書かれている。迷いのない勢いのある線。当時少年ジャンプは、マガジン・サンデーの後塵を拝し、なんでもやってやろうという感じだった。その1番の象徴がこの「ガキ大将」であり、まだ単行本数巻ぐらいしか出ていなかったとは思うが、その後のジャンプ旋風の大黒柱になることを子供心に見抜いていたのではないか。 マンガは幼稚園の頃に初めて近所の駄菓子屋「あかざわ屋」に行った時に読み始めた。お店の前に縁台を置いてあるスペースがあり、夏はかき氷、秋・冬はたこ焼きをそこで買い食いをするのが子供たちのタイムスケジュールの一つだった。たこ焼きは四個入りで10円だった。かき氷は1番安いレモンが20円くらい。おこずかいを握りしめて毎日のように通っていた。そこに半年も一年も置かれてみんなに読まれてボロボロになった「週刊少年サンデー」や「週刊少年マガジン」が山積みされていたのである。夏の日差しをもくもくと茂った木々が遮ってくれていたのを覚えているから、夏だったのだろう。私は、星飛雄馬と花形満の最初の対決場面を見た。その瞬間から私はマンガに魅了された。と、思う。その場面、球が一塁上でぐるぐる回って燻っているという有名な(?)場面である。マンガはかなり擦り切れていたから、夏休みよりも前の発行だったかもしれないが、ともかく梶原一騎の「巨人の星」連載の最初の頃だった。 ※気になって調べてみた。「巨人の星」連載開始は1966年6月だった。あの場面は、連載4-5回目だから、おそらく発売一週目か二週目の「少年マガジン」を読んだのだろう。私は幼稚園年長組だった。 サンデーのオバQもおそまつ君もその頃に出会った。ともかく時間を忘れて、そこにあったマンガは全て読破したし、やがては兄と共同でマガジンは毎週買うことにしたし、不足のマンガは友達の家や散髪屋や「あかざわ屋」で全て読むという生活が始まった。 白い紙があると、マンガの落書きをしていた。今でもオバQやパーマン、怪物くんのドラキュラなどは目をつぶっても描ける。 落書きから始まり、将来は漫画家になりたい、そのために先ずはマンガを描いてみたい、ということになるまで約3年以上かかったらしい。 子どもはそうやって、ある時「夢中」になるものに出会う。それが私にとっては夏の日の縁台の上だった。 あの時、あの場面の「何処」に、私はビビビと来たのか、この文章を書くまで考えた事も無かった。しかし、考え出すとそれはとても不思議なことだ。私はその後、野球の魅力にとりつかれたわけでもなかった。手塚治虫のように、絵が動くように描けることに魅了されたのでもなかった。スーパーヒーローに憧れたのでもなかった。「巨人の星」のアニメ化はまだ先の話である。 あの場面。「巨人の星」の表紙をめくると、一塁上で球がぶすぶすと煙をあげながら回り続け、星飛雄馬と花形満と他の選手が呆然とつったっている場面。やがて、誰かがきがついて花形満にタッチをする。塁審がアウトを宣告する。私は不思議に思って前の号を探して読んだのだろう。そうすると、絶対受け取れないような花形満が打った打球を、星飛雄馬(?)がスパイクの裏で蹴って止めた事がわかる。そういう事態に陥ったのは、そもそも星飛雄馬の球が異常に速かったからである。なぜ、そんなに速くなったのか。父親星一徹のスパルタ教育があった事を知る。一号一号に話の盛り上がりがあり、とんでもない事が、圧倒的なマンガというリアリティで描かれていた。私はもしかしたら、「マンガの持つドラマトゥルギーの力」に魅了されたのかもしれない。 そのひとつの「根拠」が、もしかしたら最初の「連載マンガ」かもしれない、この「やきゅう王子」である。
2015年05月14日
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「鼠の歌」まえがき 「10周年」の記事で予告したとおり、「鼠の歌」の連載を始めたい。久しぶりに左の「カテゴリー」に「鼠の歌」を追加します。連載はチョー不定期になります。要はネタが無くなった時の埋め合わせという位置づけです(しばらく旅行記がないので(^_^;)。 加藤周一「羊の歌」の向こうを張って、このような題名をつけたときに、当然なぜ鼠なのか、ということはバレバレだと思っていたのだが、ピンとくる人が意外にもいなかったので蛇足ながら説明する。 「中肉中背、富まず、貧ならず、言語と知識は、半ば和風に半ば洋風をつき混ぜ、宗教は神仏のいずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志を抱かず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。芸術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるには至らない。こういう日本人が成り立ったのは、どういう条件のもとにおいてであったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。 題して「羊の歌」というのは、羊の年に生まれたからであり、またおだやかな性質の羊に通うところもなくはないと思われたからである。」(岩波新書「羊の歌」あとがきより) 題して「鼠の歌」というのは、鼠の年に生まれたからであり、またあまり清潔ではない処を棲家とし、行動範囲は狭く、そして視野も狭い鼠に通うところもなくはないと思われたからである。 もちろん私は、加藤周一よりも三段階ぐらい目標を下げて始めなければならない。日本人とは何か、とか、私を語りながら時代を語るという離れ業はするつもりはない。自分史を語るつもりもない。ただ今回「出土」した、小学校、中学校、高校の記録の断片を、今の私はほとんど初めて見るかのように見ることが出来るし、しかも私が書いたのだから、思い出せば他の人よりも詳しく解説出来る立場にある。考古学遺物は普通の人が見れば単なる土塊だが、見る人が見れば、当時の時代や人々のきもちを鮮やかに浮かび上がらせる機能を持つ。そういうことを試して見れば、何らかの「発見」があるのではないかと思ったのである。面白いのではないか、と。 「自分評伝の試み」と副題を付けた所以である。
2015年05月12日
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