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今年の大仏次郎論壇賞には朴裕河(パク・ユハ)世宗大副教授の「和解のために」に決まった。「和解のために」(平凡社 朴裕河著 佐藤久訳)今日の朝日に彼女の受賞記念論文「日韓の平和共有のために」が載っている。この本において、彼女は敢えて火中の栗を拾い、慰安婦問題をはじめ、教科書問題、靖国問題、独島(竹島)問題について考察したという。なぜなら「日韓の間において最も難しい問題であるだけでなく、それらが別々の問題に見えて実は近代国家が生んだ問題として緊密に連携しているという認識」があったからだそうだ。たとえは慰安婦問題では、日本をこのように批判する。「「新しい教科書を作る会」が慰安婦問題をなお否定しているのは、それが次世代に日本人の「誇り」を傷つける問題だという認識からである。しかし、「誇り」を単に国家の偉大さにおいてのみ見出そうとする限り、その誇りは他者も共有しうる普遍的なものにはならないだろう。たとえば、責任を取ることからも私たちは誇りを見出すことが出来る。慰安婦問題では、たとえ一部の人たちが「自発的」に行なったとしてもそれは植民地構造が引き起こしたことである以上、日本がその責任を免れることはできない。」「現代の若者にも戦争責任はある」と加藤周一は言います。戦争責任を取らない政府を選び続けている以上、私たちにも責任はあるのです。と、私も言い切ることが私の(かすかな)「ほこり」でもあるのです。一方、バク氏は韓国国民への批判的視点も鋭いものがあります。「しかし一方、現代韓国はいわゆる「右派」的思考が「敗戦」をめぐる複合的文脈から生まれたものであることを見ようとせず、彼らと絶えず対峙してきた戦後日本のいわゆる「良心的」動きも十分に評価することはなかった。日本による植民地構造の構築を無力に許し、たとえ「自発的」でないにしても加担してきた韓国民もまた、痛みを負うことになった人々に対する責任から全く自由でありえるわけではない」この視点‥‥‥特に「日本による植民地構造の構築を無力に許し、たとえ「自発的」でないにしても加担してきた」と言うところは新鮮だった。独裁政権の下、間接的に日本の保守政権の存続をアジアの政治力学の元、許してきたのは確かではあろう。そんなこんなの詳しい歴史的検証をこの本でして居るようだ。大仏次郎賞受賞の「民主と愛国」(小熊英二)もまだ読書中なのだが、この本も一応積んどくことにしようと思う。「平和共存」とは言わずに「平和共有」と言ったところに、朴氏の想いがよく出ている。
2007年12月22日
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「ゲバラ日記」(角川文庫)はなかなか前に進めなかった。有名な本なので、これを読めば晩年のゲバラの思想は分るのかと思っていた。しかし、書いているのは延々とボリビアのジャングルをゲリラとして進むゲバラたちの日常なのだ。巻末の高橋正による「ゲバラ小伝」によって、ヤットこの日記の位置が分ってくる。チェ・ゲバラ。1928年、アルゼンチンの中産階級の家庭に生まれる。医師を志すが、南米諸国を旅するなかで革命の必要性を痛感。メキシコで出会ったカストロとともにキューバ革命を牽引し、成功に導く。その後、ラテン・アメリカ全体の革命のためにキューバを去り、ボリビアでの活動を続けたが、1967年10月9日、政府軍に捕らえられて殺害される。この本は、1966年11月から67年にかけてほぼ一年間毎日つけたゲバラの日記の全文である。タダひたすらジャングルを進む。時に戦闘がある。どうやら、そのようなゲリラ活動を進める中で、ボリビア住民の支持を勝ち取り、都市部ではなく、地方から革命勢力を育てようとしたらしい。けれども、ボリビアの革命勢力との齟齬、仲間の脱落、或いは戦死、ジャングルでの過酷な活動による病気、飢え、裏切り等により、ついにボリビア軍隊によりゲバラを捕らえられたらしい。日記は政府軍の陽動作戦を疑う記述、「標高2000メートル。」と10月7日に書いて終わる。このゲリラの活動方針が正しかったのかどうかは私には判断できない。いや、間違っていたとしても、キューバでの大臣の地位をかなぐり捨て、あくまでも初心のラテンアメリカ全体の革命のために身を投げたチェのことを悪く言う人間はほとんどいないようだ。月末に必ず行動の「月間分析」を書いている。時々父親や娘の誕生日の一言のみが書かれている。ジャングルでの活動は本当に苦しかったようだ。ゲバラ自身も喘息でくるんでいたが、隊員たちもさまざまな病気を患った。飢えでついに子馬を潰したりした。ゲバラの死後、南米は約30年間、富むものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなった。そしてやっと最近になって、ラテンアメリカのアメリカからの独立が現実的なものになってきた。反米政権が次々と実現し、ボリビアさえも、06年に親キューバの左派モラリス政権が誕生する。大統領が、日本の憲法を真似て戦争放棄を盛り込もうとしているということは既に述べた。最近、ラテンアメリカの輝ける星チャベス大統領の初の黒星の報道があった。、チャベス改憲案、小差で否決 「終身大統領」阻まれ打撃この報道を読んで、ラテンアメリカの革命は着実に進んでいるという印象を受けた。この報道では、まるで今回の改憲案の中心は「終身大統領制」にあるかのような書き方であるが、本質は違う。と思う。改憲案の中心的課題は、国の制度を「社会主義国にする」と言うことだった。それはまだ時期早々である、と国民がきちんと意思を表明できたのである。民主主義の着実な進歩だろう。それに終身大統領制を目指したのではない。多選を認めようとしただけで、チャベスが大統領に不適だとすれば落選させればすむことなのである。映画「モーターサイクルダイアリーズ」で若きチェ・ゲバラはハンセン病患者の前で宣言する。「はっきりしない見せかけの国籍によってアメリカ(ラテンアメリカ諸国)が分けられているのは、全くうわべだけのことだと、この旅のあとでは前よりももっとはっきりと、考えています。」ラテンアメリカの統一を夢見、その没後40年たった今年、中南米はその夢に向かって確実に進んでいる。
2007年12月14日
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米原万里先生は、たとえ革命が成功して、あらゆる人間が社会的にも法的にも経済的にも平等な社会が到来しようとも、なぜかやたら持てる男女「フルジョワジー」となぜかもてない男女「フラレタリアート」の不平等は残ると予言する。「フラレタリアート」たる私ですが、「人類のサンプル」としてすでに失格の烙印を押されている(かもしれない)私ですが、いつかやってくる(かもしれない)「革命」(奇跡ともいう)のために日々頑張りたいと思います。それはそれとして、「米原万里の「愛の法則」」(集英社新書)をやっと読みました。「愛は勘違いで成立する」とはどなたかが言ったかもしれませんが、私も最近つくづくそう思います。「あの娘はもしかしたら俺に気があるのだろうか」という幸せな勘違いをする能力を持った男が結局愛を手に入れるわけです。「国際化も勘違いで成立する」と私はこの本を読んでそうおもいました。「日本人が言っている国際化は、国際的な基準に自分たちが合わせていくという意味です。アメリカ人が言うグローバリゼーションは、自分たちの基準を世界に普遍させるということです。自分たちは変わらないということです。自分たちは正当であり、正義であり、自分たちが憲法である。これを世界各国に強要していくことがグローバリゼーションなのです。」日本とアメリカの見事な勘違いは、じつに60年近い幸せな結婚生活を実現しました。さらに言えば、「愛は盲目である」「国際化も盲目である」。「これは日本人の伝統的な習性で、その時々の最強の国が、イコール世界になってしまう傾向があります。」「基本的に軍事力と経済力だけを見て、文化を見ません。」むかしは中国。今はアメリカ。愛は盲目だから、ずーと「日本は英語経由のフィルターをかけて交流してきたのに、それを何とも思わなかった。これはかなり異常なことなんですけど、この異常事態を異常と思わなかったということこそが、異常だと私は思います。」イスラエル語もドイツ語も、フランス語も中国語も、ハングルも、全て英語を通じて聞いてしまう、映画「ミッドナイトイーグル」で、日本に核兵器を持ち込み、決定的な危機に陥れても、日本の首相はアメリカの悪口の「わ」も言わないのは、そもそも「アメリカの悪口」と言う「言葉」自体が無かったためでしょう。わが同志フラレタリアートの寅さんが甥の満男の恋愛を温かく見守り、やがて結局ゴクミと結婚できたように、日本という国の成長を見守っていき、やがて真の幸せを得るようなるのを見たい私なのでした。
2007年12月06日
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Ribonさんより雑誌「世界」10月号に小田実の遺稿が載っている、と教えられていたのだけど、店にいったときには既に次の号が出ていて、見ることが出来なかった。今回やっと図書館に行くことが出来て、この重要な遺稿に目を通すことが出来た。この9ページに満たない小論は、小田実が岩波新書に書き下ろそうとしていた「世直し・再考」の序章に当たる部分である。1972年の岩波新書「世直しの倫理と論理」の増補改訂を計画していたのだが、その計画の途中から全面書き下ろしに変わったのだという。この部分はまだ胃ガンが発見される前の文章、自分としては当然「世直し」の最前線に立つ意欲満々だっただろう。この序章だけでも、それはよく伝わる。文章そのものは、図書館で読むか、やがて出版されるであろう遺稿集で読んでいただくとして、私の印象に残った部分を紹介したい。小田実は市民を「小さな人間」だと位置づける。その「小さな人間」が「大きな人間」に対して反逆、勝利する瞬間を幾つか想起する。そのひとつが「1945年のイギリス国政選挙で、大半が「小さな人間」のイギリス市民が、それまでイギリスを強力、強引に引きずって世界大戦での勝利に導いたチャーチル首相の保守党を斥けて労働党を政権の座につけたことです。」と言う。世界史に疎い私は知らなかったのだが、ポツダム宣言の主役の一人であるチャーチルは実は1945年の段階で歴史の表舞台から身を引いていたのである。映画の「シッコ」を見た方なら、思い出すと思う。アメリカの現在とイギリスの現在を大きく分けているのは、国民皆保険の制度である。イギリスはそれを大戦後の皆飢えに苦しんでいたときに実現していて、出てきたイギリス国民はそれを非常に誇りに思っていたのだ。「小さな人間」の勝利の前例はそのように幾つかある。しかし、小さな人間はなかなか立ち上がらない。それはこのブログを読んでいる多くの人が感じていることなのではないか、と思う。小田実はそれに対して、このような重要なことを書いていた。彼のべ平連の経験では、「日本の運動も、アメリカの運動も、決して当初から派手に大きく盛り上がったものではありませんでしたし、中だるみの時期もあって、わずか十数人ほどしかデモ行進に来なかったこともよくありました。」「その1966年2月と言う時点では、彼らのベトナム戦争を「いくらなんでもひどすぎる」事態だとする認識は、まだアメリカ社会全体に広がっていなくて、彼らはまだまだ少数者、その意味では「前衛」でした。しかし彼らの「いくらなんでもひどすぎる」認識は、ついに社会全体に広がり、わずか3年後の1969年11月15日には全米各地で参加者の数万人、数十万人規模の集会、デモ行進が行われるほどのものになっていました。」「ひどすぎる」から「いくらなんでもひどすぎる」に社会全体が移ったときに、小さな人間」は勝利する。と、小田実は言うのだ。もちろん、ベトナム戦争の条件とイラク戦争の条件は違う。現代の日本の政治はさらに違う。だから方程式のように、ここまでの状態になれば、「小さな人間」は勝利する、とはいえないかもしれない。けれども、文学者として小田実は「いくらなんでもひどすぎる」という言い方で、ひとつの未来を見せてくれた。今現在、いろんなところで、働く現場で、ネットカフェで、米軍基地建設予定地で、薬害現場で、「小さな人間」が「いくらなんでもひどすぎる」と呟いている。呟く現実は確実にある。その声をいかに大きくするか、ほんの少しでもブログが役に立てばいいと思う。
2007年12月05日
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合宿で一晩留守にしていた間に、岩国の一万人集会一万一千人で見事成功したようです。よかった。これで、岩国は住民の意思を三度も示したことになる。国とアメリカの言いなりになる議会または政府はこのことを本当に真摯に受け止めて欲しい。司馬遼の「街道をゆく」を初めて読みました。「韓のくに紀行」朝日新聞社古本屋で買ったのです。実は「街道をゆく」シリーズはおろか、司馬遼太郎の本を文庫本以外で買ったのはこれが初めて。読んだのは、「国盗り物語」「空海の風景」以来だろうか。中学生のとき、図書館で借りて読み、その「天才史観」に辟易し、長じて加藤周一が批判し、藤沢周平が避けているのを知って、さらに読む気がしなくなった。しかし司馬遼太郎亡き後、街道シリーズはますます隆盛を極め、NHKテレビは番組を編成し、関連本は世に広まった。その中で、韓国紀行のことは、韓国旅行記を書いている間にチョコチョコと聞こえてきた。そして今回買ってみて、ページをめくっているうちに驚いた。ここに書かれているのは、現在でも決して観光地ばかりではない。それでも、偶然にも私が行ってきたところばかりなのである。釜山の倭館、金海、慶州、友鹿村、扶余。慶州、扶余は観光地なので、比較的初期の頃に行き、金海、友鹿村は去年の韓国旅行のときに行った。決してこの本を読んだからではない。けれどもこの本の影響はいろんな所に浸透していて、卑しくも韓国の歴史に興味あるものは、この本を避けて通れないのだということが今回よくわかった。良くも悪くも彼の博識ぶりは尊敬以外の何者でもない。釜山の倭館については、まだ書かれていない。今年の旅の最後のところで言及します。さらに驚いたのは、彼が韓国に行ったのは、せいぜい80年代のことだと思っていたのだが、なんと1971年のことなのである。非常に優秀な通訳がついたということもあるのだが、司馬遼太郎の韓国の旅する視点、歴史観は私の今のそれとはほとんど変わらない。途中まで全くその頃の韓国の姿だとは思わなかった。ただ、友鹿村に行ったときにこんな文章を書いている。「急速な資本主義的発展をとげたソウルと、なお李朝的停滞の中にある農村との間には、500年か1000年の開きがあるように思われる。ソウルでは地下鉄を作るという計画が進められているというのに、農村では一般に電灯もないのである。」ここで初めてえっ、と思った。大邸郊外のここは田舎ではあるが、電灯は来ていた。そこで初めて奥付けを見たのである。そういう意味では、34年前に行ったならば、500年前の韓国の姿を見ることが出来たのに、と思う。そういえば、映画「夏物語」もほぼ同じ時期の韓国の田舎の物語だったが、電灯は来ていなかったけ。そのようにして思えば、この30年の田舎での近代化は目覚しいものがあったのかもしれない。司馬遼太郎は未だに好きではないが、この本だけは韓国歴史旅行をする人は一度目を通しておいたほうがいいと思う。
2007年12月02日
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「週刊東洋経済」という雑誌が、現代の労働問題を執拗に追い、すぐれたルポをたくさん書きだしている。その中の中心的な記者の風間直樹氏が「雇用融解~ これが新しい「日本型雇用」なのか ~」(東洋経済新報社)という本を出した。ここでいち早く「偽装請負」問題に鋭いメスを入れてきて、クリスタルという偽装請負の巨大帝国を自主解散までに追い込んだ(グッドウィルが業務を引き継いだ)経過もよくわかる。また、本書の白眉は「過労死は自己管理の問題」といってブログ上で物議をかもした、ザ・アール社長(労働政策審議会労働条件分科会委員)の奥谷礼子氏のインタビューである。今年一月に週刊東洋経済に掲載して批判が出ると、そのご「真意が伝わっていない」と言い訳をしていたので、この本では、インタビュー形式のままで忠実に再現したそうだ。だからできたら図書館でも借りて全文を読んだほうがいいのだが、ここではそのほんの一部だけを書き写してみる。--いわゆる格差論議に関しては下流社会だのなんだの、言葉遊びですよ。社会が甘やかしている。自分が努力するとか、自分がチャレンジするとか、自分が失敗するということを、そういった言葉でごまかしてしまっている。そうした風潮に対して懸念を抱いている。そう言って、甘やかす社会を作るのかということです。いじめだってそうです。社会人だっていじめはあるわけだから。そうでしょう。いじめというものがあるという前提に立って、それは小学校や中学校でトレーニングしながら社会へ出て行くわけでしょう。いじめはないなんて言うこと自体、ナンセンス。すべてがこんな調子。真意は十分に伝わる。派遣の問題、外国人研修生問題、フリーター・パート問題、労働法番外地に置かれる個人請負問題、まさに現代の労働問題の現実を扱った渾身のルポ。読み応えがあった。
2007年11月13日
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前に内橋克人「悪夢のサイクル」を紹介しました。その続きです。アメリカより起こったといわれる市場原理主義、いわゆるネオリベラリズムの弊害について前記事は述べました。では、なぜ私たちは、ルール変更を受け入れたのか。ということについては内橋氏はこのように述べています。「ひとつには、規制緩和を戦後の官僚支配を打破する特効薬と錯覚したこと。ふたつには、学者をメンバーに入れた一見中立に見える政府の審議会、あるいは首相の私的(!)諮問委員会の口当たりのいいキャッチフレーズに惑わされたことみっつめには、これらの審議会の意見を大きくアナウンスした大マスコミの存在。よっつめには、小選挙区制度の導入。小泉自民党は296の議席を占めたが、結局全有権者の32.2%の支持しかえていないというマジック。」市場原理主義の起源はその経済思想の根拠はどのようなものか。その思想的源流は、ミルトン・フリードマンです。ケインズ学派に変わり、フリードマンの経済思想が受け入れられていくのは、70年代のアメリカです。1979年アメリカ中央銀行は、ケイジアン的アプローチからマネタリスト的なアプローチに政策を転換します。貨幣供給量を減らし、利子率の急上昇を許し、失業率を高めてもインフレを押さえ込もうとしました。この実験は劇的な効果をもたらしました。インフレ率は、1980年末の13%から1984年の4%までに下がる。ケイジアン的な手法では、経済のコントロールはできない、それよりも貨幣の供給量によって調整すべきだというフリードマンを代表とする新自由主義者たちの主張が力をもって「規制はいらない、フリーマーケットにしろ」という声が大勢になりました。この市場原理主義を極端な形で採用した国家が中南米でした。中南米で起きた「ネオリベラズム・サイクル」はどのような結果になり、何を教訓とするのか。1973年、アジェンデ政権を軍事力で転覆させたチリの独裁者ピノチェトは俗に「シカゴボーイズ」と称されるフリードマンの弟子筋の学者、経済の専門家を経済閣僚として登用。チリはその後、80年代から90年代にかけて順調な経済成長を見せ、「南米経済の優等生」「チリの奇跡」ともてはやされる。しかし新自由主義の政策を採ったのはその初期だけでした。この過程の中で、国民の大半を占める勤労者層を貧困におとしめ、一部の富裕層と外国資本が莫大な富を売ることを助けた。そして82年のラテンアメリカの経済危機で政策の変更をし、89年に中道左派政権が生まれる。この政権下での経済成長が注目されたのではあるが、これは新自由主義ではなく、むしろその反省の上に立った貧困問題や社会格差の縮小に真剣に取り組んだ結果であることは確か。一方、アルゼンチンも70年代にクーデターによる軍事政権が成立、規制制緩和の後経済は活況を帯びるけれどもすぐに失速、その後はチリとは違い、90年代にもう一度新自由主義を取り入れます。いったんは「ラプラタの奇跡」といわれる経済成長を遂げまずか、97年のアジア通貨危機が南米を直撃、01年に深刻な金融危機、アルゼンチン国民は預金を引き出すこともできずに、失業者は町にあふれた。つまりネオリベラリズム循環とはこの写真のような軌跡を通っていきます。「つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起こるのです。このバブル経済が、くせもので、企業だけでなく自治体も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから、借金をしても、すぐに返せると考え、財政規律が緩みます。そしてバブルがはじけます。そのとき、資本はいっせいに海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権を抱えます。そしてリストラを始めるのです。このとき、さまざまな規制緩和などの「改革」がまたなされます。そして国や自治体、その国の企業の価値が、安く評価されているときを狙って一気に海外資本がなだれ込む、この繰り返しが果てしもなく続くということなのです。」日本はこの循環がちょうど一巡しようとしているところなのでしょう。「いま、資本の流入で一時的に景気が上がっていたとしてもその流出とともに必ず景気も落ちていく。バブルと同じで、規制が少ないほど、上がり方が大きくなり、上がり方が大きいほど落ち方も大きくなる。そして落ちていくときには、それが実体経済と人々の生活に大きな被害を与えていきます。日本も放置すれば、そうなるだろうと予測されるわけです。」平和の問題とどのように関係するのか。ネオリベラリズムは、小さな政府を標榜しながら、実は軍事に関しては大きな政府という形態をとります。マネー市場に邪魔なものは、力ずくで排除するという力が強くなるからです。だから規制緩和に協力的だった日本とは反対に、手ごわい障壁となっているのがイスラム社会なのです。イスラムの世界では、「正当な労働の対価以外は受け取ってはならない」という戒律があります。これを打ち壊さない限りマネーは動かない。これがイラク戦争の戦略でしょう。もうひとつの日本は可能か。国家が市場を計画するのでもない、市場が人間を支配するのでもない、第三の道があるはずだ。それは人間が市場を使いこなすという道です。どういう道なのか、ここではフィンランドの例などが出されているが、まさにこれから模索していかなければならない道だろうし、「もうひとつの日本は可能だ」(文春文庫)などの本の中に詳しく書かれてあるのだろう。長く書いてしまった。内橋氏の言うように50年スパンで国の経済しいては国民の生活を見ていくと、未来を見るためには隣の国を見るのは有効なやり方なのかもしれない。下手なこの本の要約になったかもしれない。そうだとすれば謝るしかない。いいたいのはこの本はお勧めだということである。
2007年11月10日
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高村薫の「作家的時評集2000-2007」を読み終えました。ここにあるのは、一人の作家の感情です。その年の時評の前には、朝日文庫の編集部が編んだその年の年表が載っています。それを見るだけで、日本というのはこの数年で見事に新自由主義という荒れ野に入り込んで右往左往しているのだなあと思えます。高村氏が一貫していっているのは、インターネットなどで飛躍的に情報処理能力が上がったけれども、かえって「言葉」は失われた、ということです。小泉さんだけではなく、企業も国民も、直感だけが先行し、きちんと考えることができなくなった。公共心が無くなった。「あきれてものが言えない」「むかつく」その次の言葉が言えない。2001年2月9日、ハワイ沖で愛媛・宇和島水産高の漁業実習船えひめ丸が米原潜に衝突され、沈没。高校生九人が行方不明。高村氏は言います。「どうしてこうなのだろうか。どうして私たちは怒らないのだろうかと胸に手を当ててみると、結局私たちはそれほど悲しんでいないのだ、と気づかされます。悲しくないことはないが、その悲しみが大きくないために、怒りが噴出すには至らないのだ、と。ここにはたぶん、私たち日本人の心や感情の実態が表れています。悲しいテレビドラマを見て涙を流すのに、なぜ九人もの命が奪われて、胸が張り裂けないのだろうか、なぜ怒りを噴き出すことができないのだろうか。このことはまず人間として自問しなければならないだろうと思う次第です。」(2001.4「文芸春秋」)「国家や企業の本態は情緒ではないので、どんな事態があっても悲しむことはない。JR西日本の事故対応を見たらわかるように、国家も企業も基本的に、一つの事態に直面すると、その対処を一つ講じるだけです。悲しみ、怒り、そして考えるのは、個々の人間だけです。そして、こうした情緒や感情だけが、人を物事に真剣に対峙させるのであり、そこから初めて、物事は動きだすのではないでしょうか。」(2005.7「論座」)自省を迫る文章です。基本的に私は怒らないように、悲しまないように、たいてい自制的であろうとしています。わりと考えてはいるのですが……。その中からこぼれおちる言葉はあったのかもしれない。ときどきは「ちばけんな!(ふざけるな)」と言いたいと思います。彼女の言葉は知性的であるが、同時に非常に作家的である。私は彼女の著書は全部読むことにしている。戦前の教養主義の可能性を描いた「晴子情歌」を経て、晴子の愛人である老政治家の80年代の「政治」とその息子の仏教哲学問答を描いているらしい「新リア王」(未読)を経て、いま現在は2000年代を舞台に晴子の孫の時代を描いているらしい。どうやらまたミステリ仕立てになるようだ。言葉をなくした現代の若者にどのような課題があるのか、あの緻密な文体から浮かび上がる世界を見てみたいものである。その前に「新リア王」読まなくちゃ。読売新聞や文芸春秋や論座に高村薫がいまだに呼ばれることがある、ということに幽かな希望を感じる。
2007年10月31日
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今日は週一回のハングル講座の日でした。最近忙しくて二回飛ばしたら、周りの人がいつの間にか、実力を増していて、取り残された気分。今日は「チョンガー」(独身)は、やはり朝鮮語の「チョンガッ」から来ているのを知りました。あっちでも独身と言う意味らしいですが、俗語です。元はみすぼらしい大根らしい。でも美味しいキムチになるそうです。頑張るぞっ。「悲しみに笑う韓国人」ちくま文庫 吉田博司著(韓国の大学教授がやおらお香々、ご飯、味噌汁をみて味噌汁の椀なかにご飯をいれてかき混ぜて食べたというエピソードのあとに)日本と韓国の食べ方で困るのは、両者が両者の食べ方を、おたがいに大変下品だと感じる点である。私が正座しながら、手に茶碗を持って、卵かけご飯を食べていたとしよう。ここにある韓国人が突然訪れる。彼の目には囚人が座って、下品にも食器を手に持って、精力剤の生卵をなにやら米に混ぜて食べている、としか見えない。私は一週間のうち五日ぐらい卵かけご飯を食べている。ああ、日本人だなあ、と思う。韓国旅行の間は、お椀を手に持って食べたくて仕方なかった。この本を読んで、なるほどと思ったところが大変多かった。このような身近なん食事のことから、国民性のことまで、80年の韓国民主化激動の時代に留学生活を送り、韓国通の草分けの著者が、かなり深いところまで日韓両国に甘いところを見せずに分析してみせる。年齢による上下を基準にするか、ある集団における帰属年数を基準にするか、日本では前者に気を使いながらも公的には後者を貫くが、韓国では基準はあくまでも前者にある。テレビドラマを見ていると、気がつく。(日本人柳宗悦が高く評価した朝鮮李朝茶碗は)日本の美であり、朝鮮ではまったく美ではなかった。したがって庶民は、戦後生活が豊かになるにつれ、陶磁器の飯茶碗を捨て、彼らにとってはより美しいもの、光る金属器へ什器を変えていったのである。李君に尋ねると、やはり韓国人は光る金属器に美を感じ、金、銀、白銅、真鍮の純でこれを珍重するという。今日の韓国庶民の日常什器がアルマイト類であるのは、まだまだ真鍮が高いゆえんである。韓国に最初に行ったときのカルチャーショックは、ひとつはハングルの洪水であり、ひとつは食べるときに皿と箸おわんすべてが金属であるということだ。独裁政権の下、強制的に環境に優しい什器に変えられたのだろうか、とずっと思っていた。勘違いでした。韓国人は自己と他者との違いを抽出することを本質的に嫌うようである。例えば、「比較」と言う漢語は韓国では「pigyo」と発音されているが、その真意はAとBとの共通点を抽出するという意味である。差異点では決してない。試みに大学の試験問題に「AとBを比較せよ」と言う問題を出す。見事に全員の学生がAとBの共通点ばかり書いてくる。これはいったいどういうわけだろうか。さらに詳しく検討すると、AとBの共通点を探すというのも性格ではない。むしろAかBのどちらかが正しいものとし、ほかの一方がその正しいものをどれだけ含んでいるかを記述しているらしい。かくして、日本人と韓国人はえんえんとすれ違う。本音と建前の使い方も違う。日本の商談では断るときには「それは難しい」という誤魔化しの言い方をするだろう。韓国は違う。「それは下請けC社のせいで出来ない」とか「K部長の頑固のせいで出来ない」と言うだろう。面子を慮って「貴社の品質管理が悪いので出来ない」等々の本音は一応胸に仕舞ってのことである。(略)日本人は誰のせいでもないと嘘をつき、韓国人は誰かのせいだと嘘をつく。韓国人は「理論」的な民族である。(略)是か非か、これを鮮明にしないと決して納得しない。(略)この歴史的な個性はどこから生じてくるのだろうか。そこで朝鮮史上の儒学者たちの論争と言うものをひもといてみると、ことごとくこの手の「是非」論争であることが分る。(略)そしてその勝敗の決め手は、決して理論的ではない。年齢の上下で決着をつけたり、党派の力量が勝利に結びつくのである。そのたびに負けたほうは面目を失い、はなはだしい場合は島流しになったり、王より死を賜る、こうした精神風土のなかで、朝鮮人は「理論」闘争し、空理空論に血道をあげてきたのである。よいとか悪いとか言っているのではない、とにかくそれは朝鮮人の心の中にあった。この理論的な性情の裏に、一転して野生あふれる韓国人の風貌があることも確かである。(略)ひとたび爆発すれば、哀しみに号泣し、怒りであれば人を追い詰め、懼れであればちじみあがる。愛であれば惑溺し、楽しければ全財産を蕩尽しかねない。ある意味では、この「情」の汗馬に、儒教はかろうじて轡をかませたのである。この論理に私はものすごく納得した。あれほど感情が豊かな民族だからこそ、儒教がいったのである。民族精神の奥深くまで浸透するほどに。ついでにもうひとつの韓国国民の特性、「恨(はん)」はどのように説明されているか。それは「果たせなかった夢」だという。もちろんそれは古今東西普遍的な人間の性でもある。しかし韓国の場合、「精神労働以外のあらゆる労働職種をはなはだしく見下し、その現在の分に決して案ずることが出来ない点、そして解消されるまで果てしなく継承されるという点」で大きく違うという。「砂時計」やほかのテレビドラマでも父親や母親の恨がずっと続いていく物語でもある。中国の歴史主義とも少し違うし、日本の現世主義ちとも大きく違う。「韓国人の魂は、いつもはるか時空のかなた、先祖の御霊に連なっている」のである。先祖のいる場所に理想を求める。理想のあり方がぢがう。ちなみに「夜おそく友達に来られて、寝られませんでした」などという自動詞の迷惑受身形は韓国語には存在しない。「夜遅く友達が来て、寝ませんでした」と言う言い回しなら翻訳可能である。とにかく相手の迷惑を受け入れるということが知り合いになるための条件になっている。こいつの迷惑は本当に不愉快だと思う相手とは、はじめから知人になれない。だそうだ、中国語ならどうなのだろう。かくして日韓はすれ違う。けれども、普通の人間関係もそうだけれども、いったん相手の性格が分れば、いい友達同士になれるものである。
2007年10月30日
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いま「悪夢のサイクル」(内橋克人)という本を読んでいます。悪夢のサイクル品川正治氏が経済を含めた憲法を生かす「必要性」を訴えたのだとしたら、内橋克人氏は現役の経済人として、憲法を活かす「もう一つの道」を選ばなかったらどのような日本になるのか、経済の視点で、しかもわかりやすく示していると思う。氏は、30年スパンで世の中を見ないといけないという。日本は格差社会になった。それはこの15年間で劇的に変化した。その詳しい内容はここでは述べない。内橋氏はそのような社会が生まれた原因を世界史的な観点でとらえなおす。そうすると、アメリカ、南米などで起こったことを見ていくうちに氏は「新自由主義循環」あるいは「市場原理主義の循環運動」があることに気がつく。(新潟大学の佐野誠教授が「ネオリベラズム・サイクル」と名付ける)それがいま日本に向かってやってきているのである。内橋氏は95年の段階で、明確に現代の日本を見通していました。なぜならそれはすでに世界で起きていたことだったから。変化はまずアメリカでおこる。70年代の末からアメリカでおこった政策の変更は大きく分けて三つ。一、それまで規制下にあった産業を自由化する。二、累進課税をやめる。三、貿易の自由化。要は、「これまで公平なアンパイアのいたゲームからアンパイアをのけてしまうということだったのです。ゲームは混乱し、なんでもありの世界になりました。」ということになり、「1959年には、アメリカの上位所得者トップ4%の総収入は、下位所得者の下から35%の総収入と同じでした。ところが、規制緩和後の91年には、トップ4%の総収入は、下から51%の総収入と等しくなってまった」だそうだ。多くの人のそのルール変更には無自覚だった。「結局、そうした人々はゲームからはじき出され、得をしたのは、権力の中枢にいてルールブックが変わることをよく自覚していた一握りの人々でした。」「規制緩和によって最初に見えてくる問題は、過度のコスト競争による賃金・労働条件の悪化、コスト削減による安全性の低下、そして利益優先による公共性の喪失です。」まさにその後の日本で起きたことの先取りではないか。(派遣労働の拡大、航空やJRの安全性の喪失、耐震偽装事件、相次ぐ食品偽装)なぜ私たちは、ルール変更を受け入れたのか。市場原理主義の起源はその経済思想の根拠はどのようなものか。中南米で起きた「ネオリベラズム・サイクル」はどのような結果になり、何を教訓とするのか。平和の問題とどのように関係するのか。もうひとつの日本は可能か。……というようなことは、この本を読んでいただくのが一番いいのだが、また今度書きたいと思う。
2007年10月25日
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作家的時評集(2000ー2007)高村薫の著書は少ない。雑文集に至っては、「半眼訥訥」しかない。よって、文庫オリジナルのこの「作家的時評集2000-2007」が突然出たのには驚いた。しかも内容に至っては、おそらく著者は突然2000年から新聞や論壇誌に寄稿を始めたのだと思うが、その数が半端ではなかったことを思い知る。信濃毎日新聞、毎日新聞、読売新聞、中国新聞、北海道新聞、神戸新聞、朝日新聞、東京新聞あるいは「論座」「文芸春秋」「週刊文春」「現代」「AERA」。実に精力的に書き一冊の本になった。まだ、2005年のところまでしか読んでいないが、印象的なところをいくつか拾ってみる。まだあまりよくわからないのだけど、この作家の鋭さと同時に健全な「保守」ともいえる立ち位置がわかってきたからである。また、この本を読むことによって、はからずも2000年から今に至る政治を含む社会がどのように「変わってきたか」じつに「一つの見方だけれども」時系列でリアルにとらえることができる。作家としての目が、政治だけでなく、犯罪、ネット社会、会社人間たちの考え方などを容赦なく見続けているからである。まだ全体的な評価はできないけれども、すくなくとも読んでいて退屈はしない本だ。高村薫は、小泉純一郎と橋本龍太郎が首相をめぐって選挙になった時に、小泉に期待したらしい。ともかく「改革」しなければならない。という気持ちだったらしい。しかし、約二カ月で、おやっと思う。さて、「分かりやすい」と言われる小泉流語法の基本的な特徴はこのように「簡潔」「断定」「すり替え」「繰り返し」の四つであるが、元になるのはやはり言葉の「簡潔」だろうと思う。私はほんの二か月前と思った有権者の一人として、それでもなお政治の変革を願う者の一人として、ここで見てきた小泉純一郎の語法について、一寸の危うさをおぼえるものである。(「文芸春秋」2001年8月号)やがてその思いは、2001年9.11を経て、小泉が無条件にブッシュのアフガン侵攻を支持するのを見るに至って、決定的なものになる。私はこの事件を四月の小泉政権発足という大きな転換点の脈略の中で見ています。小泉政権が誕生したとき、40数年生きていて初めて味わった痛切な感覚は、自分が少数派になったという感覚でした。国民の9割が小泉政権を支持したけど、私は支持できない。私の書いている大衆小説は、大衆の側にいないと成立しません。それが突然少数派になり、さてどうするかと考え込んでしまったのです。(「ダ・ヴィンチ」2001年12月号)私なんか、いつも少数派だと思っているので、高村氏の気持ちはなかなか理解できませんが、ショックだったのかもしれません。しかし、それは高村氏が変わったのではなく、社会が変わったのに過ぎないのではなかったか、と私などは思うわけです。この時期高村氏は「新リア王」という80年代の政治を舞台にした小説を書いています。一連の時評はそれらの副産物だったのだろうとは思いますが、政治をまじめに観察した作家が見た小泉の評価がこのようなものだったことに私は興味を覚えます。私は、日本人が55年体制以降の政治を金権=腐敗という、それは確かに一面ではあるんだけれども、とても表面的な感情で評価した結果、こういう今の時代をまねいていると思うんです。(略)それと国民が複雑なものをちゃんと理解しようとする忍耐をなくしてしまったのが同時並行だったと思えるんです。そういう流れのいきついた果てに小泉政権というのが、ある。一昔前なら小泉さんは絶対表に出てこられない人です。それだけの器でもないし、能力もないし、努力もしていない。(「論座」2003年10月号)そして悲劇の2005年9.11。高村薫氏は基本的に郵政民営化には賛成だったわけです。けれどもあの解散総選挙には反対だった。議論すべきはもっとほかにあると思っていたからです。しかし、結果はあのような結果になった。昨夜、私はぽかんとして開票結果を見ていた。そして初めて気づいた。今まで投票に行かなかった「無党派層」は保守だったんだと。おそらく世間はこれまで、無党派層はリベラルだとみなしていたのではないか。それが大いなる勘違いだということが証明された。(朝日新聞2005年9月12日)とりあえず、高村薫氏の立ち位置をスケッチしてみた。しかし、彼女の文章の魅力は、学者とは全く違う社会の出来事に対する新鮮な見方にある。次回取り上げるときはそのあたりは中心に書いてみたい。
2007年10月23日
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「アリランの歌」よりソウル鐘路駅の近くにタプコル公園という小さな公園がある。そこは1919年3.1独立運動の発祥の地らしく、独立宣言の石碑と園内周囲には12枚の石のレリーフがあり、独立宣言を出す民衆、日本の憲兵に取り押さえられるさま、突然現れるジャンヌダルクのような少女、その結末などが描かれている。私はこの公園に行ったことで3.1が韓国内で重要な日であったことを知ったのだが、一方ではこのレリーフの印象せいで独立運動を始めたけど、すぐに日本に弾圧されてソウルだけの小さな運動であったのだ、と勘違いしていた。この本を読むまでは。そのとき、平壌郊外に住んでいた14歳のキム・サン少年は、その朝中学校の先生が教室で「この日朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和的なでも行動が行われよう」と演説するのを聞き、「学生たちは叫び、歓喜の涙が頬を伝わった」と書く。実際平壌でもデモ行進は行われた。「何千というほかの学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。」「何百万と言う朝鮮人が、3月1日には食を忘れたと思う。」そしてすぐに弾圧はやってくる。「通りでかたまって賛美歌や国家独立の歌をうたっているキリスト教徒の女たちを日本の兵隊が射撃するところを何度か見た。彼らは銃剣で襲い掛かりさえし、多くの負傷者が病院に運ばれて死んだ。」日本は30万を逮捕したが、死刑にはしなかったという。5万が懲役判決を受けたという。反日のためではなく、朝鮮独立のための運動なのだから、法律的に死刑には出来なかったのだ。「死刑は殺人の場合以外適用できないから、日本人は逮捕する代わりに民衆を街頭で殺した。--うまい手だ。」鎮圧期間のうちに七千近い朝鮮人が殺された。キム・サンの言う数字は根拠のあるものだと思う。関東大震災で殺された朝鮮人の数字も確かめたが、現代の歴史で検証された韓国よりの歴史書の数字とほぼ同じなのである。つまりキム・サンは希望的観測や憶測で数字を述べているのではなく、きちんと検証された数字を頭の中に取り入れているということなのだ。実際日韓歴史共通教材の「日韓交流の歴史」(明石書店)を紐解くと憲兵隊の資料である朝鮮人死亡者500人と言う数字と「韓国独立運動の血史」(パクウンシク著)の7500人が併記されているが、キム・サン少年自身がソウルでなく平壌で殺人を目撃したとなると、とうてい500人と言う数字ではないぐらいは明らかである。このひとつからも、日本からの朝鮮独立運動は全土的、平和的性格を持っていたことがわかるし、それを明治政府は明確に武力弾圧したのである。そして平和的行動が潰えたあとに伊藤博文へのテロがあったのである。キム・サン自身もこのあとのキリスト教徒の平和行動に疑問を投げかけている。「平等の地歩を求める平穏な訴えに対する日本の非妥協的な反応が、朝鮮の青年を凶暴な個人行動やテロリズムへは知らせる結果をもたらした。」1919年の直後キム・サンは東京へ苦学をしに行く。「当時の東京は極東全体の学生のメッカであり、多種多彩な革命家たちの避難場所だった。自国にはいい大学がないし、日本の大学にはその頃は自由な雰囲気があり、戦後の知的興奮に満ちていた」と言う。もちろん戦後とは第一次大戦後という意味であろう。日本は大正デモクラシーの真っ最中だった。彼は日本の共産主義運動をこのように分析する。「中国では反植民地闘争が行なわれているために共産主義運動ですら民族主義的傾向が非常に強いが、日本の共産主義運動にはこの傾向が全くない。中国人がするように朝鮮人その他の外国の同志を差別することがなくて、実に国際的な気質を持っている。」私はこれは日本の共産主義運動の特質をよくつかんだものだと思う。彼は半年ほど日本で勉強した後、革命に近いのはソビエトだと思い、出来るだけ近づこうと、満州に渡る。そのあと上海に渡ってマルクスやレーニンの著作を読み、クーデターやテロの無益さを理解し、「科学的大衆行動の重要さ」を理解する。彼は中国共産党に入党し、アジア的規模で革命を目指す。このあと、死線をさまよう「広州コミューン」の立ち上げと壊滅、女性とのロマンス、投獄されたときの取調官との駆け引き、等々、下手なミステリ冒険小説では味わえない知的興奮があるのであるが、それは読んでからのお楽しみとさせてもらう。
2007年08月25日
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「アリランの歌」(岩波文庫 ニム・ウェールズ、キム・サン著)1937年の夏の初め、アメリカの女性ジャーナリスト、ニム・ウェールズ(「中国の赤い星」のエドガー・スノーの妻)は、延安でひとりの朝鮮人に会う。魯迅図書館で英文書籍借り出し人の名簿を繰った時に、ひとりの突出した濫読家を見つけたのだ。金山(キム・サン)と名乗る彼は知性あふれる青年であったが、写真を見る限りではひどく痩せており一種の老師の風貌さえたたえている。(32歳だという!)ウェールズは彼が軍政大学の教師と言うのは仮の姿で中国共産党員であることを見抜き、伝記を書かせてほしいと頼む。そんなときに盧溝橋事件が勃発する。その7月7日ウェールズは「日本と中国の全面戦争が始まるのか、まだ妥協と和平の道があるのか」道が見えないまま、キム・サンに聞く。「戦争は避けられません。とうとう来たのだと思います。今度の事件で戦争にならなくても、次かその次の機会には始まります。日本は経済的帝国主義の緩慢なプランを実施するだけの資金的余裕がないから、軍隊を使って強盗式戦術を取り、軍事行政両面での徹底した強奪をやらねばならない。財政面が弱いので、中国と経済的な提携関係を築くことは出来ない、中国を安全に搾取しようと思ったら、先ずその力を潰しておかなくてはならないというわけです。」彼はいうなれば、無名の知識人の一人に過ぎない。その彼が、当時のアジア情勢についてはおそらく世界最高水準の客観情勢を語っているのだ。当時の蒋介石の中国国民政府と中国共産党は敵対関係にあった。しかし彼は明確に日本と蒋介石が手を結ぶことは無いと分析していた。「中国と日本はどうなっていくでしょうね。」「二つに一つです。日本が中国全土を占領して大勝利になるか、全てをなくして滅びるか。華北で小さな軍事行動を起こしても中国を目覚めさせるだけのことで、大衆行動が始まれば、日本はたちまち呑み込まれてしまう。だから日本の軍隊は、中国が総動員をかける力のないうちに大きな賭けを打ってしまおうとしています。もし日本が負ければ、国内の革命は必至です。そうすれば日本は朝鮮・中国と同盟を結んで、巨大な民主革命連合を作り、世界の政治勢力の中心は、ソビエト連邦を戦略的中心とする極東陣営に移るでしょう。イギリスはそのことに気づいています。」この本を通読すると、彼の視野の広さ、知識の正確さには納得をする。もちろん敗戦後の日本の運命は違っていた。日本の革命勢力の過大評価と、米国の過小評価があったと思われる。面白いのは、実際に日本は盧溝橋事件のあと短期決戦で勝負をつけようとしており、それに対する国民政府の蒋介石は充分に迎え撃つ戦略を持っていたのであるが、一介のの共産党員であるキム・サンですらそれに近い戦略を持っていたということだ。ただ一国、日本の知性が総動員されていたはずの大参謀本部はその認識を持つに至らなかった。充分に短期決戦で中国に勝てると踏んで戦争を起こし、勝てないとさらに踏み込み、そしてずるずると泥沼に入っていくのである。(このあたりの詳しいことは「日中戦争」の感想でまた書く)やがてキム・サン(これは偽名である。ついに彼はウェールズにも明かす事はなかった。)は、自らの波乱万丈の半生を語りだす。読んだらわかるがまさに波乱万丈である。彼は驚異的な記憶力で全てを語る。彼は多年にわたって暗号を用いた日記をつけており、それは定期的に破棄されたけれども、出来事を記憶するための良い手がかりとなってとこの細部まで思い出すのに苦労はしなかったようだ。話は1919年の朝鮮3.1独立運動、そして日本へ、そして満州へと移る。たった14歳の少年は革命を求めて旅をする。上海に移り、中国共産党に入党。二度の監獄体験、仲間の裏切り、幾つかの女性とのロマンス、‥‥‥その人生は出来ることなら読んでほしい。いつかでいいから。本は逃げはしない。タダ、私は少し、つまみ食いをして彼が見た1910年代の朝鮮、日本、1920-30年代の満州、中国を紹介したい。(次回)
2007年08月22日
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大きな本屋なら今も置いてあるかもしれない。岩波文庫が今年で創刊80年を迎えた。その記念の臨時増刊「図書」が無料でとっていってください、と置かれているはずだ。各著名人232人が「私の三冊」を選んでいる。このアンケートは今回で三回目になるそうだ。前二回のアンケートで最も多くの支持を集めた書目は20年前が「銀の匙」。10年前が「「いき」の構造」だったそうだ。今回は18人の人が「きけわだつみのこえ」をあげている。(最終ページの署名索引で数えた。1ページに二人の人があげていたら数は違うかもしれない。)岩波文庫編集部は「「憲法改正」の動きが伝えられる今日の状況と無関係ではないと思われます」と書いている。私が嬉しかったのは、次は8人で「吾輩は猫である」「忘れられた日本人」が同列二位、その次は7人で「種の起源」、その次は6人で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「意識と本質」「銀の匙」と並んで「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)が入っていたことだ。私も選ぶとしたら吉野さんのこの本と中江兆民「三酔人経綸問答」(5人が選んでいる)ドスエフスキー「罪と罰」(4人が選んでいる)だろうか。「君たちはどう生きるか」については例えば池坊由紀(華道家)がこのようなコメント。「多感な思春期にあって、私はどう生きていくのか真剣に考えるいくつものヒントを与えてくれました。価値観の多様化した現代だからこそ、改めて読み返したい一冊です。」財政学、環境経済学の宮本憲一さんは「戦争中の少年時代に、この本にどれほど感激しただろうか。戦後、吉野さんに私もこのような本を書いてみたいといったら、彼はあれは暗い時代のやむをえぬ産物です。それよりも専門の業績を書いてくださいといわれてしまった。」といいます。この作品が発行された時、この前70周年を迎えた盧溝橋事件が勃発している。とてもそんな昔の本とは思えないほど平易な散文小説だ。中学生のコペルくんの経験とそれを見守るおじさんの目を通した「倫理の本」である。ちなみにほかにもいろんな人が「私の三冊」を選んでいる。かの品川正治さんが選んでいるのは、中国大陸転戦中ずっと嚢中に入れて持ち歩いたという「山家集」(西行)、カントの「実践理性批判」、そしてバルザックの「谷間のゆり」にはこのように書いている。「25年前、亡くなった前妻の聖路加病院の病床の傍らに椅子を寄せ、苦しみを隠し微笑さえ浮かべて目を瞑って聴いている顔をそっと盗み見しつつ、丁寧に朗読を続けた。この小説を読み終えたときが彼女がこの世を去る時だと互いに覚悟を定めて抑揚もつけずに低い声で読み続けた。残り少なくなったページをめくる私の手が震えていたことは忘れようもない。「谷間のゆり」は彼女の棺ととともにあの世に去った。」愛妻家だったようです。こんな夫婦は憧れですね。小田実さんも自分の病を知る前だと思いますが、書いています。「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)「人権宣言集」とともにこの本が目に留まりました。「アリランの歌」(ニム・ウェールズ、キム・サン、松平いを子訳)「一民族の開放独立闘争という大きな歴史が一個人の人生という小さな歴史の中にこれほど生々しく出てくる例は少ないに違いない。しかもこの歴史は、大小ともに日本の植民地支配がかかわる歴史である。」俄然興味がわきました。その後、「君たちは-」がどこにあるかわからなくなったので、新たに買い求め、同時に「アリランの歌」も買い求めました。この二つの本についての「読書感想文」は次回。今日は参議院選挙投票日。これから投票に行きます。
2007年07月29日
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「非国民のすすめ」ちくま文庫 斉藤貴男(07.7.10発行)「文庫版のためのはしがき」で石原都知事三選の結果に対し、斉藤はいままで以上の調子で次のように怒る。「閉塞状況の下で英雄を待望してやまない人々が、石原氏の凶暴なまでの独善、社会的弱者に対する差別そのものの「政策」こそにかえって全能のリーダーシップを期待し、東京を、さらには自分自身の人生までをも牽引していってもらいたいと考えていることは確かであるようだ。 なんという他力本願、思考停止。全身全霊の依存心。奴隷根性!仮にも人間の社会において、自律せんとする精神をかくも決定的に欠いた人々が圧倒的多数派を形成してしまうなどという事態がありえるものなのだろうか。 残念ながらあり得るのだ。いや、大いにあり得る。否、人間の歴史はその繰り返しだったと断言して差し支えないのかもしれない。」斉藤はジャーナリストである。だから繰り返された「人間の歴史」については深入りはしていない。しかし、例えば、住民基本台帳法の次には必ず「全国民の指紋登録を求めてくるはずだ。」と警告したあとで、そのルーツを1930年代の満州での制度にあったと指摘する。つまり、かつて満州で組織された「特捜指紋班」の役割が「抗日部隊」と「良民」を分断し、「良民」の生活を隅々まで一元管理することに機能したというというのだ。実際、国民背番号制を完成させている韓国で私は大邸のコインロッカーの鍵の代わりに指紋認証の技術がさりげなく使われていたのを経験している。(もっともそのようなロッカーは大邸だけだった)制度の最初に支配者側の意図がよく現れているのは、年金が戦費調達の手段だったということからもわかる。それと同時に「監視カメラ」のルーツも興味深い。ルーツは60年代釜が崎の大暴動のあとにそこに設置されたのが始めらしい。犯罪者を見つけるためではない。抵抗勢力を監視するために始まったのである。将来の監視カメラについて。例えば、「顔認識技術」の導入を検討しているらしい。あらゆる生活場面を通して、すでに設置してあるカメラの前を通った「市民運動やデモに参加した人はもちろん、ラブホテルに入っていくカップルも、ビジネス街を闊歩するサラリーマンも、誰も彼も警察官の胸先三寸で全て特定されよう。」(02.5の記事)思うに、こんな例を紹介していくと、大長文になってしまい、本を紹介するという第一の目的の障害になってしまう。斉藤の本は基本的に一文一文が独立しているから、暇があるときに本屋で立ち読みするのに向いている。そして時々「怒り」を思い出したらいかがであろうか。最後にひとつ読んでいてびっくりしたことを書く。斉藤は三浦朱門や江崎玲於奈の優生思想や「非才・無才には、せめて実直な精神だけ養っておいてもらえればいいんです。」等の発言を繰り返し糾弾しているのだが、両人ともなんと、全然抗議してこなかったらしい。編集者は斉藤に言う。「彼らなりに筋が通っているよね。」斉藤は応える。「違うよ。今の日本ではああした、勉強の出来ない子供や人々を見下ろし、小ばかにした態度をとったほうが多数派に喜ばれ、かえって支持されると承知していからでしかありゃしないぜ。」怒りを忘れるな。 produced by「なごなぐ雑記」一票一揆へ
2007年07月25日
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「アジアハイウェー」という国連事業があるらしい。日本も加わるアジア23カ国が調印してアジアの道を整備する事業である。その一号線は、起点が東京、終点がイスタンブール。つまり日本、韓国、中国、ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー、バングラディッシュ、インド、パキスタン、イラン、トルコを一本の道で結ぶ大事業だ。政治を遅れをよそに、経済面ではアジアの共同体の試みはそのように具体的に動き出している。共同通信社の企画に乗って、下川祐治氏は、一人の青年とカメラマンを従えて未整備のハイウェーをバスの旅で走破する。「5万4千円でアジア大横断」新潮文庫 下川祐治51才の彼には少し過酷な旅だったようだ。窮屈なバスで何日も車中泊をし、客引きにだまされ、と本の中では終始ぼやき通しである。でも「ぼやき」がどうやら彼の文章スタイルらしいということがわかるころ、私はここに書いていることを全面的に信頼するようになる。もしも、アジアバスの旅をするとしたら、この本は大いに役立つに違いない。(最もアジアの変化はめまぐるしいので、あと2~3年という限定つき。)なぜ信頼できるか。私が韓国、中国、ベトナムで彼とほぼ同じ失敗や経験をしているからである。「韓国フェリーの雑魚寝部屋、布団の幅は60センチほどしかない。姿勢を正して寝る。」そういえばそうだった。狭かった。それが当たり前だと思っていた。「中国の客引きの強引さは世界でもトップレベルだと思う」だそうだ。断ってもことわっても金魚のふんみたいに付いてくる。そんな経験も私はした。ベトナムでは私は力車夫に約束した金額の10倍の額を請求された。断っても不気味についてくる。レストランに入る。店の前で待っている。負けてしまってその額を払ったことがある。それとほとんど同じ経験を下川氏もしているらしい。言葉ができなくても英語と筆談でやっていく下川氏の「何とかなるさ」の旅心情を読んでいると、私はなんとも頼もしい。韓国仁川からフェリーで北朝鮮国境近くの中国丹東に渡る。朝鮮民族の住む町から北京を目指す。彼のように急がずにゆっくり旅をすればなかなか面白いコースではある。北京から武漢、上海に行って飛行機で帰れば、交通費5~6万ですみそうだ。旅の虫がうずうずと動き出すような本である。誰か一緒について行ってくれる人はいないかしら。
2007年07月17日
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昨日紹介した品川正治さんの「財界人からの直言」に、少し気になることが書かれてあったので、重ねて今日も書きます。品川さんは「憲法問題を、決して日本国内の「改憲勢力」との戦いだと矮小化してはいけない」といいます。「相手は基本的にアメリカだということです。」不安倍増が万一退陣したら、憲法問題はかたがつくと考えている人は少ないですよね。けれども、相手は自民党でも公明党でもなく、アメリカだ、と言った人は私の記憶の中では、品川さんだけです。けれども最初から最後までアメリカからの要請で始まっていることを考えると、私はこの指摘は当たっている、と思います。そう思い定めると、当然次のようなことは考えておかなければなりません。「アメリカは、本当に何かを仕掛けてくるかもしれません。もし、国民投票の見通しにアメリカが不安を感じたら、イラクの自衛隊が人的被害を受けるような策略を考えるかもしれない。」「「もう戦争状態じゃないか。何をぐずぐずしているのか。自衛隊を戦える部隊にしろ」と言うように、世論を動かしてしまう可能性はあると思います。それぐらいのことはアメリカは充分にできます。」「憲法九条に関して、失敗した時の恐さと言うのを、アメリカのほうが良く知っているのです。」なるほど、もうどう考えても不必要な自衛隊を何故無理をしてでも一年も延長したのか、そのあたりの意図がこれだとしたら、安倍内閣の危機時にこの「爆弾」を破裂させる可能性はあるかもしれない。と、いうことはあと一年厳重注意が必要です。そしてアメリカはこのようなことをするかもしれない、と何かにつけ、噂を流すことが、一番の予防策になるでしょう。アメリカは当然そのくらいのことはするでしょう。何しろ、核兵器がなくてもある、と言い張って、世界史に残る無法な戦争を始めた国なのだから。
2007年07月03日
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今回もまた、Under The Sun に書いたコラムを流用。今回のUTSのお題は、「政治・政治家objection」と題し、こんな政治をして欲しい、こんな人に政治家になって欲しい、こんなことにも目を向けて、というような政治や政治家に関するエトセトラだということでした。たぶん皆さんあれもこれもあって、かえって書きにくいのではないかと思うのですが、私もそうです。だから結局、変化球を投げざるを得ません。そういうことで今回は、本の紹介をしたい。「戦争のほんとうの恐さを知る財界人の直言」(品川正治著 新日本出版社)という本です。この前、「品川の品定めをしてやろう」と臨んだ彼の講演で、すっかり品川正治氏(元経済同友会専務理事、元日本火災社長、会長)のファンになってしまいました。その講演の要旨は拙ブログの品川正治氏の講演『戦争をとめることの出来る者は誰か』、品川正治さんの講演『経済人からの直言』に書きまし た。その中で私は「これからの護憲運動の指標になるかもしれない。経済が絡んでいるからだ。」と書きました。政治を動かすのは思想か、経済か、を問われると基本的には経済だと私は思うからです。品川さんは根っからの経済人です。しかも非常に戦略的にものを見ることが出来る人です。多分竹中さんも経済人なのでしょう。けれども彼が見える先はおそらく自分の息子が孫を持つぐらいまでしか見えていないでしょう。つまり自分の周りのことしか見えていない。品川さんの目には50年先の日本が見えているような気がします。品川さんは講演の中で次のように言いました。「「日本とアメリカは価値観を共有している。」これを言い出したばかりに、物事を説明するのに、非常に複雑な論理を使うようになりました。どうして「違う価値観を持っている」といえないのか。それを言えば、選択肢は非常に多岐に広がると思うのですが。」「日本は世界第二位の経済大国です。日本の資本主義が間違っていたならば、GNPが世界第二位になると思いますか。なぜアメリカ型、アングロサクソン型にしなくてはならないのか。アメリカでは、企業ははっきり資本家のものです。収益はまずは資本家に入るべきものです。しかし、日本の経済者のDNAには、社員の給料を削れば削るほど自分の給料が上がる、というDNAは無いのです。自分の給料も削ろう、というのが普通です。」「国民が、国民投票でNO!といってしまえば、「アメリカと価値を共有する日本」は明確に変わる。アメリカの日本政策も変わる。」新自由主義とか難しい言葉は一切使わずに、非常に根本的なことをいう人でした。 経済同友会は数年前改憲提案を出したところです。そのときは彼が関係していなかったとしても、こだわりはありました。けれども霧散しました。この本では、想像以上に経済人としての護憲の「戦略」が語られています。空想的理想主義ではないのです。あえて言えば、現実的理想主義といえるかもしれません。「日本は、軍事産業とはほとんど関係なく世界第二位の経済大国になったから、経済では軍産複合体は少数派です。(略)ところが、日本の産業の一部に過ぎない「勝ち組」の経営者がトップに上がったので、経団連や経済同友会があんな発言をするようになった。ほかの経営者は賛成しているのではありません。反対できない立場にいるのです。」(90P)もと経済同友会のトップのこの言葉は重い。現役の社長さんたちは「声の大きい」奥田とか御手洗とかの陰で、世論の声が大きくなるのを待っているのです。品川さんはアメリカは「切羽詰っ」ているという。10ヶ月交代のアメリカでは兵士の交代が利かないでいる。だから早く九条二項を変えて欲しい。それを待つ余裕がないから、日本の海兵隊、韓国とドイツの最優秀のプロの部隊を動員したい。そのための米軍再編なのです。だから、日本が九条を国民投票で守れば、アメリカの政策を変えることが出来る、と言い切ることが出来るのでしょう。「紛争」はなくならない。けれども「紛争を戦争にしない方法はありえる。」(42P)憲法の力をそう言い切る、老人の言葉に共感し、若者は何をすべきか。「国家経済」にではなく、「国民経済」に軸足を置くのだといいます。例えば、アメリカの陸海空軍全体の総予算よりも日本の公共事業予算のほうが大きい。この「公共事業複合体」ともいえる体質を転換する。既得権益を守ろうとしている、ゼネコンやそれに結びついた与党ほかの政治家たちを転換させる。労働組合の声をもっと上げていく。(170P)安倍首相の好きな福沢諭吉は言いました。「一身独立して一国独立する。」それは品川流に言えば、「国民経済を確立して、アメリカから独立する。」とか「憲法を守って、九条の精神を世界に広げる」とか言うふうに私には読める。produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2007年07月02日
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昨日は6月23日。沖縄戦が組織的な戦闘を終わらせた日ということで、沖縄慰霊の日ということになっている。それにかこつけて、駅前でお昼に少し宣伝行動をした。自衛隊の監視活動と、集団自決はなかったことにしようとする検定意見に抗議の意思を示す。このような○○の日に合わせた宣伝行動だと、朝日新聞社も取材に来るわけだ。さて、さいきんやっと『米軍再編』(講談社現代新書)という本を読み終える。『米軍再編 日米「秘密交渉」で何があったか』久江雅彦著この本の最終章に、米国国防副次官ローレスの次の言葉が紹介される。「日本政府はでは一体、誰が、どこで物事を決めているんですか?私には全く理解できない。この国には政治的な意思はない。(No political will)」どういうことか。普天間飛行場の辺野古沖移設をめぐって、あるいは陸軍司令部を神奈川県座間基地に移転する代わりに厚木基地のNLP(夜間離発着訓練)を岩国に移転させる「神奈川パッケージ」をめぐって、日米再編は2005年を前に1~2年間で二転三転する。それをレアな資料を基にレポートをしている。一時は小泉首相(当時)が辺野古移転を嫌ったことも明らかにされる。(もちろん小泉の世論を見ての意見である。)著者は言う。「受身で場当たり的な対応を繰り返す政治不在のこの日本で、米軍と自衛隊の連帯強化は、双方の恣意的な行動の温床になってしまうのではないか。米軍が自らに都合のよい方向へ安全保障政策を誘導していく危険性も内包しているのではないか。」この本は2005年11月に発行された。著者の言葉は、2006年3月の日米最終合意を経て、本当のことになり、そしてさらに具体化されている。(あえて単純化して言えば、辺野古ではついに米軍のために自衛隊が市民にも牙を剥いた)いま靖国派といわれる日本会議のメンバーが政権を牛耳っているために、それに擦り寄るように「集団自決はなかった」とまで言い出し始めている。政治家も役人も、近視眼的な目しか持っていない。それが残念なことに今の日本の<political will>である。9.11で加速されたこの流れにストップをかけよう。参議院選挙で自公が過半数割れを起こすようなことがあれば、それはやっと「ブレーキ」になるだろう。produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2007年06月24日
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「ネパール・ムスタン物語」 著者: 近藤亨 出版社: 新潟日報事業社 「水滸伝」の北方謙三が、帯に献辞を寄せている。「近藤亨という一代の快男児の記念すべき一冊」。これは単なる付き合いの言葉ではない。この本を読んだらわかるが、まさにここには「水滸伝」にも繋がる「漢(おとこ)」の一代記がある。たったひとりの70歳を過ぎた老農技術者が定年を迎えて、ネパールの北の広大な一地域の生活改善を成し遂げようと決意する。ネパール人でさえ赴任を嫌がる秘境ムスタンに赴き、70歳から85歳までの15年間で、裸麦やライ麦、そば、ジャガイモしか採れなかった痩せた土地で、平均寿命45歳、学校も病院もなかったこの土地で、世界最高高度の稲作に成功、アメリカの技師も見捨てた植林に成功、りんごやメロンの栽培に成功、牧場を作り、牛を増やすことに成功、養殖池や、病院や学校を次々と建設しようとしているのである。たった一人の日本人の決意が、国王を動かし、住民を動かし、日本最大のNPO組織MDSAを作る。これが「一代の快男児」の夢でなくてなんであろうか。私の考古学仲間の花嵐(遊放)氏が、ネパール旅行を決行して、近藤亨氏に会ったレポートを書いている。そこでも本の表紙にあるように白い馬に乗ってやってきたそうだ。この土地にはガソリンスタンドなんてないから、馬が唯一の乗り物なのであるが、近年彼はこの馬から落馬して九死に一生という大怪我をしている。この本の最後でしかし彼は日本に療養しながら「ムスタンに必ず元気に帰る」と意気軒昂である。近藤氏は新潟県で生まれ、新潟大学農学部助教授を経て園芸試験場研究員になりネパールに渡っている。東北の厳しい自然環境の中での経験を活かし、「ヒマラヤの厳しい気候条件を逆に天の恵みとなし」「日本の伝統技術の結晶」をムスタンの土地に生かそうと決意する。実際ムスタンでは山から来るきれいな水には事欠かない。雨がほとんど降らなくて日照時間が長いという特性を活かして人力で道具を山まで運びながら各地域にハウスを完成させ寒さを克服する。地域の特性に合ったリンゴの木の選定を指導する。新潟農民の知恵である。しかるに日本の農業はどうなっているか。「(ムスタンの)過酷な自然条件と比べれば、日本は春夏秋冬折々の豊かな気候風土に恵まれ、農業に最適な天国といえる。それにもかかわらず日本各地の農業は衰退の一路をたどりつつある。」近藤亨は続けて言う。「農村の荒廃を招いた最大の元凶はいったい誰か。もちろんアメリカ追隋一辺倒の国辱外交を続けてきた政治の責任は許し難い」それと同時に「先達の農村民は、政府が強行しようとする農業政策の逆の経営をすればまず間違いないという賢さを持っていたはずだが、昨今はその勇気も思考能力もなく、農業の何たるかも知らぬ無能な農政の指示に従って今日に至ったわけである」と現農村民にも苦言は忘れない。けれどもこれは、都市の市民にも当てはまることではないか。「政府が強行しようとする政策の逆の経営をすればまず間違いない」そして「億万の発展途上国の民を農業で救ってこそ、世界恒久平和の旗手として不戦の誓いを立てた日本の真価があるのだ」といっています。その通りです。こんな本を読むと、男が男に惚れます。私もムスタンにいきたい、とさえ衝動的に思ってしまいます。あっ、いや日本で頑張りますけどね。今年の春、実は近藤亨氏は岡山のMDSA支部に歓談に来られたらしい。私はその当日そのことを知り、用事があるために参加できなかった。しかし元気になったようでよかったと思う。私は近藤氏にぜひ聞きたいことがあった。「北方謙三があなたをモデルに小説を書くという話はないのですか」【著者情報】(「BOOK」データベースより)近藤亨(コンドウトオル)平成10年10月、標高二七五〇メートルのネパール・ムスタン・ティニ村で世界最高高度の稲作に成功、全世界を驚かす。現在、ムスタン・ガミ村標高三六〇〇メートルの高地に病院を建設。病院運営に邁進中。ネパール各方面より多大なる賞賛を集めている。平成十一年度吉川英治文化賞受賞。1921(大正10)年新潟県加茂町(現在加茂市)生まれ。新潟大学農学部助教授を経て新潟県園芸試験場の研究員となり、1976年に国際協力事業団(JICA)の果樹栽培専門家としてネパールへ。以後十数年間にわたり、ネパールのために尽力する。国際協力事業団を辞めた現在も、ネパール・ムスタン地域開発協力会理事長として現地ムスタンに留まり、果樹栽培の指導、病院や小学校の設立など、多方面にわたり、秘境ムスタンの発展のための活動を続けている。ネパール国、1997年国王勲二等勲章。1997年政府・シルバー勲章。1998年園芸学会特別功労賞。日本国、1996年外務省国際協力賞。1999年吉川英治文化賞。1999年毎日国際協力賞。2001年新潟日報文化賞。2001年読売国際協力賞。2003年米百俵特別賞。2006年地球倫理推進賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2007年06月10日
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「憲法九条を世界遺産に」太田光 中沢新一 去年数多出た憲法関連本の中で、この本一冊が一人勝ちをした。つまり売れた。なぜか。中沢「SMAPのメッセージが遺伝子治療のように、すーっと相手に入っていくことが出来るのは、相手の心が受容器となって自分を開いているからだと思うよ。その意味では、きっとSMAPと女の子たちが、合作しているんだよ。日本国憲法がどんなに問題をはらんでいたとしても、日本人の心に深くはいっていくものがあった。今のSMAPの話とよく似ているね。」(P162)太田光は「ジョン・レノンでさえなし得なかったことが僕なんかに出来るわけがない」とはいっているが、この本で彼はそれに近いところまでやってしまっているのかもしれない。少なくとも、渡辺治や伊藤真以上のことをこの本はやってのけた。なぜか。マスコミ人たることからくる知名度。「憲法九条を世界遺産に」という一言でわかるキャッチフレーズの見事さ、であろう。この二つは「自民党をぶっ壊す」と言って勝ってしまった小泉郵政選挙と同じ構図だ。ただ、マスコミ露出度の違いと、時期が熟していなかったために、地すべり的に世の中を動かすほどには至っていない。明日国民投票法という悪法が法になる。これで「あと5年をかけてじっくりと憲法を守る戦いをしていけばいい」と思うのは、甘い。憲法改悪の外堀は改憲手続法だけではない。言いなり教師を作る教育三法、労働者を際限のない労働強化に追い込み考える余裕をなくさせるホワイトカラーイグゼプション、九条の改悪を待たずに憲法解釈で集団的自衛権を認めてしまおうとする「懇談会」の設置、等々矢継ぎ早に大きな外堀を埋めてしまおうと言う策動が参議院選挙をはさんで目白押しだ。いま最大の課題は参議院選挙だ。この選挙でもし自公が勝ってしまったなら、(ブッシュのプードル・ブレアが退陣した英国とは対照的に)地すべり的にブッシュのポチ・安倍自民党が力をつけ、五年後の本丸決戦を待たずに勝敗が決定してしまうような状態になるだろう。そこで、みんなの知恵を借りたい。ブログに出来ることはほんの少しだけども、いまこそ「反自公に結束できる」「遺伝子治療のように日本人の心にすーと入っていく」キッャチフレーズが求められている。相手をけなすのではなく、自分たちを褒めるような、そんなキャッチコピーを誰か生み出せないか。いまこそ「相手の心が受容器になって自分を開いてくれるような」アイドルが求められている。大変難しいけれども。参議院選挙まであと二ヶ月しかない。
2007年05月13日
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またしてもUnder the Sunでコラム当番で書いた文章をこちらに転載します。題して「偏見を持とう」。私の人生に一番影響を与えた本を一冊だけ選べ、と言われたら決めるのは至難の技ですが、数冊選べと言われたなら、迷うことなくこの本はその中に入ります。「事実とは何か」(本多勝一)私の読んだのは単行本ですが、今は朝日文庫で容易に手に入れることが出来ます。この中で本多勝一氏はいうのです。新聞社に就職して教えられたことに「報道に主観を入れるな」「客観的事実だけを報道せよ」がある。そのことは「その通り」ではあるが、本多勝一はベトナム戦争の取材で、そのことに違和感を抱くようになる。「客観的事実などというものは仮にあったとしても無意味な存在である。」「主観的事実こそ本当の事実である」。それはどういうことなのか。「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」一番例えとしてよく使われるのは、「沈みつつある船」を報道するのなら、何を報道するか、ということだろう。豪華客船のワイングラスの輝きを書いてもそれは「客観的事実」だ。そうではなくて助けに来たレスキュー隊の英雄的な姿を描けば映画「海猿」みたいな作品になるだろうし、座礁に至った無理な航海、安全審査の不備を描けば船舶業界への問題提起ルポになる。「何を選ぶか」ということは、即ち「どういう立場に立つのか」「どんな視線を持つのか」ということと同義語なのだ、ということを20数年前に突きつけられて、今考えると、人生が変わったのだ、としか思えない。「支配される側に立つ」という氏の説明は、実は現実世界ではそう単純にことは進みません。でもできることなら「見下ろす側にいたくない」とはずっと思ってきました。かっこ悪いことはいろいろあったけど、ね。ささやかな経験で思うのは、公正中立な人間なんていない、報道なんて無い、組織なんて無い、ということだ。常に「選ぼう」。自分なりの「視線を持って。」偏見を持とう。自信を持って。ただし、正確な事実だけはしっかりと持って。
2007年03月13日
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