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旧日本軍の捕虜虐待を描いたアンジェリーナ・ジョリー監督の「アンブロークン」が日本公開が出来ないでいる。下の朝日新聞の報道を読むと、「反日映画公開の是非」を問題にする以前の問題があるように感じた。 それは反対運動者のこういう意見である。 海外メディアの取材を何度か受けた「史実を世界に発信する会」(東京)の茂木弘道事務局長は「映画は見ていないが、事実無根の思い込みや決めつけによる作品で、上映の必要はない。この映画こそ日本人性悪説に基づいた人種差別だ」と語る。 笑止千万である。映画を観ていない者が映画の作品の質を語る資格はない。こういう輩が代表を務めているというだけでも、この団体の水準が判るというものだ。 アンジーの初長編監督作品の「最愛の大地」は観たことがある。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で人間の盾として利用され踏みにじられてきた女性たちの話だった。非常に骨太の堂々とした作品だった。彼女の生涯のテーマは「人権」なのかもしれない、とふと思う。 それにしても、和歌山の鯨捕鯨を批判的に記録した「ザ・コーヴ」にしろ、外国人が撮った「靖国」にしろ、反対運動はあったが、あれは辛うじて公開された。「ザ・コーヴ」はそういうわけで意地で見ましたが、つまらない作品でした。しかし、「南京!南京!」や「アンブロークン」は公開されそうにはないという。このたった10年、5年でこういう「時代」になっていることが恐ろしい。 ちなみに、「ザ・コーヴ」は「ドキュメンタリー」とは言えない「プロパガンダ記録映画」とでも言える作品でした。観た者だけがそういうことを言うことが出来る。 「ザ・コーヴ」とかは上映前にはあんなに反対運動が起きたのに、上映あとに全然盛り上がらなかったことにも不満だった。上映しながら集会を開くのは資金的に無理でも、上映館の横でティーチ・インみたいな集会を開いても良かった。要は彼らは「反対のための反対」だったのだ、ということがよくわかる。 のちの時代になって「反日映画は次第と上映されなくなった。戦前の雰囲気がそうやって出来上がっていった」と史書に記入されるか、それともそんな事実はなかったかのように歴史から忘れさられるか、二つの岐路に我々は立っているのかもしれない。念のためためにいうと後者であって欲しいと、私は切に願っています。 反日映画?捕虜虐待描いたアンジー作品 上映阻止の運動:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASH376H1WH37UTIL01D.html 人気俳優アンジェリーナ・ジョリーさんが監督した映画「アンブロークン」が、日本公開をめぐり揺れている。米国でヒットし50カ国以上で公開されながら、国内では配給会社すら未定。旧日本軍の捕虜虐待を描いた内容に、ネットなどで「反日映画」とボイコット運動が起きているためだ。戦後70年、1本の映画が、日本の過去への向き合い方を問うている。 「日本貶(おとし)め映画」「事実無根」「どんどん抗議の声を上げていくべきだ」――。 フェイスブック上に不穏な言葉が躍る。「アンジェリーナ・ジョリーの反日映画を阻止しよう!」と名付けられたページには1200人以上が参加し、連日、映画批判が投稿される。日本公開に関する最新の報道も、すぐに共有される。 「アンブロークン」は米国で昨年末から3千館以上で上映。興行収入は1億ドルを超え、「ラスト・サムライ」を上回った。 一方、虐待場面の長さから「意味のない拷問マラソン」(ニューヨーク・ポスト)「中国で反日感情をあおる可能性も」(ロサンゼルス・タイムズ)といった評もある。 日本では映画化が報じられた昨夏ごろからネットで批判が始まった。署名サイト「Change.org」ではジョリーさん宛ての上映反対キャンペーンに約1万人が賛同。「日本に来るな」などの書き込みが続いた。米軍の日本兵虐待の事例を逆に紹介し「日本軍は世界一人道的だった」「東京裁判史観を変えない限り、第2のアンジェリーナは現れる」などと内容は歴史認識へも波及。捕虜を虐待する伍長を演じたギタリストMIYAVI(石原貴雅)さんに対しても「売国奴」などと匿名の中傷が繰り返された。原作にある「捕虜が生きたまま食べられた」との根拠が不確かな記述も反発の理由になっているが、映画にその場面はなく、誤解に基づいた批判も多い。 配給元のユニバーサル・ピクチャーズの作品を国内で上映してきた東宝東和は公開を検討したが、結論は出ていない。同社の八代英彦取締役は「リスクは小さくない。いざという時に矢面に立つのは劇場。簡単に踏み切れない」と話す。同社にも「公開するな」との電話が数本あったという。 一方、「Change.org」では日本公開を求める東宝東和宛ての署名も1200人集まっている。中国や韓国では既に公開され、日本の動きは欧米など海外メディアも注目。日本の歴史修正主義や「右傾化」と絡めて報じられている。 海外メディアの取材を何度か受けた「史実を世界に発信する会」(東京)の茂木弘道事務局長は「映画は見ていないが、事実無根の思い込みや決めつけによる作品で、上映の必要はない。この映画こそ日本人性悪説に基づいた人種差別だ」と語る。同会は渡部昇一・上智大名誉教授やNHK経営委員の長谷川三千子さんらが顧問に就く。 ザンペリーニ氏の強靱(きょうじん)な意志と寛容の精神に感銘を受けて映画化を決めたというジョリーさんは、複数の取材に対し「反日映画ではなく許しの物語だ。映画を見てもらえればわかる」と強調している。
2015年03月19日
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日本インターネット映画大賞に投票します(今年は時間が出来たので)。今年の映画館での鑑賞本数は101本でした(韓国旅行での鑑賞含む)。よって、その中から20本も選ぶことでさえ困難だったことをお察しください。で、いざ選んでみると、自分の置かれている境遇とか、悩み事とか、興味関心がそのまま反映しているとことに改めて驚くわけです。コメントしていない作品に付いては、リンク先を参照ください。作品賞投票ルール(抄) ・選出作品は5本以上10本まで ・持ち点合計は30点 ・1作品に投票できる最大は10点まで【作品賞】(5本以上10本まで) 「十三人の刺客 」 6点 「春との旅 」 5点 「川の底からこんにちは 」 5点 「必死剣鳥刺し 」 3点 「ゴールデンスランバー 」 3点 「悪人 」 2点 「オカンの嫁入り 」 1点 「おとうと 」 1点 「ノルウェイの森 」 1点 「カラフル 」 1点【コメント】「十三人の刺客」は時代考証、テーマ、エンタメともにベストだった。旧作と見比べたが、「現代性」を見事にはめ込んでいる。「春との旅」はロードムービーで現代の老いを描いているのが新鮮でした。終わり方が安易だったことを除けば完璧でした。「川の底からこんにちは」は一発芸ですね。あの歌にやられました。--------------【監督賞】 作品名 [三池崇史 ] (「十三人の刺客 」)【コメント】この人こんなにしっかりした時代劇作れる人だったけ。若松孝二「キャタピラ」と比べると、子供と大人。【主演男優賞】 [仲代達矢 ] (「春との旅」)【コメント】ここに出てくる老人の彼はずっとビッコを曳いているのだけど、映画的に一切説明はない。孫娘はずっとがに股歩きです。ここに出てくる人みんなすごい演技なのだけど、それは明らかに仲代の演技に引きずられているのが分かる。こんな役者はなかなか出てきません。【主演女優賞】 [宮崎あおい] (「オカンの嫁入り」「ソラニン)【コメント】満島ひかりと最後まで争いました。結局私の好みであおいが獲りました(^^;)。表情だけで総てを語る女優として日本では右に出るものはいません。【助演男優賞】 [ 稲垣吾郎 ] (「 十三人の刺客」)【コメント】もうこれは決まりでしょう。松平斉韶役はそれほどインパクトがありました。【助演女優賞】 [満島ひかり ] (「 悪人」)【コメント】この映画で最も見ごたえがあったのが、雨の傘の中の柄本明と満島ひかりの邂逅の場面である。予告編には映っていない彼女の表情の変化の中に『人間を信じなくてはいけない』と思わせるものがあった。宮崎あおいと生年月日がまったく同じということは運命以外のなにものでもない。これからずっといいライバル関係でいてほしい。【ニューフェイスブレイク賞】 [ 初音映莉子] (「ノルウェイの森」)【コメント】わざと水原希子ではありません。この映画でのハツミの役はほんの数シーンでしたが、非常に衝撃的でした。【ブラックラズベリー賞】 「BECK」作品の中でもっとも肝になる「歌の声」を消してしまうという暴挙は許しがたいものであった。漫画原作を映画にするということは、原作ファンにこびる事だと勘違いしている者たちが作った映画。
2010年12月30日
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今月見た映画は、六本で既にアップしている。ひかりテレビ(日本映画専門チャンネル)で幾つか映画を見た。それを紹介。「雪国」1950年代の白黒の映画です。池部良追悼特集。セットを組まなくてもロケ地がそのまま1930年代の雪国になっている。岸恵子があまりにも色っぽく、そしてかわいい。「歓喜の歌」(2008)12月31日に、ふたつのママさんコーラスの公演が、ある市民会館でブッキングしてしまった。地域の町のママさんと市民会館の職員たちとの悲喜こもごもとした顛末を描くというもの。上映当時、何度も予告を見ていたのだが、見るのを見送っていた。解決策を「ギョーザですよ、ギョーザ」と言って、その次の映像は二つのコーラスが一緒に第九を歌っている場面になったので、「なんだ、解決策は目に見えているじゃないか」と思って見なかったのである。ところが、映画を見ると、合同で公演すればいいわけではないということが分かった。会場の席が足りないので、客があぶれるのである。ギョーザとは「ごちゃ混ぜ」という意味かと思っていたら、私の勘違いだった。年末の忙しいときに、すべてがすんでほのぼのと見るにはいい映画だろうと思う。安田成美がこれで本格復活。ほとんど「てっぱん」と同じ役割をしている。彼女は自分の強みをこの映画で確認をしたのかもしれない。「クライマーズハイテレビ版」(2005)堤真一主演の映画版ではなく、NHKが作ったテレビ版である。映画版はテンポがあって、二時間の中に新聞社の緊張が高まっていくのが見事に見えたけど、テレビ版はまた、それとは違う面白さがあった。こっちのほうは、ほぼ原作とおりにすすむ。仕事人として誇りや葛藤の描き方はテレビ版のほうがはるかに良い(居酒屋での喧嘩の場面など)。ただし、長所は欠点。三時間のこのドラマは時に冗長になる。名前を忘れたけど、20分の短編映画で80年代に作られた村上春樹原作の映画もあった。「パン屋襲撃」だったけ。映画「ノルウェイの森」でほとんど描かれていない「突撃隊」を主人公にしたのではないかと想像できるような作品。或日、空腹に耐えかねた大学生の二人組は共産党員が主人をしているパン屋を襲撃することを思いつく。「いかに襲撃を正当化するか」を彼らの独白で構成するのだが、共産主義理論を引き合いに出しながらもっともらしい理屈をつけるのである。さてパン屋に行くと、どのパンにしようかと思い悩む若い女性がいる。女性が出るまで襲撃できないのでじりじりしながら待っているのだか、女性の心理を学生が想像して独白する。実存主義でそれを説明する。つまり、当時の左翼運動家の思想のパロディになっている。面白かったが気に入らない。当時の思想を智識としてきちんと読み込んでいるのではあるが、「斜に構えてみている姿勢」が私は気に入らない。
2010年12月30日
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ターゲットを中年男性に絞っているためか、少し観客が少なかった。今回私の評価は低いが、娘がいる男が見たならば、もう少し評価も変わるのかもしれない。監督 杉田成道 出演 役所広司 (瀬尾孫左衛門) 佐藤浩市 (寺坂吉右衛門) 桜庭ななみ (可音) 山本耕史 (茶屋修一郎) 風吹ジュン (茅野きわ) 今思えば、この映画を見るとき、二つの不利な部分があった。ひとつは上記「娘がいるかどうか」。まあ、これは仕方ない。もう一つは、ついメイキングを見てしまったのである。そのメイキングではヒロイン桜庭ななみに焦点を当てていて、杉田成道監督がそれこそ娘を育てるように厳しく優しく手取り足取り指導しているさまを見てしまったのである。白紙のまま、桜庭を見ていたならば、「書道ガール」の元気な彼女が別人となって登場していたので、びっくりして一挙に映画の世界に入っていけたのかもしれないのだが、なんか監督の気分になって一挙手一投足が気になって彼女の演技に入り込めなかった。しかし「花のあと」の彼女よりはよっぽどいいと思う。さすが杉田監督。ただし、満点はあげられない。なんかまだ「演じようという気持ち」が100%消えていないのである(すっかり監督気分)。この映画は孫左と嫁ぐ可音の父娘の物語である同時に歳の離れた恋愛映画であることをめざしたのだと思う。しかし、恋愛の部分は桜庭には荷が重すぎたようだ。以後の文章はネタバレは避けたいけれども、論の立て方からどうしても分かる部分があります。まだ映画を見ていない方はご了承ください。孫左の最後の行動は当初その日でなくてもいいじゃないか、と思ったが、それは手紙を残しておけばすむことだし、悲しみに耐えるだけの訓練を16年かけて孫左はさせていたはずだ。孫左はこの日のためだけに生きてきたのである。そしてそれこそが孫左の考える、「武士」というものなのだろう。孫左は足軽であった。だからこそ、よけいに「武士」であろうとしたのだと思う。浅野家中ではなく、大石家中だった。だからこそ、武士として評価されるにはあの方法しかないと思っていたのだろうし、第一あのまま生きながらえていたならば、商人として世間からみなされる可能性が十二分にあった。「葉隠」は既に書かれていたと思うが、「情」よりも「大義」を優先させるということは、あまりにも当たり前の原則であった。そのことが元禄時代には崩れかけていた。(戦国時代からあったかどうかは知らない。そういう意味では「忠臣蔵」の思想はそもそもが虚構であったということはいえるかもしれない)だからこそ余計に本来の「義」を大切にしたかった。思えばあまりにも堅苦しい武士の世界であることよ。と私は思う。(もしあれが史実だったとしたら、生き残った寺坂は四十七士に数えられていて、孫左は数えられていない。結局孫左の願いは叶えられなかったということになるのではある。思えば孫左は哀れである)この結末の付け方が史実だったかどうかは知らない。しかし100年後の日本人から見たら、現代の日本人のけじめのつけ方もかなり無茶なものに見えるかもしれない(100年後政治家のために自殺した秘書のことを描いた映画が出来るかもしれない)。この映画が封建思想の宣伝にあるのだとは私には思えない。時代劇のいいところは、「現代ではそこまではしないだろう」ということでも、「時代のせいだから」ということで説明がつくというところである。(SFでも同じ。特攻とか無茶なことでも地球の運命がかかっているとしたら実行できる)そういうファンタジーの部分を描くことで現代でも通じる普遍的な部分を強調させるところに時代劇の面白みがある。そういう意味では「究極の真面目人間」を役所広司はきちんと演じたと思う。その真面目人間が、殿の娘を育てて嫁に出す。娘は幼いころから父代わりの人間は父ではなく、家臣だということを知っているから、夫婦になる可能性がゼロではないことを知っている。実際淡い恋心を持つ。娘が父親に恋心を持つのと似ているが、この場合は「究極の初恋」である。現代でもよくあるその結ばれない「究極の初恋」を監督は描きたかったのだと私は思った。この映画はいまいちだった。私が監督ならば、最後の場面、回想の場面を2-3分で終わらすのではなく、5-6分は掛けた。そこで、可憐で可愛いだけの娘を描くのではなく、娘から姫に変わる瞬間を、少女から女に変わる瞬間を、そして失恋して娘に戻っていく、その表情まで描いて、可音のその後の人生まで想像できるようなそんな終わらせ方をしたならば、たぶん私は滂沱の涙を流したと思う。美術は素晴らしい。照明もすばらしかった。時代考証、役者の所作共に完璧だったように思う。だからこそ惜しい作品であった。
2010年12月28日
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私は原作を読んだことはない。これからも一生読まないだろうと思う。私には必要が無いからではない。嫌いだからだ。それ以外の何の理由があるだろう。監督 トラン・アン・ユン 出演 松山ケンイチ (ワタナベ) 菊地凛子 (直子) 水原希子 (緑) 高良健吾 (キズキ) 霧島れいか (レイコ) 玉山鉄二 (永沢)初音映莉子 (ハツミ)映画を見た。これほどまで、集中してみたのは久し振りだと思う。彼らの心の動きは多くは理解できないし、幾つかは分からないけれども、思ったよりも多くは想像できた。映画を見た。光と色が、ここまで美しいと、私は今まで世界の何を見てきたのかという気にさせられる。美術は素晴らしい。1969年はいまや歴史なのだとつくづく感じる。映画を見た。愛する人を喪くすということ、愛する人を残して死ぬということ、愛する人を傷つけるということ、傷つけられるということ、セックスと愛するということの関係、それらは日常的に起こりうることだけど、みんなひとつづつ違っていて、人は起こった後にそのことを多くは学ぶ。けれども、それは次の悲しみの予習にはならない。この映画では三人の自殺する男女がいる。四人の生き残る男女がいる。その両者を分け隔てるものは何なのか。想像は出来るけど、言葉にすればあまりにも陳腐なものになりそうなのでいわない。おそらく言葉には出来ないのだろう。ワタナベと直子の二回目のセックスのとき、二人は出来なかった。直子は混乱して、ワタナベに帰って!とこの映画で二度しか出てこない大声を上げる。そのことの意味はなんだったのだろう。私はやっとワタナベがキズキの位置まで昇格したからだと思った。だから、ワタナベが帰らずに直子を抱きしめたのは唯一の行為だと思ったのである。「これは精神的なものだから、だんだんとよくなるよ」あとで、ワタナベは直子をそのように説得する。そして一緒に暮らそうと提案するのである。結果、直子はこの説得で死を選んだようなものだ。ワタナベはそのことで死ぬような後悔をしたに違いない。けれども、男としてあれ以上の何が出来たというのだろうか。私には決して理解できない世界である。けれどもこの手の傷つけあいは一生のうちで何度も何度も起こるのだろう。ここの登場人物全員に私は共感できない。この映画は力作だと思うけれども、嫌いな映画である。ひとつ原作を読んだ人に聞きたいのだけれども、(まったく作品内容に関係ないけれども)直子の20歳の誕生日のときに、ワタナベがプレゼントしたものはレコードのように思えたけれども、あれはビートルズのレコードだったのだろうか。そして、それを直子は最後まで持っていたのだろうか。それと、これも私の理解できないことの一つだけれども、二人が見つめあうとき、菊池凛子も水原希子も、眼が執拗に動くのだけれども、あんな至近距離で「そんなもの」なのだろうか。
2010年12月22日
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何を隠そう「宇宙戦艦ヤマト」第一世代である。日曜日の七時半、新しく始まった今まで見たことも無いアニメの完成度に度肝を抜かれ、友達と毎週月曜の朝、ヤマト談義をしていた世代である。裏番組の「アルプスの少女ハイジ」を見てみなさいよ、という女子どもの意見を馬鹿にしていた世代である(その15年後にハイジを見て「救われた」経験があるのだがそれはまた別の話)。だからこそ、ヤマト実写化の話を去年の今頃聞いたとき、古代進をキムタクがすると聞いたときには、鼻で笑って「絶対見るもんか」と豪語した私ではある。ところが、案外評判がいい。つい最近知ったのであるが、監督は山崎貴でVFXは白組だという。実はこの組み合わせで私はがっかりしたことがないのだ。私は前言を撤回して公開第一週に見ることにした。監督 : 山崎貴原作 : 西崎義展出演 : 木村拓哉 、 黒木メイサ 、 柳葉敏郎 、 緒形直人 、 池内博之 、 マイコ 、 堤真一 、 高島礼子 、 橋爪功 、 西田敏行 、 山崎努さすが白組というしかない。白組の素晴らしいところは、実写部分とVFX部分とのつぎはぎが全くストレス無く出来ているというところである。だから、実写のリアルさとアニメの夢の部分への移行がスムーズに行くので見事に騙されるのである。それから今回、木村の古代は仕方ないとして、沖田艦長、真田さん、島、などの主要人物の配役がぴったり合っていた。配役の性格を変えたのも成功している。一番成功しているのは、気の強い森雪という設定、女の佐渡先生である。これによって、直ぐに松本零士の幻影を払拭することが出来て山崎「大和」に集中することが出来た。だから、明らかにキムタクとしか思えない古代にもそういうものだと諦めることができたのである。話を単純にするためか、ガミラスとイスカンダルを二子星とはしなかったのは、しかたない。本当はデスラー総統には会いたかったのだが、たぶんこの映画の世界戦略に邪魔だったのだろう。結果的に、アニメよりも映画版の宇宙戦艦ヤマトのほうが私は大のお気に入りである。ヤマトは(ネタバレになるので詳しくいえないが)このように終わってこそ「大和」だ。もちろん、映画史に残る傑作ではない。でも、本当に138分もあったのかというくらいあっという間の楽しい映画体験であった。昨日、原作の西崎義展がこの映画の完成直前に「YAMATO」という船から転落死亡したということを聞いた。あまりにも出来すぎた「事故」に「えっー!!」となった。自ら滅びることで、他者を生かそうとした大和の幻影に彼自身が囚われすぎていたということなのかもしれない。
2010年12月13日
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松井久子監督の前二作はDVDになっていない。全国での上映運動で制作費を回収するという手段を取っており、実際それによって同時期上映の「フラガール」よりも多い入場者を獲得するという一種理想的な映画つくりを実現させたからである。監督・脚本・制作 : 松井久子出演 : エミリー・モーティマー 、 中村獅童 、 原田美枝子 、 竹下景子 、 クリスティーナ・ヘンドリックス 、 メアリー・ケイ・プレイス 、 柏原崇 、 山野海 、 大地康雄「レオニー」の上映形式がどのような運命をたどるのかは知らない。「折り梅」も最初は映画館で公開されていたということを考えると、今回もそうなるのかもしれない。ただ、驚いたのは、想像以上にお金をかけたセットを作り、1900年代のアメリカの街や日本の横浜、あるいは富士山が見える丘に建てる息子のイサムが設計した実物大の家などを映像として残していたのである。これが物語に厚みを加えているのは間違いが無い。古いアメリカと大正期の日本を再現させてまで描こうとしたのはなんだったのか。アメリカでもまだ女性の自立が一般的ではなかった時代、さらに因習に囲まれた日本で、二人の子供を抱え、日本語を一切習おうとせず、数年間を生きた女性の実像とはなんだったのか、それに迫ろうとしたのではなかったのではないか。松井監督の演出はいつも淡々としていている。だから大事なところはつい見落としがちになる。レオニーが日本に行こうと決意するところ、イサムに家を設計させるところなどは、すがすがしいほどさっぱりしていて、そういう生き方が「芸術家」を生んだのかもしれない。女性は時代に抗う力が弱い、けれども命を産み落とす力がある。命の力は無限大である。しかし、一方でこの映画にはレオニーに関する幾つかの「謎」をそのままにしているという特徴がある。彼女が野口の援助を断った時点でなぜ何年も生きていけたのか、結局分からない。もちろん想像は出来る。おそらく(妹の)父親は中村雅俊だと思う。ただ、その事実と彼女の自立心との関係が良く分からない。そして何故アメリカに渡ったのか、すぐにイサムに会わなかったのか、どのように生活したのかも謎である。また、いったん医学の道を志したイサムが芸術の道に改心する経緯も、レオニーの信念の立つ所以も、あまりにもあっさり描いていて、私には説明不足のように感じる。「幸せだったかどうかは、死ぬときに決まるのよ」アメリカを発つときに母親に言い放ったこの言葉は、これから多くの女性を励ますのだろうか。男の私にとっては、野口米次郎に対する共感は一切もてないが、レオニーに対しても、したたかというか、ちょっと畏怖に似た気持ちを抱くのである。
2010年12月11日
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歴史は「発見」の宝庫である。現代そのものが日々工夫とドラマのような人生の連続なのだから、過去の中には無数の工夫と教訓、そしてドラマがあるに違いない。そして、それは一家の献立から冠婚葬祭まで事細かに綴られた「武士の家計簿」が発見されたならば、無数の「発見」があるに違いない。監督 : 森田芳光原作 : 磯田道史出演 : 堺雅人 、 仲間由紀恵 、 松坂慶子 、 西村雅彦 、 草笛光子 、 中村雅俊原作はその中から、現代の教訓になるようなことを分かりやすく解説した良書であった。森田芳光監督が果たしてこれをどのように料理するのか楽しみだったが、実に上手くまとめていると思う。最初登場人物の説明にもたついたけれども、猪山家の借金返済計画と成之教育に話が移ると非常にしっかりしたドラマが始まった。江戸の武家社会では息子の教育係は父親の責任なのである。仕事が忙しいからと言って、決して怠けてはいけない。現代の家族よりはよっぽどしっかりした絆が出来るのではないだろうか。本当は明治維新を迎えて、官僚テクノラートの成之がどのように出世し、リストラ侍がどのようにスポイルされていったかを描けば、現代に対する批判映画になりえたのだろうが、それをやるとテーマが散漫になってしまう。史実とあえて変えているところも散見したが、まあそれこそが映画なのだから仕方ない。堺正人が真面目一本なそろばん侍を演じていて流石なのであるが、それを受けるお駒こと、仲間由紀恵が抑えた演技気ながら、夫を好きになり、信頼し、母として夫に反発し、そして愛する姿を存在感持って演じており、感心したのである。
2010年12月10日
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今月は映画館で見たのは10本。すべて感想はアップしたので、TVで見た映画のことをメモしておきます。ツィッターで呟いたのをコピーします。2010年10月09日(土)「地球防衛軍」(1957)監督本多猪四郎なう。怪獣出現、拳銃で応戦。美女が風呂の窓から村を歩く怪獣を見るシュールさ。通信手段が電話なので情報伝達が遅いのだ。防衛軍登場、戦後12年なので動作がきびきび、「此処が防衛線だ」の掛け声。新鮮です。「地球防衛軍」異星人登場。なぜか日本語。お辞儀までする。当時の自衛隊の最新兵器総出動、富士山麓の決戦、軍隊の無力はゴジラと同じ構造、「地球を支配する?しかし人類も科学の力で他の動物を支配しているではないですか。このままでは地球は水爆で滅ぶ」もっともらしい理由。「地球防衛軍」志村喬「いかなる理由があろうと原水爆を使用してはなりません。」結局は一人の勇敢な人間により人類は救われた。志村「(水爆で滅びた)彼らの徹を人類は決して踏んではなりません」2010年10月13日(水) 「ヒーロズファイルシーズン」で「ネイサンの敵を取ろうと思っているんじゃないでしょうね。正義の行いでない限り、復讐は死を呼びこむ」という台詞あり。これがおそらくアメリカ市民の平均的な感覚。しかし、正義と復讐の間に境界がないことは、ドラマ自体が証明。「のだめカンタービレファイルシーズン前編」(2009)観た。音楽映画苦手だし、単なるクラシック紹介映画にすぎないのだけど、退屈しないで最後まで観たのは、いろいろ工夫している証拠。「うた魂♪」(2008)合唱苦手なので敬遠していたけど、きっちり感動させる創りと夏帆の熱演でなかなかよかった。徳永えりって、こんなところにも出ている。2010年10月18日(月)「丘を越えて」(2007)池脇千鶴が途中までとっても魅力的。モダンな容姿と江戸の心根。高橋伴明監督の関根恵子へのラブレター。男のラブレターはみんな支離滅裂。猪瀬直樹原作、本人も出ている。峰岸徹もしんだ父役で出演、今考えると貴重。2010年10月21日(木)日本映画専門チャンネル「大魔神怒る」(1966)善良な藩主を助けるという設定で民衆はあまり活躍しない。しきりに「神様」という台詞が出てキリスト教宣伝映画みたい。今回も乙女(藤村志保)の涙がキーポイント。2010年10月24日(日) DVD「青い車」(2005)孤独な男と姉妹の三角関係。ARATA、宮崎あおい、麻生久美子という演技派を迎えながら、思わせ振りとしか思えない作品を作るのは監督奥原浩志が2時間弱で盛り込むべきものを勘違いしているからだろう。2010年10月29日(金) いい?世の中の出来事のほとんどはたいしたことないし、人間泣いている時間より笑っている時間のほうが圧倒的に長いし、信じられない物も見えるし、一晩寝れば、たいていのことは忘れられるのよ!by「インスタント沼」
2010年10月29日
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「REDLINE」とてつもなく未来のカーレースの話だけど、センスオブワンダーは感じない。描きこみは凄いと思うし、スピード感は半端じゃない。つまり、技術は素晴らしい。「車を動かして遠くに行くにはテクノロジーと技術が必要ではあるが、その目的を決めるためには『教養』が必要なのです。」(by加藤周一)というわけでとっても物足りなかった。監督 : 小池健原作 : 石井克人脚本 : 石井克人 、 榎戸洋司 、 櫻井圭記アニメーション制作 : マッドハウス声の出演 : 木村拓哉 、 蒼井優 、 浅野忠信蒼井優エンドロールをみるまで声をしているのだと気がつかなかった。彼女の声優の技術は半端じゃない。
2010年10月29日
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日本映画専門チャンネルで、仲代達矢のロングインタビューを企画していて、10月の回では次のようなことを言っていた。(「七人の侍」のときに三秒のちょい役のために一日掛けたことに懲りて)「それからは、侍としての歩き方、町人としての歩き方、浪人としての歩き方すべて考えながら歩くようにした。侍は重い刀をささげて歩くのだから当然いつも腰に重心がないといけない。声音も全て変える」これは、監督に教えられるまでもなくちょっと昔までの時代劇の役者にはみんな叩き込まれたことだというのである。監督 : 廣木隆一出演 : 岡田将生 、 蒼井優 、 小出恵介 、 柄本明 、 時任三郎 、 宮崎美子 、 和田聰宏 、 須藤理彩 、 若葉竜也 、 忍成修吾 、 村上淳 、 高良健吾 、 柄本佑 、 大杉漣 、 ベンガル 、 池畑慎之介 、 坂東三津五郎この映画は侍社会の定め(運命)に抗うことが出来るのか、ということが大きなテーマになっており、二人の運命に焦点が絞られているので、非常に分かりやすくそれが提示されている。そうだとするならば、蒼井優はどこまで自然児でいられるか、小出恵介、柄本明はどこまで侍社会の定めを体現できるか、そしてその中で揺れ動く岡田将生は、最も難しい役、定めの中で生きてきて、身についたモノをどの時に表現してどの時に剥がすのかを我々に見せなくてはならなかった。だから蒼井優がむしろ一番易しい役だったといえるのである。現代的感覚に一番近いのだから。しかし、良く頑張ってはいた。相変わらず、役ごとに見事に「声音」を変えるのはそうは言ってもなかなかできることではないと思う。柄本明の最後の場面は、あんなに喋れないだろうと思うが、比較的がんばっていた。見事な殺陣だったし。小出恵介は相変わらず、役になりきっていない。そして、岡田君も同じである。冒頭、殿が乱心して竹光のように軽々と太刀を振り回すのを見て、一挙に興ざめしてしまった。反対に言うと、時代劇の所作をリアルに描けば描くほど、この映画は非常にいいものになったはずなのである。これは、ひとえに今の監督が時代劇のエッセンスを知らな過ぎるからだと思う。周りに「注進」をするスタッフがいないからだ。今年はマーケティングのせいか知らないが、異様に時代劇が多くなってはいるが、時代劇空白の20年間、ひいて言えば、撮影所の相次ぐ閉鎖はこのように取り返しのつかない「水準」を作ったといえるのかもしれない。いや、まだ間に合う。いくつかの時代劇(「必死剣鳥刺し」と「十三人の刺客」)はまだ見るべきものができているからである。
2010年10月28日
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最初の20分で井伊直弼は討たれてしまうので、はたしてこれで「変」の歴史的背景は分かるのだろうかと心配していたら、頻繁に過去に戻りながら整理していたので、とりあえず基本的なところは分かるようになっている。(以下時間がなくて私なりの歴史観で記述します。歴史的事実で間違いがあればご指摘ください)監督 : 佐藤純彌原作 : 吉村昭出演 : 大沢たかお 、 長谷川京子 、 柄本明 、 生瀬勝久 、 加藤清史郎 、 西村雅彦 、 伊武雅刀 、 北大路欣也私も知らなかったのだが、この歴史的なテロ事件は未完のクーデター事件だったんですね。なるほど、子供の喧嘩じゃないんだから、ひどいやつだから殺す、だけじゃ出来ないことですものね。井伊暗殺の後は薩摩藩が京都を落として朝廷を担ぎ、一気に倒幕に走るとという「尊皇攘夷」の行動だったらしい。しかし島津斉彬が死んで次の殿さんはそれには反対、呼応せず(西郷はこれで島流しになる)頓挫、係わった水戸藩士はほとんどが斬首というのが歴史の真相らしい。冒頭と最後に国会議事堂が映るのであるが、製作者の意図は「若者よ、もっと国を憂えよ!」であることは明らか。一人ひとりの死に様を全員名前と享年を上げながら延々と映す。しかし、一人ひとりの性格設定や思想描写が出来ているわけではない。それなのに、延々と映すことをするというやり方はひとえに「靖国的発想」である。「そもそも彼らは国を憂えて(?)命を賭して非常手段にでたのだ!だから彼らの死を記憶しなければならないのだ」といわんばかりな作りである。歴史に詳しくない者や、少し歴史をかじってサッカーの試合で君が代を一緒に歌っているような人には、映画で涙したかもしれない。私は「NO」と言う。彼らは「記憶」に値するだけ、「涙」に値するだけの「歴史的価値」があるのか?「国のため」というが、彼らの計画は杜撰そのものだ。映画を見るだけで分かる。薩摩藩主が死亡した時点で、すぐに情報収集するのが当然の処置であった。薩摩の政策が変わっている可能性があるのに、行動に移すとは馬鹿としか言いようがない。いや、それより前にあのクーデター計画は薩摩以外は鳥取藩しか同調しなかった、それでもしようとしたのであり、基本的に「子供の喧嘩」の域をでていないと言われても仕方ない。彼らのテロに対しては幕府はもちろんのこと、薩摩も水戸も冷静な判断、あと処理をしている。(吉田松陰や橋本佐内は彼らのクーデター計画のとばっちりを受けて殺されたともいえるかもしれない。非常に残念である)計画が杜撰だからというだけで「NO」というわけではない。もう少し長いスパンで歴史を見る必要がある。確かに国内の借金財政、国際情勢を見ると「体制変革」は必要だったかもしれない。時代の制約があるから、もちろん代議制でそれを決定させるわけには行かないから、武力倒幕というのは、ひとつの大きな選択肢だっただろう。そういう意味では江戸の無血開城は見事だった。しかし、結局「上からの革命」によって、(単純に言えば)「尊皇攘夷」と「佐幕開国」を折衷した「尊王開国」という離れ業で日本の植民地化を防ぐことになる。明治維新は商人階級が参加しない中途半端な革命だった。「良くやった」という面と、桜田門外からたった8年で「体制変革」まで持っていった彼らは急ぎすぎた、という面と二つあると思う。大沢たかお演じる関は「変」がきっかけを作ったと言う。「倒幕は不可避だ」とあたかも時代が見えているかのごとく映画では描く。彼らは時代の変革のために犠牲になったのだ、と。しかし本当は、関は時代を大きく見誤っていた。映画を見るだけで、私はそういう印象を受ける。原作を読むとまた違った感想になるかもしれない。ともかく、そんな関を持上げるこの映画の「意図」を私は大いに疑いながら見るものである。ところで、「パッチギLOVE&PEACE」の中村ゆりがちゃんとラブシーンと汚れ役をやっていた。あの映画のときにこれをやる度胸を監督が見せていたならば、彼女も今頃はもう少し明るいところに居ることが出来たのに。私的には一番印象に残ったのは、中村ゆりの「元気な姿」を見ることが出来たことかな。
2010年10月27日
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「13人の刺客」この映画を見てから4週間たった。どのように書けばいいのか、悩んでいるうちに日にちが経ってしまった。当初は、この映画で二回行われる切腹の場面が共に「罰を受ける」タイプの切腹ではなく、「自ら死んで何かを生かす」タイプの切腹であり、「葉隠」の精神を体現していることに注目し、保守派日本思想史の大家、相良了の本を紐解こうと思っていたのであるが、時間がなくなった。これを含めて「武士道」とは何か、を真剣に考えた脚本であり、元映画が非常に気になった。そこで、工藤栄一監督の「13人の刺客」(1963)を見てみた。以下三池崇史版(以下「新作」と表記)と工藤栄一版(以下「旧作」と表記)を比べることで、私の感想としたい。監督 : 三池崇史出演 : 役所広司 、 山田孝之 、 伊勢谷友介 、 沢村一樹 、 古田新太 、 高岡蒼甫 、 六角精児 、 波岡一喜 、 近藤公園 、 石垣佑磨 、 窪田正孝 、 伊原剛志 、 松方弘樹 、 松本幸四郎 、 稲垣吾郎 、 市村正親大きく変わったのは、明石藩主松平斉韶の人物像である。「旧作」には、「新作」の女の手足を切り慰み者にした上に捨てるという設定は無い。切腹した家老の家族を弓で射るという場面は無い。一方、新左衛門たちに追い詰められたときには「旧作」は「将軍の弟に歯向かうか」と逃げ惑うだけであり、単なる暴君・愚君以上の何者でもない。「新作」の斉韶は自分なりの信条でより残忍になっているのである。つまり「旧作」は明石藩家老鬼頭半兵衛と島田新左衛門との対決の映画であったのであるが、「新作」では明らかに斉韶という新たな「意志」が付け加わっているのである。「新作」で付け加わったのは、斉韶だけでない。あと二人いる。「旧作」でも13人目の小弥太が参加したのは落合宿であったが、彼(山城新伍)は宿の郷士であってそれ以上の何者でもない。「七人の侍」へのオマージュだったのかもしれない。しかも彼は生き残らない。あっさりと殺されるのである。「新作」では「山の民」として大きな役割を持って登場する。しかも、刀を使わず石投げが武器、侍嫌いという全くの野生児であり、完全に「武士」とはちがう立場として参加するのだ。しかも、彼はなぜか生き残っている。(「旧作」では生き残るのは組頭の左平太)思うに「新作」の小弥太は監督の分身であり、生きる死ぬを体験しない現代の我々の分身として、同じ「視線」を持つものとして登場させたのであろう。「旧作」にはそれが無い。それには理由があるが後で述べる。もう一人性格が変わったのは、新左衛門の甥の新六郎である。「新作」にはない「旧作」の場面でこういうのがある。たまたま新六郎の処にやってきていた新左衛門に彼はこのように遠まわしに刺客に参加しない理由を言う。「今は侍より趣味のほうが面白くなってね」と三味線を弾くのである。すると新左衛門は「俺もお前くらいの年頃だった。侍の家が嫌いでな、放蕩三昧をしてこれ(三味線)で身を立てようとして習ったが、さて、やってみてなかなかどうして難しい。それよりは侍で死ぬが楽だと悟ったわ。ハハハハハ。」と言いながら見事な三味線の技を見せるのである。新左衛門が帰った後、趣味の道に限界を感じたのか新六郎は「一度思いっきり真剣になってみたくなった」といって刺客に参加するのである。これは当時の洋楽に入れ込む若者へのカウンターパンチだったのだろう。新六郎にとって三味線は単なる大人になる前の通過儀礼でしかないという描き方である。「新作」は違う。彼は、博打にものめりこめない、三味線にも女にものめりこめない、侍の社会自身に「?」をもつ人間として登場させている。彼が刺客に参加するのは、自ら参加して「侍とは何か、侍として死ぬこととは何か」の答を見つけ出すためであった。「旧作」では落合宿の準備をするのは新六郎の役目であり、もうすっかり刺客の自覚が出来ている。「新作」のほうでは沢村一樹演ずる半次郎に担わせ、役割分担している。新六郎の役割はほかにあるからである。彼は最後の最後まで悩んでいるのである。「旧作」は半兵衛と新左衛門の対決だった。それはつまり「武士道とは何か」「忠とはなにか」をめぐる対決であった。たとえ、君が愚君であっても、忠義を尽くすのが「道」であると教える儒教もあったと思う。(確かめていないのだが朱子学だったかも)一方で、君が間違っていたときには死を賭して諫めるべきである、という学問もあった。(荻生徂徠だったかな?)江戸時代、確かにその二つの潮流があり、その二つの対決を見事にエンタメとして描いたのが「旧作」であった。当時は戦後10数年しか経っておらず、戦争で死んでいった人々の記憶はまだまだ新しかった。だから、いかに死ぬか、というはそれだけで理屈はいらないすんなりと受け入れられるテーマだった。どちらの「忠」がよかったのか、ということは切実なテーマだった。「旧作」では半兵衛と新左衛門は同時に死んで、観客に答を委ねることが出来た。「新作」では、現代では、なぜ死ぬのか、というところから始めなくてはならない。ゲーム世代は「死ぬ」という実感が沸かない。テーマは「死ぬとは何か」ということだ。だからこの映画で「忠」のテーマは後景に追いやられた。しかし一定描かないと説得力が無いから、上映時間も長くなった。脚本的にはうまく作ったと思う。斉韶の姿は「自らの欲望のまま生死をもてあそぶ姿である」死の実感の無いまま、死ぬ間際になって死の恐怖を知る現代人の姿を良く描いている。小平太は斉韶のように自分勝手ではないが、死ぬ実感をもてないまま覚めた目でこの戦いを見ている我々の「視線」そのものだ。だから彼は一度死んでもゲームのように生き残っている。その対極にある人物は新六郎である。同じく現代人の「視線」を持っているが、新左衛門の立場で「死ぬ間際」まで体験する。彼はおそらく「生きる」ために「死ぬ」のだということを感じたのかもしれない。しかし、「何のために生きるのか、死ぬのか」ということまでは感じることが出来たとは思えない。その表現が最後の死屍累々たる戦場を歩く場面なのだろう。「新作」では「大義のために死ぬのだ」という言葉が何度も何度も出てくる。しかし、最後の新六郎の視線でそれをすべて相対化していると私には思えた。「新作」が新六郎の「視線」で終わるのは、監督の現代感覚なのだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言い切ったのは「葉隠」であるが、その良質のエッセンスを感覚的にエンタメとして見せようとしたこの映画はよくできた作品だと思う。しかし「何のために死ぬのか、あるいは生きるのか」という肝心なところはこの映画からは拾うことは出来ない。それは情報が氾濫して、返って大切なことが見えない現代、独り映画の責任ではないのかもしれないが。
2010年10月26日
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晴れた日には与那国島から台湾が見える。ここは小さな島である。この島の漁師たちの生活を追ったドキュメンタリーです。「老人と海」という題名に釣られて老漁師とカジキの孤独な闘いを写したのだと思って見に来たらちがった。しかし、これはこれでなかなか優秀な作品だった。「映画 日本国憲法」のジャン・ユンカーマン監督。小船を操って82歳の老人は、毎朝のように午前五時には漁に出る。島の共同体の中で釣り一本で生計を立てる男たちの記録である。1990年の作品のディレクターズカット版だという。どこを編集したのだろうか。おそらくカジキをめぐる話の部分ではなく、勇壮な「ハーリー祭」「こんぴら祭」を準備段階から見せる与那国の民俗を写す部分が増えたのかもしれない。老人は海に出るとき小船の隅々十箇所ぐらいに塩をまく。その素朴な信仰心がかえって、海と老人の関係を表している。毎日の不漁が続くが、それでも老人は海への敬意を止めない。海の豊穣と怖さを知っているからである。事実、最終的にかれは大人の二倍以上もあるカジキを釣り上げる。ささやかな自宅で行われる宴会。その誇らしい顔。しかし、チラシにはこのようにある。「映画完成後、最初の上映会が与那国島で開かれた。そこでじいちゃんはヒーローになった。しかし、東京公開を一ヶ月に控えた1990年7月末、いつものようにサバニで漁に出ていたじいちやんはカジキと思われる大魚に引きずり込まれ、海で還らぬ人になってしまう。」ヘミングェイの「老人と海」そのものであり、白土三平の「鬼泪」そのものである。実際、カジキを引き込んでいたとき、何度も安定の悪い小船の上で老人は仁王立ちをしていたし、一度は本当に危なかった。ヘミングウェイのそれとちがうのは、彼には愛妻がいて、いつも老人を支えていたし、弟子のような青年がいて、不漁の時には大きな魚を惜しげもなく呉れる漁師もいた。彼はやはり、笑顔で海に散っていったに違いないと私には思われた。ひとつ疑問に思ったのは、若い女性が二度ほどしか出てこなかった。おばあちおやんはたくさんいたし、少女もたくさんいたので、いるはずなのであるが、女性は映画には出さないという村の掟でもあったのだろうか。今は与那国島はどうなっているのだろうか。祭りが成立するくらいの若者はまだいるのだろうか。
2010年10月17日
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手作り映画を見てきました。 ~中高年男性応援プロジェクトチーム主催~岡山市立公民館映像祭2010「公民館発! ふるさとムービー」という企画で、「movie OKAYAMA」のメンバー15人が約2カ月かけて、岡山市の後楽園や岡山空港周辺などでロケを行い、さらに脚本、撮影、編集も全てメンバーが手がけて完成した「岡山の風に吹かれて」という映画です。去年の中高年男性応援プロジェクトをきっかけに公民館の映画講座で集まったメンバーを中心につくった映画です。今回公民館で100人以上集まってお披露目上映会をしたというわけです。<あらすじ>退職間近の健一は、特にこれといった趣味もなく、ごく平凡なサラリーマンだった。退職後、突然、妻に先立たれ、途方に暮れる健一・・・。しかし生前の妻の言葉を思い出し、一念発起する。後楽園のボランティアガイドをはじめ、公民館のクラブ活動へもいろいろ参加するようになった健一。さらに、初恋の人みよちゃんにも再会し・・・ふるさと岡山を舞台に、明るく第二の人生をスタートさせた健一のちょっぴり甘い恋もありの物語。そのほかに、映像祭の招待作品として、富山公民館ビデオクラブより「富山の宝~開かれた曹源寺~」(16分)、西大寺デジタルムービー講座より「まちを語る2010 西大寺の歴史を語り継ぐ人々」(13分)、その他、パネルディスカッションもしました。驚いたことに、公民館の会議室にレッドカーペットを敷いて上映の前後に、出演者、監督、スタッフの挨拶と質疑応答まであったのです。映画をつくっている人たち全員が愉しんでいるのです、素晴らしいと思いました。映画自体も、第一作とは思えない本格的なカット割り、効果音楽、編集です。健一さんが棒読みの台詞だったのですが、妻も初恋の人みよちゃんも、間の取り方が素晴らしく、健一さんのせりふが「ボケ」のように聞こえて、20分の上映中何度も笑いが起きました。笑いの中に、公民館活動やボランティア活動で第二の人生をスタートするというテーマがしっかりと入っていて、みんな堂々の岡山弁で素朴に演じていて、背景に本物のボランティアや公民館に参加している人たちが映っていて、想像以上の映画でした。身近なテーマを身近な人たちで気負わずつくっているのがいいのだと思います。健一さんのボケの部分を生かしつつ、もう少し演技を洗練させたならば、充分大きなスクリーンに出してもいい出来です。そのあと、監督や招待作品の製作者でパネルディスカッションをしたのですが、「公民館発の映画」のいいところと悪いところを出してもらいました。いいところは、「公民館がバックにあるだけでOKがでる。たとえば岡山博物館の高瀬舟の絵の撮影なんかは個人で頼んでもOKは出ないけれども、公民館から申請を出すと映すことができる」ということを言っていました。なるほど、と思いました。一方で、公民館発だとどうしても硬いテーマになったりして、ジレンマはあるようです。ともかく公民館職員も「私たちはソフト面では充分応援できるし、したい」と言っていて、退職者世代の生きがい発掘に公民館は大きな役割をしていると思いました。【参考記事】山陽新聞ニュース岡山の中高年らが自主制作映画 10月一般公開
2010年10月03日
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一日は映画の日なので、宣伝費をたっぷり掛けた話題の映画の初日ということで「大奥」を見てきました。あらすじ(goo映画より)男だけがかかる謎の疫病が蔓延し、男の数が女の4分の1に減ってしまった江戸時代。そこはすべての要職に女が就き、男は子種をほしがる女に体を売る男女逆転の世界だった。そんな中、一人の女将軍に3000人の美男が仕える大奥に、ひとりの青年が足を踏み入れる。困窮した旗本の実家を救うため、奥勤めを決意した水野祐之進だ。そこで大奥の贅を尽くした煌びやかな表の顔と、才色兼ね備えた男たちが熾烈な争いを繰り広げる裏の闇を目にし、衝撃を受ける水野。しかし彼自身も、やがて権力闘争の渦中に投げ込まれていく…。監督 : 金子文紀原作 : よしながふみ出演 : 二宮和也 、 柴咲コウ 、 堀北真希 、 大倉忠義 、 中村蒼 、 倍賞美津子 、 竹脇無我 、 和久井映見 、 阿部サダヲ 、 佐々木蔵之介男女逆転、こういう設定にするためにはきっと深ーい「意図」があるに違いない、と思って臨んだのです。でも二重の意味で裏切られました。そんな意図など何処にも見つからなかったこと、せっかく男女逆転したのにその設定からくる時代考証がいいかげんなこと。男女逆転しても、やっぱり大奥は大奥、ねたみ、陰謀、欲望、憧れ、友情と女性版「大奥」と変わり映えがしない。なんのためにこういう映画になったかといえば、結局イケメン映画を撮りたかったため、そのほうが客を呼べるから、としか思えない内容でした。また、水野が大奥に入ると決心する気持が男の私から見て全然理解できない。普通の貧乏旗本は、男の「子種」は金になるということで子どもを種馬にして稼がしていたそうであるが、水野家はそこまでぎりぎり逼迫してはおらず、なんと上級武家との縁談が決まりそうなのに、それをも蹴って「大奥」に身売りするという決心をする。それというのも、商家のお嬢さんと結ばれないつらさを紛らわすためだというのだとも推測できるのではあるが、水野は19歳にして道場師範代の腕前、「男らしい」という設定になっており、どうしてそんな女の腐ったような決心をするのか分らない。そこまで家の家計が心配ならば、商家の養子に入って両思いのおのぶと結ばれたほうがよっぽど賢い選択のように思える。それか、一念発起、身を立てる工夫をするというのが男であったにしろ、女であったにしろ、人間らしい選択でしょう。人口比が男が女の四分の一になり、どのように日本が変わったのか、なるほどと思わせる時代考証がほとんどなかった。単に男の仕事を女がしているだけである。男はいったい何処に行ってしまったのか、町の中では吉原以外では見ることができない。映画の中のセリフにもあるように、それでも男と女の体力差はそのまま残っているわけだから力仕事は男がやっていて全然構わないはずだ。男の役割は家に「嫁ぐ」か、全員「種馬」になったということなのか。それから、水野をちゃきちゃきの江戸っ子に見せたい意図は分るのではあるが、最後の最後まで水野が武家の息子に見えなかった。ずーと猫背なのである。殺陣がひどいのはまだ許せるとしても、武家の娘であったにしろ、男であったにせよ、姿勢は根本中の根本、しかも彼は剣術の達人、あの姿勢は「許せねえ」。二宮和也はもうちょっと骨のある役者だと思っていたが、全く持って失望した。ストーリーは良くありがちなものなので何の感想もなし。映画が終わって周りを見渡すと、なんと98%が女だった。はっきり言って、この光景が一番見応えがあった。
2010年10月02日
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9月劇場で見た映画は全部で8作品。今回は何とか全部記事化しています。そのほかDVDやひかりTVで見た映画は以下の通り。映画「BECK」のときに書いたけれども再掲。日本映画専門チャンネルで「花の高二トリオ 初恋物語」(1975)で山口百恵、桜田淳子、森昌子を見た。この映画を見ると、現代の若者は貧相なアイドルを見ていて、かわいそうだなあと思う。現在のモーニング娘、AKB48のメンバーで、映画の大スクリーンに耐えることの出来るアイドルは果たしているか。山口百恵が映画スターとして素晴らしいのはその後何作も映画に出たから証明されているが、びっくりしたのはこのときの17歳の桜田淳子は姉御肌の現代娘、森昌子は農学校出のぽっちゃり娘という設定で実に「魅力的な表情」が出来ているということである。ストーリーはご都合主義で誉められたものではないが、ともかくキャラクターは全部自然で彼女たちの魅力が十分に出ている。この映画、1975年のときは私は見ていないけれども当時映画館にお金払っていけば十分満足して映画館を出ることが出来ただろうと思う。彼女たちは『伊達に選ばれたわけではない』ということを改めて知った。日本映画専門チャンネルは日本アイドル史ということで特集を組んでいて、こういう映画も見た。「ジャンケン娘」(杉江敏男監督1955)観た。美空ひばり、雪村いずみ、江利チエミが驚くほど芸達者。楽しい歌映画。若い雪村は上戸彩に似ている。9月26日鑑賞。そのほか。関根(高橋)恵子「成熟」(1971)を観た。「高校生ブルース」とはうって変わって爽やかな青春もの。丁寧に山形庄内、鶴岡の民俗や文化の紹介をしていて、今や貴重な映像がいっぱい。作品としては言わぬが花。9月21日鑑賞。映画「非女子図鑑」(2008)非常女子の実態を描くオムニバス。第三話に深川栄洋監督の考古学非女子を描いたのがあり珍しく発掘の実態を描いており、楽しかった。9月24日鑑賞。DVDで「百万円と苦虫女」(2008)観た。あともう一度引越しを見たかったという気持ちと、あの手紙に感動したなら仕事辞めちゃダメでしょうという気持ちと。蒼井優もよかったけど、ピエール瀧もよかった。9月30日鑑賞。
2010年10月01日
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「ゲゲゲの女房」が昨日終わりました。8月から本格的に見始めた遅い視聴者ですが、まあ面白かったです。子供の頃に出会った2人「やっぱりあなただったんですね」と確認して、いつも側に妖怪がいたということを認め合って終わる大団円でした。昨日風呂に入りながら、ふと気がついたのですが、いつも時々村井家にやってきては迷惑をかけては去っていく村井茂の悪友はねずみ男がモデルだったんだなあ、と今さらながら。そうやって見ると、村井茂の母は砂かけ婆だろうか。実際、茂は女房のことをずっと一反もめんだと言っていたのは、いつも側にいて危機の時には助けてくれるからなのかもしれない。怖いけど、近しい、見えないけれど、いつも側にいる妖怪、は絶対神をもたない日本人にぴったり来る。子どもから大人までファンが続くはずです。金曜日のスマスマで鳥取県境港の水木しげるロードの特集をしていました。三万五千人の人口の町に時には1日七万人来るというのだそうだから凄いものです。近くといえば、近くなのでそういう道を作るという第一報から聞いてはいたのですが、「ブロンズ像を見るだけのためにわざわざ行っても仕方ない」と今まで一回も行った事がありません。ところが番組を見ると、ブロンズ像はいつの間にか139体と増えて、水木しげる記念館まで出来ているし、なによりも地域限定グッズが百鬼夜行のごとく出てきて一大テーマパークのごとく変身しているのには驚きました。この水木しげるロードは著作権を一切取らないと作者が英断したお陰でそのようなことになっているのですが、ブロンズ像を作るときに作者が来て横の姿や後姿の絵を描いたり、商店街に「もっと遊べばいい」とヒントを与えたり、本当に積極的にかかわっていたということを初めて知りました。ちょっと、非常に特異な町つくりです。一度見に行かなくてはなりません。もうちょっとして、水木ブームが冷めたころに行きたいと思います。
2010年09月26日
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日本映画専門チャンネルで10人の専門家の意見を聞くインタビュー番組の総集編を見た。題して「踊る大走査線は日本映画の何を変えたか」。おそらくこの夏の映画公開にあわせて特集を組んだのであろう。10人のインタビュー全てが面白いわけではない。興味深かったのはほんの数人。(番組はインタビューのほんの一部しか映していない。その全貌はおそらく今月末に出る新書に収められているのだろう。印象に残った言葉をメモしています)佐藤忠男(映画評論家)「斬新なシステムだった。個性的な映画は変わっているけど、しばしば面白くない。そういう空気をを変えた」白木緑(日経新聞文化部記者)シネコンの台頭、「もののけ姫」の大ヒット、監督の新旧交代、そういう時代背景の下にこの映画ができた。コンテンツとしての映画がここから始まった。「スピンオフ」が二本できた。まるでTVで特番を作るような感覚。TVの発想を映画界に持ち込んだ。若い人が映画を見る人になった。しかし「映画ファン」を育てたわけではない。「泣ける」「笑える」とか一言で表せることのできるような映画はヒットするが、「なにかよく分からない、噛み切れないするめのような映画」は置き去りにされるようになった。肯定的に見る評者の意見はあまり心に残らず、批判的に見る意見が心に残ったが、白木さんの意見がもっとも中立的だったように思えるし、的確だったように思える。確かにこのころ、黒澤、今村昌平等々巨匠といわれる監督や昔かたぎの監督が次々と亡くなり、引退していった。98年は日本映画のターニングポイントだったのかもしれない。キネマ旬報の掛尾さんは「91年が観客数2400万人で底を打った。この映画で日本映画は自信を回復した」という。しかし、「映画ファン」の私たちはどうしても日本映画が復活したとは思えない。まるで戦後最長の景気を持続させていたにもかかわらず、不況を脱出したと思えなかったつい最近の庶民感覚と同じように…。(ちなみに 雇用者所得は、いざなぎ景気のとき約1.8倍、2002~07年1.0倍。つまり増えなかった。(経産省『通商白書2008』))そして、ついにはリーマンショックがやってくる。それはまるで「悪魔のサイクル」である。体力の無いV字回復はさらに大きな落とし穴が待っており、それをさらに表面的な回復で補うから、さらに大きな恐慌を繰返す(ネオリベラリズム循環)。日本映画もそのようにならなければいいのだが。次に紹介するのは、「踊る大走査線」の生みの親のプロデューサーの意見である。一見、説得的に見えるこの意見の中に、巧妙に「悪魔のサイクル」理論が隠れているのが分かるだろう。亀山千広(フジテレビ映画プロデューサー) ビギナーズラックだった。特別なことをしたわけじゃない。「観客を楽しませる」のは大前提。それがぼくたちの仕事なんだから。そうでないものは淘汰される。ぼくたちはTVとほとんど同じことを堂々とやってのけただけです。 僕たちは別に映画界の真ん中にいたいと思ったことは一度もない。ぼくにしても、わくわくしてみてきた映画は時にはATGだったり、時にはハリウッドだったりした。芸術としての映画を邪魔する気持ちは無い。 テレビ局が参入してきたのは決して悪いことじゃないと思いたい。大事なのは「面白い」はあたりまえ。「面白そう」にするということだ。「面白そう」をどのように喚起するかにかかっている。僕たちはそれの腕を磨いている。最後に番組はこの98年から2009年まで掛かった日本映画は4018作品だという。そのうち、70億を越えた作品はこの「踊る大走査線」の三つの映画版を含めてたった8作品のみだと指摘して終わる。
2010年09月25日
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何度も何度も予告編を見た。出演俳優も派手な者は一人も出ていなくて、テーマもひどく地味なものなのであるが、モントリオール国際映画祭でラッキーにも深津絵里が最優秀女優賞を獲り、広告宣伝もふんだんに使ったおかげで、TVドラマから流れてきた映画でもないのにもかかわらず第一週目はなんとか邦画で一位になったようだ。先ずは祝着である。監督・脚本 : 李相日原作・脚本 : 吉田修一美術監督 : 種田陽平音楽 : 久石譲主題歌 : 福原美穂出演 : 妻夫木聡 、 深津絵里 、 岡田将生 、 満島ひかり 、 樹木希林 、 柄本明何度も何度も予告編を見た。犯罪物であるにもかかわらず、誰が犯人かということに焦点を絞っていない。初めから妻夫木演じる祐一が犯人だと明らかにしている。その他の映画ニュースでもそのことは隠そうとしない。しかし、予告編では「新たに浮かび上がるもうひとりの男」と言って岡田将生が映し出される。もしかして、最後のどんでん返しがあるのかもしれない、と思いながら鑑賞に望んだのである。しかし、やはりサスペンス調の話ではなかった。しかも予想していた、犯人と被害者の家族との対立や関係を描くものでもなかった。予告編で既に柄本明が「あんた、大切な人はおるね?今の世の中、大切な人がおらん人間が多すぎる」と語っており、もうなんというか、この映画のエッセンスのほとんどを予告編に詰めているという感じで、私は『反則だあ』と言いたい。終わってみれば深津絵里の演技、妻夫木の演技含めて意外なものは少なかった。もちろん力演ではある。しかし、女優賞を獲るほどのすごい演技ではない。妻夫木は「祐一は私です」と言って初日の挨拶で感極まったらしい。なにをして彼にそう言わせたのかは、今は分からないが、誰でも独りの部分はあり、背負わされて、時には道を踏み外すことはあるだろう、とは思う。彼が明るい役柄だけをしてきたわけではないということは既に「ノーボーイズ・ノークライ」で証明済みであるが、この作品はほとんど世に出ていないので改めてこういう作品で世に訴えたかったのかもしれない。映画は「本当の悪人とは誰か」という話ではなく、「悪人とはなにか」という話であったし、それ以上に、六人の群像劇として描いて、そのことだけは意外であった。私としては一番印象に残ったのは灯台の夕陽を浴びる場面でも、柄本明が岡田将生を見ながら呟く場面でもなく、予告編にも少しだけ出ているが、雨の傘の中の柄本明と満島ひかりの邂逅の場面である。予告編には映っていない彼女の表情の変化の中に『人間を信じなくてはいけない』と思わせるものがあり(たとえそれが父親の頭の中の娘の姿であっても、映画として実際に目の前で見せられることで、娘の真の姿を見ていたのは父親だけだった、と思えたのである)、もっとも見ごたえがあった。彼女の出番は少ないが、樹木希林も確かに凄い助演女優賞ものの演技ではあるが、この作品での七変化の満島ひかりの演技もやはり助演女優賞ものではある。
2010年09月22日
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時々見逃した作品をDVDで見て後悔することがある。たとえばこの作品がそうだ。監督 金子修介出演 ステファニー 満島ひかり 及川光博 渡辺大 由紀さおり キムラ緑子 一条ゆかりの原作「プライド」である。少女マンガ含めてどのマンガも一応全部読んでいた時期、唯一受け付けなかったマンガ家の一人が一条ゆかりだった。そういう偏見があるものだから、何度も予告編は見ていたのだがパスしたのである。主演女優のことを何も知らなかったのもパスした理由だった。これこそ映画の醍醐味が満点の作品である。二時間弱、起承転結がハッキリしていて、四人の男女をめぐるジェットコースター物語である。オペラから始まって、途中から「お水もの」になり、最後はポップスの舞台で終わる。日本が韓国にお株を奪われた愛憎劇の伝統をここで復活してくれている。しかも、韓国とは違い最後は主演女優二人の笑顔で終わっているところ、なんとも日本らしい。「BECK」ではマンガの原作の「夢」を壊さないという「配慮」からボーカルの声だけを消すというバカな事をしているが、この作品は二人とも見事に歌っている。オペラパートはさすがに吹き替えだけれども、きちんと声を合わせていて、違和感はひとつも無い。ポップスパートでは、プロのステファニーは別として、満島ひかりが3曲歌っていて、全然引けをとっていない。金子修介監督はDVD特典で言っていた。「漫画は繰り返し読める。けれど、映画では時間は止まらない。受け止め方は全然違う。だから映像にするのは難しい。マンガには絵の力がある。映画には芝居の力がある。芝居の力で、マンガとは伍しあるいは越えていくことが重要である。この作品、歌も映画的空間になると、対決していた二人が歌の間だけは融和している、それは映画ならではなの描き方だった」堤監督にいってやりたいような言葉だ。満島ひかりは改めて凄いと思う。金子修介はなんと「モスラ2」の子役のときから目をつけていたという。(この人の女優を見る才能は異常です)「ウルトラマンMAX」でつばをつけて、「デスノート」で端役に使い、ここでダブル主役に抜擢した。しかも、そのあとブレイクしつつある。宮崎あおいと生年月日がまるきり同じということで私が勝手にライバル扱いをしているのだ。ここでは、金子修介は彼女を思いっきり使っている。彼は怪談映画も撮っているから、彼女のホラーの部分も大いにあり、底辺から這い上がろうとする執念、時に怖く、時にしたたか、時にかわいく、うまいこと撮っていると思う。次の「悪人」が楽しみだ。
2010年09月21日
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日本映画専門チャンネルで見た。2009年作品だから去年の作品なのだけど、全然知らなかった。日韓合作映画である。チェイサーのハ・ジョンウが主演。さすがにいい味を出している。しかし、妻武木聡ダブル主演で貫地谷しほり、柄本祐も出てくる。舞台は九割山口県。しかも脚本は渡辺あやである。あらすじ。ヒョング(ハ・ジョンウ)の仕事は、ボートで韓国-日本の間を荷物運搬すること。日本で彼を迎える亨(妻夫木聡)の妹、奈美(徳永えり)は荷主ボギョン(イ・デヨン)の息子の嫁。あるとき、ヒョングは運んでいた荷物が麻薬だったことを知る。次の荷物は、韓国人少女チス(チャ・スヨン)。彼女の父は、ボギョンの手先として会社の金を横領したが、2億円を持って姿を消していた。父を見つけたら5000万円ずつ払うと言うチス。亨は、ヒョングとチスが逃げたとボギョンに嘘を告げる一方で、ヒョングにはチスの父親を見つけて金を貰おうと持ちかける。監督 キム・ヨンナム脚本 渡辺あや出演 妻夫木聡 、ハ・ジョンウ 、チャ・スヨン 、徳永えり、キム・ブソン、貫地谷しほり渡辺あやは「ジョゼと虎と魚たち」「メゾン・ド・フミコ」が韓国で上映されて高く評価され、請われて脚本を書いたらしい。確か彼女は島根在住の人。山陰の海を眺めながら、この話を書いたのだろう。今まであった日韓合作とは一線を画し、非常にシリアスかつ、濃密な作品が出来上がっている。これが「力道山」や「彼女はサイボーグ」などと違ってあんまり日の目を見ていないのは少し残念である。(日本では数館しか上映されていないので、ほとんど知られていない。山口県でさえ、上映されていない)しかし、ひとつ気になったのは日本人である亨の設定。彼は両親をなくしたあと、妹と惚けているおばあさんと妹の父親がハッキリしない三人の子供と暮らしている。亨は生活のために朝鮮系やくざの舎弟におさまっているし、妹に売春もさせている。妹の子供は3-4歳くらいの男の子は元気だけれど、1歳くらいの男の子が肺系の病気を持っているために携帯酸素を手放すことができない。この家庭環境のために彼は家族に嫌気が差しながらもまともな職に就けず、さらには薬屋の店員の彼女と最近別れた。しかも彼女は近々結婚をする。……実に典型的な韓国の「貧困」の姿なのだ。「貧しくて」「家族を憎みながらも愛していて、捨てることができない」「お金に飢えていて」「彼女は(金持ちに)嫁ごうとしている。非常に気立てのいい娘だが、決して金よりも愛を選ぶという選択はしない」。日本でもぎりぎりありうる設定かもしれないが、日本人ならば、あそこまで家族を引きづることができるか、彼女は亨を最後に選ぶのがありうる姿ではないのか、などと思ってしまうのである。この映画は、韓国と日本の底辺の若者を描きながら、母親に見捨てられたと思っている男と、家族を見捨てることができない男との友情を描いているのである。気になったのは、渡辺あやは二人の日韓の文化の対立を描かなくて、全面的に韓国の視点で二人の若者を描いてしまったのではないか、と思うからである。質のいい日韓合作映画なだけに、そこが残念なのだ。妻夫木は八割方韓国語の台詞をしゃべっていて、発音のニュアンスはよく分からなかったが、自然にしゃべっていた。少し自然すぎるのが返ってオカシイと思うくらいだ。いくら朝鮮系やくざの中で生きるためだといっても、あそこまで頑張って韓国語ぺらぺらに成る必要があったのか。私自身が何年も韓国語を勉強して全然会話ができないから嫉妬しているという面もあります。妻夫木の人がいいけれども、暗闇の中を生きている、という演技は、果たして「悪人」の中でどう生きているのだろうか。楽天ブログにYouTubeが貼れるようになりました♪予告編です。
2010年09月20日
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『プリンはどうするんだよー!!』あらすじ(goo映画より)シングルマザーのひろ子は、息子の友也と二人暮らし。ある日、二人は侍の恰好をした木島安兵衛と名乗る男と出会う。安兵衛はどこに帰ればいいのかわからないと言い、しばらくひろ子の家に居候することになる。安兵衛は、居候のお礼として家事を全部引き受けると言い出し、料理や掃除を完璧にこなしてくれた。ある日、病気になった友也のために、安兵衛はプリンを作ってくれた。それをきっかけに、安兵衛はお菓子作りに目覚め…。監督・脚本 : 中村義洋 原作 : 荒木源 出演 : 錦戸亮 、 ともさかりえ 、 今野浩喜 、 佐藤仁美 、 鈴木福 、 忽那汐里 、 堀部圭亮 、 中村有志 、 井上順 現代から江戸にタイムスリップした医者が人を助けても平気で受け入れられる現代だから、江戸から現代にタイムスリップした侍がパティシエになっても当然平気で受け入れられます。わが街の単館映画館がひさしぶりに満員近くになっていました。錦戸亮が意外ときちんとした侍ぶりで(この人ぜんぜん知らなかったということもあるのだけど)本物の侍に見えました。感心したのが受けてのともさかりえ。驚き、無視、戸惑い、感心、好意への心の動きがとても自然で安心してみていられる。中村監督は本当に上手い監督なのだと思った。たぶん人を描くのが上手い人なんだろう。それと、『絶妙の間』を知っている。『働くということ』はどいうことなのかをさりげなく見せる演出も上手いし、江戸時代と現代の男と女の役割の価値観の違いとそれを埋めるものは何かをさりげなく見せるのも上手い。
2010年09月18日
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マンガのイメージを壊さないためにボーカルの音を消す、というのは本来はやってはいけない裏技だと思う。それをやる以上はそのほかの音と映像、物語はとことん本物を追求しないといけないと思う。映画の中で成立する嘘はたった一つでないといけない、というのは私の主張する「条件」ですが、多くの人が賛同してくれると信じています。粗筋(goo映画より)内気な高校生の幸雄(通称コユキ)は、ある日、ニューヨーク帰りで天才的なギターテクニックを持つ竜介と運命的な出会いをし、音楽の道にのめり込んでいく。ボーカルの千葉、ベースの平、そしてコユキの親友サクがドラムに加わり、バンドBECKが結成された。ライブハウスでの活躍、自主制作CDの作成、そして大型ロックフェスへの出演が決まり、順調に見えたかの船出。しかし、ライバルバンドの大物プロデューサーが罠を仕掛けてくる。監督 : 堤幸彦 原作 : ハロルド作石 出演 : 水嶋ヒロ 、 佐藤健 、 桐谷健太 、 忽那汐里 、 中村蒼 、 向井理 音は分らない。(音楽オンチなんです)映像はどうか。ステージ「美術」はがんばっている。話は?ウーム、この監督はどうやらマンガを全く脚色しないで脚本化することが映画化だと勘違いしているらしい。いくらなんでもステージの上であんなに「間」があっちゃいけないと思う。歌舞伎じゃないんだから。非現実的な映画の漫画化。「20世紀少年」もそうだった。もうこの監督の映画には期待しないことにしよう。この映画は一方で、正当なアイドル映画だと思う。現代のイケメン俳優をそろえることには成功している。キャラクターの魅力を演出していることには成功している。アイドル映画といえば、この前日本映画専門チャンネルで「花の高二トリオ 初恋物語」(1975)で山口百恵、桜田淳子、森昌子を見た。この映画を見ると、現代の若者は貧相なアイドルを見ていて、かわいそうだなあと思う。現在のモーニング娘、AKB48のメンバーで、映画の大スクリーンに耐えることの出来るアイドルは果たしているか。山口百恵が映画スターとして素晴らしいのはその後何作も映画に出たから証明されているが、びっくりしたのはこのときの17歳の桜田淳子は姉御肌の現代娘、森昌子は農学校出のぽっちゃり娘という設定で実に「魅力的な表情」が出来ているということである。ストーリーはご都合主義で誉められたものではないが、ともかくキャラクターは全部自然で彼女たちの魅力が十分に出ている。この映画、1975年のときは私は見ていないけれども当時映画館にお金払っていけば十分満足して映画館を出ることが出来ただろうと思う。彼女たちは『伊達に選ばれたわけではない』ということを改めて知った。この映画も、みごとに中学生や高校生が主な観客層だった。「かっこよかったー」と満足げに出て行っていた。2010年にこういうアイドル映画があったと私は記憶しておこうと思う。
2010年09月11日
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「はやぶさ」のプラネタリウムを見てきました。~10/31まで 岡山県立児童会館大人500円 小・中100円 10:00 14:00 (43分)自主上映です。当初9月以降は土日限定上映の予定でしたが、好評のため平日上映(月休み)も決まったそうです。6月にこのニュースの一報を聞いたときに最初に思ったのは「これは映画になる」というプロデューサー的発想でした。ところがもう既に映画になっていたことは知りませんでした。しかも3Dどころじゃない、こういう映像に最も適しているプラネタリウム用の映像として。この種の映像ではつい寝てしまいがちな私ですが、うたた寝一切無しでした。大変刺激的な作品です。「はやぶさ」は一回地球を離れてもう一回地球に近づき、その力で「イトカワ」の軌道に乗るのですが、そのとき外の視線から地球に近づく映像が感動的です。これはやっぱり映画にしなくちゃいけない素材です。このプラネタリウムは今年一月に作られたようで地球の帰還は想像で作られていました。映像の性格上人物は登場しません。地球の上で日繰り広げられる苦労と夢、そして当の「はやぶさ」が体験した「通信が切れたあとの宇宙にたった独りだった時の映像」、それをもとに「宇宙の真実」ひるがえって「人類とは何か」という哲学的な問題、語れることは多いと思います。映画化すれば絶対資金は集まります!!こんなに美味しい話はありません(もう既に具体化しているかもしれませんが)誰か映画化して!!
2010年09月10日
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大竹しのぶは何を隠そう、私の女優ファン第一号さんです。いつファンになったかというと、「青春の門」で彼女が蚊の鳴くような声で「信介しゃん」と言ったかと思うと「事件」でふてぶてしくも一人で子供を産む決意をかためてスクリーンを閉じていくあの場面を見てからだと思う。だからもう35年くらい前じゃないかな。それ以降、彼女は長い間私の唯一の好きな女優の座を守ってきたのだけど、彼女はその後まるで「女の不思議」を一身に背負ったかのように、色々な変身をしていったので、ついていけなくなり、数人(2-3人かな)のファンを宣言したあと今日本の女優ではなんといっても宮崎あおいちゃんが一番のお気に入りです。その二人がダブル主演、夢の競演です、見ないわけには行きません。粗筋(goo映画より)陽子と娘の月子は、ずっと母一人子一人で仲良く支え合って暮らしてきた。ある晩、酔っ払った陽子が若い金髪の男・研二を連れて帰ってくる。そして「お母さん、この人と結婚することにしたから」と、彼との結婚を宣言する。あまりに突然のことに戸惑う月子は、とっさに部屋を飛び出してしまう。母に裏切られたという思いから、月子は陽子にも研二にも心を閉ざしてしまう……。監督・脚本 : 呉美保 原作 : 咲乃月音 出演 : 宮崎あおい 、 大竹しのぶ 、 桐谷健太 、 絵沢萠子 、 國村隼 二人が出てくるインタビューを聞くと、ふたりとも「映画を作る前に監督と三人で徹底的にディスカッションをした。陽子と月子の気持ちを、時間をかけて語り合った。あんなに話し合ったのは初めて」と言っていた。もちろん話し合うだけで、いい映画ができるのならばどの監督もそうするだろう。ただ、この映画に関して言えば、それは正解だった。私はこの作品に出てくる台詞の三倍くらいの台詞を聞いたような気になった。思いっきり腹いっぱいになって映画館を出ることができた。呉美保監督は、本当に丁寧に映画を作る人だ。原作は知らないけれども、この映画に関して言えば、ウソはない。鍵のかからないお隣さんや近所との付き合い。母と娘の生活。親子ほどにも差がある青年との恋。ちょっとした特殊な事情と普遍的な家族の絆、そして、心の揺れ。二人の大女優、四つに組んでどちらも引けをとらなかった。とっても素敵な話だった。いいところで終わらせて、満足である。
2010年09月07日
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やっぱり木村多江では清子は駄目だった。彼女に汚れ役をさせる度胸が無いまま映画にしてしまった製作者側の明らかな失敗である。監督 : 篠崎誠 原作 : 桐野夏生 出演 : 木村多江 、 窪塚洋介 、 福士誠治 、 柄本佑 、 木村了 、 染谷将太 、 山口龍人 、 南好洋 、 結城貴史 、 清水優 、 阿部亮平 、 テイ龍進 、 趙民和 、 鶴見辰吾 原作の第一章にあたる、最初の五年間をあまりにもすらっと描きすぎている。映画ではどうも数ヶ月くらいしか島にいたというふうにしか見えない。映画では最低限の状況説明が無いために、彼らの飢餓感が観客に伝わりにくいのである。この島は幸いにもフルーツ類と水はたくさんあるためにあまり労働しなくても飢えるということはない。だからこそ彼らの関心は、唯一の女性(性欲)、手に入らない食材への憧れ(食欲)、そして長い年月と共に狂っていったり、権力欲に向ったり、生き甲斐に走ったり、脱出に向ったりしたのである。映画の冒頭場面はそれらを一定全て試したあとの話なのだ。そして権力闘争に汲々とする日本人グループと生きるために必要なことをする中国人グループとに分かれ、清子はその二つの間を器用に渡り歩く。そのためには、清子にしっかりと濡れ場を演じてもらわなくちゃいけないし、自分の夫を殺した男だと分かった上でその男を利用することで生きる46歳のオバサンの肉体をしっかり映像として見せてほしかった。この映画の面白さはこのようなシチュエーションになったら、人はどうなるのだろうか、ということだと思う。ところがその一番大事なところが、現実感をもって描ききれていないのである。キャスティングの失敗は痛かった。あと、二重人格をもった男の役にはもっと演技派を配するべきだった。小説ならばあんなに頻繁に人格交代が起きてもいいけど、映画として見せるならばもっと工夫が必要だし、演技にも工夫がほしかった。
2010年09月06日
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8月に劇場で見た映画は全部で10本でした。記事化で来ていない作品は二本。「ヒックとドラゴン」監督・脚本 : ディーン・デュボア 、 クリス・サンダース 原作 : クレシッダ・コーウェル あの飛ぶ感覚は凄いけど、やはり人間ばなれしている。嘘がある。 「ソルト」監督 : フィリップ・ノイス 脚本 : カート・ウィマー 出演 : アンジェリーナ・ジョリー 、 リーヴ・シュレイバー 、 キウェテル・イジョフォー 、 ダニエル・オルブリフスキー 女性が健気にがんばる話は好き。ただし、ソルトは健気というにはあまりにも強い。車から車に飛び乗る場面は久し振りにどきどきした。八月の日本映画専門チャンネルでは夏休み特集をしていて、面白かった。「サマータイムマシンブルース」を久し振りに見た。2005年作品。本広克行監督作品。せっかくのタイムマシーンを無駄に使う発想が面白かったのだけど、当時は「ああ、面白かったで、終わる作品だね」という評価だった。改めて見ると、ともかくもよくで来ている計算されつくした脚本が素晴らしい。あの完成度はその後の面白系作品でも出て来ていない。香川県のロケ地シリーズの先鞭の一つだったということもある。この映画のロケ地を探して、香川大学と善通寺を探訪するのも面白いかもしれない。あと、この映画では当時既に有名だったのは、上野樹理ぐらいで、あと瑛太と真木ようこが出ているのにびっくり。「絵の中のぼくの村」(1996)昭和20年代の高地の村の生活を、双子の少年の目を通してファンタジックに描き出すスケッチ風のドラマ。監督は「橋のない川(1992)」の東陽一。絵本作家・田島征三による同名の自伝的エッセイが原作。ひとつひとつのエピソードが実に良く練られていて、見ていて飽きなかった。見ようによっては、とっても残酷でエロチックな作品なのだけど、見ようによってはとっても長閑な作品。最初たんなる近所のおばあちゃんの噂話三人女かと思っていたのが、途中からマクベスの3人の魔女の姿に変わるところなんかはニヤニヤしながら見ていた。
2010年09月02日
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日本の田舎よりも田舎らしい村に入っていく。台湾は世界に残された最後の日本の田舎になるかもしれない。夏、8歳の敦(原田賢人)と6歳の凱(大前喬一)の兄弟は、旅行ライターの母・夕美子(尾野真千子)に連れられ、急死した父・孟真の遺灰を届けるため、父の故郷である台湾東部の花蓮近くにある小さな村を訪れる。村ではおじいちゃん(ホン・リウ)と、台北に住む孟真の弟・孟堅(チャン・ハン)とその妻・華心(ワン・ファン)が母子を迎える。敦は父に貰った、トロッコを押す少年の古い写真を持っていた。その少年は、戦前のおじいちゃんだった。写真の場所を忘れてしまったおじいちゃんは兄弟を連れて、トロッコの線路を探し始める。(goo映画より)以前台湾を旅行したときに行った映画博物館で、分厚い小津安次郎の展覧会カタログがあった。おそらく大々的な企画展をしたときの名残なのだろう。中を見ると、中国語なのでよく分らない面もあったけれどもおそらく非常に専門的なものだった。この映画、日本監督なのだが、スタッフは台湾の人が多い。登場人物は夕美子と2人の息子以外はみんな台湾人である。それでも、半分の言語は日本語というところが台湾の面白さではある。小津を髣髴させるようにあまり大きな事件は起きずに話は終わる。「私駄目なんです。全部自分で選んできたはずなのに‥‥‥」夕美子は姑につい溢れるように自分の悩みを打ち明ける。「何も補償をしてくれ、というんじゃない。あんなに日本のために尽くしたのに、戦争が終わったら知らん顔‥‥‥「ご苦労様」と言って欲しいんじゃ‥‥‥」夕食の場でおじいちゃんは溢れるように本音を漏らす。人生は思うように行かない。人と人とのつながりだけが、古いものには残っていて、それだけが救いなのだ。おそらくそのことのみを描いてこの美しい映画は終わる。
2010年09月02日
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ぼくは死んだ、けれども冥府行きの改札場所で突然「修行」を言い渡される。自殺で死んだ男の子の魂と入れ替わって暮らしてみろ、と。そうやって、ぼくは気乗りがしないまま中学三年生の半年を生きる。監督 : 原恵一 原作 : 森絵都 声の出演 : 冨澤風斗 、 宮崎あおい 、 南明奈 、 まいける 、 入江甚儀 、 中尾明慶 、 藤原啓治 、 麻生久美子 、 高橋克実 別にアニメでないとけっして描けないような作品ではないのかもしれない。本当は登場人物たちの繊細な演技が必要な作品なのかもしれない。ただ、アニメにした狙いは見たあと一日たってやっと得心が行った。実写では生なま過ぎるのである。ここで描かれるのは、いったん死んだ男(の子)がみる下界の世界である。まるでアニメのように見える世界がちょうどいいのかもしれない。自殺した中学生に対して家族、特にお母さんは腫れ物に触るように接していく。中学生はある理由があってお母さんに冷たく当たる。物語の終盤、閉ざされた中学生の心が開かれる場面がある。まさかあんななんでもない場面がそれになるとは思っていなくて、不覚にも泣かされてしまった。なぜ泣かされたのか。特にすごい映像が流れるわけでもなく、中学生とお母さんがすごい台詞をしゃべるわけでもない。やっぱりそこに至るまでの原恵一監督の映像があまりにも丁寧だったからなのだろう。それともうひとついうと、お兄ちゃんにやられた。カラフル、の意味は、中学生自身が気がつく。そのときやっと、このアニメの主要トーンがグレーだったことに気がつくのである。そして思い出す色は、たとえば金木犀の黄色、絵画の中の海の色、夕食のおかずのトマトの色、お父さんと行った紅葉の山なのである。生きている、ってことは、くすんだ色の中に鮮やかな色を時々見つける、ってことなのかもしれない。中学生に見てほしい。
2010年08月29日
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予告編を見れば、だいたいのあらすじは分かる。高校時代に知り合った二人は、女の子の方は東京の大学から社会人になって、NYに行く。男は北海道の漁師をずっと続ける。女は誠実そうな男からプロポーズされる。それでも、2人は10年来の愛をはぐくみ最後には結婚をする。{監督]土井裕泰[出演]新垣結衣、生田斗真、蓮佛美沙子、ARATA、木村祐一、松重豊、向井理、薬師丸ひろ子 ほかあまりにも定番のアイドル映画である。それでも見たのは、「万が一」ということを考えたからである。つい最近60年代の「泥だらけの純情」という邦画を見た。そこには街のチンピラと令嬢の恋という「身分違いの恋の悲劇」の所謂定番の悲劇物語があるのだが、なんと面白いのである。定番の喧嘩、反対、あきらめ、そして恋の道行き、というストーリーの中に、印象的な台詞、粋な小道具の使い方がちりばめられている。当然吉永小百合の存在感のある一途な幼い顔も魅力のひとつであるが、それだけで見せる映画ではなかったのだ。一昨日韓国映画の『ヒマワリ』という映画をひかりTVで見た。刑務所から出所したチンピラは引き取り先の町の食堂のおばさんの家に住みながら更生を誓う。ところが、昔の知り合いは更なるやくざになっていて、おばさんは死に、その娘は大怪我をする。男は怒りを爆発させてやくざを皆殺しにして、自らも死ぬ。定番である。ところが、感情を揺さぶられるのだ。手帳、数学の問題、カメラそのたいくつか、これでもかというくらい粋な小道具が出てくる。日本では韓流の縮小時期に公開されたために話題にならなかったが、見事なチンピラ映画だった。そのようなことが、映画には時々ありえる。どれだけ印象的な台詞を用意できるか。どれだけ印象的な小道具を用意できるか。アイドル新垣結衣の役者としての可能性。その三つが成功したならば、合格点をあげよう、そしてそのような合格点の邦画がそろそろ出現しないと、TVドラマの焼き直しの脚本とアニメ映画と弱小プロの縮小公開映画だけでやってきている邦画に未来は無い、と思うからである。かなり前置きが長くなった。前置きが長くなるときは結論部分はいつも短いのが私の文章の特徴です。結論的にはどうしようもない映画でした。印象的な台詞はとりあえずひとつも無い。ストーリー自体に山が無い。まさか、二人の心理をじっくり見せる映画ならばそれでもいいが、そういうわけでは決して無い。結果、印象的な台詞など生まれようも無い。小道具は結局あの船の模型ひとつだという芸の無さ。このストーリーでガッキーに印象的な演技をさせろ、というのは可哀想な気もするが、宮崎あおいはそんな映画のときでも精一杯感情を表現できていた。新垣にそんな細かい感情表現は無い。早くどこかのお嫁さんになったほうがいい。
2010年08月29日
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「鉄塔武蔵野線」日本映画専門チャンネルが夏休み特集でしていた1997年の作品である。伊藤淳史が小学六年の役をしていて、まだ本当にかわいい。しかし堂々とした主演である。両親の離婚で長崎に引っ越すことが決まっている見晴は、ひとつの冒険を思いつく。鉄塔が一つ一つに番号が打っている。ここにあるのは70番。たどっていくと、いつか1番の鉄塔にたどり着けるはずだ。冒険の仲間のえっちゃんを誘って、自転車で一つ一つの鉄塔の下にビールの王冠を埋めに行く旅に出る。道なき道を行く。予定のない旅をする。秘密の旅をする。たどり着いた先にはきっと何かがある。子供にとっては次から次へと事件が起きるのであるが、大人にとっては無謀で無断な遠出に過ぎない。けれども、女にはきっと分からない。現代の子供にありがちな大冒険にならないところもいい。ある程度、諦め、ある程度無茶をする。冒険に出たくなる。ついこの間、冒険の旅をしたばかりなのに、あたらしい冒険を探している自分に気がつく。「夏の庭-My Frends-」この映画はわたしの生涯マイベスト10に入る映画です。たった一回見ただけの映画で、おそらく15年ぶりに見ました。(DVDが発売されていないのです)詳しいことはここに書いているのですが、なんと私の記憶違いがいっぱい見つかってしまいました。その後読んだ原作本とごっちゃになったようなのです。ともかく録画することができました。生と死をめぐって、小学生の頃不安でならなかったこと「ぼくはいつかは死んでしまうんだ」。そのことの発見とその正体をこの小学生三人組はひと夏で経験してしまう。一生大事にしたい映画です。私も、三国連太郎のように死んで行くかもしれません。そのとき私に小学生三人組はいるだろうか。
2010年08月27日
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1943年、片田舎の村に傷痍軍人が帰還した。「軍神」というおまけをつけて。手と足をもいだ丸太にして。声も無くし。そのとき、村人はどのように反応をするか。親族はどのように反応をするか。子供もいない妻はどのように反応をするか。傷痍軍人はどのように生きてていくのか。監督 : 若松孝二 出演 : 寺島しのぶ 、 大西信満 、 吉澤健 、 粕谷佳五 、 増田恵美 、 河原さぶ 、 石川真希 、 飯島大介 、 安部魔凛碧 、 寺田万里子 、 柴やすよ 編集がとてつもなく稚拙である。あまりにも繰り返しの映像が多い。日本兵の中国女性レイプシーンを何度も繰返すからには、意味があるのかと思ったら、なんとなく繰返しているだけであった。久蔵とシゲ子の絡みのシーンの繰り返しには意味があるのだろう。食べて、寝て、食べて、寝て、その繰り返しを見せるのはいいと思う。しかし、村の対応の繰り返しにはもっと工夫が必要だ。あの内容ならば、一時間で充分だ。この映画は本来たった一つのこと、丸太のようになって帰ってきた軍神を戦前の村に放り込むことで戦前日本の丸裸の日本の姿を見せようというものだろう。結局、軍国主義日本の一面と軍国日本の中国でして来たことの加害性の告発なのである。それはいい。しかし、そのために久蔵はあまりにも人間性を喪失した男としか描かれていなくて、ひとつの記号にしか思えない。よって、1時間24分も間が持たない。シゲ子はよく描けていた。チラシには「前作「実録・連合赤軍」から二年。赤軍の若者たちが立ち上がった背後には、親世代の戦争責任を問い、再び戦争に加担しようとする国家への怒りがあったはずだと若松浩二は言う。」と書いている。そうだとすれば、はたしてこれが「戦争責任を問う」ものになっているのか、「戦争」を描けているのか、私には全く疑問である。若松監督が見えていたのは、軍神をめぐるエピソードと中国での日本兵の残虐性だけなのだろう。それと、女性からの視点に過ぎない。私は本当の悲劇は敗戦から始まるのだろう、とずっと思っていた。ところが、敗戦の日にこの物語は突発的に無理やりに終わる。若松監督に人間のドラマを期待するほうが無理なのだろう。こういう問題を描こうとしたこと、低予算映画だが、思いもかけずベルリン映画祭最優秀女優賞を得て、採算が取れるめどが立ったのだろう、鑑賞料金を1300円に引き下げたことなど、良とすることはあるが、とうてい、今年の収穫に入れることはできない。
2010年08月22日
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実は「ベストキッド」が満員では入れなかったために代わりの映画としてみた作品です。期待もしていなかった作品です。だから、失望もありません。監督 : 小林義則 脚本 : 浜田秀哉 、 俵喜都 音楽 : 服部隆之 出演 : 夏帆 、 寺脇康文 、 戸田菜穂 、 山本裕典 、 遠藤憲一 、 浅田美代子 、 平田満 、 広田亮平 、 大野百花 料理の仕方では、面白くなるかもしれない作品でした。松竹が年間数作品しか自社作品をつくらなくなってから、その企画に入った作品です。もっと面白くするべき作品でした。そうしないと、TVドラマタイアップ作品しか観客を呼べない今の邦画に未来は無い。しかし、残念なことに荒さだけが目立つ作品になってしまいました。テーマは台詞だけで語られる作品になってしまいました。適当にクライマックスを作ってほんわかエピソードで終わらす作品になってしまいました。「所長にはわからんのよ。頑張っても頑張っても結果の出ないものの気持ちなんか」頑張れば報われる、そういう作品が蔓延する中で、現実的にはこういいたい人があまりにも多いだろうし、実際こんな現実が蔓延している世の中で、「報われないけど愛される」稀有なキャラクターとして実話として現れた「きな子」という警察犬とその訓練士を、本当はもっと掘り下げてリアルに描くことができたならば、面白い映画になったかもしれない。残念です。夏帆はもっと丁寧に育ててあげたい女優なのに。
2010年08月22日
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映画界では「踊る大走査線」以前、以後という言葉があるそうだ。それほど、この映画は日本の映画つくりを変えてしまった。ふつう、こういう言葉の前には「良くも悪くも」という枕詞がつくのであるが、やっぱり私の良心が許さない。「ちょっぴり良くも、非常に悪くも」…うーむ、語呂よくないなあ。監督 : 本広克行 出演 : 織田裕二 、 柳葉敏郎 、 深津絵里 、 ユースケ・サンタマリア 、 伊藤淳史 、 内田有紀 、 小泉孝太郎 、 小栗旬 、 北村総一朗 、 小野武彦 、 斉藤暁 良いのは、TVドラマとテレビ局の全面タイアップを取り付けて観客層、特に若者を映画館に呼び戻したこと、悪いのは一定の宣伝と、キャラクターさえつくれば完成度なんてどうでもいいと「製作側」が割り切ることができるようになったこと。ということだけを確かめたくて、見てみたのだが、不幸なことにそれを証明するような本作であった。酷いのは、11年前の映画編の続編としてつくられていて、ことごとくその水準より落としているということだ。一作目はもう少しきちんと落としていたと思う。別に逮捕場面がリアルじゃないということは非難しない。まさに歌舞伎と同じで、分かりきった結末にむけて、登場人物はそれぞれ「見栄を切る」必要はあるだろう。もともと、そういうタイプの映画なのだとみんな承知している。酷いのは、この作品の命であるキャラクターの何人かが滑っているということだ。特に酷いのは小栗旬演じる管理官と柳葉敏朗演じる室井さん。この2人が終盤で沈んでしまったので、みんなの期待している本庁と所轄の葛藤が全然面白くなかった。それと、和久さんの亡霊に頼りきって、「生きている」人間が「魅力的な台詞」を吐かない。そして決定的なのは、一作目であんなにも魅力的だった小泉今日子にあんなにもくさい芝居をさせたということである。彼女が演技派になるきっかけになった映画だけに彼女の扱いは可哀想だ。あらかじめ決められた記事の題名なのであるが、改めて今回は「さらば「踊る大走査線」」といわせてもらおう。もうスピンオフはつくらないでね。
2010年07月30日
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日本映画専門チャンネルで「南の島に雪が降る」(1961年作品、監督 久松静児、脚本 笠原良三)を観た。以前、加東大介の原作に付いては読んで感想を書いたことがある。「南の島に雪が降る」知恵の森文庫 加東大介加東大介といえば「七人の侍」の名参謀役が有名であるが、私にはそれよりも山中貞夫監督の「人情紙風船」(S12年)における縛徒役を思い出してしまう。この映画は日本映画が誇る大傑作で、私には生涯邦画ベスト10に残りうる作品である。当時の前進座総出演で、その関係で加東も出ている。加東があまりにも若かったので、ちょい役ながら覚えていたのである。山中監督はこの直後に徴兵され、還らぬ人となった。そしてその6年後、加東は2回目の徴兵を受け、ニューギニアに向う。時代はそういう時代だった。たかが、芸人ふぜい、いつ死んでもおかしくは無かったのである。運命のいたずらで加東の部隊はアメリカ軍の総攻撃から免れる。しかし、補給路を断たれて七千人の兵士たちは次々と死んでいく。戦意高揚、いや、生きる意欲高揚のために加東たちは芸を持った人たちを集め、「マクノワリ歌舞伎座」を創設する。余興ではない。毎日休まず公演を行うりっぱな「部隊」である。数々の感動的な「場面」がある。「生きる」とはどういう事なのか、「生き甲斐」とはなんなのか、そのエッセンスが淡々とした加東の文章の中に隠れている。さすが、名エッセイスト沢村貞子の弟だけあり、文章は時にユーモラスで、臨場的で、無駄が無く、素晴らしい。隠れた名戦争文学である。この作品は一度東宝で映画化されたそうだが、「生きる」意味を見失っている現代、ぜひもう一度映画化してもらいたい。 (2004年12月23日(木))このときはまだ映画は観ていなかった。DVD化してないので映画の方もまさに隠れた名作となっている。出演俳優は加東大介は一応主演ではあるが、抑えた演技をしている。一人ひとりの兵士を描くことに主力をおいている。何しろ出演者が凄いのである。当時の喜劇俳優総出演と言っていい。伴淳三郎、有島一郎、三木のり平、渥美清、フランキー堺、西村晃、森繁久弥、小林桂樹‥‥‥とここまで書いて気がつく。みんな既に故人となった。彼らはおそらく全員戦争経験者だろう。その人たちが鎮魂の意をこめて舞台で「まぶたの母」をする。紙の雪が降る。やせ衰えた満員の兵士たちからざわめきが広がる。「おい、雪だ」「雪だぜ」遠くから命からがらやってきた一人の兵士はそこで息を絶つ。歌舞伎座が少し立派過ぎるような気がするし、兵士たちの飢餓のリアルな描写は少ない。けれども、あまりリアルにしすぎると1961年当時だと経験者は多かっただろうし、少し生々しすぎたかもしれない。私の母の兄も南の島で亡くなったと聞いている。「本当に秀才で‥‥‥兄が生きていたら‥‥‥」という母の言葉が今も忘れられない。南の島での戦闘の悲惨さは「野火」等の小説で知っている。水木しげるもラバウルで九死に一生を得ている。そのようないわば一般的な認識を元に戦場のなかで突然現れた異世界(ふるさと)を描くこの作品は、まさに鎮魂としての映画になっているのだろう。
2010年07月27日
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えっ、もう終わったの?というのが、最初の感想。今までの宮崎アニメと比べると、壮大な世界観も、ぐるぐると動くストーリー展開もなくて、やっと序章が終わった、これから話が動くぞ、というところで終わった気分である。ところが終わってみれば、60分くらいかなと思ったら既に94分が過ぎていた。つまりそれだけ退屈はしていなかったということなのだろう。監督 : 米林宏昌 原作 : メアリー・ノートン 企画・脚本 : 宮崎駿 声の出演 : 志田未来 、 神木隆之介 、 大竹しのぶ 、 竹下景子 、 三浦友和 、 樹木希林 むかし、虫の世界からみるドキュメンタリーがあった。(『ミクロコスモス』)そのとき初めて気がついたのは、虫から見ると、雨はどんな雨でも水爆弾のように落ちてくるのだということ、猫や小動物は怪獣のように怖い存在だということ、ミクロの世界だから見える素晴らしく美しいものがあるということ。この作品がそのことを訴えてはいないけれども、小さく加工したポットから出てくるお茶は、滴のように張力を持ちながらしか出てこないし、猫は時には恐ろしい怪獣ではあるけれども、人間との橋渡しもする。そして花はやっぱり小人から見ても美しい。そういうことを丁寧に描いているから、ドキュメンタリーを見ているようで飽きなかったのだろう。けれども、ドキュメンタリーの事実の美しさや重みにはやはり叶わない。この映画のテーマは、ミクロコスモスではない。『君たちは絶滅する運命なんだよ』『そんなことは無いわ!』一つの命は最後まで、生きようとしているし、実際にアリエッティは最後まで生きていけるだろう。「絶滅への運命」などというものは実際の当人たちにとっては関係ないものだ。この会話だけが、この映画の云いたかったことなのだろう。極めて真っ当、そのとおりだ。しかし、やはり子供向けの映画である。あんまりあっちゃ困るけど、今までジブリ映画にあったような混沌とした毒は無い。ひとつ気になったのは、お手伝いの春さんは小人たちを『泥棒」と呼ぶ。いままで、いろんなものをくすねていたんだと主張する。アリエッティたちは『借りていたのだ』と主張する。もちろん、借りて返すことのできるものもある。けれども、基本的には食べ物や電気やガスは返すことのできないものばかりだ。けれども断固として『借り暮らし』だと主張する。大人として子供のこの疑問にはどう答えたらいいのだろうか。アリエッティの特集番組はたくさん組まれているようだが、この辺りを解説している番組はとりあえず見かけなかった。後で、公式サイトを覗いたらさすが解説していました。「人はいつからモノを所有するという感覚を身につけたのか。私たちの世界には、様々な生物が共存共栄しています。動物も虫も、そして、植物も。本来、生物が生きていく上で境界線など存在しなかったはずです。自分のものと他者のものを分けることはできなかったはずです。人間も動物も植物も所有できるものなどこの世にありはしない。全て自然の営みを借りて生活していました。自然に寄生して生きているのは人間も小人も同じだったはずなのです。」なるほど、その主張には頷くところはあります。だとすれば、残念ながらこの作品ではその大事な大事なテーマは伝わらなかったといえるでしよう。翔くんがたとえば、春さんの「くすねているんだよ」という非難に対して「違うよ、借りているんだよ」と一言言うだけでなく、もっと説得力のある言葉で反論していたならば、それは鮮明になったかもしれません。もっとも、突然それを言うのは不自然ですから、話の展開のなかで翔くんがそのことに深く理解できる映像がなければなりません。それはありませんでした。この作品が物足りないとすれば、そこなのです。もうひとつ気になったのは(すみません)、スラピーの数の数え方がよくわからなかった。彼は一体自分以外に何人の小人がいると言ったのだろうか。
2010年07月25日
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監督 : 平山秀幸 原作 : 藤沢周平 出演 : 豊川悦司 、 池脇千鶴 、 吉川晃司 、 戸田菜穂 、 村上淳 、 関めぐみ 、 小日向文世 、 岸部一徳 なんともやり切れない男の話である。冒頭から兼見三左ェ門には「絶望」があった。この男の絶望に共感を得ることができなければ、物語の八割は退屈なままに終わるだろう。兼見は妻に先立たれる。それが恐らく冒頭の藩主愛妾刺殺に繋がるのだろう。兼見の行動は藩の政道を正す方向に向ったに違いないが、けっして兼見自身が政治に命を賭けたわけではない。兼見は自殺をするために、自殺は侍は許されないことだったために、傾城の連子を殺したのである。(関めぐみはキチンと存在感を出していた。助演女優として生きることを定めたのか演技に幅が出てきた)藤沢ファンならば、この彼の絶望は藤沢の最初の妻を病気で亡くしたときの絶望感を描いたのだ(侍に自殺が許されないように、藤沢には娘がいたために自殺は許されなかった)と、すぐにピンと来るのであるが、一般観客にどれだけ兼見の絶望感が伝わったのかは疑問である。しかし、脚本的にはそこだけが「弱い」処であり、その他は、むしろあの短い原作をよくもマアここまで膨らまし、しかも分かりやすいように時系列を変えている、と感心した。(あと映像的に不満なのは血糊があまりにも多いこと)いかに悪女といえども、一介の物頭が側室を城中で殺したのだから、切腹いや、斬首が当然であった。しかし、兼見は思いもかけず、一年の蟄居の後、3年後禄高を回復して近習衆頭取として藩主の傍に仕えるようになる。この映画は120分の話のうち、100分まではほとんど話に動きが無い、という特異な映画である。果たして藤沢が生きいたならば、テーマのこともあり、こういう映画にゴーサインを出したか疑問だ。しかし、その100分で平山監督は実に忠実に当時の武家社会の所作、風景、空気を描ききった。ひとりもアイドル系の役者を使わなかったことで、観客は極めて高齢になってはいたが、そのぶん完成度は高い。前の藤沢映画「花のあと」の某女優と比べたら、池脇千鶴の所作、ほんの微かに見せる表情の変化が素晴らしく、全然退屈しなかった。ほとんど意思を露わにはしないが言葉の語尾に意思を持たせているし、初めて結ばれた次の朝での里尾の頬の輝き。「必死剣鳥刺し」という秘剣は「その技を繰り出した時点で、恐らく剣者は半ば死んでいましょう」(兼見の説明)というものであるという。後で考えると、冒頭の時点で兼見は「半ば死んでいる」状態だったのだ。鳥刺しをネタバレなしで説明するとすれば、その半ば死んでいる状態の中で、「真の敵とは何か」を「定める」という心の持ち方がこの秘剣の「極意」だったのかも知れぬ。原作をあとで立ち読みしてみた。里尾(池脇千鶴)を田舎に遣ったのは、兼見が死を意識したからだと思っていたが、兼見は「もし密命を果たし終えたならば、おそらく身分違いということもあり再び蟄居を命じられるだろう、そのときならひっそりと里尾と暮らすことができる」という思惑であったとわかった。そうだとしたら、兼見は三年後やっと妻の幻影から解放されたのである。生きようと決意した途端に悲劇が訪れるというのは思うに、ドラマの常套ではある。藤沢周平は、初期は例外として、たいていは「暗闇の文学」は書かなかった。いつも「夕暮れ」や「曙」の文学を書いていたように思う。原作と同じように、映画でも里尾が田舎道で兼見を待つシーンで終わる。そのとき既に兼見は死んでいるのではあるが、兼見の子供がしっかりと里尾の腕に抱かれている。夕暮れの美しいシーンであった。現代は「絶望」が淀んでいる社会である。秋葉原や広島マツダ正門前での凶行。そういう時代背景を元に恐らくこの映画が出来上がったのだろう。そういう時、せめて「狂行」に走るのではなく、「真の敵を見定めて」死んだ気で剣を振るえ ! と、同じように淀み絶望している人たちに言いたい。この映画がつくられた意義はその辺りにあるだろう。
2010年07月21日
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日本映画専門チャンネルで見ました。七月はあと何回か繰り返しするみたいです。「大番」「続大番」(1957作品)原作 獅子文六 監督 千葉泰樹 白黒作品。戦前の株屋、ギューちゃんこと赤羽丑之助の半生を描いたシリーズ物である。主演 加東大介。姉の沢村貞子は「弟は子役のころから天才だった。本当に役者の為に生まれてきたような子なの」とべた褒めであった。加東大介といえば、「七人の侍」の官兵衛の「古女房」七郎次を演じて印象深い、というか、それぐらいしかあまり記憶にないが、この大番シリーズ他いくつかの主演作品も撮っている。50年代の映画界にとってはなくてはならない人材だったし、スターだった。「春との旅」で名優があえて普通の老人を演じたうち、主演の仲代達矢はギューちゃんの弟分の相棒として出ている。助演ですらない。仲代の姉役として出ていた淡島千景は主演女優。ギューちゃんを一貫して助ける芸者として出演。ふたりとも、匂うように若い。思えば、2人とも加東と同年代なのである。そう思うと、50年代、60年代の俳優で残っているのは本当に数えるぐらいしか居ないし、その人たちがいま次々と鬼籍に入りつつある。ギューちゃんは学は無いけれども、相場師としての生来の感とひとなつこい笑顔で、ときに何十万、何百万円(当事の相場、現代ではおそらく何億という規模だと思う)も儲け、日中戦争で一夜にして何百万という借金をこさえる。「相場の世界」を悲喜こもごもに描いているが、あまり暗くないところがヒットした原因なのだろう。相場の世界はいわば日本版「アメリカンドリーム」の世界である。しかし、日本は伝統的に「金持ちになる」ことは「良くないことである」という「国民的感情」があるみたいで、「大番」も「続大番」も常に一文無しになった時点で終わっている。日本らしい「アメリカンドリーム」である。そのあと「続々大番」(1957)「大番完結編」(1958)に続いているらしい。つまり一年と少しの間に四本作られている。TVがない時代、まさに映画がテレビドラマと同じ役割を持っていたという証拠である。
2010年07月21日
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あらすじ19歳の孫娘・春と、北海道の漁村・増毛で暮らす74歳の忠男。かつて漁師だった忠男は、妻と春の母である一人娘にも先立たれ、兄弟たちとも疎遠になっていた。しかし、春が勤めていた小学校が廃校になり、春は都会へ出たいと言う。そこで、忠男は兄弟たちの家に居候するために、春とともに兄弟たちの家を訪ねて行くことにする。最初に訪れた長兄・重男は、忠男の申し出を拒んだ。実は、重男は老人ホームへの入居が決まっていた…。(goo映画より)「いいかい、春ちゃんだけは犠牲にしちゃいけないよ」何もかも分かって姉は云う。神妙に頷く忠男。「分かっていないんだよ、もう一回云うよ…」監督・原作・脚本 : 小林政広 出演 : 仲代達矢 、 徳永えり 、 大滝秀治 、 菅井きん 、 小林薫 、 田中裕子 、 淡島千景 、 柄本明 、 美保純 、 戸田菜穂 、 香川照之 昔の若いころのニシン漁が忘れられない、小学校しか出ていない、おそらく周りに色々と迷惑もかけただろう、漁一筋で生きてきた男。仲代達矢は思えば、昔から無頼派の男ばかりを演じてきた。知識人であっても、スマートに事を運ぶことを知らない、一匹狼が多かった。その名優が、「150本の出演作中、5本の指に入る脚本」といって出演した本作はまさに今まで仲代が丸裸のまま演じたかのように134分最初から最後まで出ずっぱりで、一身に男の「老い」を演じて見せた。思いもかけず、ロードムービーである。増毛、気仙沼、鳴子、仙台、北海道静内。それぞれ、老いを迎えつつある日本の家族の、いい所も悪いところも、裸のままで見せようとする監督の姿勢に共感を覚える。この映画の射程は長い。日本の老いを見つめようとするとき、何度でも顧みられるべき作品だと思う。足の悪い忠男を見て育ったせいか、いつもがに股で歩く19歳の孫娘を演じた徳永えりは総じてがんばってはいた。ところどころ、粗は目に付いた。周りの俳優がすごいのだから仕方ないかもしれないが、残念である。ただし、最初どこにでも居る田舎娘に見えた彼女が、人と真剣に相対した時に大きな目でみせる表情には、どきりとするものがあった。脚本的には最後のシーンは、気持ちは分かるし、早かれ遅かれあの結果になったとは思うが、しかし取ってつけたような終わりかたであり、この作品の品格を落としたような気がする。息子たちが言うがままに今度老人ホームに二人して入るのだという大滝秀治と菅井きんの夫婦、生活に疲れた食堂のおばさんが実に似合っている田中裕子、一番のしっかり者で苦労人、時折淋しさも滲ます淡島千景、不動産の失敗で隠遁生活をしているが意地を張り通す柄本明と美保純の夫婦、泣き崩れる娘を躊躇いながらもしっかりと抱きしめる香川照之、それぞれがワンシーンながらも印象深いシーンを見せてくれてなかなか良かった。人は人に寄り添って生きていく。良いときも、悪い時も―。
2010年07月20日
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六月に映画館で見た映画は9本でした。なんと珍しく記事にしていない(つまり語るに値しない)作品が一本もありませんでした。ひかりTVで見た昔の映画で、語りたい映画は三本です。「真昼の死闘」クリント・イーストウッドに多大な影響を与えた監督であるドン・シーゲルの作品を初めて見た。細部にウィットに富んだみごとなウェスタン。(ちょっとあらすじ)メキシコ北部の荒地で3人の男が1人の修道女に暴行を加えようとしていた。順番を決めようとくじ引きをしていると、銃声とともにダイナマイトを持った男ホーガン(クリント・イーストウッド)が現れた。そして、アッという間に3人を射ち殺した。頬はこけ、むさくるしい鬚面だが凄腕だ。女はサラ(シャーリー・マクレーン)と名乗り、姉が売春婦なので、その罪を償うために尼僧となったと言う。それなら尼僧らしく死体を埋葬したらどうだ?と言うと、サラは彼の頬をいやというほどひっぱたいて、シャベルを取った。ヘンな尼僧である。ホーガンは、自分はメキシコの革命ゲリラに雇われている流れ者で、チワワのフランス警備隊を撃滅する作戦に加勢し、成功すればたんまり褒美をもらえるのだと話し、サラは、私はチワワの生まれだと相槌をうつ。一緒に旅を続けるうちに、ホーガンはサラを使ってフランス軍の動きを探ることにした。その後のクリントの作品で何度も描かれるアウトローと謎の美女との組み合わせ。女性を常に対等に描こうとするクリントの姿はここから来ているのだろうか。単純な物語の中に、登場人物たちの人生を垣間見せるような仕掛けが随所に仕掛けてあって、物語に奥行きを与えていた。こんな娯楽作品の基礎があるからこそ、クリント監督は深刻なテーマを描いても、わかりやすくて退屈しない作品をつくるれるようになったのだろう。この弟子ありて、この師匠あり。「男一匹ガキ大将」数多くつくられた漫画原作の映画のひとつであるが、ビデオ、DVD共に未発売なのである。当然未見だった。マンガで言うと、全20巻(だったかな)のうち2巻ぐらいまで。水戸のおばばがちょっと出てきて、消えたので、本当は続編がどんどん作られる予定だったのだろうが、頓挫したのだろう。戸川万吉が高校生のくせしておっさん臭い。片目の銀二はどうしてもおっさんにしか見えない。仕方の無い出来ではある。(日本映画専門チャンネル)「翔んだカップル」(1983)相米慎二監督福岡からの転校生、勇二は東京の叔父の空き家の一軒家に住むことになった。そこの間借り人が何かの手違いで同級生の圭という女の子だった。心ならずも同居生活が始まる。薬師丸ひろ子と鶴見真吾がまだ16歳のころの作品。少年マガジンがスポコン、劇画路線から決別した80年代の柳沢みきおの代表作である。勇二が部活でボクシングをするのはおそらく偶然ではない。「あしたのジョー」への強烈なアンチテーゼなのである。そして、この頃しらけ世代、新人類は最盛期を迎えていた。韓国ドラマならば、徹底したラブコメになるところをウジウジとした性青春ものになるとろが、日本映画の特徴なのだろう。しかし、薬師丸ひろ子の本当にさまざまな喜怒哀楽の表情が魅力的で、なおかつ監督の演出により、漫画よりは青春して終わった。退屈しなかったということではなかなかの作品であった。(日本映画専門チャンネル)
2010年07月03日
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同じ西原恵理子の自伝的マンガが原作で、同じ仲良し三人の女性三人組が出てくる話といえば、「女の子ものがたり」という愛媛の海岸の町が舞台になった作品があった。前作はビンボーがテーマだった。今回も当然彼女たちは貧しいのだけど、おそろしいほどに彼女たちに生活感は無く、テーマは別のところにあることが分る。菅野美穂と池脇千鶴と小池栄子。演技派がこうも揃ってくれるとさすがに文句のつけようのないものが出来上がる。みんなそれぞれドキッとする表情を見せる場面があった。監督 : 吉田大八 原作 : 西原理恵子 脚本 : 奥寺佐渡子 主題歌 : さかいゆう 出演 : 菅野美穂 、 小池栄子 、 池脇千鶴 、 宇崎竜童 、 夏木マリ 、 江口洋介 、 畠山紬 三人ともバツイチ以上。みんな男運がない。派手なのは小池栄子のみっちゃん。彼女は浮気と金の無心でだらしない男をひき殺しそうになる。身体中傷だらけになっても、明るく立ち直る。一方、もう何人も何人も男に捨てられて暴力で別れたともちゃん(池脇千鶴)は、今度は殴らない男を捕まえたと思ったらギャンブルに溺れて行方不明。でも彼女はいつも平常心だ。そして、バツイチ子連れで戻ってきたなおちゃん(菅野美穂)は、恋ばなで花が咲くパーマネント野ばらで唯一まともに見える。抑えに抑えた演技が効果を表す最後のショットが素晴らしい。恋をしないでは生きていられない。みんなそうだよ。店に来る70歳を過ぎたおばちゃんたちも、おかあちゃん(夏木マリ)に寄り付かない夫(宇崎竜堂)もみんなそう。だから、可笑しくも哀れであるけれども、みんな優しく見守っている。そうだ、恋は見守ってあげることしかできない。恋は本人の問題だから。「わたし狂っている?」「そうだとしたら、この町の女はみんな狂っているよ」今回は遂に西原の故郷がそのままロケ地に使われたらしい。(宿毛市かしら)
2010年06月30日
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久し振りに新作『鬼平犯科帳スペシャル ~高萩の捨五郎~』を見た。最近昔のシリーズをひかりTVで見ているので、俳優たちがさすがに年を取ったのを感じてしまうが、みんなほとんど変わらぬ役をやっていて、それも嬉しい。(長谷川平蔵を「てっつぁん」と言って憚らない彦十の役が猫八師匠から長門裕之に変わってしまったのはいかんともしがたいが)(ちっょと粗筋)上州信州、そして越後などで派手な盗みを働いていた妙義の團右衛門(津川雅彦)。なぜか江戸では悪事を働いていない團右衛門だったが、その嘗め役であった高萩の捨五郎(塩見三省)が江戸にいるのを長谷川平蔵(中村吉右衛門)らが発見する。 捨五郎は侍に因縁をつけられていた親子を助けるために足に大けがをしてしまう。後をつけていた平蔵たちに助けられ、やがて、平蔵が火付盗賊改方の長官だと知った捨五郎は、平蔵の密偵になることを決意、團右衛門を捕らえるために奔走するのだったが…。90分のスペシャルである。冒頭上州で盗賊働きをする團右衛門の姿を描く。彼が盗み先から出てくると冷たい突風が吹きすさぶ。全体として映画にしてもいいようなディテールを積み重ねた映像であり、見応えがあった。平蔵は捨五郎が自らの危険をも顧みずに百姓を助けたのを見て、情をかけることで、更正のきっかけを作る。『善いことをしながら悪さをする、悪さをしながら善いことをする』そういう人間の弱さと素晴らしさを常に描いてきた池波正太郎の世界を見事に体現していた。びっくりしたのは團右衛門の江戸での『女』を演じていたのが遠野なぎこだったこと。一時は清純派で映画での主演女優もつとめた事のある彼女が、いわばカネと色に溺れる『汚れ役』を演じていた。役名としては、小さくしか載っていなかったが、團右衛門が最終的に捕らえられる原因になった女なので重要な役なのである。それはそれで見事に成りきっており、助演女優としての彼女の『覚悟』を見せてもらった。
2010年06月19日
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数日前までは、日本代表の三連敗でさえ覚悟していた私(たち)ですが、昨日のカメルーン戦は素晴らしかった。日本がちまちまとパス回しをし、ちまちまと防御する。組織サッカーの醍醐味を味わらせていただきました。へんなプレッシャーに押しつぶされることなく、『サッカーを楽しむ』と言ってはばからなかったイレブンたち。日本代表のこの一戦への意気込みにちょうどこの前見た映画の『戦うということはどういうことか』への理想形が現れていたと思います。「武士道シックスティーン」監督 : 古厩智之 出演 : 成海璃子 、 北乃きい 、 石黒英雄 、 荒井萌 、 山下リオ 、 高木古都 、 賀来賢人 、 波瑠 、 古村比呂 、 堀部圭亮 、 小木茂光 、 板尾創路 「書道ガールズ」と展開は同じだし、成海はやっぱりファーザーコンプレックスのストイックな求道者。でも、私にとってはこっちのほうが好みである。監督はきちんと彼女たちの悩みに向き合っている。勝ち負けってなんだろう。私は何のために剣道をしているのだろう。それをそのまま、勉強とか仕事とかに変えたならば、みんなの悩み(私の悩み)になる。16歳、彼女たちは「好きだ」ということだけで剣道をすることができる。西荻のお父さんは言う。「勝ち負けと好きだという気持ちを天秤にかけてみろ。好きだ、という気持ちのほうが重かったならば続けろ」「そんなことわかっているよ」「わかっていないから悩んでいるんだろ?」物事は複雑じゃない。物事はもっと単純だ。香織のお父さんは言う。「お前の道だ。お前が決めろ」(書道ガールのお父さんよりよっぽど物分りがいい)監督はいまだDVD化されていない「まぶだち」で、教師に強制された「勝ち負け」に潰された中学生たちを描いた。今から10年前のことだ。それ以降、もうあんな暗い話を作ってはいない。でも私にとってのベスト映画(たぶん生涯ベストテン映画に入っている)は「まぶだち」なのである。監督はあの映画の答えを探して「ロボコン」やら、「ホームレス中学生」とかを作ってきたのかもしれない。単純に『仕事を楽しむ』そういうことを『選べ』ばいいのだ。成海は頑張っているけれども、ちょっと単調な演技。北乃きいはこんな役をすればはまり役である。ただ、残念なのは、素顔をさらしているときの彼女たちの試合はやっぱりインターハイに出場するような技量ではないと、思える。一番肝になる、西荻早苗が初めて磯山香織に勝った時の「面」はいくら虚をついたといえ、高速処理をして描いてほしかった。
2010年06月15日
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オランダVSデンマーク戦が終わりました。カメルーン戦が始まるまで急いで書かせてもらいます。昨日の日曜は月一回の映画サークルの『語る会』でした。時間の半分は、元スポーツ実況中継もしたこともあるアナウンサーもいたこともあり、今年のW杯で終始してしまいました。『韓国は強かったねえ』『強かったねえ』『アルゼンチンにさえも勝てるのではないくらい強かったよ日本が二盾を食らったのも当然だね』『日本はどうしようもないね』『今年は本当に盛り上がらないねえ』『早く代表が決まったのがいけなかったのではないかな』‥‥‥とまあ取り留めのない話でした。話がなかなか本題に入らないときには、例によって中味は薄い記事になります。と、いうことで本題。『告白』原作未読なのですが、こんな内容の作品だったんですね。中島監督はいつも『内なる痛み』をカラフルにエンタメとして描き続けてきましたが、監督の好きな素材だとは思います。監督・脚本 : 中島哲也 原作 : 湊かなえ 出演 : 松たか子 、 岡田将生 、 木村佳乃 でもやっぱり私には響かない作品でした。中心人物の14歳の中学生三人が圧倒的な演技力を持っていたとしたら、素晴らしい心理サスペンスが出来たかもしれません。彼らはよくがんばってはいましたが、結局ストーリーをなぞるのが精一杯のように感じました。彼らに複雑な心理描写は無理でした。そもそも監督でさえ分っているのでしょうか。14歳の中学生という"怪物"の正体を。中学生の彼らに殺人者の心理を演じて見ろというほうが無理なのかもしれません。この映画でくっきり描けたのはやっぱり松たか子の"悪意"です。母性を殺された女の"悪意"は十二分に描けていました。しかし、反対に言えばそれだけ。ありふれた母性の悪意のみが描けたエンターテイメントな『暗い映画』だったわけです。小説としてならば面白かったのかもしれませんが、映画としては私は中途半端に感じたのでした。そろそろカメルーン戦が始まります。と、言うわけで今日はこの辺で‥‥‥。
2010年06月14日
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小池朝雄(やくざの組の兄貴分)「おまえもバカだ。アメリカの白はニグロとは間違っても寝ねえって話だ。なによりも体臭が違うからだ。タクアン生かじりしているやつと、セロリに塩かけているやつとは、身体の匂いも違うだろうよ」と、吉永小百合から預かった手紙の束を燃やす。浜田光夫「(泣きそうに)兄貴!」監督 中平康 原作 藤原審爾 出演 浜田光夫 (次郎) 吉永小百合 (真美) 平田未喜三 (塚田) 小池朝雄 (花井) 和泉雅子 (和枝)上流階級のお嬢さんと街のチンピラとの恋。韓国のTVドラマではよくある階級差の恋であるが、昨今の日本では既に「絶滅」した設定ではある。アルジェリアの大使の家がなぜか上流階級として描かれる。昔はそういう人しか「大使」になれなかったということなのか。また、現代ではアメリカでこのように言えば、鼻で笑われるという状況ではある。昔、30年代のやくざの中では、このような体臭云々の話が本気で信じられていたのだろう。また映画の観客もある程度はそれを信じていたのだ。そういう時代なのである。ああ、このチンピラは最後はお嬢さんを助ける為に死ぬのだろうなあ、と思いながら見る。(その予想は外れたのではあるが)10代で丸顔の吉永小百合がまっすぐな目をして浜田を見つめる。おそらく初めて恋に落ちて、もう20センチ幅の前しか見えないお嬢さんなのである。そういう役を演じて吉永小百合はものすごい存在感あり。本来ありえない話ではある。でも、これをリアルタイムで見た人には、衝撃だったのかもしれない。浜田光夫は駆け落ち先の安アパートで「村田英雄って知ってるか。いい調子で謳うんだ」と「王将」の歌をフルで謡う。吉永小百合が泣く。どうしたんだ、と浜田が聞く。「すごく幸せなんです。だってとっても悲しく歌うんですもの」「俺だって幸せだよ」そこへ部屋いっぱいに響く汽笛!(もちろん東京である)クイズを始める二人。「英語で明日降るものってなんだ」「わからねえや」「雪よ!ツゥモロウ」もう一度汽笛が鳴る。そして二人は雪国に行くのである。雪遊びをする二人。この映画、ぜったい、韓国の恋愛ドラマの(特に「冬のソナタ」)監督は一度は見ていると確信した。確かに少女趣味の展開ではあるが、細部に「熱」がある。雪国に行くのも、その前にお嬢さんが書いた手紙が前振りになっている。この映画、映画館で見た人は満足して映画館を出ただろうなあ、と思う。この前稲垣の「恋空」という恋愛映画をひかりTVで見た。いわゆる「仕掛け」「印象的なせりふ」がひとつか二つしかない。それじゃあ、駄目だ。「熱」を持って映画をつくってほしい。少年少女を映画館に呼び込むために。
2010年06月12日
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勝の座頭市をまだ見たことがない。おそらくこの映画はその過去作品をよく見た人に対する「決着」の一作なのだろう。そうだとしか思えない。そうでなければ、この作品の意味がない。長い長い座頭市物語の最後の物語なのだ。だからああいうラストでよかったのである。監督 : 阪本順治 原作 : 子母澤寛 出演 : 香取慎吾 、 反町隆史 、 倍賞千恵子 、 加藤清史郎 、 高岡蒼甫 、 ARATA 、 工藤夕貴 、 寺島進 、 中村勘三郎 、 豊原功補 、 ZEEBRA しかし、私のような映画ファンでも勝の座頭市を見たことがないのだから、やはり不親切というものだ。座頭市の愛も、アウトローとしての生き方も、悲しみも、わからない。何もかも詰め込みすぎて、何もかも伝わってこないのである。香取真吾はがんばってはいるが、やはり目が見えているのだとしか思えない。
2010年06月12日
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しみじみよかった。真正面、真面目に作っている。最初あまりにもあっさり仕事を辞めるので大丈夫かなあ、と思ったが、ちゃんとフォローしているし、むしろ転職してからのことをしっかりと描くことで説得力のある話になったと思う。監督 : 錦織良成 出演 : 中井貴一 、 高島礼子 、 本仮屋ユイカ 、 三浦貴大 、 奈良岡朋子 、 橋爪功 、 佐野史郎 、 宮崎美子 、 遠藤憲一 、 中本賢 、 甲本雅裕 、 渡辺哲 、 緒形幹太 、 石井正則 、 笑福亭松之助 大手家電メーカーに勤める筒井肇は、昇進も決まり順風満帆なサラリーマン生活を送っていた。そんな矢先、故郷で一人暮らす母親が倒れたとの知らせが入る。追い打ちをかけるように、入社同期の親友が事故死したとの連絡が…。久しぶりに帰省した故郷・島根で、仕事に追われ家族を気遣うことなく走り続けてきた日々を顧みる。そして彼は決意する。子供の頃夢見ていた“バタデン”の運転士になる事を。この粗筋を見ると、もう映画を見たような気分になってしまうが、実はそうではない。単純な話の中で、どれだけ細部にこだわるかによって、セリフではなくて登場人物の人生をも垣間見せるような映像を作ることが、どれだけ大切かということなのである。TVではなく、映画を見に来る人は、肇の友人関係の中にそういう人生を垣間見るのであり、家の佇まい、娘や妻との簡単なセリフのやり取りの中に人生を見、そしてひとつひとつの電車の客とのやり取りの中にもそれを見るのである。だからちゃんと思いがけずに泣かせるし、ちゃんと納得するエンドロールを見る。誰も途中で席を立つものはいない。50歳になったこの歳でこの月に島根で再出発する映画を二本観た(もう一本は「川の底からこんにちは」)。どちらも傑作。これも運命だと思う。
2010年06月10日
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今日で二週間の最低賃金生活が終わりました。約6000円弱の赤字に終わりました。毎年言っていますが、食べるだけならば、予算以内で終わらすことは出来ました。しかし、生きるということは、「食べるだけ」ということではないのです。それは気持ちの問題を言っているのではなくて、物理的なことを言っているのです。具体的には、病院に通って4000円弱、突然台所の蛍光灯が切れてそれを買ったのですが、量販店で買ったにもかかわらず1480円もかかったこと。これは生きるためには必要不可欠の出費です。詳しくは、また後日書きたいと思います。去年はレンタルDVDに、最賃期間でも1000円近くかけましたが、今年はひかりTVに契約したということもあり、TVで昔の映画三昧でした。日本映画専門TVで黒澤明特集をしていて、その一番目は「姿三四郎」のそれも最長版でした。黒澤「姿三四郎」は検閲によって大幅にカットされています。この間、ロシアで12分間の失われた映像が見つかったらしい。それを本邦初公開で見たわけである。(91分になる)見つかった部分は画像が荒い部分。たぶん桧垣源之助(月形龍之介)がネチネチと村井半介(志村喬)の娘小夜に言い寄るところや、桧垣が村井の代わりに姿と試合がしたいと警察所長を使って詰め寄るところだと思う。あまり全体には影響のないところではあるが、桧垣の粘質性不気味さが良く現れたところである。この映画は(黒澤映画の特徴でもあるのだが)動と静の緩急が素晴らしい。特に素晴らしいのは冒頭矢野正次郎(大河内伝次郎)への闇討ちの場面、そして有名な姿(藤田進)が寺の池に飛び込む場面である。残念なのは、姿が飛び込む直前矢野が柔道の真髄とは「○○である」と言ったところがついにカットされたままであるということだ。姿はそれに反発して、「先生が死ねといったら死にます」と言って池に飛び込むのではあるが、柔の道の何たる過を説いたこの場面がないと竜画点睛を欠く思いではある。その真髄とは、1943年の段階、時代に合わない言葉だったのだろうか。
2010年06月03日
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満島ひかりと宮崎あおいは生年月日が全く同じである。1985年11月30日。これが運命でなくて、何が運命というのだろうか。かたや、いまや国民的女優として若手女優ナンバーワン。かたや、「愛のむきだし」でモントリオール・ファンタジア国際映画祭 最優秀女優賞を含む9つの女優賞をとった新進女優である。ところが私は不覚にも今回初めて彼女を知ったのである。実は「デスノート」(2006)で夜神明の妹役をしていたらしいのであるが、全然気がつかなかった。今から考えると、あの役は絶対目立ってはいけない普通の高校生の役なのでそれも当たり前とは言える。金子修介監督は彼女の実力に気がついたのか、その後すぐに「プライド」でダブル主役に抜擢するのであるが、残念ながらこれは未見。しかし、今回初めて彼女を「発見」し、その実力はよくわかった。不遜ながら「ガラスの仮面」にたとえるならば、全体の雰囲気とは裏腹に宮崎あおいは天才肌の北島マヤであり、満島ひかりは現在はどん底から這い上がるタイプの演技が多いが、努力家の姫川亜弓タイプであろう。外見は北島マヤのタイプなのだが。これから2人をずっと注目していきたい。今回は去年一番笑った宮崎あおいの「少年メリケンサック」に劣らない爆笑コメディである。監督・脚本 : 石井裕也 出演 : 満島ひかり 、 遠藤雅 、 志賀廣太郎 、 岩松了 、 相原綺羅 、 菅間勇 、 稲川美代子 (ちょっとあらすじ)上京して5年、仕事も恋愛もうまくいかず妥協した日々を送っていたOLの佐和子。そんな彼女の元に、父が末期がんで倒れたという知らせが届いた。佐和子は田舎に戻り、実家のしじみ工場を継ぐことに。しかし工場は倒産寸前で、パートで働くおばちゃんたちからも相手にされない。さらについてきた恋人にまで浮気されてしまう始末。そんな追い込まれた中で佐和子は工場を立て直す決意をし……。じつはこの映画なかなかタイトルがあがらない。「川の底からこんにちは」というタイトルが上がっても、なかなか実家の島根のシジミ工場には行かない。けれども、島根に行くまでの満島ひかりがすごい。5年の東京生活の知恵なのか、4人の男に捨てられた諦観なのか、決して感情を表に出さない、「仕方ありませんね」が口癖。怒らない。けれども恋人が「現実逃避」で実家に付いてきたこともすぐに気がつく「鋭さ」も併せ持っている。「ロルナの祈り」でも紹介したが、典型的な「むっつりスケベ」型である。これが実に良く演じられている。これがあるからこそ、後半の「開き直り」が展開がわかっていても、素晴らしいのである。後半の「開き直り」は凄い。まずはこの歌を聴いて欲しい。木村水産社歌(2)めんどくさい方にはとりあえず歌詞だけ紹介。上がる上がるよ消費税 金持ちの友だち一人もいない来るなら来てみろ大不況 その時ゃ政府を倒すまで倒せ倒せ政府 シジミのパック詰めシジミのパック詰め 川の底からこんにちはいや、けっして社会派映画じゃありません。社歌といいながら、木村水産の文字が一つもない。果たしてどのようにこの歌が生まれ、使われるのかは映画を見てのお楽しみ。けれども、私は携帯でダウンロード出来るならぜひともしたいと思う。この歌のインパクトはちょっと凄い。この作品のテーマは実はこの社歌の二番にある。一度や二度の失敗と 駆け落ちぐらいは屁の河童駄目な男を捨てられない 仕事は基本つまらない中の下の生活 所詮みんな中の下 楽しいな楽しいな※佐和子のセリフ(中の下 中の下 どうせみんなたいした人生じゃないし 鼻っから期待してませーん)シジミのパック詰め シジミのパック詰め 川の底からこんにちはもちろん私も中の下。共感しまくり千恵子です(すみません)
2010年05月29日
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