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目の症状は一進一退の感じです。何故かスッキリせず鬱々たる日々を過ごしています。たくさんの皆さんにお見舞いの書き込みをいただきありがとうございます。皆さんのブログ訪問までもうしばらく時間をください。 そういう中で、雑草園を見ると目に飛び込んできたのが、今年も秋を告げる彼岸花でした。放っておいてもこの季節になると毎年秋を知らせてくれる彼岸花!しかし、今日の最高気温予想は33°c、明日は34°c 。本当に秋はいつきてくれるのか。
2018.09.16
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2,3日前から右目の涙腺辺りが痒くなり、今日は病院に行って来ました。病名はハッキリ言われなかったのですが「お薬手帳」には「細菌による感染症を治療する抗生物質の点眼薬です」と書かれています。 治癒するまで、ブログを休みます。皆さんへの訪問もしばらく出来ないと思います。
2018.09.10
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一曲目 「富士山第肆」(ふじさんだいし) 作詞 草野 心平 作曲 多田 武彦 男声合唱曲として有名な曲であるが、混声合唱としの希望も多く混声版としても編曲されてい る。組曲「富士山」の中の一曲。二曲目 「秋のピエロ」 作詞 堀口 大學 作曲 清水 脩 この曲も男声合唱曲として不朽の名作。 昭和23年の第一回全国合唱コンクールの課題曲。組曲「月光とピエロ」の中の一曲。
2018.09.08
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村田 新八(むらたしんぱち) (1836~1877 明治10年9月24日没 享年42歳) 高橋八郎の第3子として生まれ、村田十蔵の養子となる。文久2年(1862)寺田屋騒動に連座して西郷は徳之島(のち沖永良部島)、村田は喜界島へ流罪となる。復帰後、王政復古に尽力した。また新選組と剣を交えた。維新後は、鹿児島常備隊の砲兵長。明治4年宮内大丞となり、全権岩倉具視一行と欧米を視察し、明治7年に帰国した。勝海舟は村田を「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり」と賞賛したが西郷に従って西南戦争の挙兵に加わったため政府を驚かせたという。 桐野、篠原、村田の3人は大西郷の三将とも言われるくらいである。西郷は「村田新八は知・仁・勇の三徳を兼備した士。諸君、この人を模範にせよ」と言っていた。西郷とは刎頚の交わりだった。 また美術を愛し、和歌や漢詩もつくる才人だった。音楽も好きで、家にいるときはいつも風琴(アコーデオンやコンサーティーナ)を手放さなかったという。西南戦争従軍中も常に持ち歩いたという説もあるようだ。 西郷とは刎頚の友で、西郷が倒れたあと、「ああ、天なり」と長嘆し、涙が下る間もなく、銃弾があたり、立ったまま腹を切ったという。西南戦争では薩軍2番大隊長を務めた。 次は永山盛弘(弥一郎)の墓 永山 盛弘(弥一郎)(ながやまもりひろ やいちろう) 天保9年(1838)~明治10年(1877)没 享年40歳 永山休悦の第1子として薩摩国鹿児島郡荒田村(現在の上荒田町)に生まれる。若くして勤王の志を抱き奔走した。文久2年(1862)有馬新七らに従って京都の上り挙兵に加担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であったため処罰を免れる。 明治2年(1869)に鹿児島常備隊がつくられ大隊の教導となった。明治4年(1871)藩が御親兵を派遣した際には、西郷に従って上京し、陸軍少佐に任じられた。しかし、ロシアの東方進出を憂えた弥一郎は、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に趣いた。明治6年(1873)征韓論敗れたと言われる西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職した時も、彼らと行動をともにすることはなかった。明治8年(1875)軍に復帰して陸軍少佐に任じられ、屯田兵を率いたが、政府が樺太・千島交換条約を締結したことに憤慨して、職を辞して鹿児島に帰った。永山は政府高官を無能とはせず、大久保利通や川路利良らに対し一定の評価をし、私学校に与しなかった。 明治10年(1877)中原尚雄の西郷暗殺計画を聞いた会議に同席し、憤慨したものの出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京には反対の態度をとる。しかし桐野利秋の熱心な説得で漸く同意した。弥一郎は3番大隊長となって、10箇小隊2000名を率いた。4月12日熊本の緑川から川尻を攻略するため進撃を開始したが、砲弾の破片を浴びて足腰に重賞を負い熊本の二本木本営に護送された。しかし、翌13日、苦戦を聞いて人力車に乗って御船に出陣、川路少将の別動第3旅団との戦いの指揮をとった。そして矢尽き刀折れるまで戦い、四面楚歌の状況に陥った。そこで近くの農家の老婆に数百円を渡し家を買い取り、自ら火を付け自刃した。撤退を勧めにきた税所左一郎に介錯を頼んだとも言われる。 参考資料 「かんまち本」その二 ウィキペディア 「激闘田原坂秘録」肥後評論社
2018.09.04
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明治10年9月1日、今から141年前、西郷隆盛が鹿児島に退却してきたこの日に「上町維新まちづくりプロジェクト」主催の「140年前にタイムトラベル! 西郷さん 城山へ向う・・・」に友人たちと参加した。西郷が鹿児島に入り「一つ橋」の近くの田中七之丞宅に一泊した場所から「西郷隆盛終焉之地」(碑文は南洲翁終焉之地)まで歩こうという企画である。 明治10年(1877)2月15日、夜間に降った雪が50年来こんなに降ったことがなかったと古老が言う6インチ(15cmあまり)も降り積もった中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面に向けて出発。あとを追って2月17日、西郷隆盛も桐野利秋と共に出発し、加治木、人吉を経て熊本へ向かった。ことここに至るには、東京から送り込まれた警視庁警部中原尚雄らの告白にもとづく西郷暗殺計画の陰謀があったことがわかり、上京の理由として西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で「今般政府へ尋問の筋これあり」と初代鹿児島県令(知事)大山綱良へ届け出てのことである。続けてこれには「旧兵隊の者共随行、多数出立致し候」と書き添えていた。 それから約半年後、西南戦争の最後の激戦「和田越の戦い」(宮崎県延岡市)で破れ、8月7日夜、延岡西方の可愛岳を突破した薩軍約600名は鹿児島城山までの退却の道を辿ることになった。 1、明治10年9月1日、午前10時5分 鹿児島市吉野「帯迫の戦い」前軍、中軍が吉野私学校(現在の吉野小学校)で休憩。軍議中に帯迫も官軍の攻撃を受けた。前軍は辺見十郎太に率いられて鹿児島に突入、中軍を率いた貴島清が帯迫で戦い、河野圭一郎が実方橋を守った。西郷隆盛は、狙撃隊に守られて前軍と共に一つ橋の方に向かったと考えられている。 下の写真が「一つ橋」(現在の橋は平成6年12月に完工したものである) (この「一つ橋」は平安時代の末、長谷場氏が鹿児島を支配した頃、アベキ川・現在の稲荷川に架かっていた唯一の橋。それが呼び名の語源と言われている)因みに私は高校生の3年間、通学の往復にこの橋を渡っていた。当時は西郷とこういう因縁のある橋とも知らず渡っていた。 (橋の向こうに見える山は島津家五代当主貞久が南朝方の肝属兼重らが立てこもる東福寺城を攻略し六代氏久を住まわせた東福寺城のあった多賀山。) この日の参加者は34名。朝方強い雨が降ったために中止も検討されたようだが、小康状態となり2班に分かれて出発することができた。 2、午前11時 西郷隆盛は、一つ橋の田中七之丞宅に着。宿泊。 田中七之丞宅は現在は「一つ橋 米穀店」とあるが、営業中かは不明。前軍の辺見十郎太らが私学校突入し、私学校を占領。 その後、「家鴨馬場」(鹿児島弁では「アヒルばば」を「アヒイばあ」という)を通る。 「佐衛門坂」は「せもんざか」と言う。 一行はひたすら歩き続ける。 西郷隆盛他、西南戦争で倒れた戦士の墓地である「南洲墓地」の下を通る。「般若院小路」は「はんにゃいんこすっ」と言う。 西郷の薩軍の行動は9月2日、一つ橋の田中七之丞宅を出てから9月24日、終焉の日を迎えるまで城山に籠る動きだったが、ここでは「上町維新まちづくりプロジェクト」の企画による動きに合わせて書いている。 西郷の薩軍の涙か、「南洲翁終焉之地」に到着する頃にはまた大雨となった。石碑も周りも雨に霞んでいる。ここは終焉の地ではなく石碑であって岩崎谷全体が「薩軍最後の地」であったことを示している。 終焉の地はここ。写真撮影の手際が悪く場所がわかりにくいが終焉之地碑から城山に向かって110mほどの場所。島津応吉久能邸前だと言われている。左側には城山トンネルがあり、伊敷方面に抜ける道路になっている。 ここは西郷の遺体の首が見つかったとされる場所。介錯されたあと、西郷の首が無くなったと言われたが、このあたりで見つけたという。 地図の写真はネットから借用した。この地図は南洲墓地の説明版のものと思われる。 話は前後する。3、9月1日 本営の移動 平田盛二日誌 薩摩郡東郷町出身 狙撃隊所属(狙撃中隊は総大将西郷隆盛の護衛を任務とした) 晴れ、今日蒲生を午前1時に出立、吉田郷鈴松で一時休息、吉野村に突入、同所学校において軍議 のところ、官兵突然後ろの山より砲撃す。よって前軍は鹿児島へ突入、後軍半道を絶たれ、中軍半は官兵を攻撃す。即ち城山を乗っ取り・・・・・今日本営は1ツ橋田中七之丞へ置く、一時は谷山郷までも領し、磯辺まで追撃、谷山郷に味方病院を置く。 9月2日 晴れ 今日 本営を岩崎江直す。護衛す。谷山口、磯辺等も防兼破歩。 行進中隊小隊長松本利器上申書;下伊敷村 出身より 9月1日 後軍は花棚で官軍と交戦。夜に入り関谷→牧山→中別府→雀ヶ宮を経て、2日鹿児島に進入、鳥越の塁を守備。官軍に攻められ城山へ。 懲役3年(秋田)4、9月3日 城山一帯に陣を構えて、戦いに備える。5、9月24日午前4時 官軍の総攻撃始まる。 西郷隆盛、洞窟の中で身支度をして、薩軍防塁の大手口とも言うべき岩崎口に向かって、進軍を開始した。しかし、西郷の大きな体に2つの小銃弾が食い込んでつんのめるようにして倒れた。すぐに体を起こし、後の別府晋介をかえりみて、「晋ドン、モウココデヨカ」と伝えると、正座して東を遥拝した。「ごめんなったもんし」(お許しください)の掛け声とともに別府晋介の太刀が一閃して西郷の首は落ちた。こうして西郷は49歳の生涯を閉じた。西郷の死を見届けた後、桐野利秋や村田新八といった主だった幹部は堡塁に趣いて壮絶な戦死を遂げた。城山から銃声が途絶えたのは午前7時頃であった。城山の最後の戦いで戦死した薩軍の兵士は約160名投降した者約200名。西郷の首は薩軍によって隠されたが、すぐ発見され政府軍幹部の実見によって西郷と確認された。 参考資料 上町維新まちづくりプロジェクト配布の当日資料。 「かんまち本」その二 「西南戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄13」萩原延壽著 など。
2018.09.02
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