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星塚敬愛園をあとに、「雄川の滝」に向かった。そこは鹿児島県の大隅半島 南大隅町根占川北12222にある。鹿児島から直行すれば2時間超か。 駐車場はかなり広いが、休日には大変な賑わいを見せたという。この日は平日だったので、難なく駐車できた。 今回私たちが訪れたのは「雄川の滝展望所」である。もう一つ滝を上から眺める「雄川の滝上流展望所」もあるとのことなので、「西郷どん」の場面を見るに今回の場所である。 駐車場はこれからの観光客の増加を見込んでか、手入れがなされていた。 駐車場から遊歩道を1200m歩く事になる。歩き始めてすぐ先に見事な橋が見えた。 歩く途中も退屈はしない。次々に川面が現れたり風景を楽しむことが出来る。 久しぶりの見る大きなシダも。 1200mの遊歩道は綺麗に舗装されており、雨後でもなかったので滑ることもなく滝壺まで到着することが出来た。ただ、残念だったのはあのNHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)のオープニングに下野竜也指揮のNHK交響楽団が勇壮に演奏してタイトルバックに写されたほどの迫力はなかった。 滝の上にある九州電力雄川管理所が少ししか水を落としていないのか、雨が少ないからなのか、わからない。 しかし、落差46m、幅60mの奇岩の迫力は十分に感じた。
2019.01.20
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ハンセン病の国立療養所 星塚敬愛園を訪ねた。私にとっては、2015年10月28日(2015年11月2日のブログ参照)以来2回目の訪問である。この時は、星塚敬愛園創立80周年記念式典に呼ばれて男声合唱団・楠声会としての演奏が目的だった。今回は当園の園長・後藤さん(私たちと同じ楠声会のメンバーである)がこれまで撮りためていた写真を「後藤正道 写真展」~光を読みながら~ というテーマで展示公開するというので、その見学である。 午前9時に鹿児島市役所前で同期で写真愛好家のKくんの車に便乗させてもらい錦江湾を渡り、桜島の袴腰港から鹿屋市に向かった。約1時間40分くらいのドライブで星塚敬愛園に到着。 前回も見学した社会交流会館に向かう。広い園内は、よく手入れされていて驚くばかりである。社会交流館の女性職員の案内で写真展の「歴史探訪」「敬愛園の四季」「私と写真」を見学していると、業務の合間を縫って園長の後藤さんも駆けつけて来てくれた。 敬愛園の四季のコーナーには、朝から夜、そして季節ごとの美しい景色が切り取られている。モニターによるたくさんの景色も次々に映し出されて目を楽しませてくれる。ここでは、園内のみならず近郊の風景もたくさん映し出されていた。 敬愛園の広報誌「星光」に執筆されている「歴史探訪」から、現在の写真、古い写真、解説なども組み合わせて展示されていて、わかりやすかった。 その後、会館内の ~星塚の歴史~ も今回は時間をかけて見ることが出来た。3人で昼食を済ませて、園長とは分かれて二人でNHK大河ドラマ「西郷どん」のオープニングのタイトルバックで有名になった「雄川の滝」に向かった。次回紹介します。
2019.01.18
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昨日1月11日は鏡開き。我が家でも朝からストーブで時間をかけて小豆を煮た。 正月の行事の終わりのこの日、鏡開きをして、ぜんざいを食べるのが我が家の習わしである。今年のぜんざいもあまり甘くなく、おいしく食べることが出来た。右側の小皿にあるのは、寒干大根を切って我が家で漬け込んだものだ。鹿児島ではこの漬物を漬ける家庭は多いのかな?小豆は鹿児島のデパートで開催される北海道物産展で娘が毎年買って届けてくれる。そのあずきを使って、あんこ餅とこのぜんざいをつくるのが我が家の恒例行事でもある。あんこ餅もこのぜんざいも娘家族の分もしっかり我が家でつくるというのもいつもの習わし? である。松の内の7日が終わり、11日も過ぎてしまうと、しっかり正月気分も終わるのである。
2019.01.12
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今日は1月7日。「七草がゆ」を食べた。我が家の「七草がゆ」は伝統的に「味噌」も調味料として使っているので、見栄えは悪い。しかし、美味しさは抜群だ。我が家では、毎年恒例で七草がゆを食べるが、孫たちが小さな頃は一緒に食べるために「昼食」につくっていた。ここ数年はは孫たちも大きくなってそれぞれの生活があるために、食べに来ることもなくなった。ジージたちにすれば、少し寂しい気もするが、これも成長の証と考えなければならない。今年は諸般の事情で晩ご飯に「七草がゆ」を食べることになって、昼間所用で街に出かけた家人が娘家族の材料まで買い込んできた。 午後2時半頃、娘来襲。一式抱えて慌ただしく帰って行った。 鹿児島では「七草がゆ」を「七草ずし」「ななとこがゆ」「ななとこいずし」(七ところずし)とも呼ぶ。それは、「ななとこいずし」を数え歳7歳になった子供が親戚や近所を7軒訪問してそれぞれの家庭でつくられた「ずし」をもらってまわることからこのような呼び方になったものと思われる。私は、終戦の翌年・昭和21年に母の郷里の疎開先で迎えた。焼け残っていたのか、紋付袴姿で親戚に「ななとこいずし」をもらいに回った記憶がある。因みに我が家には昨年の1月7日、妹の孫姫が来てくれた。しかし、現代のような核家族になって、「ずし」をつくらない家庭も家庭も多くなり、7ヶ所まわるのがむつかしくなったと聞く。
2019.01.07
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2017年の1月6日に書いた「誕生日に鹿児島五社を詣でる」のように、今年も五社詣りをすることが出来た。この歳になると、周りでも体の不調を訴えたり、突然の病に襲われたりする人が多くなってきている。そういう中で、今年も実行できたことは一つの健康のバロメーターにもなり、嬉しいことだった。(2018年の誕生日は前日の1月4日に宮崎県の都城市にある「都城島津家」を訪ねて、五社詣りの代わりにした) しかも今年は近所の二組のご夫婦も一緒に行きたいとのことだったので、私たち夫婦と合わせて三組、6人でのお詣りになり、賑やかで一層楽しいもになった。第一社は「南方神社」(みなかたじんじゃ)(諏訪大明神、お諏訪さあ)上の写真第二社は「八坂神社」(祇園社) 第三社は「稲荷神社」(旧郷社) 第四社は「春日神社」 第五社は「若宮神社」 順路でまわって、距離は4,5kmくらいのものだと思っているが、今年は二組のご夫婦は初めての参加だったので、道の途中にある島津本宗家の初代から5代までの墓標がある「本立寺跡」や「清水城跡」など何カ所かの史跡にも立ち寄り、簡単な説明もしたりして約3時間を要した。最後の第五社・若宮神社から更に昼食場所の「海南風」まで歩いたり、初めての人にはかなりきつい行程になってしまった。大きな反省点である。しかし、嬉しいことに二組のご夫婦から来年も元気にしていて、また五社詣りをやりましょうという言葉があった。元気なうちは、続けたいとの言葉もあり、お誘いした甲斐があったと思うことだった。来年もいやずっと頑張るぞ! 一つ一つの神社の由緒など今回一切書いていないが、機会を得て、一つづつでも書いてみたいと思う。
2019.01.06
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2018年の鹿児島は「明治維新150年」と「西郷どん」で一年中大騒ぎだった。その余韻も冷めやらぬままで、私も西郷隆盛関連で書くべきブログネタも幾つか残っている。その中で明けて2019年は、あの「関ヶ原の退き口」で有名な島津家第17代当主・島津義弘の没後400年だという。 島津家の菩提寺・福昌寺(鹿児島市池ノ上町)にある義弘の墓標。 1月1日の南日本新聞に掲載された「島津義弘 没後四百年」の記事。義弘のことについては、これまでにも拙ブログで何回か取り上げてきたが、本紙記事によると、これから1年を通して連載でたどるとある。この機会に私もこの1年改めて義弘のことも調べてみたい。 本文には「島津の退き口」(しまづののきぐち)、関ヶ原の敵中突破を決断した場面を紹介する、とあり次のような記述がある。「もし薩洲勢が5千人いたならば、この合戦は勝つものを」慶長5年(1600)9月15日、美濃国・関ヶ原。西軍の島津義弘は、味方の劣勢を悟り、思わず3度つぶやいた。幾多の戦場をくぐり抜けてきた”老将゛義弘の本音だった。数え66歳。旗下の兵力はわずか1500人。太守・義久の意向もあり本隊は来ず、配下の有志らが日々国元から駆けつけるありさまだった。60万石を超す島津家としては、あまりに不相応だった。 当初,義弘は家康の要請で伏見城に入る予定だったが、城将の鳥居忠元に拒絶され断念、やむなく西軍に加勢した。決戦は東軍の井伊直政勢が西軍の宇喜多秀家勢に発泡し戦端が開かれた。当初は西軍が優勢だったが、正午過ぎから石田三成、宇喜多秀家、小西行長ら西軍主力が突き崩されていった。そういう中で豊臣家一門であり1万5千の大軍を率いてきた小早川秀秋が寝返り、大勢は決定的となった。 出撃の機会をうかがっていた島津勢は、戦機を完全に逸した。混乱の中、島津の陣には逃げる宇喜多勢がなだれ込んだ。眼前に数万の敵兵が入り乱れ、背後には険しい伊吹山がそびえ、武功にはやる東軍が、逃げる敗残兵をなぶるように山裾へと追い込んでいた。もはや命は助かるまいー。百戦錬磨の老将・義弘の冷静な分析だった。それを甥の豊久が必死にいさめた。幸い、敵兵は島津の両脇にある石田や宇喜多の陣をめがけて殺到していた。「では、その猛勢の中へかかり入れよ(かかれ)」と下知を発した。生きて薩摩へ帰る、考え得る最良の手だった。前代未聞の敵中突破が始まった。(ここまで南日本新聞) これからの南日本新聞でどのような構成でまたどれくらいのボリュウムで「島津義弘」のことを取り上げて連載記事としていくのか想像もつかないが、私はこれまでの持ち合わせの資料などから分かる範囲で書けたらいいなと思っている。
2019.01.05
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元旦もいつもの時間に起床。10時くらいから恒例の正月の儀式。「年重」(としかさ)(木皿にゆずり葉を乗せて、その上焼いていない丸餅2個を乗せる)をいただく。これは食べるののではなくて、軽く捧げるだけである。その後、お雑煮をいただく。朝は「おせち料理」は食べずお雑煮だけを食べる。お雑煮のあと、「お屠蘇」を「式三献」でいただき、元旦の儀式は無事終了となる。この恒例のやり方は、私が物心ついたときから続いている。ただ現在はお雑煮になったが、子供の頃は里芋の大きな親芋を味噌仕立てで煮てたものを食べていた。親芋は半煮えであったり、美味しくもなかったが、それが我が家の正月の決まりだったので黙々と食べたものだった。鹿児島では今もその風習を守っている家庭も多いらしく、年末になると朝市などで親芋が売られている。実際、昨日で101歳になった私の叔母の家庭では里芋を食べているとのことだ。 元旦の恒例行事も終わって、ニューイヤー駅伝・第63回全日本実業団対抗駅伝競争大会をテレビ観戦。あの高校駅伝で2010年鹿児島実業高校を初優勝に導いた時の双子の市田兄弟の所属する旭化成の応援に力が入った。今年は昨年ほど一方的な勝利ではなかったが、最後の100mでアンカーの大六野選手が振り切ってみごと優勝した。あっぱれ! 午後4時、照国神社(島津斉彬を祀る)の鳥居に集合としていた娘家族、長男家族と落ち合って今年の初詣。天気も良かったせいか初詣客が長蛇の列をなしていた。本殿にたどり着くまでの時間がこの日は長かった。 やっとの思いで本殿にたどり着く。しかし大都会の神社の様子をテレビで見るが、ここではそこまでのことはない。 おみくじを引いたり、御札を買ったり、記念撮影をしたりで、しばらく時間がかかる。参拝や諸々の用事を済ませて帰ろうとすると、まだまだ参拝客の列は続いている。 全員で我が家へ。手作りの「おせち料理」である。お雑煮の後、孫たちの食べること、食べること。ごはんやデザートまで喜んで食べていた。 我が家の「お雑煮」長崎流に鹿児島流のエビを載せてある。私の子供の頃は、鹿児島では雑煮に出水地方の不知火海でとれるクマエビを焼いたものを使っていたのだが、このところ桁違いの価格になり、また漁も少なくなって、富裕層か進物でしか使われなくなった。そこで我が家では普通のエビをつかっている。 明けて2日、この日も朝は雑煮を食べる。美味しいので歳も顧みずおかわりまでしてしまった。満腹の腹をどうにかしようと、ウオーキングに出かけて50分歩く。そのほか往復10分くらいのスーパーへ、3回買い物に出かけた。おかげで、その後も全て順調に推移した。夜、娘一家がカニを持って来襲し、カニ鍋を皆でつつく。長男家族は用事があって来ることが出来ず。 3日、朝食を済ませて今日もウオーキングへ。近所の公園では打ち初めなのか、昨日までは見られなかったグラウンドゴルフをする姿が。テニス場でも賑やかに打ち合っていた。今日は、1時間15分歩いてしまった。(私の歩数は1分間に100歩~110歩)こうして今年の3ガ日も終わっていく。
2019.01.03
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南さつまの大浦、笠沙、秋目、坊津からの海岸線や景色を楽しみながら、途中、展望台や黒瀬の美術館、輝津館など見学し、枕崎市に入った。枕崎といえば日本でも有数のカツオの漁港である。「お魚センター」でカツオのたたき定食を食べて、番所鼻公園へ。上の写真に見るとおり「薩摩富士」と呼ばれる「開聞岳」を眺める絶好の地である。 前にも拙ブログに書いたが、ここ南九州市頴娃町別府には伊能忠敬の石碑がある。江戸時代に日本地図を編纂した忠敬が「天下の絶景なり」と賞賛したという場所で、私も開聞岳を眺望する一番のスポットだと思っているので、遠来の客をこれまでも案内してきた。 次に指宿方面に向かって226号線を走ると南九州市頴娃町長崎の「瀬平(せびら)公園」に到着。ここはカーブを描く道路、風情ある松や奇岩、その向こうにそびえる開聞岳というここの景色も素晴らしい。次々に車を止めて観光客が降りてくる。そういう場所だ。 昭和4年(1929)与謝野鉄幹、晶子夫妻も訪れて歌を詠んだという。歌碑もある。 更に進んで九州一大きな池田湖へ。私も数年ぶりに訪れたのだが、名物の「オオウナギ」の展示場も無くなっており、遊覧ボートも岸に引き上げられていた。見たところ復活は難しい? ような様子だった。観光客が少なくなってしまったのだろうか。寂しいことだ。 ただ、一昔前、ネッシーなど同じような形で騒がれた「イッシー」の像はそのまま残されていた。このあと、指宿経由で鹿児島市に戻ったのだが、久しぶりに250km以上のドライブになっていた。
2019.01.02
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新しい年、2019年の夜明けおめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。 10月16日~19日の高校同期会の長崎の旅から帰って2日後の10月21日、今度は大学の同期生で男声合唱団で一緒に歌ったSさんが永住地のタイから学部の最後の同窓会ということで帰ってきた。彼は熊本出身で、学部は水産学部、私より年長だったが、同じ男声合唱団で歌う中で意気投合し歌以外でもよく一緒に歩いたり、ハイキングに行ったり、彼の下宿に泊まったり、また彼も私の家に泊まりに来たりする4年間青春を謳歌したものだった。 その彼から春頃にメールが入った。水産学部の同期生最後の同窓会が秋に鹿児島で開催されることになったので、クマタツとも久しぶりに会いたいのでよろしくとのこと。彼とは卒業後も連絡を取り合い、彼の東京の自宅を訪ねたり、またあるときは、彼が訪ねてきてくりたり、最後に会ったのは、ちょうど30年前、鹿児島で私たちの男声合唱団・楠声会の第一回の演奏会の時東京在住だった彼が歌いに鹿児島に帰ってきた時だった。その後、ジェトロに出向して外国回りが始まったようで、その後の演奏会には帰ってこれずじまいだった。 その後、何回か連絡を取り合い、彼が久しぶりに訪ねたい場所など打合せを重ねたのだった。そして、10月21日(日)デパート・山形屋前で11時に再会。事前メールで彼が自分はドジャースの紺色の帽子を被っていると書いてあったので、余程の変化があったのかと思っていたが、30年前、いや学生時代と変わらない風貌であり、逆に驚いた。久しぶりの鹿児島のラーメンを昼食にしたあと、彼のリクエストでその日は私の歴史散歩コース、即ち島津家の菩提寺など回り、昔私の住んでいた家など巡ることだった。夜は鹿児島市の繁華街・天文館で「豚しゃぶ」などを食べて、彼の泊まるホテル行きのバス停まで送って別れた。 明けて10月22日(月)この日は私が車を運転してホテルまで出迎えに行った。この日も彼のリクエストで指宿方面に行きたいとのことだったので、コースは私に任せてもらって、遠回りではあるが、東シナ海を望む私の大好きなリアス式海岸を通り、指宿方面に行くことにした。南さつま市の226号線を行くのである。(一番下の写真の地図) 沖秋目島この一帯は秋目港を中心に「007は二度死ぬ」の撮影が行われたところとして有名である。 後に奈良の唐招提寺で教えを広めた鑑真和上が奈良時代の753年にここ秋目に上陸した。当日はちょうど休館日で記念館は見学できなかった。 南さつま海道八景の一つ 「双剣石」周辺
2019.01.01
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