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里麓の武家屋敷通りから西に200mほど歩いたところに「亀城跡」がある。ここの歴史は島津一族が薩摩を治める遥か以前の隼人族の時代に始まったと言われるが、下の案内板にあるように中世以来甑島を支配した鎌倉幕府御家人・小川氏の代々の居城であった。小川氏は文禄4年(1595)阿多郡田布施郷(現、南さつま市金峰町)に移され、以後島津氏の直轄地になった。この城から更に西へ200mほど先に鶴城跡がある。あわせて亀鶴城という。高所から見るとその形が、鶴と亀に似ているのでこの名がある。(詳細は下の案内板「史跡 亀城跡」を参照ください) 亀城跡にある「戦没者慰霊之塔」には、戊辰の役以降の戦没者を慰霊すると書かれている。ここも「玉石垣」状に造られている。 江戸時代、異国船の取締や密貿易を監視するために置かれていた「津口番所跡」当時、薩摩藩内には24ヶ所の「津口番所」があり、甑島にはここ里の他に中甑、手打(下甑)の3ヶ所にあった。 浄土真宗「西願寺」。寛永3年(1626)浄土宗 西昌寺として創建されたが、明治2年廃仏毀釈で廃絶された。その後、浄土真宗「西願寺」として復活した。西願寺境内には一向宗打弾圧で流刑となった出水郷士・山田静治有秀の墓、天保年間(1830~40)に鹿児島に行く途中漂流し、亡くなった二人の琉球人墓、慶長14年(1609)の猪熊侍従事件に巻き込まれてこの甑島に流された松木少将(松木宗隆)の墓などもある。 参考資料 甑島 里 武家屋敷通り散策 MAP 「鹿児島県の歴史散歩」 他 ここは「こしきの宿」。2017年、テレビ番組・ボンビーガールの企画で女優、柴田美咲さんがつくった宿。
2021.11.07
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ここは、薩摩川内市祁答院町大村(県道333号線 下手)祁答院氏は相模国渋谷氏の庶流で薩摩国発祥の一族である。初代は渋谷重国の三男・吉岡重保(吉岡氏、恩馬氏、柏原氏を名乗る)で良重は13代当主である。詳細は説明版「良重寺跡」にある通りだが、良重は妻・虎姫により刺殺されている。 良重追善供養塔 享保十六年(1721) その後、大村古城跡に向かった。ここは、大こう小学校の裏山で、俗に城山という。大村城は康治元年(1142)以前、大前(おおくま)氏によって築城されたと言われ、東郷城、入来(清色)城と並ぶ薩摩郡地方の巨城である。 鎌倉時代の1248年相模国の渋谷光重は、幕府から北薩摩の地頭の任を得ると、光重は二男以下の子5兄弟を北薩摩の東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城へそれぞれ下向させた。祁答院地方は(現在の藺牟田、大村、黒木、長野、山崎、宮之城、佐志)3男の重保に、鶴田は4男の重諸を配属して所領させた。 戦国の世には薩摩でも親族、他族を問わず領土争いがあり、領主が度々変わり、江戸時代の直前になると島津氏一族が薩摩、大隅、日向の一部をすべて領収することになった。江戸期に入ると政治が安定し、その後旧祁答院町には大村(島津直轄地)、藺牟田(樺山氏)、黒木(豊州島津家)の3郷となったが、それぞれに発展した。(当日配布資料より)
2018.11.04
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ツアー客24人を乗せたバスは一路 高知市内へ向かう。私の次のお目当ては高知城である。と言うのも客の選択で高知城歴史博物館か高知城のどちらかを80分かけて見学するというのだ。私たち公園化されて綺麗に整備された4人は高知城を選択しまだ見ぬ城へ向かった。県庁も隣にある高知の中心部である。 案内版によれば、「高知城はもと大高坂城といい、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これによって北朝方と戦ったと伝えられる。戦国時代、長宗我部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併呑し、天正16年(1588)ここに築城した。しかし水難が多いため、数年を経ず瀬戸に移った。 山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川(6万石)から土佐(24万石)に封ぜられ、慶長6年(1601)9月、百々越前守を築城奉行に任じて工を起し、2年後、本丸を完成した。享保12年(1727)越前町より出火し、全城大半類焼、同14年再建に着手。慶長創建の姿にならって施工し、24年を経て宝暦3年(1753)11月に竣工して、現在に至っている。 明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみ残して、城域を整理し、花木を植え、公園とした。 昭和9年1月、天守閣及び追手門の建物が国宝(現在は重要文化財)に昭和34年に城域一帯が史跡に指定された。また明治6年、県立都市公園となった。 戦後は各建物の修理に着手。追手門は昭和26年に、天守閣は同30年に、その他の諸建造物は34年3月にそれぞれ改修竣工した」とある。 別名、鷹城と言われている。江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれた。日本百名城の一つである。 下は追手門 土佐が生んだ自由民権運動のカリスマ・板垣退助の銅像 あの有名な山内一豊の妻・山内千代像 本丸正殿 天守 高知城の入口にある高知県立高知城歴史博物館。今回は高知城見学を選択したので時間不足で見学することはできなかった。 このあと、この日の宿・ザ クラウンパレス新阪急に向かった。その途中で高知駅前を通過。すると三志士・左から 武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の像が・・・。慌ててシャッターを切ったのがこの写真。
2018.01.07
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上の写真は「古地図に見る かごしまの町」より武・荒田の水田地帯(『薩摩沿革地図』 中文政前後鹿児島絵図写) 鹿児島中央駅の西口側にある武岡が私の終の棲家であるが、子供の時も疎開先から鹿児島に帰ってきたあとそれまでの我が家(当時は武町と呼ばれていたが現在は中央町と呼ばれ駅近くの繁華街になっている)は戦火で焼けていたので、5年間武岡麓の借家に住んだのでこの周辺一帯は切っても切れない縁のある土地である。上の文政前後の地図の辺りには幕末の頃はお寺がいくつかあり、建部神社があり、神社下から田上方面に向けて農家が散在する農村だったそうだ。 下の写真は上の地図の右側に位置する場所で太平洋戦争前・昭和10年頃の地図だが、私達が住んだ昭和23年頃から私達がここを去って区画整理が行われるまでは、大体このままの状態ではなかっただろうか。 下の地図は県立図書館にあった「鹿児島市全圖」から武・武岡周辺を抜粋した部分だが、この地図も私の知る時代のもとほとんど変わらない。 下の地図は「県別マップル 鹿児島県道路地図」から鹿児島中央駅周辺を写したもの。赤く表示された鹿児島中央駅の右側が「桜島側出口」(東口)で左側にレールと共に「九州新幹線」と書かれた方向から新幹線は入って来る。左側が私達の住む武岡方面で西口がある。ただ、鹿児島本線とはT字型に入ってくるので駅舎は同じである。区画整理と新幹線とトンネルによって武岡以外は全く昔の面影は失われてしまった。 地図の左側から一般道の武岡トンネルを写した写真が下。 武岡トンネルから左に20mくらいの場所には新幹線トンネルがある。数え切れないほどある九州新幹線のトンネルこれで終わり、これを通過すれば鹿児島中央駅に滑り込む。私の記憶ではこのトンネルの辺りから左側に「島津どんの墓」があり、遊ぶ場所でもあった。新幹線立ち入り禁止の柵の前に「武小學」発祥之地の記念碑がある。この記念碑の説明文には「鹿児島市立西田小学校は明治8年12月8日、西郷南洲翁の揮毫による『武小學』の門札を掲げ、ここ武岡の麓、笑岳寺跡に創立された。西田小学校創立130周年に当り記念事業の一つとして『発祥之地』なる記念碑を建立した。平成17年12月7日 建立」とある。後に私の母校・武小学校も開校したのだが、この記念碑は「武小學」として発祥しながらも、あくまでも「西田小学校」の発祥之地だということを主張している。 このすぐ下が西郷屋敷跡の「西郷公園」であるが、二階堂家の屋敷もあった。 私は40年前に鹿児島に帰ってきて、仕事も落ち着いた頃、区画整理された昔の借家跡や友人宅を探し回ったことがあったのだが、2,3の表札でそれらしい家を見つけただけで何もわからなかった。そこで、今回は最後と思って念入りにまわってみた。結果は同じで知人の家や昔の名残を見つけることはできなかった。70年の月日は過去を捨て去っていた。
2022.01.12
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2月16日、テレビで石橋記念公園で河津桜が咲いているというニュースを見て行ってきた。石橋記念公園にはもう数え切れないほど行っているが、そこで河津桜を見たことはなかったからだ。 鹿児島市の中心を流れる甲突川には、江戸末期に肥後の名石工・岩永三五郎指導のもと建造された5つのアーチ石橋が架けられていた。 中でも西田橋は表玄関として豪華に建造され、上の写真にあるような御門もあったという。ここは、参勤交代の道でもあり、歴代の藩主がここを通った他、西郷隆盛や篤姫もここを通っている。平成5年(1993)8月6日の豪雨による水害でその五橋のうち武之橋と新上橋の2つが流失した。残された西田橋、高麗橋、玉江橋をここ石橋記念公園に移設した。移設については賛否両論があったが、やむを得ず石橋記念公園をここに造って移設された。い「石橋記念公園」と五橋については、当ブログの2013年3月7日に書いている。 上の写真は西田橋の復元された御門。遠くに「河津桜」が見える。 下の写真は移設された高麗橋。向こうに桜島が見えている。 本数は少ないが、河津桜が満開だった。 お茶会でもあったのか、赤い傘などがしつらえられていた。 ここにこれまで来た時には気が付かなかった石造の「水位計」があった。その説明文によると、この石橋記念公園の周辺一帯は、元禄14年(1701)幕府の許可を得て造成された埋立地で、抱真院などの寺社のほか重富島津家、今和泉島津家の下屋敷や、船着場があった。また稲荷川河口は岩永三五郎が鹿児島で最初に石橋を架けた地である。3連アーチの永安橋などである。天保期の絵図では、旧海岸沿いの行屋堀に小舟の、弁天社前の大船の溜まり場があった。 行屋堀には、境橋、汐見橋など5つの石橋が架けられていたが、鉄道建設が始まり明治33年(1900)に埋め立てられ、今は市道になっている。この市道に接した枝元チヨ氏(故人)の住宅地(当時の境橋、汐見橋付近)に、この「水位計」と思われる石造物が置かれていた。現住宅所有者・白男川眞理子氏の話によると、祖父が行屋堀埋立の際この「石造物」を自宅庭に移転させたものと思われるという。 運よくムクドリと遭遇、黄色い嘴が特徴である。
2021.02.26
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5月3日(憲法記念日)の今日、娘の運転する車で喜入の旧麓一帯を訪ねた。最初に訪ねた「ふれあい広場」の入口近くに「田の神」があった。鹿児島では「たのかんさあ」と呼ばれ親しまれている石造物である。 案内文によると、この「たのかんさあ」は元文元年(1736)天神近くにあったと伝えられたものが、この地に移設されたという。昔は苗代をするときと収穫の時には祭が行われた。しかし現在は、鹿児島の寺社で7月に各神社ごとに開かれる「六月灯」に合わせて行われる。この田の神は、像の高さ約57cm、右手に杓子、左手にスリコギ、頭にはコシキのミキをかぶっている。形は神職型。なんともユーモアあふれる「たのかんさあ」だ。 田の神は薩摩・大隅・日向の一部(都城周辺)にあり、日本の農耕民の間で稲作の豊凶を見守り、また稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。 杓子:飯、汁などをすくう皿型の部分に柄がつけてある道具。 スリコギ:すり鉢でモノをつぶす木の棒。 コシキのミキ:日本酒の原料米を蒸すための大型の蒸し器。 田の神の型式:1,仏像型→僧型→旅僧型 2,神像型→神職型→田の神型(または神舞神職型) 「ふれあい広場」には駐車場もあり、ここに止めて旧麓を散策できる。水車が回り、きれいな水が流れている。 「ふれあい広場」を望む すぐ近くには「旧麓研修センター」がある。 ここには毎年の干支の動物の造形物が飾られるとのことで、大きな立派な牛が飾られていた。
2021.05.03
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それまではやったり、やらなかったり気の向くままにやっていたウオーキングを、きっちり始めたのは昨年の11月のことだった。グラウンドゴルフで動く水曜日と土曜日はとりたててウオーキングはやらないことにしてのことだ。ところが、ちょっと気負いすぎて、気が向くままに歩きすぎて、1時間くらいをほとんど競歩みたいな感じで歩いていたら夜ベッドに入ってから右足が少し痺れるような現象が起こってきた。家人いわく「お父さん、歩き過ぎよ! 歳のことを考えたら」というお叱りのような、助言のようなことをのたまう。歩き過ぎはいけないという。 それからは歩くピッチを落とし、時間も40分~50分くらいに抑えて今年の歩くことを心がけて7月中旬まで続けてきた。さすがに8月、9月、10月は全くのマイペースにし、熱中症にならないようにできるだけ歩かないようにしてきた。ただ10数年続けている近所の仲間たちとのグラウンドゴルフは暑いも寒いもなく、一年中天気さえ良ければやってきた。 そういう中で、やっと日中の暑さも和らぎ始めた11月になって、歩き始めた。歩く時間はこれまでと同じ40分~50分。今日は1時間歩いた。コースはだいたい決めているが、その日の気分でいろいろ模索しながら歩くこともある。もともと歩くのは大好きなので、歩き始めると今日みたいに調子に乗ると歩きすぎてしまうことになる。用心、用事 もういい歳なんだから! といい聞かせながら歩こう。
2019.11.15
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8月16日から始まった我が家のリフォーム工事は9月4日に無事終了しました。お盆過ぎからまるで梅雨の再来を思わせる大雨・長雨で工事業者の皆さんは大変だっただろうと思います。本当にご苦労さまと言いたいです。ありがとうございました。エアコン2台の取替を含めて大仕事が終わった感じでホッとしています。 架設の取り付けをカワギリに壁・屋根、戸袋の塗り替えと雨樋の交換など雨の様子を見ながらの作業でした。それでも実質は14日間で終わりました。壁の色は従来より少し濃い目のベージュにして、屋根は従来のエンジの濃い色からほぼ黒に近い色の変えて気分一新です。 なにはともあれ、肩の荷が一つ下りました。めでたし! めでたし!
2021.09.17
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志布志市のまち歩きをしながら史跡を訪ねるのは初めてのことで私も興味津々だった。先ず志布志の歴史について志布志市総合観光案内所の「志布志まちあるきマップ」をひもといてみよう。 志布志の地名は、天智天皇遷幸の伝説の中で、天皇に布を献上した妻女の優しい心にならい、召使いの女性もまた布を献上したところ、天皇は上下その志の厚いことを喜ばれてこの地は志布志であるといわれたので、以来高浜の庄と呼ばれていたこの地方を志布志と呼ぶようになったと伝えられている。なお、志布志の地名が文献上に初めて現れるのは、鎌倉時代末期の1316年、宝満寺再興の折、志布志津の一角を宝満寺に寄進するという文書に見ることが出来る。 平安時代この地域は救仁院(松山・志布志・有明東部)と呼ばれ、前川の河口部は国内最大の荘園(島津荘)の水門(みなと)としての役割を果たしていた。 南北朝時代になると志布志城(山城)を居城としていた島津氏久(当時当主が二人いた内の一人で6代当主)が1374年に明国に使者を派遣しており、当時から中国や東南アジアと交易があったことは山城の出土品からもうかがえる。また口伝としての「志布志千軒まち」の呼称は、すでに中世に優れた海運力を持つ港町として、繁栄していた様子を物語る言葉と考えられる。 藩政期の志布志は、島津領日向国唯一の浦町として、京阪や南西諸島との廻船で潤い、幕末には密貿易も盛んに行われ多くの豪商を輩出した。 現在の志布志港は1969年(昭和44年)に国の重要港湾の指定を受け、2013年、国内屈指の畜産地帯を背後に飼料の原料となる穀物等を輸入する、国際バルク戦略港湾に選定されるなど、さらに発展していくことが期待される。(以上パンフレットから引用) このように私が思っていた以上に昔から大隅半島にあっては、重要な地位を占めていたことを知った。現在も大阪南港とフェリーが行き来し、石油基地もある大隅半島の海に開かれた玄関口になっている。 上のように案内板も設置され志布志市は観光にも力をいれていることがうかがえる。先ず向かったのは、大慈寺。門前には歴史を物語るような仁王像があり、私たち一行を出迎えてくれた。 この阿形像はほぼ完全さを保っているが、上の写真の吽形像は廃仏毀釈で傷つけられたのか右腕がない。この吽形像は下の写真の解説文にもあるように当寺のものではなく、他の寺から運んできて一対としたそうだ。 龍興山大慈寺という立派な石造の門柱が建てられている。大慈寺は室町時代創建の禅寺。かって領内に70余りの末寺を所有し、その一つの能学寺(鹿児島市)には、西郷隆盛や大久保利通らも柏州和尚の教えを受けに通ったと伝えられている。柏州和尚は藩政にも深く関わり、第12代藩主・島津茂久、国父・久光の要請に応えて朝廷との橋渡しを行い、久光上洛の道筋をつけたという。 歴史を感じる寺の建物が残されている。 手水鉢
2023.03.03
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今朝はいつもより遅い5時30分頃目覚めた。最近は早い時は朝4時ごろに目覚めて、もうそれから眠れなくて、エイ! とばかりに起き出してもそもそしながらパソコンの前に座ったりすることもある。ただ昨日は土曜日でグラウンドゴルフをする日だったので、8時にはグラウンドゴルフをする公園に出かけて、いつもの通り清掃や草むしりをし、そのあとラジオ体操をしてゲームに入った。ところがこの夏一番の暑さで4ゲームできるかなと心配になった。メンバーの2/3が80歳越えのため最近の話し合いで暑い日は1ゲームでも2ゲームでもして終わろうということになっていたので2ゲームの後、休憩をして後半は1ゲームで終わった。都合3ゲームで終わったのだ。 詳細は省くがその後、近所に弔問に行く約束があったので、嫁ぎ先から実家に帰ってくる娘さんの時間に合わせて11時に弔問に行った。 帰ってしばらくすると、我が娘から電話があって、昨晩私の妹と所用で会ったところ一日早いがこの日の午後に私の長姉とその家族と妹が我が家の妻の初盆のお詣りに来てくれるという。男所帯の我が家はお客さん一人でもバタバタする現状なので、娘が来てくれることになった。午後2時ごろ長姉と娘がその婿殿の運転する車で到着。妹も便乗してきた。長姉はこの7月28日に連れ合いを亡くしたばかりの状態でよく我が家にお詣りに来てくれたものだと、ただただ頭が下がった。 姉妹たちが帰ってしばらくすると、近所のIさんからの電話が鳴った。初盆のお詣りに来てくださるという。有難いことだ。Iさんご夫婦とは妻の生存中から近所では一番付き合いが深かった。現在もご主人は老人会でも私と一緒にいつも活動していただいている。せっかくお見えいただいたのに娘も帰った後で、私が準備していたお茶を出そうとしたが、遠慮されたのでお茶も出さず仕舞だった。本当に申し訳ないことをした。 この12日は、妻の初盆に仏前にと花を贈ってくださる方があったり、御佛前を送ってくださる方があったりで、慌ただしく過ぎていった。 しかしこの日の疲れの99%は暑い中での朝からの草むしりとグラウンドゴルフのせいだと思う。そいうことで寝つきもよく、今朝は、ゆっくりと目覚めたのだ。 起きていつものように雑草園を見ると、朝顔がこれまでの最高の数で咲いていた。主に2ヶ所に集中して咲くのだが、この場所でこれだけの数が一日で咲くのは初めての事だった。 そればかりではなかった。今朝はこれまで気がつかなかったのか3種類の花が咲いているのを発見した。3種類とも名前は知らない。多分、妻が昨年の秋に植えたものだろう。私の今となっての記憶では、妻亡き後、今年の春に雑草に埋もれてしまって育ちきれない花々を抜いたりした記憶がある。そいう中で生き残った花ではないか。3種類とも少しづつ申し訳なさそうに咲いている。 この花の名前をブロ友・蕗さんに教えていただいた。 「玉すだれ」です。 今日13日はお盆の入り。今朝は妻の初盆供養のため西本願寺別院の9時からの合同内勤に行くべく、迎えに来てくれた娘家族の車で西本願寺に向かった。いつも一緒に行く同居する二男がちょっと事情があって今日はお詣りに行くことが出来なかった。お寺さんで長男家族とも落ち合って7人でのお詣りとなった。この日は9時から30分刻みの合同内勤ということだったが、朝一番の9時からの参加者も多く、お焼香台も8台あった。それでちょど9時30分には終わった。その後、7人で我が家に帰り、娘と長男の嫁が手分けして料理してくれた料理で昼ごはんとなった。妻がお盆には毎年つくっていた「だんご」や鹿児島の郷土料理「かいのこ汁」なども見よう見まねでつくっていて、妻の味をそのまま引き継いでいるようで美味しく頂いた。 我が家恒例の御先祖を迎える「迎え火」も皆で一緒に済ませてそれぞれの家庭に帰って行った。 この花は「ゼヒランサス」です。
2023.08.13
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昼食を食べた後、私たちツアー一行は、チャーター船に乗って長島遊覧へ。養殖ブリ生産日本一の養殖筏が散在する海を巡り、船長からいろいろな説明を聞くことができた。 東町漁業協同組合が商標登録した「鰤王」の養殖現場を目の当たりにして、私が想像していた以上のそのスケールに驚いた。その生産量は年間約12000トンだそうだ。稚魚(モジャコ)から出荷まで一貫しているとのこと。 午前中に針尾公園の展望台から下に見えた伊唐大橋を今度は海上から眺める場所に案内された。 養殖場の珍しい場所を見て満足した私たちは、今度は化石で有名な獅子島に案内された。嬉しいことにここで約15分の上陸をすることもできた。 船を降りて目の前の崖の上に「獅子島幼小中一貫校」があった。 その崖の下の道路沿いに「アンモナイト」と「サツマウツノミヤリュウ」の大きな造り物があった。ここで、ほとんどの人々が記念写真を写していて、この写真を写すまでは少し時間がかかった。 獅子島はお隣の熊本県御所浦島と共に日本有数の化石産地だという。島の大部分は約1億年前「白亜紀」の地層とされる御所浦層群で覆われいる。島の北西岸の御所浦周辺には新しい姫浦(ひめのうら)層群が露出し、更に片側から白浜を結ぶ海側には、より新しい数千年前の古第三紀の地層が表れている。いずれの地層にも化石が多く含まれるが、特にアンモナイトや爬虫類の化石も発見される白亜紀の地層は古生物ファンにとっては魅力があるのだという。 船着場の前にはちょっとした食堂兼お土産屋の「獅子島屋」があった。 船着場の前には「片側港」というバス停があっかご
2024.03.14
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