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きょう聖(ねこミミ)
【小説】ウェア・ウルフ その2
翌日。昼ごろ、アークは、こめかみを押さえてつらそうな老司祭から、神殿の雑用をたのまれた。
夕方になり、神殿の裏で薪を割っていると、セリシアが現れた。
「さっそく、こき使われてる?」
「仕事は終わったよ」アークは言った。「ひまだから、明日の分もやろうと思ったんだ」
「司祭さまは?」
「頭が痛いって昼まで寝てたな。今も横になっているんじゃないか」
「まぁた、飲みすぎたのね」セリシアは呆れるように嘆息する。
「いや、俺が遅くまで付き合わせてしまったんだ」
「アーク、あのさ」
セリシアは言いよどむようにすると言った。「ちょっと頼みがあるんだけど ……」
アークは、セリシアに連れられて、神殿の隣にある広場にきた。
下草がはげて、乾いた地面がむき出しになっている。神官たちが剣の訓練をする場らしい。
「剣は使えるんでしょ? 腰に下げてたから」セリシアは言った。
「まぁ……、人並みには」
「はい」
セリシアは言うと、壁に立てかけてあった2本の木の棒を取って、1本を投げてよこした。
ふわりと飛ぶ棒を、アークは片手でつかんだ。
「軽いでしょ。ケガしにくいから、剣の訓練で使うんだ」セリシアは言った。
「うーん……」アークは、木の剣を見ながら言った。「女相手に剣を振るうのはな……」
「ケガさせたら悪い?」
「そうだな」
「あら、私を相手に、勝つ自信があるなんて、よっぽどの使い手のようね。これはぜひ、訓練をつけてもらわないと!」
セリシアは、目を輝かせて剣を構えた。
「ははは」アークは思わず笑った。「そういえば、セリシアがどれだけ強いか、知らないな。コボルドとの戦いでは、かなりの腕前に見えたが」
「でしょう。なら、付き合ってもらえる?」
「仕方ない。手合わせするか」アークは剣を構えた。
「いくよっ!」
セリシアが向かってきた。
飛ぶような大きな踏み込みで、一気に距離が縮まる。それだけでセリシアが、並の剣士でないことがわかる。
木の剣が鋭く振り下ろされた。
――カァンッ! 乾いた音がひびいた。
アークは攻撃を避けきれず、剣で受けとめていた。
力はそれほどでもない。しかし、動きがはやい。
セリシアは飛びのいた。すばやく死角に回り込むと、すぐに次の打ち込みがきた。
アークの胸の前、すれすれを木の剣が払っていく。突きが、わき腹をかすめた。
「反撃しないとやられるよ!」セリシアは言った。
「は、はやいなっ!」
余裕で言うつもりだったが、できなかった。よほどの訓練を積んでいなければ、これほどの使い手にはなれないだろう。
「防戦ばかりじゃ、練習にならないね!」セリシアは事もなげに言う。
「そうだなっ!」
首筋を狙って鋭く払われた剣を、アークは左手でつかんだ。ぐいっと引くと、セリシアは体勢を崩した。その胸に剣先をつき当てた。
「おぉ……。さすが」セリシアは感心して言った。
「いや、俺の敗けだ。刃がついていたら、左手を落とされていたからな」
「でも、剣先をつかまれるとは思わなかった。かなり練習したんでしょう?」
「まぁ、そこそこな」アークは掴んでいた剣先を放した。「セリシアこそ強いじゃないか。女でここまで戦えるやつなんて、めったにいないだろう」
「ふふふ。私、剣の戦いなら、村では、男も含めて5本の指には入るから」セリシアは胸を張る。
「たいしたもんだ」アークは、持っていた木剣をセリシアに返した。あたりを見回すと言った。「……もう暗くなってきたな。戻るか」
セリシアは、すまなそうに手の平を合わせた。
「……悪いんだけど、もう1回だけ! 手合わせしてもらえない?」
「まだやるのか……」
「今度は、素手の格闘戦! すぐ終わるから」
「おいおい、女と格闘なんて……」
アークが言いかけたところで、セリシアは2本の木剣を放り投げ、アークに向かってきた。
「本当にやるのか!?」
アークは身構えた。セリシアの動きははやい。本気でくるなら手を抜ける相手でない。
セリシアは姿勢を低くして迫った。低い重心を生かして、こちらの体勢を崩そうというのだ。アークは警戒しながら、どうすればケガをさせずに済むか考えていた。
セリシアが仕掛けた。足元を狙ったタックルだ。アークは、上から押さえ込もうと腕を伸ばした。
が、セリシアの姿が消えた。フェイントだ。
気配から後ろに回り込んだにちがいない。
振り向こうとすると、背後から顔をかすめて細い腕がのびた。腕は互いをつかんで固まると、アゴの下に喰い込んだ。
「ぅっ……、げぇっ……!」
アークは情けなく叫んだきり、声が出なくなった。
セリシアの腕が、首を締めあげていった。
腕を叩いて合図した。腕は、すぐにほどかれた。
「はぁっ……、はぁっ……。つ、強いな……」アークは言った。
「ふぅっ……。ふふ……。私、格闘なら、村で一番だから」セリシアは言った。
「本当か? すごいもんだな……」
アークは息をすっかり吐き出すと、地面に腰をつけた。
セリシアは心配そうに「ごめんね。苦しかった?」
「平気だ。……ちょっと回復に時間がかかっただけだ」
「あのさ、アーク。もうひとつだけ、お願いがあるんだけど……」
セリシアは地面に両ひざをつけ、真剣な顔をした。
「もう、手合わせなら遠慮させてもらうぞ」
「村の近くにできた魔物の砦にまで行って、どうしても調べなくちゃいけないことがあるのよ。……一緒に行ってもらえない?」
「……討伐隊のことか」
「えっ、知ってたの? 司祭さまから?」セリシアは目を丸くした。
「そのための腕試しか」
「う……。バレてた……?」
「親父さんが帰ってこないんだろう。心配する気持ちはわかるが、いくらなんでも無謀じゃないか」
「お父さんのこともあるけど……。それだけじゃないのよ」
セリシアは神妙な顔になると語った。
討伐隊は、王都から派遣された軍の部隊に、村の男たちが合流して結成された。しかし、隊は魔物の砦に向かったきり、消息が途絶えてしまった。そのことを早馬で王都に知らせ、援軍を求めても、「隊の動向がわからない」として、役人に応援を拒まれたという。
「……で、援軍を求めるためにも、できるだけ詳しい情報がいるってことか」アークは言った。
「ワンヒスが魔物に侵攻された今となっては、それも厳しいかと思うけど……」
セリシアは沈痛な顔をした。すでに最悪の事態も予想しているのだろう。
「危険だな。他にやり方はないのか?」
「考えたんだけど……。あと一度でいいから探しに行きたい。でも、司祭さまや村長に、もうあぶないことはするなって厳しく言われていて……」
「ふーん」
アークは、しばらく考えをめぐらせたあとに言った。
「どうせ行くなといっても、ひとりで行くんだろう?」
「お願いします!」セリシアは頭を下げた。
「わかった。一緒に行こう。ただし、あぶなくなったら、ひとりでも逃げさせてもらうからな」
「ありがとう!」セリシアは顔をあげ、笑みを見せた。「大丈夫! 私がしっかり守るから!」
「たのもしいな」アークは笑った。
※
次の日。
村が目を覚ます前に、アークとセリシアは魔物の砦へ向かった。
アークは朝が弱い。とはいえ、これから魔物の砦に乗り込むというのに、ボンヤリとしてはいられない。
「……うっ!」
木に、顔をぶつけた。
「アーク! 大丈夫!?」セリシアが言った。
「心配いらない……」
「少し休んで行こうか……?」
「平気だ……。先は長いのだろう。急ごう」
半日以上、歩き通し、その日は野宿した。
次の日も早朝から歩いた。
街道を外れて草をかき分けながら進んだ。太陽が真上にのぼったところで、森のなかに砦が現れた。
先端のとがった木を地面に突き刺した柵が、何重にもまわりを取り囲んでいる。
頑丈そうな高い防壁に囲まれ、なかをうかがうことはできない。
正面には大きな門があり、一部だけ開いている。遠くからは見えにくいが、まわりには4、5体の獣人らしき見張りがいるようだった。
「この前に来たときは、あの見張りに見つかってなかには入れなかったのよ……」セリシアは小声で言った。
「大きな砦のわりに、見張りが少ないようだな」アークが言った。
「そういえば……。以前より、少ないかもしれない。でも、なかには、たくさんいるはずよ」
「他には、入れるところはないのか?」
「まわりも調べたけど……。壁が高くて、とても他のところからは入れないみたい」
「ダメで元々だ。見張りをおびきだしてみるか」
「応援が出てくるんじゃない?」
「それだけの部隊がいるなら、もとより俺たちだけで手に負える相手じゃないさ」
セリシアは考えてから、
「そうね……。わかった。それじゃあ――」
ふたりは打ち合わせ、アークが見張りをおびきだす役を、セリシアが隙あらば内部に潜入する役となった。
セリシアは顔に長い布を巻き、目だけを出した。
「セリシア。魔物は、においだけで人間に気付くぞ。あぶなくなったら、すぐに逃げろよ」
「まかせて。アークこそ、気をつけて」
「バカにするな。コボルドの相手くらい」
セリシアとアークは互いの拳をつき合わせた。
アークは、砦の正面から門に近づいた。すぐに見張りのコボルドに見つかった。コボルドは4体。顔を見あわせて何かを伝えあったあと、1体が砦の奥へと戻っていった。仲間を呼ぶつもりだろう。残りの3体が向かってきた。
アークは森に駆けもどった。
見れば、門から離れた巨木の陰にセリシアがいた。侵入する隙をうかがっているのだ。
《うまくやれよ》と思いながら、アークは森のなかに入った。
太い木の根に足をとられないよう、気を使いながら走った。セリシアのようにはうまくいかないが、それでもコボルドたちには追いつかれなかった。
開けた場所に出るとコボルドたちを待ちかまえた。
コボルドたちは、木の根で足をもつらせながら、アークに追い付いた。
アークは腰の剣に手をかけた。
「たった3匹か。バカにされたもんだな」思わず口の端を歪めた。
コボルドは、各々に剣を抜いてアークを取り囲んだ。
「グアァッ!」と、威嚇する声をあげて1体のコボルドがアークに斬りかかった。アークは横に飛びのいて攻撃をよける。
さらに、1体が飛び出して剣を振り回した。ブゥンという派手な音の斬撃を、アークは姿勢を低くしてかわした。コボルドの剣は、木の幹に食い込んで固まった。
アークは鞘のついた剣を振り上げた。剣を食い込ませて動けなくなったコボルドの後頭部に叩きつけた。
コボルドは「ガッ!」と叫ぶと、木にもたれかかって動かなくなった。
もう1体のコボルドに近づいた。うろたえたコボルドは、なすすべもなく剣の一撃でうつ伏した。
残ったコボルドは剣を手に森のなかを逃げていった。
「待ってくれ! 逃げられたら困るんだ!」アークは追った。
木の根に足を取られて走りにくい。このまま離されては大変だ。
前を走っていたコボルドの姿が見えなくなった。と、思ったら、ぶざまにひっくり返っていた。巨木の根で、足を滑らせたのだろう。アークは近づいてコボルドを一撃でしずめた。
コボルドたちを縛り上げると、アークは砦に戻った。見つからないよう身を隠しながら門のあたりをうかがう。
セリシアは「自分が戻るまで待っていてくれ」と、言っていた。とはいえアークは、何かあればすぐにでも砦に踏み込むつもりだった。
砦からは何の気配もしない。侵入は成功したのだろうか。静かすぎるのがかえって不安だ。もしや、すでにやられてしまったのか。不吉な思いにとらわれて立ち上がったとき、背後に気配を感じた。振り向くとセリシアがいた。
「セリシア! 砦に入ったんじゃなかったのか!?」
「それが……変なのよ」
「変?」
アークはセリシアとともに砦に入った。
入り口の近くには、3体のコボルドが血を流して倒れていた。セリシアにやられたのだろう。
砦のなかは物音ひとつしない。魔物の気配はなかった。
「魔物はいないのか?」アークは訊いた。
「この見張り以外、いないみたい。建物のなかも見たけど……」
アークは耳をすました。何も聞こえない。砦のなかに魔物はいないと思えた。
「アーク、どう思う? まさか、ワナなんてことは……」
「砦を空けて、どこかに行っているのかもしれないな。調べるなら、今だ」
セリシアはうなずいた。
ふたりは砦の奥へと進んだ。
※
砦の中央を、広い道がまっすぐに延びていた。左右には木造の建物が並んでいる。まるで人間が作ったように、しっかりした造りだ。
右側にある大きな建物に近づいた。開いていた入口からのぞくと、なかは広い空洞のようになっていた。
高い天井を見上げながらセリシアが言った。
「なんの建物かしら……」
「巨人族がいるのかもしれないな」アークが答えた。
「巨人!?」
「見つかったら、すぐに逃げるんだ。やつらは力が強いからな。――セリシアのすばやさなら余裕だよ」
道の左側に並んでいる建物は普通の大きさだ。木窓からなかを覗くと、人が使うような寝床が並んでいた。
「討伐隊は……いないわ」セリシアがため息をついた。
「ここは兵舎のようだな」
さらに進むと、大きな建物の陰に、石造りの粗末な小屋があった。一人か二人しか入れないような大きさだ。壊れかけた扉を開けてなかに入った。
うす暗い屋内には何もなかった。しかし、むき出しの地面には、地下へと続く階段があった。
入り口から奥は見えなかった。
「もしかしたら、このなかに……」セリシアが言った。
アークは真っ暗な入り口をにらみつけた。
「イヤな感じがする。本当に行くのか? セリシア……」
「うん……。覚悟はできている。何があっても驚かないわ」
セリシアの取り出したランタンに火を入れると、ふたりは階段を降りた。
※
低い天井を気にしながら、アークとセリシアは石壁に囲まれた地下道を進んだ。
しめっぽい、カビ臭い空気が体にまとわりつく。次第に妙な異臭が強くなった。暗いせいか、通路はやけに長く感じられた。
進むにつれて通路が広くなっていった。奥に光が見える。どうやら、天井から地上の光が入っているらしい。
さらに行くと、奥は大きな広間になっていた。
広間の石壁に、もたれかかるようにして並んでいる異物があった。人間だ。人の形をしている。
よく見ると、広間の床には数十もの人が倒れていた。どれも皆、動かない。
突然、セリシアが走り出した。呼吸の乱れから、ただならぬ様子をアークは感じた。
セリシアは、うつ伏せで倒れるひとりの男の前で立ち止まった。がくっと崩れるようにひざをついた。
苦しげに息をしながら、何かを小声でつぶやいている。
「ごめん……、ごめんね……」
アークは、セリシアの背中にゆっくりと近づいた。
「親父さんか……」
セリシアは、震える声を押さえつけるようにして言った。
「遅くなっちゃったね……。苦しくなかった? お腹が空いたでしょ。お父さん、最近、体が冷えやすいって言うから、心配してたんだよ……」
アークは、うつ伏せで倒れている父親に近づいた。
「……これじゃあ、苦しいだろう。起こしてやってもいいか?」
「うん……」セリシアは、真っ赤な目でうなずいた。
アークは父親の体を起こして、あお向けに寝かせた。体はすでに冷たく、こわばっていた。顔がやつれている。爪は欠け、指先が黒く汚れていた。満足な食事も与えられず、強制労働をさせられていたのだろう。
両手を組ませようとして、左手に何かを握っているのことに気がついた。
「何だ……?」
手を開かせた。指だけは思いのほか柔らかかった。
セリシアの父親が持っていたのは、長方形の金属のプレートに、細い鎖がついたアクセサリーだった。
「これ……」セリシが気づいた。「ずっと前、私がお父さんの誕生日にあげたブレスレットだわ。こんなもの持ってきてたんだ。でも、どうして……」
アークは、ブレスレットとセリシアを交互に見た。
「親父さん、セリシアに、このブレスレットを持っていってもらいたかったんじゃないか」
セリシアは、ブレスレットを取り上げた。手のひらに包んで握り込む。その手が小刻みに震えた。
セリシアは、倒れるように父親に覆いかぶさると、その胸に頭を押し付けながら泣き叫んだ。
「……う、ううぅっ! うわあああぁぁぁっ!! お父さん! お父さん! どうして!! どうして死んじゃうのっ!! お父さんっ!!」
アークは、それを見ていた。
※
セリシアが落ち着きを取り戻し始めたところで、アークは切り出した。
「セリシア、もう行こう。魔物が戻ってくる前に――」
セリシアは濡れた頬をぬぐった。
「う、うん……。ごめん……」
「援軍を呼んで魔物どもを追い払ったら、親父さんたちを手厚く葬ってやろう」
「そうだね……」セリシアは父親に向き直ると言った。「お父さん、みんな、もう行きます。村は絶対に守るから、安心して眠っていてね……」
セリシアとアークは通路を引き返した。地上への階段が見えたところで、アークが立ち止まった。
「変な気配がするな……」アークは見上げながら言った。
「気配? 気配なんてわかるの?」
「いや、においというか、音というか……。魔物が戻ってきたのかもしれない」
「えっ! 本当に!?」
アークは振り返ると、「俺が見てこよう。セリシアは万が一にそなえて、ここで待っていてくれ」
「そんな……。大丈夫なの?」
「ちょっと見に行ってくるだけだ。ひとりの方がバレにくいからな」
アークは目で安心するようにいうと、階段をのぼっていった。
セリシアは、冷たい壁に張り付くようにして息を潜めた。耳をすませても何も聞こえない。においをかいでもカビ臭いだけだ。仕方なく、言われたままにアークを待った。
……遅い。緊張しているせいで、時間が長く感じるのだろうか。それでも遅い気がする。
魔物が戻ってきたのなら、騒がしくなってもいいはずだ。が、それもない。さっきから針が刺さったように痛む心臓が、ついに激しく脈打ちはじめた。
耐えきれず、セリシアは階段をのぼった。
※
階上にあがった。
地下にくらべると、小屋のなかはずいぶん明るく感じられた。
古びた扉のまえで耳をすませる。と、突然、扉が開いて、セリシアは鼻をぶつけそうになった。
現れたのはアークだった。
アークは目を見開いて言った。「おおっ! 驚かすなよ……。こんなところにいたのか」
「こっちこそ……」セリシアは胸をなでおろした。「遅かったから、心配して見に行こうとしてたのよ。それで、外の様子は?」
「あぁ、魔物が戻っている。はやく逃げよう」
「えっ!? ど、どうしよう……」
「正面の門から出るのは無理だな。見てきたが、反対側の壁をよじ登るしかない。俺についてきてくれ」
セリシアとアークは小屋を出た。
小屋の陰に隠れて逃げる際、門の方を覗くと、確かにコボルドの兵士らしき魔物が戻っていた。やはり魔物たちは、一時、砦を空けていただけのようだ。
「はやく! 急いでくれ!」
「わ、わかった!」
アークの案内で、セリシアは砦の奥に移動した。
※
砦の奥は建物がなく、広場のようになっていた。
高い防壁が周囲を取り囲んでいる。かなり頑丈そうだ。簡単に壊せるものではない。
アークは角にある、防壁よりも高い見張り台を見て言った。
「あの塔のてっぺんから、防壁の上に出れるな」
見張り台には、はしごがついていた。防壁の上まで行って、ロープで降りれば脱出できそうだ。
「行こう!」セリシアは走り出した。
なかごろまで進んだところで気がついた。アークがついてこない。立ったまま、こちらを見ている。
「急いで!」
アークは動こうとしない。
「はやく! 何してるの!?」再び呼びかけると、
「俺はいかない。逃げるのはセリシア、お前ひとりだけだ」アークは言った。
「何を言ってるの!? はやくしないと魔物が……」
「くっ! うくくっ……」
アークは顔を手で覆うと笑い声をもらした。
セリシアはわからなくなった。そのとき、防壁の上からバラバラと音がして、数体のコボルド兵が現れた。
「あっ! 先回りを!?」
さらに、建物の陰から何十体もの武装したコボルド兵が飛び出してきた。あっという間に、セリシアとアークを取り囲んだ。
「アーク! 魔物がっ……!」
セリシアがアークに向き直ると、
「うっ……くくっ……! ぶはっ! あはは! あははははっ!!」
アークは、堪えきれないとばかりに大声で笑い出した。
セリシアの背中が急に冷たくなった。自分には想像もできないことが起きているのだと思った。
遠くにある一番大きな建物が動いた――気がした。
セリシアは目を見張った。建物が動いたのではない。陰から現れたのは巨大な魔物――〈トロール〉だった。
灰色っぽい緑色をした肌。上半身は、岩を貼り付けたような奇妙な筋肉をしている。背を丸めた姿勢でも、コボルドの2倍以上は背丈がある。まさに巨人だ。
「グッ……グッ……グッ……!!」トロールは、魂が消し飛び消しそうなほど恐ろしく低い声で笑った。
「ほら、はやく逃げるんだ、セリシア。でないと、捕まって殺されちまうぞ? 子うさぎみたいに! アハハハッ!」
回りを取り囲むコボルドも、トロールも、セリシアを笑った。
「アーク……、あ、あなたは……」
「魔族だよ」アークはあっさりと言った。「今度から、見ず知らずのヤツを助けるときには、ちょっとは素性に気を付けた方がいい」
「騙したの……?」セリシアは震えを押さえながら言った。
「勝手に間違えたんだろ?」
「うっ……! ううぅっ!!」
セリシアは振り向くと、見張り台を目指して走った。剣を抜き、コボルドの囲みを突破しようとした。
「逃がすなよ」
アークが言うと、防壁の上からコボルドたちが何本もの矢を放った。
「あっ!!」
セリシアは叫んだ。熱い。左足だ。矢の一本がかすめて、太ももの肉を削り取っていた。
セリシアは顔から地面に倒れた。
「なんだ、もうおしまいか……」アークが呆れたように言う。
トロールが大木のような片脚を前に出した。地の底からひびくような声で言った。
「……おいっ! 余興はもういい! さっさと殺せ!!」
まわりのコボルドたちがバラバラと剣を抜いて、セリシアに近づいた。
セリシアは地にうつ伏していても、体が浮いているような不思議な感じがしていた。今、目の前で起きていることが、現実とは思えない。悪い夢でも見ている気分だ。
夢ならば納得できる。突然、アークが、セリシアを殺そうすることにも。
しかし、脚の痛みは本物だ。今にも殺されるだろう恐怖も本物としか思えなかった。
人が、夢で死ぬことなどあるのだろうか。あるのかもしれないと思った。厳しすぎる現実を前に、狂って生き続けるよりは、夢のなかで死ぬ方がやさしい。
あるいは、自分はすでに狂っているのかもしれなかった。本当のアークは、発狂したセリシアを前に、為すすべもなく頭をかかえているのだ。あの困ったような、沈んだ目を向けながら。
それとも、死んだと思っていた父は本当は生きていて、いつもように、くだらないことを言っては、ひとりで大笑いしているのかもしれなかった。
セリシアは、まぶたを固く閉じた。そうすれば目が覚めると思った。
「……さっさとやれ!!」トロールが言った。
セリシアのまわりでコボルドたちが剣を振り上げた。
「おい! やめろ!」
遠くから声がした。アークだ。セリシアは不思議に思って顔をあげた。
建物の陰から現れたのは、紛れもなくアークだった。苦しそうに首筋を押さえている。
「くだらないマネをっ……!」アークは見たことのない怒りの表情で言った。
「なんだ……。もう目が覚めちゃったか」近くにいる、もうひとりのアークが言った。
トロールが大きな声をあげた。「どういうことだっ!? 殺したのではなかったのか!!」
「うるさいなぁ……。叫ばなくても聞こえてるよ」
「さては、兄弟だからと目をかけたなっ!?」
「はぁ? バカか? お前……」怒鳴られたアークは、トロールを鋭く睨みつけた。「ボクたち上級魔族と、お前ら下級魔族を一緒に考えるな!」
「ヤツの処分は、貴様の任務だろう!!」トロールも睨み返す。
「そうだよ。だから、口を挟むなって言ってるんだ」
「ぐっ……ぬぬ……!!」
「やってくれたな、イーオ!」
あとから現れたアークが言った。「殺されたくなければ、その似てないモノマネを止めて、さっさと立ち去れっ!」
「……ウフッ」
突然、〈イーオ〉と呼ばれたアークのまわりに白い霧が現れた。輪郭がぼやけ、霧のなかに溶けていく。霧は風にあおられるように舞い上がると、見張り台の上に集まっていった。そこで、再び人の輪郭を描いた。霧のなかから、若い男が一歩を踏み出した。
雪のように真っ白な長い髪。同じくらい白い肌。服装も白で統一されている。瞳さえ白っぽい灰色をしていた。ニヤニヤと笑う口のなかだけが赤い。それがなければ生きものには見えなかっただろう。
「つれないなあ……。久しぶりの再会じゃないか。おにいさん」イーオは言った。
「イーオ! ふざけた真似をっ!」アークは叫んだ。
「それはこっちのセリフだよ」
イーオは真顔になると言った。「そもそも、後方支援が専門のボクがこんな前線によこされたのも、軍を捨てて逃げ出した、あんたのせいじゃないのか? おにいさん」
「うるさいっ! お前と話すことはない!!」
「フフッ。まぁ、いいや。ボクだって怪我はしたくないからね」
イーオの体が霧になって溶けていった。消える間際、トロールたちに向かって言った。
「お前たちも、さっさと逃げろよ。……死にたくなければな」霧のなかの目が、アークを見すえた。「じゃあね、おにいさん。また会おう。……次は、満月から遠い夜にでも」
白い霧は、空気を割るような笑い声を残して、空に溶けていった。
※
アークは剣を抜いてコボルドたちを追い払った。セリシアを抱き起こすと言った。
「無事か!? セリシア!」
セリシアは夢を見ているような、ぼんやりとした瞳をしていた。
「……アーク? 本当に?」
「すまない……。俺のせいで……」
「魔族……だったの?」
アークはうつむいて言った。「あぁ、そうだ……」
「どうして……。やっぱり、私をだましていたの?」
「ちがう! 俺は、本当にセリシアを助けたくて……!」
「でも、あなたは、あなたは……。何者なの……?」
「俺は……」
※
アークは、瓦礫の山と化した街のなかを歩いていた。
そこらじゅうから炎が噴き上がる。焦げくさいにおいが鼻をついた。
もとは、このあたりで一番、栄えた港町だったという。しかし、魔物の侵攻を防いできたという強固な防壁も、今や歩きにくいだけの障害でしかない。逃げ遅れた街の人間も、後に続くの部隊によって皆殺しにされたことだろう。
噴き上がる炎が暗い空を照らした。
――さっき、子供を見た。
布できた人形を大事そうに抱えていた。
あの人形は、どこかで見たことのある気がする――。
恐ろしげな音を立てながら風が強くなっていった。街を燃やす炎が乱気流を起こしている。風はどんどん強くなり、やがて嵐になった。
強風が炎を巻き込む。巨大な火柱が生まれた。火柱は、蛇のように空へ伸びていった。何本もの火柱が立ちのぼる。街を焼き、空を焦がしていった。
《あの人形は、どこで見たんだ……》
アークは必死に思いだそうとしていた。どこかで見たことがある。とても大切なことのような気がした。
《……そうだ。母さんからもらった人形だ。あれに似ている……》
アークの母親は人間だ。そのせいで一族からは疎まれ、死ぬまで屋敷に幽閉された。一度しか見たことがない。やさしそうに微笑んでいたことを覚えている。そのときに手渡された手作りの人形だ。あれに似ていた。
目も開けられないほどの強風が吹いた。瓦礫が舞い上がり、火柱に飲まれていった。空を焼く火柱は、増長するように勢いを増した。真っ黒に焦げた人間の形をしたものも飲み込まれていった。
《……まったく同じ人形だったのかもしれない》
顔も形もよく似ていた。そう思うと、もう同じものにしか思えなくなっていた。
「……うううぅぅっ!!」
アークは崩れるように両ひざをついた。
「うぅわああああああああああぁぁぁぁぁっー!!」
声は、火柱のなかに飲み込まれていった。
※
「俺はっ……!」
アークは言った。
「俺の父は魔族だ! 母は人間だ! 俺は、自分が何者かわからない……! わからないんだっ……!」がっくりとひざをついた。
「アーク……」セリシアはアークを見た。
「街に……子供が倒れていたんだ……。俺は……、なのに……、何もできないで……」
アークはうずくまった。
「俺が、あの街を滅ぼしたんだ! あの子供を殺したのは、俺なんだ! 同じ人形を持っていたのにっ……! 俺は……、俺はっ……! うううぅっ……! うわあああああぁぁぁっ!!」
アークは口を大きく開いて叫んだ。泣き出したくても、涙は焼き枯れたかのように出なかった。
アークを見据えていたセリシアは、脚の怪我を押さえながら立ち上がった。大きくバランスを崩したが、持ちこたえると言った。
「アーク……。私は、魔物を絶対に許さない……!」
セリシアは、腰に帯びた剣を引き抜いた。刃が銀色の光を放った。
「でも、あなたは今、自分のことがわからないって言ったよね……」
ふっと表情をゆるめると言った。
「ごめんなさい。うさぎも殺せない、やさしいあなたを、こんな戦いに巻き込んでしまって……」
セリシアは、まわりを取り囲む魔物たちをにらみつけた。
「逃げて、アーク! あなたのこと、絶対に守るって言ったのにね……」
「何を言ってるんだ……」アークは、セリシアを見上げた。
「こいつらは私が引き受ける。ちょっと、大変そうだけど……」
「ムリだ! ひとりで戦うなんて!」
「ふたりでも勝つのはむずかしいでしょ?」
セリシアは、魔物たちに剣を構えた。「でも、あなたの強さと特技があれば、この囲みを突破できる。もし、村に帰れたら、このことを皆に伝えてほしい」
遠くから見ていたトロールが口を開いた。
「逃がすな。殺せっ……!!」
まわりのコボルド兵がバラバラと剣を抜いた。
セリシアは脚を引きながら走った。
コボルドに斬りかかった。が、速さのない攻撃は簡単に避けられた。さらに踏み込んで剣を振るう。それも宙を斬った。
コボルドが、セリシアに太刀を振り下ろした。セリシアは避けようとして体勢を崩し、ひざをついた。
「セリシア!」アークは叫んだ。
ガンッ! と、にぶい音がして、太刀がセリシアの肩口に入った。太刀は革の鎧を叩き斬り、肉を裂いていた。
「はやく! 逃げて!!」セリシアが声をあげた。
肩から指先にまで鮮血が流れる。乾いた地面に落ちた。
――真っ赤な血だ。
がれきの街のなかで、少年が流していた血と同じ色だった。アークの血と同じ色をしていた。
「やめろおおおおおぉぉぉっ!!」
アークは吠えた。
「――オオオオオオオオオオォォォォォッ!!」
狼の声だ。
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