全14件 (14件中 1-14件目)
1
毎朝歩かれている仲の良いご夫婦の提供 昔から我が家の前をウオーキングされていたらしいのだが、今年になってよくそのご夫婦と話しするようになり、5月ごろに磯津の海へ潮干狩りに誘ってあげてから感謝され、Kazの事を「先生、先生」と呼んでくれてほぼ毎朝親しくお話しさせていただいてる。 今朝も8時前くらいに「日本経済新聞」の夕刊に「高木ブーのウクレレの記事が載ってた」と言って9月13日からシリーズで上がってる「こころの玉手箱」の記事が掲載されてる「日経新聞」を持ってきていただいたので早速このブログでアップさせて頂きます。 この高木ブーさんは2007年の7月25日に「河芸マリーナ」でハワイアンバンド「高木ブーとニューハロナ」と言うバンドが夏祭りの夜に招かれた時にわが”レイハワイアンズ”が前座を務めさせていただいたが、ブーさんは杖をついて舞台へ上がってきてかなり弱ってた印象だったが「さすがプロのバンドでイントロやエンディングはしっかりしているなあ」と思った。下のポスターはその当時のものでレイハワイアンズの写真などはもう色あせているがアップします。その当時のブログにも挙がってた。 昨夜は「マリーナ河芸」で2時間の連続演奏でお疲れさま 「音と光の祭典」で元ドリフターズの「高木ブー」さん率いるハワイアンバンド「高木ブーとニューハロマ」を招いてのイベントに「レイハワイアンズ」が前座を務めたんじゃ~17:30~18:20まで14曲を18:40~19:30まで12曲の演奏をやったんじゃよ~真ん中の20分もウクレレで参加したから120分立ちっぱなしバンドの最終練習は13:00~15:30で15:30~16:30は舞台上でのリハーサル 舞台上でのリハはこの所の蒸し暑さで蒸し風呂状態なのだ~体力もこの段階ではもう残ってない状態さ~好きなことだから誰も文句は言わないがほんまにしんどい事であった高木ブーさんはかつての元気はまったくなしでっぷり、ぷっくりの巨漢は立って歩くのもままならず付き人が手を取って舞台へ上げ手を引いて舞台を降ろす舞台では椅子に座ったまんまで譜面を見ながらWネックのウクレレを弾いてくれたのじゃ~演奏した曲は古いものばかりで 珊瑚礁の彼方、ブルーハワイ、小さな竹の橋、(いわゆる青竹さんご)や南国の夜、涙そうそうとカノホナピリカイの組み合わせ純ハワイアンではマウナロア、ワッサマラユーであったが今流行の「千の風になって」もやっていたこれは我々「レイハワイアンズ」とバッティングしていたがそばにいたお客が「レイハワイアンズのほうがうまいじゃん」と言っていたがKAZも「そうだ、そうだ」とうなずいてしまったのじゃ~「千の風・・・」は「レイハワイアンズ」として2回しか練習してないが たくさんの人が「すばらしいハーモニーだった」と褒めていただき中には「涙が出てきた」といってくれたので嬉しかったね~最後に300発の花火で締めくくり楽しい1日であった 「レイハワイアンズ」の演奏を見に来ていただいたお友達、荷物の運搬を手伝っていただいたウクレレ教室の生徒さん、ご声援いただいたHULAのお姉さま方にお礼を申し上げますマハロ~
2021.09.16
コメント(0)
10年以上の間レイのメンバーでした 森さんとの出会いはKazがシェトワ柏楊でウクレレ教室をやってる頃に生徒で入って来て以来だから12年になるのか? ハーモニーに熱心で低音パートを受け持って貰ったが時にはハワイアンらしいバリトンで、まるでケアリーレイシェルのような唄も披露していただいた。 地元の夏祭りなどをプロデュースしていただき、ともに出演したのを思い出す。 昨年の8月に行われた「豊ヶ丘夏祭り」 三重アロハ会の会長も 多くの想い出が蘇ってくるが、この会長職を大井さんの後を受けて長い間頑張ってこられたのは彼の誠実さと、ハワイアン音楽に対する姿勢が常に前向きで真面目であった事だと思われます。 昨年の第12回三重ハワイアンフェスティバル で挨拶する森会長 今日はメンバー4人で積もる話をしながらこれまでの功績をねぎらって来ようと思ってる。昨日作曲した”マカホウ”のテーマ ほぼ完成したが、前に”レイハワイアンズ”を作った時は4番まで歌詞をつけて、長くなって結局唄われずにお蔵入りになったので、歌詞は1番だけにして時間は80秒くらいに抑えたほうが長く使っていけるんじゃないか?
2020.07.13
コメント(0)
我々が訪ねた東日本大震災は仮設住宅 2013年5月、四日市大学のグループに乗っかって訪れた宮城県の東松島市の山根地区では2年が過ぎているとあって仮設住宅が20戸くらいあって、最初は公民館の一室で仮眠。 2日目は山根地区にある民宿で泊まっていた。 山根地区の仮設住宅
2020.03.10
コメント(0)
レイハワイアンズは今年も平安でした 高齢化が進み、レイも平均年齢77歳になる?寄る年波にはあがら得ず、呑み込みも遅くなってきたがそれなりにみんなで力を合わせ頑張ってきた。 予定した行事もすべてをこなし、また来年に向かってみんなで協力しながら頑張っていきたい。 メンバーはじめマカホウのみなさんやHulaのみなさんにも支えて頂きながら新しい2020年に向かって頑張っていきます。 ことしはどうもありがとうございました。
2019.12.31
コメント(0)
世間では自然災害が多発したが 2019年も、もう終わろうとしている。大きくは日本全体が自然災害が多発し、未曽有の災害を目の当たりにしたが、これも地球温暖化の影響で50年に一度、100年に一度と言うのが毎年繰り返されるが、これは政治の中で世界が力を合わせれば解決できる問題だろうが自国の経済発展のために、と目をつむっているのはアメリカや日本。 トランプさんに尻尾を振っているから何もリーダーシップを発揮できないばかりか、世界からひんしゅくを買っている石炭火力発電をまだまだ作り続けてグレタトゥンベリさんには名指しで非難されている。 一方、少子高齢化ももう10年以上も前から新しい「少子高齢化担当大臣」なるポストを設け保育園の無償化、子育て対策に月額2万円? これくらいの対策では子供は生まないんだろう!思い切った事をやらない限り子供は増えない。 また、一強多弱にあぐらをかき総理大臣の多選も続き官僚の内閣府の管理になってから”忖度”政治ばかりが目につき、こうしたことには自民党政治を選択した国民が強いものにあこがれを抱いていることを是としてるから、もう日本は終わりなんじゃあないか?スポーツの世界では女子ゴルフが新しいヒロインが生まれ、活況を呈している。ラグビーの世界でも日本は8位に入りすごい人気だとか。 政治家もニューヒーローが求められてるが”小泉進次郎”さん環境問題でも何も発言できなかったし、国内でも不倫問題が発生していては無理。 やはり日本はもう終わりだろう! 女性問題担当相なんぞ作ってきたが日本は政治家、女性管理者の割合が世界では最も進んでない国のひとつでこれまた政治の貧困のなせるわざ! 我々の時代はよかったが子や孫らの時代は日本は世界から取り残され北朝鮮からも相手にされなくなっているのは間違いない。 初めに戻るが”自然災害”を最も受ける国は日本なんだそうなので、グレタさんに非難されないように願いたいものだ。
2019.12.31
コメント(0)
2019年の音楽活動を振り返って3 もうこの年になってからは新しい事への挑戦にはためらいの事の方が強くて、これまでやって来た事を踏襲する日々だが、音楽活動には結構充実していた2019年であった。 9月15日・・・・三重北地区敬老会で演奏 ここ こちらにはレイマカホウが演奏し、フラは 地元のスイートレイが踊ってくれました。 9月16日・・・・ライブハウス「蒼の郷」初出演 このライブハウス「蒼の郷」はフラのKさんが 同級生だった事から実現したもので今後も やって行きます。 10月15日・・・・わがままライブ このライブはKazのやりたい曲をチョイスして 四日市ケアシステムで行ったものだが駐車場の 問題や、使用料の問題でもう行うことはない。 11月13日・・・・コスモ石油OB会出演 この日は都ホテルの朝明の間の大ホールでの演奏。 Hulaは”メアフラミューズ”のみなさんでしたが また、2020年も依頼が入っています。 11月17日・・・・マーリエアロハさんのHoike こちらも毎年この時期に「湯の山温泉」の”希望荘”で 開催しているもので楽しいHoikeでした。 11月23日・・・・アロハサークルさんHoike プラトンホテルでの演奏でしたが、こちらも もう5~6年出演しているものだが華やかで 楽しい催しでした。 11月30日・・・・マンスリーライブ こちらはミニクリスマスとして行った蒼の郷ライブ でした。久しぶりにお会いした高橋先生もお元気 でした。 12月21日・・・・クリスマスパーティー 今年の締めくくりはクリスマスパーティー。 こうしてレイグループのイベントは無事終了しました。
2019.12.29
コメント(0)
2019年の音楽活動を振り返って 今年も健康で音楽活動に、ゴルフや魚釣り、そして皐月盆栽にと楽しいことをいっぱい楽しむことが出来た。 これも沢山の仲間や家族がいて、健康で居られるから人生を謳歌することが出来るんだと、健康で居られることに感謝しながらもう暮れようとしている2019年の音楽活動を振り返ってみたい。 1月19日・・・・マンスリーライブ ここから この日は高橋さんがインフルエンザにかかり欠席。プラトン ホテルに多くのHulaの仲間が来て頂きハワイアン音楽を 楽しんだ。 1月20日・・・・メーベライブ 津市丸の内にある河合さんのお店「カフェメーベ」 でライブがありレイグループも出演。楽しいライブ でした。茅ヶ崎からも沢山きていました。 2月24日・・・・マンスリーライブ この日は河合さんや中道さんも参加して頂き ハワイアンを楽しみました。 3月23日・・・・マンスリーライブ この日はプアレフアさん中心のライブでしたが バンドはマカホウ単独でした。 4月20日・・・・マンスリーライブ この日は初参加のMaikai puaの皆さんがきてくれ 楽しいライブ」になりました。 4月28日・・・・小古曽地区イベント この日は地元のフラグループ”Aloha Pili"さんが 踊って頂き大いに盛り上がりました。 5月12日・・・・第12回三重ハワイアンフェスティバル この会はもう12回目を迎え、レイハワイアンズも 連続出場の記録。会場は満席状態で楽しいイベント になりました。 6月2日・・・・四日市楠地区イベント 楠地区の菊水園の老人会での演奏はマカホウが勤め ました。このあとの食事会は次の通り。 6月15日・・・・マンスリーライブ この日は滋賀からも身重のおていちゃんが駆けつけて 頂き、ライブを盛り上げて頂きました。 今日はここまで
2019.12.27
コメント(0)
エデンも首になり会社のバンドも解散 28歳ころまでハワイアンバンドをやってたが、周囲の環境もハワイアンでなくなり、友人たちも次々と結婚していく中、同期の中では最後となった独身も1970年2月22日に結婚し、ハワイアンの世界から暫くおさらば。 新婚旅行では札幌の「手稲オリンピア国際スキー場」に行くのに、東京の「ホテルオークラ」で泊まった(新婚初夜)22日の夜には家内を伴って銀座「タクト」でのハワイアンショーを見にいったが、この時もバッキーさん(アロハハワイアンズ)が出てて久保内さんに「ケカリネイアウ」を唄ってもらったのを覚えてる。手稲オリンピア国際スキー場は「札幌オリンピック」の前の年でリフトも増設されてて、スキーを堪能し温水プールにも入ったが、ここでもハワイアンバンドがあった。
2018.10.28
コメント(0)
ハワイアンの殿堂、銀座「タクト」の話 Kazがハワイアンバンドに傾注してたころ、いわゆる‘エデン時代”にはプロのハワイアンバンドが演奏するライブハウスが東京にあって月に1回くらいの割合で上京し、銀座のすずらん通りにある「タクト」に勉強に通ってた。コーヒー1杯で300円くらいだったと思う。 昭和33年~48年・バッキー白片とアロハハワイアンズ ・大橋節夫とハニーアイランダーズ(渚ゆう子) ・ポス宮崎とコニーアイランダーズ(南カオル) ・山口銀次とルアナハワイアンズ(日野てる子) ・大塚竜夫とパームセレナーダズ(エセル中田) ・白石信とナレオハワイアンズ ・原伊佐男とホノルルダンディーズ・山下洋治とファイブサウンズ(三條正人) ・亀田四郎とブルーエコーズ・小林隆とブルーハワイアンズ ・大久保英明とヒロハワイアンズ ・ジョージ根本とハワイブラザーズ ・三浦正弘とアロハブラザーズ ・ジョージ松下とアイランドキングこんなバンドが出演してたが、Kazが好んで見ていたのはバッキーさん、オッパチさん、ポス、山口ぎんちゃんひげの大塚さんら。バッキーさんのボーカルは最初の頃は原伊佐男さんだったが1967年頃には「久保内成幸さん」に代わってたが、このころの「アロハハワイアンズ」にはバッキーさんの息子さんらが入ってて長男與(あたえ)さんがギター、健(たけし)さんがベース、修さんがウクレレやってて久保内さんがボーカルとウクレレしてた。 この この写真は現在のアロハハワイアンズで写真左から 長男與さん次男修さん四男健さん(前2人は??) こちらは現在の久保内さん・・・・ハワイにてこの久保内さん、唄は素晴らしいファルセットと甘い唄声で魅了してたがまた別のところでその魅力を存分に発揮してた。それは司会(MC)・・・・・・・・ウイットに富んだ話っぷりと江戸っ子弁、甘い声は演奏もさることながらその話術が素晴らしく、学生時代(成城大学)からプロに入って確かラジオ番組(文化放送)のディスクジョッキーもやってた。
2018.10.27
コメント(0)
1968年のいつごろだったか このころになるとだんだんエデンのお客様は空席が目立つようになり、「なんでかなぁ」「何でかなぁ」と思いながら夏のある日、マスターの後藤長六さんから「もう来月からはバンドは入れないから辞めてくれ」と言われ首宣告が。1966年にはビートルズが来日してたが、このころには新しいジャンルの音楽が次々と発表され、ベンチャーズの「パイプライン」が発表されたり、吉田拓郎が1966年アマチュアで出てきたころ、ボブディランの「風に吹かれて」も日本で大ヒットして新しいジャンルの音楽が次々ヒットしてた。とうとうハワイアンバンドもこのころになると企業のバンドや学生はこぞって「フォークソング」「エレキバンド」「ロックバンド」へと様変わりしていった。「エデン」を首になったKazは、会社のバンド「レイハワイアンズ」も解散し1970年2月に結婚する事に。 ハワイアンバンドはみんな彼らに淘汰されていった。
2018.10.26
コメント(0)
当時は音楽に飢えてた時代 Kazはダンスにも興味があって、エデンの地下1階のアルサロがダンスパーティーをする時などには演奏もさせられたけど(喫茶と掛け持ちの演奏もした)自分でもダンスもたのしんだ。通常はチェンジバンドが入ってて生演奏で踊ってたのを思い出す。そのバンド、4~5人のコンボバンドで四日市郵便局の東にある「浦島薬局」の旦那さんや南納屋の「高井さん」らが演奏してて仲良しになり、欠員が出るとギターで参加したことも・・・・・・・・清水さんや鈴木くんらはエデンの演奏が終わるとファンが待ってて帰りには連れだってどこかでデイトしてたらしい。時々はバッティングし、そのおこぼれでKazも安井外科の看護婦さんとデイトした事もあった。社内バンドの「レイハワイアンズ」もその合間をぬって練習してたが、本番はダンスパーティーの演奏で他の企業へも出かけて行ってダンスパーティーの演奏したのを思い出す。当時エデンにもジュークボックスが置かれ、1曲10円くらいで好きな曲が聞けたがレコードはドーナツ盤で50曲くらいしか入ってなかったかも? このころ隣のキャバレー「クイーン」にはよく有名歌手が来てて、出演の合間にコーヒーを飲みに来てたが水原ひろしやアイジョージに「リリーアイランダース」の演奏を聴いてもらった事もあった。
2018.10.25
コメント(0)
会社も当時は鷹揚で黙認していただいてた Kazがエデンに出入りしていることはすぐに上司にも知れることになったが、当時の真野課長はKazを呼びつけて「状況を教えてくれ」と聞かれ「会社のハワイアンバンドはみんな素人でエデンのバンドマンもみんな大会社のサラリーマンでよく知ってるから勉強しに行ってる」と答えたら課長は「うまくなれよ!でも目立たんような」むしろ応援してくれているような発言にびっくりしたのを覚えている。エデンのマスターは当時市会議員などをやっておられた後藤長六さん(故人)で南部丘陵公園の設立者で四日市の名士であった。後藤長六さんの娘さんが高校生の頃バイトにきて忙しいときには手伝ってたが今はオリンピア(スポーツジム)でHulaをやってるので時々はお会いする。料理長(今で言うシェフ)は伊奈さん?でその弟子の村山くん(Kazと同い年)とはよく魚釣りにも行ったのを覚えている。ウエートレスにノンちゃんという可愛いい娘と結婚し西新地に居酒屋をやってたたので2~3回行ったが今はどうしてるかなぁ?もう1人ウエートレスでかわいい子も居たが鈴鹿の市会議員と結婚し、石薬師に住んでいるが石薬師の集会所で演奏に行ったのを思い出した。まだレイに落合さんがいたころだった。エデンは地下1階が「アルサロ」になってて1階と2階が吹き抜けの喫茶店、3階はロマンス喫茶でうす暗い照明でシートはベンチシートでカーテンで仕切られた個室喫茶になってた。ウエートレスのみっちゃんがバンドの休憩室(3階)まで報告にきて「5番室のアベックが今キスしてる」とか「パンティー脱いでる」とか言ってくるからよく”覗き”に行ったものだった時には会社の仲間も3階に上がっていくのを演奏中に目撃したが宇坂くんや杉岡君もKazに見られてる。 まだまだ続くよ世間ではいまは”ハロゥイン”の季節 Kazは朝の自転車こぎやらウオーキングの途中で オビジャの前の土手にある銀杏の樹の下でギンナンを拾ってきて我が家の食卓に上げている。 また、柿を家内がもらってくるから、その柿を使って柿羊羹を作ったのが下記。 これ半分は食べてしまったが、もとになってるのは下記の柿。 今日はバンド練習In Kameyama 今日の練習は11月分で14日のコスモOB会と 25日のマーリエさんHoike 23日のプアレフアさんの分も少しはやっておかな いと・・・・・・・・
2018.10.23
コメント(0)
エデンでの演奏は渡辺さんの采配で 一番多くやったのは渡辺さんは勿論、清水さん、山口さん、須藤さん、島村さん。 ここに名前をあげた面々はみんな亡くなったが、今も元気で演奏してるのは合成ゴムの鈴木さん。エデンでよく演奏されてた音楽は・・・・・・・・ カイマナヒラ、フラオマキ、メカナニアオカウポ、アカカの滝、マリヒニメレ、スイートレイラニ、ブルーハワイ、珊瑚礁の彼方、リトルブラウンギャルなどであったが、マヒナの曲も、バッキーさんの曲もオッパチさんの曲も多くやった。 音楽に飢えてた時代だったのでリクエスト曲で印象に残ってるのは・・・・ 軍歌や、演歌もたくさん演奏したがダンスミュージックのベサメムーチョ、ラ・クンパルシータなども印象に残っている。 スチールギターは渡辺さん、マイク前は清水さん、Kazは後ろに立ってる。 Kazの左は須藤くん。 渡辺さんのスチールギターはハープギターで渡辺さん作製のオリジナル。
2018.10.19
コメント(0)
大井さんは歳上だったが思い出は多い 大井さんとの出会いは共通の師匠で渡辺さん(リリーアイランダースのリーダー)が引き合わせてくれたもので、Kazが音楽喫茶「エデン」にいるころに紹介してもらったのが初対面。 それからは時々エデンにはお客さんで来て”マイターネ”や”オールオブミー”など唄ってくれた。 ハスキーボイスでジャズが得意な方、という印象だったが最も強烈に覚えてるのは1964年くらいから始めた”四日市ハワイアンフェスティバル”で唄った”おんなひとり” この曲はデュークエイセスのナンバーでコーラス曲だが、その曲をハワイアンに取り入れて昭和石油のバンド”大井豊とブルーコースト”で唄ったが、これがまた秀逸ですごく印象に残っている。 当時のメンバーは大井さんはじめ、石田さん、西浦さん中原さんらが居た。それから5~6年、その四日市ハワイアンフェスティバルは続くがいつもブルーコーストは注目の的だった。 その後ハワイアンバンドはビートルズや、ベンチャーズに席捲され、Kazが27歳の1969年くらいにはハワイアンバンドは消滅し、暫くは何もハワイアンの消息は聞こえてこなかった。 1995年くらいに、また大井さんと再会するのだが、それは四日市ユートピアハウスという老人施設に再結成したバンド”アロハエコーズ”が慰問したとき、大井さんはお客さんで見にきてた。 勿論、渡辺さんの呼びかけで、大井さんも”アロハエコーズ”に加入してきた。 それから2年くらいは”アロハエコーズ”で活動するのだが、何せメンバーの数が多すぎて纏まらない。 Kazは清水さんらとエコーズを離れ”レイハワイアンズ”を立ち上げるのだが、ほどなくして大井さんも渡辺さんと離れ”ブルーコースト”を再建された。 あれから20年以上経つのだが、大井さんとはいわば同窓生。その当時の”アロハエコーズ”のメンバーは今、当時合成ゴムのメンバーでは鈴木さんしかいない。 名古屋ハワイアンクラブに参加した”アロハエコーズ” メンバーは左から渡辺さん、Kaz 清水さん、大井さん、鈴木さん、前川さん、橋本さん、辻さん 1996年だから 今から21年前。 これはユラックスに出演した時のもの この写真は(平成8年)1996年6月30日 ユラックスに出演したとき 明日は名張アピタ公演。 譜面台は大きいものを持参のこと。
2017.05.03
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1