Lemonhart755

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信長暗殺P02





信長が他の戦国武将と大きく違うのは、中世の権威を否定した点と言える。

だから宗教も否定していたと思慮される。

たとえば 父の葬儀に普段のままで現れ 香を投げ捨て去ったのもその例では無いだろうか・・・・?

また、二条城を造成したとき墓石を石垣の基礎に利用したりしている。

神仏だけでは無く不合理と思われる人間の存在は許せ無かったのだろう。

占いやまじない等で人々をたぶらかす宗教や幻術は許せなかったと思われる。

忍者もその部類に属していたと思われる。

天正年間 2度に渡って伊賀を攻撃し破壊している。


では、本能寺の変の引きがねとなった事案を整理してみよう。




その1 比叡山焼き討ち



信長は疑い深く独裁者的な性格の持ち主であった。

彼は軍事を最優先させ兵農分離を図り常時活動できる軍を有していた。

また政教分離を目指し宗教界の権威に挑み敵対した場合これを破壊した。

元亀2年(1571)5月 信長は、越前の朝倉義景、近江の浅井長政の軍勢が比叡山に入りこんだ時

僧を呼び信長に味方するようにいい反抗した場合はこれを焼き払うと申し渡した。

比叡山の僧たちはこれを無視した。

長年にわたり武士や朝廷や公家から攻撃を受けたことはないという安堵感があったためであるが、

信長は違っていた。信長は部下に命じて山門に火をかけた.

この行為は朝廷、公家、宗教関係者にとっては大事件で彼らには信長は精神異常者と映ったのに違いない。

日枝大社を含む比叡山は渡来系氏族にとっては聖なる山であった。

比叡山は延暦寺開祖の最澄の鎮護国家で天皇家との関係もあった。

その聖なる地を蹂躙した信長を彼らは許せなかったと推測できる。




その2 一向宗の根絶



宗教戦争における最大の敵は石山本願寺と一向一揆であった。

元亀元年(1570)から天正8年(1580)の11年間は一向一揆との戦いにあけくれ、彼らの根絶を行っている。

例としては、天正2年(1574)9月伊勢長島の一向一揆が屈服し長島を去ろうとして

船に乗ったところを銃撃し皆殺しにして残った門徒たちを柵の中に閉じ込め焼き殺している。

また 越前(福井県)でも一向一揆の根絶に乗り出し約13,000人を虐殺し

その他合計で3万から4万人を虐殺したと書物は伝えている。


最大の規模で行われたのが本願寺代11世門主顕如光佐との石山合戦であった。

鎌倉時代に親鸞が開いた宗派が 8世門主蓮如が出現し

天下に広まり一向宗、浄土真宗と呼ばれる一大教団に急成長し

その拠点を大坂石山本願寺に置いたことは皆さんが知っているとおりである。

蓮如、延如につづき、顕如は、紀州の雑賀衆を動員して信長に挑んだ。

雑賀衆は紀の川の河口を住む土豪であり、農業、海運、漁業を主としていたが、

専門は傭兵となって諸国の大名に雇われ戦っていたことである。

雑賀衆はその為、大量の鉄砲を用意しており 且つ早くから浄土真宗に帰依し門徒となっていた。

信長は、これを察知し雑賀衆の本拠をつぶすため雑賀攻めを行ったが目的は達成できずにいた。

他方本願寺では鉄砲の名手雑賀孫一を軍師として迎えていた。





その3 将軍義昭追放



将軍義昭は信長の強力な武力を得て将軍の座に付いた。

信長のロボットにすぎない。それを一番理解していたのは彼自身である。

彼は表面的には従う素振りを見せながら裏では信玄の上洛を工作していた。

だが 信玄は西上の途中、信州伊那で病死した。(真相は不明)

義昭はそれを知らず山城宇治で兵を挙げたが一蹴されてしまった。

そして 信長に追放された。ここに足利幕府は滅亡した。




その4 本願寺兵糧攻め



義昭は毛利輝元に援助を求めた。ぼんぼんの輝元はこれを引き受けた。

それと同時に西国大名達の取りまとめも成功したいた。

信長はそれを知り本願寺を討つには兵量を絶たなければと思い手を打った。

毛利討伐でその責任者が秀吉で、天正5年(1577)10月のことであった。

信長の軍は陸上では鉄砲を活用していたが、海上での経験は無かった。

毛利氏は本願寺に、食料や武器や弾薬を送りこむため織田水軍の囲みを破っている。

天正4年7月のことで織田軍の完敗であった。

信長はこの苦い経験から九鬼嘉隆、滝川一益に命じて鉄甲船の製造を命じている。

天正6年6月末、嘉隆の率いる7隻の鉄甲船は大阪湾に出現し

願寺援助のため来航していた毛利水軍600隻あまりを全て沈めて屈辱を果たしている。

この結果は本願寺派に大変なショックを与え孤立無援になった顕如に終戦を決意させた。

公家どもはこれを敏感に感じて正親町天皇の勅命という形で和解し

顕如は紀州鷺の森へ去った。

顕如の長男教如はその後も抗戦したが、やがて紀州雑賀に移って行った。

教如は立ち去る時、火を放ち3日3晩燃え続け灰に帰した。

しかし 教如を中心とした反信長勢力は依然雑賀に残った。




その5 伊賀攻略



伊賀攻めは、前期、後期の2度行われた。

前期伊賀の乱は、天正6年(1578) 次男信雄が信長の了解を得ず

丸山に城を築いたが 地侍の反撃にあい失敗している。

これを受けて天正7年9月に行ったのが第1次攻撃をさすが失敗に終わっている。

信長が急病になったと言うのだが、実際には本願寺との戦いで余裕が無かったと言うのが本音だろう。

天正9年8月 本願寺との決着が付いたことから信長は本腰を入れて伊賀攻めを計画した。後伊賀の乱である。

信長は約45000人の兵を動員し 民家、神社、仏殿を焼き尽くし

老人や子供までも殺略し包囲網を狭めていった。

忍びの者たちは夜間 ゲリラ戦を展開したが、信長軍はそれを知っていて

夜は松明をたくさんたいて対抗した。

10月8日最後の拠点、柏原の滝野城が落城した。伊賀は完全に焦土と化し 

信長は伊賀者の憎悪の対象となった。

ここは大変に重要な部分であると感じている。

信長は、歴史の表に出ないものたちの憎悪の対象となったことが。





























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