Lemonhart755

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大田道灌・北条早雲




江戸城を築いたことで知られるいる道灌は、資清の長男として相模国に生まれ

少年時代は鎌倉五山で勉学に励み、和漢を身につけた。

長じて連歌師の心敬や飯尾宗祇と交際し、自ら多くの歌を詠んだ。

さらに多くの古歌をそらんじ、それを実践に活用するのを得意とした。


例えば、このような逸話がある。

道灌はある夜、軍勢をひきいて進むうち、川に突き当たった。

しかし、暗闇が広がっていたため浅瀬がわからず、部下達はどこから渡ればよいのか迷った。

道灌は「波音の荒いところを渡れ」と命じ、自ら先んじて馬を川にいれやすやすと対岸へ渡ってしまったのである。

部下が「何故容易にわかったのか」と尋ねると、道灌は

「底ひなき淵やは山川の浅き瀬にこそ仇波は立て」という古歌を述べ諭した。

「日頃、歌を学び、詠むのを見て、人は風流と思っているようだが、それはちがう。歌は世の常、人の道を教えてくれるもんだ」。



道灌は文学的な才能が豊かだったが、機略の点でも優れていた。

道灌が上洛した時、将軍の足利義政は彼を饗応に招いた。

義政は見知らぬ客を見ると、飛び掛る猿を飼っていたから、その猿で道灌をからかおうとしたのである。

道灌はその噂を知ると、ひそかに猿の飼育係を買収し、猿を借りて宿舎の庭につないだ。

こうして将軍を尋ねるときと同じ装束を着て、わざと猿のそばを歩いてみた。

やはり猿は飛び掛ってくる。道灌はムチで猿を叩き伏せた。これを何度も繰り返すと

やがて猿は道灌を見ただけで首を垂れ小さくなった。

道灌は猿を飼育係へ返し、何事も無かったような顔で将軍を尋ねた。

義政は廊下に猿をつなぎ飛び掛るのを待っていたが、猿は道灌の姿を見ると首を垂れたまま身動きしない。

義政はその姿に「道灌という男は只者にあらず」と言って驚き、感心したという。



道灌は武将としてもすぐれていた。

当時、関東管領の上杉家は、山内家と扇谷家の二流に別れしのぎを削っていたが道灌は扇谷上杉家の家宰であった。

道灌は軍勢をひきいて関東各地の戦いに勝ち、勢力を広げていった。

そうなると面白くないのは、それまで優位を誇っていた山内顕定である。

危機感をもった顕定は道灌の主君である扇谷定正に「道灌に反逆の意あり」とそそのかした。

定正は道灌に絶対的信頼を寄せていたが、次第に不安感をつのらせていき、道灌を取り除く決心をする。

文明18年(1486)7月26日 定正は糟谷(神奈川県伊勢原市)にある館に道灌を招いた。

道灌の家臣は、何か魂胆があるのではと危ぶんだが 「主家へ伺候するのに胆などあるわけが無い」と出かけたのである。

道灌は館を訪れ、勧められるまま風呂に入った。 

ところが定正の軍勢が館を襲い、道灌は風呂場で斬られあえない最後を遂げた。 55歳であった。

機略に優れていたことが、主家の疑いを招き命を縮める結果となった。

道灌は謀殺された時 「当家滅亡!」と叫んだ と言われている。


☆☆☆ 馬鹿なTOPに仕えると部下は堪らない  ☆☆☆




北条早雲 (ほうじょう そううん)  


下克上の波に乗って戦国大名にのしあがったのが北条早雲である。

出身地も生年も不明であるが近年の研究では室町幕府の政所執事伊勢氏の一族だったことが確実視されている。

彼が歴史の表舞台に登場するのは、40代の半ば頃である。

彼の姉は駿河守護今川義忠の側室で竜王丸(後の氏親)をの生母である。

彼はその姉を頼って駿河に住むが、文明8年(1476)義忠は謀反を鎮圧した帰途、流れ矢に当たり死亡した。

この為、今川家に家督相続をめぐる内紛が生じた。


早雲は、幼い竜王丸が成人するまで小鹿範満(おしかのりみつ)が政務を担当

成人後は竜王丸にゆずるということで調停に成功し名を上げた。

ところが、範満は竜王丸が成人しても家督を譲ろうとしないため

長享元年(1487)11月、早雲は範満を襲い殺害し、竜王丸を国主に擁立した。

竜王丸はこの時17歳、元服して今川氏親と名のった。

早雲はこの功により興国寺城の城主となった。56歳位であった。


その後、明応2年(1493)伊豆に侵攻して堀越公方を滅ぼし、戦国大名として自立してゆく。

表舞台に登場するのが遅かっただけに智謀をめぐらせたし、用意周到な面もあった。


それは、早雲が残した家訓「21ヶ条」を見ればよく解る。

これは家臣達への生活規範であるが、まず「朝は寅の刻(午前4時頃)に起き

行水をして身を清め。その日の用事を妻子や家老に申しつけ、六つ(午前6時頃)以前に出仕すること」とある。

ずいぶん早起きでしたね。

起きてからは「厩、庭、門外まで一通り見回り、家人に掃除すべき所を命じよ」とある。

更に「顔や手を洗い、髪を結って神仏を拝み、支度を済ませて出仕せよ」等、細々と指示している。

夜は「六つ(午後6時頃)に門を閉ざし、台所や居間を見回り、火の用心をせよ」

「五つ(午後8時頃)以前には就寝せよ」と説諭している。


そのほかに

「刀や衣装は他人の真似をせず、見苦しく無ければよいと心得よ」

「何事にも他人の意見をよく聞くこと」

「時間があれば、ものの本、文字の書付を懐にいれ人目を忍んで勉学すること」

「上下万民に一言半句なりとも嘘を申さぬこと」 等日常生活の隅々までに及んでいた。

無論、家臣達がこれをきちんと守ったかどうかは不明である。

しかし、これほど気がつく早雲だからこそ、一国一城の主になりあがり、更に関東に勢力を広げることができたのであろう。


波瀾万丈の生涯であったが、戦国武将としては、極めて長寿で

永正16年(1519)8月15日に死去した時88歳であったと言われている。


☆☆☆ 遅いデビューであったが、たいした男である。せめて早雲のような一国一城の主にはなりたいものである ☆☆☆




尼子経久(あまご つねひさ) 2005.01.16


出雲守護代から守護の京極氏をしのいで戦国大名になった尼子経久は、山陰の梟雄として知られている。

山陰を制し尼子氏の全盛期を築いた力量には驚くほかないが、戦国の世としては84歳と長生きで、最後は老衰死だった。


経久は長禄2年(1458)出雲守護代尼子清定の嫡男として生まれた。

文明10年(1478)頃、経久は父の後を継いで守護代になった。

守護代となった経久は、寺社領や租税を押領するなど、公然と幕府や守護の京極政経に敵対行動をとり始める。

経久は才知にたけた武将として知られていたが、やがては政経に取って代わろうと意欲を燃やしていた。

政経はその勇猛ぶりを恐れ、文明16年(1484)、守護代職を取り上げ居城の月山富田城から追放した。



経久は25歳で放浪生活を余技無くされるが、2年後の文明18年(1486)正月、奇妙な計略を用いて月山冨田城を奪い返した。

城では毎年、元旦に万歳や鳥追いといった芸能者達が城内へ繰り込み新年を祝うのを慣わしとしていた。

万歳は太鼓を打ち、賀詞を述べ舞を演ずるもので、鳥追いは扇で手を叩きながら祝を述べる門付芸人だ。

経久はあらかじめ、城下の鉢屋党に協力を求め、芸人に扮して城内に送りこんだのである。

大晦日の深夜、経久は弟の義勝、譜代の郎党、鉢屋党ら、50人~60人と密かに大手門付近に隠れ、夜の明けるのを待った。

やがて、芸人に扮した鉢屋党の連中が太鼓を打ち、笛を吹き鳴らして踊り始める。

城主、塩治掃部介(えんやかもんのすけ)は大手門を開き芸人達を城内に入れた。

経久らはその隙に城内へもぐりこみ各所に火を放った。

大声で「火事だ、火事だ」と叫びまわると、城内は騒然となった。

武装した経久らは、城兵達におどりかかり、次々に切り倒して行った。

芸人達も鳥帽子や素襖を脱ぎ捨て、隠し持っていた大刀を抜き城兵に向かった。

敵襲と気づいた時には、多くの城兵が死体となっていた。

勝ち目のないことを悟った掃部介は妻子を刺殺し自ら腹を切った。こうして経久は、月山冨田城を奪回したのである。



経久はその後も勇猛に戦い、大永年間(1521~1527)には、山陰と山陽の11ヶ国を支配する大勢力を築きあげた。


経久はそのような勇猛な武将だったが、仁心に篤い至誠の人でもあった。

例えば、どのような身分の人でも差別せずに親しみ、真心には真心で応えた。

飢えた人には食や服を与え、兵が討死にすれば、その子孫を保護し追善供養をしたと伝えられる。

こうした人柄だったからこそ、多くの人々に敬慕され大勢力へと発展したのだろう。



しかし、残念ながら我が子に対する後継者教育はゆき届かなかったようだ。

長男の政久は武将というより教養人で、笛の名手であった。

永正15年(1518)砥石城を攻めた時、政久は敵を油断させるために高楼を築いて、毎夜のようにそこで笛を吹いた。

ある夜、それを気づかれ、弓矢で射殺されてしまった。 26歳であった。

経久は凶報を知ると6000の大軍を送り、砥石城を攻め落としてしまった。

更に憎しみのあまり城に火を放ち、千人からいた城兵を皆殺しにしたという。



四男の興久は塩治で三千貫の録をもらっていたが、録の少ないことに不満を漏らす。

経久は「大身にすれば驕り高ぶるに違いない」と思い、あえて興久を少録にとどめておいたのである。

興久は逆恨みして反旗をひるがえした。経久は興久の甘えを許さずこれを攻めた。興久は敗れて妻の実家である

甲山城へ落ち延びた。やがて経久の使者が訪れ説得するが、興久はそれに耳を貸さず切腹してしまった。

興久の首は月山冨田城に届けられたが、それを見た経久は、思わず絶句したという。

覚悟していたといえ、現実に我が子の首を見せられて、全身から力が抜ける思いをしたにちがいなかった。

天文3年(1534)経久が77歳のことであった。さすがの経久もこれを機にめっきり衰えはじめた。



ところが、経久の悲運はそれで終わらなかった。天文6年(1537)80歳のとき家督を孫の晴久に譲ったものの

天文9年、晴久は3万の軍勢を率いて毛利元就を攻め始めた。

大内嘉隆が元就を救援したため、晴久ははさみ打ちとなり天文10年(1541)1月総崩れとなった。

経久が一代にして築いた大勢力は、落日の様相を見せ始めた。

経久には孫、晴久の大敗が言いようのない衝撃だったのだろう・・・・

その年の11月13日、84歳の生涯を終えた。



☆☆☆ 経久は後継者の育成に失敗したことを、後悔したに違いない。 ☆☆☆
















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