Lemonhart755

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永尾為景・伊達輝宗




越後の上杉謙信は13歳の時、「わしは、父の恩によって一国を持つ身になれたが、普通ならこうは行くまい。

だが、親のおかげでそうなった者は、苦労が足りず物事の善悪もわからない。善悪の区別も判らんようでは

何かにつけて困ることになる。」と言って,行者と東北から関東にかけて、1年ほど修行して歩いたという。


謙信の父は永尾為景だが、越後統一という野望に燃えて戦いを繰り返しながら、志半ばで敗死してしまった。

生年は不詳だが、越後守護代永尾能景(よしかげ)の子として生まれた。

しかし、永正3年(1506)父の能景が越中に出陣し般若野で一向宗徒と戦っているさなか、討死してしまう。

そこで 為景が家督を継いだ。

当時、越後守護の上杉房能(ふさよし)は、兄の関東管領上杉顕定(あきさだ)の力を背景に国内支配を強化しつつあった。 

そのため越後の国人達は不満を募らせていた。


為景はそうした国人達を結集し、房能の養子上杉定実を擁して、永正4年(1507)8月1日挙兵したのである。

為景の軍勢に襲われた房能は天水へ逃れたが、そこで自刃して果てた。

定実は翌年、将軍から正式に守護に任じられたが、その実権は守護代の為景が握っていた。

為景はクーデターによって、傀儡政権の樹立に成功し、戦国大名への第一歩を踏み出したと言ってよい。


ところが、今度は為景に対抗する国人達が挙兵し、越後は内乱状態に陥ってしまった。

弟を自刃に追い込まれて怒った顕定は永正6年(1509)7月、関東管領の威信をかけ八千の軍勢を率いて越後へ侵入してきた。

為景は応戦に努めたものの、翌永正7年(1510)には、佐渡へ逃げた。

やがて、為景は佐渡から反撃を開始して、長森原で顕定らを討ち取った。

この為、為景は東国における下克上の典型とされている。

為景は越後の実権を完全に掌握したが、定実との不和が表面化してゆく。

そのうえ、定実に心を寄せる国人領主達の反乱が勃発した。


永正10年(1513)10月には、為景が出陣していた隙を狙われ、定実に居城の春日山城を奪われるほどであった。

翌年1月には為景方の永尾房景(ふさかげ)・中条藤梳資(ふじすけ)らが定実軍を打ち破り、争いに決着をつけている。


為景は天文5年(1536)、嫡男晴景(はるかげ・謙信の兄)に家督を譲り、12月には一向宗徒を討つため越中へ出陣した。

一向宗徒を梅壇野へ追い詰めたものの、彼らの計略に引っかかり、落とし穴に落ち殺されてしまった。



☆☆☆  最後の死に様がよくなかったね。 残念。 ☆☆☆





伊達輝宗

伊達政宗の父輝宗の死は不可解なものだった。

なにしろ、我子正宗の鉄砲隊によって射殺されたのだから無残である。

輝宗は天文13年(1544)にうまれた。家督を継いだのは永禄8年(1565)22歳の時である。

当時の伊達家は東に相馬家、南に畠山家、芦名家、佐竹家、北に最上家などに囲まれ常に緊張していた。

そうした中にあって、米沢城を居城としていた輝宗は天正元年(1573)天下人となった織田信長に鷹を贈り好を通じた。

他の奥羽の大名が信長に贈り物をしたのが数年後のことだから、輝宗には先見の目があったようである。

輝宗は41歳の時、18歳の政宗に家督を譲り宮森城に隠居した。

その翌年の天正13年(1585)政宗は二本松城の畠山義継を攻めた。


ことの起こりは、塩松の領主大内定綱が伊達家に背いたことにある。

天正13年閏8月、輝宗・政宗は軍勢を率いて、大内討伐に出陣した。

定綱は防戦したが、まもなく総崩れとなり息子の嫁にあたる畠山義継を頼って二本松城に逃げ込んだ。

こうして政宗は、畠山義継を攻撃したのである。

しかし、義継も伊達家の敵ではなかった。

義継は降伏して和睦を望んだが、講和条件は厳しかった。

そこで、義継はそれを緩和してもらおうと、隠居していた輝宗に仲介を依頼した。

政宗がそれを承諾したので10月8日、義継はお礼の挨拶をするため宮森城に輝宗を訪ねた。

その帰り際、義継は突然、輝宗を拉致して逃げさってしまった。

宮森城の家臣達は不意のことに慌てて、武装する間もなく追跡した。


政宗はこの日、鷹狩りに出かけていた。輝宗が拉致されたことを聞くと、直ちに義継の後を追った。

義継らに追いついたのは栗須(あわのす・二本松市)で彼らが阿武隈川を渡る寸前であった。

政宗は鉄砲隊に銃撃を命じたところ、輝宗は義継ら50数人と共に射殺されてしまった。輝宗42歳であった。

この時、輝宗は追いついた政宗に、「家の恥を後日に残すな。わしと共に義継を撃て」と 悲痛な声で叫び

政宗もやむなく射撃を命じたと言われている。

だが、鷹狩に出かけていたという政宗は、まったくかかわりはなかったのだろうか・・・・・?


一説によると、政宗側から畠山側に「義継が襲撃される」という偽情報が流された。

これが義継に報告され、身の危険を感じた義継が人質として輝宗を拉致したと言う。

つまり、あらかじめ、義継が輝宗を人質として拉致するよう仕向けたと言うのである。

更に突然の拉致事件に宮森城の家臣達は武装もせず追跡しているにも関わらず

政宗の小浜城からはタイミングよく鉄砲隊が出動し、阿武隈川で一斉射撃を浴びせ、義継の軍勢を全滅させている。

このようなことが時間的に可能だったのだろうか・・・・?

こうした点からみても、政宗が謀殺を仕組んだのではないか という疑いは払えない。

いずれにせよ、輝宗はいくら戦国の世とはいえ、我子政宗に射殺されなければならなかった悲運の武将だった。


☆☆☆ 優しさが命取りになってしまったね。 輝宗さんは・・・ ☆☆☆

















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