Lemonhart755

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尼子経久・松平清康




出雲守護代から守護の京極氏をしのいで戦国大名になった尼子経久は、山陰の梟雄として知られている。

山陰を制し尼子氏の全盛期を築いた力量には驚くほかないが、戦国の世としては84歳と長生きで、最後は老衰死だった。


経久は長禄2年(1458)出雲守護代尼子清定の嫡男として生まれた。

文明10年(1478)頃、経久は父の後を継いで守護代になった。

守護代となった経久は、寺社領や租税を押領するなど、公然と幕府や守護の京極政経に敵対行動をとり始める。

経久は才知にたけた武将として知られていたが、やがては政経に取って代わろうと意欲を燃やしていた。

政経はその勇猛ぶりを恐れ、文明16年(1484)、守護代職を取り上げ居城の月山富田城から追放した。



経久は25歳で放浪生活を余技無くされるが、2年後の文明18年(1486)正月、奇妙な計略を用いて月山冨田城を奪い返した。

城では毎年、元旦に万歳や鳥追いといった芸能者達が城内へ繰り込み新年を祝うのを慣わしとしていた。

万歳は太鼓を打ち、賀詞を述べ舞を演ずるもので、鳥追いは扇で手を叩きながら祝を述べる門付芸人だ。

経久はあらかじめ、城下の鉢屋党に協力を求め、芸人に扮して城内に送りこんだのである。

大晦日の深夜、経久は弟の義勝、譜代の郎党、鉢屋党ら、50人~60人と密かに大手門付近に隠れ、夜の明けるのを待った。

やがて、芸人に扮した鉢屋党の連中が太鼓を打ち、笛を吹き鳴らして踊り始める。

城主、塩治掃部介(えんやかもんのすけ)は大手門を開き芸人達を城内に入れた。

経久らはその隙に城内へもぐりこみ各所に火を放った。

大声で「火事だ、火事だ」と叫びまわると、城内は騒然となった。

武装した経久らは、城兵達におどりかかり、次々に切り倒して行った。

芸人達も鳥帽子や素襖を脱ぎ捨て、隠し持っていた大刀を抜き城兵に向かった。

敵襲と気づいた時には、多くの城兵が死体となっていた。

勝ち目のないことを悟った掃部介は妻子を刺殺し自ら腹を切った。こうして経久は、月山冨田城を奪回したのである。



経久はその後も勇猛に戦い、大永年間(1521~1527)には、山陰と山陽の11ヶ国を支配する大勢力を築きあげた。


経久はそのような勇猛な武将だったが、仁心に篤い至誠の人でもあった。

例えば、どのような身分の人でも差別せずに親しみ、真心には真心で応えた。

飢えた人には食や服を与え、兵が討死にすれば、その子孫を保護し追善供養をしたと伝えられる。

こうした人柄だったからこそ、多くの人々に敬慕され大勢力へと発展したのだろう。



しかし、残念ながら我が子に対する後継者教育はゆき届かなかったようだ。

長男の政久は武将というより教養人で、笛の名手であった。

永正15年(1518)砥石城を攻めた時、政久は敵を油断させるために高楼を築いて、毎夜のようにそこで笛を吹いた。

ある夜、それを気づかれ、弓矢で射殺されてしまった。 26歳であった。

経久は凶報を知ると6000の大軍を送り、砥石城を攻め落としてしまった。

更に憎しみのあまり城に火を放ち、千人からいた城兵を皆殺しにしたという。



四男の興久は塩治で三千貫の録をもらっていたが、録の少ないことに不満を漏らす。

経久は「大身にすれば驕り高ぶるに違いない」と思い、あえて興久を少録にとどめておいたのである。

興久は逆恨みして反旗をひるがえした。経久は興久の甘えを許さずこれを攻めた。興久は敗れて妻の実家である

甲山城へ落ち延びた。やがて経久の使者が訪れ説得するが、興久はそれに耳を貸さず切腹してしまった。

興久の首は月山冨田城に届けられたが、それを見た経久は、思わず絶句したという。

覚悟していたといえ、現実に我が子の首を見せられて、全身から力が抜ける思いをしたにちがいなかった。

天文3年(1534)経久が77歳のことであった。さすがの経久もこれを機にめっきり衰えはじめた。



ところが、経久の悲運はそれで終わらなかった。天文6年(1537)80歳のとき家督を孫の晴久に譲ったものの

天文9年、晴久は3万の軍勢を率いて毛利元就を攻め始めた。

大内嘉隆が元就を救援したため、晴久ははさみ打ちとなり天文10年(1541)1月総崩れとなった。

経久が一代にして築いた大勢力は、落日の様相を見せ始めた。

経久には孫、晴久の大敗が言いようのない衝撃だったのだろう・・・・

その年の11月13日、84歳の生涯を終えた。



☆☆☆ 経久は後継者の育成に失敗したことを、後悔したに違いない。 ☆☆☆







松平清康(まつだいら きよやす)(徳川家康の祖父)


清康は永正8年(1511)三河の安祥城で生まれ、大永3年(1523)13歳で家督を継いでいる。

父信忠までは安祥城のみを持つ土豪に過ぎなかったが、清康の代になって山中城、岡崎城を奪い

三河一国を支配下にしたのだから、並みの武将ではない。


彼は三河を制圧した後、享禄2年(1529)織田方の品野城、岩崎城を奪った。

狙いは美濃への進出である。そのため織田信秀を攻めようとしていた。


天文4年(1535)12月4日、清康は七千の軍勢を率いて国境の守山まで侵攻し布陣した。

その頃、清康の陣中では、安部定吉という老臣が織田方に内通している、という噂が流れていた。

戦いのさなかには、内通や裏切りはよくあることだから、清康は問題にしなかった。

しかし、定吉は身に覚えが無いし、そのままにしておくことも出来ない。

定吉は悔しさを滲ませながら、息子の弥七郎に起請文を託し

「もし万一、わしが殺された時は、これを提出して疑いを晴らしてくれ」と、言い渡した。

翌12月5日朝、本陣の近くで一頭の馬が暴走する騒ぎが起こった。

遠くからそれを見た弥七郎は、自分の父が殺されたと思い、頭に血が上り、父の言葉を忘れてしまった。

本陣近くへ駆け寄ると、思わず刀を抜き近くにいた清康を切り殺したという。

清康はまだ25歳の若さであった。弥七郎もすぐ近習によって切り殺されたが、彼の天下取りの夢はあえなく費えた。


弥七郎が使った刀は、切れ味抜群の刀で知られる桑名の名工村正であった。

これが清康を斬殺したことから、後の徳川家康は、家臣に対して村正の刀を帯びることを禁じたほどであった。

江戸時代には「徳川家にたたる刀」「妖刀」として世間に知れ渡った。


清康は勇猛であるばかりか、思いやりもあり、家臣たちの信望が厚かった。

だが、彼の不慮の死によって三河には暗雲が広がって行った。

12月5日、松平勢は突然、主君を失った為、一斉に退却した。

織田勢はその隙をついて、岡崎まで追撃してきた。なんとか織田勢を撃退したものの嫡男広忠は伊勢に亡命せざるを得なかった。

天文6年(1573)6月、広忠は駿河の今川義元の支援を受け岡崎城に戻る事ができた。

この為、以後、松平氏は今川氏に従属する立場に追い込まれたのである。


その後、広忠も不可解な死を遂げている。

天文18年(1549)3月6日側近の岩松八弥が突如として発狂して、村正の脇差で広忠を斬りつけた。

八弥はすぐ逃げ出したが、梅村新六郎が外堀の端まで追い詰め、組み付いて争っているうちに堀に落ちた。

新六郎は堀の中で八弥の首を討ち取ったと伝えられている。


家康は、父、祖父と村正の刀によって殺されているため、村正の刀を「不吉な刀」として

家臣達も含め村正の刀を持つことを禁じたと言われている。




☆☆☆ 家康さんが極端に「村正」を嫌っていた背景にはこのような理由があったんですね 理解できるね ☆☆☆  







































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