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Lemonhart755
毛利元就・斉藤道三
一代で中国十ヶ国の覇者となった元就は、元亀2年(1571)6月14日、75歳で生涯を閉じた。
元就は5歳の時、母を失い10歳で父に死なれ、領地は後見人の井上元盛に横領され、居城の猿掛城から追い出された。
元就は、父の側室だった杉の方に引き取られ面倒を見てもらった。
元就には興元(おきもと)という兄がいたが、24歳の若さで死に、嫡子の幸松丸も9歳で死亡した。
このため、元就は27歳で家督を継ぐことになった。
兄の興元が死去した翌永正14年(1517)21歳の時、一千の兵を率いて四千余の武田元繁と戦い元繁を討ち取っている。
この戦いで、元就の武名は高まった。それ以来75歳で死ぬまで、戦場に臨み指揮した合戦は二百数十回におよぶという。
元就は戦いに明け暮れ領土を拡大していった。
元就が生涯気をつけたのは酒である。
祖父の豊元が33歳、父の弘元が39歳、兄の興元は24歳と、いずれも若くして死んだが、みな酒の飲みすぎで命を縮めていた。
特に興元の時には西に大内家、北に尼子家の大国にはさまれ、どちらに属するべきか相当に悩んだ。
興元はそのうさを晴らすためあびるように飲み続けたらしい。
元就は、そうした兄の姿を見ていただけに、酒にはことのほか警戒したようである。
長男の隆元にも、「酒は分をわきまえて飲むものだ。酒で自分を見失うような事があってはならない」と説教している。
しかし、隆元は41歳で急死している。
その後を継いで当主となった孫の輝元には、母を通して酒の飲み方について注意を促している。
元就は常に餅と酒を用意していた。
城下の侍や下人が来た時、酒の好きな者には酒の利点を話して飲ませ
酒の飲めない者には酒の害を語り餅を与えた、と言われている。
確かに餅はスタミナ食だし、適量の酒は疲れが取れ老化防止の効果もあるという。
どちらも度をすごさなければ利点はある。
おそらく元就も適量の酒はたしなんでいたのではないだろうか。
ただ、並の人間よりは厳しく自己管理をしていたのだろう。
元就には、九男二女 計11人の子供がいた。
末っ子の九男秀包は、71歳の時の子供である。これも摂生、厳しい自己管理の賜ものかも知れない。
しかし、いくら健康管理に気をつけていても、いつ病魔が襲ってくるかわからない。
永禄9年(1566)2月出雲に出陣している時、元就は病に倒れた。病名は不明だが、1ヶ月後には回復している。
永禄11年(1568)には下関で異常を訴え、更に翌年、郡山城で中風にかかり重態になった。
元亀2年((1571)桜見物をした後、6月14日、75歳の生涯を閉じた。
死因は食堂がんだったと言われている。
孫の輝元は凡庸でしたね。関ヶ原で天下取りのチャンスがあったのに・・・・・・
小早川隆景に子供がいて父の遺伝子を継いでいたら、また変わっていたかもね・・・・・・
一族の中で毛利両線のほかには九男の秀包が頼もしく見えるのだが・・・・・・
私のひいき目かな・・・・・・?
斉藤 道三(2005.02.19)
修行僧から油売りになり、やがて武家に仕えると世の中の乱れに乗じて謀略の限りを尽くした道三は
主君土岐頼芸(ときよりなり)を追放し、ついに美濃一国(現在の岐阜県南部)を手に入れて戦国大名になった。
だが、前半生は伝説で実際の国盗りは父の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と二代がかりであった。
父はもともと京都妙覚寺の僧だったが、還俗して美濃にくだり、美濃守護職土岐氏の家臣永井弥次郎に仕えた。
やがて頭角を現し、大永5年(1525)永井長弘と手をくんでクーデーターを起こし土岐氏の実権を握った。
父の代に道三がのし上がって行く足がかりができていたわけである。
天文2年(1533)、父が死亡し、道三が家督を継いだ。
この頃、道三は長井新九郎規秀(のりひで)と名乗っていたが、まもなく
本家の長井景弘を倒し、長井本家の家督と所領を奪った。
更に天文7年(1538)、守護代斉藤利隆が没すると、道三が家督を継ぎ、斉藤利政と改名したのである。
その後、道三は稲葉山城を居城としたが、道三に対抗してきたのは、織田信秀だった。
天文13年(1544)9月、信秀は越前の朝倉孝景と手を結び、25000という大軍で美濃に侵入した。
だが、道三は巧みな戦術で数百人を討ち取り、敗走する織田・朝倉連合軍を追撃してゆく。
このため、連合軍は木曽川で二千人から三千人ほどが溺死したという。
信秀はその後も攻めてきたが、道三は追い払った。
しかし、天文17年(1548)信長の教育係の平手政秀の斡旋によって
道三は娘の帰郷を信長に嫁がせ信秀と同盟を結んだ。
天文23年(1554)道三は剃髪して、居城を嫡男の義竜に譲り、鷺山城に隠居した。
一説によると、義竜は道三の実子ではなく、実父は土岐頼芸だと言われていた。
道三は頼芸から愛妾の深芳野を下げわたされたが、すでに深芳野は、頼芸の子を宿しており、生まれたのが義竜だというのである。
そのため、道三は、次男に家督を譲ろうとしたことから、義竜の亀裂が深まって行く。
弘治元年(1555)、義竜は危機感を感じ、先手を打って2人の弟を謀殺した。
この結果、道三と義竜の父と子が争うことに発展した。
弘治2年(1556)4月12日、戦いは長良川の湖畔で始まった。
道三の軍勢 約3000人 義竜の軍勢 約17000人 勝負はすでに決まっていた。
約1週間後の4月20日、道三は討たれた。
信長は舅の道三を支援するために出陣したが、途中で道三の死を知り引き帰えした。
道三は63歳、義竜は30歳であった。
道三は野望をむき出しにして、悪運無道を繰り返してのし上がっていった。
確かに下克上の、見本のような人物で「蝮」の異名を取ったのも無理は無い。
しかし、最後には子供の義竜と戦い家臣に討ち取られるという悲惨な末路であった。
力強さとともに、哀れさを感じさせる。
信長と対面した頃の道三は、一目でその才能を見抜き
「やがて、我子たちも彼の軍門に下るだろう」といったのは
有名な言葉である。そして 「美濃1国譲り状」も・・・
もう少し長生きして信長と共同戦線をなしていたなら
信長の日本統一も早まっていたかも知れない・・・?
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