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Lemonhart755
陶晴賢・長宗我部元親
陶氏は周防守護大内氏の一族で、晴賢は大永元年(1521)守護代興房の次男として若山城で生まれた。
19歳で家督を継ぎ、天文9年(1540)には安芸に出陣し尼子軍を撃退している。
それ以来、大内家臣団の中で尼子攻めを唱える武断派の急先鋒となった。
天文11年(1542)義隆が出雲の尼子氏に総攻撃を仕掛けたが惨敗し、撤退を余技なくされた。
この時、晴賢は危険な殿を務めた。彼は部下思いで兵達には米を食わせ
自身は雑魚の腸と水で空腹を凌ぎ、撤退したと伝えられている。
晴賢は武辺一筋で、文事には全く興味を示さず、その頃流行した連歌会にも姿を見せることは無かった。
このため、京風文化に傾倒する義隆とはそりが合わず溝を深めた。
やがて、晴賢は反旗を翻す準備を進め、天文20年(1551)には、豊後の大友宗麟と通じ
その弟晴英を大内家の当主に迎える盟約を結んだ。
こうして8月29日、晴賢は義隆に背き、山口に攻め込んだ。
義隆は不意を突かれて逃げのびたが9月1日、自害して果てた。
忠義に厚い武辺者の晴賢が、何故謀反を起こしたのか・・・・?
「大内義隆記」は、晴賢が「天から与えられたものを取らなければかえってその科を受ける」し
「わが運も義隆の運も天道の計らいである」と、考えていたと伝えている。
つまり、晴賢は運命に身を任せるという考え方によって、自らの行為を正当化しようとしたのだろう。
それは、晴賢の謀反の論理かもしれないが、その背景には義隆の政治姿勢に対する不満があった。
義隆は食うか食われるか戦国の世にもかかわらず、武具を捨てて
京都から貴族や文人を招き、彼らに知行を与え盛大な遊宴をくりかえした。
その費用は結局、領民達が負担しなければならなかった。
義隆への不満は日ごとにつのった。
だから晴賢に対立していた長門守護代の内藤隆盛、豊前守護代の杉重矩までが
晴賢に同調し更に毛利氏、農民、商人までもが味方したのである。
晴賢は政権の安定化に多忙を極め、尼子勢の動きに対応する余裕がない。
そこで、安芸の毛利元就に佐東郡を預け、敵に当る権限を与えた。
元就は尼子氏の城を次々と落としてゆき、次第に支配権を伸ばしていった。
天文22年(1553)石見三本松城の吉見正頼が反晴賢の兵をあげ、翌年元就が続いた。
陶軍は二万、対して毛利軍は四千、正攻法ではかなわない。
元就は、策略をめぐらし、孝治元年(1555)春、厳島に宮尾城を築き
「厳島に城を築いたのは失敗だった。もし攻められたらひとたまりもない、後悔している。」
と、噂を流した。
それを信じた晴賢は9月21日、二万の大軍で厳島に上陸し宮尾城を囲んだ。
ところが、元就は能島、来島の村上水軍を味方に引き入れ
10月1日、夜明けと共に背後と正面から総攻撃を仕掛けた。
不意をつかれた晴賢の軍勢は総崩れとなり、逃げ場を失った晴賢は島の西岸で自刃した。
下克上をやってのけた陶晴賢だが、権力を手中にしてから
物事を冷静に判断する余裕を失っていたというしかない。
彼の論理によれば、これも、「天道のはからい」ということになるのだろうか・・・・?
長宗我部元親
元親は、天文8年(1539)岡豊城主国親の子として生まれたが
幼少のころは、色白く、猛将と言われた父国親の子とは思えないほど柔和な性格だったという。
このため、家臣達からは「姫若子」と陰口を叩かれていた。
だが、戦場に出ると、印象は全く違っていた。
元親の初陣は永禄3年(1560)5月、長浜表での合戦である。
相手は、宿敵本山茂辰だった。元親はすでに22歳になっていたから、初陣としては遅い。
しかも、槍の突き方も知らないというので、老臣の秦泉寺豊後からにわか仕込みで習い出陣した。
ところが、戦場での働きは見事なもので「姫若子」などと言われていたのが嘘のようだった。
わずか50余の手勢にもかかわらず、一千余の本山勢に立ち向かい、2人の敵を槍で突き倒したのである。
大軍を前に逃げ腰だった元親の兵達は、それを見て奮い立ち勇敢に突っ込んでいった。
やがて本山勢は総崩れとなり、近くの塩江城に逃げ込まず、遠くの朝倉城へ敗走して行った。
それを見た元親は、塩江城の攻略を命じた。
重臣達は、それを止めようとしたが、元親が「かかれ」と命じたので、やむなく家臣もそれに続いた。
塩江城には誰もおらず、元親は労せずして塩江城を手にいれたのである。
後に、不思議に思った重臣達は、元親に
「何故、塩江城を落とせると読まれたのですか」と尋ねると、元親はあっさりと答えた。
「敗走した本山勢は、普通なら近くの塩江城に入るはずだ。それなのに本城の朝倉城を目指して走った。
それは、塩江の城主が謀反した、ということではあるまいか、と思った。
だから、もし攻められても、すぐ和平に応じ降参する。そう読んだから、攻略を命じたのだ。」
それを聞いた重臣達は、元親を誉めちぎり
「この人物なら長宗我部家を更に盛りたてて行くに違いない」
そう思って心服したと伝えられている。
ところが、残念ながら岡豊城に帰って間もなく、父の国親が病に倒れ、6月15日に急死した。
家督を継いだ元親は、その後、本山茂辰、安芸国虎を討ち、天正3年(1575)には土佐一国を統一した。
更に天正6年(1578)讃岐を攻略。続いて阿波に進出し天正10年(1582)に制覇している。
こうして天正13年(1585)、元親は四国の統一を成し遂げた。
ところが、織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は、それを認めず大軍で攻めてきたのである。
さすがの元親もやむなく降伏し、土佐一国を除いて取り上げられてしまった。
それから14年後の慶長4年(1599)5月19日、元親は60歳でこの世を去った。
4月頃から身体が不調となり、伏見の屋敷で医師の治療を受け療養したものの
そのかいもなく波瀾に富んだ生涯を閉じたのである。
せっかく四国を統一したのに、残念だったろうな・・・?
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