Lemonhart755

Lemonhart755

織田信長・柴田勝家



「信長公記」によると、彼は髪を茶せんにして紅や萌黄の糸で巻きたてて結い、帷子の片肌を脱ぎ

半袴をはいていた。腰には火打袋をつけ、朱鞘の刀を差すという当時としては奇異な出立ちである。

町を歩く時はひと目もはばからず、栗や柿、瓜をかぶり食いし、町中で立ちながら餅をほおばり

人によりかかり、人の肩にぶらさがって歩いた。と書かれている。


しかし、「信長公記」は、信長が鉄砲の稽古をしたり、水練に励んでいた、とものぶている。

信長の行動は当時の社会常識からはみ出すもので、その紀行ぶりは世のひんしゅくを買った。

後年の信長には、もっとも多くの殺戮を行った戦国武将という評もあるように

冷酷非道なイメージが付きまとう。

確かに、それは信長の姿の一面だが、検地や楽市楽座などの民政にも積極的に取り組む革新性もあった。

また、国際感覚ももっていたようだが、冷酷さが災いして、明智光秀の謀反を招き寄せる結果となった。


信長といえば、幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。

一度生を得て、滅せぬ者あるべきか」がよく引用される。

信長が日ごろから口ずさんだ一節だが、彼の人生哲学ともなっていたようである。

人間の一生は、夢か幻のようにはかない。しかも生まれたら必ず死ぬことは決まっている。

信長は戦いに明け暮れてきただけに、そうした虚無的な無常観を抱いていたのだろうか。

あるいは、必ず死ななければならぬのだから、その限りある一生を思うがままに生きようとしたのだろうか。

いずれにせよ、信長は「人間五十年」と言いながら、49歳で死んだ。


天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀が13000という大軍を率いて京都の本能寺に迫りつつあった頃

信長はまだ眠りの中にいた。本能寺は寺といえ、四方に堀をめぐらせ、小規模ながら城といってよいものだった。

信長はまさか光秀が襲うとは思ってもいなかった。

だが、午前6時頃、光秀の軍は本能寺を囲み四方から乱入したのである。

騒ぎ声で目を覚ました信長は、当初、家臣達がケンカをはじめたと思った。

しかし、まもなく鬨の声があがり、鉄砲を撃つ音が響く。

信長が「誰か謀反をおこしたのか」と叫ぶ。その声に駆けつけてきた小姓の森蘭丸が

「明智光秀の謀反と見受けます」と応える。そうするうちにも、光秀の軍勢が奥へと乱入してきた。

この時、本能寺にいた信長の家臣はわずか150人であった。多勢に無勢では信長に勝ち目は無かった。

信長の家臣達が防戦したものの、次々に討たれていく。

奥の部屋では蘭丸や弟の坊丸らが戦っていたが、力およばず討たれてゆく。

信長は弓を射ていたが、弦が切れてしまったため、槍をつかんで敵に向かった。

しかし、敵の槍で傷を負い居間に下がった。本能寺はすでに火に包まれ、近くにまで黒煙が流れこんでくる。

信長は女達が肩を寄せ合い、自害の準備をしているのを見ると「急いで逃げよ」と命じ退出させた。

そのあと、信長は納戸へ入ると近習に火をかけさせて自害して果てた。49歳であった。

近習7,80人が信長に殉じたが、戦いは30分ほどで終わった。




     全国統一を目前にして残念だったろうと思う。

     嫡子信忠の補佐役と考えて考えていたという説もあるくらい

     光秀を高く評価していた信長であったが、あまりにも

     結論しか言わなかった為、理解されなかったようである。





柴田勝家



織田信長の家臣筆頭として、数多くの合戦で武功をあげた柴田勝家には、さまざまな逸話が伝えられている。

その一つが「甕割り柴田」の異名を生んだ逸話である。

元亀元年(1570)近江八幡の長光城にいた勝家は、観音寺城主佐々木承偵に包囲された。

佐々木勢は水路を絶つという作戦にでたのは、水がなければ籠城も困難となり

降伏するに違いないと考えたからである。

しかし、長光寺城では水に困っている様子も無い。そこで承偵は城内を偵察させるため講和の使者を送りこんだ。

使者は勝家に会うと、手水を使わせて欲しいと頼んだ。

勝家は水を満々とたたえた甕を運ばせ、使者が手を洗ったあと、残りの水を惜しげなく庭に捨てさせた。

長光寺城では水不足に悩んでいたが、その弱みを悟らせまいとして、わざとそうしたのである。

使者が帰ったあと、勝家は、これ以上の籠城は不可能と判断し次のように言った。

「このまま、城内に留まっていれば、渇きで死ぬだけだ。かくなる上は場外に討って出て切り死にするしかない。

その覚悟で敵の包囲網を切り開けば、活路も生じよう」

さらに勝家は、城兵たちに好きな水を飲ませたあと、水甕をたたき割ってしまった。これで城兵たちも決死の覚悟ができた。

こうして、夜明け方、勝家の軍勢は一斉に城外に躍り出たのである。

思いがけない襲撃に、承偵の軍勢はあわてふためき敗北した。

この水甕を割って出撃したという話は、湯浅常山の「常山紀談」に紹介されているが、創作と見る人が多い。

この逸話となった舞台は、勝家が六角義賢(承偵)・義治父子と野洲川周辺で激突した一戦で

勝家は長光寺城で籠城したわけではなかった。

勝家には先見力や決断力があり、思い切った行動に出て難局を打開することがしばしばあった。

そうした彼の行き方を野洲川の戦いに重ねて「甕割り柴田」の逸話が作りだされたのかも知れない。

しかし、晩年の勝家は秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに敗れ、死に追い込まれてゆく。

最後には切腹して果てるのだが、それはいかにも戦国武将らしものだった。


勝家が築いた北ノ庄城は九層の天守を持つ豪壮なかまえで、しかも堅城といわれていた。

天正十一年(1583)4月23日、秀吉の大軍に囲まれた時、城内には200人ほどの兵しかおらず

さすがの勝家も死を覚悟せざるを得なかった。



勝家は家臣達を広間に集め「戦いに敗れて城に逃げ込んだのは、わしが臆病だったからではない。

これも戦いの運だ。わしは切腹するが、逃げたい者は今のうちに逃げるがよい」と諭すように言った。

ところが、家臣達は「あの世までお供をします」と異口同音に言って動こうとはしなかった。

更に勝家は「わしと同じ気持ちで最後まで戦ってくれたことは大変うれしい。

ただ残念なのは、現世でお前達の気持ちに報いる道が無いことだ」と言って多年の功に感謝したのである。

せめてもの償いにと、最後の酒宴を催すことになった。楽器を奏で、それにあわせて謡をうたい舞う。

時ならぬ賑わいに、城を囲んでいる秀吉方も驚いたに違い無い。

酒宴が終わると、勝家は妻のお市の方に、三人の娘を連れて落ち延びるように勧めた。

お市の方はそれを聞かず死を選んだ。勝家はやむなく、三人の娘達を秀吉の陣所に送り届けるよう命じると

お市の方とともに天守閣の最上層へ登り、お市の方の胸を刺し切腹して、五臓六腑をかきだしてから介錯させたという。

いかにも戦国武将らしい、すさまじい死にかたである。

勝家62歳、お市の方37歳だった。その後、あらかじめ命じられていた家臣は

火薬に火をつけ、天守もろとも焼いてしまった。

80人ほどの家臣が勝家に殉じたといわれている。




   もともと、秀吉と勝家は相性が悪かった。

   それに輪を掛けてお市の方が勝家に嫁いだので

   秀吉は、さらに「勝家憎し」と思い戦いに

   全力を傾けたようである。

   恋心とは恐ろしいものである。

   お市の方は秀吉には鼻にもかけていなかったようである。


























































































© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: