Lemonhart755

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豊臣秀吉・豊臣秀長





百姓の子として生まれた豊臣秀吉は、草履取りから足軽組頭、侍大将、大名、そして関白へとのぼりつめ天下人となった。

門閥がなく、ただ己の才覚と行動力だけで多くの武将を制して天下をにぎった。

異例の立身出世といってよいが、それゆえに秀吉の人気は高い。



若いころ秀吉は木下藤吉郎と名乗っていた。

信長に仕え、知行が百石ほどだった頃のことだが、ある日、同僚達と将来の夢について語りあったことがる。

同僚達は「なんとか一国一城の主になりたいものだ」とか「わしは天下の大将になりたい」などと大きな望みを語った。

しかし、秀吉は違っていた。

「わしにはそんな大望は無い。いま百石をいただいているが、もうひとふん張りして

倍の二百石をいただける身分になればよい」。

同僚達はそれを聞いて「あまりにも望みが小さい」とあざけ笑った。

ところが、秀吉は平然といい返した。

「わしの望みは困難だが、一心不乱に忠勤を励めば必ず叶えられる。

夢は大きいほどよいという。だがおぬしの望みは叶えられることのない空頼みに過ぎない。わしのは手の届く望みなのだ」

言われて見れば、全くそのとおりである。同輩達は「なるほど」と、うなずかざるを得なかった。

実際、その後の秀吉は、手の届く目標を着実に一つずつ達成し、ついに天下を握ったのである。




青年時代の秀吉は、そのように実に生き生きとしているのに、天下人になってからは

甥や利休への切腹命令、朝鮮侵略など、目を覆いたくなるような面も少なく無い。


秀吉は慶長3年(1598)8月18日、まだ幼い秀頼の将来を案じながら伏見城で病死した。

晩年は体力も衰え、病に悩まされたが、死因はなんだったのだろうか。


文禄3年(1594)といえば、秀吉が無謀な朝鮮侵略を行っている最中だが、関白秀次の祐筆

駒井重勝の日記によると、その年の4月15日「秀吉は気分が悪くなり、意識不明の為、小便を垂れ流した」という。

その数日後には、手足の痛みを訴え、4月29日には有馬へ湯治に出かけた。

なんとか体力を取り戻したい。秀吉はそう考えていたのだろう。



文禄3年12月、秀吉は朝鮮へ出陣していた吉川広家、島津義弘らの武将達に、養生のためと称して

虎肉の塩漬けを送るように命じている。虎は生命力が強いから回春効果があると信じられていたからである。

秀吉は伏見城に届けられた虎肉を食したようだが、効果の程ははっきりしていない。

文禄4年(1595)11月、また体調を崩し、参内の予定を取りやめたりしている。

病は一進一退の状態が続いた。



慶長3年(1598)3月15日、秀吉はまだ6歳の秀頼の手を引き、多くの妻妾を伴って

醍醐寺三宝院で盛大な花見を楽しんだ。

その後、5月に入ると病に倒れ、5月8日には予定されていた有馬の湯治を中止したほどであった。

秀吉の病はなんだったのか・・・・?

文禄3年の病状は腎臓機能が衰え、副腎、膀胱、生殖器が弱ったためという。

漢方では「腎虚」というが、これは房事過多などから起きる衰弱病状と考えられている。

そのほか、秀吉には「咳毛」という持病があった。

これはせきの出る病気で広い意味で肺病を指す。

具体的には肺結核、気管支炎、肺がんなどのほか、赤痢だったという説もある。

さらに神経痛もあったし、腰が立たないという衰弱ぶりだった。

名医達を伏見城に常駐させ、治療に当たらせたが、そのかいも無く、病状はますます悪化していった。




武功夜話によると、「秀吉公の御病気が重くなられるにあたって、京の都、伏見の町は次第に騒然となってきた。

甲冑に長刀を携えてたむろする者、また東西へ走る者など、ただならぬ様相となり

大阪表もにわかに騒動の起こる兆しが見えてきた」という。

秀吉も死期の近いことを感じたのだろう。

五大老や五奉行を枕元に呼んで遺言し、幼い秀頼の将来を頼んだ。


8月8日、五大老に最後の遺言を残したが、それには

「くれぐれも秀頼のこと五人の衆に頼む。詳しいことは5人の者(五奉行)に申し渡した。

名残惜しいことだが、秀頼が成り立つように、重ねてお頼する。他に思い残すことが無い」とあった。

秀吉の意識が朦朧となったのは、8月10日である。それから8日後、秀吉は62歳の生涯を閉じた。



「露と落ち消えにし我身かな 難波のことも夢のまた夢」



秀吉の持世の歌だが、これはあらかじめ意識がはっきりしている時に詠み、侍女に託しておいたものとされる。




   朝鮮出兵は、誰の発案によるものなのか不明である。

   これで、無駄な出費をしてしまった。

   また、身内の粛清に乗り出したことが、不孝の始まりだった。

   国内統一をした後は、戦争の無い国づくりを目指し

   徳川氏の領土分割を推進すべきであった。

   それに、反対した時は、徳川氏を滅ぼすべきであった。

   なぜ、それをしなかったのか不思議でならない・・・・?

   先が読める秀吉であったのに・・・・・?






豊臣秀長



秀吉の実弟秀長は、秀吉の優れた片腕であった。

秀吉が天下を取れたのも、秀長が陰で支えていたからだ。といっても過言では無い。

その秀長は天正18年(1590)1月、病に倒れた。

一説では、服部半蔵が毒殺したという説があるが、証拠は無い。

秀吉は小田原攻めの陣中から母の大政所に当てた手紙の中で

「大納言(秀長)の病状がよくなったと聞き、とても喜んでいます」と書いている。

一時は、小康状態だったようだが、病は一進一退を繰り返し、回復することなく

天正19年(1591)1月22泌、52歳の生涯を閉じた。


秀長は秀吉の三歳年下で、もともと故郷の尾張国愛知郡中村で百姓をしていた。

だが、永禄5年(1562)23歳の時、信長に仕えて百人足軽組頭となった兄秀吉に口説かれ

鍬を捨てて兄の部下になった。



こうして兄秀吉に従って各地を転戦し戦功を上げた。

永禄9年(1566)の墨俣状の築城、元亀元年(1570)の金ヶ埼城の攻略

天正元年(1573)の小谷城の攻略などである。

天正3年(1577)、秀長は秀吉の長浜入城に伴い、8500石をもらっている。


天正5年(1577)、信長は越後の上杉謙信を討つため、柴田勝家や秀吉に出陣を命じた。

ところが、秀吉は勝家と意見が合わず、勝手に長浜へ引上げてしまった。

当然ながら信長は怒った。秀吉は早速安土城へ出かけて謝罪したが、信長は何も言わなかった。

家臣達は別室で控えていたが、緊張のあまり、何度も厠に立つほどであった。

しかし、秀長だけは落ち着きはらい、静に白扇を使いながら庭先の菊を眺めていた。

このため、家臣達の緊張も和らいだ、という逸話が伝えられている。

それほど秀長は、沈着冷静な人物であった。

とはいえ、ひとたび戦場に出ると、勇将として恐れられた。

特に天正5年からの中国攻めでは功をあげ、翌天正6年(1578)には

十万五千石の出石城主となった。

その後も天正11年(1583)の賊ヶ岳の戦い、天正13年(1585)の紀伊根来衆討伐などで奮戦。

この功によって近江43万石を与えられ、大和郡山城主となった。

さらに和泉、紀伊両国を与えられ紀伊の岡山に城を築いた。


勇将といわれ、冷静沈着だった秀長も病には勝てなかった。

病にかかったのは天正18年(1590)1月だが、一時は回復したかに見えた。

しかし、再び重態に陥り、3月には奈良で秀長が死去したという風説まで流れた。

10月には小田原攻め、奥州討伐から凱旋した秀吉が見舞ったし、秀吉は洛中洛外の

緒寺社に秀長の病気回復を祈願させている。

それでも秀長の病はよくならなかった。病と闘いながら、秀長は兄秀吉のことを心配していた。

「武功夜話」によると、12月23泌、前野長康が大和郡山城に秀長を

見舞ったころ、秀長は心配そうにこう言ったという。

「天下の大事な時に病気に伏すとは、はなはだ残念だ。家中の様々な噂を聞いて

心がはやっても病気ではいかんともしがたい。一人で憂慮しているのだが

近頃の兄者の振る舞いにもご意見を申し上げたいことがある。

それは朝鮮侵略のことだが、すでに着々とご準備になっていると聞くが、事情のほどはどうなのか・・・・?」

その他、鶴松の誕生をきっかけに、家臣達が不和になっていることや

秀吉の不興をかったと噂される千利休の処遇についても、心配していたという。


秀長はそうした心配をかかえながら、翌天正19年(1591)1月22日、52歳で病死した。

秀吉は弟秀長の死を聞いて「片腕を失った」といいながら号泣したと伝えられている。

確かに秀長は、秀吉をよく補佐したし、実質的には秀吉政権の中枢でのあった。

もし、秀長が家康と同じ位長生きしていれば、少なくとも豊臣家は

滅亡しなかったかも知れない。




   利家・秀長を失った事が、豊臣家の滅亡を早めたことは事実である。

   もし、彼らが生きていたら、明治の夜明けはもっと早く

   日本も世界の列強に名を挙げていただろう・・・・?














































































































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