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Lemonhart755
蒲生氏郷・大友宗麟
秀吉が朝鮮出兵を命じた文禄元年(1592)会津92万石の領主、蒲生氏郷も三千の軍勢を率いて出陣した。
しかし、後詰を命じられて渡海することなく、九州の名護屋に留まった。
氏郷が発病し下血したのは、その陣中のことであった。
氏郷は37歳の働き盛りだった。彼の病気は、現代でいう直腸がん、あるいは大腸がんではなういかと言われている。
その後、一時的に快方に向かい大阪に帰ったが、文禄三年(1594)ごろから顔色が土色になり
目の下が腫れるなどの病状が現れた。
氏郷はキリシタン大名高山右近と親しく、30歳のころ、右近に勧められてキリシタンに帰依していた。
そうした関係から、氏郷の病床には右近が付き添い、何かと世話をやいていた。
だが、その甲斐もなく、文禄4年(1595)になると急速に病状が悪化し、2月7日、京都の邸宅で息を引き取った。
まだ40歳だから、生への執着があったのではないだろうか・・・・・・?
「かぎりあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」
これが氏郷の時世の歌だと言われている。
氏郷は13歳の時、人質として信長のもとへ贈られたが、翌年、初陣で敵の首を討ち取った。
信長は氏郷の非凡な器量を見抜き、末娘の冬姫を妻に与えている。
冬姫は12歳だった。
信長の死後、氏郷は秀吉に臣従して戦功をあげ、天正18年(1590)には伊勢松阪12万石から会津に転封
秀吉のもとでもよく働き出世も早かった。
氏郷の病死説は確実視されているが、他に秀吉に毒殺されたのではないか、という説もある。
氏郷はすぐれた武将だから、それを恐れたのか、あるいは妬んだのか、三成が秀吉に
「氏郷は要職に就けると、将来はなはだ危険」と讒言。
「それならば」と、秀吉が毒を盛らせた、というのである。
いかにもありそうに思えるが、氏郷は野望を抱くタイプではない。
こんな逸話もある。
氏郷は新参者に対して「当家の奉公は別に難しいことではない。ただ合戦の時、銀の鯰尾の兜をかぶって
先陣を進む者がいれば、その者に劣らぬよう働くことだ」と言って励ますのが常だった。
天正15年(1587)秀吉が九州征伐に出陣した時、氏郷の軍勢は秋月種実の筑前岩石城を攻めたが
戦闘がはじまると、銀の鯰尾の兜をかぶった武将が真っ先に駆けて行く。
よく見ると、大将の氏郷自身である。
その姿を見た新参の者は奮い立ち、先を争って城内へなだれ込んだ。
この結果、さしもの岩石城は陥落してしまった。
このように氏郷は、常に先駆けし、部下を奮い立たせた。
しかし、この銀の鯰尾の兜は、月夜の合戦ではよく目立ち敵の標的にされ、何度となく狙撃を受けたが
氏郷は意に介さず、勇猛に戦った。といって、猪突猛進するというのではなく、思慮深かったと伝えられている。
もう一つ逸話を紹介しましょう。
会津42万石に封じられた時、大栄転にもかかわらず、氏郷は不満そうだった。
理由を尋ねられて、こう答えたと伝えられている。
「小身であっても、都の近くに居れば、一度は天下に号令する望みが持てる。だがいくら大身であっても
海山越えた遠国にいては、何の望みもかなわない。もはや自分が不要な物になったと思えば、不覚の涙がこぼれたのだろう」
むろん、氏郷自身が天下をねらっていた、というのでは無いが
おそらく、この話は、秀吉の死後、天下が乱れたことから、後に創作された可能性が高いと言われている。
氏郷の死後は、13歳の長男秀行が家督を継いだが、その三年後、会津92万石から宇都宮18万石に減封された。
秀吉は美人の誉れ高い未亡人、冬姫を側室に望んだが、冬姫は拒絶し尼になった。
このため、逆上した秀吉が嫌がらせしたと言われている。
大友宗麟
大友宗麟は九州の覇者を目指したキリシタン大名として有名だが、58歳で病死している。
大友家は鎌倉以来の名門で、宗麟は義鑑の長男として生まれた。
ところが、父は、愛妾との間に生まれた弟塩市丸をかわいがり、宗麟には冷淡だった。
このままいけば、家督は弟に渡りかねない状況になっていた。
やがて、天文19年(1550)2月10日、長男である宗麟の相続を主張する家臣達が
父の義鑑と弟を殺害するという事件が起きた。
当時、宗麟は21歳で別府に湯治に出かけていて留守だった。
宗麟は知らせを聞くと、早速戻って混乱を鎮めたが、首謀者達は責任をとって自刃した。
こうして宗麟は21歳で大友家の当主となった。
その後、各地を攻め落として大友家の全盛時代を築いた。
その領国は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六ヶ国と日向の半国など南九州を除いた九州の三分の一を占め
さらに四国の伊予の半国にまでおよぶ勢力となったのである。
宗麟はもともと仏教徒だったが、天文20年(1551)宣教師ビザエルと会見し領国内での布教を認可した。
そればかりか、子供達にキリスト教をすすめたほどだが、彼自身は洗礼を受けようとはしなかった。
最も、宗麟は家督を継いだ翌年、いち早く豊後に南蛮船を迎え、生糸やラシャ、ビロード、絨毯、象牙などを輸入し
更には西洋音楽や西洋医学を受け入れている。
若々しい柔軟な感性があり、進取の気性に富んでいたのだろう。
それにしても、仏教徒の宗麟がなぜキリスト教の宣教師を迎え入れたのか・・・・?
それは自ら信仰を受け入れるというのではなく、ヨーロッパとの貿易によって富を得ること
新しい文化を入手することが目的だったからである。
そのようにヨーロッパ人と接触し、武力で勢力を広げて行く過程で、宗麟の私生活は乱れていった。
「大友記」によると、「美女艶色を求め、ひとえに好色に傾き給う」という具合であった。
当然ながら、このような私生活の乱れは、領国経営にも少なからず影響を及ぼして行く。
家臣たちの気持ちも次第に離れていった。
永禄5年(1562)33歳のとき、出家した。
宗麟と名乗るのは、この時からだが悩み苦しんで快楽に溺れながらも満たされるものがなかったのだろう。
しかし、出家した宗麟は天正6年(1578)49歳の時、今度は洗礼を受けた。
魂の救済を求めてのことだが、これが結果的には国を滅ぼすことになった。
当時、宗麟は島津義久と全九州の覇権をめぐって対立し抗争を続けていた。
宗麟は洗礼を受けて2ヶ月後、島津攻略のため4万の兵を率いて日向へ進撃した。
すでにその頃、宗麟はキリシタンの理想郷を建設する夢を抱き、宗麟の軍船には十字架の旗を掲げていた。
11月12日、日向の耳川を挟んで、宗麟の軍勢と島津軍は対戦した。
しかし、宗麟は将兵たちが出馬を要請したにもかかわらず、はるか後方にいて神に祈っていた。
合戦は宗麟の軍勢2万人が戦死し悲惨な敗戦となった。
大将が合戦で指揮をとらず、姿も見せないということで、戦う士気も意欲も沸くはずがない。
多くの将兵を失った大友家は、これを契機に急速に衰退して行った。
島津に寝返る者も少なくなかった。
やがて、島津軍の攻撃も激しさを増してきた。
宗麟は豊臣秀吉に救援を求めたものの、遂に「理想郷の建設」という夢を実現することは無かった。
天正15年(1578)宗麟は58歳で病死した。病名はよくわからないが
一説によると、何かの伝染病だったとも言われている。
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