前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

人面獣心




 混沌とした世の中、いろいろなことに腹が立つが、実子或いは実子でなくとも抵抗もできない子どもに暴力を加え、挙げ句の果てに殺してしまうような人間は、人間ではない、獣と言えば獣が気を悪くする、憎悪を通り越して吐き気を覚える。そんな人間は見つけ次第殺しても罪に問われないという法律でも作ってほしい!

 虐待のニュースが連日のように報道され続けている。人間としての理性を失った輩がこんなにもいるのかと呆れてしまう。あまりにも数が多すぎて、一つの事件の詳細を忘れてしまうほどである。ニュースを知るたびに、驚くより先に「またか」と思ってしまうことが悲しい。空から爆弾が落ちてくるわけでもない、戦車が迫ってくるわけでもない、地雷が埋まっているわけでもない国の子どもなら、世界一幸せでいていいはずなのに、何故こんな目に遭わなければならないのだろうか。

 表沙汰になっているのは氷山の一角にすぎないだろう。知られていないだけで、ひどい仕打ちを受けている子どもがどれほどいるだろうか。家庭の問題には介入しにくいといわれるが、虐待がこれほど大きな社会問題になっている以上、法を改正しなければならない。命が危うくなってから、絶たれてから報じても遅いのだ!

 周囲に、勇気を出して通報してくれる人がいれば、そして、警察や医療関係、児童相談所が機能したなら、その子は救われたはずだ。しかし、一般的に他所様のプライバシーには踏みこめないし、たとえば岸和田事件のような、すぐにキレて学校に抗議したり、署長に会わせろと文句を言ったりするタイプの、非常に厄介な親に関わるということは無意識に敬遠して、またはどこか良心の呵責を感じながらも気がつかないふりをずるずると続けていくことが多いのではないだろうか。名誉毀損などと訴えられたり、こちらにまで暴力をふるってきたらどうしようと考えてしまいそうである。電車内でからまれている人を見かけても、見て見ぬふりがほとんどだ。当事者になったとき誰も助けてくれないだろうと考えるから誰もが見て見ぬふりをするようになる。善悪の基準を見きわめ、何かあった場合には必ず誰かが味方になってくれるという信頼感が薄れている。しかし、これでは悪循環だし、これ以上虐待のニュースが増えるのはやりきれいない。人が殺されるくらいなら、もっとプライバシーに立ち入ることを国と国民が認めてはどうか。

 子どもは、生まれた瞬間から親とは別の一人の人間である。親の思い通りにならないことなんていくらでもあるし、それが当たり前である。欠点ばかりを指摘するより、その子らしさに目を向けると微笑ましく思えてくるものだ。一緒に暮らすなかで、親が子どもから学ぶことはたくさんある。自分のもとに生まれてきてくれただけで感謝すべきである。自分の子どもと生活することもうまくできない人は、社会生活においても人と関わるのが下手だと思う。学ぶ気持ちを忘れて、人の上であぐらをかいている人間こそ、社会のごみと言われても仕方がない。

 親は、子どもがいて初めて親と呼ばれる。ということは、「親になった」のではなく「親になれた」のだ。もっと言えば、「親にならせてもらった」のだ。親と呼ばれる条件は子どもがいることではなく、子どもを育てることができる人である。



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