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宮城県では3月25日から週一回のペースで浄水場の水質検査が行われています。先日の検査では久しぶりに県内すべての浄水場からヨウ素が検出されませんでした。喜んで水道水を飲み始めていたところ、今朝の新聞で仙台の一か所の浄水場からセシウムが初検出されたことを知りがっかりしていています。日本には現在54基の原発がありその中で運転停止をしている中部電力の浜岡原発が7月に再開する方向だそうです。浜岡原発は断層の真上ににあるそうでこんな地盤が不安定な時期に再開して大丈夫なのかと心配になります。私の嫁ぎ先の家はカーナビで調べたら福島第一原発から50数キロしか離れていませんでした。原発20キロ圏内は避難となっていますが、そこからたった30キロしか離れていないんて・・・怖すぎる。東電からまったく恩恵を受けていない宮城県がなぜこのような目に合わなくてはいけないのか。納得がいきません。東電は東北電力にも保障の一部を肩代わりしてほしいと頼んできたらしいのですが甘えるのもいい加減にしろと言いたいです。関東の夏の電気の不足分をこれまで東北電力は協力して供給をしてきました。たいした節電を行わないで電気を使い放題に使って足らなくなれば東北電力に手を貸してもらい、それでも足りないと福島に原発を増設してきた東京電力。情けない。なにが安全神話が崩壊しただ、もともと安全ではないものではなかったし、絶対事故が起きないという保証がないものだったことは想像ができたことだと思います。福島原発が放射能漏れを起こしたらここはもう終わりだなと度々友達と話をしていました。現実になった今、これが夢だったらと思わずにはいられない。現実とは思えないです。「故障・事故ありき」として考える限りの安全対策を講じてこなかったツケがこうして国土と信頼を失うという大きな損失事故につながってしまいました。安全性より利益追従してしまったツケにしてもこの現実は重すぎます。起きてしまったことはもうどうしようもありませんから、修理に尽力を尽くして下さっている原発で働く作業員の方々の安全確保と環境の改善を国にはお願いしたいです。本当は国が先頭にたって指揮して作業を行わなくてはならないのに知識がないとはいえ対応がお粗末すぎます。今から数年前のこと、看護師の国家試験を吉祥寺にある大学で受けました。その帰り道菅さんの乗った高級車とすれ違ったのですが「菅さん?あぁ、あのカイワレ大根の人だっ」という印象。総理大臣になって頑張っていらっしゃるのはわかるのですが、でも「カイワレ大根の人」なんだよなぁ。がっかりだな。せめてこの方に立派な参謀が付いていればいいのですが。近年の総理大臣には足を引っ張る側近はいても頼りになる参謀がついていない感じがします。国民は立派なのに、その国民も偉くなると利権などが絡んで思い通りに動けなくなったりお互いに協力し合えなくなるのでしょうか。残念に思います。
2011.04.29
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スーパーを出たらハトがお菓子の「たけのこの里」を一生懸命くわえて食べようとしていました。ハトの口には大きすぎるので、くちばしから転げ落ち、またくわえては転げ落ちを繰り返していました。「ちょっと待ってろよ。」私は靴でたけのこの里をつぶして粉々にしてその場を後にしました。私と入れ違いにスーパーにやってきた奥さんがハトを見て「まぁ、きたない」と言いました。ハトは悪口を言われてるのも知らずコツン、コツンと頭を動かして食べていました。少しはお腹の足しになったかな。震災後数日間は食べ物がなかったから、エサをねだって公園で話し込んでいる人々の足元を行き来してもハトは何ももらえませんでした。「おかしいな」と思っていたと思います。また食べ物が転がっている日常に戻ってよかったね、ハトさん。
2011.04.27
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住まいから1キロ先にある土地に仮設住宅の建設が進められています。この土地には以前「アレグリア」もしくは「シルクドソレイユ」のテントが張られたようで、住まいを探すときに案内してくださった不動産の社員の方から「まるで夢の国のようでしたよ」と説明を受けました。「また、来るといいですね~ (^^)」「そうですね~ (^_^)」そんな会話をした数か月後に大きな地震が起きてここに仮設住宅が並ぶようになるなんて思いもよらなかったです。 仮設住宅の道路を挟んだ向かいには新幹線の高架橋があります。高架橋の向こう側はマンションや商店など建物がいっぱい並んでいます。橋の反対側は慎重に開発が進んでいました。土地の値段も高そう。デベロッパーが狙っていたのではないかしら?仮設住宅というものを実際に初めて見ましたがプレハブの長屋のようです。音や振動がお隣に漏れそうだし、寒さ暑さがしんどそうです。体育館よりはいいかもしれませんが、生活するには大変そうな感じがしました。仙台市内には10数か所の地域に4000戸の仮設住宅が建設される予定です。 住まいから自転車で約5分ぐらいの場所に市民ホールがあるのですが、お買い物に行く時にホールの前を通るとお線香の匂いがします。ご遺体安置所になっているのです。まだお迎えがない方々がいらっしゃるのだと思います。被害が少なくほぼ日常の生活に戻っている私のような人々がいる一方で、今だ家族と対面すら出来ていない方々が多数います。心の中で手を合わせてホールの前を通っています。
2011.04.20
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昨日TVを見ていたら仙台の小学校で給食が再開されたと報道されていました。しかし給食センターはまだ修復中ということで子供たちが食べていたものはコッペパン1個と牛乳だけの献立でした。それもジャムもついてこないし、クリームなど何も入っていないただのコッペパン。牛乳が脱脂粉乳だったら戦後のようです。このメニューに対し小学6年生らしき少年は「今は大変な時ですから贅沢は言っていられないと思います。」と頼もしいコメント。イマドキの子供からこのよう言葉が出てくるとは。子供らしからぬ発言に苦笑いしてしまいましたが、立派ですね。
2011.04.19
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昨日、津波の被害があった場所に行ってきました。町は壊滅状態。津波で押し流されてきた砂で地面は覆われ、一部には海水がたまっていました。いたることろに波に呑み込まれつぶれた家や車が不自然な形で転がっています。 瓦礫の山。このような瓦礫をどこにどのように廃棄すればいいのか。東北の沿岸部はすべてこのような瓦礫に覆われ廃棄方法が問題になっています。撤去しなければ復旧は進みません。 土台から剥がされて流されてきた家。2階部分が道路に一部乗っかった状態で道端に崩れていました。 家の土台だけが残っています。奥に見える4階建ての建物は小学校です。松が津波に流されてまばらになっています。奥が見えないくらい密集して立っていた松も根こそぎ流されています。奥には仙台の街並み。沿岸沿いとの差がありすぎます。宮城県の死者は8360人に及びます。行方不明者は7790人。宮城県は岩手や福島県と違い沿岸沿いは平地になっています。津波をブロックする山がなく、一気に津波は家を押し流しながら襲ってきました。逃げる高台もない場所です。これまで津波が来たという情報がないため津波警報は「オオカミ少年」の童話のようになっており、油断をして逃げ遅れた方々も多いようです。 津波が来る5日前に夫とこの海岸に遊びに来ていました。上の写真のように奥に仙台の景色など見えないくらい家や建物が並んでいたのです。その面影は今はありません。海を見ようと恐る恐る車から降りると私のように被害を見に来た人々が無言で呆然とした顔をしていました。奥には青々とした海が横たわっていました。静かです。防波堤には花や飲み物が供えられていて大切な家族を無くされた方々の心を思うと言葉になりません。こんなにおとなしい海なのに黒々としたひとつの塊となって襲ってきたのです。 右側に見えるのが高速道路の仙台東部道路です。この道路が防波堤となって奥の街並みを守りました。この丘をよじ登って助かった方々もいらっしゃいます。この道路がなかったらもっと被害が大きくなっていたことと思います。 今回このような写真と動画をのせることを悩んだのですが、悪く思わないでください。現状を伝えたかったのです。室町時代に襲ってきたという津波は平成のこの時代に再び襲ってきました。時代が変わり技術が進んでも自然の猛威にはかなわないです。自分と家族をどうやって守るか、災害から学ばなくてはならないことはたくさんあります。みなさんの置かれた環境の中で想定される危険なこと、身を守るすべをもう一度考えてください。自然の猛威には太刀打ちできません。
2011.04.17
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昨日、仕事を探しにハローワークに行ってきたのですが、帰りに黒いバスを見つけました。「相馬野馬追」と書かれたバス。福島県のバスです。周りの長距離バスより際立ってかっこよく皆の視線を集めていました。福島は今大変なことになっています。みんな一緒に痛み分けいたしましょう。原発が安全な物ならば東京湾にでも造ればいいのに地方にどんどん増設し人災で事故を起こしたのに事故は「想定外でした」という東電には失望するばかりです。東京などの関東にお住いの方々には罪はありませんが、地方で作られた電気で生活してきたのですから故郷に心を残したまま関東に出てきた福島の方を見かけたら優しくしてあげてほしいです。一部の心無い方々の対応は原発が爆発したのと同じくらい痛みを与えます。放射能は飛散距離は500キロに及びます。北海道と大阪から先に逃げなければ本土に住んでいるかぎりはヨウ素などの放射性物質から逃れることはできません。福島ナンバーの車避けても福島県民を避けても、福島のごみを燃やすこと反対しても放射線から逃げることはできないのです。腹をくくってみんなで優しく思いやりを持って生活しましょう。原発の安全神話が消え去った今、痛み分けをしなければこの国は立ち上がれないと思います。
2011.04.16
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ついに都市ガスが復旧しました。うれしい!約1か月かかりました。長かったなぁ。震災後は3か月はかかるだろうといわれていましたが、他県からのガス会社の方々の応援があり今月の20日で仙台のすべての区域のガスが復旧する見込みとなっております。水道の蛇口からお湯が出るありがたさ。ガスが使えるありがたさ、お魚が焼けるし本当にありがたい。夫とこの1か月、家の中でキャンプしているみたいだね、「黄金伝説」のような不自由さだと話していました。毎日ティファールと電気ポットでお湯を沸かし手間がかかり大変でした。昨日はついにティファールの湯に我慢できずスーパー銭湯に行っていました、震災応援価格で少し安く入浴することが出来ます。ガスが復旧してきたころからお客さんが減ったらしく待ち時間が無くなったと聞いていましたが、駐車場は車がいっぱい。でもすぐに入浴することができました、お風呂は体が温まるし極楽だな。自宅の浴槽には水を溜めているのですが、入浴のために捨てるのはもったいないので使い切るまでシャワー浴だけにしようと思っています。それにまだ市の下水処理場が壊れたままなので汚水の処理が追いついていないようです。あふれた汚水が道路に噴き出すことが懸念されていますので各家庭での節水が呼びかけられています。ガスが復旧しても毎日入浴している人は少ないかもしれませんね。お風呂に入らない生活にも慣れたというか。。。節電・節水・節ガス・低排水の生活を心がけたいと思います。
2011.04.14
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原発ですが、ついにレベル7になりました。「いつ」レベル7って報告するのかなって思っていましたが。 1か月が過ぎたころからまた余震が活発化しているし、先行きが不安定です。ブログをやめようと思っていましたが、顕微授精などの婦人科通院をやめることにしましたのでこちらはもう少し続けることにしました。夫婦二人で仲良く生きてゆくことにするよ。楽天ブログをやめてほかのブログで女性限定で公開しようと思っていたのですが、婦人科通院を行わないのならやめる意味がなくなってしまいました。一応おばさんでも気持ちは女の子ですから婦人科のことって見られたくないのよね。書かなきゃいいのだけれど。婦人科通院って孤独ですから共感してくれる仲間がほしくなるんです。そんなわけでもう少しお付き合いくださいませ。また遊びに来て。
2011.04.12
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今朝の新聞に掲載されていた写真です。瓦礫の山になっている場所は前回私が写真を載せた被災地です。後ろに仙台市中心部を遠くに望んでいます。切り取って合成したような写真ですが、このくらい被災地と被害な少なかったところでは差があるのです。津波さえが来なかったらと思わずにはいられません。宮城県だけで死者は7929人 行方不明者は6460人です。私の所は都市ガスが復旧していないだけですが、友達の所は先日の余震でまた断水になり給水車の水を得るのに連日1時間待ちだそうです。母の所も再び断水になりました。私の居住区の水道からはヨウ素が検出されていますが、断水で困っている方々思えばまだマシなのかなぁと思ってしまう。でも水道から放射性物質なんて異常ですよね。仙台市の放射線量は毎日0.02マイクロシーベルトです。初めは洗濯物を室内に干したり神経質になっていた市民ですがさすがに毎日のことなので諦めたのか外干ししたり布団をベランダに干す方々も出てきました。食べ物は普通に何でも買えるようになりました。ヨーグルトも店によって手に入りにくいところがありますが、比較的手に買いやすくなりました。 これを書いていたら先ほどまた大きい余震が来ました。怖いです。外に逃げて立っていると地面が揺れているのか、自分の足が震えているのかわからなくなります。隣の奥さんとお子さんと一緒に外に逃げましたが、一人で家にいると不安になります。家のきしみ具合で地震が大きくなるかわかる。震度3ぐらいだったらまだいいけれど4ぐらいになると体が震えるようになってきました。みんなも気を付けて、家の鍵、携帯は肌身離さず持っていてください。このような地震がまた何度もやってくるのかな。家が耐えられるのか心配になります。屋外に避難される方は頭上注意です。ヘルメットを持っていない方は洗面器で代用してください。頭にタオルを乗せて洗面器をかぶって外に出るのです。座布団でもかまいません。笑い事じゃないよ。命がけですよ。こんな余震が何度も来たらガラスやら建物が壊れて頭に落ちてきたっておかしくないよ。1年以内にM8の地震がくるという予測もあります。やって来る気がするよ。用心しよう。
2011.04.11
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穏やかな海の風景。私の住まいから30分ほど車を走らせると写真の海にたどり着きます。津波がくる5日前に夫と釣りをするためにこの沿岸に出かけていました。岩手の沿岸と比べると潮の匂いが薄く、波も穏やかできっと津波が来てもたいした被害にならないだろうと話していました。その5日後の3月11日に津波がこの辺一帯の家々を流し壊滅状態にしてしまうとは誰が想像したことでしょう。サイクリングコースがあり、夫婦で自転車を走らせていたり、犬の散歩をしていたりと普通の日常がそこにはありました。子供もおじいちゃんもおばあちゃんもたくさん散歩していました。たくさんの船が翌日の操業に備えて出番を待っていました。沿岸の松林沿いにはたくさんの家が並び子供たちが元気に遊んでいる姿が見られました。おしゃれをしてデートに来ている若者もたくさんいました。今はこの辺一帯は家の土台だけが残っている状態です。船も何艘助かったのか。景色が一変してしまっています。津波が来ると言われても今まで来たことがなかったから津波警報は「オオカミ少年」のようになっていたとある被災された患者さんが話していました。油断して逃げ遅れた人もたくさんいたようです。まさか津波が松林を超えてやってくるとは思わなかったようです。家族みんなで逃げたけれど、90歳のおじいさんだけは波に呑まれて助からなかったと話していた人もいます。今回の津波では高齢者の方々がたくさん亡くなっています。ここだけでも死者は数百人です。行方不明者も同様です。震災の2日目に「せめてばあちゃんの形見だけでも。茶碗のかけらでもいいからほしい。探しに行くんです」とガソリンがないから自転車に乗って200キロは離れている沿岸の町に向かっていた若い男性と母は出会ったそうです。おにぎりとおかずを作って持たせてあげたと話していましたが、私のばあちゃんも90歳の高齢者ですが、同じ目にあったら私も探しに行くよ。津波で家族を亡くすなんてつらいです。どんなに怖かったか。そしてその人がいた世界まで消えてなくなってしまうなんて・・想像を絶します。そうやって落ち込んで疲れ切って来院される方々に作り置き点滴を私は施行していたわけです。先生は励まし上手で素敵な人でした。患者さんたちは勇気づけられていましたよ。私が出来る形で被災された方々のお役にたちたいと思っていましたが・・・・情けないですが退職致しました。 凹む。残念です。私にはいろいろと難しかったです。無理です。今度は下調べをがっちり行なってから就職をしたいと思っています。
2011.04.09
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今日は休みだったので家でのんびりしていたらインターホンが鳴りました。誰かがやって来たようです。玄関の戸を開けるとそこには見知らぬ男性がふたり。「体調にお変わりはありませんか?」 災害支援でやってきた看護師さんたちでした。二人とも他県の方で奈良と福島の方だとか。ありがたいなぁ。いろんな資格を持った方々が応援に駆け付けて来てくれています。感謝です~。私の住んでいる付近はほとんどがマンションやアパートで、昼間は働きに行っている人ばかりでいわゆるベッドタウン的な感じがあります。駐車場の車も他県ナンバーが多いです。地震の時に家にいて建物の下敷きになるよりいいと住まいから飛び出して外に出た私ですが、M6強の揺れの中、外に飛び出してきたのは私だけ。ノラ猫も踏ん張って揺れに耐えていましたが、走って出てきた私を見たら驚いて逃げて行ってしまいました。こんな街中で周りには建物がたくさんあり・・・でも誰もいないって。ここって昼間は本当に誰もいないんだな。ゴーストタウンじゃないかって思いました。人間って危機的な状況になると周りに人を探すのですね、 マンションには昼間一人で生活している高齢者の方々が多いようです。余震に怯えている高齢者の方々が多いのでこうやって自宅にやってきてくれる看護師さんの存在は心強いことと思います。 ・・・・かっこよかったなぁ。うらやましかったです。
2011.04.06
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先週の日曜日に仙台駅の地下に買い出しに行ってきました。駅の時計の針がありませんでした。 工事中です。 こちらでもパンと牛乳は普通に買えるようになりました。ヨーグルトはまだ品薄です。ガソリンも昨日から満タンに入れられるようになりました。ガソリンを満タンになったので昨日は久々に嫁ぎ先の家に帰ってきました。仙台駅の1階にある「伊達の牛タン」というお店の牛タン弁当を16個購入し親戚やお世話になった方にお土産げとして持参しました。美味しいんだよ。久々に両親の顔を見ることが出来てうれしかったです。私の祖母は病院に入院中なのですが、お見舞いに行くことができました。ばあちゃんも元気でよかったです。震災2日後にお見舞いに行ったのですが病院は停電で非常用の薄暗い明りの中での面会でした。大部屋だったため気を遣い数分だけの面会でした。持っていたカイロ3個と飴だま数個を手渡して「また来るから」と後ろ髪をひかれる思いで帰ってきましたが、その後ガソリン不足で会いに行くことが出来ず心配していたのです。元気でよかったです。お菓子とカイロをお土産においてきました。ばあちゃんの話では病院も食料の確保が難しく数日間は一日2食の食事だったそうです。最近はおかずがまた良くなったのだと笑顔で話していました。そろそろ退院になるそうです。余震がある間は入院していてほしい気がしますが、そんなこともいかず・・・息子である叔父が自宅に連れて行ってくれればありがたいのですが(でかい家なのである)、叔母さんが嫌がっているようで・・・・私がばあちゃんをわが家に連れてきたいよ。息子って役に立たないですね。
2011.04.04
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アドバイスありがとうございました。<(_ _)>
2011.04.02
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