らぶぴか

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天国へ旅立った息子の話4



旦那さんの親戚と、両親や友人が来てくれました。

私の父が昌の顔を見て、「うん。いい子だ」と一言、つぶやくように言ってくれました。

何気ない一言だったのかもしれませんが、のちのち私の心の支えになった言葉でした。

「明日も火葬があるからお前は横になって休みなさい」と実父に言われました。

たった半日しか一緒にいられないと思うと横になることは出来ませんでした。

誰もいない部屋で、1人にするのは寂しいよ・・と思うと

冷え込む部屋にジャンバーや毛布を持ち込み、

いろいろ話をしました。

といっても、ずっと謝ってばっかりいたような気がします。

そして、「もしも」という思いも自分の心の中でめぐっていました。

あっという間に時間は過ぎ、火葬の時間になってしまいました。

服と帽子、靴とおもちゃをいれました。

あっという間に、骨だけになってしまいました。

未熟児だったということもあり、ほとんど粉々に近い状態でした。

葬式などが終わり、実家での産後の生活が始まりました。

ピカリンの笑顔に励まされて、日中泣くことは少なくなりました。

が、実母も仕事へいき、ピカリンもお昼寝をして自分ひとりの時間が出来ると

昌を思い出し、泣く日々を過ごしましたが、

泣いてばかりいたら昌へ顔を向けることが出来ないと思うようになりました。

とはいえ、1人になるとどうしても思いだすので

体を動かすことをしてしまうようになりました。

実家であっちこっち掃除や片付けをして過ごしました。

体によくないとわかっていても、動かずにはいられませんでした。

母はなにもいわず、「片付けてくれてありがとう」だけいいました。



3ヵ月後、病院から解剖の結果が届きました。

内容は

腹膜炎から敗血症(血液中に細菌が進入し全身状態が悪化する)を来たし、敗血症によるショック状態から肝機能障害が起こりました・・・・省略

手紙を受け取り内容を読み終わると、むなしさしか残りませんでした。

あれだけ死亡原因を知りたかったはずなのに

もう死んでしまったのだから、原因が今更わかったところで何も変わることはない・・・と



そして、旦那さんからも告白されたことがありました。

妊娠中毒症で手術(帝王切開)をしたけど
あの時は、親子ともに覚悟してくださいといわれたと
妊娠中毒症で1が一番軽いとすれば、お前は9か10だったんだ。
最終的には昌は死んでしまったけれど、2人供無事でほっとしたんだぞ。

旦那さんにも随分心労をかけたんだと思いました。

私の知らないところで、泣いたり苦悩したんだと思いました。

とはいえ、(あの時)一緒に死んでもよかったのにと思う私もいるのです。

そして、1ヶ月検診で知ったのは、

私のほかにも11月に子供を亡くされた方が2もいることです。

大きな市立大学だったんですが、私を含めて3人もいらっしゃるんです。

これは凄いことです。

こんな想いをされてる方がいっぱい居るんだ・・・と


毎年11月が近づくと、胸が重く、切なく、息苦しくなります。

毎日位牌に手を合わせて、昌を思い出さないわけではないけれど、

昌が亡くなったこと、義父母のこと・・・いろいろな想いがこみ上げてくるのです。

義父母については心配してくれた結果が

ああいう発言をしたんだと思うようになりました。



お墓も夫婦で(というより自分が)相談して決めて建てました。

義父母には、「自分達で決めて建てます」とだけ伝えました。

義両親は何も言いませんでした

昌が生きていた証というものがほとんどありません。

母子手帳と出産・葬儀関係でそろえた書類(住民票など)

死んでしまった後で撮った写真が2枚

お腹の中にいたときのエコー写真が一枚
(なぜか通院しているときはもらえなかった為)

生きている時の写真がエコー写真しかないのです。
(未熟児の治療室で写真を撮ってもいいのかわからなかった)

将来、私が亡くなったとき、昌の母子手帳を棺に入れて欲しいなあと思っています。





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