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たんぽぽの花言葉には真心の愛、明朗な歌声しあわせをつたえる存在神聖な言葉あるいは、また「別れ」「別離」という意味合いもあるといいます。神聖な出会いと、別れ。かけがいのない一期一会の精神が、それらの花言葉に込められていると僕は考えます。a dandelion楽天で、幅広い年代層の、とても多くの人達から慕われているたんぽぽの願いさん のブログのTOPには次のような言葉があります。 「たんぽぽは花が終わると、 茎を地面に倒して全力投球で種を造るのだそうです。 そして綿毛になり起き上がると、種を飛ばしやすいように 花の咲いている茎の2~3倍は瀬が高くなっているのです。 私もたくさん幸せの種を造って、遠くまで飛ばしたいと 願っています。」僕が、たんぽぽの願いさんのことを知ったのは実は10日くらい前です。ブログ上で知り合って、とても日が浅いのです。しかし、そんな短い日の過ぎ行く間にも大きな暖かい「何か」を感じていました。初めて、たんぽぽの願いさんのブログを訪問した時の印象。「まるでパイヤールの音楽のよう」そのようなものでした。フランスの偉大なる指揮者、パイヤールの指揮する素晴らしい演奏をたんぽぽの願いさんの言葉の徒然から、ふと、感じたんです。とても不思議な体験でした。たんぽぽの願いさんの最近の日記の中に次のような言葉があります。 「源を生きている人には共通点を感じます。 根拠なく自他を信じている。。。 言葉を超えたところの世界を感じとっている。 そんな風に感じます。」源、って何だろう・・・?。僕は考えましたが、、、結論は出ませんでした。そこで、ブログに質問を書いたところ、その時の僕にとっては予想もしない返事が返ってきました。 「言葉にせずただ感じているのが源です。 言葉は不要の世界を明確にしてみてください。 誰もが気づいていますから、 大丈夫です♪」安堵感。心の大きな安らぎ。たんぽぽの花の 白い美しさ。たんぽぽは静かに、ただ そこに咲いている。そして世界とのつながりへ向かい幸せの種を造り、遠くまで飛んでゆく。これってたんぽぽの願いさんという存在、そのものであるかのように僕には思えました。そして僕がここ数日間、考え続けてきたロベルタ先生と50人の子どもたちという存在。彼らもきっと美しい音楽の旋律を奏でる沢山のたんぽぽに違いないのかもしれない・・・。今夜は、なんとなくそんなことを考えました。そして眠りに落ちる時に願うことでしょう。美しく可憐なたんぽぽの花々が一面に広がるそんな風景のある夢が見れるように、と。人間にとっての本質的な心の安らぎとはもしかしたらたんぽぽの花のようなものなのかもしれませんね。 明日になれば今日とは違う自分、あなたと出会えますことを願いつつ。ではでは また!(^^☆)***上記の日記に使用させて頂いた画像はたんぽぽの願いさんのサイトから借用しましたことを書き記します。たんぽぽの願いさんのブログ
2004.11.20
昨日の日記の続きを書く予定でしたが、急遽先程、いたく感動する「詩」に出会いましたのでその詩の紹介を、今夜の日記とさせて頂きます。この詩を編み出したのは、京都在住の詩人で健康にこだわった手作り石鹸職人でありそして僕の楽天仲間でもあるよがぷうさんです。よがぷうさんのブログ 「なくしてしまったもの」 なくしてしまったもの と おもいこんでいたもの が こんなに も じぶん の ちかく に あったなんて うばわれないよう に きずつかないよう に きつく きつく にぎりしめているうち に にぎりしめること だけ が たいせつな ことに なっていった かぜ の つめたい あさ ふと まいおりてきたもの を そっと うけとめよう と ゆっくり こぶし を ひらいてみたら すっかり わすれていた かたく かたく にぎりしめていたもの と まいおりてきたもの が とけあって ひとつ に なった わたし の て は ふたたび それ を にぎりしめること は なかった僕は、上記の詩をよがぷうさんのブログ日記上で読んで感動しました。「ハーレムのヴァイオリン教室 ~ロベルタ先生と50人の子どもたちの奇跡~」に関する、続きの日記は明日に書く事にします。ではまた明日!(^^☆)*** 追加オマケあり(11/20午後) *** ↓↓よがぷうさんってこういう人です。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ なぜか・・・裸です。(笑)
2004.11.19
「ハーレムのヴァイオリン教室 ~ロベルタ先生と50人の子どもたちの奇跡~」という、ドキュメンタリーがあります。教師の実務経験の殆どない,臨時教員のロベルタ・ガスパーリさんがアメリカでも物騒なイーストハーレムの小学校でヴァイオリンを教え始めたいきさつ、そして50人の教え子たちとともにさまざまな困難を乗り越えながらも音楽の殿堂・カーネギーホールでの演奏を果たすまでの13年間の軌跡の物語です。メリル・ストリープ主演の「ミュージック・オブ・ハート」。この映画の原作のドキュメンタリーです。魔法の物語の実在の登場人物達が総出演。アイザック・スターンやパールマンといった超有名なVn演奏家も登場します。素晴らしい内容です。 「ロベルタはすごく厳しい人だとすぐにわかったわ。 役作りをする時、彼女の鋭さをたくさん取り入れたの。 (しかし、厳しい言葉を支えているのは、) 教え子に対する彼女の大きな愛情であり、 教え子たちの彼女に対する敬愛なの。」 (メリル・ストリープ)僕は映画「ミュージック・オブ・ハート」に、いたく感動した後このドキュメンタリーに出会いました。「ミュージック・オブ・ハート」に描かれる少しだけ大袈裟に感じる部分がごくごく自然に、先生と子供達の物語として描かれていて僕は、こちらのドキュメンタリーの方が気に入っています。カーネギー・ホールといえばあの有名な映画「カーネギー・ホール」で知られるように当代切っての一流の演奏家しか立つことの出来ない舞台。日本の感覚でいうと年末の「紅白歌合戦」のような舞台(びみょうに、ね・・・^^;)。そのような舞台で危険なハーレム地区で育った子供達が演奏を果たす・・・普通なら、あり得ない話です。そんな、あり得ない話が、どのようにして実現してしまうのか。物語は、そんな疑問を素晴らしい子供達の笑顔と共に見るものに語ってゆきます。興味を持った方は是非、鑑賞して下さい。何故、ロベルタ先生は教え子達とカーネギーホールの舞台で演奏する、なんて途方もないことを考え付いたんでしょう?。奇をてらった意図を以って、ロベルタ先生は子供達に大きな目標を与え、共に進んだ訳ではありません。ロベルタ先生は次のように、話しています。 「(楽器に取り組むことによって)子供たちは集中することを学ぶわ。 それは精神を鍛えることにもなるの」 「音楽や芸術教育は多くを与えてくれるだけでなく、 私たちに、学んでいる子供の心に触れさせてくれるの。 そうしてその子の本当の姿が見えてくるものよ。 音楽や芸術を通して触れ合えば、その子の心をしっかりつかめるの。 そうできるとは全く予想がつかなかった子供でさえ、音楽を通して表現できる。 彼らは自分を見つけ、自分を誇らしく思うようになる。 私たちが子供たちにしてあげられる一番大事なことは、 彼らが自分を信じられるようにしてあげることよ。 努力すればできるということをね。」 (ロベルタ・ガスパーリ先生の言葉より) ~自分を信じられるようにしてあげること。努力すればできるということを~それをロベルタ先生はヴァイオリンという楽器を通して、子供達に教えようとしていたのでした。 「教育と音楽、あるいは教室における音符の魔法」昨日に僕は、このような言葉をキーワードに「何か」を発見しよう、、、などと無謀なことを企てていました。教育とは無縁の立場にいる自分がおいそれと、それらに関して云々するなんて実は無茶な話だと考えますし、それこそ「無駄な努力」というものでしょう。しかし何かを伝える、共に努力し進んでゆくそんなことの大切さ・有意義さ、を自分なりに考えることは自分の未来に対して、非常に有効であるかもしれないというそんな可能性も感じてしまうので明日も「ハーレムのヴァイオリン教室 ~ロベルタ先生と50人の子どもたちの奇跡~」について考えたいと思います。ではでは、また明日(^^☆)ロベルタ先生自身のHP(英語)を見たい方は以下を訪問して見てください。子供達のキラキラとした笑顔に出会えます。勿論、ロベルタ先生にも。(^^)ロベルタ先生のHP映画「ミュージック・オブ・ハート」に関しては映画「ミュージック・オブ・ハート」公式HP
2004.11.18
■□■□■□■週刊「ドラマ教育ネット」■□■□■□■ 表現力、コミュニケーション能力を育てる秘訣は、 演劇の中にあった!! 「今日のフォーカスチェンジ」のかめおかゆみこが熱く語る、 パワフルな、ドラマチック・スキル、ここにあります! http://www.mag2.com/m/0000070456.htm □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■芸術の秋の到来!ですね。すいません、ちょっと遅すぎですか?(^^;)確かにもうすぐ冬かも知れませんね。(笑)秋そして冬、そんな時期に僕が大事にしたいもの・・・それは何と言っても、心に「暖房のような暖かさ」です。心の薪、と言っても良いかもしれませんね。自分にとっての「心の薪」とは「文化」に他なりません。文化と言えば、若葉マークな少年少女達にとって非常に有意義な財産なのであります。ん?これを読んでいるあなた・・・ひょっとして高校生なんですか?。そうですか。僕は「高校生」を卒業して15年以上たちます。もし僕が今、高校生であったならその時期にさかのぼって是非とも購読したいメルマガがあるんですよ。誰にだって、出来るならもう一度やり直したいっていう季節がありますよね?僕は現在、30代の途中をまっしぐらなんです。そこまでのやり直しが効かないのであれば・・・仕方がないですね。若葉マークなあなたに自らの過去への自戒を込めて・・・素晴らしい情報「メルマガ」を進呈いたすとしましょうか。もし自分が高校生をやり直すのであれば間違いなく購読するメルマガですよ!☆(豪語!)。全ての若葉マークな中・高校生諸君!そして、全ての教育関係者様方!!!僕は声高く訴えます!。「このメルマガを購読しなさい!」 キー~ッ!!(←↑おすぎ風に^^)ではでは紹介します^^;。■□■□■□■週刊「ドラマ教育ネット」■□■□■□■ 表現力、コミュニケーション能力を育てる秘訣は、 演劇の中にあった!!「今日のフォーカスチェンジ」のかめおかゆみこが熱く語る、 パワフルな、ドラマチック・スキル、ここにあります! http://www.mag2.com/m/0000070456.htm□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■って日記の冒頭にあった告知文をあらためて紹介したりするんです(^^;)別に強制的に紹介しなさい!(キー!)って言われたワケじゃあないんですよ♪。(笑)そ・し・て!もう一個 スーパー☆お勧めメルマガです。まつうらななさんのメルマガ「2番目に幸せになる秘訣」もどうぞ宜しく!まさしく 目からウロコ☆です(^0^)http://www.h2.dion.ne.jp/~nananana/melmaga1.htm↑↑↑「2番目に幸せになる秘訣」きっと、あなたの心に元気の魔法をかけてくれるはず^^。よろしく~☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここからが今日の日記です。「教育と音楽、あるいは教室における音符の魔法」↑壮大なテーマにぶち当たりました。どういう風に書けば良いのか・・・糸口が実は見えません。ただ・・・ちょっとだけ頭に思い浮かんだ映画があるんです。「なんの映画よ?」ハイ! そこのあなた知りたいですか?「ミュージック・オブ・ハート」という映画なんですよ♪。どんな映画かというとですね・・・・・・・ダ、ダメだ・・・今夜も前置きが長くなりすぎて疲れた気が。(笑)しかも眠いし。(爆)・・・全然、ダメじゃん。おおーっし!気を取りなおして続きは また明日!!!(^^☆)
2004.11.17
「死ぬということは モーツアルトが聴けなくなるということだ」この言葉は、「ある愛の詩」という有名な映画の中のセリフです。「ある愛の詩」という映画実はまだ観たことがないのです。どんな映画なのか・・・多少の内容は知っていますが観たら、きっと涙腺を激しく刺激されてしまうような気がしてまだ未見です。もしかして、これからも観ることはないのかもしれません。だから「ある愛の詩」という映画に関して僕の中にある強烈な思い出といえば、冒頭にあげた言葉だけです。以前何かの本の中で、この言葉を知りました。死ぬということはモーツアルトが聴けなくなるということモーツアルトの魅力を表現するのにこれ以上の言葉を僕は知りません。それほど強烈に、モーツアルトの音楽の魅力を言い表しているような気がします。上記の言葉の「モーツアルト」という部分をあなたの最も大切にしている何かにおきかえてみて下さい。あるいは、「○○が○○できなくなることだ」という風に。例えば***大切にしている愛犬ワン☆ちゃん(仮名)と、遊べなくなること何よりも大切にしている友人達との会話のひとときが、日常からなくなることetcエトセトラ・・・あとは、ちょっと思い浮かびませんが(^^;)人によってイメージする事柄は、色々とあるはずだと思います。モーツアルトの音楽を愛する人にとってその音楽を聴けなくなるということはそれほどに生活の中における「生の輝き、楽しみ」が失われることを意味しているのです。僕はクラシック音楽に精通しているというわけでも何でもなく一介の音楽好き、という程度に過ぎませんが、それでもモーツアルトの音楽は、心の中で、大きなウェイトを占めています。本当に愛らしい、「命の輝き」そのもの子供の頃に誰もが持っていた ワクワクする気持 トキメキ他愛もない、子供達の茶目っ気ある悪戯眩しく輝く太陽、くすぐられるように通りすぎる風、清清しい草原愛くるしい天使の微笑み、女神の微笑愛しい人との楽しいひととき・・・・・音楽を愛する多くの人にとってモーツアルトの音楽というのはそのようなものなのでは? と考えます。そして映画「ある愛の詩」のセリフの中に含まれた意味の深みに誰もがきっと、大きく息を吸い込むようにうなづいてしますはずです。僕にとってはあるいは、あなたにとっても?モーツアルトは、最高の「音楽の魔法使い」ですね。昨日に引き続いてまた今日も、音楽の魔法に関する日記になりました。明日もモーツアルト、あるいは「音楽の魔法」に関して勝手気侭に書くつもり(^^)。「魔法」シリーズ・・・結構飽きないものです。(笑)書いていくうちに、自分の中で何か大きな「嬉しい発見」があれば、幸いと考えつつ。ではではまた明日(^^☆)
2004.11.16
「ライヴ・イン・ジャパン~イエスタデイ・ワンス・モア 武道館」という名前のDVDをTUTAYAで借りて見ていました。日本武道館でのコンサートの模様を収めたDVDです。コンサートの当日に日本武道館の前に並ぶお客さん達の姿が、かなり面白いんです。みんなフィンガー・ファイブみたいな服装なんですよ。(笑)これだけでもかなり、見ごたえがあります。一体、これはいつ頃の映像なんだろう?と思って、ふと資料を見たら1974年。どおりで。(笑)僕が幼稚園か、そこらくらいの時代の映像なんです。フィンガーファイブ・・・僕にとっては最大のアイドルでした。近い時期に、フォーリーブスなんて人達もいたような気がします。山口百恵、山本リンダ、南沙織・・・・・(*´ェ`*)←もとsunさん作成の顔文字が再び・・・^^子供心にも(*´ェ`*) (*´ェ`*) (*´ェ`*) って感じになっていたような気がします。(笑)今の日本からすると、信じられないほどに・・・「健康的な空気」が漂いまくっています。心が和みます。大好きです、こういう素朴で自然な感覚。かなり古い映像です。一体誰のコンサートの模様かって?そんな、あなた・・・「イエスタデイ・ワンス・モア」ですよ~?分かりますよね♪。勿論カーペンターズ ☆^^です。いつも前置きが長くなっていたりもします。カレン・カーペンターとリチャード・カーペンター二人のきょうだいを中心にしたカーペンターズ。「ライヴ・イン・ジャパン~イエスタデイ・ワンス・モア 武道館」凄いです!。感動の極地です。心が洗われるような新鮮さ、暖かさに満ちています。バンドマン達の笑顔が素晴らしいしはしゃぐようにして笑いながら、ステージを走るカレンの表情がとても愛らしいんです。日本の子供達の合唱を背に、カレンが日本語で歌う場面心が熱くなりました。そして何よりも、やはりカレンの歌声が心に染み入るんです。「イエスタデイ・ワンス・モア」ピアノの音が聴こえてきて、カレンの歌声が会場に響き渡る。そこにあるのは、ひたすらな至福の時間。七色の照明に照らされて画面がキラキラ輝いています(←これ、本当です^^;)。このコンサートを、実際に見に行った人達。今はどんな人生を歩んでいるんでしょうね。きっと、宝物のような想い出なんだろうなあ、、、そんな風に想像してしまいました。このDVD・・・何気なく借りてきたんですが見て本当に良かったです!(^0^)。雨の日でも月曜日でも・・・カーペンターズの歌を聴くと心が和みますね。曇りがちな気分も驚くほどに、明るくなって気がつくと笑顔になってしまうのです。素敵な音楽って「魔法」のようだと思いました。
2004.11.15
星がひとつ、消える 瞬きしたら また星が、ひとつ生まれる最近とても残念なことがありました。詩人のきのゆりさんの著書を買いにいったところ全ての著書が、既に実質上の廃刊ということ・・・。僕の持っている著書はかなり古く薄い赤茶色を帯びています。新しいものを買い揃えようと考えていたんです。とても残念過ぎる話です。僕にとってはひとつの美しい歴史の項目が静かに閉じられてゆくような寂しさを感じています。もうひとつ残念なこと。東君平さんの「くんぺい童話館」がHPを見る限り・・・営業を休止しそうな雰囲気なのです。(11月29日から冬眠いたします)↑この言葉が、 び み ょ う な、不安感を誘います。冬眠だから・・・来年にはきっと再開するというニュアンスなのであれば良いのですが。以下はHPからのコピー貼りつけです。「◆◆◆ 速 報 ◆◆◆ 今年(2004年)の童話館は、11月28日(日)まで オープンしています。(11月29日から冬眠いたします)なお、通信販売 は12月20日(月)童話館到着分まで 受け付けております。 」http://www.docca.net/kunpei/index.html腕を組んで、考え込んでいます。星がひとつ消える時またひとつの星がどこかで生まれています。でもどうしても消えて欲しくない星も・・・誰の心の中にでも確かにいくつか、あるのです。くんぺい童話館が冬眠し仮に、春を迎えることがなかったとしても東君平さんは、今でもかなり根強い人気があり大きな本屋さんに行くと、沢山の著書に出会えます。それは非常にありがたいことです。でもきのゆりさんの著書には図書館や古本屋さんに行かないと会えないのですね。これは非常に大変、残念なことです。だって沢山の人達の心にもっともっときのゆりさんの美しい詩が響いてほしいのですから。今夜の日記の最後にもうひとつきのゆりさんの素晴らしい詩をひとつ紹介します。 「私のともだちへ」 かなしそうにしてるともだちには 声をかけた方がいいのか そっとしてあげる方がいいのか 野原に咲いてる小さな花は 本当はつんであげるのがいいのか それとも やっぱり つんではいけないのか 遠く離れたなつかしい人には 手紙を出すのがいいのか 出さない方がいいのか 私は考え迷います いつも いつまでも あなた達のためなら 私は迷っていたい (きのゆりさんの詩 「私のともだちへ」より)
2004.11.14
亞さんのブログの中に亞さんのブログぢみいさんという方ぢみいさんのブログの告知が紹介されていました。紹介リンク先→ぢみいさんのサイトを訪問しました。「みなさんがお持ちの媒体のお力をお借りしたいです。」という文と、何故にその告知が必要なのかという説明が書いてありました。同様の内容を、先程にかめおかゆみこさんのメルマガや、他多数のメルマガ、様々な方のブログで見かけました。以下はぢみいさんのブログからの言葉を、そのまま引用し、告知とさせて頂きます。*******************************************************************************************************以下告知文です。---↓告知の際にはこの情報も併せて喚起をお願いします。皆様の日記、メルマガ、ブログ等のお持ちの媒体のお力をお貸しください。告知していただく事は非常にありがたいのですが、チェーンメールや無差別な掲示板貼付けになるようなことはおさけください。---先日、起業WEB管理人の戸野竜秀さん(28)が暴行傷害事件に遭い死亡しました。ふつうに歩いていたところを無理矢理路地裏に連れて行かれ、命を落とすまで殴る蹴るの暴行を受け死に至るという悪質な事件です。昨日似顔絵も公開されました。http://www.kigyouweb.com/この事件を風化させないため、また、一人でも多くの方に知っていただいて犯人逮捕につなげるため、一人でも多くの方にお願いしています。この事件の話をしてください、このページの似顔絵を見てください。http://www.kigyouweb.com/広める事で、犯人の知人に情報がいって、少しでも犯人逮捕に繋がりますように、みなさんの御協力をお願いいたします。 【注意】 事件の凶暴性から、もし見つけてもご自身で接触する事は避け、 すぐに警察に連絡してください************************************************************************************************************今日の日記は ここから。「人が人を裁くのではなく光が、人を裁く。」以前、少しだけ御世話になっていた土井鷹雄という人物が言っていた言葉です。光が、人を裁く一体どんな意味なのでしょう?。僕は今だにまだ、その言葉の真意が掴みきれてはいません。「空間と方法 SPACE AND CONCEPT 15 土井鷹雄」という著書があります。土井鷹雄氏は京都出身の建築家です。魔法じみた、奇抜にさえ思える独特のデザイン概念を持っている人物でした。その著書の中に最高裁判所庁舎公開設計競技応募案(コンペ案)に関する項目があります。1968年の公開競技コンペで、落選した設計案に関する説明の頁です。実現化せずに終わった裁判所案の様々な図面、スケッチ、模型写真等が説明と共に記載されているんです。最高裁判所の設計案を考えるにあたって土井氏は次のようなことを頭に浮かべたと書いてあります。土井氏の言葉をそのまま、著書から引用します。「この設計競技をはじめるにあたって、まず裁判そのものについて考えてみた。その結果、裁判所とは裁き裁かれる場所というよりは、法の秩序を発見する場であり、そのことを規範にして、人間性を再発見する場所---として認識すべきではないか、と考えるに至った。」「誰もが自分自身を見詰め直し、自分の内部の「法」を発見し得る空間」・・・そのようなイメージでドローイング、スケッチは進められていったという。模型写真が実に「象徴的」過ぎるほどに、斬新なかたちを成しています。どんなふうに斬新なのかって?。模型写真見てもらうことが出来たら、僕の言いたいことは良くわかるはずなんですが(ブログ初心者なので、画像貼りつけ方法まだ分かりません失礼T△T)。巨大な逆三角錐の箱が宙に浮いているような設計案なのですよ。斬新、ですよね?。模型の写真を見る限りエジプトの砂漠に、逆三角錐の形をした巨大な宇宙船が舞い降りてきたようなそんな奇抜な、不思議な形をしているのです。逆三角錐の頂点の2辺には水平に連続して配置された窓があり、そこから大きく光が内部空間に入り込む仕掛けになっています。その光がおちる底部に、法が人を裁く空間が配置されているのです。何故、そのような形、空間が必要だったのでしょうか?。確かに、空間の底辺に自然光を集中して取り込みたいのなら、逆三角錐は最高の形なのでしょう。そう、光のプリズム状態ですから。でも、何故に自然光じゃなきゃいけないのか?人口の照明の方が、裁判所としては適切なのではないのか。そこで実際に会って聞いてみることにしたんです。そして土井氏が僕に語った言葉・・・それが冒頭の言葉でした。 「あの裁判所の案では 人が人を裁くのではなく 光が、人を裁く場所と考えた。」当時はかなり衝撃的に心に突き刺さってきた言葉でした。光が人を裁く?一体、それってどういうことなのさ!?当時、何度も自問自答したにも関わらず、理解は出来ませんでした。光が人を裁く。あれから月日がたち光というものの大切さが、多少は見えて来たように思えます。 光に生かされる・・・生に祝福される 光に裁かれる・・・闇に追放される、未来を閉ざされる実際問題として人を傷つけたり、物を盗んだ人間が「光によって、裁かれる」ということがあるのか否かは僕には分かりません。僕は精神世界に関することや、自然界のこと、様々なことに関して無知なのでなんとも言えないのですが、人を傷つけたことに対する裁きが光によって下される、ということの意味が、やはりどうしても掴み切れない部分があります。悪いことをすれば、いずれは必ず、大きな不都合が己に襲いかかってくる。大抵の場合はそうに違いないと思います。しかし・・・それが「光」によってもたらされるのか否かは、僕にとっては全くの未知の領域に違いありません。しかし、それでもなんとなくIMAGEとしての想像なのですが悪行を法によって裁かれることよりも「光」によって裁かれることのほうが・・・実は、恐ろしいことだったりして?・・・という感覚は持っています。今回、大阪で起こったという痛ましい事件。犯人はまだ捕まっていないようです。今後、その犯人達が「光によって、裁かれる」ということは、あるのでしょうか。
2004.11.13
星のような花。お父さんは娘二人を連れて大自然の草原を散歩していました。ふと、お父さんの目に素敵な花々が映りました。そして娘達と一緒に花の傍にゆっくりとかがみ静かに見つめながら言いました。「星が落ちたんだよ。 星がもういちど生まれ変わりたいと願って 紫陽花になったんだ」娘達はお父さんの話を聞いて、大喜びしました。上記の話は、うろ覚えの話なので、正確な記述ではありません。花の名前は、もしかしたら違う名前の花だったのかもしれません。紫陽花だったように記憶しているんですが・・・。実際のところ定かではないのです。うろ覚えなもので。間違っていたら、誰か教えて下さい。(^^;)上に書いた話とても良い話だなあと、今でもとても心に強く残っています。この、お父さんこそ僕が今日、日記に書こうとしている人物です。絵本作家の東君平さんです。「たとえアヒルの歩みでも それが子犬の知恵にしろ 自分の生きて行く先は 自分の足の下にある」(東君平「青春」より)「風は みんなに吹く こんなあたり前のことが ついこのごろわかった うれしい」(東君平著絵本 「はちみつレモン」より)東君平さんは1940年代の最初に、九州は神戸に開業医の5番目の息子として生を受けました。第二時世界大戦のさなか、みんな空襲でぼろぼろの中そんな幼少時代を何とか生き延びます。13歳にしてお医者さんであった父が死去家族は破産のために離散、親戚のもとに預けられます。そして働きながら中学を卒業。隣に住む女の子から、絵描きになることをすすめられる。18歳の時に絵描きになろうと決意し、上京。新聞配達員として働き始めます。たった一年のうちに、数多くの職業を転々としますが20歳の時に、堀文子さんという方に出会い、作品を絶賛されます。様々な出会いを経て23歳、新宿・伊勢丹ギャラリーで初めての個展「白と黒の世界」開催。「 十九歳。 身も心も腹も どん底の日々だった。 学校は途中から行けなくなっているし 仕事も辛かった。 僕は 新宿の街を歩いていた。 ~中略~ 古びた外灯の錆びた鉄棒に 釘ででも書いたのだろう 下手な字で新宿と書いてあった。 「しんじゅく・・・・・か」 この二度の呟きが ぼくの生き方を決めたといってもいい。 ぼくは その日から もっともっと 自分の気持を信じて生きてゆこうと思った。 それは 新宿の文字が しんじゆく と読めたからだ。 」 (東君平「新宿」より)24歳東君平さんは、英子さん(現在、美術館くんぺい童話館館長)という女性と出会い結婚します。英子さんへのプロポーズの言葉「僕はアメリカに勉強しに行きたい、是非一緒に来てくれないか? 君はその紫陽花色の帽子を持って来てくれれば、それでいい」その後の絵本作家・童話作家としての君平さんを支え続けた英子さんは後にこう後述しています。「ビッシリ書き込まれたスケジュール表は、消化するごとに線が引かれ次から次へと仕事を進める君平さんは、まるで魔法使いのようでした。」僕が東君平さんの言葉で強く心に残っている言葉が幾つかあります。「夜 人知れず泣ける人 生まれる前 小雪」 (「前世占い」より)「父は、ぼくが少年の頃、星になりました」 (「鯰」より)「さってゆくものも、のこるものも、さみしさは、おなじさ」 (「ひめくりかれんだあとにっきちょうのはなし」より)1986年12月3日東君平さんは 星になりました。僕は夜空の遠くに、輝く星を見るといつも東君平さんのことを思い出します。もし 東君平さんのことに興味を持った方がいましたらこのアドレスを訪問して下さい。東君平作品展示室へジャンプhttp://www.docca.net/kunpei/tenji/tenji.html僕が語るよりも、遥か多くの沢山の素敵な時間にきっと 出会えるはずです。それと東菜奈さんのホームページへジャンプhttp://www.docca.net/nana/index.htmlこれは東君平さんの娘さんである東菜奈さんのホームページです。愛らしいHPです。
2004.11.12
今日も昨日に続いて「魔法」に関連した話です。ねえねえ皆さん、魔女って実在すると想いますか?「おるわけないやんけ」ハイッ! いま、そうおっしゃったあなた実はですね いるんですよ。どこに?楽天に・・・いるんです。このあいだ、見ちゃったんですよ~(読んじゃったんです)。本人が自分は魔女だというんだからきっと そうに違いないんです(怖いですね~、内緒ですよ)。でもって魔女集会なんかを開いているらしいんです(怪しいですね~、近づいちゃダメですよ♪)。誰でしょうね?。気になりますか?誰とは言いませんがそれはかめおかゆみこさんです(^0^)。魔女の日記、もとい^^;かめわざ快心塾はこちらこの人も「言葉の魔法使い」のひとり。魔法に引き寄せられて楽天サイト「今日のフォーカスチェンジ♪」に訪問する方が、後を断ちません。一日のアクセス数が時に、1000を 超えることもあるといいます。ちょっと2日くらい家を留守にしたらメールボックスに600通ものメールが届いていたりするらしいです。悩み多き高校生達から、しょっちゅう進路相談メールを受け取るとのこと。そんな時、かめおかさんは こんな温かい返事を出すといいます。「苦しんでください」魔女の愛の鞭なのでしょうか?。うら若き少年・少女たちが、この難しい愛のメッセージを受けて非行に走ることのないよう、祈るのみです(^^;)。さてさてかめおかさんが「魔女」たるゆえんを僕なりに考えてみました。自称魔女「かめおかさん」が、自分のサイトで語る言葉を参照してみましょう。かめおかさんは魔法を次のように定義しています。魔法とは「怖れずに見つめること。」・・・魔女から、恐れずに見つめられたら怖いです。(笑)って、そういう意味じゃありません。自分のかかえる「魔」に対して真正面から向き合いことのようです。(かなり意味深)魔、って何でしょう。「魔法瓶」の魔。「魔女」の魔。「魔男(よがぷうさん)」の魔普通じゃない、非日常的な状態・現象・人物を表すために「魔」が前についている。これを人間の心の状態に置きかえると、とてもうまい言葉があります。「魔が差す」これも普段の日常から、ふと、外れていく感覚を表現するのに使う言葉です。つまり混沌とした心の時間、日常とは違う心の状態を表しているのだと想います。いってみれば「どっちつかず」の状態。「堕ちて行くのか・・・飛び立つのか・・・」無意識なりにも決断を迫られている、心の微妙な状態から前に進めないことを恐らく「魔が差している」と呼ぶのでしょう。そんなことを少し考えました。心の魔。心の闇、という言葉によく似ています。人間の心は「好き」や「嫌い」や、様々な曖昧さ、そして無数の矛盾に満ちた感情の全てを内包しています。夜空に輝く星群の如くに、です。当然ですが、闇に囲まれたらダークサイドにもなるし勿論、眩しい光につつまれれば、光そのもののように輝きます。かめおかさんの、違う言葉を再び参照します。「 「魔」こそ、自分自身にほかならないのです。 「魔」である自分との統合。 これが、魔女の誕生をうながします。 さまざまなかたちで、魔法が使えるようになります。 」↑この言葉から僕は非常に面白い発見をしました。詳しいプライベートなことは、僕は何一つ知りませんがきっと、かめおかさんは何かを迷っていたんでしょう。そして、同じように悩み・迷いを抱えた各方面の魔女たちと合流することで何らかの、心のありようを探り混沌から、勇気へ心をフォーカスチェンジする為のステップを模索していたのだと僕は推測しました。そのために必要だったこと。そして、見つけ出した答え。それが・・・「怖れずに見つめること」だったのでしょうか。なんてことを長々と考えていたら実は僕自身の中の「魔」も見えて来たような気(錯覚?)がしてきました。あれれ???なんか、おかしいぞ!?気がついたら僕も・・・「フォーカスチェンジ」の魔法にかかってしまってる!?。もしかしてあなたも?。魔女って、怖いですね(^^)。そして、同時にきっと「実り豊かな気付きを与えてくれる」危険なほどに素敵な存在なのかもしれません。今夜は、意外と話がまとまったような気がしますニャ~オ♪(マジ!)。パチパチパチ☆ということでまた明日の日記へ(^^☆)。追記☆かめおかさん、いつもいつも日記から「フォーカス・チェンジ」させて頂いて誠に感謝!です。そして、メルマガでちょこっと紹介して頂き・・・感涙!!!(>;<)。どおりでアクセス数が、急激にアップアップした謎の原因が解明されました。(笑)よがぷうさん、知らせてくれて ありがと山♪♪♪。
2004.11.11
今日も「魔法」に関連した話。魔法使いの話を書きます。魔法使いというより・・・妖精、あるいは詩聖、、、という感覚。それでもやはり魔法使いなんです。そう言葉の魔法使い、だから。何と形容すれば良いのか難しいんですが人間の姿をかりた神様のような魔法のように素晴らしい人の話。詩人の きのゆりさん の話です。「昨日 生まれた 赤ちゃんの誕生日は きらきらと輝いています 九十年も昔に生まれた おばあさんの誕生日は もっと 眩しく 輝いています おばあさんにとっては ただ なつかしい歌のように 思えるけど あたらしくても ふるくても 誕生日は 輝いています 」 (きのゆり「誕生日は」より)上記の詩。とても美しい清清しい空気を心に、 体いっぱいに吸い込んでいるようなそんな爽やかな気持ちにさせてくれる詩です。きのゆりさんの作る詩は、どれも本当に素敵なものばかり。街の喧騒から離れた、豊かな静けさ。季節感の美しく流れるささやかな毎日の日常の中である時、ふと出会うちいさな喜びや感動、不安、悲しみ、そして勇気etc・・・。この世できっと、一番大切なものがきのゆりさんの、魔法のような言葉によって時に、切ないほどに繊細な言葉の徒然によって・・・音もなく、読み手の心に染み込んでゆくのです。そんな美しい詩を、きのゆりさんは沢山つくっています。だから言葉の魔法使い なのです。続きはまた明日^^☆。
2004.11.10
昨日の日記で作家の藤本義一さんが以前、雑誌に書いていた話を紹介しました。悪ガキばかりの、とある高校の漢詩の先生の話です。何故に、殆どの授業に関心のない生徒達が、その漢詩の先生に惹かれて授業に前向きになるのか、自分なりに考えました。その先生に、輝きを見たからではないだろうか。はげた頭が光ってたのかも・・・。藤本さんは確か、、頭のことは書いていなかったはずだからそうではないと多分思います。その漢詩の先生の一体、何が輝き、光っていたんだろう。悪ガキたちを無心に「前向き」にさせてしまう漢詩の先生。実は魔法を使っていたのか・・・。それもあるかもしれません(ないって)。魔法・・・その言葉が鍵になっているような気がしました。実は魔法にかかっていたのは生徒ではなく漢詩の先生だったのではないだろうか・・・。誰が魔法をかけたんでしょう?。「漢詩」ですよね、きっと。この先生漢詩の世界に恋をし、夢中になり・・・きっと長い間誰から頼まれるわけでもなく一人で漢詩の研究に没頭したりして生きてきたんじゃないのかなあ、と僕は推測します。恋の対象が異性ではないのだから100年の恋もなんとやら、にはならず漢詩が先生に与えた魅惑の世界に、少年の頃と同じような微熱を、恋心を今でも抱き続けているのではないのだろうか。そうきっと漢詩が、先生に魔法をかけていたのです。魔法は時として伝染します。他の授業には、さぼってばかりの不真面目生徒達が、その漢詩の先生の授業には遅刻もせず、一体となる。漢詩の先生から始まって生徒達、みんな集団で「魔法」にかかっているんですね。たまたま魔法の源になっていたのが、この場合は漢詩であったのだと僕は考えます。面白い話だと思いませんか?。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~話を漢詩の先生から、ちょっと変えて。似たような面白い話も、気がつかないだけで、実は結構身近にもあるのかもしれません。そういえば・・・うんうん、いるいる。楽天にも きっといっぱい いますよね(^^)。誰とは言いませんが僕の知っているところだと・・・よがぷうさんそしてぴょん☆コーチさんです。(ハッ!? 言ってしまった・・・@@;)この二人の日記を読んでいると、ついこちらまで魔法がかかってしまいそうです。ぴょん☆コーチさんは、魔法の詳細を日記には書いていないような気がしますが何となく「勇気の魔法」にかかっている感じが漂います。読んでいる僕の方まで、心に「キラキラ」が欲しくなってきます。よっしゃあ~!キラキラするぞ!!とか叫んでしまいそうになります。(笑)そして、 よがぷうさん。この方、かなりの重症です。(爆)魔法にかかっているというよりも最近は、どうも「魔法そのもの」・・・になりつつあります。このあいだ、よがぷうさんの魔法に伝染した方を発見しました。【亞】さんです。(笑)自分のブログにまで、よがぷうさん魔法を持ちこんでいます。スペインのプジョール首相と交流した経歴を持つツワモノ【亞】さんまでがよがぷうさんの石鹸マジックに魅せられているかのようです。星降る夜の よがぷう石鹸物語♪。これから、どのような展開が待っているのでしょう。そして、ぴょん☆コーチさんの「キラキラ」の秘密とは・・・。(続きは明日☆ ^^)
2004.11.09
「人生は短い 一日は長い」これは作家の藤本義一さんの著書のタイトルです。人生は短い 一日は長い一日は長い惰性で流れていたら、尚更長く感じます。でも人の生は、短いこれ、どういうことなんでしょうか?。言い得て妙ですよね?。・・・ふたつの矛盾するような言葉が並んでいる。しかし、そこに人間の一生のタイムスパンに対する藤本さんの奥の深い、まなざしを感じるんです。高校を卒業してすぐに、住みこみの新聞配達の仕事を始めました。夕刊の配達の後に、銭湯に向かってスーパー・オートキャブを爆走させていた時のことです。ふと何気に古本屋さんが目に入りました。その古本屋さんに入り,色んな本に目を通しているうちに、ふと「やさぐれ青春日記」という著書に出会いました。それが、藤本義一さんとの出会いです。この出会いから(著書との出会い)・・・かれこれ15年ちょっとくらいの年月がたちます。以来・・・藤本義一さん。実際に会った事もないのに僕が人生の師の一人と仰いでいる人物の一人になっていたりもします。忘れた頃にふと、本棚から引っ張り出して読むうちに気がつけば・・・「自分の襟元を、自然と正してくれる」そういう意味で、心の師の一人と仰ぐわけなんですが。藤本さんが以前2、3年くらい前に、ビッグ・テュモロウという雑誌に書いていた話があります。「最近、こんな話を聞いた」、という形で紹介していました。この話はちょっと前に、まつうらななさんのブログに書き込んだ内容と重複します。この話、とても素晴らしい話だと思うので、もう一回書こうと思います。うろ覚えなので少し脚色している部分もあると思いますけど、大体の内容は、こんな風↓↓↓です。とある、少々問題の多いと噂される高校の話。一般に「不良」と称される、若葉マークな高校生達の集う高校。授業はまともには進まないし、居眠りや、落書き書いた紙飛行機が舞い飛ぶなんてのは日常茶飯事。どの生徒達も、殆どの授業に関心がありません。でも、ひとつだけ例外の授業がありました。漢詩の授業なんです。遅刻常習犯や御喋りしまくり常習生徒達でさえ、その漢詩の授業が始まると、最初から最後まで、みんな静かに先生の言葉に耳を傾け、聞き入る。クラスが団結一体となってしまう。漢詩って、そんなに魅力的なんでしょうか?。それもあるのかもしれませんが、理由はちょっと違うのです。魅力的なのは、漢詩の先生だったんです。生徒達に迎合したり、金八先生のような感動的な言葉を投げかけるような事をするわけでもない。ひたすら、先生自身が、自分が感動した漢詩の言葉を黒板に書き続け、一人で相槌を打ったり、感動したりするだけらしいのです。そんな「ひとり感動系」な先生の授業を観察したいという想いだけで・・・生徒達が素直に授業に向き合う。漢詩の、その先生の授業の時間だけは悪ガキ達も無心に「前向き」になるという・・・。そんな話です。なんか・・・「良い話だなあ」と読んだ当時思ったんです。こういう類の話を紹介するのが、藤本さんはとても上手なんですよね。この話を読んだ後に,色々なことを考えました。どんなことを考えたのかって?今夜は眠いので・・・明日書くことにします♪。
2004.11.08
デザイン用語に、パルチーという言葉があります。10年前に御世話になっていた、人生の恩人から教えて頂いた言葉です。知り合った当初僅かな日しか訪れていないにも関わらず、僕はその人物に「何か」を感じそして纏わりついていました。「かなり迷惑なんだろうな・・・」僕は、そう思っていたのですが、実際は違っていたんです。ある日、事情があって、その場を去ることになった時に、一番残念そうにしていたのが、その方でした。「なんで何も相談してこなかったんだ!」と怒り、そして本当に残念そうな表情をしていました。僕は心外という感覚であり、そして、とても驚た記憶があります。結局、その人物に纏わりついていた期間は、約1年くらいです。どんな人物か、詳細も知らぬのに「何か」を感じたというだけの理由で纏わりついていた期間が約1年間。離れてから何年か経過したある日、街の本屋さんで初めてその人物の経歴を知ることになりました。偶然開いた書物に、その人物の顔写真が掲載されていたんです。若かりし日の写真のようでした。凄い人物であったのです。付き纏っていた当時その方に教えてもらった最大にして最高の言葉がパルチーという言葉です。決断、であるとか 意思決定を意味する言葉らしいのです。何故そこに、それが必要であるのか 欲望ではなく真理に基づいて「これに決める!」という覚悟と姿勢が自然な流れとなって、形を成してゆく。そのような「意思」が規律ある形を成していることをどうやらパルチーと、呼ぶらしいのです(そのように解釈しました)。で、再び話は桜井章一さんに入ります。桜井さんの言葉に、こんな言葉があります。「自分の中に もう一人の「自分」を持て 勇者、強者、善者を置け」僕がこの言葉を解釈するにこれも、ひとつの 大きなパルチーにほかなりません。人間は愚かな動物だから、意思をもって自分を律しないと途端に瓦礫の如く、欲望に収束されて行く。何らかの尊い意思を「置く」ことによって自然な流れに背かないような、豊かな生命を内に宿すことが出来る。あるいは、そうすることによって体の内に勇気の軸に置く。そんな風に僕は桜井さんの、この言葉を解釈しています。桜井章一・・・自然と戯れ、自然を慈しみ、自然から愛される雀鬼。知ってますか?あのイチローが大尊敬している人物それが、この桜井章一さんという人物なんですよ。裏社会の人として、偏見視されてる部分が少なくないかも? とも思うので一応補足までに書き足しておきます。「動は100年静は1000年流は無限 」 (桜井章一)上記の氏の言葉の意味に触れたいと思いながら、日記を書いていたのに今日も尻切れトンボの如く。・・・全然ダメじゃん。偉大な人物の後姿を追いかけるという行為はそんなには甘くも鈍くもないのですね。ということで 明日の日記へ。
2004.11.07
面白い面が白いと書く。面、つまり物事がはっきりとあきらかにされるそのような状態を「面白い」と言うのだと思う。僕にとって 「面白い話」とは聞いたり読んだりしていて、こちらの心情に訴える、或いは共鳴出来るそして、そのことでこちらの心の中にあった「はっきりされない何か」が中和される、霧の中のようなモヤモヤが昇華されるような気持にさせるような話のことを=「面白い話」なのでは、と考えたりしています。では「面白い人」とは?。人間味のある人、のことを指すような気がします。人間味というのは、生まれ持ったものもあると思うんですがどれだけ修羅場をくぐって、そして解決して生きてきたかがその人の持つ、人間の味わいに繋がっているような気もします。「あの人の言う話を聞いていると、なんだか心が晴れ渡るようだ・・・」「あいつと会うと、いつも心がスッキリクッキリして元気が出るよ!」そんな風にこちらの心を、白く明るい方向に切り換えさせてくれる人のことを面白い人と言うのではないのでしょうか。そして自分の周囲に「面白い人」をどれだけ持っているかでその人自身の「面白さ」加減、あるいは、その人の魅力も違ってくるような気がします。何でそんなことを考えたかというと昨夜掲示板に書きこみしてくれた、 まつうらななさん。まつうらななさんって、こんな人そして よがぷうさん。 よがぷうさんって、こんな人この二人(マジで味があるよなー、大阪・京都のパワーって凄いな、面白いよなー)と考えていたら・・・ふと「面白い」って何だろう?となってしまったのです(^^)。この二人の関西の方に共通している、と僕が考えるもの。どこかしら、求道者を思わせる面深く思考している話に加えて、必ず忘れない「壮絶な笑いのセンス(相手を元気にさせるセンス)」そうか、「面白い」ってとても奥の深いことなんだ!なんてことを少々考えていたんです。それで面白い人の話を書こうと、昨日の桜井章一さんの話を再び日記に書こうと思いました。厳しい人でしょうが、同時にとても魅力ある「面白い人」でもあると思うのです。でも前置きが長くなりすぎて・・・・・ダ、ダメだ。(笑)続きは明日の日記に書こうっと。
2004.11.06
「心温かきは万能なり」桜井章一さんという方の言葉です。別名 雀鬼・・・伝説の麻雀打ちです。 心温かきは 万能なり僕はたまに自問自答します。どんな意味なんだろう。分かるような時もあれば全然分からない時もあります。心温かきは 万能なりこの方の著書に「心暖かきは万能なり」というのがあってこれが本当に凄い本なんです。タイトルも凄いのですが本の帯についてある言葉の徒然・・・それだけでもう既に心を打つ、のです。*勝ちを求めず強さを育む*集中とは一点を広げることなり*損得を考えると心が汚れる*目的を先に置くな*流れるものは万能であるエトセトラetc・・・・・・・心に訴える数十行の言葉の数々が、わずか縦幅数センチの本の帯に列挙されています。僕は麻雀はやりません。いや、出来ません。(爆)しかし桜井章一さんの言葉から学ぶことは非常に大きい。桜井さんによると「心を隠そうとする麻雀は悪、でありそれでは真の心の強さは生まれない」らしいです(そのように僕は解釈しました)。桜井さんの言葉の中で強く印象に焼き付いている言葉が沢山あります。その中で、特に心を支配する幾つかの言葉の中のひとつ。「愛は瞬間なり」本当に奥の深い言葉です。僕には まだ その意味が掴めません。掴めれば、それこそ 凄いことだとは思うのですが。
2004.11.05
ここ数週間、仕事で高校に通っていました。仕事をする上で、自分を無理に叱咤したり、意味もなく輝かせようとしていました。冬の気配が強まる中で心の中も急激な寒さに包まれていました。乾燥しつつある空気のように少々虚無感のようなものを抱えていたので「これはいかん」と、自分に渇を入れていたのです。秋もすっかり深まってきました。少し薄着で仕事に向かったことを後悔するほどに肌寒い日が続きます。でも、高校生達はそんなことには関係なく、天然の笑顔が眩しいくらいに、はちきれんばかりに輝いているんです(しかも薄着です;笑)。高校生って凄いなあ!と思いました。若葉マークのエネルギーに圧倒されすぎて、いまひとつ活気を出せなかった今日この頃でした。僕が仕事で向かっていた高校実は僕の母校なんです。卒業して15以上たちます。本当に偶然に、そこへ仕事に向かうように配属されました。僕は,高校生の時にかなりの劣等性でした。授業をさぼってばかりだったんですよ^^。体育の先生に放課後に呼び出されて、5発顔面をぶんなぐられたこともあります(しかも拳で、です 爆)。沢山の先生方にとても迷惑をかけましたし、とてもストレスを与えていたと思います。何でそのような自分にとっての苦い青春の思い出の場所に何故、自分が再び立っているんだろう・・・?「気分が滅入るじゃああないですかい、、、」そんな言葉が漏れるようでした。そこで、空回りを続ける自分の心を軌道修正するために僕はある日、こんな風に自分に言い聞かせました。「自分の母校の仕事を担当することで自分の中の過去の何かを清算しているのだ。新しく生まれ変わるために・・・。」そう思うことで「何か」が解決されると思っていたのに心の混迷さは何故か、日を追うごとに増すばかり。僕の心の葛藤とは裏腹に高校生達は無心で、輝く青春の時間を謳歌しているように見えました。(自分が高校生の頃、一体どんなことを考え、何をしていたっけ?)自問自答しました。たいしたことは何もしていなかった。「ライ麦畑でつかまえて」「ブリキの太鼓」2つの本を鞄に詰め込んで、ひとりで街を歩き回ったり、母子家庭の友人の家に入り浸っていただけ・・・。美しい思い出と言えば、詩人の きのゆりさんの本を読んで感動していた「心の風景」が、あるだけです。そんなこんなを自問自答しつつ、仕事の予算やら何やらを頭に置きながら・・・「ま、いいか!」と開き直ったりもしていました。それでもやはり虚しさは拭えない。言葉にならない虚無感を抱えながらも、、「過去の清算」を求めていました。仕事が終了する二日前。1週間くらい前です。頭のてっぺんから、つま先まで・・・ まるで林檎のように天然色に輝いている高校生達に話しかけられながら(時に、スーパー可愛い女子高生達に囲まれながら^^)、仕事をほぼ終了させました。その時には笑顔だったのだけれど仕事帰りの車の中で何故か、僕は泣きそうになっていた。「何かが虚しい、とてつもなく・・・泣きたくなるほど虚しくてな」。混沌とする、現在の心の風景に対して、何の説明もつかないのです。でも「過去に対しては、 いかなる軌道修正も効かないのだ」そう思ったら、 はじめて少し心の動揺がおさまりました。過去は、過去でしか ない。そう過去は、過去。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~で今日は、仕事の書類上の引渡しでした。もう、この場所に来ることは、ずっと当分はないのです。今回の心の旅に一つのケジメをつけるためにとりあえず、たったひとつの行動に・・・僕は出ました。かめおかゆみこさん著の「演劇やろうよ!」を、学校の図書館に寄贈したのです!!!(パッパカカ~ン☆)。なんてGREAT!な自分・・・(偉い、偉すぎる!)。「ライ麦畑でつかまえて」を寄贈したって、たいしたことないしね^^。もっと意義のある書物は,この世には沢山あるのだ。無数の星群の、美しく輝く眩い光のごとくに。若葉マークな、輝く未来ある高校生達にはやっぱ「演劇やろうよ!」でしょ(^^)。たった、それだけのことでかろうじて「過去」と「現在」とを少しだけつなぐことが出来たのでありました。チャンチャン☆
2004.11.04
改名をします。理由はなんとなく気まずいものを感じていたからなんです。うん,何かマズイ、とってもマズイ・・・。少し考え込んでいました。ルカ LUKE(福音記者)=新約聖書の「ルカによる福音書」及び「使徒行伝」の著者。医者であったとされている。画才があり、初めて聖母マリアの絵を描いたという伝承もあったため、中世の絵画などに、聖母子を描くルカの姿が好んで描かれている。上記の文章の出典は、ネット上で「ルカ」で検索・収集したものをまとめたものです( フリー百科事典ウィキペディアより)。詳細は知らないけれども、大体のことは知っていたから・・・ちょっと気まずいなあ、と考えていたんです。なので僕が仮に愛称としてであっても、「ルカさん」と呼ばれることは・・・非常に気マズイものがあります。聖人君主でも何でもないし。単なる、「ルカ」というイタリアの街が好きな、どこにでもいる一介の日本人です。しかも中年です。(爆)よって!僕は改名をするのです、声高に!・・・(誰も聞いてないって^^;)。これから僕の名前は「るかの」に、なりました(決定!)。平仮名で るかの です。サイト名は「ルカの街並」のままに残して、管理者名が「るかの」になります。ルカの街並の頭文字の最初3文字を、ひらがなにしたのです!。そのままじゃん? というツッコミは置いといて。(爆)これからも 「ルカの街並」管理者 「るかの」 をどうぞ、よろしくお願い致します。追伸;「アクセス数が200人を超えました」と、楽天よりメール報告がありました。やったー!!200人ですよーーー、20人じゃあありません。凄すぎです!!!。記念すべき200目の訪問者さんの名前が報告されていました。感謝の言葉を掲示板に送りましょう、と楽天メールに書いてあったので早速訪問してみたら・・・な、なんと僕とほぼ、同時期に楽天デビューされていた女性の方でした。ちなみにアクセス数は、1000を軽く超えていました(笑)。驚きまくり、です。********************************************************【夜の部】付足し:余談ですが今、ルカという街で買って来たポストカード眺めてたらLUCCAと書いてありました。聖人のルカLUKEとイタリアの街のLUCCA は何か関係があるんでしょうか?(僕は知りません^^;)。
2004.11.03
「さざなみの立たない大きな心の泉 」この言葉は ぴょん☆コーチさんが以前、日記のタイトルにしていた言葉です。ぴょん☆コーチさんには、かめおかゆみこさんのサイトで出会いました。心の泉・・・何て素敵な言葉なのだろう。まるで砂漠の中で、ふと目にしたオアシスの水たまりの輝きを発見したようなそんな風景が浮かびます。僕が自分のブログで使っている「いま、ここから、「輝き」になるための・・・心が駆けめぐる足跡」という文章。申し遅れましたが、これ実は・・・パクリです(爆)。ぴょん☆コーチさんと、かめおかさんの日記に記してあった言葉からインスパイアされて、思いつきました。かめおかさんの「いま、ここから」という言葉とぴょん☆コーチさんの「今から輝いちゃいましょう!」という言葉をMIXして、自分なりにアレンジしたのです。一応、御二人の了解は得ているので安心。さざなみの立たない大きな心の泉。そんな心の在り方を、自分の中に持ち得ることが可能ならどんなに素晴らしいことだろう。清清しく安らいだ深呼吸をそして心のやすらぎをさざなみの立たない大きな心の泉の前で感じている自分・・・そんな心の一つの風景への憧憬。川の流れには、かたよりがありません。そうです。水の流れには、かたよりがないのです。川の水の流れは海へと続き空から流れ落ちる水は、山へと舞い降り樹々や土の命と通い合いながら森の奥の ひっそりとした美しい泉へと姿を変えます。世界に存在する全てが、リンクしあっている。そのリンクの純化された最も美しい結晶体が、 水なのかも知れない。水は「永遠」です。
2004.11.02
新潟で大きな地震があり、想像を絶するような被害が多くの人々を覆いました。正直言えば目を背けたい報道であり、そして、TVはなるべく見ないようにしていました。小さな男の子の命が救出された報道に心底安堵のため息を漏らしても、母親の悲報は(それだけはないように!)と願いつつも・・・嫌な予感と共になるべくTVや新聞に目を通さないようにしていたんです。怖かったからです。今日まつうらななさんのメルマガが届きました。人生の傍観者にはならないでね・・・という風に僕は解釈しました。「PASSENGER 、ではいられない」ふと、そんな言葉が心に浮かびました。おとといか、あるいは昨夜にかめおかさんのメルマガと いをりさんのブログ日記から知った妹尾榮聖さんという方が提唱されていた「あるアイディア」を知りました。かめおかさんや、いをりさんが勧めるのならこれは本物だろうと初めて知った人のアイディアに協力したのは良いのだけれどその方のブログ・・・今夜まで、読んだことなかったんです(失礼!)。幼少からの大切な友人が、地震の被害によって寒さに震えているのならためらうことなく自分の毛布で包み込むことでしょう。「大変だったな!」と言いながら、ファミレスで暖かい味噌ラーメンを御馳走することでしょう。でもそれが全くの見知らぬ人であったなら?自分は何かを与えるだろうか?。自分のことだけで精一杯なのに・・・。妹尾榮聖さんのブログに、心有る書きこみをされた多くの人間達の、心のエネルギーをさっき読みながら今日は、とても考えさせられました。「愛」を持つ人達から、何かを学ばせて頂いたような気がしました。もしこれを読まれた方が、気になることがありましたら次のサイトを訪問して下さい。http://plaza.rakuten.co.jp/eishows/diary/200410240000/
2004.11.01
「愛を探す旅人たち」この言葉は「IP5」という映画の副題に使われている言葉です。僕はあまり映画には詳しくないし、実際にそうそう映画を鑑賞する時間を抽出出来てはいません。作家の塩野七生さんによれば「本を読む時間がない、という人の弁を私は信じない」ということらしいのですが、この言葉を自分なりに解釈するとすれば・・・(本当に本が好きならば、多忙な日々を送っていても、本を読み漁ることは十分に可能)、ということなのでしょう。そういう意味合いで考えれば、僕にとって、それほどには映画は大切ではない、と言い換えることが出来なくもないです。そんな僕でも、決して安くはないビデオ商品を過去に購入してしまった映画なるものが、何本か存在します。その一つが「IP5」という映画です。ビデオの解説(パッケージの裏表紙)に次のような言葉が記されています。「世代の違う3人の求める愛を、大自然の中でうたいあげたロードムーヴィーの傑作」そして「フランスが生んだ名優、大歌手、イブ・モンタンの最後の熱演!」とも書いてあります。監督はジャン・ジャック・ベネックスという方のようです。僕には「愛」という言葉の意味が、掴みきれない未熟さのような「何か」があります(ちょっと大袈裟に告白^^;)。愛、って一体何?この映画を、半年に一度は棚から引っ張り出して鑑賞してしてしまう僕もまた、愛を探す旅人の一人なのでしょうか。あなたは現在「何」を、探していますか?。
2004.10.31
訪問してくれて有難うございます。イタリアのルッカ(LUCCA)という街が好きなので、ブログのタイトルと自分のHNにしました。かつて、初めて異国の土地に足を踏み入れた時のことです僕は、恋をしました。ルカという街の中心で、ふと出会った聖母マリア像にです。ルッカは、中世イタリアン・ロマネスク様式の建物がそのまま街の個性として息づいている街です。白い大理石で造られた多くの建物は、規律ある空間を有しているかのように暖かい安らぎを旅人に与えます。そのルッカという街の、大きな広場の中心に「なんて優しそうな表情をしているんだろう」と、時を忘れてしまうような石像が建っていました。上記のマリア像です。この街では、きっと犯罪など起こらないだろう・・ふと、そんなことを当時考えた記憶があります。多くの月日が流れ去った現在においても僕はルッカという街がとても好きです。
2004.10.30
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