小説版・ココロノヤミ・8

みつばちN空港の到着ロビーから、私は公衆電話で、研修も終わって自宅にいるはずの大石に電話をした。「すぐ来て、お願い」と言う私に「どうしたんだよ」と言いながらも、大石は家の車で空港まで来てくれた。大石の顔を見た途端、私は大石に抱きついてわんわん泣いていた。周囲には遠距離恋愛の恋人同志にでも見えた事だろう。正直に言えばその時、私は森岡とのパリ旅行の事などもう何とも思っていなかった。ただ大石に会いたいだけだった。多分パリに出かける前から私は大石に会いたかったのだ。大石は私の頭を撫でながら「どうした?パリで森岡先生と喧嘩でもしたのかい?」と聞いてきた。「ううん、もういいの。さーくんの顔見たらもうどうでもよくなっちゃった」と答えながら私は、やっぱり私には大石しかいない、と、何回目になるかわからない決意をしていた。

森岡は成田空港で私と別れる時、「さぁ、これで僕のフランス文学の授業は本当に全ておしまいだ。君は実にいい生徒だった。僕は君にフランス文学だけでなく、人生の何たるかも教えてきたつもりだったが、まだまだ教え足りてないところも多々ある。なんて言ってるが、要は君にはまた会いたいなぁ、と思ってるって事だ。君さえ嫌でなければ、また研究室や家にでも遊びに来てくれたまえ。君にフランス文学を教えている時間は、僕にとって本当に充実したいい時間だったよ。ありがとう。」と言って手を差し出してきた。その手を握り返しながら私は「私の方こそ至らない生徒だったのに、先生は根気強く教えて下さって感謝してます。フランス文学の素晴しさは先生に教えて頂いてなかったら、私には一生解らなかったかもしれません。フランス文学以外の事も先生に教えて頂いた事は全て忘れません。でも、多分先生にお会いする事はもうないと思います」と、随分自分勝手な理屈を並べ立ていい気になっていた。その2カ月後に、森岡の訃報を聞く事になろうとはつゆ知らずに。

何だかんだ言って、私は森岡とのパリ旅行を楽しんだ。驚かされた事もあったが、結果的には、私はレイプされたわけでもなく、どちらかと言えばいい思いをさせてもらったわけだし、やはり何よりパリは素晴しかった。そして、森岡のこともやはり私は好きだったのだ。けれど、皮肉なことに好きな森岡と好きなパリに行ったおかげで、私は結局また大石への思いを確かめたのだった。森岡をして、私から大石の影を消し去る事はできなかったのだ。これ以上どうあがいても私は大石から離れる事はできないのではないか。私は誰と付き合っても、どこに行っても、結局いつも大石のところに戻ってきてしまう。ならば、この運命に逆らわず、流れに身を任せてしまおう。そう考えながらも私は、大石が私を受け入れてくれるかどうかがまだ気になっていた。よくよく考えてみれば、私は今まで大石に「好きだ」と告白した事など一度もないのだから。

新しい季節が始まり、私はバイトで慣れていた会社ではあったが、仕事量も増えそれなりに緊張感のある毎日を送っていた。大石もN支社での研修で忙しくしていた。GWは、大石と今までと変わらず映画を見たりピアノリサイタルに行ったりして、あっという間に過ぎ、5月も半ばを迎えた頃、私は森岡の死を知った。同窓会の理事をしていた先輩から「当然知ってると思ったわ」と電話をもらった。ショックと言うよりまず信じられなかった。死因は肝臓がんだった。若かったので転移が早かったらしく、1年と言われていたのが半年で逝ってしまったらしい。しかし、と言う事は、私とパリに行った時にはもうすでに森岡は死期を悟っていたのだろうか。頭の中で様々な思いが交錯していた。先輩から聞いていた通夜の席には出掛けようと思ったが、自分一人で行く自信は全く無かったので、大石に一緒に行ってくれるよう頼んだ。通夜と葬儀は森岡の自宅近くの寺院で営まれていた。寺院に近付くにつれ、私は身体ががたがた震えるのを抑えられなかった。

そこには森岡のあの優しい笑顔があった。取り乱したりしたらお願い、と大石に頼んでおいたのだが、私は自分でも不思議な程、しらけた気分だった。森岡の遺影を見つめ、焼香を済ませて森岡の奥さんに挨拶をするまでの間、私はまるで他人事のように感じていた。初めて見る、森岡の妻や息子の顔もほとんど見ていなかった。その時私の頭の中では、森岡との中途半端な関係からも、森岡の死を受け入れようとする気持ちと、どうしても信じたくない気持ち、そして、私にはもう関係のない人なのだから、という気持ちがせめぎあっていた。たぶん私の中にまだ許容量がなくて、どう処理するのが自分が一番傷つかないかを探っていたのだと思う。あの頃は本当に自分の事しか考えられなかったのだ。通夜の帰り、軽く食事をしながら大石が言った。「森岡先生、いい顔してたよな」それを聞いた途端、私は、森岡の顔が、声が、しぐさが、そして私を抱いた手が、抱きしめられた感触までもが蘇ってきて、すぐそばに森岡がいるような気がした。しかしもう森岡はどこにもいないのだと思うと、止めどなく涙があふれて、自分でもどうしようもなかった。



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