小説版・ココロノヤミ・9

逢引きそれから1ヶ月、私はいつもと変わらない日々を送りながらも、心に棘がささったままのような、何かしなくてはいけない事が山積みになっているような、そんな気分で過ごしていた。大石といても、友達と笑っていても、仕事に没頭していても、ずーっとそれは私の心に引っ掛かったままだった。そんなある日、珍しく残業もなく、予定もなかったので会社からまっすぐ帰宅して着替えていると、電話が鳴っていた。誰も出る様子がないので、仕方なく受話器を取ると「森岡と申しますが、チサトさんはご在宅でいらっしゃいますか」と落ち着いた女性の声が聞こえた。咄嗟に何も答えられず「あ、あの、あ、私ですけど」」と口ごもっていると「チサトさん?突然お電話してしまって、ごめんなさい。あの、今少しだけいいですか?」と、とても感じが良くて、私は思わず「あ、はい、いいです」と言ってしまっていた。「森岡の家内です。お通夜の時は、わざわざおいで頂いてありがとうございました」と、とても常識的な挨拶のあと、森岡の妻は、「一度ゆっくりとお会いしてお話したいので、お時間をとって頂けないかしら」と切り出してきた。

森岡の妻が指定してきたのは、意外にも駅の地下にある不二家パーラーだった。とんでもない修羅場まで想像していた私はちょっと拍子抜けした。森岡の通夜の席で会っているにもかかわらず、私は森岡の妻の顔を全く覚えていなかった。待ち合わせの時間に少し遅れて行くと、森岡の妻はにこやかに小さく手を振って私を招いた。「ごめんなさいね、お忙しいのに」と型通りの挨拶のあと森岡の妻が話した内容は、全く私の予想外のものだった。「あの、今日はあなたに文句とか苦情とか、そんな事を言いにきたんじゃないの。ただどうしてもお話しておきたい事があって。それにこれは森岡とは直接関係のない事だし」と前置きし「森岡はあなたのことを本当にいい生徒だと言ってました。あなたに教えてる時間は至福の時間だよ、って。教師冥利につきる、って。森岡の命が長くない事は、私も森岡も知ってました。だからこそ私は森岡があなたとパリに行く、と森岡から聞いた時喜んで送り出してあげようと思いました。少しでもあなたに恥ずかしくないようにと、身につけるものも準備してやりました」そうだったのか、と思いながら私はその先を聞くのがとても憂鬱になっていた。

そんな私の思惑をよそに森岡の妻は話し続けていた。「森岡が喜ぶ事ならどんな事でもしてやりたかった。森岡があなたを愛しているのなら、何とかしてあなたにも森岡を愛してもらいたかった。森岡が思い残す事のないように逝かせてあげたかった...私は本当に本当に森岡を愛していたんです」涙ひとつこぼさず淡々と森岡の妻は話し続けた。「あなたのように若いお嬢さんにはまだ理解できないかもしれないけど、本当に愛していたらその人が望むどんな事でもしてあげたい、と思うんですよ。たとえ自分の方を、もう二度と振り向いてくれなくなったとしてもね」本当に私には理解できなかった。理解はできなかったが多分私は感動していたのだと思う。森岡の妻の真摯な愛情に。そして、限りなく女らしいこの人に、こんなにも愛されていたのにあっけなく逝ってしまった森岡に。私はこの時はじめて、森岡が死んでしまったという事実を実感として感じていた。私のそばから森岡が離れていく感じがしていた。

「何だかのろけてしまったようでお恥ずかしいんだけど、でも、あなたに今日どうしてもお話したかったのは本当はそんな事ではないの。私は森岡からしょっちゅうあなたの事を聞いていて、あなたは森岡になど恋愛感情を持っていない事に気付いていました。もちろん森岡には言いませんでしたけどね。森岡はずーっと不思議がっていました。あなたと大石さんの事を。あなたのような聡明な女の子がどうしてわからんかなぁ、と不満そうにいつも言ってました。でも、私にはすぐにわかりましたよ、あなたが大石さんの事を本当に愛しているんだっていう事が。愛して愛してどうしようもなくなってるんだなぁ、ってお会いした事もないのにあなたの事が気掛かりでした。世間で言ったら敵味方みたいなものなのにね」と言ってクスッと笑う森岡の妻に、私は絶対にこの人にはかなわない、と思った。自分が小学生の子供にでもなったような気がしていた。そしてまた、この人にだったらわかってもらえるかも、とも思ったのだった。

結局私は、森岡の妻にまで大石から離れるな、と言われたけである。「愛していたらどんな事だって出来るはず。もし大石さんがたとえ一生あなたの方を振り向かなくても、愛し抜いた事にあなたは絶対満足できるはずよ。ここであなたが大石さんを諦めてしまってはそれこそ一生悔いが残るわよ。それに、大石さんをわかってあげられるのは、あなたしかいないんじゃない?きっと大石さんだって苦しいはずよ。あなたがついててあげなきゃ」森岡の妻の言う事には説得力があり、そして、大石も苦しんでいる、という事実に私は初めて気付いた。「森岡が何て言ってたかはわからないけど、大石さんの事を愛しているのなら、絶対離れちゃいけない、って事をどうしてもあなたに言いたかったの。本当に余計なお世話だって自分でも思いましたけどね」もうすっかり打ち解けた口調で、森岡の妻は私に笑いかけた。私には、この人が森岡に差し出していたような無償の愛を、私は大石に対して差し出す事が出来ないのではないかと思えていた。私はやはりもちろん大石より自分の方が大事だったのだ。



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