小説版・ココロノヤミ・10

オペラハット森岡の妻と会った日から、私は大石に、自分の気持ちをぶちまけたくなって仕方がなくなっていた。今まで、私がどんな思いで大石を見つめてきたかを、どうしても大石に告げたくなっていた。明日は言おう、今度は言おうと思いながら、やはり告白した後の大石の反応が怖くてなかなか言い出せずにいた。実際、大石がこの20年、私の事をどう思って見ていたのかは、本当に私にはわからなかった。ただひとつ言える事は、大石は私に対して一度も好きだと言った事がないこと、つまりは私に恋愛感情を持っていないという事だ。ならば、私は大石にとって何なのだろう。やはり単なる幼なじみでしかないのだろうか。私にしては珍しく頭をフル回転させて考えていた。そして、当たって砕けろ、だ、拒否されたって私と大石の縁が切れるわけはないのだから、と半ば自棄で決心した翌日、私は大石から思ってもみなかった事を告げられたのだった。

大石を呼び出したのは私の方だった。今夜こそ私の本当の気持ちをきちんと話そうと思いながら躊躇している私に「10月からしばらくボストンに行かされる事になったよ」と大石がいきなりそう告げた。「な、なに?ボストン?」心臓の鼓動が早くなるのが自分でもわかった。「な、なんで?」「なんでって、そりゃ一応名目は研修だけど、まぁ出世の第一歩ってわけだな」とおどけて言う大石に、私は思わず喰ってかかっていた。「なんなのよ、私がせっかくちゃんと話そうとしてるのに、どうしていつもこうなるのよ」いきなり泣き喚いた私に大石は驚いて「どうしたんだよ。話ならそりゃちゃんと聞くよ。それに、行くったって10月の話なんだからまだ先だよ」と、それでもいつもと変わらないのんびりした調子で、私を宥めようとした。私は明日にでも大石がいなくなってしまうような気がして「私はねぇ、さーくんの事が小さい時からずーっと好きだったのよ、好きで好きで仕方がなかったのよ、知ってた?え?わかってたの?」と大声でまくしたてていた。周囲の人達が私を見ているのがわかったが、構わなかった。私の頭の中には、今言わなきゃ、という思いだけしかなかった。

さすがに大石も狼狽しているようだった。食事がまだ途中だったが、大石は「出ようか」と言った。私達は駅に向かう途中の公園のベンチに腰をおろした。大石が、買ってきた缶コーヒーを私に手渡しながら、ちょっと怒ったように言った。「そんな事わかってたに決まってるだろ。わかってたさ、そんな事...だけど、俺は、俺はチサトにどうしても応えてやれないんだよ。自分でもどうしようもないんだ」最後は、声を押し殺して頭を抱える大石を前にして、私はなす術がなかった。そんな大石を見るのは初めてだった。「俺だってチサトが好きだよ。一番大事な女だと思ってる。だから俺以外のヤツと付き合ってた時も気になって仕方がなかった。もしチサトを泣かしてみろ、ただじゃおかない、と思ってた。それくらいチサトの事は好きだけど、俺は、俺はどうしてもお前を抱く事はできないんだよ」予期していた事とは言え、私は大石にこんな事を告白させてどうしようと言うのだろう。今までより悲惨な事態になるのではないか、という思いが次第に私の頭を占めていった。この日、私達は初めて二人きりで夜を明かした。

ぼーっとした頭で私が考えていたのは、もうこれで嫌でも認めざるをえない、私と大石が恋人同士になる事はもうあり得ないのだという事だった。「小学生の頃から、なんかおかしいと自分でも思ってたよ。取っ組み合いの喧嘩なんかするのはまっぴらだと思ってるのに、ほかの奴らが殴り合いとかしてるのを見ると妙にドキドキしたり...女の子のスカートなんかめくって何が楽しいんだ、って思ったし。中学の時に体育の中澤先生っていたろ?俺アイツの夢見てさ、初めて夢精したんだよ。何でアイツなんだよ、って無性に腹がたってさ、でも...檜山に言い寄られた時にはっきりわかったんだ、俺は普通じゃないってさ」檜山というのは、例の大石がピアノライブをしていた店のオーナーだ。「どうして、わかったのよ?」聞きたくないと思いながら私は聞いていた。「頭ではコイツ何言ってんだ、と思いながら身体はすっかりその気になってたからさ。俺はあんなオヤジに欲情するんだぜ」大石は自嘲気味に薄く笑いながらそう言った。そんな大石を眺めながら、それでもやっぱり私は大石が好きだ、と確信していた。

その後も私達は何事もなかったかのように会って、食事をしたり映画を見たりしていた。とても穏やかな日々だった。私は、こんな日が永遠に続けばいいのに、と思っていた。そしてまた、こんな日々が長く続くわけがない事も十分承知していた。この穏やかさは、私と大石が苦しんだ果てにもたらされた穏やかさであり、本当はお互いにどうすればいいのかなど、全くわかってはいなかった。事実、大石がボストンに出発する日は刻々と迫っていたし、ボストンに行ってしまえば、いつ帰ってこられるどころか、次にいつ会えるのかでさえ定かではなかった。それでも大石は「手紙も書くし、電話だってできるさ。それに、帰ってこられそうな時は真っ先にチサトに会いに行くよ」と、約束してくれた。人が聞いていたら、私達は当然恋人同士に思えただろう。だが、私は不安だった。こんなに混乱したままで、お互いにお互いの気持ちを持て余したままで、大石と離れてしまうことが。けれど、出発前夜、食事をしながら大石は私に言った。「チサトさえ構わなかったら、俺が帰ってくるまで絶対待っててほしい」と。



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