小説版・ココロノヤミ・13

ノースウエスト機大石の母親はヒーターをつけて部屋を暖め、熱いほうじ茶を淹れてくれた。かじかんだ手で茶碗を包みながら、私は久し振りに訪れた大石の家のリビングを眺めていた。リビングのほとんどを、大石がいつも弾いていたグランドピアノが占めており、その傍らにあるソファセットに私は腰をかけていた。子供の頃、このソファセットでよくお母さんごっこをしたなあ、と私は思い出していた。私がさんざんお母さん役を楽しんだ後、大石は必ず「僕も一回だけお母さんやらせて」と言って、私よりずっとそれらしくお母さん役をこなして私を不機嫌にさせていた。こんな時にこんな事を思い出せるなんて余裕だわ、などと考えていた私に、大石の母親は「チサトちゃんはもう知ってるのよねぇ?あの子の事」と聞いてきた。「あ、え、ええ。一応」と歯切れ悪く答えると、彼女は笑いながら話し出した。「私達もねぇ初めて聞いた時はびっくりしたのよそりゃ。それも本人の口から聞かされたんだから。おじさんはかんかんになって怒るし、蓉子はそれからしばらく聡と口きかないし、私もどうしていいかわかんなくてねぇ」蓉子というのは嫁いで東京にいる大石の3歳違いの姉だ。

「蓉子はちょうど結婚が決まった頃だったからねぇ、自分の結婚にまで影響してくるんじゃないか、って心配しちゃって。でもねぇ、その時おばさん考えたのよ。身内でもこんなに非難したりするんだから、世間様になんて聡ももう一生堂々とはしていられないんだろうなぁ、って。そしたら身内だけでも、ううん私だけでもわかってやろう、って思っちゃったのよねぇ。あの子はねぇ、チサトちゃんだから言うけど私にとっては自慢の息子なのよ。学校の成績だって良かったし、性格だって優しすぎるくらいでしょ。親バカだってわかってるのよ。でもそうとでも思わなきゃ何だか辛くて。まだあの子が普通だと思ってた頃はねぇ、チサトちゃんと結婚してくれるもんだと思ってたのにねぇ...でも、聡とはずーっと友達でいてやって。そしたらおばさんも安心だし。なんて、勝手な事言ってるわね。私がこんな事言えた義理じゃないんだけど、でもチサトちゃんももしいい人がいたら本気で考えてみたら?お母さんもそろそろ心配してるわよ。お宅のお母さんにも聡の事、話してあるし」大石の結婚疑惑は解消されたが、何だか私はどっと疲れていた。

私は小さい頃から大石の母親が好きだった。見た目にいつも綺麗にしていたのもあるが、その見た目とは反対に、さっぱりした性格と決断の早い、やや男まさりな所がとても素敵だと思っていた。姉の蓉子よりも大石に力を入れている事もわかっていたが、まさかここまでとは思っていなかった。いやむしろ、これで可愛い大事な息子を、よその女に取られる心配は無くなった、とホッとしているようにも思えたのは、あながち私の穿った思い込みだけではないように思えた。もちろん彼女は彼女なりに苦悶して辿り着いた結論であろうし、また決断の早い彼女らしく今や迷いもないようではあるが、やはり私には世間の、息子を溺愛する愚かな母親にしか見えなかった。そして一番ぞっとしたのは、彼女が私を自分の味方として、大石を共有する者として私を見ていた目だった。彼女の満面の笑顔に送られて家に着いても私は考えていた。大石の母親を、こんな風に毛嫌いして馬鹿にしているが、ならば私はどうなのだ。彼女が大石に対して抱いている感情と、私の大石への思いのどこが違うのだ。同類相憐れむ、だ。私は、私にとって大石が何なのか、もう全くわからなくなっていた。

それなのに、翌日私がとった行動は自分でも思いも寄らぬものだった。私はお昼休みに旅行代理店に駆け込み、ボストンまでの片道の航空券を手にしていた。ボストンまで行って私はどうしようとしているのだろう。私が行ったって、大石は表面的には嬉しそうにしても、心の中では歓迎などしてくれないかもしれない。それどころかひょっとしたら、噂どおり女と暮らしていたりするかもしれない。私は自分で否定した疑惑に、また取り付かれていた。こんなに混乱した頭で大石に会ったところで結果が悲惨な事は目に見えている。なのにどうして行こうとするのか。堂々巡りの考えを抱えたまま、私は有給を取り、気がついたらノースウェストの機内にいた。ニューヨークで小型機に乗り継ぎ、ローガン国際空港に降り立った時、初めて私は自分のしている事の突飛さに気付き、けれどもう引き返せない事に愕然としていた。空港のロビーで、スーツケースも持たず呆然と佇む私の傍らを、日本人ではない人間達が、私になど全く目もくれずに足早にすり抜けて行った。

空港から外に出てみると、あたりはもう暮れかかっていた。私はとりあえずタクシーに乗り、人の良さそうな運転手に少し安心して、大石の住所を示した。空港から市街地まではそれほど遠くなく、タクシーから眺める街並は古くはあるがとても魅力的に見えた。私は一瞬、大石をこのボストンの街に盗られたかのような錯覚に陥った。それでも頭の片隅には、私は何しにここまで来たのだろう、という考えがずーっとこびりついていた。タクシーの運転手に、たぶん渡し過ぎたチップのせいでドアまで開けられて、タクシーから降りた時、私は大石に会ったらまず何を言ったらいいのかに怯えた。考えてみれば、大石は私に求婚らしき事を言って発ったのだし、その後も頻繁に手紙や電話をよこしているのだ。少なくとも私の顔を見て逃げるような事はないはずなのに、私は大石に嫌な顔をされると思い込んでいた。本当は心のどこかでそうなる事を望んでいたのかもしれない。もうこんな泥沼のような状態から逃れたい。きれいさっぱり忘れてしまいたい。心の奥底にはそんな思いがあったのかもしれない。そう思える程、私は大石に関わる事に疲れきっていた。



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