越智・真弓の丘(束明神古墳)





岡宮天皇などという名前は皇統譜にはありません。
追尊天皇なので、一般にはあまり聞きなれない名前かもしれないが、実は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子「草壁皇子」のことなのです。




岡宮天皇陵






偉大な父とその母である鵜野皇女(持統天皇)のプレッシャーからでしょうか、それとも生まれつき体が弱かったのでしょうか、ついに天皇として即位することはなく、享年28歳という若さで逝去しました。



持統3年(689)に没し、のち天平宝字2年(758)に岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすらみこと)と諡号されました。




岡宮天皇





現在宮内庁は、草壁皇子の古墳としてここを指定していますが、学者の間では、岡本天皇陵から300メートル離れた束明神古墳(つかみょうじんこふん)が草壁皇子であろうという説が有力です。




以前、束明神古墳の東側、田んぼの中で掘っ立て柱が出土しました。
墓守の役所跡の可能性もあるとのことです。



草壁皇子を祀ってきた村人が天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れたも、その後の発掘でこの事実が検証されたのだそうです。



村人は草壁皇子が石川の女郎(大名児)に贈った歌「大名児彼方野辺に刈る草の束の間も吾忘れめや」にちなみ、束明神(塚明神とすれば隠した事実が知れる)として祀ったとのこと。



当時を偲ぶ「束明神」「嘉永四年」の銘が残る灯籠が、現在塚に立っています。



信仰深い地元の方々の知恵だったのかも知れませんね。




これまでの2回の調査の結果、墳丘は、対角線の長さ30mの八角形。埋葬施設は、横口式石槨は50cm四方、厚さ30cmの石材を積み上げた家形の石槨で、石室の規模も長さ3.1m、幅2m、高さ2.5mと大きなものであったそうです。。





束明神古墳





御陵の隣には「素盞鳴命(スサノヲノミコト)神社」がありました。





束明神






村人は役人から守り、鎮守の森として今でも大切にしているのだそうです。



このあと、マルコ山古墳へ行きました。




マルコ山古墳





被葬者は誰かは分かっていません。
盗掘にあって副葬品は少ないが、金銅製の太刀装具の一部があったのだそうです。
人骨は30歳代の男性と鑑定されました。



高松塚古墳とほぼ、前後した7世紀末ころから8世紀初頭に築造された古墳です。





マルコ山



実はこの日は降水確率100%だったのですが、朝起きた時には雨が降っていなかったので思いきって決行しました。


最初の計画ではこのあと檜隈神社と於美阿志神社へ行くはずだったのですが、雨が結構本気で降ってきたので、ここまでとすることにしました。


なかなか行くことのできない飛鳥の南西部でした。
以前から一度行ってみたいと思っていたところだったので、大変満足の一日でした。





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