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「北斗星」用客車:オロハネ24550(JR東日本)オロハネ24550は、JR東日本が受け持つ「北斗星3~6号」に2人用個室B寝台デュエットを連結することになり、平成元年6月に竣工したロイヤルとデュエットの合造車です。運転開始当初から1・2号に連結されていたデュエットと形態を合わせるため、JR東日本としては初めてセンターにロイヤル室を配した構造となりました。551~554の4両が誕生し、北斗星の臨時化後まで活躍しました。平成21年11月14日 尾久車両センターにて オロハネ24552平成24年11月10日 尾久車両センターにて オロハネ24551車両公開時、やはりその構造から存在感が非常にあり、写真に収める機会がありました。平成24年2月12日 回9501レ オロハネ24552予備車があったことから訓練運転に連結されることも多く、定期列車では考えられない車端に連結されることもありました。結局デュエットには1度も乗る機会がなかったため、同車も未乗のまま終わってしまいました。ほぼ同形態ながらJR北海道車のデュエットはオロハネ25551~4となっており、さらに連番の555~8がソロとロイヤルの合造車となっているため、非常にややこしい存在でした。
2024.09.30
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小田急電鉄 7000形LSE:特急「ホームウェイ」※本記事は、2018-07-14に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年7月10日、小田急電鉄のロマンスカーでは最古参であった7000形LSEが最後の営業運転を終えました。今後も臨時列車や代走の可能性はあるようですが、平成30年度内には完全に引退するということです。小田急のロマンスカーの中では一番好きな形式でしたが、間もなく営業線上でその姿を見ることが無くなってしまうと思うと、非常に寂しくなります。過去、このLSEを撮るために何度も小田急線を訪れましたが、この中でも日中時間帯に走行しない列車が存在します。朝の上り「モーニングウェイ」はヘッドマークが無いので撮る気にもなりませんでしたが、夜の下り「ホームウェイ」はヘッドマークが用意されているにもかかわらず、時間帯の関係で撮る機会が全くありませんでしたので、LSEが最後を迎える前に1度だけ駅撮りしてきました。※撮影は、平成30年1月31日です。7000形 LSE 特急「ホームウェイ3号」LSEの定期充当となっている「ホームウェイ3号」です。そのまま運用に入っていてくれました。到着時は上り「はこね」となりますが、小田急では到着前に方向幕を折り返し準備してしまうのが分かっていましたので、到着時すぐに撮影すれば、ヘッドライトが点いた状態を記録することができます。ヘッドマークをアップで。旧態然としたデザインのヘッドマークは昭和53年10月改正以前の国鉄特急を彷彿させます。折り返し準備が進む中、テールランプが点灯しました。最後にダメ押しの1枚。この洗練されたデザインともまもなくお別れ。平日の夕方でしたので、定時で帰宅するサラリーマンが多く乗車しますが、鉄道ファンではないと思われるようなサラリーマンも、スマホで撮影してから乗り込むような人たちが大勢いました。鉄道ファンでなくてもやはり小田急ロマンスカーを代表するデザインに愛着があり、雰囲気からそろそろ引退が迫っていることを感じ取っていたのかもしれません。
2024.09.29
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JR四国 121系電車:予讃線国鉄末期の昭和61年、四国初の電化路線用として投入された電車が121系です。窓の構造の関係から、その後開業する瀬戸大橋は通過できないそうで、あくまでも四国島内の電化区間で普通列車及び快速列車用として導入されています。編成はM+T’cの2両固定で軽量ステンレス製。片側3扉の近郊型ですが、裾絞りはない狭い車体で、車内はセミクロスシート。形態的には珍しいもので、言わば飯田線用119系のステンレス版といったところでしょうか?誕生から30年になり、機器や内装が老朽化したため、リニューアルにより延命を図っています。JR東日本のような会社であれば転用先もありますが、電化区間の短い四国でもそのようなことはできず、新車を導入する資金もなく、このような措置もやむを得ないところでしょう。リニューアル後は形式も7200系と変化、走行機器類や台車まで更新されることになり、全19編成のうち、平成30年8月時点での未更新車が最後の1編成となってしまいました。私個人は四国そのものへ1度しか行ったことが無く、その際にちょっとだけですが121系の記録を残すことができました。※撮影は、全て平成22年7月25日です。高松駅にて 第19編成当時は気にも留めませんでしたが、ラストナンバー編成でした。クハ120の台車は101系の発生品だそうで、当時は知りませんでした。国分~讃岐府中間にて 121系 第19編成 「快速サンポート」瀬戸大橋を渡って岡山へ出向き、まだ戻って来て立ち寄った国分駅付近で撮影したものです。構図は良くなかったのですが、快速でヘッドマークが付いていたので取り敢えず撮影していました。国分~讃岐府中間にて 121系 第12編成同じ区間でちょっと駅から離れた道路橋から撮影したものです。こちらは第12編成でした。強硬な1泊2日の撮影だったので時間がなく、121系はこれだけしか撮影できませんでした。それでも昔だったら普通列車の写真なんて撮影しないことも当たり前でしたので、デジカメになってかなり意識が変わりました。そのお陰で少しでも記録に残せてよかったです。
2024.09.28
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キハ40系(キハ400形):急行「宗谷」「宗谷」は、昭和35年に札幌~稚内間を結ぶ準急列車として誕生、翌36年には急行列車に格上げ、合わせて運転区間が函館~稚内間となります。函館本線山線経由でした。長らくキハ56系を使用していましたが、昭和60年3月のダイヤ改正により、14系客車による運転となります。さらに、昭和63年11月、急行形の老朽化による相次ぐ引退により、キハ40系を改造した高速仕様のキハ40系400形(キハ400系)を導入、急行「宗谷」に使用されるようになりました。平成2年9月6日 函館本線 豊幌~江別間にて写真は、電化区間を行くキハ400系使用の急行「宗谷」。キハ56系気動車時代、そして客車時代を知っているだけに、かなり違和感があった筈ですが、急行列車そのものが無くなってしまったこの時代になり、わざわざ撮っておいて良かったなと思います。平成3年7月8日 宗谷本線 比布~北比布間にて最後部にはキハ53500番台が連結されており、こちら側を撮っていなかったのが残念ですね。当時は殆ど中判(645)を使っており、三脚も使用していますので、機動性が無かったんですね。本当に勿体無いことをしました。平成12年3月のダイヤ改正により、新型の特急車両キハ261が誕生。これをもって急行「宗谷」は、晴れて特急「宗谷」として新たな活躍を始めることになりました。DD51牽引 14系客車:急行「宗谷」DE10牽引 14系客車:急行「天北」
2024.09.27
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小田急電鉄 7000形LSE:特急「さがみ」※本記事は、2017-11-12に投稿したもので、当時の表現になっています。小田急電鉄のロマンスカーでLSEこと7000形が、新製車を迎えるにあたり引退するという発表がありました。公式の場における発表でしたが、詳細には触れられておらず、正式な引退時期などは不透明な内容のようです。しかし、大人の事情によりHiSEやRSEが先に引退してしまったことからを考えてみても、経年からしてやむを得ないと受け入れざる得ません。過去の写真を整理していましたら、LSEで運用している特急「さがみ」の写真が1枚だけありました。平成20年1月26日 小田原駅新幹線ホームから LSE 復活塗装 「さがみ72号」500系「のぞみ」の写真を撮るために小田原へ出向いた際、到着後の一服をしているときに目の前に停車していたため、慌てて新幹線ホームから撮影したものです。復刻塗装のLSEを見たのは初めてであり、アングルなど考える時間もなく、列車名も良く見えないようなこのアングルから撮影するしかありませんでした。その後もLSEを撮影する機会はありましたが、時間帯の関係もあるし、運用減により「さがみ」の迎撃は非常に困難でした。せめてヘッドマークがきちんと見える写真を撮りたかったですが、1本しかなくなってしまった今となっては、もう諦めるしかありません。
2024.09.26
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24系寝台客車:寝台特急「日本海」20系寝台客車 ナハネフ21:寝台特急「日本海」でご紹介いたしました20系寝台客車による特急「日本海」ですが、50・3改正で20系客車から14系化され、所属も早岐客車区となりました。このことから、遠く九州の車両が長崎・佐世保~東京はもとより青森までの超ロングラン運用となりました。しかし、冬季遅延や運休などによる運用の問題が顕著となり、早々にこの運用は解除されました。昭和55年3月 青森駅にて オハネフ24使用 「日本海3号」次に出会ったのは、高校生になって初めて渡道した際、乗り継ぎの青森駅でした。昭和53年10月ダイヤ改正で、「日本海」は2往復体制となります。早岐区の14系寝台客車による運用は解除され、宮原区と青森区がそれぞれ1往復を持つことになり、青森区は24系24形、宮原区は24系25形を使用していました。ブルトレのイラストマーク化は、電車に比べて1年遅れとなりましたが、既にこの写真を撮った時はイラスト化されていたため、文字サインの時代の写真は記録できませんでした。昭和57年8月8日 富山駅にて オハネフ25使用 「日本海4号」宮原区持ちの1・4号は、24系25形客車が使用されていました。この編成は当初からA寝台を連結しない、銀帯編成でした。この後、57・11ダイヤ改正から2往復とも宮原区持ちとなり、全てが25形化されたようです。昭和61年9月8日 羽越本線 下浜~道川間にて 「日本海3号」昭和59年2月ダイヤ改正から再び1往復が青森運転所持ちとなります。この時点においては、関西で余剰となった24系25形が青森区へ転属してきており、「ゆうづる」にも使用されていました。また、需要の低迷によりA寝台車も連結が廃止されており、写真からも判るように、オハネフ25が電源車の次位に連結されています。本来の25形は両向き仕様となっていますので、関西のオハネフ25は両端に車掌室を出していましたが、青森車は分割併合がないため、写真のように車掌室を青森向きに方転していたようです。最後部はカヤ24(←マヤ24)が連結されています。本来は関西用に投入された24系用の電源車マヤ24でしたが、荷物需要に応えるために荷物スペースを確保、この際に荷重が増えたためにカヤ24になっています。昭和55年頃、合理化によって余剰となったカヤ24が大挙して青森区に配置されたため、「ゆうづる」やこの「日本海」での運用が目立つようになりました。平成24年3月11日 青森駅にて 上り「日本海」民営化を前後として、渡道の際に青森駅へ寄ったことはあるものの、駅撮りをしなくなったこともあって「日本海」を撮ったことが無く、青函トンネル開業後は青森駅すらスルーしてしまうことに。引き続き2往復が存続した「日本海」は、西日本、東日本がそれぞれ1往復ずつ担当し、1往復の函館乗り入れやモトとレールの連結など、青函トンネル効果で需要があったようです。また、閑散期には修学旅行の団体客にも需要があったようで、運行区間と時間距離が不便な割には2往復体制が堅持されました。平成20年に西日本運用が廃止されて1往復となり、需要の低迷に歯止めが掛からず、平成24年3月のダイヤ改正をもって、その生涯に幕を閉じました。電車特急の新製による継続運転などのウワサもありましたが、北陸新幹線開業による北陸本線の分断、北海道新幹線開業による旅客流動の変化などを考慮すると、その実現性は皆無であろうと思われ、趣味的発想からだけでは難しいことが、今になって納得でき、仕方のないことだったと諦めもつきます。物心ついた頃に鉄道に興味を持ち、その興味をより強くしたのがこの寝台特急「日本海」だったように思います。いつでも逢える列車ではなかったことが、余計にそういう存在になっていた。地味ながらも自分の中では大きな存在だったブルートレイン、それが寝台特急「日本海」だったのだ、と改めて思います。
2024.09.25
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20系寝台客車 ナハネフ21:寝台特急「日本海」寝台特急「日本海」は、昭和43年10月ダイヤ改正において大阪~青森を結ぶ寝台特急として誕生しました。それ以前は、同区間を急行「日本海」として運転されていましたが、名称を特急列車へ移行し、急行列車はそのまま「きたぐに」と改称され存続しました。寝台特急としての運転開始当初より20系寝台客車が使用され、車両は青森運転所所属車で「あけぼの」や「ゆうづる」と共用されていました。昭和49年8月 大阪駅にて ナハネフ21使用 特急「日本海」20系客車は昭和50年3月ダイヤ改正まで使用されたようです。湖西線が開業するまでは米原経由で運転されており、米原から大阪まではEF58やEF65が牽引していました。初めて「日本海」に遭遇したのがこのとき、小学5年生の夏でした。それまで「あけぼの」や東京発着ブルトレなどで20系は知っていましたが、このスタイルを見るのが初めてでした。何故か流線型の20系よりもこのスタイルに強く惹かれ、「日本海」の初めての出会いが寝台特急そして「日本海」大好きに染まっていったきっかけでした。惜しむらくは、当時の写真代が非常に高かったため、EF58かEF65がヘッドマークを掲げていたであろう、先頭の機関車を撮っていなかったことでした。50・3改正で20系客車から14系化され、所属も早岐客車区となりました。残念ながら、これ以降、しばらくは「日本海」と逢うことはありませんでした。
2024.09.24
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489系:団体企画列車「懐かしのはくたか号」平成19年、JR西日本金沢の489系を使用した団体列車「懐かしのはくたか号」が運転されました。3月15日、金沢を出発して長岡経由で上野へ。翌16日に逆ルートを辿って金沢へと戻っています。この時期、新潟県中越沖地震で信越本線が不通となっていなようですが、懸命な復旧工事により営業が再開され、無事に予定通りのルートで運転されたとのことです。※撮影は、平成19年3月16日です。489系 H01編成 団体企画列車「懐かしのはくたか号」この運転では、長岡方に文字マーク、上野・金沢方にイラストマークが掲げられたそうです。実は、この運転のことを全く知らず、前日に線路際をクルマで通った際、あまりにも撮影者が居たために声を掛けたところ、この列車の運転を教えていただき、知った次第です。折り返し当日、「ふじぶさ」の撮影予定があったのですが、ここで写真を撮ってから出掛けることができたものです。『481系・485系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正前)』『489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)』『681系・683系:特急「はくたか」』
2024.09.23
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E231系 サハE230-0番台:最後の6扉車これ以上の増発や編成両数の増加が望めず、遅延が慢性化している首都圏の通勤通学ラッシュ。少しでも停車時間を短くするための対策として導入された多扉車。関西や東京メトロなどでは早期に導入され始めていましたが、平成2年に初めて20m級6扉車として導入されたのが山手線205系サハ204でした。その後も209系やE231-0番台、500番台へと波及し、東急電鉄にも登場した6扉車ですが、バリアフリー法の影響でホームドアが普及するようになると、扉の多い6扉車への対応ができないことから、車齢が10年未満にもかかわらず次々と編成から外され、廃車されてしまうようになりました。山手線、京浜東北線、埼京線(山手線からの転用)、横浜線に在籍した6扉車は、新性能化に合わせてすべて廃車され、最後に6扉車が残っていたのは、ホームドア設置の遅れていた中央総武緩行線用E231系0番台のみとなっていました。そして、山手線からのE231系500番台の転入により置き換えの進んでいたE231系0番台もいつの間にか残りわずかになり、令和2年3月のダイヤ改正にて、すべての6扉車が引退となったそうです。平成22年7月9日 浅草橋~両国間にて隅田川を渡るE231系0番台の編成。左から5両目に6扉車が連結されています。平成30年1月10日 秋葉原駅にて一足早く引退を迎えた209系500番台の撮影に寄った際に撮っていたもの。いずれは無くなると思っておさえておきましたが、その時期は想像よりも意外に早いものでした。時代の要請で誕生した苦肉の策でしたが、着席できないというリスクを背負った車両の割に、意外にも苦情が発生せず、順調に波及して行った多扉(6ドア)車でしたが、これまた時代の要請で長生きできずに廃車という運命を辿ってしまった車両たち。これを不運な車両とするのか、時代の申し子として称えるのか、難しい存在であると思いますが、鉄道の一つの歴史として残した功績は消えることはありません。
2024.09.22
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「北斗星」用客車:オロハネ24501(JR東日本)「北斗星」用の寝台車両には、1形態1両というレアな車両がいくつか存在しました。これは、当初の需要見込みを上回る利用者増により特に個室寝台を増備(改造による)したことによるところが大きな要因のようです。1人用個室ロイヤルに関連した車両をいくつかご紹介してきましたが、東日本ではロイヤル+ソロのオロハネ25500に続き、ロイヤル+デュエットのオロハネ24550を増備、またこれと同時にやはり3・4号への個室連結化に対応するため、ロイヤル+ソロのオロハネ24501の1両が追加改造により誕生しています。平成20年11月22日 尾久車両センターにて オロハネ24501運転当初に誕生したオロハネ25500はデッキ寄りにロイヤル室が配置された構造になっていましたが、オロハネ24501はJR北海道の車両と同様にロイヤル室を乗り心地の良いセンターに配置した構造となりました。また、ソロ室の構造も居住性が大幅に改善されたということです。平成26年5月10日 回9501レ1往復化後は予備車として待機することになり、訓練運転に使用されることも比較的に多く見受けられました。これらの改造寝台車は突き詰めないと結構複雑であり、あまり個体には興味もなかったので今回様々な資料を見て改めて複雑さが分かりました。このオロハネ24501は1番台1両の珍車でしたが、写真整理で初めて知り、特に意識して撮影したわけではないですが、偶然にも2カットの写真を撮ってありました。
2024.09.21
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国鉄 荷物電車:クモニ143(&クモユ141)上越新幹線が開業する前、上野~長岡間に2往復の普通列車が設定されていました。1往復は夜行列車です。この列車には古くからに荷物車及び郵便車が併結されており、クモニ83が連結されていました。後年はクモユ141も連結されていましたが、クモユニ74が併結されているのは見た記憶がありません。旧型車の老朽化が進み、荷物電車にも1M方式の新性能車が導入されるようになりました。それがクモニ143です。ただ、製造両数が少なかったためか、荷物専用車にはあまり使用されることはなく、専ら上野~長岡間の普通列車に運用されていたようです。昭和56年頃 南浦和~蕨間にて300mm×2の超望遠で。上野行きの普通列車。昭和56年頃 西川口~蕨間にてクモニ143を激写!なんでこんな写真を撮ったのだろう・・・。昭和56年頃 上野駅構内にてこれから長躯長岡に向けて発車した普通列車。高校の授業が早上がりのときに撮影したものと思われます。昭和57年頃 蕨駅にてこちらも上の写真と同時期と思われますが、対向する181系「とき」がモハ1ユニット抜きの10連となっていますので、上越新幹線が開業目前に迫った頃と思われます。昭和53年頃? 大宮駅にて クモニ143+115系通常は郵便車のクモユ141とのペア運用がほとんどなのですが、この時はクモニ143が1両のみの併結になっています。窓ガラスに「〒」マークが張ってあり、クモユニ代行となっている様子が判ります。最初は昭和56年頃と思っていた写真でしたが、新幹線の施設が全く無いので、工事開始前の昭和52年頃と推測しました。しかし、改めて調べたところ、クモニ143が登場したのが昭和53年8月で、写真を良く見てみると車体も下回りもっピカピカ。ナンバーもクモニ143-1に見えるところから、運用に入ったばかりの頃ではないかと考えられます。もしかすると、記憶にはありませんが、クモユニ1両を併結する運用があり、これに新製クモニ143を充てたため、郵便代行が発生したのではないか?そんな気がします。以上、115系普通列車併結の荷物電車を全てアップいたしました。なお、上野~長岡間の荷物列車併結普通列車とのペア運用で、上野~新前橋間の普通列車にも同様の併結列車があったような記憶があります。今回アップした写真の中で、上野~新前橋間の列車が混在している可能性もありますのでご了承くださいませ。
2024.09.20
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DD51牽引 14系客車:急行「宗谷」「宗谷」は、昭和35年に札幌~稚内間を結ぶ準急列車として誕生、翌36年には急行列車に格上げ、合わせて運転区間が函館~稚内間となります。函館本線山線経由でした。長らくキハ56系を使用していましたが、昭和60年3月のダイヤ改正により、14系客車による運転となります。明らかにスピードダウンと思われる車種変更ですが、当時においても冷房装置の無い急行形気動車の使用には限界があったようで、居住空間の改善と、夜行急行「利尻」との共通運用による効率化が目的であったようです。昭和63年6月26日 宗谷本線 南稚内~抜海間にて昭和55年、初めて訪れた北海道で宗谷本線にも乗車しましたが、当時は旧型客車又はキハ56系気動車の天国であり、まさか14系客車が北の大地を走るようになるとは夢にも思いませんでした。急行「利尻」の折り返しである上り「宗谷」は、そのままB寝台車のスハネフ14を組成しており、この日は増結のオハネ14と合わせて2両のB寝台車を連結していました。DE10牽引 14系客車:急行「天北」
2024.09.19
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ジョイフルトレイン:485系お座敷電車「やまなみ」485系お座敷電車「やまなみ」は、JR東日本高崎支社の12系お座敷客車「くつろぎ」の代替として485系電車から改造され、平成11年に誕生しています。4両編成で、全ての車両がグリーン車扱い。平成13年に誕生した同じく485系お座敷電車の「せせらぎ」が併結運転を考慮して5~8号車とされているのに対し、「やまなみ」は1~4号車の設定となっています。平成20年8月22日 新前橋にて 485系「やまなみ」SL「みなかみ」に乗車した際、新前橋駅で窓から撮影したものです。特に着目していたわけではありませんが、初めての対面だったのでネタとして撮っておいたものです。平成22年3月27日 485系「やまなみ」回送「やまなみ」は平成22年12月に運用を終了し、中間のM’Mユニットのみが「リゾートやまどり」に改造されました。その後保留となっていた先頭車のクロですが、「いわてデスティネーションキャンペーン」に際して盛岡支社管内で観光列車を運行する計画が発表され、485系3000番台一般車を改造したM’Mユニットと編成を組み、「ジパング」として再出発しています。
2024.09.18
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ジョイフルトレイン:485系お座敷電車「せせらぎ」485系お座敷電車「せせらぎ」は、JR東日本高崎支社の12系お座敷客車「やすらぎ」の代替として485系電車から改造され、平成13年に誕生しています。4両編成で、全ての車両がグリーン車扱い。平成11年に誕生した同じく485系お座敷電車の「やまなみ」との併結運転を考慮し、車号が5~8号車とされているのがジョイフルトレインのなかでも異質な扱いとなっています。平成19年11月23日 小田原駅にて 485系「せせらぎ」この手の列車は殆ど写真を撮らないのですが、偶然にも小田原での接続待ちの際に遭遇し、記録しておくことができました。見た目にもかなりドぎつい色をしています。平成22年1月で運用を終了し、再改造により「リゾートやまどり」として活躍しました。
2024.09.17
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JR四国 113系:第1編成国鉄時代、全線が非電化であった四国ですが、瀬戸大橋の開業を控えて接続区間の電化が実施され、国鉄時代末期に111系電車が配属されます。この111系はそのままJR四国に継承されましたが、元々古い車両であったために車両の更新が必要となり、JR東日本から113系4両×3編成の譲渡を受けました。譲渡に当たってはかなり大掛かりな更新を受けたため、車体内外が大きく変わっており、個人的には113系最大の変顔車両だと思っています。平成22年7月25日 高松駅にて 第1編成 クハ112-1国鉄時代から四国を訪問したことがなく、この時が初めてでした。見る車両は全てが初めてとなりますので、とにかく目の前にいた列車はすべて撮るような感じで、偶然にもこの変顔113系に1度だけ会うことができました。導入された3編成のうち、第3編成が平成28年3月、そして平成31年3月31日にこの第1編成が廃車となりました。さらに、最後まで残っていた第2編成が令和元年8月6日に廃車回送され、JR四国から113系が消滅することとなりました。
2024.09.16
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101系:京浜東北線鉄道ファン誌のNo561(2008年1月号)とNo562(2008年2月号)で、「京浜東北線を駆け抜けた車両たち」と題して京浜東北線に使用された車両や時代背景など詳細に記された記事が載っております。この記事をお読みになった方はお判りと思いますが、京浜東北線にも都合3編成の101系が運用されていたことがあります。私も詳細については知らないのですが、昭和45年12月2日から運用開始され、昭和53年10月、現在の武蔵野線(新松戸~西船橋)延長開業による列車本数増に必要な車両として捻出されるまで、8年弱の期間に亘り京浜東北線を走っていたとのことです。昭和51年頃 南浦和~浦和間にてネガが露出不足のため、コントラストの欠ける寝ぼけた写真になってしまいました。原版は6×6の「リコーフレックス」という2眼レフで撮影したものです。夕方らしい上にレンズシャッター式なので、写真もブレブレな感じです。当時、103系の写真など全く撮る気の無い頃でしたので、おそらく、101系が来たことが判って慌てて撮ったものではないかと思われます。昭和52年 赤羽駅にて旧高架の赤羽駅です。おそらく・・・赤羽駅で特急列車を撮影した帰り、家に帰ろうとホームへ来たものの赤羽止まりに遭遇。しかもそいつが101系だったものだからたまらない。駅員さんがサボを回し始めたので、せっかくだからレアな幕の時に撮ってやれ!なんてシチュエーションだったのでしょうね。ネガから見つかった唯一のカラー写真であり、構図は悪いですが私的には大変貴重な1枚です。昭和53年頃 蕨駅にてこちらは最晩年の頃の写真と思われます。当時は、鉄道雑誌をお小遣いで買える頃ではなかったので、101系がなくなることも察知出来なかった筈です。おそらく、蕨駅で特急列車の写真を撮っているときに偶然来た101系を収めたのだと思います。時代的に判断して、この後間もなく武蔵野線用に1000番台化改造され改造され転出していったものと思われます。103系 京浜東北線:クモハ103103系 京浜東北線:クハ103「京浜東北線」HM103系 京浜東北線:オレンジ色「京浜東北線」HM付き103系 京浜東北線:クハ103 ATCタイプ209系500番台:京浜東北線
2024.09.15
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24系寝台客車編:寝台特急「ゆうづる」寝台特急「ゆうづる」は、昭和40年10月1日ダイヤ改正で誕生した、上野~青森を結ぶ寝台特急です。1年早く誕生した「はくつる」とは異なり、常磐線経由となっているのが特徴。また、583系電車寝台との複合体系を持ち、最盛期には7往復が設定されていました。使用寝台客車は20系が最初ですが、その後東海道スジに25形が導入された玉突きで14系や24系24形が使用されるようになり、さらには関西スジの特急の整理によって発生した24系25形の初期車(0番台)も導入され、ブルトレとして誕生した客車のうち14系15形以外は全て使用したことになります。昭和52年頃 上野駅にて カニ24 0番台初期車写真の様子から上野駅19番線でしょうか。20系から24系化されて間もない頃の写真だと思います。カニ240番台の初期車はマイクロスカートと呼ばれる妻面裾の長いタイプで、先行車であるマヤ24(後のカヤ24)の形態を受け継いだスタイルとなっています。昭和53年頃 上野駅にて オハネフ24昭和53年時点においては、2段式B寝台は24系25形のみであり、14系や24系は3段式寝台のままでした。その後改造によりごく一部の車両を除いて2段化されることになりますが、「ゆうづる」では客車3段式、客車2段式、電車3段式と、個室を除く全ての寝台種別を使用していたことになります。(※「北斗星」への移行準備として、最末期にA寝台2人個室が連結されていました。)昭和54年頃 大宮駅にて カニ24 0番台後期車写真は東大宮操への回送列車を大宮駅で捉えたもので、東京では夜しか撮れない電源車を明るい時間に撮ることができる唯一のチャンスでした。それでも上野駅に5時代に到着してしまう客車「ゆうづる」の送り回送も早朝であり、夏場でないと撮影は難しかったと思います。カニ240番代の後期車は前出のマイクロスカートが廃止され、スマートな印象の面構えになっています。昭和54年頃 大宮駅にて カヤ2424系24形用として誕生した白帯の電源車です。登場当初はマヤ24を名乗り「電源車」としての種別となっていましたが、その後、荷物輸送の必要性から業務用室を荷物室に改造され、荷重が増えた分カヤを名乗るようになりました。本来ならばこの時点でカニと変更されてもおかしくないのですが、何故か生涯カヤを名乗ったまま終わっています。昭和57年5月 南浦和~浦和間にて カヤ24を最後尾にした25形の回送この列車も東大宮操へのヒルネ回送ですね。本来であれば既存の24系24形と対を成すべきカヤ24ですが、関西~九州夜行時代から何故か25形と編成を組む機会が多く、青森運転所へ転属されてからもこのような編成が多く見られました。写真の編成も、関西から移動してきた25形0番台で構成された、A寝台を連結しないモノクラスタイプの編成のようです。ちなみにオハネフ250番台ですが、同車は両栓構造となっており、関西時代は6両編成単位で車掌室が外側を向くようにキレイに編成されていましたが、青森へ転属して来た際にオハネフ24と同様に車掌室を青森方へ揃えてしまったようで、最後の写真でもその様子が判ります。
2024.09.14
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ジョイフルトレイン:485系 彩(いろどり)485系彩(いろどり)は、JR東日本長野支社に所属する485系を種車としたジョイフルトレインです。平成18年に長野にて改造により誕生し、翌平成19年から営業を開始しています。種車は、中間車において年次の新しい1000番台としていましたが、両先頭車のクロ481はいずれも北海道用に製造した1500番台となっており、改造によって面影は全くありませんでしたが、最後の1500番台となっています。「平成29年9月30日の団体列車をもって運用から完全離脱する」と長野支社から引退の発表がありました。平成24年2月11日 東所沢~新座間にてワム貨物の最後を撮影する際、待機中に偶然捉えることができたものです。平成27年9月19日 南浦和~東浦和間にて 9767Mこの日は3本のTDL臨が設定されており、485系彩(いろどり)もそのうちの1本でした。配属が長野支社であるため、一番近くてもたまに武蔵野線を通るぐらいで、なかなか撮影する機会には恵まれない車両でした。一度だけどこかへ出かける際、京浜東北線の蕨~南浦和間で並走したことがあり、その際、あまりの内装の良さに一度は乗ってみたいと思ったことがありましたが、誕生からわずか10年、終わりはあっけなく訪れてしまいました。
2024.09.13
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DD51牽引14系客車:急行「ニセコ」「ニセコ」は、函館~札幌間を結んでいた、函館本線山線経由の代表的な由緒ある急行列車です。客車編成とディーゼル急行が存在し、上りの「ニセコ」では根室~函館という大変長距離の設定もありました。晩年はディーゼル急行の設定が特急「北海」に格上げされ、客車急行のみの設定となります。客車列車については、その昔からC62重連運転でも大変話題になっておりました。SL廃止後もDD51にその運転スタイルが引き継がれています。それほど山線は線路のアップダウンが激しく、定時運転確保が非常難しい、過酷な路線であったことが窺えます。昭和56年3月20日 函館~五稜郭間にて DD51657牽引 下り「ニセコ」私が高校時代、2回目に渡道した際に撮影した写真です。確か帰りの青函連絡船まで時間があって、函館駅の構内の外れから撮影した写真だったと思います。今まさに函館駅を発車した「ニセコ」は、DD51が排気煙を吐きながら加速しているところで力強さを感じさせますね。実は、この前年同季にも訪れており、帰路に急行「ニセコ」に乗車しています。そのときはまだ旧客編成であり、グリーン車も連結されていました。そんなシーンも余りに地味であったため、撮影をしていなかったのが非常に悔やまれます。昭和58年9月6日 小沢~倶知安間にて DD51743ほか重連牽引 上り「ニセコ」こちらは、いわゆる「山線」区間で撮影した写真です。峠の勾配が険しいため、DD51になってからも重連仕業となっていました。当時、重連のDD51が定期で牽く客車急行列車としては唯一だったと思われます。さすが、重連は迫力がありますね。上り列車は郵便車1両のみの連結となっていますが、14系化されて単一化した中でも、旧型車の連結はアクセントになっていました。昭和58年9月7日 大沼公園~赤井川間 DD51710牽引 下り「ニセコ」私が唯一現役時代の3つ目を捉えることができた710号機牽引の「ニセコ」。この写真を撮った時は3つ目の存在の意識は全く無かったのですが、後に唯一残った745号機で大ブレイクした際、やっとこの写真の貴重さに気付きました。下り列車は函館方に2両の荷物車と1両の郵便車を連結していました。この郵便車は、長躯本州から海を渡ってきます。天気が悪く、画像がショボイのが非常に残念でした。そして昭和61年10月31日を以って急行「ニセコ」は廃止となり、気動車による臨時運転が存続したものの、それは歴史ある急行「ニセコ」とは大きく異なるものでした。キハ82系:特急「北海」
2024.09.12
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京成電鉄:赤電3300形(非冷房時代)京成3300形は、昭和43年に登場した通勤型電車で、先にご紹介いたしました3200形と同様に2扉両開きとなっており外観上は殆ど変わりませんが、台車が空気バネとなった点が大きく異なります。しかし、2次車以降はコイルバネとなり、標準化されています。誕生時はもちろん非冷房であり、ヘッドライトが上部2灯となっていましたが、昭和59~61年頃にかけて冷房化、さらにヘッドライトを下部に移設するなどの更新工事が実施され、登場当初とはかなり印象が異なっています。昭和55年5月 京成幕張駅にて 3333非冷房時代のオリジナル3300形。3333が急に目に入ったので、付けていた300mmレンズで強引に撮りました。ちょっとブレちゃってんですが・・・。なかなか「3」が4つも並ぶ車号って無いですよね。忘れられない車両です。昭和55年5月 京成幕張駅にて 3344こちらは反対向きの3344。この後、冷房改造や塗装変更の繰り返し、顔の整形など、かなり印象が変わってしまいました。京成電鉄:赤電3100形(非冷房時代)京成電鉄:赤電3200形(非冷房時代)京成電鉄 モハ700形:行商専用列車 京成電鉄:青電2100形・210形北総鉄道:7260形(7261F)
2024.09.11
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189系 M11編成(松本車):特急「あずさ」国鉄時代末期よりグレードアップ化など進化を続けた松本区の189系。長野オリンピックを機にグレードアップ色から長野色へと変化。E351系「スーパーあずさ」誕生後も183系を交えて活躍を続けましたが、E257系による置き換えにより定期運用から撤退しました。定期運用撤退後も波動用としてごく一部の長野色が残存しましたが、平成30年に豊田車の189系全廃により「あずさ」色編成が消滅してしまいました。国鉄時代~平成期においても殆ど中央東線の撮影はしたことがない中で、確か1枚だけ189系長野色の現役時代の写真があったと思って探していたところ、ポジスキャンをしてあった1枚を発見することができました。撮影時期不詳 新宿駅にて 189系M11編成 特急「あずさ」この時代は駅撮り写真をとにかく嫌っており、地方に撮影に行った時くらいしかホームで写真を撮ることはありませんでした。なぜこの写真を撮ったのか全く記憶がなかったのですが、おそらくは初代グレードアップ色が消滅し、新長野色へ移行されて間もない頃だったので珍しくて撮ったものと思われます。当時この辺りに写真を撮りに行った記憶もまるでないので、もしかしたらMAMIYAに修理で出掛けたついでとかかもしれません。遠くから小さめに撮影したようですが、アップにしてみたところ編成札が確認でき、M11編成であることが判りました。調べてみますと、このM11編成はグレードアップ車両が指定席・自由席の割り当てに合っていない唯一の変則編成だそうで、189系定期列車からの撤退後、なんと豊田車M50編成の元となった編成だそうです。これまで写真の存在すら曖昧になっていたものですので、調査によってつながった驚きと喜びを噛みしめました。『183系・189系:特急「あずさ」』189系:臨時特急「あずさ銀嶺」
2024.09.10
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485系:特急「たざわ」「たざわ」は、田沢湖線電化に際して急行列車を格上げして誕生した特急で、盛岡~秋田間のアクセスがメインとなっていました。車両は短編成化された485系が使用されていました。昭和61年9月8日 鷹ノ巣~前山間?にて「たざわ」も一部が青森前で延伸して運転されていまいした。優等列車過疎となる秋田~青森間では、寝台列車の昼間利用すら特急列車として利用される区間でもあり、これらが走らない時間帯は「いなほ」や「白鳥」といった列車を利用するしかありません。さらにこれらをカバーするため、「たざわ」や「むつ」等を設定していたようです。写真は「日本海」待ちの間にちょうど来たため撮影したものです。田沢湖線への撮影は行ったことがありませんので、私としては同列車を捉えた最初で最後のシーンとなります。この後、田沢湖線は新在連絡新幹線に改軌され、新幹線「こまち」となって現在に至るのはご承知のとおりです。
2024.09.09
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185系(157系色):臨時特急「そよかぜ」(その2)平成24年、夏臨で185系の臨時特急「そよかぜ」が2度設定されました。前回、7月に運転された時の『185系(157系色):臨時特急「そよかぜ」(その1)』に続き、今回は、平成24年9月8日(土)に運転されたOM08編成「そよかぜ」ご紹介したいと思います。回9972M 送込み回送 特急「そよかぜ」 9025M前頭は遠過ぎたのでトリミングしてます。後部後追いは草ボーボーで場所の選択ミスでした・・・。185系 特急「そよかぜ」 9026M順光を選んで後部後追いメインで撮ってみました。回9973M 入庫回送やはり7月に比べて暗くなりましたね。陽も雲に遮られ、かなり厳しい条件下となりました。南行ケトにカブられたため、トリミングでカットしています。当時の感想として、東武との協定関係で難しくなければ「日光」とか「なすの」とか、架空ですが「くろいそ」なんかもと思っていたようですが、その後は設定されることなく、平成27年2月の運転を最後に踊り子色に塗り替えられてしまいました。183系幕張車:特急「そよかぜ」489系 :特急「そよかぜ」
2024.09.08
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東京メトロ 銀座線:01系(踏切)※本記事は、2017-02-04に投稿したもので、当時の表現になっています。平成29年3月、01系が動態保存を除いて銀座線から撤退となってしまうようです。銀座線の上野にある車庫は2階建て構造であり、地上区間では踏切があるという、ファンの間では有名な場所があります。我が母校から徒歩数分の至近ながら、何回かは見に行ったものの写真は撮れたことはありませんでした。当時は01系の導入が始まったところであり、撮れていれば旧型車の貴重な記録を残せた筈なんですが・・・勿体無いことをしました。それから約30年が経過した頃、現場回りの仕事でこの近くに行ったことがありました。デジカメも使っていましたので、早めに行って覗いてみることにしました。列車が通るかどうかは分かりませんでしたが、ちょうどラッシュが終わる頃ですので、期待は大きかったです。※撮影は、平成23年6月16日です。銀座線に1000系が導入される!という情報があった頃。初めて間近で踏切を見ました。既に入庫してきた01系が1編成だけ収まっていました。写真を撮り始めたら、踏切監視員?の方に嫌われてしまい、そっぽを向かれてしまった(笑)。第三軌条式の集電ですので、素人が立ち入って誤ってここに触ったら感電死(爆)。なので、踏切よりもこちらの線路を塞ぐ方が厳重です。ところで・・・この写真を撮って振り返ると、先ほどの監視員の方がそそくさと小屋の中へ・・・まさか?!なんと、その時が突然やってきました。ファーストショットを撮ってからわずか1分後でした。警報機が鳴り、遮断機が下りると、線路を塞いでいたバリケードがスルスルと上がります。ちなみに、写真ではバリケードは昇っている途中で、まだ最上部に達していない状態です。電車がなかなか来ないので、クルマや通行人が溜まってきてしまいました。そして電車がやってきました。01系をこんな間近で撮ったのは初めて。電車が車庫に顔を突っ込んだとたん、踏切上で停止してしまいました。この間に移動攻撃で撮ったのがこの写真。クルマも人もかなり待たされています。電車が通過すると、車庫側のバリケードがスルスルと下りてきます。この間、危険ですので遮断棒はまだ上がりません。線路側のバリケードが完全に閉まりますと、警報機が鳴り止み、遮断棒が上がります。やっと開通・・・みなさん、大変お待たせいたしました!一連の動作はざっとこんな感じでした。昼食後、次の現場に移動する際にまた近くを通りましたので、また立ち寄ってみました。日中はお休みしている編成が多いため、踏切から覗いて01系を3編成も収めることができました。場所が場所だけに構造を変えることは難しく、この状況が変わることは無いでしょう。しかし、全てが1000系に置き換わることになり、こんな01系の並び写真も既に撮ることが出来なくなってしまいました。東京メトロ 銀座線:01系(渋谷駅移設前)
2024.09.07
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DD51牽引 旧型客車:函館本線(山線)普通列車国鉄時代の北海道における普通列車は、長距離は客車列車、短距離は気動車列車というパターンが多かったように思います。幹線には長距離を走る客車普通列車が1日に数本が設定されていましたが、これは荷物輸送を行うために存在していたようです。社会人になって初めての北海道は、通算で3回目の渡道。初めて雪のない季節でしたが、生憎の雨模様。キハ80系による「北海」を記録するため、函館本線(山線)を訪れました。※撮影は、昭和58年9月6日、函館本線 小沢~倶知安間にて。DD511051牽引 上り普通列車移動中に来てしまって慌てて撮った写真。露出不足からブレてしまった残念な写真です。客車は3両しか連結されておらず、荷物車と郵便車が1ずつの5両編成と、長距離列車にしてはこじんまりとした編成です。DD51(番号不明)牽引 下り普通列車天気が良ければ、多分バックに羊蹄山が見えたのではないでしょうか?こちらは客車が2両しかなく、函館寄りに郵便車が1両だけ繋がっており、こちらもこじんまりとした編成です。山線には夜行の普通列車が荷物輸送を主体として設定されており、その外にも急行「ニセコ」が本州への便を兼ねた荷物輸送を担っていました。特に北海道では気動車郵便車の配置が無かったため、こうした客車列車の役割は大きかったようです。
2024.09.06
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EF80牽引:客車列車・荷物列車EF80は、昭和37~42年に掛けて製造された、EF30に続いて量産された交直両用電気機関車で、63両が製造されています。通常の電気機関車は、1軸の動輪に対して1つの電動機(モーター)が作用するのが一般的ですが、EF30やこのEF80は2軸(1台車)に対して1つの電動機としています。EF30は関門間の接続のみでしたので、特に高性能にする必要もなかったことからこの方式が採用されたようですが、走行距離の本格的な運用に対応するEF80は、交直流機器及び電気暖房装置の搭載による重量増を抑制するため、電動機を減らして軸重軽減に対応したという点において、EF30とはかなり趣旨が異なるようです。EF80は、大きく分類すると1次型と2次型があり、さらに電気暖房装置を搭載した客貨両用と電気暖房装置を持たない貨物用があります。※ただし、ブルトレなど客車に電源装置を持つ列車については、電気暖房搭載の有無に拘わらず運用されていました。今回は、EF80の写真のうち、普通列車や荷物列車を牽引している写真をご紹介したいと思います。昭和52年頃 上野駅にて EF8018牽引 下り普通列車地平20番線で発車待機中の普通列車。昭和54年頃 上野駅にて EF8018牽引 下り普通列車偶然にも上の写真と同じ18号機。何故かEF80牽引の旧客列車でカラーだったのはこの1枚だけでした。昭和57年頃 上野駅にて EF8019牽引 下り普通列車57・11ダイヤ改正を控えて、上野駅における特急列車の発着の情景を撮りに行った時の写真。鶯谷寄りの跨線橋の上から撮影。昭和57年8月23日 我孫子駅にて EF8042牽引 下り普通列車多分、大回り乗車中に我孫子駅で偶然押えた写真。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて EF80牽引 上り普通列車 車番は不明です。写真では判りにくいのですが、EF80の次位にスハニ64と思われる客車が連結されています。この頃ですと、合造車は殆ど姿を消していましたので、配置換えや廃車にしても何故この列車に連結されていたのか謎です。常磐線では、この頃の客車は全て保全工事施工車で青色。荷物車はマニ37、郵便車はオユ10と、編成が青一色で変化に乏しかったと言えます。おそらくこのスハニ64は茶色でしょうから、カラーで撮っていればかなり変化があったのではないかと悔やまれる1枚です。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて EF8012牽引 下り普通列車下り列車なので、郵便・荷物車は最後尾の連結となります。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて EF8021牽引 上り荷物列車私が写真を撮った中で唯一のEF80牽引荷物列車。次位には偶然旧型のマニ36が連結されていますが、荷物列車も終盤を向かえ、マニ50が多勢を占めていました。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて EF8060牽引 上り普通列車今回アップした写真で唯一の後期型。ヒサシがなく、テールライトも外バメ式となっており、1次型とかなり印象が変わります。この列車は郵便車等の連結が無いようです。昭和57年11月14日 上野駅にて EF8030牽引 常磐線普通列車上野駅にとっては、この日が大転換となった日、といっても過言ではないでしょう。ごく一部の列車を除き、上越系・東北系の電車特急、短距離系の夜行列車、そして、昼間の急行が1日にして無くなってしまったわけですから。首都圏でも53・10改正以後、最後の牙城となっていた常磐線の客車普通列車。夜行急行も含めて、旧型客車はこの日を境に一気に姿を消してしまうことになってしまいました。EF80牽引:貨物列車
2024.09.05
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185系OM03編成:特急「あかぎ」JRになって永らく変化に乏しかったOM車でしたが、平成22年秋に185系いじりが始まります。強化スカートへの変更と同じころ、なんと湘南色に化けて登場します。それも急行塗装ではなく、80系湘南色という意表を突く出で立ちで登場しました。平成22年10月9日の新宿発着「草津」でお披露目デビューを行いましたが、その数日前から一般運用にも充当されるようになりました。平成22年10月17日 「あかぎ4号」平成22年12月12日 「あかぎ6号」平成23年2月6日 「あかぎ4号」平成24年3月3日 「あかぎ4号」平成24年5月27日 「あかぎ6号」平成24年6月2日 「あかぎ4号」特急車両に無理やり施工した80系塗はどうしても無理があるように見えますが、これが165系塗装だったらどうでしょうかね?自分的にポイントだったのはサロのグリーン帯。これはなかなか良いなと思いました。185系OM車:特急「あかぎ」(その1)185系OM車:特急「あかぎ」(その2)
2024.09.04
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ED75700番台牽引 50系客車:奥羽本線 普通列車奥羽本線及び羽越本線では、全線電化を前後としてED75700番台による電機牽引の運用が始まっています。秋田地区を中心とする普通列車は、旧型客車や一部気動車による運用でしたが、50系客車の登場後、民営化後も同様のスタイルが続いていました。私自身、秋田地区の撮影というのは殆どなかったのですが、民営化の直前と民営化間もない頃にそれぞれ1度ずつ撮影に行ったことがあります。メインはあくまでも上野口では撮りづらい寝台特急及び日本海縦貫線を走破する特急列車でしたが、合間に走っていた普通列車を数枚撮影していました。それまでスキャニングすらしていなかったので、今回はプリントからスキャンしたものをご紹介したいと思います。昭和61年9月9日 撮影地不詳 ED75700番台牽引 普通列車クルマの免許を取得した翌年、東北をぐるっと回ってきました。まだ国鉄時代です。50系化された普通列車などまるで興味はなく、当時の愛車を入れた記念写真のつもりで撮影しています。写真をアップにしてみると、50系客車が4両は繋がっているようですが、最後部がオハっぽく見えますので、5両程度が連結されていたかもしれません。荷物扱いは廃止となり、マニ50は連結されていなかったと記憶しています。平成4年8月18日 八郎潟~鯉川間(又はその前後)にて民営化後に訪問した際に撮影した写真をまとめて。1枚目は遠過ぎて番号は不明。2枚目はED75723、3枚目はED75752と読み取れます。編成全体が写っていませんが、殆どの列車が2~3両程度だったように記憶しています。これならば気動車でも十分ですが、本線運用は時間が掛かりますので、全てを気動車するにはタマ数が足りなかったのではないでしょうか?もちろん、運転士(機関士)の運用の問題もあったと思います。こちらもまともに撮ろうという気が無いのが構図から見ても判ります。秋田地区の客車列車消滅について、詳細な情報は手に入らなかったようですが、電車化のために製造された701系基本番代の誕生が平成5年となっていますので、この平成4年に撮影した客車列車は最晩年の活躍だったと推測します。旧型客車世代の私にとっては、50系客車の存在は邪道にしか思えませんでしたが、ED75700番台という当時の最新鋭の機関車が牽く真新しくも短命に終わってしまった50系客車との組み合わせは、ここにまとめた写真以外には残っていませんので、貴重な記録であることには間違いないようです。
2024.09.03
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183系OM車:修学旅行臨(集約臨)地元の在来線特急列車の廃止と共に、波動用として残った183系1000番台。元は新前橋に配置されていましたが、その後大宮総合車両センター配置となり、東大宮常駐となっていました。これらの車両は一般臨時列車や団体列車として頻繁に活用されましたが、手頃な6両編成のまま使用されることが殆どでした。今回は修学旅行輸送で運転された、いわゆる集約臨の写真を集めてみました。平成24年6月2日 OM102 集約臨 9874MOM車には「修学旅行」のヘッドマークが用意されていました。平成21年5月8日 集約臨 回送平成22年6月6日 集約臨平成23年5月21日 集約臨平成24年6月3日 9874M 集約臨平成24年6月3日 回9575M 返却回送平成25年5月18日系 9845M 集約臨これらは6+6の12連による集約臨やその返却回送を撮影したもの。地元を通る集約臨は、神奈川方面からの日光への定期スジで設定されており、それらはほぼ田町車によるものでした。一方、逆に高崎線や東北本線から上野への集約臨も設定されることがあり、おそらくは東海道新幹線や羽田空港へ向かうためと思われます。せっかく「修学旅行」のヘッドマークが用意されていながらも、写真のように「団体」「臨時」といった表示で走るものが多く、場合によっては白幕や客を乗せているにも「回送」という失礼なものもありました。比較的多く設定されていた集約臨ですが、ヘッドマークを掲げた列車は殆ど記録が残っていません。
2024.09.02
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183系・189系 田町車:修学旅行臨(集約臨)晩年まで一部の車両が残存した183系と189系は、2ドアの汎用性や高速走行性能から、波動用として田町や大宮に残存し、団体列車や臨時列車にも多用されました。以前、OM車についてはご紹介していますが、今回はまとめをしていなかった田町車のうち、修学旅行(集約臨)だけ集めてみました。殆どは地元撮影のため同じようなものばかりですけど、記録として並べておきます。平成20年5月18日 9583M 北浦和駅にて平成20年6月14日 蕨駅付近にて平成20年月6日 H81編成 &「ホリデー快速河口湖」 八王子駅にて平成20年10月6日 H81編成 西川口~蕨間にて平成21年5月23日 9583M H102編成 土呂駅にて平成22年5月16日 9584M 蕨駅付近にて平成23年5月31日 9584M H101編成 蕨駅付近にて平成24年5月13日 9583M H102編成 蕨駅付近にて平成24年5月19日 9584M H102編成 蕨駅付近にて平成24年7月8日 9584M H102編成 蕨駅付近にて真剣に撮る気はない列車でしたが、夕方の貨物タイムの入りっ端の時間でしたので、結構撮っていました。アングルは同じものばかりですが・・・。ヘッドマークが「修学旅行」になっていましたので、「臨時」「団体」に比べれば、まだ写欲が湧きます。田町車には6両編成、8両編成、10両編成があり、それぞれ両数を表したH61、H81、H101、H102が存在しました。下り方は窓の大きいグレードアップ車で、その他は未施工車で統一され、特急マークはありませんでした。また、帯色は基本的に窓回りに合わせてあるため、下り方1両だけ帯幅が合わない、バランスの悪い編成でしたが、なぜかH81編成のみは大窓の幅に合わせた帯幅で統一されていました。修学旅行では3校くらいでまとめることが多いようで、8両編成または10両編成が多かったようです。
2024.09.01
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京王電鉄 6000系(5ドア車):動物園線※本記事は、2011-11-26に投稿したもので、当時の表現になっています。通勤時間帯の乗り降りをスムーズにするため、各鉄道会社では多扉車を導入する傾向が強くなった時代がありました。京王電鉄においても、6000系で5ドア車を導入しています。しかし、実際にはあまり効果がないことが判り、早々に製造を打ち切ってしまいました。しばらくは共通で使われていたようですが、6000系の中でも早いうちに淘汰されてしまった感があります。最後に残った4両1編成は動物園線に封じ込めされたような感じで、動物のラッピングをした愉快な姿で余生を送っていました。※撮影は、平成22年6月21日です。外回りの帰り道で、特急への乗り継ぎ待ちにさっさと撮って帰途につきたかったのですが、これが本数が少なく、全然来てくれません。結局20分以上待たされました。そして、やっと来てくれました。ハイビームで進入。初めて逢う5扉車に緊張しちゃいました。全然京王って撮ったことが無いもんで、6000系5扉車もいつの間にか最後の1編成になってしまいました。4両編成で、殆どが橋上駅下に入ってしまい、暗くなります。そんなんで、こんなアングルしか撮れません。愉快な動物たちの絵が良いですね。動物園線専用であることが強調されています。最後に、5扉が良く判るように広角気味に撮ってみました。結果的に、これを最後に京王線で6000系を撮る機会はなくなり、同時に、最後に目撃した6000系となってしまいました。
2024.08.31
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「北斗星」用客車:オロハネ25500(JR東日本)オロハネ25500番台は、寝台特急「北斗星」運転開始に伴い製造された、上野口初の個室寝台を備えた車両です。※厳密にはオロネ24500が「ゆうづる」に先行使用されたので、1人用個室として初となります。5・6号を分担するために3両がオハネ25からの改造により誕生しており、デッキ寄りにA個室ロイヤルを2室配置、反対側にB寝台ソロを12室設備していました。平成21年11月26日 上野駅にて オロハネ25500JR北海道でも同じコンセプトでオロハネ25500番代を製作しましたが、JR東日本のソロ併設に対し、デュエット7室の併設として構成が違っていました。よって、このロイヤルの配置関係にある車両は東日本独自のものとなりました。平成27年4月18日登場時はオロハネが1両のみの連結となっていましたが、ロイヤルの人気からデュエットを併設したオロハネ24550番台が改造により誕生し、JR北海道編成と共通の編成スタイルとなっています。写真は臨時化された後の「北斗星」となりますが、1編成にオロハネ25ソロ、オロハネ24デュエットが各2両、計4両の豪華編成となって最後の活躍となりました。
2024.08.30
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「北斗星」用客車:オハ25500(JR東日本)オハ25は、「北斗星」用として運転開始当初から連結された全室ロビーの客車です。JR東日本の車両は501~504で、全てがオハネ25からの改造車となっています。JR北海道編成では、フリースペースの供出としてミニロビー付きのスハネ25で対応していましたが、「北斗星3・4」号の編成共通化のために全室ロビーとしたオハ25を改造によって誕生させました。こちらは550番代(551)の1両のみとなっており、内装はJR東日本と全く異なるものでした。ちなみに、ロビーカーとしてブルートレインに連結するようになったのは「はやぶさ」次いで「富士」が元祖であり、形式はオハ24700としてグレードアップ番号を使用していました。こちらは種車がオシ14とオハネ14となっているため、種車によってドアを備えるもの、備えないものと形態が大きく異なっていました。平成23年1月16日 回9501レ写真を撮った頃は既に「北斗星」が1往復化されてしまった後であり、JR東日本のロビーカーは全面撤退していました。しかし、1両は廃車とせずに残されており、写真のように訓練運転にも使用されることが多くありました。平成22年11月20日 尾久車両センターにて予備車は尾久セ構内に留置されており、公開時にはこのように形式写真を撮ることもできました。保留車ではなく予備車としての位置づけであり、災害等の大幅な遅れで上り列車の到着が遅れ整備が間に合わなくなった場合、これらの予備車を仕立てて営業に入ったことも何度かありました。この場合、編成はすべてJR東日本の車両となります。平成26年3月9日 尾久車両センターにて「北斗星」の定期が廃止となると、編成はすべてJR東日本で組成した1編成での往復に切り替わることになり、長らく休養していたオハ25の運用が復活することになります。ミニロビーの狭いスペースしかなかった時代からすれば、ファンにとっても「待ってました!」と言ったところでしょう。シャワー室を備えていることから、「北斗星」に乗った時には必ず利用した車両であり、思い出深い空間でもありました。
2024.08.29
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485系:東武鉄道直通特急「きぬがわ」以前にご紹介いたしました『485系:東武鉄道直通特急「日光」』と同じく、鬼怒川温泉を結ぶ乗り入れ特急として「きぬがわ」が運転されるようになりました。平成18年のこととなります。東武鉄道100系スペーシアを使用した「スペーシアきぬがわ」も同様に共通となります。平成19年5月4日 東武鉄道日光線 板倉東洋大前~柳生間にて 「きぬがわ4号」乗り入れ1周年記念のステッカーが貼ってありました。平成23年1月30日 「きぬがわ4号」「日光」に比べ、あまり写真を撮っていなかったです。大体は貨物列車撮影のついでが多かったので、時間帯が良くなかったかもしれません。ほかに2コマありましたが、同じ構図なので省略します。平成23年春のダイヤ改正後、同年4月16日に後進253系1000番台に置き換わる予定でしたが、東日本大震災の影響により、6月3日まで同編成が使用されました。189系彩野編成:東武鉄道直通特急「日光」
2024.08.28
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EF641000番台牽引:寝台特急「北陸」昭和50年3月ダイヤ改正において、それまで寝台急行として運転されてきた急行「北陸2号」を特急列車に格上げし、20系寝台特急「北陸」として上野~金沢間の運転を開始しました。運転開始当初は、直流区間を長岡運転所のEF58が牽引していましたが、EF641000番代が誕生し、昭和56年10月頃よりこれを置き換えました。また、寝台客車についても、山陽~九州のブルトレ削減による余剰を受け、20系から14系寝台客車にグレードアップされています。なお、長岡~金沢間については、EF81牽引によるスルー運転を行っていました。平成19年6月17日 EF641052牽引デジカメ購入で地元での写真を25年振りくらいに再開した頃。撮影ポジションもデジカメの性能にも慣れず、非常に厳しいものでした。平成20年5月5日 EF641052牽引平成20年5月17日 EF641051牽引「北陸」の地元通過は5時過ぎ。急行「能登」の続行でした。余りにも早い時間のため、撮影できるのはGW直前くらいから8月いっぱいぐらいでしたかね。平成20年5月18日 EF641032牽引浦和駅高架化工事に伴う貨物線への迂回運転。ろくな写真が撮れなかった中で、ブレずに一番良く撮れたのがこの写真でした。平成20年6月14日 EF641031牽引平成20年7月12日 EF641052牽引駅前のタワーマンションは工事が始まったばかり。まだ基礎工事くらいでしょうか?平成21年4月19日 EF641053牽引平成21年5月3日 EF641052牽引平成21年5月23日 EF641051牽引珍しく地元ではなく赤羽~東十条で。平成21年6月7日 EF641053牽引早切りの構図悪写真。バックのマンションは建設中。平成21年7月20日 EF641051牽引平成21年8月16日 EF641031牽引平成22年2月14日 機番不明平成22年2月19日 機番不明ここ数年のダイヤ改正発表は、前年の12月初旬くらいに発表されることが多くなっていました。昼間の列車ならともかく、早朝着で夏場しか撮影のできないブルトレには酷な情報となります。当時はISO200が限界のコンデジだったため、今のように「なんとかここまで」というような写真は非常に厳しいものでした。最後の改正前2発の写真も、完全な真っ暗闇の中を見送るしかありませんでした。平成29年11月11日 EF6437 尾久車両センターにて平成30年5月26日 EF6437 大宮総合車両センターにて寝台特急「あけぼの」の牽引機が青森のEF81から長岡のEF64に移行された際、長岡には一般型の37号機・38号機が所属していましたが、「北陸」とのマッチングをキャッチすることは最後までありませんでした。
2024.08.27
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東海道新幹線:500系「のぞみ」(その1)もはや説明の必要は無いと思われる新幹線500系。誕生のときから知ってはいましたが、それほど新幹線に興味があったわけではなく、写真を撮りに行くようなことはありませんでした。しかし、車両の速達性を重視したために他の新幹線車両と使い勝手が違ってしまい、後進のN700に道を譲る形で「こだま」に格下げとなってしまいました。東海道新幹線から引退のアナウンスがあり、初めて500系の写真を撮りましたが、近くで初めて見る500系はあまりにもスタイリッシュで、完全にハマってしまいました。枚数がそこそこありますので、特に説明はなしで並べてみます。平成19年9月16日 田町駅にて 「のぞみ2号」回送平成19年9月16日 新横浜駅にて 「のぞみ10号」平成19年9月16日 新横浜駅にて 「のぞみ33号」平成19年9月16日 田町駅にて 「のぞみ14号」平成19年9月16日 田町駅にて 「のぞみ41号」平成19年11月16日 東京駅にて 「のぞみ33号」W1、W2編成には、すれ違い試験時に取付けられたセンサーの窓が開いているのが特徴です。平成20年3月29日 東京駅にて
2024.08.26
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東京メトロ 銀座線:01系(渋谷駅移設前)東京メトロ銀座線用01系は、昭和59年から運行が開始されました。平成29年3月10日をもって、銀座線での営業運転を終えることになりました。東京メトロの中では既に05系や06系に廃車が出ており、これに次ぐ短命となりましたが、どうも老朽化というよりは、ホームドアの設置や信号装置、昇圧などの関係があって置き換えが急がれたようです。銀座線は地上区間が少ないため、殆ど写真を撮っていませんでした。そんな中、現場回りと東急東横線の地下化前に渋谷駅に撮影に行ったことがあり、ほんの少しだけですが記録が残りました。平成22年6月11日 渋谷駅付近にて以前は東横店の中にホームがありましたが、再開発によりロータリー上に移設されました。以下、平成23年11月13日、東横店東館屋上から。01-10601-10901-11501-12301-13301-135足場が限定的なので、あまり変化が付けられませんでしたが、こんなとことから写真を撮れるなんてことは、lineさんから聞くまでは全く知りませんでした。この部分にホームが移設され、電車を見ることさえできなくなってしまいました。激狭だったホームも広くなり、行き来にも余裕ができましたね。永らく続いた風景も、過去のものとなってしまいました。
2024.08.25
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名古屋鉄道 1700系+2330系:2334F1000系と対をなす1200系が普通車として連結された編成で、それまで撮影した時はパノラマカー側ばかりしか撮影していなかったため、1200系側は佐久間レールパークに訪問した帰り、1回だけしか撮影していませんでした。平成21年8月22日 飯田線 下地~豊橋間にて 2334F一見すると1000系+1200系の編成に見えますが、拡大してナンバーを確認したところ、岐阜方の車両が「1532」と読み取れました。調べたところ、7000系・7500系パノラマカーを淘汰するに当たり、7500系の機器を流用して誕生した1030系+1230系による編成であることが分かりました。1000系編成では4M2Tであるのに対し、1030系ではオールM車となっているのが特徴です。改造による1030系+1230系編成は4編成が誕生しましたが、1134Fの事故廃車及び平成27年からの廃車で既に廃形式となっています。この写真の1132Fも平成28年7月20日付けで廃車となってしまったそうです。
2024.08.24
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205系量産先行車:京葉線京葉線は、103系や201系の配置を経て、205系の新製配置もされるなど、E電線区としては比較的に型式混在の多い路線です。205系に関しては、後期車となる前面デザインのことなる車両が導入となりますが、これ以外に山手線のE231系500番代化で余剰となった205系の量産先行車が4編成とも終結することになります。4編成が出揃ったのは平成17年でしょうか。しかし、首都圏における新顔のE233の登場により、その活躍も僅かの期間で終わってしまうことになります。平成19年8月26日 葛西臨海公園駅にて ケヨ24編成平成19年8月26日 葛西臨海公園駅にて ケヨ26編成平成19年10月28日 新木場~潮見間にて 平成20年5月3日 潮見駅 ケヨ24編成平成20年10月26日 新木場~潮見間にて平成21年10月24日 潮見駅 ケヨ24編成平成21年10月24日 潮見駅にて ケヨ26編成平成22年7月17日 市川塩浜駅にて ケヨ25編成2段昇降式の窓が特徴の205系量産先行車。山手線時代に1枚しか撮っていなかったこともあり、京葉線では悔いを残さないように出来るだけ多く撮っておくことを心掛けました。しかし、以外にも終止符が打たれるのが早く、その活躍はあまりにも短かったように思います。
2024.08.23
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117系:快速「佐久間レールパーク号」平成21年、佐久間レールパークが18年間の歴史に幕を閉じることとなりました。これに合わせ、閉館までの期間の土日祝日及びシーズンに117系を使用した臨時快速「佐久間レールパーク号」が運転されました。わたしもたった1日だけではありますが、佐久間レールパークを訪れ、帰路に快速「佐久間レールパーク号」に乗車いたしました。※撮影は、全て平成21年8月22日です。中部天竜留置線にて クハ116-209中部天竜留置線にて クハ117-30中部天竜駅にて クハ116-209中部天竜駅にて クハ117-30ヘッドマーク東海HPによると、デザインは公募だったらしいですね。また、期間ごとに種類が用意されていたようです。車内の様子関東在住の者にとって、滅多に乗ることができない117系。車内の様子も撮っておきました・・・テツばっかりです・・・。豊川駅にて クハ117-30豊川駅にて 119系との並び私が乗ったのは3号車の指定席。期待した乗車記念券が貰えるのは往路だけなんですって。なるほど、帰ってきてから東海HPを見たら、そう書いてあった・・・ちなみに往路は東京初発となる「こだま」に乗っても間に合わないんですよね。しかし、117系は揺れます。往路の373系特急車両と比較してはいけないのかも知れないですが、格段に乗り心地が違います。「佐久間レールパーク号」は、豊川に着くと5分も停車します。ここから複線区間なので、特に停車する必要もないと思うのですが・・・途中から線路を共用する名鉄との関係でしょうか?その間に、豊川駅で記念写真。豊川駅にて「佐久間レールパーク号」の回送の写真を東海道線で撮ろうということになり、豊川駅から後続の119系単行に乗り換えます。そんなことで、発車後部も撮っておきました。この日の編成は、豊橋方3両が1次車で、中部天竜方が2次車(100番代)のガチャ編成でした。下地駅にて名鉄との併用区間である下地駅で下車。豊橋で折り返してくる回送を狙います。往路は名古屋発なのに、なんで返しは豊橋止まりなんでしょうね?撮影場所探しで移動している時間はないと推測し、駅撮りとしました。カブられずにとることができました。その後も同館の最終閉館まで運転され続け、最後の頃には復刻塗装の117系も使用されました。
2024.08.22
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キハ58系新潟色:団体列車(上越線)国鉄時代、非電化区間ばかりか電化区間においても活躍した急行形気動車、キハ58系。急行形気動車の集大成のような存在でしたが、急行列車と言うカテゴリですら消滅してしまうとは思いませんでした。急行列車の衰退と共に、普通列車へとその用途を変えていった晩年、電化の特性によらずどこでも走ることが出来る車両として、団体列車や臨時列車にも重用されたキハ58系。本来は気動車が走る必要性のない上越線で、1度だけその姿をキャッチしたことがありました。平成5年8月22日 水上~上牧間にてEF55の写真を撮るために構えていたところに、背後からやって来たキハ58系団体列車。ノーマークだったので三脚に据えた中判カメラは向きを変えることができず、後追いで撮影したものです。先頭の方の側面が見えませんが、確かオール新潟色だったと記憶しています。当時は老朽化したキハ20系や30系が淘汰され、急行列車の廃止で余剰となったキハ58系が普通列車用として非電化区間で活躍していました。しかし、上越線の枝線では非電化区間が存在しないため、このような形で入線してくることは、当時としてもあまり見ることが無かったと思います。
2024.08.21
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165系:臨時快速「軽井沢リレー」もう直ぐ廃止となる碓氷峠の列車たちを写そうと、なにかと言えばついでに通った頃です。165系は既に定期運用からほとんど離脱しており、首都圏ではこの波動用の新前橋区に所属するいわゆるモントレー色に塗られた車両くらいしか残っていなかったように記憶しています。もしかしたら、三鷹区辺りにも少量が居たかもしれません。平成9年8月20日 横川~軽井沢間にて 臨時快速「軽井沢リレー」今でこそこのモントレー色も鮮やかでキレイな色だな・・・と思えるのですが、当時は「なんてことしやがる!」くらいしか思っていませんでしたし、白熱灯からシールドビーム化、さらにはステンレス仮面へと化けてしまい、とても写真に撮ってやりたい車両ではなかったんですね。だから、修学旅行臨「かながわ」や各種快速列車に使用されていた頃、これ以外の列車は全く撮ったことがありませんでした。碓氷峠廃止が告知され、夏休みにこのモントレー色の臨時が走るということで、それだけのために行ったようです。この写真では、勾配がキツ過ぎて後部が見えず、肝心のEF63は写せませんでした。こちらは後部を別のカメラで撮影したものです。最後部はEF634が後押ししています。碓氷峠を行くEF63の風景はもちろん貴重な姿になってしまいましたが、この写真で取り上げたのはあくまでも165系モントレー色です。当時はそれなりに臨時運用がありましたが、やはりこうした塗色変更車に拒絶反応を起こしていた頃でしたので、私的にはそう言った意味でモントレー色の貴重な画像となっています。
2024.08.20
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203系:常磐緩行線国鉄203系は、昭和57年度より常磐緩行線に使用されていた103系1000番代を置き換えるために導入された、営団地下鉄千代田線乗り入れ用の車両です。後進のE233系2000番代への置換えが平成21年度から始まり、平成23年9月26日をもってすべてが撤退しました。殆どは廃車となってしまいましたが、一部の車両はインドネシアに譲渡され使用されています。アーカイブしたつもりがすっかり忘れていたようなので、ここでまとめをしておきたいと思います。平成19年7月30日 新松戸駅にて マト51編成初めて撮った203系はトップナンバー編成でした。それまでまるで興味が無かったので撮影をしたことはありませんでしたが、新車の登場に伴い、やっと危機感が出てきたようです。平成19年7月30日 我孫子駅にて マト66編成60番台の編成は203系100番代です。外観ではあまり差がありませんが、台車がボルスタレスに変更されています。平成20年1月5日 我孫子駅にて マト58編成平成20年1月6日 金町駅にて マト51編成平成20年4月12日 金町駅にて クハ202-1 ナンバートップナンバー編成では側面形式表示がプレートとなっており、数字の色も緑色になっていることを知り、初めて記録することができました。マト52編成以降は黒字で車体に直接表記されています。平成20年9月22日 新松戸駅にて マト52編成平成20年9月22日 亀有駅にて マト64編成平成20年9月22日 亀有駅にて マト51編成平成20年11月22日 亀有駅にて マト52編成平成21年12月5日 松戸~金町間にて マト52編成こうして並べてみても、やはりついで撮影感が強く、あまり良い感じに撮れていませんでしたね。経年も浅いため、稀少感もなく、まったく撮影する気が起きない車両でした。しかし、この車両は国鉄時代に誕生し、導入当初はJNRマークが表示されており、その姿を捉えていなかったのは今となっては残念に思います。207系900番台:常磐緩行線
2024.08.19
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キハ58 秋田支社色:奥羽本線 普通列車JRになって、各地の普通列車は旧国鉄車を引き継ぎながらも、地域ごとに特徴のある塗装が施されるようになりました。そんな中、独身時代のほぼ最後の頃に撮影に出た際、あまり撮ることの無かった普通列車を撮った写真です。平成4年8月18日 八郎潟~鯉川間にて撮った時は良く知らなかったのですが、右側は秋田支社色と呼ばれるらしいですね。当時としても原色以外は邪道視していましたから、原色側を中心にとっているわけですが、今となってはキハ58自体が全廃になってしまったわけで、きちんと撮っていなかったのは非常に残念なことです。国鉄末期、「塗装合理化」称してタラコ色が全国に増殖し、グリーン帯まで消してしまいました。新色登場当時は、「民営化されて借金がチャラになったわけじゃないんだから・・・」と、元国鉄職員の私は憤慨していました。
2024.08.18
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EF651000番台牽引:12系お座敷客車「オク座」過去ログでいくつかご紹介していますが、尾久客車区に所属していた12系お座敷客車で、通称オク座の写真です。昭和62年12月29日 東鷲宮~栗橋間にて既に民営化を迎えた最初の年末年始。この時期にお座敷列車が団体で設定されるのは珍しいのですが、これも東北新幹線が開業したことにより線路容量に余力が出てきたために可能になったものと思われます。オク座は12系登場当初に愛称を持っていませんでしたが、いつの間にか「なごやか」という愛称が付くようになっていました。また、外観は地味な12系客車の標準塗装でしたが、晩年には写真のように斜めのラインが片側に2本ずつ入るようになっています。この辺りは185系による斬新なデザインの定着が影響していると思われます。牽引機はEF65PFの初期車ですが、ナンバーが反射してしまって残念ながら判別が出来ません。蕨駅発 12系お座敷列車:「蕨市民号」EF651049牽引 12系オク座:団体列車「与野市民号」ED78牽引:12系お座敷客車「オク座」
2024.08.17
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185系OM車:特急「あかぎ」(その2)前回の(その1)に続き、185系OM車のスカート交換後からチョイスしてみます。平成22年10月16日 「あかぎ4号」平成22年10月17日 「あかぎ6号」平成22年12月25日 「あかぎ4号」平成23年1月9日 「あかぎ4号」平成22年7月頃?から徐々にスカートがゴツイものに変更され、ちょっと厳つい表情になりました。この頃はまだ14両編成が主流でした。平成23年3月6日 迂回「あかぎ4号」浦和駅の高架化工事により、OM車14連が貨物線を走ることが時としてありました。通常ではこのような設定は無く、極めて異例と言えます。平成24年4月8日 「あかぎ4号」平成24年4月29日 「あかぎ4号」平成24年6月2日 「あかぎ6号」平成25年3月24日 「あかぎ6号」平成25年12月8日 「あかぎ4号」平成24年3月のダイヤ改正において、特急「水上」が廃止となり、これに合わせて1往復を除いて7両の短編成化が実施されてしまいました。平成24年6月15日 「あかぎ4号」平日朝上りの「あかぎ4号」は14連のまま存置しています。しかし、折り返しとなる「草津1号」が7両編成となるため、「あかぎ」14連の入庫回送、7連「草津」の送り込み回送をそれぞれ続行するという、大変非効率な運用が組まれました。※休日は「あかぎ4号」が7連となるため、折り返し「草津1号」にそのまま充当され、回送列車は設定されません。平成25年3月のダイヤ改正において、田町車両センターの廃止によって異動してきた185系も加わり、非常に変化に富んだ「あかぎ」が見られるようになりました。これについては別途アーカイブいたします。
2024.08.16
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Fw:三つの名前を持つバス停本記事は → 三つの名前を持つバス停
2024.08.15
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郵便・荷物合造車:クモユニ143身延色(長岡運転所時代)国鉄型新性能電車で初めて1M方式の電動車が誕生したのは昭和42年と意外に古く、しかしその車両はクモユ141で郵政省が所有する私有電車でした。それから遅れるな戦前型旧型電車と淘汰が最終期を迎え、それまでの輸送力を吊掛車に頼っていた飯田線や身延線にも新性能の荷物車を導入する必要に迫られましたが、143系では荷物車も郵便車も専用の仕様となっていたため、2両連結では明らかに過剰な輸送力であり、さらに有効長の短いローカル線への導入は考えられなかったことと思われます。そこで、いずれも1M方式の郵便・荷物合造車が新形式で誕生することとなり、飯田線にはクモユニ147、身延線にはクモユニ143が導入されました。飯田線のクモユニ147は車体は新造としながらも足回りには101系の機器を流用したのに対し、身延線のクモユニ143は完全な新製車となっています。それまでのクモユ・クモユニの新製車は湘南色のみとなっていましたが、身延線に導入されたクモユニ143は、同じく新性能化された115系(2600番台含む)と同じく専用の身延カラー(ワインレッド)という初めてのカラーリングで異彩を放っていました。昭和61年10月頃 クモニ143+クモユニ143身延色 上越線荷物電車新性能化で活躍を始めたばかりのクモユニ143でしたが、身延線における郵便荷物輸送が廃止となり、わずか4年弱のうちにあっさりと身延線から撤退することになります。しかし、車齢が浅かったクモユニ143は4両とも長岡運転所に転属し、高崎線・上越線の荷物列車に使用されることになりました。4両のうちの3両は早速湘南色に塗り替えられてしまったようですが、1両だけ身延線カラーが存続し、1回だけですが地元でキャッチすることが出来ました。少しブレてしまっていますが、ナンバーはクモユニ143-1と読み取ることができます。その後も狙おうと思ったのですが、わずか1か月ほどで郵便輸送・荷物輸送のいずれもが全国的に廃止となってしまい、地元で見ることは無くなってしまいました。わずか1年でお役御免となった長岡のクモユニ143ですが、荷物輸送の全廃後も残った房総地区の新聞輸送に活用されることになります。しばらくはその姿は見られたようですが、平成8年のダイヤ改正で運用の合理化が図られることになり、クモユニ143は長野・小山・東京総合などに散っていきました。写真のクモユニ143-1は長野において活躍を続けていたのは喜ばしい限りです。惜しむらくは、私が最後に訪れた身延線では115系に置き換えが進んでいながらもクモハユニ44が活躍を続けており、誕生直後の姿を捉えられなかったことでしょうか。国鉄 荷物電車:クモニ83国鉄 荷物・郵便合造電車:クモユニ74(スカ色)国鉄 荷物・郵便合造電車:クモユニ74115系:身延線 ワインレッド色
2024.08.15
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キハ40系・キハ56系:札沼線(石狩川橋梁)札沼線は、札幌から函館本線の滝川に程近い新十津川を結ぶ路線です。正式には、函館本線の分岐点である「桑園」が始点になり、その昔、留萌本線の「石狩沼田」に接していましたが、新十津川~石狩沼田間は廃止となり、バスに切替えとなりました。「札沼線」の名前も「札幌」「沼田」の頭文字に由来するものです。比較的に距離の長いローカル線でしたが、札幌近郊区間として大学誘致や開発が進み、民営化後には新駅の設置、高架化、複線化、電化と、目まぐるしく発展しました。一方、北海道医療大学駅以北については開発から外れ、旧態然のままのローカル線として細々と営業されており、令和元年5月ゴールデンウィークを最後にとうとう廃止されてしまいました。北海道には11回も渡道していますが、札沼線に関しては1度も乗車したことがありません。しかし、北海道へクルマを持って渡道したことが2度あり、そのうち1度だけ札沼線の写真を撮ったことがありました。※平成2年9月6日 札沼線 釜谷臼~石狩太美間にて。北海道で一番長い橋梁として有名な石狩川橋梁です。ローカル然とした壮大な橋梁で、北海道の雄大な雰囲気が良いですね。石狩川橋梁は、平成13年に新橋梁に切替となり、全区間がトラス橋になってしまったようです。将来的な電化を見据えた工事であったようで、トラスも架線を設置する前提で背の高い構造になっているように見えます。そして、実際に電化されて、新型の電車が走るようになったのも周知のとおりです。民営化間もないこの頃は、未だキハ141系なども誕生しておりらず、急行形のキハ56系やキハ40系といった国鉄型の気動車ばかりでした。平成5年の渡道を最後に北海道へは行っていないため、沿線の発展振りは想像も付きませんが、30年の間にこの雄大な風景も別の風景になってしまったようです。
2024.08.14
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福島交通飯坂線:モハ53191度だけ訪れたことのある「福島交通」です。以前から「福島交通」には興味を持っていたのですが、行き先が飯坂温泉という貧乏鉄には縁遠い(宿泊料金が高い)ところでもあり、まず近寄ることのない路線でした。東北新幹線の開業を目前に控え、特急「やまびこ」の最期の走りを撮影に行ったとき、当時国鉄に就職して給料をもらうようにもなっていたので、1泊だけ泊まることになりました。そして、やっと同線に乗ることが実現したのでした。撮影が終わった時間も夕方ですし、翌朝の出発も早かったので、同線をゆっくり撮影するようなことはできませんでしたし、路線延長も短く、ロケーションもあまり感動できるところはなかったので、結局福島駅で撮ったこの1枚だけになってしまいました。昭和60年6月21日 福島交通 福島駅にて 折返し待機中のモハ5319車輌は、日本車輌製の標準型電車のモハ5319です。同僚の5318と手を組み、2両編成で往復していました。現在ではこのような私鉄車輌に興味を持っているのですが、当時は国鉄型車輌しか興味を持っていなくて、あまり積極的にローカル私鉄の写真を撮ったりとか、乗ったりとかしていませんでした。そういった意味では、たった1枚の写真ですが、私の活動記録としては貴重なものになっています。その後調査して判ったのですが、東急7000系に変わった後、栗原電鉄(→くりはら田園鉄道)に移籍したらしいですね。その後非電化路線に切り替わり、路線そのものも廃止されてしまいましたが・・・。
2024.08.13
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