見た目が100%の真実



叶恭子が向かって右、叶美香が左に座っている。
ソファーの真ん中に隙間が空いているのである。

実は叶美香は少し傾いて座っているのだ。

背筋が座骨から頭頂まで一直線に、きれいに楽に座っている叶恭子に対し、
それに気圧されているというか、息切れしているというか、
お腹が凹んで肩とあごが出て、仕草も落ち着きがない。
まるでとなりの人にびびっているようだ。

大変美しい人なのだが、ものの見方、感じ方、
しかしてごくごく普通のお姉さんなのではないか。

メディアでもよく言っているとおり叶恭子は別格!だったのだ。
とすると叶恭子は「ゴージャス」。叶美香は「ゴージャスが仕事」?

私にはそう見える。

本当はそうでないかも知れない。家に帰れば別人かも知れない。
でも彼女らはショーだけで私に接し、その後に解説を加えられない。
今日がすべてである。見た目がすべてである。私にとって、
叶恭子は頭のいい、真剣な誇り高い人で、
叶美香はたまには疲れる普通のお姉さんである。



ひるがえって、私たちは見た目が重要な職業ではない。
しかもよく知る人たちに囲まれて
見た目だけでなく、考え方やら内面やら、
把握しあい理解し合いやっているつもりだ。

でもどうだろう。見た目がすべてだと思ったのだ。

見た目、おしゃれだとする。
「実はずぼらなの」
いや、別におしゃれで納得です。

見た目、猫背だとする。
「ホントはどうどうとした性格なの!」
いえ、アナタ凹んでますよ。

そして演技だったらばれるのである。
「今の仕事、張りきってやってるわ」
おしゃれはしていても猫背だし、実は凹んでるね。

「人は見た目がすべてではない」という一見逆の意味のことばは
見た目より中身が重要とか、色眼鏡をいさめる時に使うけど
本当は演技したってばれるんだ、という意味な気がしてきた。

いいわけめいた演技をせず生きよ。
真剣に生きよ。

真剣だ、本当だ、ということだけが「見た目」となり、
演技は「すべてではない方の見た目」として見破られるんだ。
そんなときの「中身」は自尊心が落ちに落ちて、「すべてでないはず」の見た目頼みをするしかない悪循環だ。

重要なはずの「中身」が「見た目」に完璧に出るということなんだ。











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