椿荘日記

椿荘日記

魔の山(マンとマーラー~作家と作曲家)




『単純な一青年が、夏のさかりに、生まれ故郷のハンブルクからグラウビュンデン州のダヴォス・プラッツに向かって旅だった。ある人を訪ねて三週間の予定の旅であった。・・・』

この書き出しで始まる、トーマス・マン作「魔の山」を手に、スイスに旅だったのは今を去ること、7年前、95年の夏である。
当時夫の仕事でイギリスに滞在していた私は、五年に渡る任期の終了による帰国を前に、日本から我々夫婦を訪ねてきた実父を伴い、夫の念願だった「モントルー・ジャズ・フェステイバル」鑑賞と、父の長年の夢だったモン・ブラン登山を果たす為、スイスにやって来たのだった。

『・・・ひとまずアルプスの小駅ラントクアルトまで行くだけで、そこでまた汽車をのりかえなくてはならない。吹きさらしのあまり魅力のない場所でずいぶん待たされてから今度は狭軌の汽車にのるのだが・・・』

音楽と喧騒に満ちた一夜を過ごし、翌朝私達は、モントルーを起点とする鉄道(パノラマ特急で有名)に乗り、ほぼ1時間掛けてローザンヌ経由マルテイーニ駅から登山鉄道に乗りかえる。ここからがアルプスらしい景色の始まりである。

『・・・こんどの旅のほんとうに冒険的な部分がはじまり、急勾配のねばりづよいのぼりになって、それがいつおわるともみえない。ラントアルクト駅は比較的まだ中くらいの高さにあって、この駅からいよいよ荒削りの峨々たる岩道を命がけでアルプスのふところへのぼっていくのである。』

一人の「単純な青年」ハンス・カストルプが病気療養中の従兄を見舞う為、ダヴォスにある療養ホテル「ベルクホーフ」を訪れ、そこで様々な人物に出会い、感化され、7年間のあいだ変化していく(死に対する親愛感により、深く捕らえられていく)物語は、マンが療養中の妻カーチャを見舞い、滞在した時の経験から生まれた物語である。
このドイツ文学における教養小説のカリカチュア(陰画)とも言い得る小説は、ある白紙に近いブルジョワ青年の、高山にある療養所(魔の山)で様々な人間のサンプル(愚かな病人達、人文学者、ニヒリスト、感情と生命力を尊ぶ「人物」等々)と触れ合い、そしてついにはベルクホーフのヴェーヌスであるロシア婦人の虜となって「愛と冒険(肉体と精神、生と死に措ける)」に満ちた生活を送り、第一次大戦の砲火で眠りから覚め、砲煙に消えるまでの七年余りを、マンの人間観、世界観、時間について、などの考察を下りこみ、巧みな筆致で書き上げられていく大長編である。

『・・・窓外を見ると、汽車はせまい峡谷をうねるように走っていた。前方の車両や、苦しそうに褐色と緑色と黒色煙の塊を吐いている機関車が見え・・・』

背の高い針葉樹の間の鈍色の空の所々に、濃い青空が見える。
既に登坂となった列車は、そう多くない乗客を乗せて、ガタガタとゆれながら、アルプスの斜面を上がっていく。幼い息子が英語と日本語交じりで、頻りに何か夫と話している。父は黙って迫ってくる針葉樹の暗い緑色を見つめていた。

「魔の山」を膝に載せ、見透かすことの出来ない深い森をぼんやりと眺めているとグスタフ・マーラーの交響曲第九番の一楽章が脳裏を掠める。
ヨーロッパに住むようになって、この複雑な曲が別の局面を見せはじめるようになった。それは風土が与える、色合いということである。日本にいる頃には想像しえなかった、変わりやすく、厳しい気候。広い平野には晴天と雨天とが混在する。突出する山地、覆い被さってくるような森。刻み込まれたかのような、蛇体のごとき川など、日本とは違う、厳しい表情の自然は過酷な人生観や、姿勢を要求するかのようだ。

この自然環境を毎夏求め、シーズンである秋から春にかけてを、自ら「兵舎」と称した歌劇場の、舞台監督という激務に身を挺し、夏になると作曲家マーラーに立ち戻った彼は、このアルプスの懐であの素晴らしい交響曲群を、凄まじい集中力と共に次々と生み出していくのである。
マンとマーラー。格別の親交はなかったが、両雄とも当時のウィーン文化圏及びドイツ語圏に措いて既に著名な人物で、10歳年少のマンは個人的にも作家としても、指揮者として作曲家として異彩を放つ人物としてマーラーに関心を抱いていいたらしく、彼の自作の公演など何度も足を運び、マンの代表的中篇「ベニスに死す」の主人公、アッシェンバッハ教授〈著名なヴィスコンテイの映画では、原作の「作家」から「音楽家」に変えられている)の性格設定に用いるなど、その注目度が伺われる。

*この項続く




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