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| 「絶対、助産婦になるからね。」 そうお腹の中の赤ちゃんに約束し、Sは手術台にあがった。 そして、掻爬法、つまり人工妊娠中絶のための手術を受けた。 Sはそもそも助産婦になる気なんて、さらさらなかった。看護婦になる気すらなかった。 高校時代、目指していたのは某国立大学。バイオテクノロジーの研究をしたいと考えて、農学部を志望していた。 でも、その大学を選んだ決め手は、名前。それくらい有名で、誰もが「賢い。」と思う程の大学だった。 そして滑り止めとして、同じ大学に付属する医療技術短大看護学科を受験した。 それも、名前のため、ただそれだけの理由だった。 4月、Sは看護学科に進学することになった。 農学部は不合格だった。 もともと経済的理由によって2校しか受験していなかった。 浪人することも考えたが、親が許してはくれなかった。 「まぁ、いっか。」 もともと名前だけで選んだ学校、とりあえず進学してみようと思った。 合わなかったら、来年また農学部を受け直そう、そう思っていた。 とりあえず、で入学した学校だったが、それなりに楽しかった。 1年でやめてもいい、とすら思っていたが気がつけば3回生。卒業の学年になっていた。 病棟での臨床看護実習もはじまり、毎日忙しくしていた。 Sにとって、一番印象に残ったのは母性看護実習での分娩見学だった。 新しい命の誕生に感動した。 はじめて助産婦という職業を意識した。 母性看護自習が終わる頃には、助産婦になろうと決めてしまっていた。 その後も外科看護実習、内科看護実習、小児看護実習と、実習は続いた。 ある日、Sはここしばらく体のだるさの続いていること、吐き気がずっとあることに気付いた。 そして、生理もずいぶん遅れている。 「もしかして妊娠?」 心当たりはあった。 実習の忙しい毎日の中、ヒマな時間を見つけては彼氏に会っていた。 「実習で忙しいから、疲れてるだけ。」 そう思いたかった。 しかし、妊娠検査薬は陽性を示した。 彼氏は「生んでほしい。」と言った。 でも彼氏だって、まだ学生。育てられるわけがない。 自分自身だって、今まで頑張ってきたのに学校をやめるわけにもいかない。 卒業まであと半年もないのに・・・。 結局自分で決めた。 病院に行き、妊娠を確かめた。 そして、中絶のための手続きをした。 手術の日、少し気持ちはゆれていた。 それでも自分で決めたこと、もう逃げることはできないと思った。 「絶対、助産婦になるからね。」 そうお腹の中の赤ちゃんに約束し、Sは手術台にあがった。 翌日からまた実習に行った。 友達にも誰にも話さなかった。 責められることが分かっていたから・・・。 「中絶するような人が助産婦になるの?」 と言われそうな気がしたから・・・。 体はしんどかった。 気持ちだって、まだ全然整理できていなかった。 それでも周りに気付かれないように、必死に頑張った。 家に帰ると、毎日涙があふれてきた。 ある夜、Sは夢を見た。 Sは女の子と遊んでいた。 その女の子は、4、5才くらいだろうか。 女の子に名前を聞くと、「夢だよ。」と答えた。 その日から、『夢ちゃん』はしょっちゅう夢に出てきた。 その夢はいつも見る夢とは違っていた。 いつも見る夢はなんだか一方的で、朝起きると「何だったんだろう?」ということも多い。 しかもすぐに忘れてしまう。 でもその夢は、まるでSと『夢ちゃん』が実際に会っているかのように鮮明で、時間が経っても忘れない。 Sは『夢ちゃん』は、中絶したあの赤ちゃんなのではないかと思うようになった。 心拍が見えるか見えないかくらいで中絶した。 性別も分からないままだった。 でもSはなんとなく女の子のような気がしていた。 理由なんてない。ただなんとなく。 「『夢ちゃん』は何歳なの?」と聞いても、「分からないの。」と『夢ちゃん』は答える。 何度聞いてもそう答える。 でも夢ちゃんは「分からないの。」の後に必ずこう言う。 「でも夢、もうすぐ生まれるんだよ。」 Sは『夢ちゃん』のその言葉の意味が分からなかった。 「やっぱりあの赤ちゃんじゃないのかな。あの子はもう生まれることなんてないし・・・。私達の勝手で・・・。」 Sはあの中絶を忘れることなんてなかった。 実習中は、勉強に集中するためなるべく忘れようと思った。 周りにも気付かれないように。 でもやっぱりふと思い出してしまう。 そして、自分を責めてしまう。 助産婦になることが、あの赤ちゃんにせめてもの償いになるような気がしていた。 Sは実習の忙しい中であったが、数カ月後にせまる助産婦学校受験のため必死に勉強をした。 年が明け、実習は終わり、卒業も決まった。 Sは最後の追い込み、受験勉強を頑張っていた。 そして、夢の中では毎日のように『夢ちゃん』と遊んでいた。 勉強の成果もあり、Sは同じ医療技術短大の助産学科に合格した。 合格発表の日、Sは涙を止めることができなかった。 あの赤ちゃんにひとつ償いができたような気がした。 助産学科での実習は、看護学科以上につらくしんどいものだった。 それでもSは頑張った。 その間も、『夢ちゃん』はたびたび夢に出てきた。 初めての分娩介助の日、Sは分娩につきながら、泣いた。 生んであげられなかった赤ちゃんを思うと、涙が止まらなくなってしまった。 それでも赤ちゃんとの約束を守るために、 それがせめてもの償いになると信じて、Sは頑張った。 夢の中では『夢ちゃん』が励ましてくれたし、頑張ることができた。 そして、無事に卒業、国家試験に合格することができた。 Sは『夢ちゃん』に報告したいと思った。 しかし、その日から『夢ちゃん』が夢に出てくることはなかった。 どれだけ寝ても、何日経っても、出てきてはくれなかった。 「やっぱり『夢ちゃん』はあの赤ちゃんだったのかもしれない。 約束を達成できるように、私が負けてしまわないように見張っていてくれていたのかもしれない。」 Sはそう思った。 「『夢ちゃん』に『おめでとう』って言ってもらえなかった。こんなことじゃ償いにはならないのかな。」 Sはどうしたらいいか、分からなくなった。 Sは、初めて友人たちにこれまでのことを話した。責められるのを覚悟して。 ところが、友人たちは責めるどころか、 「しんどかったね。」「ここまでよく頑張ったね。」「赤ちゃんもきっと『おめでとう』って言ってくれるよ。」「これからも頑張ろうね。」 とSに優しい言葉をかけてくれた。 そして一緒に泣いてくれた。 Sは今、助産婦として働いている。 そして、性教育にも力を入れている。 自分のように悲しい思いをする人が少しでも減るように、そしてせっかく灯った命の火を消してしまわないように・・・。 今でも、Sはいつか『夢ちゃん』に会えると信じている。 それは夢の中かもしれない。それとも、実際に会えるのかもしれない。 今度『夢ちゃん』に会う頃には一人前の助産婦になっていたい。 そんな思いが、今助産婦として働くSを支えている。 |

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