Calmi Cuori Appassionati

Calmi Cuori Appassionati

PR

Calendar

Archives

November , 2024
October , 2024
September , 2024
August , 2024
July , 2024

Favorite Blog

みんなを尊重する生… アイアムホリケンさん
じぶんeco kinoetsuさん
to DREAM the imppos… askakunさん
ビー.エイ.コーチ ビー.エイ.コーチさん

Comments

kinoetsu @ 2ヵ月経ってどう? お久しぶりー。 これ、反応しててくれた…
マイクロダイエット@ 詩やな~ 日記全てに詩の香り。 詩人ですね~ ま…
Le Genese @ Re:疲れないけど、たまにさみしいよね。(07/13)  無駄に考えて、無駄に疲れていたな。 …
kinoetsu @ 疲れないけど、たまにさみしいよね。 何かわかる気がする。すごく。 あたし…
January 9, 2005
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
東京在住の、いや、そうでなくでも普通のサラリーマンなら
まだまだ眠りを貪っている時間。

明るくてひんやりした、いかにも冬らしい陽射しの中に佇むお寺へ。
 (少々遅刻…ごめんなさい)

鎌倉五山のひとつ、円覚寺。
日本史好き、寺社仏閣好きの自分にはたまらない。

こんなに早く、こんなに寒い朝に、僧侶の話を聞きに来るなんて(しかも鎌倉まで)
私たちもなかなか物好き…いやいや、とっても奇特だ。
などと自分で思うあたりが、既に生臭い。


本当なら相当広いであろう室内に、スペースはほとんど残っていなかった。
もうぎっしり埋まっている。
その人いきれをもってしても、ちっとも暖まっていない。
この高い天井の下、全く暖まる気配がない。

勝手のわかっていない私たちが、何とか空いている場所に座ろうとすると
そこは通路だから、と常連(?)の方々に声をかけられる。

物見遊山で来たつもりはさらさらないのだが、
日曜説教会なるものが、生活の一部になっている人たちに混じろうとしたこの時
私たちは、さながら観光客のようだった。

で、やっと管主が入ってくる。穏やかそうな顔。

渡された「修養聖典」を開き、後を追って一斉に唱える。

暗証するどころか、節回しといい声の大きさといい
僧侶顔負けの読みっぷりだったので、隣で驚く。

どこを読んでいるのか、時々わからなくなったりもしながらついていく。
仏教徒ではないが、何にせよ厳かでぴんと張った空気が好きだ。

終わったあと、「そこは通路だから」と言われた訳を知る。

おもむろに一同が90度向きを変えて座りなおす。
私たちは管主の左手、最前列になってしまった。

  そろそろ足がきつい。

法話が始まった。

失礼ながら、円覚寺の管主様は大変お話がお上手であった。
飽きさせず聞かせる、聞き手を話に引き込む、ということをよく心得ていらっしゃる。
仏様のお話、みたいなことはまるで出てこない。

昨年はこんな年だった、こんなことがあった、そのときのマスコミの報道の仕方はこうだったが
その陰で私たちはこんな部分に思いが至っていないのではないか、
年賀状や山手線に見る最近のマナー、家族事情などなど。

  足がきつい。これだから最近の若い者は…と言われても、やっぱり。


少子化についても触れられる。
最近は自分たちの生活を最優先にする人が増えた、それが一因ではないか、と。

管主様の正面に座り、時折肯いていたおばさん、おじさん、
そしておばあさんおじいさんたちが、ちらりちらりとこちらに視線を投げる。

  いや、私たちは未婚ですから。関係ないですから。
  あまり非難がましく見ないで下さい!
  それに、子供を大学に入れて卒業させるまでいくらかかると思います?
  義務教育だけでも生きていけた頃とは違うんですよ!

などと、誰に代わってか、心の中で言い訳をする。結婚してもいないのに。


・・・
さて、円覚寺といえば臨済宗。
臨済宗といえば禅宗。
そのまま坐禅会へ。

胡坐、じゃなくて坐禅を組んで、手を前で組む。
雑念を振り払うため、アタマの中で数を数えると良いとのご指示。


TVで見るように、「そこ、気が緩んどる!バシッ!!」というわけではないらしい。
並んで坐禅を組んだ人たちの前を、静かに僧侶が歩いてくる。
希望する人のみ、手を合わせて頭を下げるのだそうで。

一人目が、頭を下げた。

   バシッバシッ!バシッバシッ!

呼吸の音と、誰かのおなかが鳴るだけが響く室内に、
空気を割ってしまうようなその激しい音。


一人目の音が聞こえてきた時点で、すっかり恐れおののいてしまう。

ヘタレな私は、様子見に徹してしまった。

誰かが頭を下げる。僧侶は立ち止まり、その人の背中を押してもっと下げる。
で、例の棒(ケイサク、というらしいが漢字が不明)で、右肩、左肩と叩くわけだ。
それぞれ2回ずつ、計4回。


僧侶は、アタマの中で数を数えることすら満足に出来ない
雑念まみれの私の前を通過。やっぱり止まって頂く勇気が出なかった。

  いや、次こそは!絶対!

…と思っていたら、1回目が終了。小休憩に入る。


2回目が始まる。まだ若い僧侶は言った。
「次は皆さんのところを回りませんから、リラックスして坐禅を組んで下さい」

  えっ。来ないの?


逃した魚は実に大きい。
この期に及んでまだ生臭いのか、という話だけれど。


・・・
一つ分かったことがある。

  ヘタレな人間は、
  己のヘタレさに対して喝を入れてもらう機会すら失っているのだ。
  そのヘタレさが故に、日々、往々にして。


それに気づいたこと、それ自体を「喝」としよう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  January 16, 2005 11:09:21 AM
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: