宇摩説一口講話 59 倭人伝 三国志に"指南車"
前回は、史学者が"建中校尉"は不詳と怠慢解説など、文書以外の知識の欠落を書いた。また、皇帝が卑弥呼に特別の贈物をした理由は学者の「気前がいい」からではない事も書いた。
この件でも、史学者の恥ずかしい常識欠如を説明した。外交は自国最優先で行うのであり、今も昔も変らない。ベトナムでは、中国使者を3ヶ月も迂回・迷路を案内した記録がある。
外交は国の存亡を掛けた行為なのである。そして、皇帝は贈物の目録を渡して、翌年、建中校尉と言う調査員派遣の手を打ったのである。
なお、改めて倭人伝を読むと、倭国の幅広く、非常に詳細な報告であり、贈物を単に届ける人物ではなく、テイシュンが調査員だった事が明確である。
皇帝の多くの贈物は、翌年仕上がって出発している。皇帝は"不老長寿の薬""礼節の国"や領土にも興味を持ったのである。そして、調査員の梯儁(テイシュン)がやってくる。
このテイシュンの訪日は、宇摩郡の無形文化財"船神輿歌"にのこっている。概要はこれまでに何度書いたが、詳細はまだ書いてない。テイシュンは楽隊を連れて訪日した。
この話の前に、広い中国を駆け回った三国志の時代には"指南車"があった。つまり、中国に磁石があったのだ。調査員が距離や方向を間違うはずが無い。
磁石を持った調査員のテイシュンの報告が「方向が間違っている」「距離が間違い」などと、勝手に変更するこれまで出された多くの諸説は九州説・近畿説を含め、全て間違いである。
調査員のテイシュンが目視して、距離を間違える事は無い。間違うようでは調査員の資格は無いだろう。つまり、距離も間違いは無いと考えられる。
ところが、倭人伝は、行程の記述が後半変化する。距離に変って、日数表示になるのだ。この辺りから、卑弥呼の支持による迷路が始ったのである。
これは目視が出来なくなった。つまり、迷彩・迷路でジグザグ行程で到着地を教えてもらえなくなり、到着地から、出発地が見えない行程である。このために、諸説が生まれた。
宇摩説の行程の詳細は、フォルダ"卑弥呼の謎を解く"に書いているので、ここでは概要だけ書いている。詳しく知りたい人は左の欄から「卑弥呼の謎を解く」で読まれたい。
<一口講話、59>
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