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今回の話はあくまで軽い雑談としてお読みください。麻生総理が、少し前に、「医者には社会的常識のない人が多い」と発言した。その趣旨や文脈はともかく(親族が地方で病院を経営していて、病院経営の大変さを言ったものらしいのですが)、一般論として「医者は非常識だ」と言ったととられても仕方がない。医師会は、私が思っていた以上の猛反発をしました。日本医師会の会長が、首相官邸に乗り込んで抗議したとか。私は最初に麻生総理のこの発言を聞いたとき、医師会なら笑い飛ばすかな、とも思っていたのです。たとえば、私たち弁護士の業界に関していうと、社会的常識のない人の割合が確かに多い。それはどうしてかと言うと、一昔前の司法試験が異常に難しくて、それに受かることができるのは、よほどの秀才か、社会的常識を身につける機会がないくらいに勉強した人だけだったからです。法律という専門的知識を身につけたから、その世界では生きていけるけど、それ以外の世界では通用しないであろう人も多い(例 横柄である、他人の話をきちんと聞けない、書面の締切りを守らない、客の金を横領する、脱税して国外逃亡する、つまらないブログを日々書いている等々)。医師の世界も、似たような部分があるように思う。弁護士や医師に限らず、プロの世界は、ある程度そういうものだと思います。そういう世界の人々は、社会的常識ではなく、自身の専門的知識や職能を頼みにして生きている。だから、個人レベルでは「常識がない」と言われても、「だから何だ?」と笑い飛ばすことができる。ですから、今回の医師会の猛反発、これはまさに「政治」なのだろうなと思います。すなわち、一国の総理が、医師一般を非難したかのような発言をした以上、医師の利益団体でもある医師会としては抗議せざるをえない。そういう世論ができてしまうと、今後、医師の利益や立場に配慮しない法律や制度ができてしまうことになりかねない。そしてもう一つ。最近マスコミが指摘する「産科医のたらい回し問題」などのように、医師が批判されることも多い。今回の医師会会長の抗議は、そういう風潮に対する、「権力者やマスコミが現場の医師を不用意に批判するなら医師会が黙っていないぞ」という意思表明も含まれているのでしょう。医師に対する批判を封ずる意図であれば、ちょっと恐ろしい思いがするのですが、同時に、医師会という利益団体の政治力に感心せざるをえません。加えて、政界や財界と共同歩調を取ることが多い日本弁護士連合会のトップの姿勢と比べてみても、そのことを強く感じた次第です。
2008/11/26
人それぞれ、いろんな主義・信条をお持ちだと思いますが、私の信条の一つとして、「決して他人に愚痴を言わない」というのがあります。諸々の不平不満に対し、他人に愚痴を言ったところで決して解決しないし、聞いている人の気持ちまで萎えさせてしまうからです。酒場で同僚や部下や店主にいろいろ愚痴を言っている人を見かけたりしますが、ああいう手合いとは決してお近づきになりたいとは思いません。と、そこまで言っておきながら、愚痴ってみます。最近、この楽天ブログが非常に使いにくいのです。これは少し前から何度か書いていますが、ここで女性を被害者とした犯罪について検討しようとして、「ごうかん」と漢字で書くと、「わいせつ、公序良俗に反するキーワードが含まれています」と赤文字で警告が出て、文章をアップロードできない。「強いて姦淫する(しいてかんいんする)行為」なら書けるのですが、長くなるので仕方なく「強かん」と一部平仮名で書いています。前回の記事で、ズボンの上から女性を撮影する行為が条例違反で処罰されたという事件を書きました。ここでは、「とうさつ」と漢字で書いたら、またもアップロードできず、他の表現をとりました。「盗み撮る」ならOKなのですが。弁護士のブログである以上、犯罪問題についていろいろ書きたいことはあります。女性を強いて姦淫するような犯人については、そいつを「暴行犯」とか「強かん犯」とかいう締まりのない表現をとるのでなく、きちんと漢字で「ごうかん犯」と表現したいのに、それができない。「とうさつ」も同じく、これを論じようとしても表現自体ができないわけです。一方で、楽天ブログには、出会い系に誘導するサイトや、女性の裸体写真がたくさん掲載された、それこそ「わいせつ、公序良俗違反」じゃないかと思えるサイトが野放し状態です。本当に規制されるべきものが野放しでありながら、「言葉狩り」だけが着実に進んでいく。とても恐ろしいことだし、ブログの利便性も低下しつつあります。私は現在、当ブログを楽天以外のところへ移転しようと計画中であり、いくつかのブログの利便性を検討しています。移転が決まったらここで告知いたしますので、引き続きお付き合いいただければと思います。それまではしばらく、不便ながら楽天ブログにて記事を書きたいと思います。
2008/11/16
休みの日ということで、引き続き、どうでもよいような雑談が続きます。バーと葉巻の話は、実はもっともっと書きたいのですが、それは前回で終了ということで。唐突ですが、私の顔には、傷あとがあります。ちょっと見たところにはわかりませんが、左の下あごの部分に、2センチ程度の傷があるのです。過去にここでもこの話をしたと思いますが、これは小学校の2年生のとき、木から落ちて木の枝か何かでこすって怪我したものです。当時通っていた地元のそろばん塾の「遠足」で、塾の先生と塾生30人ほどで遊園地に行きました。自由行動の時間になって、お小遣いを使いきってしまった私は、ひとり園内の木に登って時間をやり過ごしていて、そこで木から落ちました。自分では気付いていませんでしたが、顔から血が出ているということで、急遽、塾の先生が近くの医院まで、私を背負って駆けつけてくました。休日でしたので急患ということで診てもらって、2、3針ほど縫うことになりました。縫合が終わって先生に背負われて帰ると、塾生仲間が先生の奥様に引率されて、駅前で私の帰りを待っていてくれました(そのため全員が、当初の予定より帰りが大幅に遅れた)。あのときの、恥ずかしくて情けなくて、でも先生や仲間に申し訳ない気持ちは忘れられません。後日、うちの母はそろばん塾に、菓子折りか何か持って平謝りに行ったはずです。このことがきっかけなのかどうかは知りませんが、そのそろばん塾ではその後、遠足に行くことはなくなりました。37歳になった今でも、鏡でこの自分の顔の傷を見るたびに、この傷さえなければ、自分は弁護士などでなくモデルか俳優をしていたのにと思う、というのはもちろん冗談で、この傷を見るたびに、塾の先生に「ご迷惑おかけしました」と、改めてお詫びしたい気持ちで一杯になるのです。何を個人的な思い出話をだらだら書いているかといいますと、最近、何だか違和感を感じる話が多いということを言いたかったのです。こんにゃくゼリーでノドを詰めて死亡した子供がいれば、食べた子供・食べさせた大人の不注意は全く論じられずに、こんにゃくゼリーの製造業者が非難される。学校給食のパンでノドを詰めて死んだ児童がいれば、親は学校に謝罪するでもなく学校の管理責任を問う。人が亡くなったこと自体は極めて気の毒なことではありますが、そこで本当に論じられること、報道されることといえば、議員がゼリーの製造業者をどなりつけたりとか、生徒の親が校長に土下座させたりとか、その次元のことであってよいのか、というのが最近とみに感じることです。
2008/10/26
麻生総理が、毎晩ホテルのバーで飲んでいることについて、一部野党などから批判の声があがっているとか。ここでも少し書きましたが、これらは全く次元の低い批判であって取るに足りない。むしろホテルで散財してもらうほうが、景気回復に少しはつながるでしょう。仕事帰りに、バーに行きたい気持ちもよくわかる気がします。一日中、国会や委員会での論戦、外交案件の処理、陳情の聴取など、分刻みの予定をこなして、それらが終わって1日の最後を過ごす場所が、酔っ払いのオッサンが絡んでくる場末の居酒屋だったりしたら、たまったものではないでしょう。私はホテルのバーにはあまり行きませんが、街なかのバーには仕事帰りにたまに行きます。その日の事件のことや、明日やるべきことなどについて考えているうちに思考がまとまって、緊張も適度にほぐして帰ることができます。だから麻生総理としては、堂々とバーに行ってくれたらよいのですが、上記の批判に対しては「ホテルのバーは意外に安いことをご存じないのでは」と返したらしい。そんなところをフォローしなくてもよいのに、と思ったのですが。では、ホテルのバーで飲んだらどれくらいするか。もちろんホテルにもよるのでしょうけど、一般的には、洋酒やカクテルが1杯1000円から2000円くらいでしょう。チャージとサービス料も1000円前後でしょうか。麻生総理は葉巻をやるらしく、あれもピンキリですが1000数百円です。1時間ほどで2杯飲んで葉巻を1本ふかしたとして、5000円強といったところでしょうか。1時間で5000円。この程度なら、会社のヒラ社員でも、たとえばサウナやマッサージに行って支払うことはあるでしょう。さらに、キャバクラやスナックに行けば、おそろしく不味い水割りを飲まされた末に、1時間で1万円程度取られることはザラにあるはずです。葉巻だって金持ち趣味の象徴のように言われることもありますが、私自身、たまにバーで葉巻を吸いますので、この点も補足して書きます。産経25日朝刊に、麻生総理がホテルでよく嗜むという葉巻が紹介されていましたが、「ホヨー・ド・モントレー」という銘柄のぺティロブストというサイズで1本1300円です。葉巻にしてはリーズナブルな部類のものだと思います。私がたまにバーで嗜む葉巻は、麻生総理よりも高いクラスのものであることが多いです。それでも、1日中タバコを吸っていて、毎日タバコを1箱も2箱も買っている人に比べれば、出費は少ないでしょう。ということで、ホテルのバーが高いか安いかというと、安くはないのだと思う。しかし、それを批判するなら、キャバクラに行ったり毎日タバコを吸ったりしている一般のサラリーマンも同様に批判されなければならない、ということになると思います。取るに足りない野党の批判でしたが、バーと葉巻が好きな者として、休日向けにゆるく書かせていただきました。
2008/10/25
今日の朝刊から。難解な医療用語を見直すべく、わかりやすい言い換えを国立国語研究所が提案したとか。予後とか生検とか浸潤とかが例として挙げられていました(それぞれの意味は省略。たぶん朝刊各紙に出ています)たしかにこれらの用語は、私自身、弁護士になって医療関係の事件に関わるようになってから文献を通じて知ったのであって、そうでなければ知らなかったでしょう。こういった言い換えは、もちろん私たち法律家の世界でも求められています。特に、裁判員制度の施行を控えて、刑事事件についての法廷用語の言い換えが進められている。たとえば、強盗という犯罪は「暴行または脅迫によって反抗を抑圧することによって財物を奪う犯罪」と定義される。強盗犯人が被害者の「反抗を抑圧する」のですが、「反抗」の語が、被害者が何か悪いことをしているイメージになって誤解を招くということで、この表現は裁判員には使わないことにされているとか。(どう言い換えるかという肝心な部分は、流し読みした程度なので忘れました)専門用語にはそれぞれに正確な定義があって、かつ手短に表現できるので、専門家同士の会話には便利なのですが、それを一般の人に使うべきではない。私も依頼者と話すときは、やや正確性に欠けたとしても、用語の意味の重要な部分、つまりポイントを大づかみにできるように言い換えることを心がけています。逆に言えば、一般の人にわかる言い換えができない専門家は、その用語のポイントを本当に理解していないといえます。今日は何だか話が飛び飛びになってしまっていますが、不思議なほどにそういう「言い換え」をしない業界があります。私の偏見かも知れませんが、IT業界の人がそうです。話していると、専門用語やアルファベットの略語がやたら出てくる。かつて、私の「イソ弁」時代に(「イソ弁」も業界用語ですね。独立せず事務所に勤めて給料をもらっている弁護士です)、その事務所のボス(当時70代)と二人で、IT業界の方の相談を聞いていました。その方がやたらと「当社の『デジタルコンテンツ』が…」と口にするのです。その話を一渡り聞き終わったボスがおもむろに、「で、その『デジタル本店』というのは何ですかな」と聞きました。専門用語の言い換えは大切です。
2008/10/22
いつか書こうと思っているうちに時期を逸しましたが、麻生総理の就任に関する話です。この人はご存じの通り、吉田茂元首相の孫であり、名家のお坊ちゃんです。民主党とか、左翼的な政党の人は、「金持ちのお坊ちゃんに庶民の気持ちがわかるのか」「庶民のための政治ができるのか」と、麻生さんの総理就任を批判しています。この手の発言はよく聞かれますが、これらは全く無内容な批判であると思っています。この手の批判を行う人に対しては、全く同じ批判が返されて然るべきです。すなわち、「ならば庶民に金持ちの気持ちがわかるのか」と。世の金持ちの人は、庶民が知りえないような、責任や苦労や、諸々の重いものを抱えていると思います。そういう金持ちの気持ちがわからない庶民出身の政治家が、金持ちに重税を課し、金持ちがこの国から出ていったとしたら、高い税金を払う人がいなくなって、国の財政はますます悪化します。そしてそれは結局、庶民に跳ね返ってくるわけです。それにそもそも、「○○の立場になったことがない人は、その○○の問題を扱ってはいけない」という発言自体、論理的には全くおかしいと思われます。私たち法曹に対しても、たとえば、「会社に勤めた経験もない弁護士が、企業法務を扱うことができるのか」とか、「免許も持っていない裁判官が、交通事故の裁判を裁けるのか」といった言葉が向けられることがあります。しかしその論理が通るのなら、「人を殺したことのない裁判官は殺人事件を裁いてはいけない」「風邪をひいたことのない医者は病気の治療をしてはいけない」「子供を産んだことのない男性は産科医になってはいけない」ということになるでしょう。もちろん、企業勤めの経験のある弁護士のほうが、より実感を持って企業法務を理解できるかも知れない。病気一つしない医師よりは、多少は病気もする医師のほうが、患者の気持ちはよくわかるかも知れない。しかしそれはあくまで「気持ち」程度のことであって、その問題を解決するには、その事柄に対する専門的な知識や能力(つまり法律や医学)が必要なのです。政治の世界はよく知りませんが、たぶん高度に専門的な知識や能力や手腕が必要なものと思われます。麻生総理には庶民の気持ちをわかってもらう必要はないのであって、祖父から引き継いだ(かどうかは知りませんが)政治の手腕を発揮してほしいと思っています。
2008/10/11
前回の八百長の話の続きを書こうとしたのですが、まずはこんな話から。たまに人から「弁護士同士で談合することってあるんでしょ?」と聞かれます。たとえば、原告が被告に対して、1000万円払えと請求する裁判をしているとする。原告側弁護士と被告側弁護士が話し合い、間を取って、500万円払うことで話を付ける。原告側弁護士は、「500万取れたから報酬1割よこせ」と言い、被告側弁護士は「500万ねぎったから1割よこせ」と言う。双方の弁護士とも、50万ずつ儲かるというわけです。私でも、五分五分のきわどい勝負で、判決が出ればどちらに転ぶかわからないときであれば、半分くらいの和解を依頼者に勧めることもあるでしょう。そして、相手側の弁護士がよく知っている人であれば、「率直なところ、話し合いでカタをつけませんか」と持ちかけることもなくはないと思う。これを談合というなら、そういうこともできるでしょう。ただそれは、事案の性質と、今後の裁判にかかる労力を考えて、そうするのが依頼者のためになると思うからするのであって、依頼者の意向を無視してこのような話を進めることはありません。八百長の話に戻ると、以前、プロの将棋指しの世界について、こんな話を本で読みました。プロ棋士というのは、段位や収入が1年間の公式戦の勝敗によって左右される厳しい世界です。そこでたとえばAという棋士が、その年の所定の勝ち星を稼ぐことができたとする。次の対戦相手のBという棋士は、負けがこんでいて、次の対戦で負けると段位が下がってしまう。そういう場合、今年はもう勝たなくてもよいAとしては、ついBに対し手加減してしまうこともありうるだろう、それを八百長というかどうかはともかく、そういう話でした。昔、棋士の米長邦雄さんが、「私はどんな勝負でも手加減しない。特に、相手にとって進退がかかっているような試合は全力で臨んで必ず勝つ」と(正確には忘れましたが)公言しているのを読んだことがあります。そこだけ聞けば「イヤなヤツ」なのですが、考えてみると、プロの棋士でもそこまで強い心を持っておかないと、つい相手に手心を加えてしまうことがあるということなのでしょう。だから、相撲の世界で仮に八百長があるとしても、ドラマや漫画みたいなあからさまなものではなく、こういう微妙な話なのではないかと思っています。昨日書いた若ノ鵬は「お金をもらった」と言っているみたいですが、まあ、力士にはいわゆるタニマチがいて、いろんなところからいろんな金品をもらっているでしょうから。とは言いつつも、週刊現代の裁判で、八百長が「真実」と証明されるのかどうか、この点は注目しております。
2008/10/01
冒頭から唐突ですが、「吉本新喜劇」の「茂造(しげぞう)じいさん」の話です。辻本茂雄が老人の扮装で出てくるアレですが(と言っても関西の人しかわからないか)、茂造じいさんが誰かから「クソジジイ!」と罵られたとき、茂造じいさんが、「何ぃ!『クソ』の上に『ジジイ』まで付けよったなぁ!」とピントの外れた怒り方をし、共演者から「逆や。『ジジイ』に『クソ』を付けたんや」と突っ込まれる定番のシーンがあります。説明不要とは思いますが…、本来は「『ジジイ』だけならまだしも、『クソ』まで付けるとは」と怒るべきなのに、「『クソ』だけならまだしも」と、本来と反対の怒り方をしているというギャグです。かように、「クソ」という言葉は本来、侮辱的発言の上にさらに侮辱を重ねるときに使用される言葉であり、かなり程度の強い罵り言葉といえます。したがって、コントならともかく、実社会でこんな言葉を使うのは相当に品がないということになると思います。何の話か想像がついた方も多いと思われますが、橋下府知事がラジオ番組の中で、学力テストの結果開示に反対する教育委員会のことを「クソ教育委員会」と発言したことについてです。ちょっとした物議になりつつも、一方ではこの発言に理解を示す向きもあるようです。そこは各人の捉え方なので、それはそれで良いと思っています。それでも中には、「あれはまさに弁護士流の駆け引きであって、最初に強い言葉で押しておいて、だんだん妥協点を探る方法なのだろう」という理解をする方もいるみたいでして(たとえば「おはよう朝日です」で板東英二がそういう趣旨のことを言った。これまた関西ローカルですが)、この点は私は弁護士として「異議あり」と言いたいところです。弁護士の論争や駆け引きの方法にも色々あると思いますが、少なくとも私は「論理」を売りにしているつもりであり、「強い言葉で押し立てる」などというのは「下の下」のやり方だと思っています。そこは弁護士それぞれの考え方の違いだとしても、少なくともいかなる弁護士であっても訴訟の相手方に対して「クソ」とは決して言わないはずです。いかにガラの悪い弁護士でも、法廷での口頭弁論や、自ら作成する文書の上で、相手に対し「クソ」などという表現をしているのを見たことはありませんし、もしそんなことをすれば「弁護士としての品位を汚す」ということで懲戒モノでしょう。「クソ教育委員会」発言を聞いたときは、橋本府知事の品のなさが露呈しただけのことであって取るに足りない話だと思っていたのですが、あれを「弁護士流の論争方法だ」というふうに理解されると少なくとも私は心外なので、ちょっと書いてみました。
2008/09/11
少し前ですが、作家の深田祐介さんが産経新聞の「正論」に寄せておられた手記が目にとまりました。北京オリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた福原愛さんのことに触れ、旗手が福原愛さんでなければ大混乱や暴動が起こったかも知れない、福原さんはその美貌によって国際的緊張を溶かしたのだ、と書いておられた。戦前(昭和12年)すでに吉川英治氏(小説「宮本武蔵」の著者)が、「国際面において国家は美貌を容姿として持たねばならない。日本は殺伐な顔つきを連想されやすく、外交上も損をしている」というエッセイを書いておられたのも引用しておられました。(元の記事は産経のウェブ「IZA」から閲覧可能です。これ )何かをなそうとする際には容姿も重要な要素である、と私自身も考えています。私は弁護士の中ではそこそこ男前の部類に入ると思うのですが、8年もこの仕事をやっていると、「これは自分の容姿のおかげでうまく解決したな」と思ったことが何度かあります。そういう話はいずれ、事件が風化したころに書くとして、今回は「裁判員制度」の話です。来年の施行に向けて、最高裁が陣頭指揮していますが、裁判員になりたくないという世論はまだまだ強いようだし、実務界(一部の弁護士会、判事など)からも制度の廃止または施行延期を求める声が上がっている。そんな中、先月末あたりから各地の裁判所で、上戸彩の広報用チラシが配布されているのに気付きました。私も何度かこのブログで触れましたが、これまで確か一般配布はされていませんでした。昨年、仲間由紀江がイメージキャラクターとして採用されていたとき、私は「あのポスターは配布されているのか」と大阪地裁に問合せをしたことがありますが、「一般配布はしていない」との回答でした。(そこで「私は大阪弁護士会の弁護士である、広報に協力したいから一部ほしい」と言えば違ったかも知れませんが、その程度のことでこちらの名前を出すのが恥ずかしかったのでそれ以上は言わなかった)ところが最近になって、上戸彩のチラシは近畿一円の裁判所で「ご自由にお取りください」と書かれたラックに置かれている。私も裁判員制度はどちらかと言えば反対ですが、上戸彩に「裁判員制度に協力してね」と言われたら、手のひら返して賛成派に転ずると思います。最高裁は、北京オリンピックにおける「福原愛」効果よろしく、裁判員制度における「上戸彩」効果を狙ってきたのだな、と思った次第です。ということで、いま私の事務所には上戸彩のチラシが掲示されています。ちなみに、大阪地裁のラックに置かれていた上戸彩のチラシは、1週間ほどで全部なくなっていました。
2008/09/07
福田総理の辞任表明に関して、雑談を書きます。昭和53年、当時の福田赳夫総理が自民党の総裁選挙で大平正芳に敗れたとき、福田赳夫は「天の声にも変な声があるなあ」と言った。この発言に対しては、「強烈な自信の表れを飄々と言ってのけた名言」と肯定的に評価する向きもあれば、「苦し紛れのバカらしい妄言」と否定的な向きもあるみたいです。私はというと、総理の去り際の一言としては好きなほうです。稚拙な「韻」を踏んでいるところに、敗戦の悔しさをこの人らしくユーモアで言い表そうとしたが、悔しいあまりこの程度のことしか思い浮かばなかったのだろうなと想像できて、少し微笑ましい。その福田赳夫の長男である現総理の福田康夫は一昨日、辞任表明。記者会見でのやり取りが、テレビや新聞で取り上げられていました。記者が「会見を聞いていると、何だかひとごとのように聞こえる」と言ったのに対し、「私は自分を客観的に見ることができる。あなたとは違うんです」と言った。この発言に対しては、まさに「政権を放棄しておいて何を逆ギレしてるんだ」という否定的な評価が多いかと思いますが、私は、この発言も肯定的に捉えています(別に福田一族の肩を持つわけではない)。何より問題なのは、記者の質問のレベルが低すぎることです。こういう場で政治記者なら、もっと具体的に突っ込んだ質問をしないといけない。たとえば、「『安心実現内閣』と言っておきながら内閣改造後すぐの辞任であり、この間いったい何が実現されたと考えているのか」とか、「野党が審議に応じなかったと批判するが、それならどうして解散総選挙で国民の信を問うことをしなかったのか」とか、「左目がどうしてずっと腫れているのか」とか、具体的なツッコミどころはあったはずです。前回書いた月亭可朝への取材とも相通ずるの話かも知れないのですが、記者はどうしても福田総理に「私の不徳のいたすところでした、申し訳ありません」とでも謝罪させたかったのでしょうか。福田総理は、政治家としての会見のあり方をそうは考えていなかった。記者はどんな問題が起こった時でも、その個人に主観的な謝罪の意図を表明させたがるが、総理の進退は「ゴメン」と言ってすむような単純な問題ではない。あなたがた記者とは考えている次元が違うんだ、そういった趣旨での「あなたとは違う」発言だったのだろうと想像しています。では、客観的問題として、福田総理は日本の総理として何をしてくれたかというと、特に大したことはしなかったかも知れません。ということで、去り際の言葉としてはどちらもそれなりに味がありますが、父・福田赳夫の「天の声にも変な声」のほうが、まだちょっと面白いだけ勝ち、ということにしておきます(何の話だか)。
2008/09/03
日経18日の特集記事から。「弁護士もマーケティング」という見出しに注目しました。内容は、同業の方々のことなので私もすでに存じていましたが、80席のコールセンターで全国から依頼を受け、年間90億円の売上高を上げる、「ホームロイヤーズ」という大事務所の話とか、「弁護士ドットコム」というインターネット上の弁護士紹介サイトには880人の弁護士が参加し、依頼案件に対して受任可能な弁護士が見積もりを出して、依頼者が選ぶシステムになっているとか、そういう話題でした。私自身はと考えてみると、マーケティングをきちんと勉強したことはありません。私のマーケティング論(というほど大げさなものでない)は、弁護士としての師匠にあたる上坂明先生がおっしゃった、「手持ちの事件をコツコツこなしていけば、その依頼者が次の依頼者を呼んでくれて、そうしているうちに事務所が成り立っていく」という、それがすべてです。上坂先生が弁護士になったのは今から50年以上前であり、そのころと今とでは社会・経済の状況が全くと言っていいほど変わっています。しかし、法律家としての仕事(世界史的に見れば何世紀も昔から存在するはず)のあり方の基本が、半世紀程度で変わるものではないだろうと思います。現に私自身、今は事務所の依頼者の事件のことを考えるだけで手一杯であり、マーケティングのことを考える余裕はありませんし、考える必要もないと思っています。「だから御社の営業はダメなんだ」と(昨今の自己啓発本ふうに)言われようと、今のあり方を変えることはないでしょう。門戸を広く、敷居を低く、これは私も重要だと思うし、心がけてもいることです。しかし、多くのスタッフを雇って全国から仕事を取ってくるとか、インターネットの比較サイトに登録するとかいうのは(これからの弁護士業の一つのあり方だとは理解できますが)、私の目指すところとは大きく違っています。唐突なたとえ話になりますが、私が休日や仕事帰りにお酒を飲むとしたら、全国にチェーン展開している居酒屋ではなく、マスターが一人でこじんまりやっているようなバーへ行きます。決して大きく拡大することはないけど、マスターと客が顔なじみで、マスターがそれぞれの客の酒の好みを知り尽くしているような、そういうお店が好きです。そして私の法律事務所も、そういう存在でありたいと思っています。
2008/08/24
このところ連続して書いていた「弁護士増員問題」について、雑感をもう少し。私自身の実感として、弁護士の就職難は本当に生じているのかといった話を「補遺」として書きます。ウチの事務所あてに、司法修習生の方がメールを送ってくれることがこれまで何度かありました(事務所のホームページからアクセスしてくれているようです)。そのメールの内容は、要するに就職活動的であり、「先生の事務所(つまりウチ)に興味がある、一緒に働きたい、できれば事務所を訪問したい」といったものです。加えて、「これまでどういう思いで法律を学んできたか」とか、「こういう弁護士になりたい」とか、弁護士業にかける熱い思いも書き添えられている。このあたりは、私と比べてみて、ずいぶん違うなあと思って感心してしまいます。たしかに私も修習生のころ(平成11年前後)はいろんな法律事務所を訪問しましたが、それは就職活動というよりは、いろんな事務所の仕事ぶりを見せてもらって、そしてそのあとは北新地あたりに飲みに連れていってもらえるという、そちらを楽しみにしてたくらいです。そのころでも、司法試験の合格者数が少しずつ増えていて、いよいよ若手は就職難になるのではないかと言われていましたが、私の同期で実際に就職できなかったという話は聞いたことがありません。それはともかく、私自身はあまり「熱さ」を前面に押し出す人は苦手なのですが、同業の後輩となるべき人からこういったメールを受け取ると、やはり嬉しい気持ちになります。ですから返事はきちんと書きます。「うちは個人でやっている小さい事務所だから新人弁護士の採用は考えていない。でも興味があったらぜひ事務所を見物に来てほしい」と。それだけでなく、彼らの熱いメールに少しでも答えるべく、私が弁護士業について思うところとか、若い修習生の人たちとも情報交換がしたいとか、そういうことも書くわけです。しかし、そういう私からのメールに対して、さらに返信をくれたり、実際に事務所を訪れてくれたりした修習生は、残念ながら一人もいません。つまり、「ウチは新規採用しない」と言った瞬間、彼らと私の関係は終わってしまうわけです。何とまあ現金な、と思ってしまうのですが、ひるがえって考えると、それくらいシビアに就職活動しないと就職もおぼつかないのかも知れないわけで、それを考えると、相当に大変な状況になっているのだなというのが、私の実感です。
2008/08/19
多くの方がお盆休みを過ごされたことと思いますが、私も世間なみにお休みをいただきました。今、自宅でオリンピックの中継を眺めながら、休み気分を引きずってダラダラと雑感を書きます。私が過去に司法試験の受験勉強をしていたころ、勉強でしんどくなったときには、「オリンピックでメダルを取ろうと思えば世界で3位以内に入らないといけない、司法試験に受かるためには日本で7~800位以内(平成10年当時の合格者人数)に入ればいいのだから、決して大変なことではないはずだ」と自分に言い聞かせていました。司法試験直前には、緊張と疲れのせいか体調を崩したりしました。試験に受かるかどうかは私一人の問題ですが、国家の期待を背負っているオリンピック選手の重圧はもっとすごいのだろうなと想像しています。さて、水泳の北島選手。平泳ぎの100メートルと200メートルで両方金メダルを取りました。100メートル競技が終わってから200メートル競技までの間の気分というのは、「いちおうの結果は出したけど、本当の戦いはまだ終わっていない」という状態で、私自身になぞらえて低いレベルで例えると、司法試験の最難関とされる論文試験に受かって、次の口述試験を受けるまでの期間に似ているでしょうか。大きな関門は終わったけど、もうひとふんばりテンションを持続し続けるのはたしかに大変でした。ついでに言うと北島選手、100メートルで金メダルを取ったときは泣かんばかりに喜んでいましたが、200メートルの競技後はかなりクールでした。それにはもちろん、目指していた世界記録が出なかったからという実際的な理由もあるかと思います。ただこれまた私自身になぞらえると、司法試験でいちばん嬉しかったのは論文試験に受かったときで、本当に最後の関門である口述試験に受かったときは「まあこんなものだろう」と思っただけでした。北島選手も、スランプや重圧をはねのけて挑んだ最初の100メートルが本人にとって最難関であり、それを金メダルでクリアして挑んだ次の200メートルは「勝って当然、まあこんなものだろう」という気持ちだったのでは、と勝手に想像しています。お盆休み期間中は、当ブログでも仕事を離れて諸々の雑感など書こうとしていたのですが、休んでしまうと却って何をする気も起こらず、更新も手抜きになりました。オリンピック選手の方々の活躍に敬意を表しつつ、休み明けの業務に邁進する所存です。
2008/08/17
今週は慌しくて、あまり中身のある話が書けていません(いつもそうかも知れませんが)。裁判所は、8月になると「夏期休廷」とか言ってあまり法廷が開かれなくなります。そのしわ寄せで、その前後の期間(7月下旬と9月上旬)は毎年慌しいのです。さて、裁判員制度の話。法務省は、裁判員が参加する刑事裁判の被告人に対し、ネクタイや革靴(に見えるサンダル)の着用を認める方向になりつつあるらしい。ジャージ姿だといかにも悪そうに見えるので、裁判員の偏見を防ぐためにネクタイとジャケットを着せるわけです。この話はずいぶん以前に書いたことがありますので、詳細はそちら(過去の記事)をご参照ください。これと関係して(関係ないかも知れませんが)、私が思い出すコントがあります。古いですけど、「ドリフ大爆笑」で、いかりや長介がヤボったいコートを着た刑事役を演じ、ゲストの前川清がヤサ男の容疑者役を演じる内容です。前川は「婦女暴行」の容疑で逮捕され、いかりや刑事に手錠でつながれて列車で連行される。2人の手は手錠が見えないようにジャケットで隠されていて、2人は列車のボックス席(2人がけ)に座る。そこに、向かいの席へ中年女性が2人座ってくる。そして何かの拍子に、いかりやと前川の手にかけたジャケットが下に落ちて、手錠をしているのがバレてしまう。中年女性はハッとして前の2人の男を見る。そして、さえない風貌のいかりやが「容疑者」で、ハンサムで身なりの整った前川を「刑事」だと思ってしまう。女性は前川に、「この人、何やったんですか」と聞くと、前川は、「ええ、婦女暴行です」と抜けぬけと答えてしまう、そういう内容でした。人を見かけで判断するということは、特に刑事裁判の場面においてはあってはならないことです。それでも上記のコントでおかしさを感じるのは、やはり、どうしても人って見かけで判断してしまうよね、という共感があってのことだと思います。だからこそ、日弁連が被告人の服装の改善を申し入れたのですが、私個人としては今でも、そこまでする必要があるのかなという疑念を感じざるをえません(詳細は上記過去の記事に)。多忙と暑さでつまらないことを書いてしまいました。暑中お見舞い申し上げます。
2008/07/25
最近、公務員が勤務中に役所のパソコンからインターネットにアクセスしていることが問題とされているようです。もっとも、インターネット上のサイトは執務に関係するかしないか線引きが難しいことが多く(当ブログだって法律関係のサイトに見えて雑談が多い)、ネットへのアクセスを規制すると執務に支障が生じることもあるでしょう。少し前は、勤務時間中に勤務外の行動をしているというのが問題になり、たとえば消防署員が庁内で「筋トレ」していたことが新聞で取り上げられていました。これなど私は、構わないんじゃないかと思ったほうです。もちろん、手の空いている時間中であること、何かあったらすぐに行動できることが条件ですが。その時間、庁内でボーっとしているよりは、体を鍛えていたほうが消防署員としての活動にも役立つであろうと思うのです。私も大阪地裁での法廷に出た帰りに、「関西ウォーカー」でも立ち読みしようと地裁の地下の書店に寄り道すると、先ほどまで法廷で顔を合わせていた裁判官に出くわすこともあります(もちろん裁判官は関西ウォーカーではなく法律書を見にきている)。それを見て、裁判官が職場放棄していると思ったことはありません。地下の売店への散歩がてら、法律書の新刊をチェックするというのも仕事のうちでしょう。このように、仕事とそれ以外の線引きは難しいこともあり、公務員がネットをやっていようが筋トレをやっていようが、そう神経質になることもなかろうと思っていました。そうしているうちに、橋下府知事が執務時間中に公用車を使って、大阪市内のホテルのジムに行って筋トレしていたという報道がありました。何だか、揚げ足とりみたいに思いましたが、皆さんはどうお感じになられたでしょう。一般の公務員は言わば国家や府県の「機械」であって、決められた時間内は職場に張り付いていないといけないのに対し、トップである知事や大臣は必要な命令を下してその結果に責任を取るのが仕事であって、庁内にこもっている義務はない。知事の行動に法的な問題はないと思われます。しかし、やはり釈然としない点が残るのも率直な感想です。橋下府知事は(実際にそう言ったかどうかは知りませんが)、職員の勤務時間中の私語やタバコ休憩ですら問題としている。職員にはそれほど高度のモラルと労働生産性を求めつつ、自分自身は「最近太ってきたから」という理由で平然とジムに行っていては、職員の信頼も得られないし、何より「すべてを投げ打って大阪府のために命がけでやってくれている」という府民の信頼を損なうことになる。忙しいけど運動はしたいと言うのなら、やりようはいくらでもあるはずで、私自身がやっていたように、自宅で1時間早く起きて「ビリーズ・ブート・キャンプ」でもやればいい(最近少しサボっていますが)。橋下府知事のやったことについて、法的問題はないのでしょうが、職員の志気と府民の信頼を損ないかねない、トップとしてはつまらぬことをしたものだなと思っています。
2008/07/18
チワワを怖いと蹴り殺した男が器物損壊罪で捕まったというニュースがありました。これについて論じようとしているのではなく、そういえばチワワのブームも収まってきたなということを思い出したのです。ブームのきっかけは、消費者金融(サラ金)のCMだったと記憶しています。その後サラ金に対する風当たりが強くなり、私の同業者にも「多重債務者を生み出すきっかけとなるからCMを規制すべきだ」という人が出てきました。私は、サラ金を利用するかどうかは自己責任であって、CMを見ている分には面白いから構わないのに、と思っていました(過去にも当ブログで書いたかと思います)。最近のサラ金のCMは見ていて面白くなく、例えばお姉さんが深刻な顔で「本当にお金が必要ですか?」と問いかけてくる、貸す気があるのかないのか分からないようなものばかりです。そのうちタバコの広告みたいに、「借り入れによる精神的ストレスはあなたの寿命を縮める原因となります」とまで言い出しかねない自粛ぶりです。ともかく、サラ金のCMには寛容であってよいと考える私でも、最近「これはアカンやろ」と思うテレビCMがあります。どこの会社かきちんと見ていないのですが、女性が画面に出てきて「毎月の明細書みて、利子しか返せていなくって…エヘッ」とか言いながら、「おまとめローン」を利用するというものです。つまりこの女性は複数のサラ金から借入れがあって、利息がかさんで、月々返済しても利息分しか返せていない状態になっている。そこでさらに別の一社から借入れをして従来の借入れ先に返済を行い、債務を一本化するというわけです。このCMには何パターンかあり、別バージョンでは憤然とした表情の男性が出てきて、「妻が明細を見て、元本がぜんぜん減ってないじゃないかって言われまして」となぜか「逆ギレ」風に語っていたりします。しかし私たち弁護士から言わせれば、「利息しか返せていない」というのは典型的な多重債務のケースです。医者ふうに言えば、病状は相当進行しています。のん気にテレビに出て「エヘッ」とか言ってる場合か、と心の中で突っ込みつつ、あれは実際の多重債務者じゃなくて役者さんだから、と自分を抑えています。「おまとめローン」「債務の一本化」と言われると、借金返済のための素晴らしい手法と感じる方もいるのかも知れませんが、これはあくまで「新たな借入れ」であって、根本的な問題の解決にはなりません。そういうときは、すぐにでも弁護士に相談に行くべきなのです。解決策は必ずあります。……と結局今日は雑談の末にウチの宣伝をして終わります。
2008/07/16
道頓堀の「くいだおれ」がこの8日をもって閉店しました。関西版だけなのか、新聞各紙の社会面でも大きく取り扱われていましたが、私自身はここでも以前書いたとおり、このお店と「くいだおれ太郎」の人形にそう思い入れがあるわけでもないので、ああそうですかといったところです。ここ当分は、間違いなく道頓堀が混雑するだろうと思って立ち寄っていませんでした。うちの事務所のある堀江・心斎橋の界隈から千日前や法善寺横町へ行くには道頓堀を越えなければいけなかったのですが、混雑が収まればまた、仕事のあとで法善寺横町のバーに寄り道して1杯ひっかけて帰れるなと思っています。と、個人的なことはともかく、くいだおれ太郎は道頓堀に置かれ続けることになったみたいですが、あの建物と、キャラクターとしてのくいだおれ太郎を誰が買い取るかについては、まだ最終的に決まっていないようです。これとの対比で思い出すのが、「ワッハ上方」(大阪府立上方演芸資料館)です。橋下府知事が、府の財政を圧迫するとして規模縮小・移転を検討している。それに対しては、いとし・こいしさん(のご存命のほう…エート、いとしさんでしたか)や上方演芸の関係の方が反対の声明をあげている。これも従来書いたとおり、私は橋下府知事の「劇場型」と言われる府政は冷ややかに見ているほうで、あのパフォーマンス的な議論の場面よりは、いとしこいし師匠の漫才を見ているほうがよほど好きです。しかしワッハ上方に関しては、気持ちはわかるけど縮小・移転はやむをえないかと思っています。なんばグランド花月の真ん前、ミナミの一等地にある吉本興業所有のビルを大阪府が借りて、年間で億単位の賃料が支払われている。もちろん文化の育成や保存というものは純経済的に見ればもともと「ムダ」なものなのでしょうが、それにしても何億円を吉本興業という一私企業に支払ってまであの場所を借りる必要はあるのか。(余談ながら同じビルにはフィットネスクラブの「ティップネス難波」があり、私も会員だったのですが、今年の春に撤退しています。賃料が高いのが大きな原因だったと思います)そしてこの度のくいだおれの一件でも対比は鮮明になりましたが、くいだおれは閉店が発表されてから食事に来る客が殺到したし、お店の営業権やくいだおれ人形の利用権を買い取りたいというオファーが殺到した。一方ワッハ上方は、橋下府知事が縮小・移転を表明してから来訪客が増えたという話は聞かないし、うちの建物を提供するといった申し出も聞かない。建物所有者である当の吉本興業も、賃料は安くしていいとの姿勢を示したようですが、「無料で貸すから続けてくれ」とまでは言わない。そして私自身、ワッハ上方には行ったことがありません。企業としてのくいだおれと、公的施設であるワッハ上方を単純に比較できるものではないかも知れませんが、府民にとって本当に必要なものなら、自然と支持が集まるはずです。ワッハ上方はそういう点で縮小・移転も冷静に検討せざるをえないと思っています。
2008/07/09
今日は新聞でなく週刊誌からネタを拾います。先日、週刊新潮で「人前で『泣く男』の研究」という記事がありました。橋本府知事その他、人前で泣く政治家のことについて触れてありまして、その内容をざっと要約すると、強い存在は叩かれるので、涙を見せて弱い存在であることをアピールして支持を買う手法が流行りつつある、といったことでした。そして最近また新たに、人前で泣く男が現れました。今度は政治家でなく、病院の院長です。三重県の整形外科病院が点滴の使いまわしをしていた事件。死者1名が出て、警察の捜索が入ったとか。報道陣の前に釈明に出た院長の映像を、朝のワイドショーで何となく見ていましたが、これを見た方はみな失笑されたことと思います。院長曰く、泣き顔で「私の家にはお風呂がないんです!」。点滴を使いまわすとどれくらいの儲けになるのかは知りませんが、儲け主義に走っているとの批判をかわすために、家が裕福でないことのアピールに出たわけです。この院長の家に本当に風呂があるかないかは知りませんが、風呂の有無で言えば、私の実家は昔、長屋の大家でして、それなりの資産はあったはずですが、昔の建物だから風呂はなかった。この院長は「シャワーしかないんです」とも言ってましたが、私の実家にはシャワーもありませんでした。ついでに週刊文春の最新号によると、この院長の家にはベンツが2台あるとか。私の実家には車もなかった。充分な資産家ではないでしょうか。と、この院長の資産を云々するのはここでの目的ではありません。それにしても、どうして政治家も医者も、何かあったらすぐ泣くのか。ついでに弁護士も泣きますね。光市母子殺害事件の弁護団の一人だった今枝氏。(先日、この人のことを「同業の先輩」と書いたのですが、実は私と「同期」だったと最近知りました。司法研修所のクラスが違うので全く面識はなかったのですが、研修所の卒業アルバムには確かに載ってました)こういう人たちを見ていると、人前で涙は見せず、憎まれキャラに徹している、あの船場吉兆の女将が何とも潔く見えてきて、いつか再評価される日がくるのではないかと、勝手に考えています。いつも以上に浅い話でしたがひとまずこれにて。
2008/06/19
国籍法の話について、わき道にそれつつダラダラ書いているうちに、世間では秋葉原の殺傷事件が起きたり、東北での地震が起きたりしました。私には直接の関係はないですが、関係者の方にお見舞い申し上げる次第です。以下単なる雑談です。テレビでの報道はこの1週間、秋葉原の事件と、昨日からは地震のニュースばかりとなりました。おかげで今週放送予定だった映像の多くが、延期または「お蔵入り」になったのだろうなと想像しています。私もかつて、自分が取材に協力した映像がお蔵入りとなった経験をしました。詳しくは書きませんが、弁護士になる前に、司法書士の資格を取って司法書士事務所に勤務していたころです。とある不動産関係の問題についてのコメントを求められました。制作サイドに知人がいたことから、そのツテでオファーされたものです。しかしその取材映像はオンエアされませんでした。特に大きな事件が起こったわけでもありません。その制作サイドの知人の説明はよくわかりませんでしたが、「上からの指示」であり、「一つの番組中に利用できる取材映像の時間には上限があってカットされた」とかいうことでした。番組制作の仕事というのは、クリエイティブに見えていて、その実、きわめて窮屈で杓子定規なものだなと思ったのですが、それはともかく、テレビというのはそういうものだろうと、このことについてお互いにそれ以上問題とすることもなく終わりました。この1週間、ニュースの差し替えによって、多くの人が同じような思いをしたでしょう。それで思い出したのですが、最近こういう最高裁判決がありました。NHKが、従軍慰安婦問題を扱っている団体を取材したが、オンエアされた番組の内容はその団体の意向に沿うものではなかったため、団体がNHKを訴えた。東京高裁は「期待権」の侵害を理由にNHKに200万円の損害賠償を命じたが、最高裁はそれを破棄して、原告団体敗訴の逆転判決を言い渡した。この問題は、私が経験した「お蔵入り」の問題とは質が違うのかも知れません。しかし、取材を受けた側が、自分の意向に沿った番組内容になっていないと賠償請求できるということになってしまうと、報道は成り立たなくなるように思います。明日(月曜)以降、本業がヒマであればこの問題について論じたいと思っていますが、ひとまずこれにて。
2008/06/15
唐突ですが今日は「ゲゲゲの鬼太郎」の話からです。誰しも知っているこの作品、何度かアニメ化されていますが、私の年齢くらいの人(昭和40年代生まれ)にとって、子供のころに見た鬼太郎のアニメって、心底かなり怖い内容ではなかったでしょうか。鬼太郎以外にも、「妖怪人間ベム」もかなり怖かったです。いつから、子供の観るアニメが怖くなくなったのでしょうか。私が小学校高学年のころだったか、確か「週刊テレビガイド」の投書欄に、「夕食時にやっているホラー映画の予告CMが怖いと言ってテレビを見ている息子が泣き出す。ゴールデンタイムにああいうのはやめてほしい」といった意見が載っていました。私は、子供心に、「ヘンなこと言う親やなあ。そんならテレビを消しといたらええのに」と感じた記憶があります。(ちなみにそのホラー映画というのは、「ポルターガイスト2」か「フライトナイト」だったと記憶しています)いつ頃からか、「怖い」、「残酷」、「暴力的」、「下品」、「過激」というものが一緒くたにされて(これらのことは大人だけでなく子供も結構好きなはずなのですけど)、一部の良識ある大人から批判され、何か問題が起こったらテレビのせいにされだして、内容が画一化された。テレビアニメの中では怖い話や妖怪は存在してはならないことになり、鬼太郎もメルヘン調の、怪獣や妖怪をやっつけるだけのお話になってしまった。昔のアニメの鬼太郎では、断片的に心に残っているシーンはたくさんあります。たとえば、すごく親から甘やかされている青年がいて、その甘ったれた心につけこまれて妖怪の絡むトラブルに巻き込まれる(詳細は忘れました)。鬼太郎のおかげでそれが解決し、鬼太郎とネズミ男がその青年と親の住む家(高層マンションの一室)で礼を言われる。ここで青年が趣味のギターを弾きはじめたとき、ネズミ男が「ひっでえ音色だなー」という。青年は突然泣き出して、マンションから飛び降りて死んでしまう。甘やかされて育ったので、初めて自分が否定される経験をしたためショックで死んでしまった、というオチです。かように昔の鬼太郎のアニメは、妖怪なんかよりも、人間の欲望や「心の弱さ」のほうが怖い、という話が多かったです。私の子供時代には考えられなかったインターネットというものが普及しだしても、ことは同じで、ネットの世界では妖怪や悪人はいてはならないことになっている。(そのせいで私などが強かん犯罪のことを書こうとしても、この楽天ブログで「強かん」と漢字で書くとNGワードとされて記事が書けない。ネット上の世の中に強かんは存在しないことになっているわけです)今日は法律と全然関係ない話をしてしまいました。ただ、最近、ブログに「死ね」と書かれたのがきっかけで自殺してしまった生徒がいるという報道を見て、何となくこういったことを考えていました。そして上記の鬼太郎のエピソードが、今の時代を予言していたのかなと、ふと思いました。
2008/06/03
裁判員制度のことについて書きます。日曜だからとてもくだらない話です。制度の施行に向けて準備は進みつつあるようで、私がよく行く大阪地裁では、最近しきりに建物内部の工事が行われています。大阪地裁の中を歩いていて最近気付くのは、「段差」がなくなったことです。段差をなくす、いわゆるバリアフリーは昨今の傾向ですが、最近になって急ピッチで工事が進んでいるのは、裁判員制度の施行と無縁のことではないと思います。今後いっそう、一般の方が出入りするようになって、中には高齢の方とか、脚が不自由な方もいるかも知れないことを配慮したのでしょう。段差のあった部分は、それが取り払われるか、スロープになっています。もう一つ大きな違いは、トイレです。ずいぶんキレイになりました。これまでは、汚いと言わないまでも、キレイとも言えなかった。私も、かつては司法修習生として大阪地裁にいました(平成11年ころ)。朝9時から午後5時まで(場合によってはさらに遅くまで)、裁判所の中にいるわけですから、日に何度かトイレに行きます。時には「大」のときもあります。私は大となれば洋式のほうがいいのですが、大阪地裁のトイレは基本的に和式で、洋式になっているのはごく一部だった。それで私は、裁判所の何階のどこのトイレに洋式があるということを頭にインプットしておき、大を催したときにはそこへ行きました。しかし他の裁判所職員も同じことを考えるのか、その洋式は使用中であることも多かったのです。今では、すべて確認したわけではないのですが、各トイレには和式と洋式がそれぞれ設置され、しかも洋式にはウォッシュレットまでついている。私が司法修習生だった頃からこうであれば、私は洋式を求めて裁判所の階段を上がったり下がったりしなくても良かったのに、と思っています。すべての裁判所で段差がなくなったりトイレがキレイになったりしているわけではないと思いますが、全国の裁判所で似たような工事は行われているはずで、相当の予算がかかっているのでしょう。とはいえトイレがキレイになったことは良いことで、私が唯一実感している裁判員制度のメリットです。
2008/06/01
前回の続きを書こうとしているうちに、慌しさにかまけて時期を逸した感もありますが、続けます。長野の聖火リレーでチベットの人が威力業務妨害罪で罰金刑になった話について。前回も書きましたが、産経新聞などの報道によりますとこの人は、チベット人の2世で、チベットの状況を訴えたくて、とっさに行動したと。計画的なものでなく、卓球の愛ちゃんが走っているところを狙ったわけではなおさらないと。しかし私は、テレビを見ていて正直なところ、「わけのわからない輩が、欽ちゃんにモノを投げつけるだけでは満足せずに、愛ちゃんにまで何かしでかそうとしている」と思いました。中国によるチベット抑圧の問題とか、北京オリンピックの是非とか、それらはここでは関係はない。その点を個人としてどう考えるかは人それぞれの価値観です。しかし、長野市や長野県警としては、日本政府の意向として聖火リレーに協力しようと決定しているから、それを無事にやり遂げないといけないという公務を負った立場にある。聖火ランナーをやる人たちは、大変な時期だけど、せっかくの機会だから無事にやり遂げたい、できれば楽しくやりたいと思っているでしょう。チベット問題で訴えたいことがあるのかも知れないけど、そういった個人の主張や価値観だけを理由に、いろんな人の立場や思いの詰まった聖火リレーに侵入し妨害することは許されることではないと考えます。それにそもそも、チベット問題で訴えたいことがあるというのであれば、それは日本の長野市ではなく、中国の北京でやればよい。長野であれをやって一体何になるというのか。中国での聖火リレーで同じことをやったとしたら、その覚悟だけは讃えられるべきだと思うのですが、あのチベット2世の人はそうしなかったわけです。そこはやはり、日本でこういうことをやっても身に危険は及ばないという、計算があってのことだったと勝手に想像しています。たとえば、ずいぶんレベルは下がりますが暴走族(というのも今どき流行りませんが)の連中も、「大人社会への反抗」とかお題目を立てていたりしますが、その実やっていることは変な形のバイクでトロトロ走っているだけのことで、しかも彼らは警察が自分たちに決して危害を加えないと分かっている。長野リレーの妨害を見て、それと同様のものを感じたのです。何かを訴えたいというのなら、然るべきやり方がある。周りの人のことも考えず、好き勝手な方法で自分の主義主張や価値観を述べたてるのは、はた迷惑であり、時には犯罪ですらあるということです。
2008/05/23
前回の記事は、橋下府知事の論理に飛躍があり、反対陣営の主張に対して「府民を冒涜している」と言うだけでは回答たりえていないのであって、そういう「何となくカッコいいことを言っている」だけの政治家的な論理には注意しなければいけない、という話をしました。ただ、論理性が要求される裁判所での弁論とは異なり、政治の場では最終的に「多数派を制したほうが勝ち」です。そのためには、イメージと勢いだけで反対派を押し切ってしまうことも、ひとつの戦略としては必要であるのかも知れません。たとえばガソリン暫定税率の問題のときに民主党がやった「道路利権よりも国民生活」という論陣も、小学生レベルの主張だと思いますが、政治の場での論争というのはそういうものなのでしょう。そこで前回の続きですが、橋下府知事と公務員労組との論争に関して、最も批判されるべきなのは、橋下府知事よりも「マスコミ」特に「テレビ」というメディアであると考えます。昨日の朝のニュース報道で、この論争の場が映し出されていたのですが、このとき、画面には「見出し」として「橋下府知事『府民を冒涜している』」というテロップ文字が大きく書かれていました。しかし、前回繰り返し述べたとおり、ここでの議論の最重要課題は「公共部門の赤字を削減すべきか、その根拠は何か」ということであって、「府民を冒涜している」という言葉は、議論の筋とは全く関係なく、橋下府知事が苦し紛れに言った発言に過ぎないのであって、クローズアップされるべきような部分ではない。しかし、このニュースを編集する側としては、議論の内容を紹介するよりも、矯激な発言だけ切り取って見出しにするほうが一見してインパクトある映像になると考えたのでしょう。また、橋下府知事が改革の旗手として既得権益にすがる守旧派の対立陣営と戦っているかのように伝えたほうが視聴者の受けがいいと考えた。さらに言えば、「視聴者はどうせ議論の筋など追っていないから、何となくカッコいい発言だけ取り上げておけば喜ぶだろう」と考えたのでしょう。このように、マスコミ、特にテレビによるイメージ操作によって、そこで何が論じられているのかとは全く関係なく、善玉と悪玉が作られていくということが、政治家の論理の飛躍よりもおそろしいことだと思いました。私自身、ここで約2年前に書きましたが、あやうくテレビニュースによって悪者にされかねなかった経験があるので(興味のある方は過去の記事へ)、それを強く感じるところです。
2008/05/09
今朝のワイドショーだったか民放のニュースだったかで、大阪府の財政改革に関して、橋下府知事が論争している映像が流れていました。府政に対しては、口は出さないけどカネは出す、というのが私のスタンスではありますが(過去の記事 参照)、府知事と行政各部署の論争自体は興味深く傍観しています。このときの論争相手は、公務員関係の労働組合の偉いさんで、教育や警察などの公共部門の経費を削減すべきか否かといったことが論じられていました。橋下府知事が「民間なら赤字の部門は経費削減をして当然だ」といういつもの論陣を張ったのに対し、公務員労組の偉いさんは反論しました。「民間企業と公務員は違う、儲けを考えずに大阪府を良くしようと思って活動する教育や警察の部門は赤字が生じて当然だ」と。たしかに、資本主義の論理が支配する民間企業ではペイしない業務を行うのが公共部門の役割です。その主張に対して、橋下府知事はどう切り返したかというと、「それは府民に対する冒涜です」と言ったのです。何だか話が飛んでいませんか?この人の言うことは、テレビ出演時のトークのクセがついているのか、論理としてはかなりムチャクチャで、言っていること自体に大した意味はなく、ただ何となく抽象的に自分がカッコよく見え、かつ敵対陣営に悪印象を植え付ける、そのような議論を意図的に行っている気がしてなりません。労組の偉いさんが言ったとおり、公共部門というのは、民間に任せれば赤字になって誰もやらなくなる仕事を担うのがもともとの役割で、たいていの経済学の教科書なんかにもそう書いてある。それなのに民間同様に赤字を削減しなければならない理論的根拠は何なのか、確かに私も興味ある指摘です。それに対する回答が「それは府民に対する冒涜だ」ですから、答えになっていないといわざるを得ません。橋下府知事は見るからにいい人そうであり(実際、司法修習生時代にあった橋下氏はいい人でした。その辺は過去の記事)、この人が「あなた方は府民を冒涜している」といえば、テレビをボーっと見ている府民は、「そうだ、頑迷固陋な労組のジジイが、また府民を冒涜して橋下府知事をいじめている」といった印象を持つでしょう。しかし、論じられていることに対する回答になっていないのは上記のとおりであり、これでは橋下府知事が好きなはずの「議論」を放棄したに等しい。この一件に限らず、政治家はよくこの手の「論理」を使いますが、これには気をつけないといけないと思います。ただ、私がこの一件で最も批判されるべきだと思ったのは、橋下府知事ではなく、別に存在するのですが、それは誰かといいますと、次回以降に書きます。
2008/05/08
連休なので引き続き雑談です。大阪・道頓堀の「くいだおれ」が7月に閉店するとのことで、トレードマークであり道頓堀のシンボルでもあった人形(くいだおれ太郎)の処遇が一つの話題になっています。その行く先は、道頓堀のまま落ち着くのか、「新世界」など大阪の別の名所か、さらには県外という案も出ているみたいです。くいだおれ人形に著作権が成立するのかとか、意匠登録しているのかとか、その辺の法的な問題は調べていないので、以下法律と関係ない話です。私は、5歳のころだったか、一家4人(両親と兄と)で1、2度ほど「くいだおれ」に行った記憶があり、お子様ランチ的なものを食べた記憶があります。大きくなってからは行きませんでしたが、大学(筑波大)に入学することになった平成2年(1990年)、そのまま東京で就職して大阪に戻ってこないかも知れないというので、大阪の名所を使い捨てカメラで撮影してまわりました(弁護士になるとはこのとき全く思っていなかった)。このとき「くいだおれ太郎」も撮影したのですが、当時はわざわざこれを撮影する人などおらず、何となく恥ずかしかった記憶があります。それがいつの間にか、大阪のシンボル的なものとなり、今や、道頓堀の「くいだおれ」前は、写真を撮る人が群がっていますついでに道頓堀の戎橋も、大学に行く前に当時のガールフレンドとネオンを眺めながら話しこんだ記憶がありますが、今や1メートルおきにグリコの看板を「写メ」で撮影する人が群がっています。なぜああなったかはわかりません。ひとつには、第何次かの「吉本ブーム」みたいなのがあって、大阪の奇抜な看板などが名所として取り沙汰されるようになり、観光地化していったこともあるのかも知れません。しかし、私には、従来から普通にそこに存在していたものが観光名所化することは、少し嬉しい反面、はた迷惑なところもあります。道頓堀を通行しようとすると、くいだおれの前で渋滞します。写真撮影をする人たちで、道幅が半分になっているからです。戎橋だって、最近ようやく改修工事が終わって少し広くなりましたが、今や、橋の上で風にあたりながら誰かとゆっくりお話ししようという風情ではなくなっている。と、私の思い出をここで述べても意味ありませんが、私としては、上記の次第で、くいだおれ太郎の処遇は正直なところどうでもよく、道頓堀からいなくなったとしても、道が広くなっていいかも知れない、という程度にしか思っていません。地元の人間としての屈折した思いなのかも知れませんが、私は「くいだおれ太郎」にもグリコの看板にも、商業広告としての意味しか感じておらず、それらが役割を終えて退場するのであればそれでよいと思っています。「大阪のシンボル」だからずっと置いておくべきだ、などと言って精神的な意味づけをしている人というのは、観光地として大阪を見ている大阪以外の人と、それらの人が群がることによってビジネスとして潤う人々なのではないか。(もし仮に、誰かが試算したように「くいだおれ太郎」による大阪への集客などの経済効果が本当にあるとすれば、府か市が保護すればいい。それに税金を注ぎ込むといえば大阪の人間は理解するでしょう)。しかし、私を含め、職住の場所としてこの界隈を普通に利用している人は、割とドライな思いで今回の一件を見ているのではないかと感じているのですが、多くの地元の方はどう思っているのでしょうか。
2008/05/06
母子殺害事件に関して、さらに雑談を書きます。事件の判決後、朝のワイドショーに、弁護士の今枝先生が出ておられました。この方、母子殺害事件の弁護団の一員として活動され、いつだったかの公判後の記者会見で涙を流しながらの会見をし、「これまでの弁護活動は辛かった」などと言ってた方です(その後、弁護団との見解の相違だとかで弁護団から外れた)。それにしても、被告人の弁護側の人がワイドショーに登場するというのはこれまで考えられなかったことで、前回書いた「放送倫理・番組向上機構」の意見がテキメンに効いているのだろうと思わせるところでした。話は変わります。人前での涙といえば、ここでも少し前に書いたように、福田総理は小沢氏との党首会談で半ベソ状態になって泣かんばかりの恨みごとを言い、また橋下府知事は市町村長との意見交換会で実際に涙を流した。福田総理の半ベソについては、せいぜいあの直後にそれを揶揄するような報道が見られただけですが、橋下府知事の涙については、批判もある一方で、それ以上に同情も多く集まっているようです。しかし、両者がやったことは全く同じことであるはずです。福田総理も橋下府知事も、自分の政策について「反対陣営」の理解が得られないものだから、つい感極まってしまったということです。それなのに福田総理は冷笑されて終わり、橋下府知事は同情を集めた。その違いはどこからくるのか。一つには、大阪府知事より内閣総理大臣のほうが圧倒的に強い権力を持っているから同情に値しない、ということもありましょうが、もっと根本的な理由は、福田総理と橋下府知事の「ルックス」の違いなのだろうと思います。福田総理が半ベソになったところで、多くの人は「このオッサン何言うとんねん」くらいの感想しか持ちませんが、橋下府知事が涙ながらに話していれば、「かわいそうだ、この人を支持しよう」という気になるでしょう。馬鹿げた話に聞こえるかも知れませんが、似たようなことはザラにあります。たとえば、同じ社会主義革命の指導者として、毛沢東を信奉する人は今どきいないけど、チェ・ゲバラは今でも崇拝され、その肖像画が描かれたTシャツを好んで着る人も多い、それは要するに二人のルックスの違いだ、といったことを哲学者か何かが大真面目で論じておられるのを、何かの本で読んだ記憶があります。冒頭の今枝弁護士の話に戻りますが、涙ながらの会見の後にも同情は集まらなかったようです。その理由は、母子殺害事件の悪質さということも当然あるでしょうけど、より根本的なことを言うと、やはりこの人のルックスが…とは同業の先輩に向かってとても言えませんのでこの辺りで。
2008/04/25
前回、後期高齢者医療制度のことについての私ごとを書かせていただきました。「孫のお菓子が買えなくなる」だの、「現代の姥捨て山」だの、報道ではそんなセンセーショナルな取り上げ方ばかりされていますが、この制度の仕組み自体については、あまり触れられていません。制度開始にあたって色々ごたごたしているのは事実のようですが、この法律自体はずいぶん前に成立していたはずで、新聞やテレビはどうしてその時この制度についてもっときちんと報じてくれなかったのだろうと思いますが、それはさて措くとして。昔、3%の消費税が導入されたときにも、似たようなことがありました。ある野党の国会議員はこう言ったとか。「スーパーで子供が100円玉を持ってお菓子を買いに行ったら、103円になったからと言われて買うことができず、子供は泣いていた。だから消費税はやめさせないといけない」と。しかしあのとき消費税を導入していなければ、国の財政は今ごろ破綻していたでしょう。目の前の子供が泣いていたから消費税をやめさせるなど、そんな「町内の優しいオジサン」のレベルで国家の財政を論じてほしくないと思います。もちろん、そういう暖かい心は必要です。「暖かいハートとクールな精神」、どこかの国の経済学者が言った言葉だと思いますが、それは経済だけでなく、法律や政治など、およそ社会科学を扱う人には誰だって必要です。泣いている人を救ってあげたいという「暖かいハート」が全ての出発点であるべきだとは思いますが、それ一辺倒ではダメなのです。ここで以前にも引用したことがある、私の座右の書「ジャン・クリストフ」(ロマン・ロラン著)で、主人公クリストフが「いつも目に涙を浮かべてる人気取りの人道主義」の連中を嗤いとばすくだりがあります。そんなことよりは「血をたらして」生きる道を選べと。涙を流しながら「人に優しい政治を!」とか叫んでいる連中には、私はどうしても鼻白む思いがしてしまうのです。本当に必要な政策なら、涙を捨てて、血を流す覚悟で断固遂行していけばいい。それができる人であってこそ、政治を司る資格があると思う。と、そんなことを思っていたら、福田総理が先日、民主党の小沢さんとの党首討論で半ベソ状態になっていました。オイオイと思っていたら今度は地元大阪で、橋下府知事が市長との意見交換会で本当に泣いてしまいました。このあたりの感想は人それぞれでしょうけど、私自身は「嫌な感じ」を受けました。せめてあの人たちの流したものが、「涙」ではなくて「血」であったことを望みます。
2008/04/20
後期高齢者医療制度が施行されました。細かい話は省略しますが、社会の高齢化に伴い今後増大する医療費に対応するために必要な制度だと思っています。ご存じのとおり、病院にかかったときの医療費は、私たちが窓口で支払う分以外は、国が医者に払っています。国民が支払う保険料は確実に国が徴収できるようにしないと、国庫がパンクしてしまうのです。すべての高齢者にとっての負担増となるわけでもなさそうなのですが、年金から保険料を天引きするインパクトが強いのか、報道ではそこばかり強調されています。「これでは孫にお菓子も買ってやれない」という高齢者の発言がどこかの新聞で紹介されていましたが、コトは日本の医療制度が持ちこたえられるかどうかの話であって、孫の菓子などこの際どうでもいいじゃないか、と思ってしまいます。また私ごとの話になりますが、ここでも過去に書いたように、ウチの父親は一昨年、62歳で亡くなりました。元気だったのがある日突然、大動脈乖離(加藤茶が死にかけたやつ)で倒れて、そのまま亡くなりました。「手の施しようがなかった」ということで(だから治療行為を受けていない)、父は国庫の医療費に何らの負担をかけることなく逝きました。どうもウチの父方の家計には、そういう死に方(突然倒れてすぐ亡くなる)をする人が多いみたいで、父方の祖父も祖母も、似たような経路で亡くなりました。ついでに母方の祖父母もあまり長く生きませんでしたが、母方の祖母はたまに病気をしたときにも、「病院は元気な人がいっぱい来ていて待ち時間が長いから行きたくない」と言っていました。父も祖父母も見事な死に際であったと思います。日本人が皆そういう死に方をするようになれば、この国の医療費の問題は一気に解消するように思います。しかし、言ってる私自身はそんな死に方はイヤだと思っており、病院で適切な治療を受けつつ、末期には妻や子供(子供はまだいませんけど)に看取られつつ死にたいです。そしてそのためには、私自身の医療費負担もさることながら、国庫にかける負担もかなり多かろうと思います。多くの人が幸せに看取られながら死ぬ道をたどるのだとすれば、高齢化社会において国庫の医療費負担は膨大になるでしょう。そんな社会の中で、人はどう生きどう死ぬか、自分が死ぬときには「望みの死に方」ができる社会になっているのか、これは我々一人ひとりが直面していく問題です。だから孫のお菓子など大した問題じゃないでしょ、と思ってしまうのです。
2008/04/19
大阪府の財政の話です。橋下知事と、その直轄化にあるプロジェクトチームが、大阪府の財政再建案を提示。詳しくは見ていませんが、教育費の援助を削減するとか、警察の人員を減らすとか、かなり評判の悪い内容となっているみたいです。家計が苦しくなる、と「ため息まじり」で「途方に暮れる」府民の声が紹介されていました(日経朝刊、社会面)。私自身は、自分で言うのも何ですが、府には相当税金を払ってると思いますし、払ってる以上の公的サービスを受けているとも思わない。幸い、途方に暮れるほど窮乏しているわけでもないし、府で決まったことなら従います。ただあまりに府民税が高くて、かつバカな府政ばかりを行うようであれば、京都か神戸か、別のところに引っ越そうと、ある程度本気で考えています。大阪の土地や人は好きですけど、地方公共団体としての大阪府が私にこれまで何かしてくれたかというと、払った税金以上のことをしてもらった覚えはない。であるにもかかわらず、一部の知事が(橋下さんですけど)言うように「私らの世代が泥をかぶってでも財政改革をしないと」と頭から言われると、「大阪府に対しそこまでの義理はない」と言いたい。ところで橋下知事は、冒頭の財政再建案の提示にあたって、府職員にこう言ったとか(産経朝刊からの引用です)。「これから議論が始まる。府民に議論を巻き起こしてほしい。真剣な議論の先に真実が見える」と。しかし、私としては、別に知事や府職員の方々と財政についての議論をしたいとは思ってはいません。たぶん、府民の方の多くもそう思っていて、日々働いて税金を納めてそれで精一杯だから、財政はそっちがよろしくやってくれ、という気持ちの方が多いのではないのでしょうか。それ以上に私たちに何をせよというのか。「真剣な議論」とか「真実」と抽象的に言われると、そのこと自体は良いこと、否定できないことなので、異を唱えにくいのです。前回書いたように、「裁判に国民の常識を反映させる」ということ自体は良さそうなので、誰も反対しないまま裁判員制度ができてしまったのと同じです。そういうことで私は、府の財政に関する議論には一切加わりません。そこは知事と府職員の方で責任もってやってください。そのかわり、税金は言われただけ払います。ただし、あまりに府がダメになった場合は、府から出ていかせていただきます。と、たぶん府職員は誰もみていないだろうから、ここでこっそりと言っておきます。
2008/04/12
先日、大阪府の朝礼で職員が橋下知事に対し「不規則発言」した話題を書きました(3月27日)。似たようなことは以前から思っていて、続編を書こうと思ってるうちに機会を逸していました。すなわち、一般論として言ってしまっていいと思うのですが、勇ましい発言は一見カッコいいけど、後々周囲を混乱させるだけで何も解決しないことが多い、ということを書きたかったのです。私の狭い経験から書きますが、おそらく似たような経験をお持ちの方も多いと思います。私は大学時代の4年間、つくば市のジャスコでバイトをしていて、早朝の商品搬入作業をしていました。開店前に、出入りの業者(メーカー)が食料品や衣料品といった商品を納品してきて、それを検品した上で店舗内に運び込むという作業をしていたのですが、業者の中にはマナーのあまりよろしくない人もいました。それでも、メーカーとスーパーとは持ちつ持たれつで、些細なことはマアマアと互いにガマンしながらやっていくわけなのですが、ある若いバイト学生は、出入りの業者のちょっとした手抜きにも声を荒げてどやしつけるようなことがありました。もちろん、その場の雰囲気は悪くなるし、当分、その業者とは仕事がやりにくくなります。勇ましく声を荒げた学生くんはその後どうしたかというと、たとえば今後の納品作業のあり方の改善を申し入れるといったことをするでもなく、そのうちヤメてしまいます。残った我々が、気まずい空気の中で仕事を続けることになります。弁護士になってからは、何度かこういうことを経験しました。たとえば、何らかのトラブルがきっかけで、相手(またはその代理人弁護士)から賠償金の支払いを求めるような書面が届いたとします。このとき、対処方法として最上の方法は何だと思われるでしょう。おそらく多くの方のご想像どおり、さっさと(自分の)弁護士に相談に行くことです。ところがたまにいるのが、「まずその相手の(弁護士の)ところに乗り込む」という人です。その後で私のところに相談に来て、得意顔で言う。「ここまでは私が相手の(弁護士の)ところへ行って話をつけてきましたんで、この先の細かい交渉だけは先生にお任せします」と。その「直談判」の内容を聞いてみると、言わなくてもいいことまで言って言質を取られ、余計に不利になっている。かように、ちょっと見てカッコいいと思えることは、周囲を混乱させる(または自分を不利にする)だけのことが多い。身の回りの不満やトラブルが、一片の言葉だけで解決するほどに世の中は単純ではないのです。勇ましい言葉を吐くよりは、黙って問題解決のために動くことこそカッコいいと私は思います。
2008/04/02
結婚してから、家でテレビを見る機会が増えました(結婚前はほとんど家にいませんでした)。少し前のことですが、こんな光景がテレビで繰り返し流れていたので、ご覧になった方も多いでしょう。橋下知事が大阪府の若い職員の前での朝礼中に、ある女性職員が立ち上がって「どれだけサービス残業やってると思ってるんですかー」と反論(?)しました。同じような立場の公務員の人なら(大阪府職員に限らず)そうだそうだと快哉を叫んだかも知れないし、民間ならサービス残業は当然だという意見もあるでしょう。そういうこととは別にして、朝礼中にそんな不規則発言をするのは非常識だという感想もあるでしょう。ワイドショー的に面白いネタというだけでなく、サービス残業の是非(法的には明らかに「非」なのですが)、仕事のあり方、職場の形といったものについて、色んな問題を提起していると思います。新聞報道でも、この発言に触れるものを散見しました(産経夕刊の小欄など)。私の感想はと言いますと、この女性職員は上記発言に引き続いて、正確には忘れましたが、「知事は私たちを分断させるようなことばかり言うてはるんですが…」と言ったのが興味深かったです。「言うてはる」というのが何とも大阪的です。大阪や京都の人が敬語的に使う「はる」は、こういう場面で使うと、論争相手に一応の敬意を示しつつ、かつ言葉が先鋭的になるのを防ぐ効果を持ちます。「言ってらっしゃる」というよりは、場が和みます。この女性職員もそれなりに配慮したのでしょう。と、どうでもよいところをフォローしておいてから私見を述べると、やはりこの女性職員のやったことは非常識だと思います。知事に本当に言いたいことがあるなら、メールするなり、知事室に出向くなり、何らかの方法があったはずです。朝礼の場で突然発言するなど、勇ましいことであって一時的にはスッキリするかも知れないですが、朝礼の進行を乱し、周りを気まずい思いにさせるという結果しかもたらさない。しかも、報道機関が入っており、その姿が報道されるであろうことはわかっていたはずで、それらが今後自分たちの職場にどのような影響を与えるか考えなかったのか。大阪府庁にはこの発言に対する批判のメールが多いという話も聞きましたが、事態収拾のためにこの女性職員が知事や府民に釈明したという話も聞かないし、現に上記産経新聞の記事によると、この発言の真意について取材を申し込んだところ、(本人はどう思ったか知りませんが)上司を通じて断ってきたとか(25日夕刊)。大阪府の職員にとっては、なるべくことを荒立てずに日々の仕事をこなしていくことこそが大事なのであって、知事や府民を相手にサービス残業について論争することは本意ではない。後々を考えない発言で職場をかき乱してしまった女性の発言は、やはり妥当ではなかったと思います。
2008/03/27
秋田の児童殺害事件に関して、畠山鈴香は死刑か無期か、って話題で週末のテレビや新聞が盛り上がっていましたが、そうこうするうちに茨城の荒川沖駅で死傷事件が起こりました。畠山鈴香のことは当分、忘れられるでしょう。何よりこの事件で亡くなられた方の冥福を祈ります。さて、秋田の事件について、量刑感覚についていくつかお話ししました。私自身は、畠山鈴香が無期懲役であって然るべきだとは思っておらず、感情的には死刑でいいと思っています。ただ、ここでは、この事件を離れて、極刑を科すことの大変さについて、私の経験をつけくわえて話します。私が司法修習生として大阪地裁の刑事部にいたころです(平成12年ころ)。司法修習生は判決の評議に加わる権限はなく、見て勉強しているだけなのですが、指導担当の裁判官はよく、「君たちならどう考えるか」と意見を聞いてくることがありました。ある強盗事件を扱いました。被告人は50歳前後の男性で、大阪府内のコンビニにモデルガンとナイフを持って入り、店員を脅してレジから10万円ほどを強奪した。そこだけ見れば、かなり悪質なケースです。もっとも、その被告人の供述調書を読むと、かなり生活苦にさいなまれていたようで、また法廷に立ち会った際に見た被告人はいかにも冴えない姿であり、老いた母親が証人として出廷して涙ながらに情状酌量を訴えていました。私は、この人ならチャンスを与えて執行猶予でいいのではないかと思いました。その部に修習生は私以外にも2人いて、同様の見解でした。強盗罪は最低でも懲役5年なので(刑法236条)、情状酌量を理由に半分に減刑して懲役2年半にした上で、執行猶予とする(懲役3年を超えると執行猶予にできないため)、というのが修習生3人の結論でした。裁判官3人の結論は違いました。減刑すべきほどの事情はなく、懲役5年の実刑判決でした。その部の修習生3人のうち1人は女性で、こう言って裁判官に食ってかかりました。「強かん罪でも最低懲役2年だけで助かる。生活が苦しくて強盗に入ったら最低5年だなんておかしい」と。(注、強かん罪は刑法177条で、当時は懲役2年以上とされていました。現在は3年以上となっています)裁判官たちの判断は変わらず、その被告人は刑務所に送られることになりました。今の私なら、当時の裁判官の判断はだいたい妥当だったと思っています。いかに生活苦でも、凶器をもって強盗することの悪質さからすれば、その程度はやむをえない。刑事事件を扱うときにはいつもこのときの光景を思い出します。被告人を弁護するのも大変ですが、被告人本人を目の前にして刑を科すのもいかに大変か。刑事事件の判決が出るたびに「軽すぎる、おかしい」といった世論を聞きますが、裁判員となった人は果たして「市民感情」に沿った厳罰を下せるのか。逆に情にほだされて冷静な判断ができなくなるのではないか、そういうことも危惧しています。
2008/03/24
イギリス政府が、経営難に陥ったノーザン・ロック銀行を国有化したと。昨日の日経朝刊から。と、普段は国内の小さな事件を取り上げてばかりの当ブログにしては異色のテーマを冒頭にあげてみました。今さらですが、最近になって真山仁の小説「ハゲタカ」(講談社文庫)を読んだのです。以前NHKドラマで断片的に見たのに興味を持ちましたので。外資系ファンドによる日本企業の買収を書いた作品です。上記のノーザン・ロック銀行は、サブプライムローン問題(これも分かったような分からないような話ですがさておき)などをきっかけに経営が悪化し、民間による買収や、経営陣自身が買い取るという案もあったようですが、信用不安を落ち着かせるために国が買い取ったとか。まさに「ハゲタカ」に書かれているような話です。この小説がどこまで事実に近いのかは知りませんが、大阪の片すみでひっそりやってる法律事務所では企業買収なんていう問題を扱うことはないだろうと、気楽に読んでいたところでちょうどこのニュースが出ました。しかし改めて考えてみれば、本質的には同様のことが、私の事務所でも起こっていることに最近気づきました。たとえば、借金問題で相談に来た方の債務整理手続きを進めていると、銀行や大手消費者金融の貸金債権が、聞いたこともないような業者に譲渡され、今後はその業者と話をつけてくれ、と通知がくることがある。これなどは、「ハゲタカ」で外資ファンドが銀行の不良債権を安値で買い取る話と同じです。規模は数十万円か数百億円かという違いはありますが。また、資産を有する個人または会社が、経営難の会社から資金援助を求められ出資するといった話も何件か聞きます。これはまさに企業買収の一つでしょう。もちろんここでその中身に触れることはできませんが、なかなか、うまく企業が再生したという話は聞きません。お金を出すだけでは企業は再生しない、「ハゲタカ」にもそうありました。そんな次第で、読後はこの小説の世界が(規模は違えど)妙に身近に感じられ、早速、続編「ハゲタカ2」を読み始めた次第です。
2008/02/19
時効制度についての考察を書こうと思っているうちに数日を徒過しまして、話はいったん別の話題へ行きます。連休なので(言い訳)、法律以外の雑談を。歌手の倖田來未がラジオで「35歳を過ぎると羊水が腐る」などと発言したことが、えらく問題になっているようです。発言内容はもちろん論外です。倖田さん本人がネットやテレビでいろいろ謝罪・弁解したみたいです。ただ私個人としては、この人が歌手をやってるという程度のことしか知らないし、歌手には人格や素養を求めないし、私には何の実害もないので、どうでもいいといったところです。それにしても生放送は怖いなあと思っていたら、実はその番組が「録画」だったと後から聞きました。そこに私は疑問を感じました。オンエアを止める人はいなかったのか。倖田さんがなぜあんな発言をしたかというと、それはきっとこの人に「35歳を過ぎたオバハンなんかダサい」という意識があり、それがぽろっと出たというだけのことであって、それ以上でも以下でもないでしょう。倖田さんがバカだったということで、それはもう仕様がない。しかし、番組の編集者はなぜ、「今の発言は問題だ、録り直す」と言わなかったのか。また私自身の話になりますが、当ブログでネタにしていたとおり、私も昨年はラジオに出してもらっていました。倖田さんの出ているようなラジオとは比べるべくもない、日曜朝の、誰が聴いているのだろうと思うような時間帯の、大阪ローカルのAM放送です。これも生放送でなく録音で、3分前後のコーナーを、ぶっつけ本番に近い形で収録するのですが、たいていはスムーズに終了しました。ただ1年間を通じて何度か、「今の発言はNG」と、ディレクターみたいな人が録り直しを指示することがありました。NGの理由はいろいろあって、日曜朝の番組なのにパーソナリティのお姉さんが「月曜朝、いかがお過ごしですか」と言ってしまうなどの単純ミスもありますが、お姉さん又は私の発言が「暴走」してしまうといったこともありました。私自身は、「暴走」を理由にNGが出たときなどは、「どうせそんなに多くの人が聴いてるわけじゃないからいいじゃないか」と内心思っていたのですが、一方で、それが放送というものに携わる人の心得なんだなあと感心してもいました。それが今回の騒動です。私が出ていた番組の何万倍もの影響力のあることが明らかな番組で、どうしてこんなことになったか。倖田さんはどうでもよいのですが、放送に携わっていた人の意識を疑わしめるような事件だったというのが個人的な感想です。
2008/02/09
前回の続き。有害サイト規制は大きなお世話だけど仕方ないのかも知れない、という話をしました。しかし、これは行き過ぎなのでは、と思う経験をしました。少し前の当ブログ記事を書いていたときです。4つ前の記事で、キャバクラで起きた無銭飲食事件について、新聞報道では「クラブ」と表記しており、なぜか新聞はキャバクラという表現を使いたがらないと書きました。似た話で、これも以前書いた話ですが、新聞は「女性を強いて姦淫する行為」を「強かん」と表現したがらず、「暴行」と表現する。上の記事を下書きするときには、そこまで書いておりました。そして記事をアップしようとすると、何と、「禁止されているワードが含まれています」出て、アップできません。もしかしてと思って、「強かん」(「かん」は漢字の「姦」で表記)と「暴行」のくだりを削除すると、アップできました。どうも、この楽天ブログでは最近、「強かん」と漢字で書くと、「禁止されるワード」が含まれているとしてアップできないようです。仕方なく、本日の記事においても一部ひらがなで表記しています。ちなみに過去にこのブログでこの話をしたときには、漢字で表記可能でした(過去の記事)いくつか試してみましたが、上記のように、「強かん」ならよい。「姦」の字自体はNGでなく、「姦しい(かしましい)」という表現は可能。バカな話です。いちおう弁護士のブログなので、卑劣な強かん事案についても取り上げることもある。しかしそれを書こうとすると、この楽天ブログが「ワイセツなサイトだ」と判断し、記事を書くことができなくなる(一方で、楽天ブログを利用してワイセツな写真を豊富に掲載したサイトは野放し状態です)。強かんという用語が使えない、というのはおそらく小さい問題で、きっとこの楽天ブログにおいて(そして他のブログも同様でしょう)、有害サイト規制の名のもとに、いくつかの用語がNGワードとされているわけです。それによって、論じたいことを論じることができないという非常な不便を利用者に強いることになります。こういう仕組みを取ることが可能である以上、たとえば楽天を批判するような発言を封じることも可能なわけで、それを思うと、ネットにおける発言の自由というのも、実は極めて脆いものなのだと思います。その脆さに思いを致すと、これからのネット利用がどんどん不便になるかも知れない、そこに不安を感じないでもありません。
2008/02/04
少し前の記事の見出しですが、「ネット利用に不安を感じる 54%」というアンケート結果が出たとか。どういう人を対象に、どれだけの規模で、どういう質問がされたのか、詳細は読んでいませんが、要するに、インターネット上に有害サイトが増えてきたために、ネットを利用する、または子供に利用させることに不安を感じている人が多いということでしょう。不安なら利用しなければいいのに、と私は思います。つい数年前まで、ほとんどの人はインターネットなど利用していなかったし、今でもネットなしで何の支障もなく生きている人はたくさんいるのですから。私自身は、趣味や仕事でわりとよくインターネットを利用します。私に危機管理意識がないだけなのか、ネット利用に不安は感じません。たしかに、たとえば調べものをしていて、普通のサイトだと思ってアクセスしたら、ワイセツなサイトだったりすることもあります。が、それはそれとして見た上で(見るんかい)、必要な情報がなければ閲覧を終了すればよい。クリックしただけで料金が請求される類のものもあるらしいですが、私としてはそういうバカな請求が来たらどうしてやろうかと楽しみにしています(来たことはありませんが)。最近は、あるサイトを閲覧しようとすると、仕組みはよくわかりませんが「有害サイトの可能性があるためアクセスをブロックしています」などといった表示が出て、そのサイトが見れないことがあります。こういうのは大きなお世話だと思ってイライラしてしまいます。私個人は、あるサイトが有害なのかどうか、それは利用する人が自己責任で判別すればよいと思っています。同感の方も多いでしょう。しかしその考え方は、一部の良識ある大人だけがネットを利用していた時代だけに成立するのであって、今やそう言って放っておけないほどに、インターネットが多くの人に広がりすぎたということでしょうか。そんな次第で、有害サイト規制というのは、大きなお世話だけどある程度は仕方ないのか、と思っておりました。ところが最近、これに絡んで一部で恐ろしいことになっていることに気付きました。実はそのことを書きたかったのですが、前置きが長くなったので次回に引っ張ります。
2008/02/03
昨日の日経夕刊より。将棋界(日本将棋連盟)や囲碁会(日本棋院)が、大手進学塾と提携を進めていると。子供向けの将棋や囲碁のセミナーやイベントを開催し、「脳を鍛える遊び」ということで保護者も理解を示しているとか。少し前から、脳を鍛える「脳トレ」が流行りです。脳トレを目的としたゲームなんかが売れています。それで私がずっと思っていたのは、「そんなに脳を鍛えたいのなら、『詰め将棋』でもやればいいのに」ということです。「詰め将棋」とは、与えられた局面から所定の手数内で敵の王将を詰めるという、いわば将棋のパズルです。将棋を指す相手がいなくても1人でできる。私は小学校のころから将棋が好きで、よく詰め将棋の本を買っていました。今でも書店に行けば、詰め将棋の本はたくさん並んでいて安価で買える。詰め将棋が私の脳にプラスになったかどうか、それは検証のしようがありません。しかし、将棋的なモノの考え方(たとえば、相手の出方を読みながら攻める、序盤から終盤のことを考えて手を打つなど)は、人生のいろんな場面で役立ってきたような気がしています。子供たちも将棋によって、脳を鍛えるという目的もさることながら、それよりも大きな、「人生に勝つための思考力」を養ってほしいと思います。少し話が変わりますが、私は弁護士業務の傍ら、司法試験予備校や大学で講義をしたりしています。予備校からは司法試験受験用と銘打ったテキストもたくさん出ており、業務上の必要からそういったものに目を通しています。しかし、予備校講師をしている私が言うのも何ですが、司法試験に受かるために最も肝要なのは、そういった受験用テキストよりも、書店に並んでいるまっとうな教科書を読むことだと考えます。最初はとっつきにくいと思われるような教科書の文章でも、筋を追って読んでいくうちに、条文や判例の知識だけではなく、読解力や論理的思考力が養われるように思いました。私が世間の平均よりはずいぶん早く司法試験に受かったのは、教科書をしっかり読んでいたからだと信じています。昔は、学びでも遊びでも、身の回りに当たり前に存在するものを当たり前にこなすことによって、いろんな必要な能力が身についたような気がする。脳トレ用のゲームソフトとか、受験用のテキストとか、特定の目的を即席で達成できるかのような類のモノは、手軽な反面、実は本当に得るべきもっと大きなものを落としてしまっていると思っています。
2008/01/30
わが大阪府の知事選挙ですが、ご存じのとおり、橋下弁護士が当選。私が誰に投票したかはさておき、ここまで圧勝するとは思っていませんでした。橋下氏とは、私が司法修習生だったころ、一度お会いしたことがあります。9年ほど昔ですから、橋下氏がメディアに出る前で、「茶髪」になる前でした。要するに就職説明会みたいな場で、弁護士と司法修習生が顔をあわせて、うまくマッチすればその事務所に就職する、というものです。そこで会った黒い髪の橋下氏が、弁護士業務のあり方をいかに改革するかについて熱く語っておられたのが印象に残っています。もっとも、今となってはその内容はすべて忘れてしまったのですが。私は橋下氏とそれ以上の縁はなく、別の法律事務所に就職しました。それから数年たって、その橋下氏がタレントとなって、よくテレビで見かけるようになり、「これがアンタの言ってた弁護士業務の改革かい!」と、あの熱い語りはウソだったのかと、心の中で突っ込んでいました。しかし、もしかしたら橋下氏はもともと、弁護士業務改革だけでなく政治改革に対する野望があって、それを視野に入れてのタレント活動だったのかな、と勝手に深読みしています。それにしても、今回の府知事選挙では、橋下氏の他にも大阪弁護士会の所属弁護士が候補に立ち、5人の候補者のうち2人が弁護士でした。私などは、政治的なもろもろのこと(利害調整、口利き、駆け引き、多数決、対立陣営への説得などなど)が嫌いで弁護士になったという部分もありますので、政治をやりたがる同業者の気持ちはよく分かりません。個人的には、未開の国ならともかく、それなりに成熟した都市や国の政治経済が、一人の知事が交代することによって劇的に変わることはないと冷ややかに受け止めてはいるのですが、いちおう同業者の先輩ということで、横山ノックさんみたいな失脚をしない程度にがんばってほしいと思っています。
2008/01/28
当事務所の業務は本日で終了です。新年は7日からの予定です。ブログは思いつきでたまに書いていきます。まあどうでもいいようなことですが、流行りと持てはやされている物事には、スポンサーの意向が絡んでいることが多いから気をつけましょうという話です。前回にも書いた「おは朝」の番組では、「セレブ」が飲んでいる「ミクソロジー」なカクテルの例として、大阪市内のあるバーで実際にその手のカクテルを作ってもらって飲んでいる映像が出てきました。「高級ウォッカ」として売り出し中の特定の銘柄のウォッカがレシピに挙がっていました。そこのメーカーまたは輸入業者がスポンサーなのだろうなと思いました。(ちなみに上記のバーには私も何度か行ったことがあるのですが、店主のバーテンダーは大変マジメな方です。スポンサーの意向とは関係なく、このウォッカとフルーツを使って何かカクテルを作ってくれと依頼されたのでしょう)その他にも番組内では、今年の音楽はこんなものが流行ったと、いくつかのCDが紹介されていました。その中のあるCDは、わかりやすいことに番組中にCMが流れていました。「ロハス」という言葉も今年流行ったと紹介されましたが、これなども聞くところによると、もともと商業的に活用することをもくろんだ用語で、商標登録もされているとか。こういったことを挙げていくとキリがないのかも知れません。流行には必ず仕掛け人がいるとも言われますし、いちいち目くじらを立てるほどのことはないのかも知れません。ただ個人的には、カクテルを「セレブが飲んでる」などと底の浅い売り込み方をしてほしくなかったし(バーに若い女性が来て「私たちってセレブ~」とか言ってたらうっとしい)、レシピとして高級ウォッカじゃないとダメかのような紹介をされるのも腹立たしい(ウイスキー好きなので)、そう思ったまでです。さて今年明らかになったいくつかの食品偽造は、たぶん氷山の一角でしょう。そして今後もなくならないでしょう。流行りだとか、テレビで言ってるとか、ラベルに書いてあるとか、それのみを妄信すべきではなく、自分にとって良いモノは何か、それを自分の目で判断したいものです。ということで何とかまとまったでしょうか。
2007/12/28
更新をしばらくさぼっている間に、今年も残すところあとわずかになりました。テレビを観ていると、今年のニュースを振り返る、なんてコーナーが多くなりました。今年は、バラバラ殺人などの猟奇的事件で幕を開け、食品偽装で謝罪の面々を飽きるほど見せ続けられ、後半では銃による事件に身震いした、悪くいえばそんな1年だったかと思います。さて、マンションに引っ越してから、AMラジオの受信状況が悪くなって、これまであまり見なかったテレビを出勤前に観ているのですが、上記の話にも絡んで、今朝テレビを観ていてアレッと思ったことを書きます。「おはよう朝日です」(以下「おは朝」。関西ローカルです)で今朝、今年流行のモノや言葉を振り返るというコーナーがありました。そこで出てきた言葉の一つが「ミクソロジー」。正確な定義があるわけではないと思いますが、要するにお酒、カクテルです。特に、新鮮なフルーツを使ってカクテルを作ることを、この言葉で表すことがあるようです。「ミクソロジー」的なカクテルを作る人のことを「ミクソロジスト」と呼んだりもします。(なお、私自身は、普通に「バーテンダー」と呼べばいいと思うので、この呼び名は使いません)問題を感じたのは今朝の「おは朝」の解説で、「ミクソロジー」の解説として、要旨「新鮮なフルーツと高級ウォッカを使ってカクテルを作ること」とあったことです。今年、たしかに雑誌に「ミクソロジー」なんて言葉が登場した時期がありましたが、そのときには、使用するお酒としてウォッカ、それも高級ウォッカに限る、そうじゃないとミクソロジーカクテルとは呼ばない、なんて話は一切なかったはずです。「おは朝」では上記の解説に引き続き、「シャンパンにかわって最近の海外のセレブが飲んでいる飲み物だそうです」と、いかにも浅薄なナレーションが行われていました。ここまで来ると、メーカーが宣伝費を払ったのだろうなと想像しました。「ミクソロジー」という言葉が「そんなの関係ねえ」くらいに流行ったわけではないのに(お酒好きでない人の多くはこの言葉をご存じなかったでしょう)、今年の流行りとしてテレビで紹介される、そのレシピとして「高級ウォッカ」に限定されるかのような解説がされる。ここにもし高級ウォッカ会社の思惑とお金が絡んでいるとしたら、これはタイアップを越えた一つの「偽装」なのではないかと思うのです。お酒の話になると本業の話以上に熱を帯びてきましてすみません。こういった話がもう少し続くかも知れません。
2007/12/26
久々に、新聞記事と関係なく雑感を書きます。先日、朝一番の裁判を終えて、裁判所から自転車で帰り道を走っているときでした。狭い道の向こうから、6、7人の幼児の一団が歩いてくる。その引率をしているのは西洋人の男性です。保父さんに外国人を雇っている保育所が付近にあるのか、そのへんはよく分かりません。その西洋人とすれ違いに目が合った瞬間、彼が満面の笑みを浮かべながら「グッドモ~ニ~ング!」と言いました。私は虚をつかれた感じで、黙って通り過ぎました。無愛想な日本人だと思われたことでしょう。私は裁判所からの帰りで、その事件の今後の進展のことや、その日のその後の予定のことなどを考えていた。前から歩いてくる幼児の一団は狭い道いっぱいに広がって歩いていて、それは幼児だから仕方ないにしても、引率の外国人男性は幼児のほうを向いていて、前から私の自転車が進んでくるのに幼児を整列させて道をあけるそぶりもなく、正直なところ私は「何だこのガイジンは」と思っていた。それでたぶん私はちょっと怖い顔をしていたでしょう。そんな場面で突然「グッドモ~ニ~ング!」と言われても、にこやかに返す気にはなれませんでした。上記の外国人男性は、引率している子供たちに、あいさつすることの大切さを教えているのかも知れない。そのこと自体は悪いことではないと思う。しかしそれ以上に、前をきちんと向いて歩くこと、前方から通行してくる人がいたら整列して道をあけることを教えるべきであるように思いました。そして、私が子供たちにもっと教えたいのは、世の中にはいろんな状況の人がいること、だから人と接するときには慎重さや礼儀を失ってはいけないこと、そしてすべての人が君たち子供を友達と思ってくれているわけではなく、誰もが君らに明るく朗らかに接してくれることを期待してはいけないという現実です。と感じるのはすねた大人の考え方でしょうか。木枯らしの中でふとそんなことを考えていました。
2007/12/14
前回に引き続き、私ごとの報告です。新居への引越しも無事終了し、新生活を開始することとなりました。もちろん、事務所の業務にはいささかの変更もありません。そして事務所には依然、離婚の案件はちょくちょくあります。年金分割制度が始まって、もう少し離婚が増えるかと思いましたが、私の実感では増えたとは感じません。統計的にどうなのかは存じませんが。ただ、離婚訴訟にまで至るのは少なくても、ちょっとした相談はコンスタントにあります。相談の場で、自身の配偶者がいかにひどい相手であるかをあげつらう人もたまにいます。これらの人も結婚当初は今の私のような、早く妻の待つ家に帰りたいという気持ちだったろうにということを考えると、人の心の移ろいやすさを思わざるをえません。自分が当事者となって結婚したときにも、そんなことばかり考えてしまう弁護士という職業は、幸福なのかどうか分かりません(私はこの仕事が好きですけど)。離婚はしたいけど、マイホームのローンの残債務が残っていて、財産分与どころの話ではなく、負債が残るので離婚しようにもできない、というケースもちょくちょく見かけます。結婚直後にマイホームを購入したケースでよく聞く話です。終の住家を構えてまでこうなるとは、これまた人の心の移ろいやすさを思います。ちなみに私と妻(婚姻届はまだですけど)の新居はマンションを賃貸で使用してます。とはいえ決して、離婚時のローン残を配慮したものではなく、ひとまず賃貸で暮らして、終の住家は2人でゆっくり考えようという趣旨です。新居を選ぶにもそういうところに計算が働いてしまう点、弁護士という職業は幸福なのかどうか分かりません。妻またはそのご両親から「つまらないことを書くな」とクレームが来た場合は、この記事は削除させていただきます。
2007/11/06
前回、NOVAが民事再生手続に入ったと書きましたが、報道によりますと民事再生法ではなくて会社更生法の適用を受けたみたいですね。お詫びして訂正します。詳細はともかく、どちらも、破綻しかかっている会社の再建のための手続です。さて今回は、完全に私ごとながら、ご報告ということで書かせていただきます。この度、縁あって結婚することとなりました。当ブログ読者の方は私の身の上に興味ないかとは思いますが、現在私は36歳の独身です。これまで気楽な独身生活を楽しんでまいりましたが、ようやく落ち着くことになりました。入籍は今月の予定で、挙式だとか披露宴だとかいうのは現在特に予定していませんが、間もなく、新居での居住を開始する予定です。当分、私生活でも慌しくなりだして、それがまた当ブログの更新に影響するかも知れませんが、更新頻度が落ちた場合は、ブログそっちのけで仲睦まじくやっている(もしくはモメている)とご想像ください。仕事がら、結婚に関しては、それが破綻する場面ばかり見てきたのですが、自分自身の結婚に関してはどうなりますやら、体験してみます。これからは、離婚その他夫婦関係に関する法律相談について、実感を伴った回答をすることができるであろうと、それが結婚することの大きな喜びの一つです。…などと書くと婚約者がもしこれを見てると怒るかも知れませんが、そういう気持ちで人生の新たな段階に向かいたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
2007/11/02
国選弁護制度の実態と問題点について、体験を交えてシリーズとして書こうと、それなりの着想を持って書き始めたのですが、一回休みで別の話題。ほら、こんなことになったじゃないか、という話。何がって言うとボクシングの亀田選手の話です。ここで語るに値しないと思っていた話なのですがちょっとだけ書きます。多くの人にとってご存じかと思いますが、ボクシングの亀田大毅選手、試合前から相手(チャンピオン)を侮辱し、試合中は故意としか思えない反則行為をし、負けた。ボクシング協会は本人とセコンドの父親に出場停止等の厳重処分。今朝のテレビニュースでチラと見ましたが、父親と大毅選手本人が謝罪会見をしたものの、本人は何も言うことなく、会見開始後ほどなく係員(何者か知りませんが)に誘導され何も言わぬまま退出。またまた、謝罪や説明を果たすべき立場の者が、精神的に参っているという理由でダンマリを決め込んでしまうという事態になりました。すでにここでも何度か書いたように、最近のめぼしいところだけでも、黙ってモンゴルに帰ってしまった朝青龍と、辞任について説明する前に入院してしまった安倍前総理。 前の記事横綱や総理大臣がこんなだと、きっとマネする人が出てくると思ったら、さっそく出てきてしまった。大毅選手が18歳でまだ若いから、とおそらく父親は言うのでしょうが、そんな抗弁は通用しないと言うべきです。大毅選手は一人のプロボクサーですから。民法を知る方ならご存じのとおり、未成年者がやった契約は後から取り消すことができる。しかし、親の承諾のもとにやったことや、親から営業することを許されてしたことについては成年者と同じ扱いになって、取消しはきかなくなる。親の公認のもとにプロとして活動している者には、子供だからという言い訳はきかないわけです。父親は試合後からコメントで、大毅選手が精神的に追い詰められているといったことを話しているそうです。たしかに、勝たないといけないという重圧はあったでしょう。世間からのバッシングもすごかったでしょう。一部マスコミが煽ったので調子に乗ったら手のひら返して批判を受けてしまってショックでしょう。その点はわからなくもないです。しかし、大毅選手に求められていることは何も難しいことではない。試合が終わったら相手を讃える。試合前に何らかの非があったらそれを詫びる。そんなことくらい、プロデビューして間もない4回戦ボーイだってやってますよ。もう書きませんけど、横綱も、総理大臣も、世界戦を狙うプロボクサーもこんな体たらくです。世の中に警句を吐いてしたり顔、みたいなことはしたくないのですが、それにしてもだらしない世の中になったものです。
2007/10/18
連休ボケのせいか、あまりきちんとした話が思い浮かばないので、雑感を二つ書きます。1本日10月10日、大阪市内は秋晴れの空が広がっています。こういうときに運動会でもやれば気持ちよいのだろうけど、8日(月・祝)に開催して雨にあったという方々も多いのでは。今朝、浜村淳氏のラジオでやっていたことの受け売りなのですが、体育の日を従来の10月10日から、10月の第二月曜日に変更してから、8年間で6回、雨が降っているのだそうです(数字は微妙に間違っているかも知れませんが、だいたいそういうところです)。従来の10月10日は、ほとんど雨が降らない日だった。「晴れの特異日」とまで言えるかどうかはともかく、そういう日だった。(特異日=毎年、特定の天候が高確率であらわれる日のことで、手元の辞書では、11月3日は晴れ、9月24日は台風の特異日らしい)それを、ハッピーマンデーだか何だかで、連休を取りましょうなんてことを奨励するから、結果として運動会には適さない日が体育の日になってしまった。無趣味な私としては、そうまでして連休を取りたいかな、という気持ちです。2昨日、所用で東大阪市内を歩いていたときのこと。背後から「先生」と声をかけられました。人通りの少ない道だったので、たぶん自分のことだろうと思って振り向きました。やや年配の、人のよさそうな男性だったのですが、さて、昔に何らかの事件の関係でお会いした依頼者だろうかと考えながら、あいさつを返しますと、その方はおっしゃいました。「テレビ観ました」と。先日ここでもお知らせしたことのある、サンテレビの「ファンキーチューズデイ」をご覧いただいていたのだそうです。大阪の朝の番組といえば「おはよう朝日です」だろうし、出してもらっておいてサンテレビには失礼ながら、誰が見てるんだろう、と思っていたのですが、こうして実際に観てくださっている方はいるのだな、と少し感動しました。それにしても、テレビの数分間の映像で見て、それを記憶していて、約2か月後に街なかですれ違ったときにそれを思い出すとは、すばらしい記憶力です。テレビをきっかけに街で声をかけられた、生まれて初めての経験でした。一生のうちにこういうことが再びあるのかないのか分かりませんが、少なくとも、犯罪や不祥事で顔を覚えられないようにしたいものです。
2007/10/10
書こうと思いつつ他の話を書いているうちに、時期おくれになった感がありますが、安倍前総理の辞任記者会見についてです。医師立会いのもとで行われた会見は、痛々しくて同情を感じなくはないけど、マズイことやったなあと思う。以前も書いたように、何も言わずに国に帰った朝青龍に比べれば、いちおう説明はしただけマシだとは思います。でも一国の総理大臣ですよ、体調は悪いか知らないけど、自分の辞任について説明するにあたって、医者が立ち会ったのです。しゃべっていて体調が悪くなったら、いつでもドクターストップがかけられるようにということでしょう。過去にこんなことはたぶんなかったかと思うし、これが先例になってしまうのが怖いです。政治家や総理大臣が何らかの問題についての説明責任を果たすに際して、体調不良を理由に医師が立ち会う。記者から厳しい追及を受けたりすると、ドクターストップだと言って会見が終了してしまい、結局説明は果たされないまま終わったりする。政治家に限らず、多くの人がこれをマネするかも知れない。たとえばある会社員が会社内で不祥事を起こして、上司や取引先に事情説明や謝罪を行わないといけないことになったときに、「体調が悪いから医者と一緒じゃないといけない」などと言い出すかも知れない。これらが杞憂であればよいのですが、私自身、弁護士として仕事をしていると感じるのです。何をするにも「弁護士の立会い」を欲する方はけっこういます。たとえば、これから妻と離婚の話をするから立ち会ってほしいとかいった話です。これらの人にとってまずすべきことは、自分の口で然るべき説明を果たすことです。その上で、見解の相違があって法的問題になりそうであれば弁護士に依頼すればいい。その程度の説明も果たさないまま、とにかく最初から弁護士に一緒にきてほしいと言う。何らかの説明責任を果たさないといけない状況になった際、「医師や弁護士に立ちあってもらって、何かあったら助けてほしい」という気持ちは、多くの人が有するでしょう。ただその一方で、「そんな場面で人に頼るのは恥ずかしいことだ、自分できちんと説明しなければ」という倫理観も多くの人が持っていると思う。しかし、安倍前総理がああいう形の会見をやってしまったことで、「なんだ、こういうのもアリなのか」と思った人も多いかも知れない。その影響は、いろんなところでジワジワと現れてきて、この国を「美しい国」どころか「だらしない国」に導くことになるような不安を持つのです。
2007/10/02
安倍総理が突然の辞任表明。法律家として特に申し上げることはないので、ああそうですか、という感じです。なぜ今やめたのかとか、安倍政権の功罪や残された課題とか、その辺の政治的な話はわかりません。いかにもあっさりやめたという印象です。自分がやめないとテロ特措法などの国会審議が進まないと言ったそうですが(じゃあやめると進むのか?)多くは語らなかった。で、与謝野官房長官が「実は以前から体調が悪かった」とフォロー。これは何だか、同情を買っているみたいでイヤらしいなあという印象を受けました。政治家が体調が悪いなんて、管理がなってないということで恥ずべきだし、支持者だって離れていく(いつ死ぬかわからない権力者に人は寄ってこない)から、本来は隠しておくべきことのはず。安倍総理が自ら同情を買うため言わせたか、とも勘ぐるのですが、そこまでしないにしても、自分の側近には「オイ俺の体調のことは言うなよ」と釘を刺すべきだったかと。不謹慎な言い方かも知れませんが、職責を放棄するときに「心身の不調」を持ち出すのが最近の傾向かも知れません。その最も顕著な例が朝青龍です。話は変わりますが、これまで最も規模の大きな政権放棄をしたのは誰かと言うと、徳川慶喜でしょう。大政奉還です。あれも、「ほったらかしにして逃げた」とずいぶん批判されました。でも慶喜本人は(同時代を生きていないので知りませんが)、聞く限りでは言い訳とか同情を買うとか一切しなかった。健康で、豚肉とかマグロとかよく食べていたらしい。開き直った者の強さでしょうか。まあ、安倍総理、何も言わずに祖国に帰ってしまった朝青龍に比べると、ちゃんと「やめます」と言ってから辞任しただけよいかと思います。かように私自身は安倍総理を個人的に批判する気にはならないので、ここは開き直って静養しつつ、豚やマグロでも食べて体を養ってほしいです、と思っていたら先ほどネットのニュースで入院したとありました。とりあえずお大事に。
2007/09/13
朝青龍がうつ病で引きこもり状態になっている件で、今朝の毎日に精神科医の香山リカ氏が言っておられた。精神の病気というのは確かに存在する、そのことが認知されるようになったのはよいが、最近は、何でも精神の病気と捉えてしまい、例えばちょっと仕事にやる気が出ないというだけで、精神科医に相談に来る人が多すぎないか、と。仕事にやる気がどうしても出ないときは誰にでもある。私にでもある(二日酔いのときとか)。中には本当に病気の方もいるだろうけど、その多くは、自分の力で克服されるべきものだと思う。(こういった話はちょうど1年前にも書きました。過去の記事)朝青龍の問題については、香山氏は、謝罪して相撲協会の処分を受け入れた上で、改めて出直すというのが本来とるべき道なのに、朝青龍のやったことは精神科医の診断を受けることだった。医者が「病気」だと言えば、周りが何も言えなくなってしまった、と指摘する。ここから先は私見ですが、たしかに、精神の病気だと言われてしまうと、それ以上に何も言いにくい風潮がある(私はそれがむしろこれらの病気に対する偏見を助長していると思う)。そして、朝青龍がそうであるかどうかは知りませんが、その風潮を利用しようとする人々が、世の中には結構いるように思えるのです。私にも何度か経験があります。ある人が不祥事を起こす。将来、民事事件や刑事事件に発展して責任を問われる可能性がなくもない。そのときにすべきことは何かというと、迷惑をかけた相手がいるなら謝罪し賠償する。ことが刑事事件であれば捜査当局に自首する。これは誰にでも明らかなはずです。ところがある人は私にこう尋ねる。「私は今、精神的にまいっていて、どこかおかしいかも知れない。まず先に病院に行ったほうがいいと思うのですが」と。精神的に病気であると言われれば、たとえば事件が大っぴらになっても新聞報道に名前は出ない、刑事事件になっても罪が問われない可能性もある(刑法39条です)、そういった効果を狙っているわけです。事件を起こす人の心の中は、それはたしかに正常ではないかも知れない。しかしそれが医学上の精神障害に該当するのは稀でしょう。「病院に行ったほうがいいかも知れない」と弁護士に相談するという合理的計算ができている点からしても、その人は病気ではないと思う。このように、精神の病気は「利用」されることがある。朝青龍が本当に病気かどうかはともかく、天下の横綱ですらこういうことになってしまったので、今後この傾向が強まるのではないか、そしてそれが本当に深刻な病いを抱える一部の人への偏見をまた助長するのではないかと、それを懸念します。
2007/08/22
前回、終戦記念日に関する雑文を書きました。少し前の毎日新聞のインタビュー記事で見たのですが、8月15日を第二次大戦の「終戦」の日と捉えているのは、日本と、せいぜいその近隣の国だけらしいのだそうです。法的にいうと、あの戦争が終わったのは、日本が降伏文書に調印した昭和20年(1945年)の9月2日なのだそうです。たしかに、あの年の8月15日に何があったかと言えば、昭和天皇の「耐え難きを、耐え…」という「玉音放送」が行われたという、国内的なイベントしかない。言われてみてなるほど、と思いました。憲法の勉強をしていても、戦争がいつ終わったのかというのは重要なトピックです。代表的な憲法の教科書には、1945年の8月にポツダム宣言を受託したことによって、天皇主権の国家体制が終焉を告げることになり、「革命」が起こった。それにより主権者は天皇から国民に移った、と説かれている。一方、翌年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法を見ると、最初に、「朕(昭和天皇)は、(中略)帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれ(日本国憲法)を公布せしめる 御名御璽」とあって、あたかも天皇が日本国憲法を定めたかのような形になっているけど、日本国憲法はあくまで上記の「8月革命」によって主権者となった国民が作った「民定」憲法なのだ、と説明されている。ポツダム宣言を受託したのが9月2日だということになると、上記の説明は事実と異なる、ということになるわけです。ここ数年、8月15日になると、テレビの報道番組なんかで、街の若い人たちに「今日は何の日か知ってる?」とインタビューして、「知らない」と回答する若者の映像が紹介され、「終戦の日も知らんのか」とオトナたちが嘆くのを見たりしますが、この日が終戦の日だという理解も、実は正確でないわけです。8月15日はあくまで「お盆」ということで、亡くなった人の慰霊の日として過ごし、終戦そして平和や戦争放棄に思いを馳せるのは9月でいいではないかというのが、上記記事の言うところでした。ものすごく個人的なことですが、今年の8月15日は私にとって死んだ父親の初盆でした。終戦とそして平和に思いを馳せるのは、私も9月になってからにしたいと思います。
2007/08/17
終戦記念日です。終戦から62年。ところで最近読んだ本として、「幕末入門」(中村彰彦著 中公文庫)が興味深かったです。幕末維新の原動力となった薩摩・長州両藩、その間に立った土佐藩、さらに「敵役」である会津藩や新撰組にもスポットをあてています。それだけでなく、明治国家が成り立つまでに裏面で行われた騙しや恫喝などの「暗部」をも冷静に検証し、明治維新は相当の虚偽や無理を伴って成り立ったものであったと述べる。そういう無理やりな体制であったためか、第二次大戦で敗れて明治の国家体制が消滅するまで、わずかに77年(1868~1945)。明治維新で倒された徳川幕府のほうが、264年(1867~1868)と、圧倒的に長く保っている。明治の国家体制がどうして滅亡に至ったか、もう少し具体的にいうと、「統帥権干犯」(とうすいけんかんぱん)の問題が挙げられるでしょう。大日本帝国憲法第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、つまり軍隊の指揮権は天皇にあると規定されており、実際には、軍部がそれを握って天皇の名で統帥権を行っていた。政府の者が軍部に何か言おうとすると、「天皇陛下の統帥権に口出しするのか」と言って寄せ付けず、無理な戦争へ暴走した。(以上、「日本史から見た日本人・昭和編」(渡辺昇一著 祥伝社))維新の元勲が生きてたころは軍部に睨みがきいたけど、彼らが死ぬとそれができない。そこまで見越して憲法の条文を作っておかなかったのは、いま思えばワキが甘かったのかも。そして敗戦。日本国憲法のもとで新たな国家体制ができてから62年。実はまだ、明治の国家体制の存続期間に比べると、15年も足りない。日本国憲法は、軍隊の存在を認めず、議院内閣制を取るなどによって政府が暴走しにくくなっています。この体制がうまくいくのかどうか、明治憲法よりよかったと言えるのかどうかは、まだ結論が出ていないのです。唐突ながら、かように政治体制が変転しても、国家として二千年以上も同一性を保ってこれたのは、天皇制のおかげかも知れないと思ったりもしました。天皇制に賛成か反対かとか、天皇陛下が天照大神の子孫かとか、それはこの際どっちでもよい。幕府を倒して新国家を作るための権威が必要だとか、世界を相手の戦争がにっちもさっちも行かなくなって終戦の聖断を仰がないといけないとか、国家存立に関わる大ごとがあるたびに担ぎだされてきた天皇も大変だと思います。そんなことも思いながら、短い盆の期間を利用して伊勢神宮に行き、天照大神にお参りしてきました。と、話がバラバラになりましたが、小難しい話はともかく、伊勢・鳥羽観光を楽しんでまいりました。久々に写真をアップしますが、下のがその一コマです。ということで、お盆明けも職務に邁進いたします。
2007/08/15
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