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小室哲哉が保釈されて大阪拘置所から出てきました。保釈保証金の金額は3000万円だそうです。この保釈と保証金について書きます。何らかの犯罪の容疑で逮捕され、その後、取調べの必要があると判断された場合は、「勾留」(こうりゅう)されることになる。期間は10日間ですが、1回は延長がきくので、たいていの場合は20日間は勾留される。20日間の取調べを経て、検事が刑事裁判に持ち込もうと判断すると、その事件を起訴することになります。起訴されるとだいたい1か月後くらいに刑事裁判が始まるのですが、取調べはいちおう終了しているので、もはやその被告人を勾留しておく必要はなくなる。そこで、「後日の裁判の際にはきちんと法廷に来てくださいよ」という条件のもとに、被告人を出してあげるのが保釈です。ただ、保釈してそのまま逃亡されると困るので、お金を出させて、「逃げたら没収しますよ」ということで裁判所がいったん預かる。それが保釈保証金です。きちんと裁判を受ければ返してくれるのですが、いったんは現金で預けないといけないので、お金がないと保釈もしてもらえない、というわけです。小室哲哉の場合はその金額が3000万円とされました。最近の有名なところでは、村上ファンドの村上は5億円、ライブドアの堀江は3億円だったかと記憶しています。この金額はどうやって決まるかというと、簡単に言えば、事件の大きさと、逃亡の可能性と、その人の財力で決まることになります。もっと具体的にいうと、保釈するか否かを判断する裁判官と、その被告人の弁護士との「交渉」で決まります。私はさすがに、何千万とか億単位の保証金を納めたことはありません。一般的な刑事事件なら、200万円前後ではないかと思います。担当の裁判官と、面談または電話で話して、裁判官「保釈金はどれくらい用意できそうですか」弁護士「本人も決して裕福ではありませんので、何とか100万円くらいで…」というふうに値切ることもよくあります。お金がなくて詐欺を行なった小室哲哉ですから、保釈保証金なんて準備できないのではないかと思っていたのですが、どこかから用意してきたのでしょう。それにしても、5億円という巨額を騙し取ったという事件の大きさからすると、3000万円という保釈保証金は正直「安いな」と私は思ったのですが、きっと弁護士が相当に値切ったのだろうなと思います。そして小室哲哉も一時のことを思えば経済的に相当苦しいのだろうなと想像しています。
2008/11/22
厚生労働省の元事務次官を狙ったと思われる死傷事件が起こりました。犯人と、その動機についてはまだ未解明の部分もありますが、おぞましく、そして憎むべき事件です。厚生行政に恨みがある人の犯行であるのかどうかは知りません。厚生労働省と旧厚生省の政策については、最近の年金問題や薬害問題その他、諸々の批判があるのも事実でしょう。しかし、そのことと、人を殺すことは全く別問題です。今日(19日)、夜のニュースで「街の人の声」というのがいくつか流れていましたが、「ここまでの事態にしてしまった政治の責任は重いと思う」という趣旨の発言をする人が複数いて、私個人としてはとても嫌な気持ちになりました。厚生労働省のお役人のやることだから「政治」部門の問題でなくて「行政」部門の話だろうとか、そういう些細なことはどうでもよい。卑劣な犯罪が起こったときに、それを安易に社会や政治のせいにしてしまう考え方が恐ろしいです。かつて当ブログでも取り上げたかと思いますが、私が筑波大学在学中に、イスラム学の学者で「悪魔の詩」(マホメットを冒涜しているとされた書物)を翻訳した五十嵐一助教授が学内で殺害されました。そのニュースに接したいわゆる「文化人」がテレビで「イスラムに対する理解が足りなかったのではないか」と言ってしたり顔をしているのと同じような嫌な感じを受けます。法治国家であるこの日本においては、どんな理由であれ、暴力で言論を封ずるとか、気に入らぬ政治・行政に暴力で報いるとか、そういうことがあってはならないのです。まだまだわからないことが多いこの事件ですが、そのことを改めて強く感じました。
2008/11/19
ズボン姿であっても、女性を隠し撮りする行為は有罪である、と最高裁が判断(本日朝刊より)。31歳の男性が、27歳の女性の臀部を、携帯電話のカメラで撮影したと。その行為が「迷惑防止条例」が禁止する「卑猥な言動」にあたるとして有罪になった(10日)。刑罰はといいますと、罰金30万円らしい。刑法では、体をさわる行為は強制わいせつ罪で処罰されますが(10年以下の懲役)、写真を撮るといった行為は処罰されない。それでもたいての県や市には迷惑防止条例があって、こっそり撮るのも「迷惑行為にあたる」ということで処罰されることになっています。本件は、スカートの中を写したという典型的な態様ではなく、ズボンの上からでもダメといったところが目新しい。じゃあ何だ、街なかで風景写真を撮っていて、その中に通行人の女性の後ろ姿が写っていたら罰金30万円になるのか、と息巻く人もいるかも知れませんが、もちろん、そんなことにはなりません。この件は、やり方がちょっと行きすぎだったということだと思われます。新聞記事によると、スーパーマーケットで買い物中の女性に、5分間、距離にして40メートルにわたって後をつけ、1~3メートルの背後から臀部を11枚撮影したということで、ちょっとあからさまな感じがする。条例が禁じる「卑猥な言動」とは、「性的道義観念に反する下品でみだらな言動」をいうと最高裁は言いました。要するに「スケベ根性が見てとれる言動」のことで、上記の行動はこれにあてはまるということでしょう。(それにしても、こんな不明確な言葉で犯罪を定義してよいのか、という点は問題になります。憲法上は、明確性の理論とか合憲限定解釈の議論につながるのですが、ここでは省略)個人的には、この被告人の行動は軽犯罪法が禁じる「他人につきまとう行為」(1条28号)のほうがピッタリくると思います。でも軽犯罪法が定める罪の重さは、30日未満の拘留または1万円未満の科料までにしかならない。そこで検察としては、解釈上の疑問がなくはないけど、条例の「卑猥な言動」のほうを適用してみた、ということでしょうか。ちなみのこの事件は平成18年7月、旭川市内で起こったとのことです。旭川とはいえ夏ですから、女性は薄着で、男性としてそそられるものがあったのかも知れません(実際はどうだったか存じません)。もちろん、女性がどんな服装をしていようと、男性がそれを性的興味から撮影するようなことはあってはならないことです。しかし女性も、治安対策を国や地方に求めるなら、同時に夏の薄着はほとほどにすべきです。と、今年の夏に女性の服装を見ながらそんなことを思ったあたり、自分もオッサンになったなあと思いました。
2008/11/14
詐欺罪で逮捕された小室哲哉の話について、前々回に少しだけ書きましたが続き。各方面に借金があって、その返済が大変になったために5億円を騙し取ったとのこと。冷静に考えれば、借金があって返済できないなら、どうして自己破産しなかったのかという点に疑問が生じます。そこは、「俺は大スターだから」というプライドと、「ヒット曲を出せば借金は返せる」という期待があったのでしょう。さて、破産するとどうなるかというと、少し前に「船場吉兆」の話で書いたように、破産管財人がついてその人の財産を処分してお金に換えて、債権者に返済することになる。(なお、財産がないに等しい人なら、そのステップを抜きにして破産手続は終了する)破産手続を取るデメリットはというと、弁護士や税理士などの職業の場合、手続を終了するまでの間は資格を失うと弁護士法や税理士法で定められているけど、「音楽プロデューサー」にはそんな法律はありません。せいぜい「何となく聞こえが悪い」というだけで、デメリットはないと言ってよい。小室哲哉なら、高いマンションから放り出されても、譜面とエンピツがあれば作曲活動を続けることができる。そして、破産手続が終了し、返済しきれなかった負債はどうなるかというと、「免責」といいまして、「チャラ」にしてもらえる。免責になるか否かはもちろん裁判所の判断によるのですが、かなりのケースで免責が認められているのです。では、小室哲哉が今から破産申請をしたらどうなるか。5億円を騙し取った相手には、それを返さなければならないわけで、破産手続を経て「免責」を得ることでこれをチャラにできるのかというと、それはできない。犯罪的な行為によって生じた債務は、免責されないことになっているからです(破産法253条1項2号)。つまり、一生かかってでも返済していかないといけなくなるわけです。ということで、小室哲哉は、破産という法的手続でなく詐欺という犯罪行為を行ったことによって、余計に苦境に立ってしまったということになります。
2008/11/11
大阪のひき逃げ事件は、容疑者が逮捕されました。いっとき、ミナミにホストとして勤めていたとかで、逮捕場所となったラーメン屋も、うちの事務所からほど近い、私も行ったことのあるお店でした。それはともかく、事件後しばらくは容疑者は逃げおおせていましたね。大阪府警も「自殺」を懸念していたらしいですが、私も、逃亡の末の自殺といったことを想像していました。交通事故によって人を死なせると、一昔前なら業務上過失致死罪で5年までの懲役でしたが、現在は自動車運転過失致死が適用されて7年までの懲役となっており、さらに、危険運転致死罪が適用されると、一気に20年までの懲役が可能となる。20年の懲役を食らうくらいならと、逃亡さらに自殺を図ったのかも知れないと考えていたのです。実際には、この容疑者は事件当時は飲酒しており、別罪で執行猶予中の身であったということが直接的な逃亡の動機であるようですが、おそらく、頭の片隅には、交通事故の厳罰化ということがあって、それも動機の一つになっていたのではないかと思います。ここに、犯罪を厳罰化することの難しさがあるのだと思います。交通事故関係の犯罪についていえば、刑法改正による厳罰化の後、統計的に見て犯罪件数は減っているらしいので、厳罰化は基本的には間違っていなかったのだと思います。それでも、今回の事件で容疑者が「罪が重いから逃亡してやれ」と思ったせいで被害者を引きずるような行動をし、その結果死亡させたのだとすれば、この被害者の方の人生に限って言うと、刑法改正はマイナスにしかならなかったわけです。少し話は変わりますが、強かんその他、わいせつ系の犯罪を行った男性に対して、どこかの国では犯人を去勢する立法が審議されているか、成立したのだったか、そんな話を聞きました(楽天ブログでは「強かん」を漢字で書くとNGワードになります。「かん」は「姦」の字です)。強かん犯罪(3年以上の懲役)は、私ももう少し重くてもいいと思いますが、これだって、法律が「一度でも強かんを犯した者は去勢する」ということになったらどうなるか。罪を犯してしまった人は、逮捕されるまでの間、「どうせ去勢されるのなら今生の名残のないように」とばかりに、同じ犯罪を繰り返すことが容易に想像されます。統計的にみれば犯罪を減少させるとしても、いつ自分自身と周りの人が、自暴自棄になった犯人のエジキになるかも知れない。そしてエジキになった人にとっては、「厳罰化のおかげで犯罪は減ってるから」と言ってみても意味はないでしょう。犯罪厳罰化は、よくよく慎重に検討しなければならないということです。
2008/11/10
昨日の続き。船場吉兆の元社長と女将(湯木正徳、佐知子氏。以下「湯木氏」と書きます)に破産決定が出たが、船場吉兆の会社の破産管財人は、その湯木氏に対して損害賠償請求すると言った。これも破産管財人の仕事のうちです。前回書いたとおり、会社の破産管財人は、会社の資産をお金に換えて債権者に返済することになる。たとえば心斎橋のOPAの吉兆でタダで飲み食いしてツケをためている客がいたとすれば、代金を回収することになる。それを返済に回すわけです。湯木氏が放漫な経営で会社を潰したとなれば損害賠償金を回収して、それも返済に回す。ですから今後、湯木氏の個人資産を回収しお金に換えて、会社に返済することになるのでしょう。ただ、湯木氏は借金がかさんだから破産したのであって、そんな人を訴えたとしても、お金は返ってこないか、返ってきても微々たるものでしょう。その点は、船場吉兆の破産管財人もわかっているはずなのですが、それでも、可能性がわずかでもあるのなら、やれることはやっておかないと破産管財人の責任問題になるということでやっているものと思われます。それにしても、自分がいた会社から訴えられるというのは、気の毒な部分もあるのですが、会社の取締役というのはそれだけ責任が重いということです。たとえば、ライブドアの元社長の堀江は、社長在任時代に証券取引法違反などで会社の株価をおとしめたということで、現在のライブドアから訴えられるか、またはすでに訴えられたとか。湯木氏とか堀江は(堀江はなぜか「氏」をつける気がしない)まあ、ある程度は自業自得なのかも知れません。しかし、会社経営に縁のない人であっても、たとえば知人から「会社をつくるから取締役として名前だけ貸してくれ」と言われて会社の登記簿に名前を連ねただけで、何かあると会社や、株主ほか第三者から訴えられることもあります。だから形だけであっても取締役になるのは重々慎重にすべきです。湯木氏の転落を見て、改めてそんなことを感じました。
2008/10/31
「船場吉兆らの社長ら破産」(日経30日朝刊)との見出しが。料理人としての頂点からどん底みたいな話で、世の無常をすら感じてしまう事件ではあります。「船場吉兆」自体は、民事再生法による経営再建を目指していましたが、その見通しがたたず、先日すでに破産しています。今回は、船場吉兆の(元)社長とあの女将が破産した。会社の破産管財人の弁護士は、社長らに対する損害賠償請求を検討する、と述べたらしい。これ、何がどうなっているかわかりますでしょうか。会社が破産するとどうなるかというと、突然その会社が消滅してしまうわけではない。破産というのは簡単に言うと、「財産より借金のほうが多くて返せるめどがつかない」状態のことを言います。そうなると会社が「もう借金は返せません」と裁判所に申立てをして、裁判所が「この会社は破産です」と認定する。「破産した」と報道されるのはこの段階で、これを「破産手続開始決定」と言います。でも話はそれで終わりでなくて、まさにこれは破産の「開始」の段階です。そのあとは、会社に残った財産から少しでも債権者(お金を貸してくれた銀行や、給料をまだ払えていない従業員など)に返済するための手続が始まる。その手続きをするのが「破産管財人」で、通常は弁護士の中から裁判所の指名で決まる。船場吉兆の会社は現在この段階です。今回さらに、社長と女将に「破産手続開始決定」が出た。本来、会社(法人)と社長個人の財産は別モノであって、会社は破産しても社長個人は直ちに身ぐるみ剥がれるわけではない。それでも、中小の会社であれば、社長個人が会社の借金の保証人になっていたり、会社に必要な経費を自分の名義で借金していたりすることも多く、会社が潰れると自分も破産せざるをえないことはよくあります。船場吉兆の社長と女将が、個人としてどれくらいの借金を抱えていたか知りませんが、そういう次第で一緒に破産することになったのでしょう。で、冒頭に書いたとおり、船場吉兆の会社の破産管財人は、社長ら個人に損害賠償請求をする、といった。経営陣の不手際で会社が破産したのであって、その責任は社長ら個人にある。それをお金で償ってもらって、会社の債権者への返済にあてるというわけです。しかし破産した個人に「損害賠償せよ」と言って意味があるのか、と言いますと、もちろん破産管財人の弁護士も意味があるからやっているのですが、破産に縁のない日常を送っている方にはすでにずいぶんややこしい話になった気がしますので、また次回以降に書きます。
2008/10/30
「涙ぐむ園児」との見出しに(産経16日夕刊)、何かなと思ったら、大阪府が道路建設予定地上にある保育園の野菜畑を撤去したとのこと。保育園の野菜畑がある土地が、道路建設のために府に収用された。府は保育園側に明渡しを求めてきたが応じなかったので、府がこれを強制的に執行したと。府の態度を批判する向きもあるかも知れませんが、私にはなぜ保育園側がここまで事態を悪化させたのか、理解できません。行政による命令に民間が従わない場合、行政自ら代わって執行できる。行政代執行法(ぎょうせいだいしっこうほう)にはそう決まっています。土地の収用は土地収用法に基づいて行われているはずで、代執行に至るまでにも法的な手続を踏んできて、保育園側も意見・反論を述べる機会も与えられてきたはずです。私は役人ではないので行政代執行に関わったことはありませんが、民事事件での強制執行に立ち会ったことはあります。家賃を払わないから家を退去させられたとか、お金を返せないから家を差し押さえられたとかいう、あれです。私は丸8年間、弁護士をやってきましたが、その間、土地や建物を明け渡せという強制執行の手続を取ったのは三回だけです。最初に、裁判所の執行官と一緒にその場所へ行って、住んでいる人に「早く出ていかないと締め出しますよ」という警告をする。それでもなお出て行かない場合は、所定の日がくれば明渡しを強行するのですが、私が経験したその三回はすべて、執行当日に建物はもぬけのカラになっている。事前の警告に行ったときには文句を言っていた住人も、立退きをしなければどういうことになるかは理解できるので、自ら立ち退いてくれるわけです。おかげで私は、実際に住んでいる人を無理やり締め出すような阿鼻叫喚の場には、幸いにも立ち会ったことはありません。そのことを思うと、今回の保育園側の人々の態度が、際立って異様なものに思えたのです。新聞の記事やテレビのワイドショーによりますと、この保育園では2週間後に「芋ほり」の行事を予定していて、その2週間を待てなかったのかといったことが話題にされていました。しかし2週間後の芋ほりなどは些細なことであって、本当に子供のことを思うなら、こうなるまでに畑の移転などの措置を取るべきであったのです。そのための充分な時間はあったはずなのです。
2008/10/17
「三浦元社長」の話を書いたら、突然あの人、自殺してしまいました。この人の肩書きについては少し前にも書いたとおり、「元社長」と書かれたり「容疑者」と書かれたりしていましたが、自殺したことでアメリカでも今後は訴追手続が行われなくなり、そのため「容疑者」はヤメにして「元社長」という呼び名に統一します、と新聞にはありました。と、呼び名の話はともかく…、容疑者が死亡したら、その人を刑務所に送ることができなくなるので、刑事上の手続は終了します。日本の法律では、刑事裁判中の被告人が死亡すると、公訴棄却といいまして、有罪とも無罪とも判断されないまま刑事裁判が打ち切られる(刑事訴訟法339条1項4号)。死んだ人はもはや裁く意味がないということなのでしょう。たしか、ロッキード事件での田中角栄元総理もそうだったかと。裁判になる前の容疑者(被疑者)の段階で死亡したら、どうせそのあと裁判に持ち込んでも公訴棄却で打ち切られるからということで、そこで捜査が終了することになります。アメリカの法律は知りませんが、三浦元社長の訴追手続終了というのは、そういうことだと思われます。たまに日本でも、「容疑者死亡のまま書類送検」という報道を聞きますが、あれは、警察は扱った事件を原則として検察に送らないといけないからでしょう。手続上そうしているだけであって、実際の捜査は終了する。そして書類送検を受けた検察としては、これを起訴しても上記のとおり公訴棄却されるだけなので、不起訴にした上で、然るべき内部処理をするのでしょう。ところで、この事件については、「日本で無罪になった事件なのにアメリカで逮捕されるとは、日本の警察や司法はナメられている」などという論調が一部には見られました。(たしか、警察と司法にずいぶんお世話になった鈴木宗男議員がそういう発言をしていたかと)私はその指摘は全く間違っていると考えています。詳しくは書きませんが、アメリカの裁判所が、「殺人罪については日本で無罪が出ているから逮捕状は無効」と明言していることからも、それは明らかです。アメリカの裁判所も、日本の最高裁の判断を国際的に尊重せざるをえなかったのであって、日本に規定のない共謀罪というものを根拠にしてようやく逮捕が有効とされたのです。加えて、容疑者を留置場の中で首吊り自殺することを許してしまったとは、ロス市警の大失態でしょう。たしかに日本でも、留置場内で容疑者が自殺することはたまにありますが、これほど国際的に注目されている事件で容疑者が自殺してしまうということはなかったと思えます。というわけで、法的には極めて興味深い論点を数々示したこの事件も、意外な終結を迎えることになったわけです。
2008/10/13
ロス疑惑の最近の動き。報道によれば、三浦元社長がサイパンからロサンゼルスに移送されることになったとか。ロサンゼルスで妻を銃撃した殺人罪の容疑については、日本の最高裁で無罪が確定しておりまして、アメリカもそれを尊重して殺人については問わないとした。でもアメリカには、日本には存在しない「共謀罪」という犯罪があり、そちらはまだ裁かれていないので、事件の現場になったロサンゼルスの裁判所で、三浦元社長が妻を殺そうと共犯者と「共謀」したことが裁かれることになるらしい。(過去の記事)というのは新聞等に報道されているとおりで、付け加えて書くことは特にありません。書きたかったのは、この「三浦元社長」という呼称についてです。この人、なんか会社をやってたか? という感じで、「元社長」と言われてもピンと来ないのですが、テレビや新聞でもそう呼ばれています。これはつまり、「容疑者」と書いてよいかどうかが難しいところなので、こう表現したものと思われます。日本国内では、すでに無罪となっており、容疑者とか被告人とか呼ばれるべき立場にないわけですから。(新聞各紙を調べたわけではないですが、新聞によっては「三浦容疑者」と書いた上で「日本では無罪確定」とカッコ書きしているものもあります)以前、東海林さだおさんのエッセイで読んだ記憶があるのですが、ある人を「容疑者」と報道するのがためらわれるときにどう書くかという話で、「さん」付けだったら締まりがないし、何だかいい人みたいな印象になる、そこで、その人の職業を付して表すことになっているのだそうです。新聞社の規定でそう決まっているのかとか、そのへんは忘れましたが。ロス疑惑の三浦和義は、いま何をしているのかよくわからない人なので、とりあえず以前会社をやっていたようだから「元社長」というわけです。思い出す人も多いと思われますが、SMAPの稲垣吾郎が道交法違反か何かで逮捕された際は「稲垣メンバー」と表現されていました。SMAPのメンバーであることがあの人の職業なわけです。じゃあその人が無職だったらどうなるかというと、上記の東海林さんの話によると、「誰々無職」とそのまま書かれるのだそうです。ということで、今日は何の話かわからなくなりましたが、職業はその人を表すということで大切だ、と締めくくっておきます。
2008/10/10
韓国で女優が、インターネット上での虚偽の情報による中傷を苦にして自殺したとか。今朝の産経によりますと、韓国ではネット上での書き込みがもとで自殺するケースは少なくないらしく、韓国政府はネット上での中傷を処罰する「サイバー侮辱罪」の制定を検討しているらしい。ネットでの人格攻撃が、ここまで人に影響を与えるものかと、やや驚きました。近くの国で、人の噂が原因で女優が自殺したといえば、1930年ころの上海の女優、ロアン・リンユイ(阮玲玉)の話を思い出しますが、これは確か、詳細は忘れましたがタブロイド紙によるゴシップ記事を苦にした自殺だったかと思います。ネットを全く知らずに育った私としては、ネットはここ数年で突然普及した「出来星」みたいなもので、便利なモノとして利用はしますが、心のどこかでは「ヘッ『ネット』なんて」という意識がある。同世代の多くの方もそう感じているでしょう。ネットの伝える情報の価値は、テレビや新聞や、タブロイド紙よりももっと低いモノという意識がある。もちろん価値の高い情報はありますが、まさに玉石混交で、ネット上の情報の99%以上は「石」かそれ以下だと思っています。日本でも、いわゆる「学校裏サイト」など、子供間のネットいじめが問題となりつつありますが、あれは不幸にして物心ついたころからテレビとネットが同等の情報媒体として存在しており、「ヘッ『ネット』なんて」と思うことができない子供世代に特有の問題と思っていました。ということで、今回の韓国の事件は驚いたのです。かくいう私自身も、過去にネット上で取り上げられたことがありました。私が弁護士になりたてのころに、友人のデザイナーと飲みながら話しているうちに何となく若気の至りで個人サイトを作って( これ )、それが某掲示板サイトで話題にされたのです。そのことに気付いたときは、やはりびっくりしました。ただ書かれていることを読んでみると、「勘違いしている」とか「写真がイタい」とか「仕事もせずに自分のホームページをいじってばかりしている」とか、それ自体はそこそこ本当のことだし、別に実害もないので、やや有名人になった気持ちで傍観したら、そのうち話題にもされなくなりました。韓国でのネットとか、子供社会での学校裏サイトが、どのような内容のものであるのか、具体的には知りません。ただ私としては、来年無事に第一子が誕生したら、「ヘッ『ネット』なんて」という精神を伝えるとともに、ネット上で「勘違い」「イタい」と書かれても普通に生きてる人はいるということを教えてあげたいと思います。
2008/10/07
当ブログでも注目していた事件の判決。橋下府知事に名誉毀損で総額800万円の賠償を命じる判決が出たと。ご存じのとおり、山口県光市の母子殺害事件で、被告人の弁護団の弁護方針について、橋下さんが「納得いかない方は弁護士会に懲戒請求をしてほしい」といった、その発言についてです。正直なところ、ここまでの判決が出るとは思っていなかったのです。過去の当ブログでも書いたように、この事件の弁護方針について、事件と無関係の人が懲戒請求するのはおかしいと書きました。(過去の記事。4回連載です)私は幸い、懲戒請求されたことはありませんが、職務柄、懲戒請求の審理に立ち会ったことはあります。懲戒請求すると、弁護士会のそこそこエライさんが、懲戒請求した側の人、された側の弁護士の意見をじかに聞く、聴聞手続があります。そこに懲戒請求をした何千人の人たちが堂々と出て、「俺はあいつらの弁護のやり方は間違っていると思う」と主張すれば、結論は何か違ったかも知れません。弁護士会も裁判所も、事態の重さを受け止めざるをえなかったかも知れない。でも実際そこまでやった方は、聞く限りでは一人もいない。結局、あの何千通の懲戒請求というのは「テレビ見てて何かハラ立ったから出してみた」という程度のものに過ぎなかったわけです。一方、何千の懲戒請求を数人で受ける弁護士側としては、手続上、それに対する答弁書を出さないといけないので、その処理に忙殺される。(ウチみたいな零細事務所では、短期間のうちに何千通の書類を提出しないといけないとなると、それだけで事務所がパンクします)橋下さんも一応弁護士資格を持っている以上、こうなることは予想できたはずで、それなのにテレビを利用して、煽られやすい視聴者に懲戒請求をそそのかしたのは、まさに品がない行為であったと思っています。…ただしかし、それでも橋下さんのこうした行為が、弁護団に対する名誉毀損になるかと言うと、私は疑問に思っているところもありました。弁護団の人たちが、正しい弁護を行っていると自信があれば、堂々それを貫き通せばよい。それが、日本国憲法が弁護士に負わせた役割だからです。憲法に沿った弁護活動をしている弁護士の「名誉」が、橋下さんの品のない発言によって「毀損」されるものでもなかろう、と思っていたのです。判決を出した広島地裁は、そういった精神的な部分ではなくて、上記のように弁護団側に生じた煩雑な事務処理という「実害」を重視したのかも知れません。何をもって名誉が毀損されたとするか、そしてその賠償額をどう算定するか、いずれの点においても興味深い判決なので、いずれ判決全文が入手できたら続報を書きたいと思います。橋下さんは控訴すると言いましたが、私としてもぜひ最高裁の判決を聞きたいと思います。
2008/10/04
外国人力士の若ノ鵬が相撲協会を解雇されたことについて先日書きましたが、その若ノ鵬が相撲での「八百長」を裁判で証言すると、記者会見で述べたとか。週刊現代の「八百長」記事については読んでいませんが、朝青龍らの相撲において、カネで白星を買う(相手にカネを渡して負けてもらう)ということが行われているとの内容らしい。これに対して日本相撲協会と朝青龍ら上位力士が、週刊現代を出版する講談社に対し、名誉毀損を理由にして損害賠償を払えと訴えている民事裁判が東京地裁で行われています。若ノ鵬は、講談社側の証人として法廷に出ることを意思表明したわけです。記者会見の様子はテレビや新聞各紙で報道されていました。私はそれを見て、「節操のない外人だ」「大麻やってた人間に相撲協会の改善とか外国人力士の名誉とか言われたくない」と正直なところ感じたのですが、いちおう弁護士としてこの事態を客観的に解説したいと思います。若ノ鵬は、相撲協会から被告として訴えられている講談社側の証人となると言いました。名誉毀損で訴えられたときの被告の反論方法として(以前にも書いたと思いますが)、その事柄が「公共の利害に関することで、報道が公益目的であり、真実であること」の証明がされたときは、その責任を免れます。日本相撲協会は公益目的の財団法人であり、相撲は日本の国技でもあるので、その内部問題に関する報道である以上、「公共の利害」「公益目的」の点はOKだと言える。あとは、八百長が「真実」であると証明できるかどうかが問題の中心となる。もっとも、「真実」であると立証するのは極めて困難である(真実は神のみぞ知る)ので、「『証拠』に照らせばある程度は真実と見られてもやむをえない」程度のことが証明できればよいとされています。若ノ鵬は、その「証拠」(証人)として出廷しようというわけですが、裁判はあくまで「相撲協会プラス上位力士 VS 講談社」の間のものであって、若ノ鵬は部外者です。証人となるには、裁判長の許可が要る。おそらく講談社側の弁護士は、次回の口頭弁論の際にその許可を申請するのでしょう。ただ、幕内とはいえ下っ端の若ノ鵬が、「ワタシ、お金もらいました」と証言したとして、この裁判での争点(上位力士が八百長していたか否か)にどこまで関係があるかは疑問です。ということで、若ノ鵬の証人尋問が実際に行われるのかどうかは、まだまだ微妙なところだと思います。
2008/09/30
高校での行事(サッカーの試合)中に男性が落雷で大けがをして重度の障害を受けた事件で、高松高裁は高校などに3億円の賠償を命じた(17日)。まず何より、落雷で両目や両手足に重度の障害を負った男性(当時は高校生、いま28歳)には気の毒としか言いようのない事件ですが、この判決について考察します。高校側に落雷が予見できたか、その上で避難措置を取るべきだったか、という点が事件の争点だったようですが、1審・2審は、「落雷は予見不可能だった」として原告の請求を退けていたのを、最高裁は「落雷は予見できた」としてこれを破棄し、高裁に審理やり直しを命じた。そして今回、学校側の過失責任が認められたわけです。素人的には、「どこかで雷が鳴っていれば誰だって『落ちるかも』と思って怖がるから、当然予見できたはずだ」と思うかも知れませんが、法的責任を認めるためには、抽象的に「落ちるかも」という程度では足りず、具体的にそのことを予見できたと言える必要がある。かと言って、「魁!男塾」の三面拳月光みたいに「何秒後に雷が落ちる」とまで具体的に予見できる必要はない。法的な意味での予見可能性とはその中間にあって、「その場に落雷する可能性が相当程度に現実的なものである」、といった状況をいうのでしょう。しかし、行事の現場で、学校教師にその判断をさせるのは酷であるとも思われます。落雷を予見できたか否かについて、上記のとおりプロの裁判官でも判断が分かれたくらいですから。だからこの判決が出るに際しては、「学校には酷だけど、現に重度の障害を負ってしまった男性に何とか救済を得させよう」という判断が働いたのは間違いないと思います。特に、被告が公立の学校とか病院であった場合には、そのような配慮が働きやすいと言われています。多額の賠償を命ぜられても、お金は国や県や市が払うわけですから。(もちろんそのお金は、もとはと言えば私たちの税金です。しかし、私たちもいつ同様の災難に遭うかも知れないのですから、その災難を私たち全員で広く薄くカバーしてあげようと考えるわけです)しかし今回の被告(土佐高校)は、どうも「私立」みたいです。サッカー大会主催者である高槻市体育協会も被告として連帯責任を負っているようですが、「市」そのものでなく「市の協会」にどこまで財政的余裕があるかはよくわかりません。被害者の救済という意味では意義のある判決であることは間違いないのですが、行事などの場の管理者に対しては厳しい判断を下したわけです。そしてこれが、現在の最高裁の志向する「弱者救済」のスタンスなのだと思われます。
2008/09/19
この数日、経済面はリーマン・ブラザーズの破綻話で持ちきりですが、経済・金融の話はよくわかりませんので相撲の話です。力士の大麻問題も最近、目まぐるしく動いているため混乱気味でして、誰に陽性反応が出て誰が逮捕されたのかとか、たまにテレビに出てくるヅラっぽい弁護士はどの力士の弁護士だったかとか、ややこしくなってきました。ここでは、若ノ鵬が日本相撲協会を解雇されたことに対し、協会を提訴した話について触れます。これは、若ノ鵬が原告となって、日本相撲協会を被告として、「解雇は無効であって協会に所属していることを認めよ、したがって給料も協会から支払え」ということを求めた民事訴訟です。これが普通の会社相手であれば、その解雇処分は会社の就業規則に照らして認められるかどうか否かが検討されることになります。日本相撲協会に就業規則に該当するものがあるのかないのか、調べたことはありません。もっとも日本相撲協会は「財団法人」であり、これは公益を目的として国から認可を受けた存在であることを意味するので、きちんとした内部の決まりはあるはずです。(会社の「定款」に相当するもので、財団法人の場合は「寄付行為」といいます。民法総則を勉強している方なら聞いたことがあるでしょう)とはいえ、大相撲の世界に、どういう場合に力士をクビにできるかといったチマチマした規則がこと細かに定められているとは思えないので、ある程度は「条理」や「常識」で判断されることになるでしょう。さて、若ノ鵬については、検察は「不起訴」とました。おそらく、物的な証拠が残っていないことに加え、若ノ鵬が若いために刑事裁判の被告人にするのは猶予してやるという配慮も働いたものと思います。で、弁護側としては、「不起訴で終わったのに解雇するのは厳しすぎる」という主張をするのでしょうが、この主張はある程度理解できます。たとえば公務員の場合は、起訴されて懲役刑や罰金刑を食らうと失職するという規定があることが多いですが、不起訴でも失職するという厳しい規定はおそらくない。私自身、不祥事を起こした公務員や会社員の刑事弁護をし、不起訴で収まったので復職できたという案件をいくつか担当しました。もっとも、大相撲の力士は公務員や会社員の世界とは違う特殊性があるのも否定できない。相撲はもともと神様が照覧するための競技であり、いわば神聖な世界であるにもかかわらず、大麻を使用しているような者が存在してよいのか。そういった視点も無視できないように思います。まとまりが付きませんが、裁判所(東京地裁)の判決に注目したいと思います。
2008/09/17
昨日の朝刊各紙から。JR宝塚線の脱線事故に関して、JR西日本の社長ら幹部何人かが「書類送検」されたとの記事。これは何を意味し、今後この事件はどうなるのか。 「書類送検」とは、文字のとおり、警察が作った書類が検察庁に送られることを意味します。このとき、容疑者(被疑者)が逮捕されていれば、容疑者の体(身柄)と一緒に検察庁に送る。これを「身柄送検」と言ったりする。ですから書類送検というのは、容疑者が逮捕されていないことを意味します。 いずれにせよ警察は、受け持った事件は、原則としてすべて検察庁に送らないといけない。その上で、起訴して刑事裁判に持ち込むかどうかは検事が決めることになる。検事に事件が送られることなく、「警察でお叱りを受けて終わり」ということもありますが、これは子供の万引きなんかの微罪に限られるでしょう(もちろん万引きも立派な犯罪ですが)。 ですから、送検されるというのは、まだその人の処分が決まったことを意味しない。弁護士として刑事事件に関わることもある者の感覚としては、「まだまだ入り口」の段階といえます。 報道によると、警察側は検察官に対し「処分相当」(起訴すべきだ)という意見を書いたとか。もっとも、警察はたいてい、訴追側の最も先鋒的な立場にある者として、厳しいめの意見を書くことが多いです(そもそも「処分は相当でない」と警察が考えるのなら、送検しないでしょう)。送検を受けた検事が、「警察はああいうけど、この程度の証拠で有罪判決に持ち込むのは無理だ」と判断すれば、起訴されずに終わることも珍しくない。 では本件についてはどうか。書類送検されたJR西日本の社長は、事故当時の鉄道本部長として、事故現場の線路を管理する立場にあったらしい。 とはいえ、運転手が居眠りして減速せずカーブに突っ込んだことの責任まで負わせることができるかどうかは、かなり微妙な問題ではあると思います。 さらに、事故当時の社長の書類送検は見送られたらしい。事故を起こしてトップが断罪されないのは納得がいかない、という感情もありましょうが、当時の社長の立件はなおのこと難しいでしょう。似たような話を度々書いていますが、この脱線事故に対して、JR西日本が組織(会社)として死傷者に対する賠償責任を果たすべきなのは当然のことです。これは民事責任です(民法715条、使用者責任)。しかし、組織のトップが「個人として」刑事責任を負わされるべきか否かというのは全く別問題であって、従業員が居眠りで事故を起こすと社長まで懲役刑をくらうというのなら、人を雇って仕事をするなんて怖くてできなくなる。ということで、当時の社長が書類送検されなかったのは妥当だと思います。書類送検された人については、検察による冷静で厳密な判断により、起訴すべきか否かが決められることになるでしょう。
2008/09/10
昨日は、大阪地裁で痴漢事件に無罪判決が出たとか、福田総理が辞意を表明したとか、注目のニュースは多々ありますが、ひとまず前回の続きで、月亭可朝氏のストーカー事件の話です。報道によると、可朝氏は先月末ころ、大阪簡裁で略式裁判(公開法廷でなく書類審査で判決が出る)を受け、罰金30万円を納付して釈放されたとか。その釈放後の可朝氏を、マスコミが取り囲んで取材した内容が、何度かテレビで流されました。記者が可朝氏に「被害女性に申し訳ないという気持ちはないのですか」と突っ込んで、可朝氏が一瞬しどろもどろになったかと思えば、最後には例の「嘆きのボイン」の節で、「ストーカーで警察に御用やでぇ~」と歌っていました(節もはずし気味でしかもウケてませんでしたが)。この可朝氏の姿に対して、ワイドショーなんかでコメンテーターが「不謹慎だ」「反省しているのか」などと批判的な発言をしているのを2、3回見ました。(それを言うなら、あの場で可朝氏に「嘆きのボイン」を歌わせた取材記者と、その映像を繰り返し放映するテレビ局も「不謹慎」ということになりそうですが、それはさておきます)しかし、です。私は別に可朝氏を擁護するつもりはないし、やったことは犯罪行為であるのは間違いないのですが、可朝氏は裁判を終えて、罰金を納付して出てきたのです。司法の場において可朝氏の行為はすでに断罪されて、それに対する処罰は終了し、刑事責任は消滅しているのです。たしかに、刑罰が終了したとはいえ、「嘆きのボイン」の一節で事件を茶化してみせることは、品のよいこととは思えない。道義的には責められるべきかも知れません。とはいえ、被害女性本人でも、また本人から依頼を受けた弁護士でもない、被害女性と全く関係のない取材記者やテレビのコメンテーターが、神妙に反省せよとか、被害女性の気持ちをどう思うかなど、問い詰めるような立場にはないはずなのです。しかも彼らは、酒場で酒の肴に「可朝はアホやなあ」と言っているわけではなくて、メディアという巨大な影響力を有する場においてそれをしているのです。こんなことがまかりとおるなら、司法の場での禊ぎが終わった人に対して、取材記者が「国民はまだ納得していない」などと言ってカメラとマイクを向け、その前で謝罪することを当然のように求めることになる。これはすなわちマスコミによる私刑(リンチ)を意味します。事件を起こしたのが月亭可朝氏という、特に大阪の人間には名前を聞くだけで笑ってしまうような存在の人であったために、何だかキワモノ的な扱いの事件になってしまったようです。でも私はこの取材風景と、それに対するテレビ局のコメンテーターの反応に、ちょっと恐ろしいものを感じたのです。
2008/09/02
落語家の、というより「ボインの歌」(正式な題はたしか「嘆きのボイン」)の人、という肩書しか思い浮かばない月亭可朝氏が、愛人に対するストーカー行為をして、ストーカー規制法違反で逮捕されました。この法律によりますと、ストーカー行為の定義は、「特定の者に対する恋愛感情を充足する目的で、つきまとい行為などをすること」とされています。この法律は、条文の文言の中に「恋」という字を含むものとして、やや珍しいものであるという話は、以前ここでも触れました。 過去の記事)さて何をもって「恋愛」感情かといいますと、これは酒場なんかでも酒の肴に「恋愛と友情の境界線はどこか」と議論されたりしながらも、決して結論に達することのない、深遠な問題であるといえます。(法律を作った法務省側はたぶん「恋愛感情」を定義しているはずですけど、きちんと調べていません)だから例えば、宇都宮地裁の判事が裁判所職員の女性に対するストーカー行為で逮捕されたときは、当初あの判事は、「メールは送ったが、恋愛目的ではない」と言ってストーカーに該当することを否認した。たしかに、「あの子が好きで会いたいから」という目的ではなくて、例えば「貸した金を返してくれないから会って返済を申し入れたい」ということであれば、ストーカーではない。ストーカーが成立するための要件として、「恋愛感情を満たす目的」であったという、結局は「本人にしかわからない内心」が必要となるので、その点を否認されるとストーカーとしての立件が難しくなることも考えられます。ならばあの判事は何のために会おうとしたというのか。「恋愛目的」ではなくて「司法制度について語り合いたかった」とでもいうのか。それなら職員の女性でなく最高裁長官にでもメールすればよいのであって、客観的状況からしてあの判事の下心は恋愛目的だったのでしょう。たしかこの判事は、最終的には「恋愛目的だった」と認めて、有罪判決が出ました。さて、冒頭の月亭可朝氏ですが、愛人に対して卑猥な内容の手紙を送って復縁を迫ったということで、恋愛目的であったことは当初から認めていたようです。こっちの事件について書こうとしていて、前提としてストーカー規制法の話をしているうちに、宇都宮の判事の話になってしまいましたが、月亭可朝氏の事件については次回もう少し書くかも知れません。
2008/09/01
少し前に書いた福島の妊婦失血死事件について、その後の動き。今朝の新聞記事等によりますと、福岡地裁で医師に無罪判決が出たことに対し、検察側は控訴することを断念したとか。このまま判決から2週間を経過すると無罪が確定します。では、今後この事件はどうなるのか。無罪が確定するのは刑事事件のほうですが、民事事件が残ることが考えられる。この件ではどうなっているかは存じませんが、遺族が医師の過失を民事事件で追及することがある。民事事件は刑事事件とは異なる裁判官が担当するし、刑事事件の結論に拘束されないので、民事では医師の責任が認められて賠償責任が発生することは、可能性としてはある。また、死亡させた責任までは問えないとしても、死に至る経過について説明を尽くしてくれなかったという「説明義務違反」を理由にして、賠償責任が認められることもある。(この事件の実情を私はほとんど知らないので、あくまで一般論として捉えてください)一方、これを刑事事件として立件した警察や検察、ひいては国の責任はどうなるのか。この医師は逮捕され、ほどなく保釈されたようではありますが、何日間かは留置場に入れられている。その後無罪判決が確定した場合は、刑事補償法に基づき、1日あたり12,500円以下の補償金を受けることができる(4条)。それから、新聞で報道されているところなどによると、ある検察首脳はこの事件について、「何であんなものを起訴したんだ」と言ったとか。不当逮捕、不当起訴ということで、捜査を担当した警察官や検察官の責任を追及することはできるか。この点は国家賠償法によりますと、公務員の過失は、国または県が賠償することになっている。だから、日本国または福島県に対し、賠償責任を追及することが考えられる。では、この事件を担当した警察官・検察官に過失は認められるか。じっくり刑事裁判をやった結果として無罪が判明したとしても、事件当時は非常に嫌疑濃厚な容疑者も存在する。結果論として無罪になると直ちに過失ありとすれば、警察や検察は萎縮してしまって果敢な捜査ができなくなります。本件は、いま思えばかなり「無理」な立件であり、逮捕までしてしまったことも行き過ぎだったかも知れません。しかし当時の遺族感情を踏まえて、警察・検察がこれを刑事事件として立件したこと自体までが過失であって違法だといえるかというと、かなり微妙だと思います。具体的な事実経過を知らないので、とりあえずこの程度にしておきます。ついでに私ごとですがウチの妻(妊婦)の経過はおかげさまで今のところ順調です。
2008/08/30
福島県の妊婦が帝王切開の手術中に失血死した事件で、医師に無罪判決。私自身、弁護士として医療事件も扱っておりますし、また当ブログでは初めて触れますが来年には第1子の誕生を控えている身であり、この事件には関心を持っていました。とはいえ、判決の内容は、どの新聞でも比較的わかりやすく書いてあったと思うので、ここで私が付け加えて述べることはないように思えます。刑法理論的には、子宮内に癒着した胎盤をはがすという行為によって、大量出血を生ずることが予見できたか、そしてその行為を回避すべきであったかという、予見義務・回避義務の有無が問題となっています。判決は、大量出血が生ずることは予見可能だったが(弁護側は予見不可能としたがその点は退けた)、その場合でも胎盤をはがすことは医療行為としては標準的なものだったので、それを回避すべきであったとまでは言えない、とした。その理論構成には、特に目新しいものはありません。刑事裁判にまで発展した背景の一つとしては、遺族感情も大きいと思われます。本件の医師が遺族にどのような説明をしたかは存じませんが、医療事故が民事訴訟に至る大きなきっかけとなるのが、「充分説明してくれなかった」ということです。医師としての説明責任のあり方が今後検討されるべきなのでしょうけど、こういった指摘もすでに各紙で行われているとおりです。ということで後は法律と関係ない個人的感想です。この事件に限らず、出産にからんで法的トラブルが生じやすい一つとして、お産は安全、という「神話」の存在がよく指摘されます。私も冒頭に述べたとおり、妻が妊娠しておりまして、それで最近、「たまごクラブ」などの雑誌を買って帰ったりします。私はあまり読んでいませんが、妻が読んでいるのをちょっと覗いてみたところ、愛らしい写真やイラストが満載で、何だか幼稚園や小学校のころ読まされた国語や算数のドリルみたいだなと思いました。こういったものを見ていると、出産というものが、いかにも楽しいものであるといった印象を受けます。しかし、発展途上国などでは妊婦の死亡や死産は珍しくないはずで、日本だって一昔前はそうでした。たとえばドナルド・キーンの「明治天皇」を読んでみると、明治天皇の子供は出産直後に何人も亡くなっているし、子供を産んだ側室も亡くなったりしている。天皇陛下だから当時最高の医療スタッフがついているはずなのに、です。「お産は病気ではない」とはよく言われる言葉ですが、私の妻は妊娠が発覚してからお酒は一滴も飲まないし、食べるものにも気をつかっている。私だったら、10か月もお酒を飲めないなどという事態は、病気以上に大変なことです。その一事のみをもってしても、出産の大変さがわかる。お産は安全、それはこれまで、日本の産科医師の努力によってギリギリのところで実現されてきたのであって、本当は命がけの事態なんだという意識を持つことが、私たちには求められているように思うのです。
2008/08/22
旧長銀(日本長期信用銀行)の経営責任が問われた裁判で、元頭取らに対し最高裁が逆転無罪判決。恥ずかしながらこの事件、裁判で何が問題になっているかを存じませんでした。報道によると、長銀の破綻は平成10年(1998年)10月。私が司法試験に受かった年で、10月といえば最後の関門・口述試験を受けていた時期ですから、新聞を関心もって読む余裕はなかったでしょう。当時は、何か銀行がエライことになってるなあ、くらいにしか思っていなかった。それはともかく、この元頭取たちが何の責任を問われていたかというと、証券取引法違反や商法違反。不良債権の査定が法律の求める基準によって行われていなかったという責任が問われていた。細かい話は省略しますが(私が理解していないため)、検察側が主張するところの「基準」というのは、当時、旧大蔵省が通達として示していたけど、一般的には普及してはいなかったもので、それに従わないことが直ちに刑事責任の根拠となるものではないということのようです。会社や銀行の破綻に限らず、行政の不始末なんかでもそうだと思いますが、大きな問題が起こると多くの人は「真実の解明を」「再発の防止策を」と唱えます(それ自体は当然のことです)。しかし、その真実の解明はいつの間にか「個人の刑事責任の追及」に話がすり替わって、何年か後に有罪の判決が下ると、「あの事件はあの人が悪者だったんだねえ」で終わってしまう。(そういった世論を受けた「国策」としての捜査に限界があったと、日経なども指摘していました(19日朝刊))。それにこの事件は、不良債権の処理に問題があったか否かが問われた刑事裁判だったわけですが、そもそも不良債権を作った人(いい加減な融資をした人)の責任はどうなるかというと、「時効」で責任を問われないらしい。会社内の問題を公にしないままにトップを退いた人は「名経営者」と讃えられ、次の人はトップになって始めてその蓄積された問題を知らされ愕然とする。どこかでその問題の処理を誤って会社が破綻したりすると、その人が破綻のすべての「元凶」であるかのようにそしられる。真山仁の小説「ハゲタカ」にも確か、そんなくだりがありました。最高裁の判断は、個人の刑事責任について冷静で厳密な判断を下したものです。これをきっかけとして、「じゃあ本当の問題はどこにあったのだ」ということが議論されていくほうが、再発防止のためにはよほど望ましいと思います。
2008/07/22
昨日の夕刊から。「布川事件」の再審決定。私はこの事件を存じませんでしたが、昭和42年に起きた強盗殺人事件です。有罪で無期懲役とされた人が、無実を主張して再審を請求し、東京高裁がこれを認めた。すでに終わった裁判をもう一度やりなおせというわけだから、再審請求には「新規かつ明白」な証拠が必要とされる(刑事訴訟法)。本件での新証拠というのは、「殺害方法についての被告人の自白は、遺体から判明する客観的な殺害の手口と異なる」という医師の鑑定書だったようです。何十年も前の事件について今になって新たな遺留品が出てくるなどは考えられないので、再審事件での新証拠とはたいてい、こういうものです(刑事訴訟法を学んでいる方は、かの「白鳥事件」再審決定をご参照)。さて問題は、そもそもこの男性はどうしていったん有罪となってしまったかということですが、男性は、前の裁判のときから、「自白は強要されたものだ」と主張していたそうです。警察の取調べに対し、「私がやりました」と言ってしまったが、裁判の段階で否認に転じた。よくある話ですが、捜査段階で自白し、その趣旨の供述調書ができあがってしまうと、捜査段階でそれを覆すのはなかなか困難です。では、本当にやっていないのだとしたら、どうして警察官に対し「私がやりました」と言ってしまうかというと、それはやはり、「そう言ってしまわざるをえないような状況」に立たされるからでしょう。警察署に留置されて取調べをされるという経験は、さすがに私にはありませんが、捜査段階の弁護を引き受けると、逮捕当初は元気だった方でも、留置が続くに連れて精神的に参ってきているのがありありと分かることが多いです。「取調べの刑事に迎合することなく、知らないことは堂々知らないと言ってください」私は接見のときに被疑者にいつも言います。でも同時に、実際にそう言い切れる人はなかなかいないこともわかっている。この布川事件の無期懲役は昭和53年に最高裁で確定し、犯人とされた男性は服役して、平成8年に仮釈放された。無期懲役でも18年くらいで出てくるというのが相場なのかどうかは知りませんが、もし再審で無罪となると、この18年は取り返しのつかないものとなります。刑事裁判の難しさと、刑事弁護の重要さを改めて認識させる事件ではあります。と他人事のように言わずに私自身も気を引き締めたいと思います。
2008/07/15
明石市の海岸で起きた砂浜の陥没事故で4歳の子供が生埋めになって亡くなった事件で、大阪高裁は10日、市職員など4人を無罪とした1審の神戸地裁判決を破棄し、地裁へ差し戻しました。この事件で2年前に1審無罪判決が出たとき、ちょうど開設直後のころの当ブログで、無罪判決は妥当だろうということを書きました。その点については こちら高裁判決は、「有罪」ではなく、あくまで「破棄・差戻し」です。とはいえ、「無罪と断ずるのは審理が尽くされていないからやり直しなさい」という意味で、報道されているように実質上の「逆転有罪」といえるかも知れません。1審では、陥没事故は予測できなかった(予測不可能な事故は防ぎようがない)、だから無罪とした。2審は、いや予測はできたはずだ、これまで周辺で同種の事故が発生していたのだから、とし、「予見可能性」を認めた。ではそれで直ちに有罪となるかというと、まだ足りない。予見できた事故を、何らかの手立てを講ずることによって回避することが可能であったという「回避可能性」がないといけない。「あれほどの事故であれば、仮に万全の回避措置を講じていても同じ結果が出た」ということであれば、回避不可能な事故もまた防げないということで、処罰されない。1審は、「予見可能性がない」という時点で切ってしまっていたので、そこは「ある」という前提のもとで、改めて「回避可能性があるか否か」を審理しなさいということです。回避可能性があるということになったら、あとは起訴された4人の職員(国交省の課長から明石市の課長まで、役職は様々です)の責任の度合いはどうかといったことも判断されることになるでしょう。上記の過去のブログ記事では、明石市が地方公共団体として賠償責任を負うのは当然としても、直ちに個々の職員をも刑事罰(懲役や罰金)に処すべきだとするのは飛躍だと書きました。その点の考えは今も変わるところはありません。そして今般、大阪高裁は慎重な判断の末に無罪判決を差し戻した。ひとまずは今後の審理に注目したいと思います。
2008/07/11
ここでも何度か書いてきました、刑法39条の問題について。心神喪失状態で犯した行為は無罪になるという刑法39条が、最近の判決でいくつか適用されています。一つは、ここでも書いた、大阪府茨木市で車を暴走させて5人を死傷させた事件(大阪高裁)、もう一つは、茨城県土浦市で一家3人を殺害した事件(水戸地裁土浦支部)。いずれも犯行時に心神喪失状態だったことを理由に無罪判決。少しさかのぼると、渋谷で妹を殺害しバラバラにした兄に対しては、殺人は有罪としつつ死体損壊の時点では心神喪失で無罪とし、7年という比較的軽い量刑になった(東京地裁)。刑法39条の是非に対する私の考え方については、上記の茨木市の事件の第1審(大阪地裁)の際に書いたところに尽きています。過去の記事ただ、こういう判決が出ると、一見誰しも不合理性を感じると思いますので(私も感じる)、そのことについて少しだけ付言します。それは、刑法で言うところの、「無罪」という言葉の意味です。この言葉は、わりと広い意味を持っているのです。昨日、神戸地裁で、3年前の質店主強盗殺人事件に対する無罪判決が出ていましたが、このように、被告人が殺したとは認められないというときは無罪となる。(高裁、最高裁で逆転する可能性はありますが、)こういう意味での無罪判決が出たら、被告人とされた人は「俺は無実だった」と胸を張っていい。その他に、確かに殺したけど、やらなければこちらがやられるから殺したという場合、これも正当防衛が成立して無罪となる(刑法36条)。これは、やったのは事実だけど、仕方ない事情があった、だから罰するほどではないという意味での無罪です。幻覚や幻聴などの影響下で殺し、心神喪失で無罪となった場合というのは、やったのは事実だし、仕方ない事情もないけど、かと言って刑罰を科する意味があまりない、という意味での無罪です。決して、あなたは無実で無罪放免、胸を張っていい、という意味ではない。では、心神喪失で無罪となった人はどうなるのかというと、刑務所には行かないけど、然るべき医療機関に強制的に入ることになる。確かに、その先どうなるかがよくわからない(一生施設内にいるのか、どこかの時点で出てくるのか)というところが、我々にとってもどかしさを感じさせるとは思います(上記の過去の記事参照)。しかし、わけのわからない状態で殺人を犯した人を、即座に死刑台に送って終了、でよいかと考えると疑問です。猟奇的な殺人事件が起こるたびに、「犯人の心の闇の解明」を裁判所に求める識者の意見や世論を見かけますが、裁判所は人の心の闇を解明するような機関ではなく(迅速かつ適切に人を裁くための機関です)、そのような過大な要求は医療施設にこそ期待されるべきだと思うからです。
2008/07/01
数日前の話になりますが、グリーンピースという団体の人が、調査捕鯨の船員が「お土産」として持ち帰った鯨肉を、搬送中の運送会社から盗んで、窃盗罪で逮捕されました。ここはいちおう弁護士のブログなので、捕鯨の是非とか、「お土産」として持ち帰ることの是非は触れません。グリーンピースの人たちは、「調査捕鯨員が鯨肉を持ち帰ったのは横領罪にあたり、それを警察に告発する証拠として鯨肉を持ち出したのだから、窃盗に当たらない」と言った。この点を法的に検討します。一見して無茶な暴論のように思えますが、グリーンピースの弁護士というのがいて、それなりに法律家らしいことを言っています。「告発を目的としたものなので、『不法領得の意思』はない」と。窃盗罪が成立するためには、「不法領得の意思」(ふほうりょうとくのいし)が必要です。つまり、単に他人のモノを奪うだけではダメで、その奪ってきたモノを、「自分のものとし、かつ、利用法にしたがって利用するつもり」である必要がある。(正確にいうと「不法領得の意思」とは、「権利者を排除して他人の物を自己の所有物として振る舞い、その経済的用法に従い利用又は処分する意思」と定義されます)ただこの「意思」を限定的に見ると、窃盗罪が成立する範囲は極めて狭くなります。たとえば女性の下着を盗んだ下着泥棒が開き直って、「俺はこの下着の利用法にしたがって自分で履くつもりだったんじゃない、見て楽しむつもりだったんだ」と言えば窃盗罪にならないかといえば、そんなことはない。観賞して楽しむという性的快楽を得るつもりであれば、それは不法領得の意思があると言っていい。このように、そのモノ自体から何らかの効用を得るつもりであれば、窃盗罪は成立する。グリーンピースの人は、奪った鯨肉をその利用法にしたがってハリハリ鍋にでもして食べるという意思はなかったでしょうけど、捕鯨反対運動の一環としての告発の物的証拠として利用するつもりだったでしょう。これは鯨肉を自分たちの求める効用のために利用する意思、つまり不法領得の意思があったとみていい。細かい話になりましたが、この事件で恐ろしいと感じたのは、警察でも検察でもない私的な団体が、犯罪だから告発するなどと言って他人の建物に入り込んでモノを取っていったということです。そんなことが許されるとなれば、極めて恐ろしい世の中になると思います。そんなグリーンピースとは果たしてどういう団体だろうと思って検索してみたら、グーグルの「関連検索」でトップに出てきたのは「グリーンピース ご飯」だったということをどうでもいいですが付け加えておきます。
2008/06/27
これは触れておかないと、と思った興味ある事件です。司法修習生が、修習の一環として被疑者(容疑者)の取調べをしたときの様子などをブログに書いたことが、司法修習生としての守秘義務に反するとして問題になっているとか。この修習生がブログに書いた内容の一つとして新聞などに取り上げられていたのは、高齢の女性を取調べした際、「説教しまくり。おばあちゃん泣きまくり」というもので、司法試験の論文試験に受かったとは思えないほどの稚拙な文章ですが、それはともかく。司法修習生は公務員に準じた守秘義務を負っており、修習の際に知った内容を外部に漏らしてはならないことになっている。とはいえ、修習生がどんな修習を受けているかは、ある程度知られている。私も被疑者の取調べをしましたし、上記のブログにも書かれていたようですが死体解剖に立ち会ったりもしました。パトカーに乗せてもらうという、未だに何の役に立つのかよくわからない経験もしました。私のこのブログでも修習時代のことをたまに書いていますが、これまでお咎めはありませんでした(これからあるのかも知れませんが)。過去には、ある弁護士が、「修習時代に近鉄電車を運転させてもらった」と何かの本に書いて問題になったと記憶しています。(そのせいか、修習時代に私も近鉄電車の見学に行かせてもらいましたが、機械での運転シミュレーションしか経験しませんでした)ただこの時は、そんな記事を書いたのは誰だ、といった騒ぎにはならなかったようです。修習内容はどうしたってある程度もれてしまうから、すべてを秘密にするのは無理です。それに冒頭の修習生は、「おばあちゃん」とは書いたものの、個人が特定されるようなことは書いていない(と思う)。ではなぜこれが問題になったかというと、この先は私の個人的見解ですが、この修習生に、取調べを受ける人に対する配慮がなさすぎたのだと理解しています。人を裁く側の人間(裁判官)や、人を訴追する側の人間(検察官)は、その裁かれる人に対する「敬意」を決して忘れてはならないと思います。弁護士志望の司法修習生であっても、裁判所や検察庁に身を置いて勉強させてもらえるのは、人を裁くことの厳しさ、難しさを経験するためだと思う。それが、取調べが終われば自己のブログに「おばあちゃん泣きまくり」などと軽々しく書いているようでは、裁く側の意識はどうなっているんだ、と国民誰しも感じるのではないでしょうか。大げさに言えば司法制度そのものに対する不信を招きかねないわけです。この問題については、法曹関係者、司法修習生の方々、それぞれに思いがあることと存じますが、ひとまず私の感想を書かせていただきました。
2008/06/20
NHKの従軍慰安婦報道について、取材に協力した人が番組内容の改変で「期待権を侵害された」として200万円の賠償義務を認めた高裁判決を、最高裁が破棄したという話をしました。この「期待権」について書きます。最近の判例でたまに見かける言葉ですが、この期待権はいかなる法的根拠に基づいて認められるか。私たち弁護士が「権利がある」というとき、その権利の内容や、その権利が認められるための要件は、法律に書いてあるのが通常です。しかし、世の中で一般的に「ナントカ権」と言われているものの中で、どの法律にも根拠が定められていないものもある。というより、「ナントカ権」と呼び習わされているものの多くがそうであるかも知れません。よく耳にするけど、法律に明確な根拠がないものの例としては…、「居住権」、「肖像権」、「プライバシー権」、「名誉権」「(親の子に対する)面会権」、「嫌煙権」、「日照権」、「環境権」等々、いろいろあります。「期待権」もそうです。六法全書のすみずみまで見ても、そういう権利はありません。私が実際に六法全書のすみずみまで見たわけではないですが、そのはずです。にもかかわらず、判例上は、期待権を侵害したということを理由とする損害賠償請求が認められているケースが存在する。条文にはなくても、保護するに値すると考えられるものは、法的な権利として認められることがあるということです。単純な「期待」というのは、それに背くと、「ひどいヤツだ」と道義的に非難されるだけで終わる。しかしそれが「期待権」に昇格すると、道義的問題だけでなく、損害賠償しないといけないという法的責任(おカネの問題)が生じる。NHKの従軍慰安婦番組については、取材された団体は自分たちの意にそった番組になっていることを当然期待するだろうけど、そのような期待は法的権利にまで昇格させることはできない、そんなことをすると却って報道の自由が損なわれる、というのが最高裁の結論であって、個人的には妥当なものと考えています。
2008/06/17
国籍法の話が長くなりましたが、私の結論としては、今回の違憲判決は妥当なところだろうと考えています。民法の「愛人の子の相続分は正妻の子の相続分の半分」という規定は、おかしくないかと言われれば疑問の余地もあるけど、それは国会が対処すべきであって、裁判所がいじるようなものでないと思います。国籍法の違憲判決では、最高裁の15名の裁判官の評決は12対3に分かれたそうです。違憲とする裁判官が12名、いや合憲だと言うのが3名。三権分立のもと、法律のことは国会に任せておくか、それとも裁判所が違憲判断に踏みこむか、それぞれの裁判官が悩んだり議論したりした末に、今回は果敢な判断を下すほうに傾いたのでしょう。以下雑談。この判決を下した15名の裁判官の裁判長は、最高裁長官・島田仁郎(しまだ・にろう)氏です。かつてここでもネタにしましたが、この人の前職は司法研修所の所長です。ちょうど私が司法修習生として研修期間であったころ、この人が所長でした。その後最高裁判事になって、ほどなく長官に上りつめました。本来は別の人が予定されていたところを、裁判員制度が始まるということで、刑事事件の裁判官としてのキャリアが長い島田氏が任命されることになったとか。裁判員制度導入に反対する論説の中には、島田氏を名指しで批判する意見も見かけます。島田長官としては、「俺が考えた制度じゃないんだけどなあ」と内心思っているかも知れません。ちょうど、小泉政権の下で成立した後期高齢者医療制度のせいで集中砲火を浴びている福田総理のような気持ちかも知れません。これもかつて書きましたが、島田長官が司法研修所におられたころ、司法修習生の温泉旅行の際に島田氏にビールを注ぎに行って、コップ置き用のコースターの裏にサインを書いてもらいました。温泉旅館の安っぽいコースターの裏に書かれた最高裁長官のサインを持っているのは、全国で私だけではないかと思いまして、今も事務所に飾ってあります(写真)。最後のほうは何の話かわからなくなりましたが国籍法違憲判決の話を終わります。
2008/06/11
この度の最高裁判決により、日本人夫と結婚していない外国人妻との間に生まれた子に国籍を与えないとする国籍法(3条1項)は違憲とされた。一方、相続権に関しては民法(900条4号)上、非嫡出子は嫡出子の半分しか相続分がない。国籍については、外国人妻の子供が日本国籍を取得できるか否かについて、両親が結婚しているかどうかで区別されないことになったが、相続権については(配偶者が外国籍でも、日本人同士でも同じ)、両親が結婚しているか否かで大きな違いがある。婚外子の保護ということを理由に国籍法3条1項を違憲とするのなら、この民法900条4号も違憲になるのではないか。しかし私の考えでは、民法900条4号は違憲になりません。といいますか、違憲になると困ります。私に腹違いの弟がいるとか、そういう個人的な事情ではありません。弁護士として、職務上困るのです。仕事がら、依頼者の相続問題もよく扱います。もし仮に、とある資産家が亡くなってその相続問題を扱っているとして、その資産家には愛人の子(非嫡出子)がいたとする。「その子の相続分は正妻の子の半分だな」と思って遺産を計算し、書類(遺産分割協議書)を作成した途端、最高裁で「民法900条4号は違憲」という判決が出たら、ウチの依頼者にもその判決は適用されるのかどうか(相続分を計算しなおすことになるのか)。私も依頼者も、どうしていいのかわからなくなります。さらに、実際に遺産分割を済ませてしまった直後になってそんな判決が出たらどうなるか。非嫡出子の人はきっと、「私の取り分は2倍になるはずだったのに、どうしてくれるんですか」と文句を言いにくるでしょう。国会が、きちんと手続を踏んで法律を改正する場合は、こうした混乱は生じません。国会が民法900条4号を改正する場合は、改正法は何年何月以降に死亡した人に適用されます、と施行時期を予め示してくれるでしょう。こうすれば混乱は生じない。相続のように国民が誰でもいつでも直面しうる事がらについて、その法律を最高裁が違憲としてしまうと混乱が大きい。だから国会に任せるべきだという思考が働く。一方、国籍のほうはどうか。出生届を受け取るのは市役所、日本国籍を与えるのは法務省といった行政機関です。最高裁で国籍法の違憲判決が出れば、法務大臣あたりから速やかに通達が出て、外国人妻の子供の国籍の扱いは今後こうするように、という形で見解は統一されるでしょう。そうすれば混乱は生じない。こういった観点から、国籍に関しては一歩踏み込んだ判断をしたのが今回の判決なのだろうと理解しています。(完結編と銘打ちましたが、シリーズものの香港映画なみに引き続き少し書くかも)
2008/06/09
国籍法の違憲判決について、続き。日本人の父Aと、フィリピン人(に限らず外国籍の人なら誰でも同じ)の母Bの間に生まれた子Cちゃんについて、AとBが婚姻して法律上の夫婦となればCちゃんは日本国籍を取れるが、婚姻していない(いわゆる内縁または愛人関係)場合は、国籍を取れない。この点が違憲とされたのは前回書いたとおりです。男女の関係にはいろんな形があって、法的に婚姻している場合もあれば、いろんな事情で入籍していないこともある。(これは外国籍の相手に限らず、日本人同士でもそうでしょう)。そういう時代や価値観の変化を取り入れたのが今回の判決ということができる。親が結婚していなくても、そこから生まれてくる子は同様に保護されるべきだということです。もっとも、いかに時代が移り変わったとしても、法律上の婚姻(法律婚)と、内縁など事実上の婚姻(事実婚)は全く同じに扱われるわけではない。たとえば内縁の妻は、内縁の夫が死亡しても一切の相続権がない。それから、婚姻中または離婚直後(300日以内)に別の男性との間に子を生んでも、それは前の夫の戸籍に入る。当ブログでも取り上げた民法772条の問題です。これは、法律上の婚姻と、そこから生まれてくる子供との間の父子関係を保護するための規定です。詳しくは過去の記事。それから、婚姻外に生まれた「非嫡出子」は、嫡出子に比べて相続権が半分しかないという規定も厳然と存在する(民法900条4号但書)。すなわち、ある法律上の夫婦に子供がいて(嫡出子=ちゃくしゅつし)、夫には愛人女性がいて、その愛人が子供を生んだとする。愛人とは法律上の夫婦の関係になく、こういう子供を非嫡出子という。この2人の子を生んだ父親が死んだ場合、非嫡出子の相続分は嫡出子の半分しかない。(少しだけ過去に触れました。過去の記事)これも、法律婚とそこから生まれる子供を保護する趣旨ですが、一部の法律家(弁護士や学者)は昔から、非嫡出子を差別する不平等な規定だと主張しています。でも最高裁は合憲であるという見解を貫いており、今のところ法律が変わる気配はない。今回の国籍法違憲判決の趣旨として、「婚外子の保護」ということがあるのだとすれば、この民法の規定も違憲となるのかも知れないが、果たしてどうか。少し話が広がってきましたが、何とか収拾をつけるべく次回へ続く。
2008/06/08
国籍法に違憲判決の話、続き。フィリピン人妻の子供に日本国籍が与えられた、と言ってもピンと来ない人が多いでしょう。でもこれまでは、日本の国籍法ではそれが認められておらず、そしてそれを最高裁が憲法違反だと言ったわけで、やはりこれは大ごとなわけです。国籍法の何が問題とされたかは、大ざっぱに書くと以下のとおりです。日本人Aとフィリピン人B(フィリピン人に限らず外国籍の人なら同じですが、この事件に合わせておきます)の間に子Cちゃんが生まれた。このとき、AとBが結婚している間に生まれれば、日本人Aの子であると推定され、Cちゃんには日本国籍が与えられる。AとBが結婚していなければ、Cちゃんは当然にはAの子と扱われるわけではない。Aの子となるには、Aの「認知」が必要となる。ではAが認知すれば日本国籍が与えられるのかというと、まだダメで、さらにAとBが正式に結婚しないといけない。AとBがCちゃんの出生後、籍を入れればCちゃんは日本国籍を取得できる。でも、Aが「子(C)の面倒は見るが、キミ(B)とは籍を入れられない」と言い出せば、Cちゃんは日本国籍を取得できない。AとBが法律上の婚姻関係に入るかどうかという偶然の事情(そしてその多くは日本人Aの身勝手からくるように思うのですが)によって、生まれてきたCちゃんが日本人になれるかどうかの結論が正反対になってしまう。これは憲法第14条の定める「法の下の平等」に反する、というのが最高裁の結論です。この事件の新聞報道を見るまで知りませんでしたが、近年は欧州諸国などでは、外国籍の妻との婚姻外の子供(婚外子)が自国の国籍を取得するための要件として、両親の婚姻を要件とする規定は撤廃されているとか。そういう点では、時代にそった判決だというのが、各紙社説の論調であるようです。では私の見解はどうだと言われると、それを考えながら書くこととします、と司馬遼太郎さんみたいなことを言いつつこの稿、続く。
2008/06/06
最高裁大法廷が国籍法に対する違憲判決を出しました。国籍法によると、日本人の父と外国籍の母との間に生まれた子供について、子供が日本国籍を取得するには、父親が認知するだけではダメで、「父と母が結婚していないといけない」とあり、そのカッコ内の部分が違憲とされた。かように、法律の条文そのものが憲法違反とされることを「法令違憲」といいます。裁判所が、国会の作った法律について、「こんなモノは憲法に反するから無効だ」というわけですから、相当な重みがあります。戦後、今の最高裁ができてから、このような法令違憲の判決は8件あります。平成に入ってからは3回目で、前の2回は平成14年と17年ですから、ここしばらく、3年に1回のペースで法令違憲判決が出ています。平成14年の判決は、郵便法が違憲とされた。詳細は省きますが、郵便屋さんがミスしても国に損害賠償請求はできないとしていた規定が、国家賠償請求権を認める憲法17条に違反するとされた。このときの原告側弁護団長は、今の大阪弁護士会の会長であり、私の出身事務所の兄弟子でもあります。平成17年は公職選挙法で、在外邦人の選挙権を制限していた規定が、憲法15条(選挙権)などに反するとされた。さて、今回の国籍法違憲判決はいかなる意味を持つのか。その点は自分なりに考えて整理してから、次回以降に書きます。以下、3年前に旧事務所のホームページに書いた、公職選挙法違憲判決の際の記事を引用して、お茶を濁しておきます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成17年9月15日最高裁が、海外に住む日本人の選挙権を制限(比例代表のみ)している公職選挙法の規定を、憲法に違反し無効であると判断。法律を作るか作らないか、どういう法律を作るかということは基本的には国会が決めることで、裁判所が法律は無効とするのは三権分立に反することです。例外的に、憲法の趣旨に反するような法律に限り、違憲無効と判断できるということに憲法で決まってます。しかし、最高裁が国会の作った法律を無効だということはめったになく、戦後、最高裁ができてから、今回がようやく7件目です。前回の違憲判決は3年前のことで、何だか違憲判決のペースが速まっている、最高裁が積極的な司法審査の態度を打ち出してきたのかな、という印象を受けます。今回の判決は、在外邦人に選挙権を与えないのは、憲法が国民に選挙権を保障していることに反する、ということです。そして、次回選挙では、彼らに選挙権があることが判決をもって「確認」された。それだけじゃなくて、選挙権を与えられなかった原告に対して、損害賠償(国家賠償)が認められたのは画期的です。賠償金額は5000円と、私の一晩の飲み代にもなりませんが、そういうことは問題じゃなくて、国会が立法をさぼっていると、賠償問題にもなることを認めたわけです。理論上はこのことは以前から認められていましたが、実際に最高裁がそれを認めたことが画期的なのです。違憲判決が出たところで、国会に対する拘束力はないのですが(三権分立で法律を作るのはあくまで国会だから)、最高裁にこう言われては法改正せざるをえないはずで、次期国会でその作業が行なわれるのでしょう。弁護士業の傍ら講師として憲法や行政法を講義している私としては、かなり興奮して今朝の新聞を読んでおります。
2008/06/05
前回チラと書きましたが、タレントの後藤真希の弟が懲役5年半の判決を受けたという事件について触れます。新聞でその結論だけは知っていましたが、私はある疑問を持っていました。後藤真希の弟(以下「ゴマキの弟」と記します)の罪名は「強盗致傷罪」です。電線を盗んでいる過程で警備員に見つかって、その人を殴ってケガをさせたようです。刑法をちょっとかじった方は、誰でも以下のことを知っていると思います。・他人を殴る・脅すなどしてモノを奪うと強盗になる(刑法236条、5年以上の懲役)。・モノを奪ったあと他人に見つかり、追ってくる人を殴ったりするのも、殴るのとモノを取るのが前後逆になるだけで、強盗になります(刑法238条。事後強盗といいます。刑罰の重さは同じ)。・上記いずれも、強盗の結果、人をケガさせると強盗致傷となり、刑法240条で無期懲役または6年以上の懲役です(ちなみに死なせてしまうと強盗致死となり、死刑または無期懲役)。繰り返しますがゴマキの弟は強盗致傷罪ですから、「6年以上」の懲役が科せられるはずなのです。それがどうして「5年半」と短くなっているのか。判決直後の新聞はすぐ読み捨ててしまったので、今回インターネット上で新聞記事を調べましたが、結論は「情状酌量で刑が減軽された」とのことのようです(とあるスポーツ紙の記事から)。減軽される理由には刑法上でいろいろな規定があり、有名なところでは「心神耗弱」がありますが、その他にも、自首したとか、未遂に終わったといったことが規定されている。そして、それらの規定にあてはまらなくても、特に酌むべき事情があれば、減軽できることになっている(刑法66条)。冒頭の私の疑問に対する回答はこれだけの話です。ただこの事件に関しては、酌量減軽のあり方とか、量刑の決まり方といったことについて他にも書きたいことがありますので、たぶんあと2回ほどこのネタで引っ張る予定です。
2008/05/28
長崎市長を射殺した暴力団員(60歳)に死刑判決(26日、長崎地裁)。従来の「相場」から言えば、一人殺して死刑になることは少なかったのですが、犯行の悪質性から死刑が選択された。4選に向け選挙運動中の市長を射殺することは、選挙の自由を害し民主主義社会を脅かすものだと、判決が言っています。私自身は、この判決で妥当だと思っています。犯罪に対して刑罰を科す理由の一つは、犯罪から得られる利益や快楽よりも大きな苦痛を与えることによって、「犯罪は割りに合わない」ということを思い知らしめる点にあります。たとえばタレントの後藤真希の弟は、お金に困って電線を盗んで売りさばいて、懲役5年半という重い刑罰を受けました。それなら誰しも5年半まともに働いたほうがマシだと思うわけです。では暴力団が他人を射殺して何か得るものがあるのか。この事件では、報道によると、この暴力団員は市政に不満があったとか、自分の力を誇示したかったとか書かれています。また、いわゆる「鉄砲玉」として誰かを殺して刑務所に行くと、出所後は幹部として優遇されるといったこともあるとか。(この点について詳細は 過去の記事 へ)(もっとも、本件の組織的背景はよくわかりませんが、報道ではこの犯人は暴力団の「幹部」だそうで、単純な鉄砲玉とはまた違うのかも知れません)怨恨を晴らすとか、ヤクザ社会で名をあげるとか、殺しの理由は人それぞれと思いますが、「殺しが割りにあわない」と思わせる一番簡単な方法は、死刑にしてしまうことです。せっかく名をあげて出所したら幹部待遇だと思っていたのが、死刑にされては割りにあわないということで。もっとも、ひとを一人でも殺したら死刑、と単純に決めるべきでないということは当ブログでも書いてきたとおりです。当然、慎重で厳密な審理は必要です。その点この事件でも、なかなか難しい判断を抱えていると思います。長崎地裁は「選挙の自由と民主主義を脅かす」ということを重い刑罰の理由として挙げました。では、市長や知事を殺すのは罪が重いけど、町の善良なおじいさんやおばあさんを殺すのは軽くてよいのかとか、市職員は選挙と関係ない(選挙ではなく公務員試験で採用される)から軽くてよいのかとかいう疑問も出てくる。さらに斜めに見れば、民主政治や選挙との結びつきの深さで罪の重さが決まるとなると、政府・与党の人を殺すと罪が重く、野党の人を殺すと罪が軽いということになりかねないか、それでよいのか、という問題も残している判決ではあると思います。
2008/05/27
少し前のことですが、自宅前の線路にコンクリートを敷きつめて、勝手に踏切りを通路を作ったとして、ある男性が威力業務妨害罪で捕まってました。報道によると、その男性は「俺は何も人の業務を妨害したりしていない」と言ったとか。威力業務妨害罪は刑法第234条。威力を用いて人の業務を妨害した者は、3年以下の懲役または50万円以下の罰金。業務というのは他人の仕事のことを言います。威力というのは、物理的な力に限らず、人の意思を制圧すること、さらに平たくいうと「げんなりさせること」を言います。典型的には、吉本新喜劇なんかで、ヤクザがうどん屋で大声を張りあげて店の営業を妨害するような行為がこれにあたる。冒頭の人は、「俺はこっそり通路を作って利用していただけだ」と言いたいのでしょう。しかし、鉄道の線路のある部分に、唐突にコンクリートが敷きつめられているのを見れば、その線路を所有する鉄道会社、または線路の管理業者の作業員としては、「あっちゃ~何じゃこれ~」という気持ちになってげんなりする。安全管理上はそれをどけるために本来の管理業務に遅滞をきたすでしょう。だから威力業務妨害に当たる。ちなみにこの人は、警察でしぼられた末、コンクリートを自ら撤去することに応じたので、不起訴になったと記憶しています。さて、威力業務妨害罪といえば、長野での聖火リレーで、コースに侵入して大声をあげたりした人が何人か、この罪で逮捕されました。最も記憶に残ったのが、卓球の福原愛さんが走っているコースに突然飛び出した人です。あれも、大声をあげてコースに乱入することで、聖火リレー関係者である長野市、長野県警、それから福原愛さんの業務を妨害したということになる。この人は略式裁判で罰金50万円を払って釈放されたとか。報道(産経新聞など)によると、この人はチベットの人で、あの行為はチベットの惨状を訴えたいがためにやった行為だったとか。その気持ちは酌むべきなのかも知れません。同情を感じる人もいるでしょう。しかし、あの時の状況からして、私を含めて現場やテレビであれを見ていた人の大半は、おかしな人が愛ちゃんの聖火リレーを妨害しにきた、としか思わないわけで、あれは逮捕・処罰されて仕方ない行為と言わざるをえないでしょう。その人の気持ちではなく、周囲の人にどう見えるか、業務妨害だけでなく、およそ犯罪の成否はかように判断されます。
2008/05/20
東京都渋谷区の外資系金融社員の夫殺害事件、またの名を「セレブ妻バラバラ殺害事件」、妻の三橋歌織被告人に懲役15年の実刑判決が下りました(28日、東京地裁)。この事件は検察側・弁護側双方の鑑定人が「心神喪失状態で責任能力がなかった」と結論しており、裁判官がこの鑑定結果をそのまま受け入れるのであれば、この被告人は無罪となるところでした。心神喪失とは、「物事の善悪が分からない、または、善悪の判断に従って自分の行動を制御できない」状態のことを言います。そういう状態で罪を犯しても、法律上は「無罪」となる(刑法39条)。(刑法39条の当否についてはここでも度々論じてきましたが、興味のある方は過去の記事を)心神喪失であるかどうかは、裁判所が判断します。この事件では、鑑定人2名の鑑定結果にもかかわらず、裁判官は「責任能力あり」という結果を出した。責任能力があるかないかは法的な判断であって、医師の判断は尊重されるが、それに拘束されるものではない。これは従来からの判例であり、学生の教科書のレベルでも書かれていることですから、ちょっと刑法を勉強した人であれば、今回の判断に驚くことはなかったでしょう。精神医学的なことは全く不勉強でよく知りませんが、おそらく医師は、目の前の「患者」に治療を施すべきか否かで判断する。そこにはたぶん、医師としてのヒューマニズムも働くのでしょう。一方、裁判官は、その人がやったことに対して刑罰を科すべきかどうかで判断する。刑罰を科したほうがその人自身の更生のためになるのかという観点だけでなく、刑罰を科したほうが社会の秩序維持のためになるのかという観点も入ってくる。夫をワインボトルで撲殺して切り刻み、稚拙ではあるが隠蔽工作をした、そういう被告人を見て、医師は「精神的に疾患のある人で、治療が必要だ」と判断したが、裁判官は「こんな人を処罰しないことには社会秩序が保てない」と判断した、ものすごく簡単に言うとそういうことだと思います。量刑は、殺人プラス死体遺棄で懲役15年は少し軽いかな、とも思いますが、夫の暴力で精神的に参っていた点が考慮されたということのようで、その点では医師の鑑定結果も少し考慮されたということでしょう。
2008/04/29
前回の続きです。山口の母子殺害事件で、この事件に全国から21名の弁護士が集まったのはきっと「何かある」のだということを書きました。では、この事件に何があったのか。それは…「わからない」というのが答えです。思わせぶりに引っ張っておきながらすみません。しかし、こんな儲からない、むしろ自分の評判を悪くしかねない事件に、お金ももらわずに参加する気持ちは少なくとも私にはないので、そうさせる何かがあったのかも知れないと想像しているのです。前回書いたとおり、場合によってはああするのが弁護士としての職責ということになる(そのこと自体が納得いかない人は、弁護団を批判するのでなく憲法を改正してください)。そうではなくて不合理な「言い訳」を入れ知恵しただけであれば、まさに責められて然るべきということになる。弁護士としてああせざるをえないような何らかの事情があったのか否か。それは「わからない」のです。実際に事件に触れているわけではなく、マスコミの報道でしか事件を見知っていない私たちには知りようがない。そして私は、どちらかわからないことに対して、その一方であると決めつけて批判する気にはなれないのです。ところで少し前に、放送倫理・番組向上機構(BPO)という機関が、各放送局のこの事件についての報道が、「刑事訴訟を理解せず、被害感情のみに引きずられたもので公平性を欠く」といった意見を出しました。それに対して、ネット上の世論では、「こんな被告人に公平性など要らない」と言った発言も見受けられました。(世の中に存在するブログは、このブログを典型としてその大半が取るに足りないものですが、主権者である国民の感想や意見をダイレクトに聴けるツールとして私もたまに参照しています)しかし、これら世論の言う「こんな被告人」「こんな弁護団」の姿が、すでにマスコミの報道するところを当然の前提としてしまっているところがおそろしいと思いました。「松本サリン事件」を持ち出すまでもなく、報道と実際の事件像が異なることはザラにあるからです。山口県の母子殺害事件は(まだ判決が確定していないので弁護士としては断定できないのですが)、結論としては今回の広島高裁判決の言うとおりでよいと思います。被告人のやったことはおそろしい、おぞましい犯行であることは間違いない。ただ、それに対する判決を下すまでには充分な審理が必要であり、一部世論でそれを忘れたかのような感情論が飛び交っていたこともまた、おそろしいことだ思いました。
2008/04/24
山口県・光市の母子殺害事件で、広島高裁は死刑判決を出しました。最高裁が破棄差戻し判決を出したところから、ある程度予想できた結論ではあります。(2年前の破棄差戻し判決を出した時期の記事を下に引用しておきますが、今回の記事は今回だけで完結しておりますので、過去の記事は興味ある方だけお読みください)。広島高裁がそれなりに長期間の審理を行い、証拠を慎重に検討した上で、「少年には殺意もあり、姦淫目的での犯罪だった」と認定しているわけですから、実際そうだったのでしょう。この被告人に対する弁護団の活動に批判が集まっていますが、私自身はこの人たちを批判する気にはなりません。たしかに、個別的なところでは、弁護手法やマスコミ・遺族への対応について疑問を感じる点はなくもない(それはすでにいろんなところで言われていることだから省略します)。それでも、弁護士であれば「ああしなければいけない」状況であったようにも思います。刑事事件においては、被告人が無罪を主張しているのであれば弁護人も無罪を主張します。常識外れの言い訳をする被告人がいたら、「そんな言い訳はまず通らないし、君の情状をより悪くするおそれが高い。しかし、君が本気でそう思っており、その結果としての判決を受け入れる覚悟があるのなら、私は君に代わって、法廷でそれを主張する」と言うことになります。私自身もそうします。この山口の事件でも、殺すつもりはなかったとか、ドラえもんが何とかしてくれると思ったとかいうことを被告人が「本当に」主張しているのであれば、弁護人としては、ああせざるをえない。弁護団の人たちも、その主張は荒唐無稽であり、常識外れであることはおそらく誰もが理解していたと思う。ただ、日本国憲法に、「被告人は弁護人を依頼できるし、自分の言いたいことを充分に主張して聞いてもらう権利がある」と書いてあるから、誰かがそれをやらないといけないのです。(おそらくないとは思いますが、仮に弁護団が、少年にそのような言い訳や筋書きを「吹き込んだ」としたら、弁護士としてはまさに懲戒ものでしょう。高裁判決ではその「言い訳」によって情状が悪化したとされたわけですから)加えて、その荒唐無稽な主張をするために、全国からわざわざ21人だったかの弁護士が、お金ももらわずに集まってきたわけで、そこには何かあるんじゃないか、と私は思ってしまうのです。では、被告人や弁護士たちのそこに「何があった」のか、それについては次回触れてみたいと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下は平成18年6月23日に書いた記事です。(当ブログ開設前なので旧事務所のHPに掲載したものです。本文そのまま転載します。「母子殺害事件で『破棄差戻』の最高裁判決」この欄で少し前に書いた、山口県の母子殺害事件、高等裁判所の無期懲役判決に対し、最高裁の判決は「破棄差戻」(はき・さしもどし)でした。ごく簡単に説明すると、最高裁の言っていることは・・、高裁判決は間違っているから「破棄」する。どこが間違っているかというと、死刑にすべきか無期懲役にすべきかの点について、情状をもっと吟味して結論すべきであったのに、安易に無期懲役としたことが間違っている。それをもう一度吟味するために、その点について審理をやりなおしなさい、そのために判決をもとの高裁に「差戻」する。・・ということです。最高裁は、「事実関係」については一から取り上げて判断することをしません。事実の評価とか、法律解釈について誤りがあったかなかったかという点のみを判断します(そうじゃないと全国1か所しかない最高裁がパンクしてしまう)。情状酌量すべき事実としてどんなものがあったかという点まで最高裁は立ち入らないから高裁でもう一度調べなさいという趣旨です。「破棄差戻」に対し、「破棄自判」という判決もあります。もとの判決を「破棄」した上で、事情はよくわかったから最高裁自ら判決します、というもの。今回のケースも、本件の犯人のようなヤツは間違いなく死刑にすべきヤツなのだから、「破棄自判」で自ら死刑判決を出すべきだった、という声も聞かれます。「破棄差戻」を受けた高裁が、吟味の上で死刑判決を出すにせよ無期懲役判決を出すにせよ、最高裁まで争われて、最終の判決が出るのはまだ何年か先になる。その点にも批判がある。最高裁が「自判」すべきであったのか否かについて、私はどちらがいいかわかりません。私は事件の当事者でもないし、事件の捜査に当たった者でもない。私たちが見ている情報は、あくまでマスコミを通じて作られた「犯人像」でしかありません。もちろん、実際の被告人も、その「犯人像」に近い人なのであろうと思います。しかし、「死刑」の最終宣告を出す前に、慎重に検討しなおしなさい、と最高裁が命じたことは、決して不合理ではないと思っています。人殺しをした者は自分も死ぬべきだ、というのは、感情論としては極めてわかりやすい(私自身も、個人的感情のレベルではそう思う)。でも、一国の司法の態度として、1人以上の人を殺した者は死刑、という処理をするのは極めて危険です。人殺しにも様々な事情があると思うからです。ならば、どんな事情があれば死刑にしてよいか、最高裁は基準をもっと具体的に明らかにすべきだ、とおっしゃる方もおられるでしょう。今回の最高裁の「差戻」判決は、まさにそれをやろうとしているのです。こういうケースの検討を通じて、国民に納得のいく形で具体的基準が形成されるのだと思います。それにはまだまだ歳月がかかるでしょうが、国家権力が人を殺すための基準を作るに際しては、それでも慎重すぎることはないと信じます。
2008/04/23
一見、どう評価してよいか迷うけど、当事者の立場を考えてみればそれも仕方ないか、という話がよくありまして、そんな話を2題。マンションに、イラク派兵反対のビラを投函した人が建造物侵入罪に問われたケースで、最高裁が有罪の判断。有罪判決を受けた被告人たちは、表現の自由の侵害だという声明を出しています。高裁判決が出たときにも触れましたが(過去の記事)、たしかに、マンションの集合ポストに投函される商業的チラシは今のところおとがめナシで、政治的アピールをすれば逮捕されるということになりますと、時の政権に反対するような人が逮捕されるということになりかねない。ただ、この事件の事実関係に照らすと、本件に限っては有罪でも仕方ないかな、というのが今の私の感想です。このマンションは自衛隊の官舎だったとか。すると素朴に考えて、ビラを配られる側の立場からするとどうか。自衛隊やイラク派遣の是非はここではさておくとして、公務員として国の命令で国の防衛やイラク派遣に携わっている人々やその家族が、度々、自宅のマンションに「お前らのやってることは違憲だからやめろ」というビラを投函されるわけで、これは不気味であり不快でしょうから。さて、千葉の県立高校で、入学金未納の生徒2名が入学式に出席できなかったと新聞にありました。その学生にとってはかわいそうとしか言いようがないですが、皆さま方はどうお感じになったでしょう。一部新聞によると、そこを、学校側は、事前の説明会で「納付困難な方は相談するよう」言ってあったにもかかわらず、その学生の親は納付しなかった。入学式の日に、その学生から納付するよう言われて、ようやく親が持ってきたと。つまり払えるのに払っていなかったわけで、もっとも責められるべきは親でしょう。県の条例では、入学費を収めないと入学できないとなっているそうで、いま流行りの「法令遵守」の精神からすれば、学校側は、入学式に出さないどころか、入学自体を拒否しなければならない。教育の現場のことは知りませんが、学費を納付しない親も増えているとか。そんな家の学生をそのままにしておくと、他の親は不公平だと言うだろうし、一般の県民からも、「条例に違反して生徒を在学させている、不当な税金の使い方だ」と文句が出るかも知れない。学校側の立場としては、苦渋の判断だったと思われます。表現の自由だからいいじゃないかとか、高校生がかわいそうじゃないかとか言うのはたやすいですが、様々な人の立場を考えて論じていきたいものだと思います。
2008/04/15
「集団自決訴訟」の判決。日本軍の元隊長が、「戦争の際に沖縄で住民へ集団自決を命じた」と大江健三郎氏の著書に書かれたことを理由に、その著書の出版差止めや損害賠償を求めた裁判で、大阪地裁は原告(元隊長)の請求を棄却。これは扱われた事件が特殊なだけに判決を読み誤りがちですが、裁判所が「元隊長が集団自決を命じたのだ」と判断したのかというと、そうではない。原告である元隊長は、「集団自決を命じていないのに、命じたと書かれたことが名誉毀損にあたる」として、損害賠償などを求めていた。大江氏は損害賠償に応じないといけないのかどうか、それが争われていたのです。たとえば、「あいつは人殺しだ」などと発言して人の名誉を傷つけると、それにより相手に与えた精神的苦痛につき損害賠償しないといけない(また、刑法上も名誉毀損罪が成立する。刑法230条、3年以下の懲役または50万円以下の罰金)。しかし、その発言が「1・公共の利害にかかわり、2・公益目的で、3・真実である」という要件を満たせば、仮に名誉を毀損した発言をしても正当化され、発言した人には賠償責任が発生しないし、犯罪にもならない。そうでないと、例えば政治家や役人の汚職を報道することすらできなくなるからです。上記の1・2は飛ばして3について以下触れますが、この3は、「真実だ」と証明できなくても、「真実だと信じる相当の理由」(つまり「ちゃんとした根拠」)があればよいとされている。これを前提に、裁判所の判断をかいつまんで言うと以下のとおりです。大江氏の著書は、原告である元隊長が集団自決を命じたかのように書いており、原告の名誉を毀損している。では、元隊長が集団自決を命じたのは真実かというと、そこまでは認定できない。しかし、大江氏はそれなりの文献の調査や取材を経て書いているので、真実だと信じたちゃんとした根拠はある。だから、賠償請求までは認められない、ということです。集団自決命令が真実だったのか否か、今となってはもはや解明のしようがないのかも知れません。裁判所としても、そこまで踏み込んで判断を下す能力も権限もない。あたかも戦争犯罪人のように書かれた原告の気持ちはわかりますが、裁判所の判断としてはこれで仕方ないかと思います。
2008/03/30
耐震偽装問題で、マンション販売会社「ヒューザー」の小嶋元社長に詐欺罪の有罪判決。懲役3年で執行猶予(5年間)がついたので、とりあえずは刑務所に行かなくてよい。東京地裁は、小嶋による「不作為の詐欺」を認定した。「不作為の詐欺」とは、積極的にウソを言って(これは「作為」)騙すのではなく、言うべきことを言わないままにして(これを「不作為」という)、人を騙すことです。この件で小嶋は、姉歯元建築士が作成した構造計算書に偽装があり、耐震強度が欠けていることがわかっていた。マンションを販売する側としては、そんなモノを売ってはいけない、買おうとする側に本当のことを言ってあげないといけないにもかかわらず、それをしなかった。マンションを買う側は当然、強度には問題ないと思って正規のマンション代金を払った。これによって、マンション代金を「騙し取った」というわけです。建物の構造計算書は、私も建築関係の訴訟で何度か見たことがありますが、まあ、素人にはワケわからんシロモノです。あれを見て、耐震強度はOKかNGなのか、専門家でないとわからない。小嶋は不動産業者だからか、姉歯から聞かされたのか、何らかの方法でそれがわかっていたみたいです。もっとも、その偽装の構造計算を前提に、役所側は「建物を建ててよい」という「建築確認」を出しており、小嶋としては「売っていい」と考えたとしても心情的にはやむをえない部分もある。それを踏まえての執行猶予判決でしょう。(建築確認はかつて役所(都道府県の建築主事)が出していたのが、近年は役所の認証を受けた民間の機関が出すことになり、それが偽装を容易にさせたようです。その問題を論じだすと長くなるので省きます)テレビや新聞での「写り」から見ると、姉歯より小嶋のほうが明らかに「悪そう」な顔をしているのですが、偽装自体は姉歯の個人的犯行だったということで(日経朝刊社説)、小嶋は典型的な「顔で損している人」ということになります。(とはいえ有罪判決ですから「悪い」ことには変わりないのですが)なお、「不作為の詐欺」というといかめしいですが、結構身近に見られるものでして、たとえばコンビニで買い物をしてお釣りが多いことに気付いたけど、それを言ってあげずにだまってそのまま持ち帰った、これも詐欺罪が成立します。刑法246条で10年以下の懲役ですので気をつけましょう。
2008/03/26
前回の続き。前回述べたように、突発的な殺人より計画的な殺人のほうが悪質であり、罪も重くなるということは、法律家としては常識です。殺人に限らず、刑事事件の弁護人は、「本件犯行は計画的なものではない」と主張するのが定跡のようなものです。ところが、最近どこかの新聞でこういう話を読みました。裁判員制度導入に向けて、ある裁判所で「模擬裁判」をやった。ケンカが発展して憤激・逆上した被告人がカッとなって被害者を刺し殺した、という事案を「素材」としたらしいのですが、この被告人の量刑を決める際、市民から選ばれたある裁判員はこう言ったとか。「計画的殺人ならその人の性格を矯正すれば再犯は防げるが、カッとなって殺したのならまたやるかも知れない、だから刑は重くすべきだ」と。この人の考え方は、「法律家の常識」からすればかけ離れていますが、論理的に間違っているというわけではありません。そういう考え方もありえます。そして裁判員制度というのは、こういう市民感覚を汲み上げるのが目的です。児童連続殺人事件に話を戻しますが、裁判員制度が始まると、まさに今回のような事案で、殺意はあったのか否か、計画的なものだったのか否か、死刑か無期か、といったことについて国民一人ひとりが一票を投じないといけないわけです。「ギャラリー」の立場にある者として、「畠山鈴香は死刑にすべきだ」と言うのはたやすいですが、法廷において、目の前の被告人に対して、自分自身が「死刑」に一票を投じることができるか。私たちが新聞報道で観ている畠山被告人の顔というのは、おそらく逮捕前後に撮影された、ふてくされたような顔ですが、法廷でのこの人は、長期間の勾留の末にやつれきって、うなだれた姿だと思います。そういう相手を見て、「はい、じゃあ死刑台へどうぞ」と言って平気な人が、果たしてどれだけいるか。この事件の判決を報じたある新聞には、識者のコメントとして、「こういう場合に備えて最高裁は死刑の基準を明確に語るべきだ」といったことが紹介されていましたが、裁判所が基準を作って裁判員にそれをあてはめさせるだけでは、市民の素朴な量刑感覚を裁判に活かすことにはならないわけで、なかなか難しい問題です。そして裁判員制度はいよいよ来年から始まります。
2008/03/21
秋田の児童連続殺害事件で、畠山鈴香被告人に無期懲役判決。弁護側の主張(娘の彩香ちゃんに対しては殺意はなかった)は退けられ、児童2人に対する殺意があったと認められたようです。2人殺しておいて死刑ではなく無期懲役。感想は人それぞれだと思います。私の感想は、正式な事件記録を見ていないので何とも言えない、といつもの逃げ口上を書いておきますが、微妙な判断だったのだろうなあと言ったところです。死刑と無期の分かれ目は、おそらく色んな要素があったかと思いますが、報道などによりますと、争点の一つであった、彩香ちゃんの殺害が計画的なものが一時的に生じた殺意に基づくものかといった点です。この点、計画性はなかったとされたのが、情状として良いほうに作用した。ある人を殺そうと前々から計画しての殺人と、一時的にカッとなって殺意を生じての殺人、どちらが「悪い」と思われますでしょうか。日本の刑法では、いずれも「殺人罪」(刑法199条)という同じ条文が適用されますが、計画的な方がより悪質とされ、刑は重くなる傾向がある。アメリカなどでは、計画的殺人は「謀殺」(ぼうさつ)、一時的に殺意を生じた場合は「故殺」(こさつ)というふうに条文が違うらしい。「謀殺」のほうが重いとされているのは日本と同じで、ロス疑惑の三浦氏に適用される「第1級殺人」とはこの「謀殺」のことを指します(米法は詳しくありませんので間違ってたらご指摘ください)。今回の判決では、裁判官もギリギリのところで悩んで、「2人目の殺害は計画的ではないから」として無期懲役を選んだのでしょう。このあたりの「量刑感覚」について、もう少し書こうと思ったのですがそれは次回に。
2008/03/20
戦後の言論弾圧事件である「横浜事件」の再審について、免訴の判決が最高裁で確定。戦前の治安維持法によって、一部出版関係者が逮捕され、戦後間もなく(治安維持法の廃止直前)、有罪判決が出た。そこで有罪とされた人やその遺族が、再審を申し立てていた事件だったそうです。私は不勉強でこの事件のことをよく知りませんでしたが、出版関係者が左翼的な言動をしたという疑いで検挙され、何人かの言論人が獄死したり、いくつかの雑誌が休刊に追い込まれたりした。その「疑い」は、当局の思い込みやでっち上げに基づくものである疑いがあるとか。元被告人や遺族側は、「無罪」判決を勝ち取ることによって名誉回復を図ることを願っていたようですが、最高裁は、無罪ではなく「免訴」という判決で事件は終結したとした。無罪というのは、起訴された犯罪事実が存在しないことを意味する。免訴というのは、刑事訴訟法337条によると、犯罪後の法律の改正でその刑が廃止され、犯罪でなくなったときなどに出される。いずれも被告人を有罪にせずに裁判を終了させるという点では同じだけど、無罪は、そんな事実はない、と言い切るのに対し、免訴は、そんな事実があったかどうかはともかく、法律も変わったから裁判打ち切り、というニュアンスがある。この件に関して言えば、治安維持法に該当する事実はないから無罪、と言ってもらったほうがよいのか、治安維持法なんてなくなったから免訴、と言ってもらったほうがよいのか、どっちがよいのでしょう。私自身は、後者のほうが良いように思えたのですが。いずれにせよ元被告人や遺族は、この再審公判を、なぜ横浜事件が起こったのか、なぜでっち上げの事実に基づく言論弾圧が行われたのかを解明し、日本の国が抱える言わば闇の部分を解明する場とすべく努力しておられたようです。その努力には敬意を表しますが、残念ながら、それを刑事裁判に求めるのは誤りでしょう。似た話はすでに当ブログでも書いたかと思いますが、刑事裁判は、法律に則って、起訴された事件に判決を下す場であり、刑事訴訟法に「刑が廃止されたら免訴」とある以上、そう判決せざるを得ない。元被告人や遺族の名誉の回復は、刑事補償や国家賠償、そしてその他の言論活動によって行われるべきであって、刑事裁判を「利用」するのは、求めるべきものが間違っているように思えます。関係者の方の名誉回復の闘いはまだ始まったばかりでしょう。刑事裁判などという小さなフィールドにこだわることなく、真の名誉回復を果たされることを祈ります。
2008/03/18
チロルチョコに関する裁判。昨日の朝刊から。新潟市で、自宅を「チロルチョコ株式会社」の新潟出張所兼用として勤務していた男性が、16年間、自宅の六畳間をチロルチョコの置き場にさせられたとして同社を提訴。同社がその男性の六畳間を物置がわりに使って得た利益として、600万円を請求したらしい。訴状を見ていないので想像で書きますが、請求の根拠は、「不当利得」でしょう。法律上の根拠なく、一方の損失において他方が得をすると、損した方は得した方にその分を返せと言える(民法703条)。チロルチョコ株式会社が(今般知りましたがチロルチョコを作っている会社は「チロルチョコ株式会社」というそのままの社名なのですね)、何のいわれもなくその男性の自宅を物置にし、本来なら支払うべき倉庫代を浮かした(それにより男性は自宅の一室を使えないという損失を受けた)ということです。不当利得の返還請求権は10年で時効にかかるから、16年間のうち10年以上昔の分は時効になっている。一部新聞によると、「利益の一部として」600万円を請求、とあったので、時効にかかっていない過去10年分を請求したと想像できます。計算してみると、10年で600万円だから1年で60万円、1か月で5万円。新潟市内で六畳一間の1か月の賃料相当額が5万円。ちょっと高い気もしますが、それはさておきます。法的なところはともかく、よくわからないのは、どうしてこの人は16年間もチロルチョコを自宅に置かせ続けたのかという点です。最初は半畳程度だったのが、チロルチョコがどんどん送られてきて六畳間いっぱいになったとか。その間、そしてその後16年間、文句を言わなかったのか。この事件の記事を見て私は、原宏一氏のショートショート集「天下り酒場」所収の「ダンボール屋敷」を思い出しました。とある事情で買い物癖がついてしまった母親が、生活用品などをダンボール丸ごと買い込んできて、主人公(その息子)が四苦八苦する話です。この事件では、モノがチロルチョコであるだけに、不謹慎ながらおかしみを感じてしまいました。しかし、この原告男性は、自宅を兼営業所とし、チョコのサンプルを長年自宅に置き続けていたのであり、少なくとも当初は献身的にチロルチョコ販売に尽くしていたと思われます。それが何らかの事情でこじれてしまって、提訴に至ったわけです。チロルチョコをめぐる、原告男性とチロルチョコ株式会社の16年間の愛憎に思いをはせてしまう一件です。子供のころ毎日のようにチロルチョコを食べた者として、円満解決を祈ります。
2008/03/13
当ブログを少しだけ模様替えしてみました。本文と、左のサブ項目欄の文字が濃くて読みやすいかなと思ったのですが、いかがでしょう。それと、左上のプロフィール写真を変えてみました。先週やっていた「おはよう朝日です」のブログ特集で、「プロフィール」を見やすいところに出して顔写真も掲げておくとヒット数が伸びる、という話を聞いてやってみたのですが、今のところ特に効果はありません。「おは朝」でやっていたのはキレイな女の人のブログでしたが、男の陰気な横顔では効果がないのかも知れません。と、軽い話はさておき、当ブログでも取り上げた「セレブ妻バラバラ殺人」(何度聞いてもすごいネーミングだと思います)の三橋歌織被告人の裁判で、鑑定人が「心神喪失」の判断をしたと、今日の夕刊にありました。弁護側が要請した鑑定人だけではなく、検察側が要請した鑑定人までもがそう回答したそうなので、「弁護側が被告人に有利なことを言いそうな医師を連れてきた」というだけのことではなさそうです。刑法39条では、心神喪失(善悪の判断ができない、または自分が制御できない)の人は無罪、心神耗弱(善悪の判断、または自分を制御する能力が弱っている)なら罪が一等減ぜられる。では、三橋被告人は無罪になるのかというと、まだ決まりではない。裁判官は、医師の鑑定結果は尊重するけど、それに拘束されるわけではないからです。医学的な意味においては心神喪失と判断されたかも知れないけど、法的な見地からはなお責任能力が存在する、という判断も可能です。刑法39条の当否については、これも過去の日記で書きました。これまた、過去の日記を引用して手抜きしますが、私はこの条文はやむをえない規定だと思っています。詳細は上記の昨年3月1日とそれに続く何回かの記事をご参照ください。今回の鑑定結果が出たことで、「心神喪失といえば人殺しでも無罪になるのか」という論調が高まりそうな気もしますが、その点については次回以降で少し触れる予定です。
2008/03/10
最高裁が住基ネットに合憲の判断。住民基本台帳制度をコンピューター化する住基ネットがプライバシーの侵害にあたるかが争点でした。最高裁は、扱われる情報(住所・氏名など)が秘匿性の高いものでないこと、悪用に対しては刑罰が定められており漏洩の危険性は少ないことなどから合憲とした。だいたい予想できたところで、妥当な判決なのではないかと思います。私が不勉強なだけだと思うのですが、住基ネットの何が問題か、正直わかりません。住民基本台帳制度ならよくて、住基ネットは違憲というのであれば、国の行政事務にコンピューターを導入することは一切ダメということになりかねず、それは現実的ではない。「漏洩のおそれ」というのも、私にはピンときません。どこかで誰かが、私自身の住所や氏名や本籍についての情報を入手しているかも知れない、と考えても、だから何? という気がします。このあたりの話は、一昨年の末、高裁レベルで合憲・違憲が分かれた時期に当ブログで書きました。いま見直すと、この件に関して感じたことはすでに全部書いてしまったように思うので、それを要約するに留めます(手抜き)。住基ネット制度のことを「国民総背番号制」と言って嫌う人がいるけど、番号をつけられること自体がなぜ悪いのかわからない、という話。平成18年12月5日漏洩のおそれがあるから違憲とした大阪高裁の判決を紹介しました。 同6日少し話はそれますが、行き過ぎた個人情報の保護は「大きなお世話」だと感じることがあるという話。 同7日別の高裁での合憲判断。 同11日。今回の最高裁判決はこれに近い。
2008/03/07
新聞各紙に出ていましたが、女性のバストが理由で無罪が出たという刑事事件の判決。男性が住むマンションの玄関ドアを蹴り破って室内に侵入したとして東京地裁で有罪判決を受けていた30代の女性タレントが、東京高裁で逆転無罪判決を勝ち取った。高裁は、この女性タレントのバストの大きさ(1メートルを超えているとか)では、蹴り破ったとされるドアの穴をすり抜けるのは無理、と認定した。極めて興味ある判断ですが、同時に多くの疑問が生じる事件です。まずこの事件を捜査した警察官は何をしていたのか。捜査段階で警察官は、容疑者に犯行の様子を再現させてその写真を撮り、証拠にします。現場検証と犯行再現をきちんとしていれば、捜査段階でこのことが判明したはずではないか。また、1審を担当した弁護士はこの点に気付かなかったのか。起訴された事実については、その有無や動機を尋ねるのは弁護人として当然で、その過程で、本当にそんなことができたのかという疑問に行き着くはずではないか。最もわからなかったのは、この人は「器物損壊罪」で起訴されていたのが無罪になった点です。蹴り破ったドアの穴をすり抜けなかったと言っても、ドアを蹴り破った以上、その時点で器物損壊罪が成立する。住居侵入罪が無罪になったというならわかるけど、器物損壊罪自体は否定されないのではないか。この点は、テレビのワイドショーか何かを見ていた妻が教えてくれました。ワイドショーの報道だし、妻も法律の専門家ではないので間違いかも知れませんが、こういうことだそうです。この女性タレントは、ドアを蹴り破ったとされる当時、靴を履いていない裸足の状態であった。女性が裸足でドアを蹴り破るのはまず無理だし、仮にそんなことをすれば足先を怪我するはずであるがそんな状態にはなかった。それが無罪の理由になったと。つまり、ドアを蹴り破ったこと自体が否定されたわけです。「ドアを蹴り破って男性の室内に侵入した」というのは、その被害者とされた男性や、周囲の目撃者の証言です。「侵入した」という証言は事実に反するから、「ドアを蹴り破った」という部分も証言の信用性が疑わしい、ということでしょう。新聞各紙は、ニュースバリューを考えたのか、または単なる興味本位か、バストの大きさの話ばかりしていますが、蹴り破ったかどうかの点が事件の中心だったわけです。最後に残った疑問は、この女性タレントはなぜ男性宅に「裸足で詰めかける」ような状況になったのか、という点ですが、これはまあ男女間のいろんな怨念がからんでいたのだろうなと想像して済ませておきます。
2008/03/05
私も驚きました。「ロス疑惑」の三浦和義氏がサイパンでアメリカの警察に逮捕されたと。事件の概要を極めて大ざっぱに言うと、27年前、三浦氏が誰かと共謀して、妻を銃撃して殺したことが疑われている。しかしこれは日本の最高裁ですでに無罪が確定している。日本で無罪が確定した事件が、アメリカでさらに逮捕される。このことを理解するには、以下の点がポイントとなるかと思います。1。アメリカのカリフォルニア州では、殺人について時効がないそうです。公訴時効の当否については先日書いたとおり、私自身はやむをえない制度と思っています。公訴時効がない国もあるとは聞いていましたが、比較的身近なアメリカでそうであったとは、恥ずかしながら私も知りませんでした。2。きちんと条文を確認していませんが、時効がないのは「第1級殺人」だけであるようです。アメリカでは殺人にランクづけがあって、計画的に殺した(第1級)のと、ついカッとなって殺した(第2級)のとで適用される罪が違う(日本ではいずれも同じ「殺人罪」が適用される)。三浦氏は保険金目的で計画的に殺した容疑なので、時効のない第1級殺人が適用される。3。新聞やテレビで昨日から繰り返し出ている言葉が「一事不再理」。いったん刑事裁判の判決を受けたら、有罪であれ無罪であれ、同じ犯罪についてもう一度裁判を受けることはないという原則です。憲法39条にも書かれてある。アメリカの憲法にもこの考え方があるはずです。というより一事不再理の考え方はアメリカから入ってきたはずだし、「一事不再理」を意味する「ダブル・ジョパディー」ってタイトルのアメリカ映画がありますから。4。では、日本で裁判が終わった事件について、なぜアメリカの警察が逮捕することができたか。これは、日本の裁判所の下した判決は、あくまで日本国内でのみ効力を有するからです。アメリカの警察や裁判所は日本の裁判権に服するいわれはないので、アメリカ領土内においては一事不再理はまだ適用される状態になっていない、ということです。5。本件のように、国境をまたぐ犯罪になると、日米両方の警察・司法がかかわります。日本の刑法は、日本国内で起こった事件に刑法を適用する「属地主義」(ぞくちしゅぎ)の考え方を基本としつつ、一定の重罪については、日本人が日本国外で起こした事件についても刑法を及ぼす「属人主義」(ぞくじんしゅぎ)の考え方も採る。アメリカの刑法も基本は「属地主義」です。だから、日本人がサイパン(アメリカ領)で起こした殺人事件は、両方の刑法を適用しうる。概要は以上のとおりですが、まだもう少し続くかも知れません。
2008/02/25
「わいせつ」表現に関して、最高裁が注目すべき判断。アメリカの写真家が出版した写真集に男性の性器が写っていたため国内持込み禁止にされた処分の当否が争われた裁判で、裁判所は、わいせつ図画にあたらない(税関が持込みを禁じたのは違法)と判断しました。わいせつな文書や図画は、関税法によりその国内持込みが禁止されており、また国内で販売したりするとわいせつ物販売罪で処罰される。では、わいせつなモノとは何か、と言いますと、条文にはそれ以上の定義はされていないのですが、最高裁は昔から、こう定義しています。「いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること」と。これだけでは何のことかわかりませんが、要するに、曖昧に定義しておけば後々問題となったケースごとに柔軟に判断できるということでしょう。この判決が出されたのが昭和32年で、「チャタレイ夫人の恋人」という外国小説を翻訳した作家と、それを出版した会社がわいせつ物販売罪で起訴された事件です。この小説は、チャタレイさんという男性が戦争で怪我をして性的不能になり、妻であるチャタレイ夫人が屋敷の門番と肉体関係に至るという話で(もちろんそれだけではありませんが省略)、描写が具体的すぎてわいせつだとされました。それで当時は、一部を伏字にして出版されたそうです。最近になって完訳版(伏字がない)がちくま文庫から出ており、私も一つ、いたずらに性欲を興奮または刺激せしめてみようと思い、買って読んでみたのですが、「え、これで?」という程度の内容でした。たしかに生々しい描写はあるけど、生々しすぎて却って興奮しない。「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳者は罰金刑になったそうですが、それなら「愛の流刑地」の作者なんて死刑になるのではないか、と思うくらいでした。かように、わいせつ観念というのは時代と共に移ろうものなのでしょうか。現に、「チャタレイ夫人の恋人」は上記のとおり最近になって完訳版が出されていますが、関係者が処罰されたといった話は聞かない。「愛の流刑地」だって、堂々と日経新聞に連載されていたし、映画にもなった。この最高裁判決は、写真集の芸術性もあわせ検討して、この件に限っては許されるとしたはずで、これをもって性器の表現が解禁されたと考えるべきではないでしょう。私自身は、いかに芸術だと言われても男性の性器などみたいとも思わないし、アダルト雑誌の氾濫など、わいせつ規制は現在でも緩いくらいだと思うほうです。もっとも、表現の自由の慎重な保護という観点からすれば、わいせつ性を慎重に判断していこうという最高裁の立場は望ましいと思います。
2008/02/21
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