あひるの日記

あひるの日記

礼拝のメッセージ2004/8月分


ミカ書6:8  《主が求めておられること》
私たちは、誰しも「清く正しく生きたい」という思い(=良心)を心に持っている。
なぜなら、神様が良い行いをするように私たちを造られたから。

でも、本当に正しいことをしたくても出来ないという弱さを私たちは持っている。
神様は、この聖書の箇所で3つのことを私たちに求めておられる。
1、公義をおこなう。
公義⇒聖書に書かれていること。
私たちは、罪の縄目から解放されると自由になれる。
2、誠実を愛する。
誠実⇒神様を知ること。
神様を知ることに飢え渇きをもって求めれば、神様は語り続けて下さる。
私たちは愛されないと生きられない。
私たちの「愛されたい」という欲求を100%答えられるのは神様だけ。
3、へりくだって神様と共に歩む。
へりくだる⇒私たちの肉のプライドを捨てる。
神様の考えよりも私たちは自分の考えを優先させてしまうことが多い。
でも、神様は「何かしたい、私と共にいっしょにやろう。」と願っておられるのである。
私たち人間は大人になればなるほど、へりくだることが難しくなる。
神様とあなたとの間にある邪魔なものを捨てましょう。
人の目を恐れないで神様の言うことに従うとき、神様は道を開いて下さる。

8/8(日)のメッセージ
箴言18:21 《人生の時計と羅針盤(コンパス)》
私たちは、3年後、5年後、10年後どんな自分でいたいか?
今の現状に目が行き過ぎると、粗ばかりが目に入ってしまう。
神様は、私たち一人ひとりの良い点に目を留められ、良い方向に生きていくことを願っておられる。
 私たちの人生には、時間を教えてくれる 「時計」 とビジョン・使命・判断していく価値観・良心といった方向性を示す 「コンパス」 の2つが必要である。
 ここで、私たちはどんなコンパスをもっているか?が問題である。
 私たちは生まれながらにしてコンパスを持っているが、この世の考え・知恵・経験によってずれてしまっている。
 このずれを修正するポイントが 「御言葉に従って生きる」 ことである。
 私たちは御言葉を知っていても、どれだけ実践出来ているだろうか?
 御言葉に従って生きるときに、恐れや不安から解放され、御言葉に生きる喜びと平安、祝福が来る。
 神様は「どれだけ御言葉に従って生きているか?」を評価される。

8/15(日)のメッセージ
今回は、草加のS教会の礼拝に出席したんで、そのメッセージをUPしてみます。

私たちの心に刺さっている矢や存在している虫について
数年前、矢鴨がニュースで取り上げられた。
もし私たちの心にも自分ではどうすることも出来ない矢が刺さっていたら?
そのような、矢や棒のようなものをいくつか挙げてみたい。
1.おこりん棒
エペソ4:26~27では、怒りをそのままにしておいてはならないことを示している。
2.なまけん棒
ローマ12:11では、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えるように」と戒めの言葉が書かれている。
3.さみしん棒
大丈夫そうに見えても、心の中はそうではないときもある。
人はうわべを見るが、主は心を見ると第1サムエル6:7で、書かれている。

私たちは、上記のような棒を自分ではどうすることも出来ない。
でも、 キリストは私たちが罪から離れ、義のために生きるようにと、自ら十字架で私たちの罪を贖って下さった。(第1ペテロ2:24)
私たちは、キリストのうち傷のゆえに癒されたのである!

教会でも、時々ゴキブリが発生し、悲鳴が聞こえてくることがある。
私たちの心にもそのような虫がいたとしたら?
それは私たちの目には見ることが出来ないから、自分で駆除することは不可能で、イエス様の十字架によってしか処理が出来ないものである。
そのような虫として、泣き虫、いじけ虫、さばき虫、しらけ虫といったものがあると考えられる。
これらは 主に祈ったときに取り扱われ、心の傷は癒されていくのである。

8/22(日)のメッセージ
Mfont color=green>ローマ4:16~25  《信仰によって生きる》
キリストにあって新しい人生を生きることは、当たり前であるが、時として私たちは「信仰によって歩む」ことが困難に感じられることが難しく感じられることもある。
この聖書の箇所では、旧約聖書に登場する「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの生涯について触れている。
アブラハムも、私たちと同様、イエス様のように完璧ではない弱さを持った人間であるが、良くなっていくプロセスを持っているから、私たちが「信仰によって生きる」ことにおいてモデルとなっている。
アブラハムは、1国の王よりも財産を持つほど神様からの祝福を受けていたが、愛妻サラからその財産を受け継ぐべき子供が出来ないという問題を抱えており、アブラハムもサラも100歳近くの高齢となっており、出産は不可能に近かった。
しかし、アブラハムは望みえない状況の中で、信仰を働かせ、信仰によってこの問題を解決しようとし、サラの胎が死んだも同然の現実を見てもその信仰を弱らせることがなく、<b>「しかし私は神様を信じる」という選択をし続けた。
私たちには、神様による人生を選択する自由が与えられており、大切なのは選択する力なる「信仰」である。
信仰は使い続けることで、筋肉のように強くなっていくから、 訓練と積み重ね が大切である。
簡単に出来る領域から難しいと思われる領域に移るときに、神様は私たちの信仰をチャレンジし、負荷をかけられているのである。
そんなとき、つぶやくとしたら、信仰に立っていない証拠!
私たちはいろんな信仰を持つことが出来るが、神様はいずれそれをチェックされるときが来る。
一番良い信仰を持つことが出来るよう、私たちが神様に聞いていくことによって、神様は一番よい信仰が持てるよう私たちを訓練されるのである。

8/29(日)のメッセージ
《歩みの三拍子》 第2コリント4:16~5:10
私たちの歩みに必要な3つの条件とは
1. 信仰
信仰とは?⇒望んでいることでまだ目で見えない事柄を確信すること (ヘブル書11章より)
 誰でも信仰心は持っているが、何か問題が起こったとき、「何を信じるか?」が問題である。
私たちが体験することは、イエス様はすべて体験して下さった。
そして、イエス様は私たちの罪の身代わりとなって死んでくださっただけにとどまらず、死から復活された。
だから、 信仰の創始者であり完成者であるイエス様に目を向けていくべき である。
2. 聖霊
私たちは神様からもう一人の助け主として与えられた聖霊によって歩んでいくべきである。
だから、私たちはどうしたらいいか、聖霊様に聞きながら知恵や助けを求めながら進んでいけばいい。
3.
イエス様にあって私たちクリスチャンは死んだ者であるから、新しい生き方をしていくべきである。
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネ3:16)
イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも隣人を愛しなさいと聖書では言われている。
愛がなかったら無に等しい(第1コリント13:1~13)


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