さて、多くの人々の反対にもかかわらず、常和氏と高子さん、結婚してしまいます。
そして、常和氏が易者の言うことを聞かなかった結果、結婚 1
年後には長男一郎君が生まれましたが、息子を抱いた常和氏、易者に言われたことを思い出しました。
この子が、数十万人に一人の天才で、私と高子の仲を引き裂くのか。
今なら非常識極まりないのですが、当時は煙草をくわえたまま子供を抱くことにそれほど違和感がありませんでした。
常和氏、くわえ煙草で息子の顔を見つめていて、タバコの火で息子の鼻を焦がしてしまったのです。
当然一郎君は大泣きしましたが、それ以上に貴尚さんが怒り狂いました。
それでも、余り悪いと思っていなかったところが、常和氏の異常なところだったのです。
更に 1
年後、常和氏は、大阪本社から名古屋の映像制作会社に出向となり、最初は一家 3
人で赴任したのですが、妻の高子さん、二番目の子供を妊娠したらつわりがひどく、今で言ううつ病となって、何とまだ2歳にも満たなかった幼児の一郎君を虐待するようになったのです。
一郎君、変わった面でも天才で、生まれる時に鉗子分娩で引きずり出されたことや、名古屋に引っ越しした先の自由が丘団地の入り口に「熊の胆」の看板があったことをよく覚えていました。
そして、彼なりに虐待されていることは暗い記憶だという気持ちがあったのか、その時の映像は陰画となって記憶されていたのです。
長女の君子さんが生まれると、うつ病は更に悪化し、一郎君への虐待も激化していきました。
幸いと言うべきなのか、夫の常和氏が見ている前では息子を虐待しませんでしたから、常和さんは妻が息子を虐待している事実には気付きませんでしたが、彼自身感情の無い人間ではありましたが、うつ病で無表情になった妻を見ていると、仕事に身が入らなくなりました。
そして、常和氏から話を聞いて、娘の様子がおかしいことに気付いた貴尚氏、名古屋に駆け付けて娘と孫二人を大阪に連れ帰りました。
ですから、その後常和氏は名古屋に単身赴任となったのですが、その時に名古屋を襲った伊勢湾台風で、名古屋市内は広い地域で水没し、高台の自由が丘は無事でしたが、広い地域で2メートル近く浸水し、多くの犠牲者が出ました。
その時に大量の水死体を目撃したことから、常和氏に戦時中のただ一人だけ生き残った時の惨状がフラッシュバックし、しばらく落ち着いていたPTSDが再発、勤務態度が悪化したと同時に学歴詐称もばれて一流商社をくびになってしまいました。
ここで、娘婿を失業したままにしておくのは世間体が悪いと、義父貴尚氏は彼よりもむしろ孫たちのことを思って、救いの手を差し伸べたのですが、それが仇になります。
現役時代に伝手の有った鉄工所を買い取って、常和氏を社長に据えたのですが、常和氏、知識はありましたが経営には不向きで、彼が社長になるや、業績が急降下します。
そこで常和氏、義父の貴尚氏の印鑑を不正に使用して借金し、会社の負債をごまかす悪行を働いたのです。
つまり、易者が警告していた悪いことにも手を染め始めたのです。
それを知った貴尚氏は、弁護士の知人にアドバイスを求めましたが、常和氏を訴えて離縁するか、禁治産者にしろと言われました。
しかし貴尚氏、それをしたら孫の君子さんが結婚する時に差し障りがあると思い止まり、全ての借金を肩代わりしました。
ある面可哀想だったのは高子さんで、夫の学歴詐称も、不正行為も、全く知らされていなかったため、ばれた時には青天の霹靂だったのです。
しかし、この一連の事件で一番の被害者となったのは当時 2
~ 4
歳だった一郎君でした。
当然、彼には全く責任はありませんが、2歳でも状況は十分理解はしており、父も父だが、毎晩のように自分に殴る蹴るの虐待を繰り返す母はもっとひどいなと思っていました。
高子さん、正常な時は優しい母親で、むしろ君子さんよりも一郎君を大事にしていましたし、虐待した後も、必ず彼を抱きしめていたのです。
その時テレビで「ジキル博士とハイド氏」の外国映画が放送されたことがあり、一郎君、母の高子さんに、「この人なに。」と聞いたのです。
2歳児でそんな質問をすることも驚きですが、高子さん、息子に「二重人格みたいなもので、一人の人間の中に天使と悪魔が住んでいるようなものなのよ。」と説明したのです。
一郎君、確かに何十万人に一人の天才児で、言葉を話せなくとも人の会話はほぼ全て理解し、母の説明も理解したので、虐待する母親も「ジキル博士とハイド氏」のようなものだと考えることができました。
娘と孫たちを心配して名古屋から連れ帰った貴尚氏でしたが、この行為も仇になります。
高子さん、大阪の実家に戻った後、母鶴子さんの目の前で、一郎君を高い石垣の上にあった縁側から突き落としたのです。
鶴子さんは、美女で勉学も炊事裁縫も天才、その上音感もモーツアルト並みで、一度聞いた曲は、習ったことも無かったのに、夫が借金のかたにもらってきたオルガンでそのまま再現することもできました。
そして、運動神経も抜群でしたから、娘が孫を突き落としそうだと察して駆け寄って手を伸ばしましたがわずかに届かず、一郎君は落下して 4
メートル下にあった大きな岩に頭をぶつけました。
普通の 2 歳児だったならそれほど詳細な理解力も記憶もないはずなのですが、一郎君、この時のことを複数の視点から見たように詳細に記憶していました。
母高子さんが、何と笑いながら自分を突き飛ばしたこと、自分は後ろ向きに飛んで行き、祖母の鶴子さんが必死に手を差し伸べたが届かず縁側から落下し、大きな岩に、後頭部から激突したこと…。
興味深いのがその後で、一郎君、自分の頭がぐしゃっと砕けたことを実感した次の瞬間、青い光の満ちた空間に居たのです。
何だかわからないし、誰も居ないけど、不思議に快適なところだなと感じていると、 焦ったような声が聞こえました。
「お前はどこから来たのだ。」
2歳児には流石にその質問に言葉では答えられませんでしたが、頭の中で母に突き落とされた映像を再現すると、その声の主はその映像を見て理解することができたようでした。
「そうか、そんな事情だったのか。」
一郎君、頭の中で、ここはどこで、あなたは誰ですかと考えると、これも相手に伝わりました。
「ここは、人間が中間世と呼んでいる空間だ。転生する直前の空間というわけで、いわゆる三途の川を渡った先で、次の転生先に異動する前に魂が待機する空間なのだ。だから、お前のように体を持っていることはあり得ない。その上不思議なことに、お前には死んだ記録がない。ここに来るまでの関門を全てすっ飛ばして中間世に突然出現した状態だ。こんなことはいまだかつてなかった。それから、私だが、魂の転生を看視する存在だ。古代シュメールでは、私のことをイギギと呼んでいたが、それが一番短くて呼びやすいから、イギギと言う名であることにしておこう。」
僕は、帰れるのでしょうか。
そう考えると、イギギさまは答えました。
「転生直前の中間世まで来て現世に帰すのは異例中の異例だが、そもそも死んだ記録のない人間が、死んだと思われる時の姿のままここにいることが最大の問題なのだ。つまり、そのまま転生させると、死んでいない人間が生まれ変わることになってしまうから、帰ってもらわないとこちらも困るわけだ。」
なるほどと思いつつ、どうやら帰してもらえそうだなと少し安心した一郎君でしたが、自分の頭が砕けた状態で帰されても帰った途端に死ぬだけです。
そして、恐らくは正常なプロセスを経てここに舞い戻ってくることになるわけですが、それではつまらないと心配になりました。
「ああ、それは心配せずともよい。もう 9
割がた修復されたし、逆に全く無傷で帰すのもおかしいので、まだ後頭部に切り傷がある今の状態で帰ってもらおう。」
確かに、青い光の空間の作用なのか、砕けたはずの頭がほぼ修復されているようでした。
そうして、現世に戻ってきた一郎君でしたが、その時まだ高子さんはへらへら笑いながらも大変なことをしたとも半ば気付いているのか半分泣いていました。
鶴子さんと彼女の悲鳴で駆け付けた休みで自宅に居た夫の貴尚さんが崖の下に駆け付けると、一郎君は大きな石の上で泣いていました。
縁側を見上げた二人は、この高さから石の上に落下したのだから、どう考えても生きているのは奇跡としか言いようがないことは理解しつつ、泣いていますから明らかに生きていますし、目立った傷もありませんでしたから、貴尚さんが一郎君を抱きかかえて病院に走りました。
医師の診断結果は、信じられないことに後頭部の切り傷だけだったのです。
しかし一郎君、中間世から戻ってくる途中、時間を超越した不思議な空間を通って、この星の過去から未来に渡る全ての記憶のようなものに触れ、自分の状態は、本来中間世で魂だけの状態になって転生するところを、肉体を持った頭が砕ける一瞬前まで時間を巻き戻して現世に帰してもらえたのだと理解できました。
そしてこの時、一郎君は何と自分の数々の前世の記憶にも触れました。
流石に2歳の時点では理解するには無理がありましたが、断片的な記憶は残っていましたから、小学生になった頃に、昔こんなことがあったんだなあと思い返して理解しました。
何と、一郎君の直近の前世は、戦死した母の婚約者だった京都帝国大学の学生だったのです。
母は、出征の前夜、彼とデートして映画を見ました。いわゆるテクノカラーの初期のものだったようで、赤い実をつけたリンゴが印象的でした。
その後、自宅まで送ってもらう途中の夜の公園で、高子さんは彼にこう頼みました。
「私の子供を、あなたと同じ大学に入学させて頂戴。」
お相手は、「できればそうしよう。」と言葉を濁しました。
そこまで思い出した時、
おお、それはいいなと思った一郎君、京都大学を目指すことにしました。
一郎君、高校3年生の12月に願書をもらいに初めて京都大学を訪れ、1月に、受験の申請のために高校から書類を預かって再度京都大学を訪れたのですが、昔の建物がまだ残っていて、たまらなく懐かしい気分になりました。
当時は共通一次になる前年で、京都大学は、国立1期校で、受験は3月3~5日の3日間1発勝負の試験形式だったのです。
京都帝国大学と書かれた銅のプレートがついた理学部の古い校舎の入り口を見上げて、思い出しました。
そう、昔ここに通って勉強していたのだ。だから、必ず合格して帰って来るぞ。
実態は、前夜眠れなかったり、得意の国語の試験の回答欄をまちがえたらしく40点(200点満点で)のとんでもない点数だったりで、ギリギリセーフだったのですが、めでたく合格し、
姿を変えて母との約束を果たすことができました。
続く。
画像は京都は京都なのですが、昔でもなく今でもない十数年前で、へんてこりんな名前に変わる前の京都市美術館と平安神宮の大鳥居です。

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