ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

毎日のこと




 「夏みたい」
 君は窓の外に広がる空を見上げてつぶやいた。
 雲はまだ十分すぎるほど
 冬の装いなのに。
 雲の下の外気と風 そして空気の色が 
 夏のようだと
 君はつぶやいた。
 「ドライになっちゃったかも」
 君は近頃の恋を云う。
 でも、本当はドライなんかじゃない。
 「夏みたい」
 だと感じていられる君は
 まだ大丈夫。


日没の手前から降り出した、湿度を含んだ七月の雨は、
午後八時を回っても止みそうになかった。
アスファルトとタイヤの間であがる飛沫(しぶき)が、
過ぎ行く車のスピードを、
この部屋まで伝えてくる。

久々の休日を使って整理した所持品の多さに、
ヨーコは少しウンザリしていた。
毛布一枚すっぽり入りそうなゴミ袋が、
ざっと六個、眼の前に固まっている。

窓から入り込んでくる外気のせいで、
昼間の熱を奪われたフローリングの床に座り、
その不要物のかたまりを、
ただ眺めるだけ。
朝から続いた大掃除の軽い疲れに任せ、しばしの休憩。

それにしても、今回はまたかなり思いきった。
自分でも意外だ。
ホントにこんなに捨てていいのだろうか…。

ヨーコは、頭を被っていた赤いインド綿のバンダナを乱暴に外し、
考えあぐねた。
ここにきて、ようやっと捨てる踏ん切りがついたのは事実だ。
冬物のセーター類は毎年のこととして。
この十数年手放さずにきた山ほどの手紙、
今の仕事のきっかけとなったアーティストの切りぬきやグッズ、
そして幸か不幸か勤めることなく別れを告げた企業の膨大な資料。

大切に保管され、
いつでも取り出せるよう傍におかれてきた、
形のない思い出の断片たち。
それらは同時に、これまでのヨーコ自身の軌跡でもあった。

しかし、今の彼女を伝えはしない。
ある一時(いっとき)までの、過去のヨーコを体言するだけ。
一見、楽しく自由で、華やかに彩られていたように見える思い出。

確かにそうだったかもしれない。
けれどその存在は、今を過去に縛りつけ、
ヨーコが二十数年生きて手にしている今の自由を、
奪うものでしかない。
そのことに気づいたのだ。
だから、整理することができて、スッキリとはしているのだけれど。

こんなにあっさりと捨てられるこの心境が、
実は不安定さの裏返しなのではないかと、胸をかすめた。
三年間一緒にいた恋人と別れてちょうど五週間。
生活のリズムが変わることはわかっていた。

昨夜(ゆうべ)の会話がよみがえる。
同僚とプロダクションの子と四人で囲んだスペイン風居酒屋の席。

「ヨーコさん別れたんですか?」

男女のことに関しては、ズバ抜けて勘のいいゆきちゃんが、
赤い顔をキラキラさせてヨーコの眼を覗き込んだ。
軽く切り返すタイミングを逸して、
ヨーコは一瞬とぼけた表情になる。
失敗したと気づいても、もう遅い。

「別れたって、大久保さんと?」

日本酒に移行したての林君が、驚いたように手酌の動きをとめた。
私よりも五つほど年の若い二人は、
うちの部署に出入しているプロダクションの中でも特に元気がいい。
まぁね、と同僚の佐々さんと眼を合わせて頷く。
彼は、煙草に火をつけながら。

「お前の場合わかり易すぎるからな」
と口元をゆがめ、眼を伏せた。

助けを求める相手を失ったヨーコは、
視線をゆっくり泳がせながら、
瓶の底に残っていたビールを静かに空けた。

ヨーコの恋人だった大久保と営業の佐々さんとは同期で、
その息の合った仕事ぶりは社外でも定評がある。
ディレクターと営業の関係が巧く働いている良い例だった。
二年ほど前に彼から紹介され、それから少しずつ、
佐々さんと二人でも会うようになっていった。
会社のこと、営業とディレクターとの関係、
プライベート、時には兄弟のことなど、
とにかく身の回りに転がっている全てのことが、
二人の話題になった。
互いに呑ん兵衛で、
食事もろくに摂らずにアルコールだけで朝まで何度も話をした。
いつだったかは、
他の客を巻き込んで風呂の入り方で云い合いになったこともある。
湯船に入るのが先か、躰を洗うのが先か。
ヨーコを含む湯船先行派が多数を占めたにも拘らず、
いやそれは違うと云い続け、物別れに終わった。
どっちだっていいだろうと云われてしまえばそこまでの、
他愛のないことでも、盛り上がった。

しかし、ナンでも話せる関係ではあったけれど、
「彼」の話だけはしたことがなかった。
それだけが、二人の間で暗黙の了解のようなものになっていた。
互いに知っている彼は、あくまで、
ヨーコと佐々さん各々の人格を前にしての彼であることを、
二人ともわかっていたから。
ただその一点のプライベートには、この一年、一度も触れてこなかった。
存在だけはいつも、そこにあったけれど。

それがひょんなことに、今初めて、彼の名前が二人の間に姿を現した。

「いつなんですか?」

ゆきちゃんは、酢の物に箸を移しながら続ける。
カルパッチョの代わりに注文されたタコのそれは、
無理な欧風盛付けをされていて、食べる気がしなかった。

「いつって…一ヵ月くらい、…そんなカンジだわ」

三杯目のビールを口にし、彼女の箸の動きを眺めながら答えた。

「そんな他人事のよーに。でもホント、わかり易過ぎますよ、ヨーコさん。もー、冷めるのが早いというかドライというか。うちの会社の子たちも気づいちゃってますよ」
「え、俺全然知らなかった」
「林君は鈍すぎ」

まるで学生かOLのように、愉しげなノリだ。
残りかけの魚介サラダを、取り皿を経由せずに、
ヨーコは大皿からダイレクトに口へと運ぶ。
ハッキリ云って、この話題はどうでもよかった。

むしろ、その年齢になってもまだ、
男女の関係をそんな風にしか扱えないような人たちに、
軽く触れては欲しくなかった。
なぜ別れたのかと訊かれて、一言で答えられるほど簡単じゃないし、
もしかしたら、別れるほどのことでもなかったかもしれない。
相手や自分をどう表現したところで、
どちらかが悪い印象になってしまう。
憶測による想像が、第三者の中で展開されてしまうのは本意ではないし、
彼にも申し訳ない。
そんなことを今さら考え直してみても仕方がない。
今云えることは、あの瞬間、二人には別れることしかできなかった。
ただそれだけ。

ヨーコは、彼を心から愛していた。
クライアントを驚かせたり、お客を喜ばせたりするように、
彼はヨーコとの関係をいつも遊び心いっぱいで演出してきた。
そんな仕事の延長とも思える彼の愛情表現を、愉しんでいた。
でも、それ以上にヨーコを惹きつけて止まなかったのは、
彼女の喜ぶ様を見て、また心から幸せそうに微笑む彼の姿だった。

手の込んだ仕掛けを、どんなに丹念に仕込んだとしても、
相手の満足した表情を見るまでは、
どんな人間も一抹の不安と焦燥とを抱える。
その緊張と自信の入り混じった表情が、
一瞬にして安堵を帯び、まるで子供のように嬉しそうな笑みにかわる。
同じ仕事をしているヨーコにとってそれは、
「自分もそんなふうに仕事をしたい」という羨望と同時に、
「同じ幸せをこの人にも感じさせてあげたい」との気持ちを、
かきたてるものだった。

もし、彼を愛していなければ、
たぶん、別れの後には、
友情のように穏やかでぬるい関係が用意されていただろう。
けれど、ヨーコがそうであったように、彼もまた彼女を本気で愛していた。
互いに想い合っていたからこそ、
その後に何気なく言葉を交わし、
何事もなかったかのように友人関係をスタートさせることはできなかった。
そんな割り切り方はできないのだ。

理由なんてどうでもいい。
ただ、その別れにひどく傷ついた。
それだけで十分。
本当にドライな人間ならば、
恋人という関係を解消しながらも、
同じ距離を保っていけるのかもしれない。
しかし、自分にそれは無理だと、ヨーコは思っていた。

けれど、それでもやっぱり自分はドライなんだろうか。
そう見えるのだろうか。
ゆきちゃんの屈託の無い表情をちらりと見る。
でもすぐに、視線をテーブルへと落としてしまった。

「ゆきちゃんそれは違うよ」

佐々さんが煙草を揉み消しながら、煙にちょっと眉をひそめた。

「本当にドライな奴ってのはさ、それなりに巧くやってけるもんなんだよ。…それなりの生き方しかできないけどね。自分に正直に生きてると、なんて云うのかな、何事もなく巧くやり過ごすのって、案外、難しいことなんじゃないのかな」

ほんの少し、
静かで柔らかい空気がその場を包んだ。
ヨーコの中で、わだかまりが消え、
そして自信が湧き上ってくるような暖かい流れを感じた。

たぶんこれでいいのだ。

ヨーコは、
膝に手をついて立ち上がりながら、部屋を見回した。
かけていた音楽がSAKURAの「君のために」に変わる。
後片付けが済んだら、夕食でも買いにいこう。
その頃には雨も上がっているだろうから。



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