無気力****症候群

ナイフ

もちろん実名ではない。いつからか、呼ばれるようになったあだ名だ。
理由を聞くと、「いつもギラギラと尖っているから」
といわれた。しかしギラギラと尖っているものならば
他にだってあるだろう。例えば、フォークとか。それでも、周りの人間は
私のことを「ナイフ」と呼ぶ。本名は知っているはずなのに。

そのなまえは、私にとって段々と心地よい響きになった
私にお似合いな気がしてたまらなかったのだ

私はいつも、自分の手首を切るためのメスを持ち歩く。駅にある
東急ハンズで購入した使い捨てのメスだ。これが以外にきれるものだから
私はお守りのようにメスを鞄の一番底に隠して、常に身につけるようになった
鞄の中は、不健康な世界。発作を抑えるための薬と、イライラを和らげてくれる気がする、煙草と、やすっぽいオレンジ色のターボライター
財布に、暇を潰すための、頭がおかしくなりそうな、心理学の本、
それから、デジタルプレイヤー。中身のデータは、私の友達だと
呼べるだろう人が、編集してくれた、洋楽
こんなものを私は持って道を歩く、なんだか不健康。
鞄の底がこつんと何かにあたるたびに
メスも一緒にきぃんと言う気がした。

今日は家にひきこもっていた。一人暮らしの気楽な生活
誰も私に「ただいま」も「おかえり」もいわない
一人きりが確定した部屋。息遣いは私の耳には
すんなりと届いてうるさい。うるさいので息をとめてみたり
ゆっくりと深呼吸をしてみたりする。そうすると不思議と
気持ちが少しだけ落ち着くような気がした。
暗い部屋、カーテンを締め切って、すきまから漏れる
光が煩わしいと思った。一人で何かをするわけじゃない。ただなんとなく、
ぼんやりといろいろな事を考える。時々空想の世界に飛んで
私は、何でもできる自分を楽しむ。
ああ、もしも私が本当にナイフだったら
なんてそんなくだらない、笑い話を考える

私のことを一番最初にナイフ、と呼んだのは
同じ大学に通っていた、年下の彼氏だった。彼は、幼くて、
とっても意地っぱりで、独占欲が強かった。そしてとっても
優しくていい人だった。私の誕生日には、車で迎えにきて、
指輪と、香水を買ってくれた。彼は照れながら、女の子がほしがるものが
わからなくって…なんて言いながら、私の指に指輪をそっと
はめてくれた。その時の彼の、指の感触と表情は
今でも忘れる事はできない。まだ幼さがのこる、10代、
必死で考えてくれたんだろうなあと思うと、愛しいという気持ちに
似たものが湧き出て、私はゆっくりと彼の指を撫でて、
頬に軽いキスをした。
そんな彼は私の、自傷癖と煙草をひどく嫌がった
彼は優しすぎたのだろう。自らの身体を自傷する私への嫌悪を
率直に言葉にだして、とめた。私は彼のそんな素直なところが、
とても好きだったのだ。
別れたのは、なんとなく。好きだった。でも、突然私の中で
好きだという感情がよくわからなくなったし、私は一人になりたい、
もっともっと一人になりたいと思ってしまったのだ。彼は泣いて
別れるのは嫌だと、駄々をこねたが
私にはやり直す気は一切なかった。それを伝えると彼は泣きながら、
言葉を少しずつはきだしはじめた

「君はまるで、ナイフのようだ」
どういうこと？と私が尋ねると、彼はふうと息を吐いて、
目線をまっすぐ、厳しいぐらいに私を見つめて、
言葉を紡いだ

「君はいつも尖っている。君に触れるだけで血が出るくらい、
切れ味がいい、人の肉を刺すための、殺すためのナイフみたいだ。
いつだって人間を拒否して、生きている。必要ないからだ、
君は、人間と寄り添うのを嫌がる。抱きしめられるのを、触れられるのを、
避けるために、君はいつだって、憎しみを抱いている。
足が生えた、ナイフ。君はなんだって、そんな風に人に憎しみを抱くんだ？」

彼が一気に喋った時、私は怒りがゆっくりと湧いた。
ナイフ。ナイフ。人をさすための、肉をえぐり、血を流すための
殺傷能力抜群のナイフ、だと彼は私のことをそう例えたのだ。
「憎しみを抱くんだ？」の問に、私は何も、答えれなかった。
憎しみを常に抱いているなんて、私自身、思ってもいなかったのだ
他人からみた私はそんなに、とんがってみえたのだろうか。
沈黙が続いたあとに、私は声を振り絞って「かえって」といった
「もう、会う事もない」というと、彼は立ち上がって
私の家から去っていった。
彼がさっていた､後に、私は引き出しの中からメスを取り出して
手首から肘にかけてゆっくりと、腕を切り刻んでいった

それ以来私はメスを持ち歩く。薬は勿論のこと。
今はコレがないと、気が狂って何かしてしまいそうになる。
常にイライラとしいて不安定。
ああ暴れたいなあ…でも暴れるのも面倒だ、と思うと、
ゴロゴロ転がって、1日を終らしてしまう
煙草を吸う本数は増えて、溜まった灰柄は灰皿から飛び出していた

最近、死にに、いこうとよく思う。思うだけで
実際やることは腕を切る、ことぐらいなのだが、
身体がまだ動くうちに死ににいくべきなのだろうと、私は思う。
ナイフ。
私の憎しみは、殺意は、私自身に向けられている
私は私が殺したくて仕方がないのだ
私は、私を殺したい。
私は、私の息の根を止めたい。
その殺意や憎悪が外に飛び出して、誰かに転化されてしまっているのでは
ないだろうか？と思った。
そうやって私はぐるぐると責任転嫁と自己嫌悪を繰り返す。
ああ、死にたいなあ、しにたいなあ、しにたいなあ、しにたいなあ…
一人きり、声にだして、言うと、誰もいないので
それで終わり。空しい。つまんない。

ナイフナイフ、ナイフ。人を殺すため、でもそのナイフは
人間の手がないと、何の意味もない金属の塊。自分の足がないナイフは
ただの役立たず。じゃあ、あたしは、どうなるのだろう？
足の生えた、ナイフ、考える力をもった、ナイフ
このナイフは誰を刺すためにあるのだろう？

そう思ったときに、ああ、そうか、
となんだかすべてがわかったような気がした
私は、いつもどうりに、引出しからメスを出して、
ギラギラ反射する銀色を目に、焼き付けた
私の目が、反射する。
メスをもって、耳朶の下からメスを刺す
いやな音。ぶちぶちと肉を刺す音。ああ私は幸福に酔いしれる。
ぶちぶちと肉を切る音と生暖かい血が流れる感触を
私は全身で味あう。こんな気持ちのいいことは
セックスなんかじゃ味わえない。私は思わず、ああ、と喘ぎ声に似た
声をもらした。痛みが私の手をさらに動かす、
首筋まで切り裂いて、私はばったりと床に倒れる。
流れる真っ赤な真っ赤な血は、赤い河になる。私は微笑を浮かべて、
目を閉じた。
はじめて、生まれてきてよかったとおもえる、瞬間で、
私はあまりの幸福感に涙を流した

ナイフは私を刺すためにあったのだろう
私自身がナイフだったと、言うのならば
私は私を、とっとと刺すべきだったのだとおもう
それは解放で、はじまりなんだろう
私はやっと、ナイフという無機物から
にんげんになれた気がした

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