★は語る。花月堂へようこそ!

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森ともののけ。 <20060408>


大学院時代の師匠が副理事を務めている 「社叢学会」 から、
今年度の学会報が届いた。
うちの師匠は、そもそも代表作が「祭りの現象学」という、
根っからのお祭り人間で、昨年の総会でも、
「愛・地球博」会場に伊勢や秩父のお祭りを連れて来たり、
お祭り広場の上空に、「天空鎮守の杜」を作ったりと、
還暦をとうに過ぎても、バリバリのやり手神主なのであった。

会報を読んで一番嬉しかったのは、なんといっても、
去年の総会でのオギュスタン・ベルク先生の基調講演が
ノーカット収録されていたことなのだが、
(ベルク先生は私の心の大師匠。懇親会でサイン貰っちゃった~♪)
もうひとつ、巻頭に収録されていた、米山俊直先生の、
「森ともののけ」という小論が、とてもタイムリーな感じで響いたのだ。
(米山先生は、先月物故なさったそうで、本当に、寂しい限りです…☆)

米山さんは、金枝篇からギリシャ神話、現代文化論などを自在に引きながら、
「森ともののけの親和性」や、「森のもののけと万物に宿る霊力の関係」
などについて、<モノ>・<マナ>・<マニトウ>、
また、<ケ>・<アニマ>・<気>といった、
世界の随所に見られる「生命」と「霊」のイメージについて、
博識に裏付けられているからこその、縦横無尽な論を展開されているのだが、
最後に、「森の神は国つ神、もののけはその零落した姿」と結論しておられる。

…ああ、やっぱり、そうだったんだ!
実は、猫♪さんと私とで事毎にやりとりするメールの中で、
「モノノケのイメージが、やりとりするうちに、次第に変化して来る」(大謎)
というような現象が、少なからず、起こる時があるのだ。

このところ、客観的にデータをとるには、あんまりにも突飛なことが多くて、
実際、師匠にはどう切り出したものかなぁ~、と少々悩んでもいたのだが、
…もしかして、この流れなら、なんとかなるかもしれないぞ(^^)。
本当は、伝統的な「憑依系シャーマン」の職能者の許に、
正式に弟子入りして調査をしてみたいところなのだが、
ひとまずは、このあたりの話から、相談してみることにしようかな~。
せっかく道東に居るのだから、アイヌの「トゥス」なんかも調べてみたいんだが…。

なんだかんだ言って、結局、「根っからのガクシャ」であることには、
変わりないんだよなぁ~、と、少々自分に呆れつつも、
段々、やりたいことがまた見えてきた気がする・今日この頃です。

それにしても、…ほんと、まだまだしっかり勉強せにゃ~!




ハレとケ

宮家 準 著 「宗教民俗学」(東京大学出版会 1989年刊)PP.291より

ごく一般の日本人の信仰では、人間は霊魂と肉体からなり、
霊魂が肉体の活力源とされている。
霊魂は「気」(キ・ケ)ともよばれている。
「気」は日常生活を続けていくうちに次第に衰弱していく。
この状態は「気」(霊魂)が枯れた状態ゆえ、ケガレとよばれる。
こうしたケガレ現象は、あたかも蓄電池の電気が次第になくなっていくように、
日常生活の自然の結果ともいえるものである。
しかしながら、女性の月経、出産、近親者の死など、
特に衰弱がはげしい特殊なケガレも認められる。
さてケガれた人は、仕事を休んで特定のところにこもって
神霊に接するなどして気を充満させ、
活力をとりもどすことが必要とされる。
その際、日々の世俗生活によってもたらされる一般的なケガレを
克服されるためになされるのが、年中行事や祭り、
誕生・七五三・成年式・結婚・厄年・年祝い・葬儀などの人生儀礼である。
そしてこれらの儀礼がなされる時をハレの時、
世俗の日常生活の時をケの時とし、
人間生活をケとハレの織り成すリズムと捉える
試みがなされているのである。

この視点に立つと「ケ」の活力にもとづく世俗生活によって
「ケガレ」た状態になった人が、「ハレ」の際の儀礼によって、
ケ(霊魂)を充満させて再活性化するということになる。

(注1:文中改行は、ディスプレイの便宜上のための、引用者による変更。
原文では原則として改行なし)
(注2: 原著注による参考文献:桜井徳太郎「ハレとケとケガレの相関」
                『結集の原点―共同体の崩壊と再生』
弘文堂 1985年 参照。)



日本の民俗信仰というのは、人間(ヒト)の生活と、宇宙(カミ)の運行が、
ともに呼応しあい、関わりあいながら、自然な流れにそって、
ゆったりとめぐっていくという世界観を持っている。
これは特に日本に限った現象というわけでもなく、
仏教やヒンドゥー教、古いケルトの信仰などにも共通項が多い。
外なる大宇宙(マクロコスモス)と、内なる小宇宙(ミクロコスモス)とが、
相通じ共振するものであるという思想は、
「共感呪術」の例を出すまでもなく、原始宗教・民俗宗教などに共通する、
ある程度普遍的な世界観であるともいえよう。

日常的な「ケ」が枯れてきたときに、
一定の期間をおいて「充電」を行う「マツリ」のうち、
もっとも代表的でわかりやすいものに、
「お正月」や「節分」、「お盆」や「お彼岸」などがあげられる。
このうち、前者は「神社とカミ」に、後者は「寺とホトケ」に縁が深く、
扱う場所と人は分けてあるが、基本的な「儀礼」の構造は同じである。

 1)身の回りや家や儀礼の場を清掃し、調度を調える。【ミソギ】
 2)外なる聖地から、聖なる霊に来ていただき、
   共に遊んだり飲んだり食べたりする。【マツリ】/【トムラヒ】
   (専門用語では「饗宴」ともいう)
 3)お出ましいただいた霊には、もとの聖地へお還りいただき、
   活力を回復したヒトは、元のケ=日常生活に戻る。【ナオラヒ】

以上のような儀礼が、カミのマツリでは・神社と神棚を中心に、
ホトケのトムラヒでは・寺と仏壇を中心に執り行なわれる。

現在は私の家にも、実家である両親の家にも神棚も仏壇もないのだが、
関西の古い土地柄にある母の実家や、
(↑300年前に分家した記録のある・由緒正しい百姓の家柄)
東北の農家である夫の実家には、神棚と仏壇に、
それぞれ、しかるべき「霊」がオマツリしてある。

そもそも、日本の伝統にきちんと従っているなら、
神棚と仏壇をごっちゃにしてある家というのは、よほど存在しないはずである。
なぜなら、人間にもそれぞれ色々な役割があるのと同じように、
自然界や「霊界」の、神様や仏様にも、それぞれの役割分担がある、
と考えてきたのが、少なくとも日本においては、
「理(コトワリ)」に関する・伝統的な世界観であるからだ。

神には八百万、仏にも「曼荼羅」という、
多岐に渡るが整然と編み上げられた、「真理」がある。
そうした真理や神道を、真摯に・そして地道に研究する、
という作業をつづけてきたのが、聖職者…、
つまり日本では、僧であり修験者であり神職
(特に陰陽寮・神祇官などの専門機関)であるのだが、
「聖なるエネルギー」というのは、ある意味、
普通の日常生活にとっては、「強すぎるエネルギー」でもある。

「盆と正月が一緒に来た」という表現があるが、
毎日まいにちが盆と正月だったら、普通の人間生活はやっていられない。
そういう意味で、本職・フルタイムの聖職者というのは、
「出家」や「潔斎精進」というプロセスによって、
家族や友人など親しい人や自分が生まれた共同体などに、
不要な影響が及ぶことを避けるために、俗=ケの世界との縁を断ち切って、
研究や訓練に没頭する、というシステムになっている。

同時に、「神通力」や「奇跡」などに気をとられ、
我欲や執着にまみれた「破戒」へと道を踏み外すことをも、
先輩達の指導のもと、徹底的に戒められる生活をするわけだが…。


太平洋戦争に負けてからは、「封建的」な歴史と伝統とに
まるごと拒絶反応を起こす、という動きもあったのだが、
(それもすでに「過去の歴史の一ページ」になりつつはあるが…)
いずれにせよ、何百年、何千年というスケールで、
先人達が地道に積み上げてきたものには、
それなりの「意味」や「理由」というものがあるのである。

日常的にちゃんと「しつけ」られていれば、
おかしなカルトや新興宗教やなんかに、
簡単にひっかかることもないだろうになぁ…。
(おっと、これは余談)






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