トライアスロン事故史からみたルールの変遷
愛知県トライアスロン協会 竹内元一
私がトライアスロンに関わりを持つようになって、すでに18年ほど経ちますが、この間トライアスロンが物好きな人たちの体力への挑戦からオリンピックの正式競技となるまで、目まぐるしい発展・変貌を遂げました。その間に組織も現在の社団法人日本トライアスロン連合に統合整備され、ルール面でも大きな進歩発展がありました。この陰には過去に起きたいろいろな事故の歴史があります。しかし、事故というマイナスのイベントはとかく、真実を隠そうというバイアスがかかり、一般の耳に入ってくることが少なくなります。医療事故でも1件の死亡事故の陰には、30倍の死亡にいたらない事故があり、300倍のニアミスがあるといわれています(ハインリッヒの法則)。いったん事故が起きると、当事者・家族の不幸は言うまでもありませんが、その責任問題が発生し、大会の存続そのものも危うくなってきます。警察も大会の開催許可を出すのに一般交通に与える影響以外に大会中の事故の危険について大きな関心を寄せています。私は現在、技術とメディカル両委員会に関わりを持っていますが、毎回メディカル委員会でも重大事故については報告され、その原因と予防措置について討議されています。公正と安全のためにあるトライアスロンの競技規則が現在のものになった経緯には過去の事故の反省から創意改正された歴史があり、過去の事故の歴史をもう一度振り返ってみることは、今後のトライアスロンの発展のためにもかかせないことだと考えて、このテーマを取り上げた次第です。
まず、具体的な例をひとつあげるならば、第2回のハワイアイアンマンレースでジュリー・モス選手が這ってゴールをするシーンが全米に放映され、大勢の人に感動を与え、トライアスロンブームのきっかけとなりました。当時ランの移動方法として、走ること・歩くこと・這うことが認められていました。しかし、その後意識もうろう状態で這っているのは、重症の脱水症(熱中症)であり、現実に死亡例が出るようになったために、這うことはルール上禁止されました。それでは各パートごとにどのような事故が過去に起こり、そしてそれがどのようにルールを変えていったかをみてみましょう。
【スイム】
1.1983.7.27 第3回皆生トライアスロン大会 Tさん(59、外科医)溺れて意識不明の重体となり、1988.5.28意識が戻ることなく、心不全のため熊本地域医療センターで死去。氏は熊本CTCのメンバーでわが国のトライアスロンのパイオニアでした。
2.1986.7.20 第2回串本トライアスロン大会(スイム、2km) Iさん(59、京都)水泳1400m地点で溺れて意識不明となり、4日後に死亡。(TJ誌2(7),p70,1986)この大会は私も参加しており、流れもあり水温も低かった記憶がある。当時まだウェットスーツは普及していなかったし、この大会ではウェットスーツの着用は禁止であった。この後ウェットスーツの着用がローカルルールで義務づけられる大会が多くなった。この事故は遺族が主催者である町の責任を追及して提訴したが、地裁、高裁とも安全配慮義務違反はなかったとして請求は棄却された。(「トライアスロン競技中の突発的な心臓停止による死亡事故と、競技主催者の安全配慮義務、医師、看護婦の配置義務」日置雅春、臨床スポーツ医学;p1222-1224,1994)この事故の後、和歌山県ではトライアスロン大会は10年間開催されていない。
3.1987.7.12 第3回あらさとタフネスマントライアスロン大会(宮古島) Kさん(選手)、Fさん(救助船救助員)の2名が水死。台風接近で高波があり、波浪注意報発令中、湾内だからということで大会を挙行し、引き潮(大潮)で湾外に流され高波に飲まれる。救助にいった救助船も転覆した。(TJ誌3(10),p31-33,1987)この事故の後、大会主催者の気象状況に対する判断の重要性が言われるようになり、大会1時間前の実施検討委員会が義務付けられ、いくつかの大会でスイムを中止したり、短縮したり、コース変更したり、場合によっては大会そのものが中止されたりするようになりました。
4.1995.7.2 びわこミニトライアスロンin高島 Tさん(33、彦根)スタート後35分後うつぶせ状態で発見。即刻心肺蘇生を行うも救命できず、45分後死亡、診断書は急性心不全。(TJ誌11(15),p58-60)
5.1995.9.3 レイバーデイ・スプリント・トライアスロンin MCAS(山口県岩国市) 49才会社員、替え玉出場。スイムスタート5分後に海上で浮いているのを発見され、病院に運ばれたが心不全で死亡。(J.T.U.news No.7)
6.1999.5.9 (静岡県修善寺、CSC) 47才男性が水泳競技中に心筋梗塞でなくなる。(JTU Magazine No.14 p14)
7.1999.6.27 神奈川県選手権大会 55才男性、大会はその後の荒天もあり、途中で中止となる。(JTU Magazine No.14 p14)
8.2000.8.27 第11回トライアスロン・イン珠洲大会(Aタイプ) Kさん(47才女性、奈良)スイム競技終了間際に溺れ、迅速な救助の後、病院で治療を受けるが、意識が戻らないまま、11日後に死亡。(JTU Magazine No.21 p14)
9.2001.7.29 第16回長良川国際トライアスロン大会 Tさん(55才男性、大阪府堺市)ゴール前100m地点で急に泳ぎがおかしくなり、水没。近くでみていた高校生がすぐ助けあげたが、心肺停止状態であった。私も10分後には現場に到着し、心肺蘇生をしながら病院に運んだが、救命できず、約12時間後に死亡。水泳中の心臓発作と思われた。
10.2002.4.21第18回全日本トライアスロン宮古島大会 Yさん(41才男性、那覇市)スタート後50分頃、ゴール手前100m付近でコースをはずれ、一旦逆に泳いだあと、Uターンして泳ぎ始めた直後、動きが止まった。近くにいたダイバーらが引き上げたが心肺停止状態であり、心マッサージをしながら病院へ搬送したが、救命できなかった。翌日死因を調べるため司法解剖されたが、溺死であった。また同大会でMさん(71才男性、大阪府)もスタート後300m付近で円を描くように泳いでいたため、監視員が近づいたところ、動きが止まり引き上げたら心肺停止状態であった。病院へ搬送し、集中治療が行われたが意識不明の重体となった。この2ケースは溺れる前に方向感覚を失ったような異常な泳ぎがみられ、錐体内出血による急性平衡失調の関与が疑われた。
水泳中の事故は即重大事故につながりますが、原因を分類すると選手の泳力不足、主催者の気象判断の甘さ、突然の内因性疾患があります。内因性疾患については防ぐことは難しいですが、これも致命的なものでなければ、救護体制がしっかりしていれば助かる場合もあります。最初の泳力不足はウェットスーツの着用、監視体制の強化で防げると思います。主催者の気象判断の甘さや監視体制の不備が原因で重大事故につながった場合には主催者の管理責任が問われることになります。
【バイク】
大会中のバイク事故では死亡事故は起こっていないが、練習中の事故では死亡事故も起こっています。練習中の事故も含めて述べたいと思います。
1.1988.7.17 アイアンマン・ジャパン・インびわ湖 30才、男性、在米日本人。レース中に転倒し、右上腹部を強打。下大静脈損傷を伴う重症肝破裂で翌日ショック状態となり、緊急開腹、肝右葉切除により救命できたが、2ヶ月半の入院治療を要した。(「肝後面下大静脈損傷を伴う重症肝破裂の1治験例」奥村 悟ほか、日消外会誌22(11):2720-2723,1989)
2.1994.7.17 野尻湖カップトライアスロンジャパンオープン 替え玉出場の外人選手がバイクで転倒、脊髄損傷のため下半身麻痺となる。(資料不明)
3.1999.8.22. レイク・ハマナ・トライアスロン大会(静岡県選手権) バイク同士の正面衝突事故が起こり、双方が重症を負った。センターラインオーバーが原因と思われた。一方の選手に重い後遺症が残り、同じクラブ員同士であったが、補償問題で係争中。
この他、レース中の転倒による擦過傷は日常茶飯事で、大骨折も枚挙にいとまがありません。1987年にスコットバーが出始め、練習中の重大事故が相次ぎました。
4.1987.8.13 北海道 Tさん、青年医師。練習中トラックに追突され、腰椎骨折のため下半身麻痺となる。その後復活をかけた懸命なリハビリも叶わず、2年後に血行障害のため右下肢切断、車椅子の生活となり、さらに2年後自ら命を絶ちました。Tさんについての紹介記事はTJ誌 2(5):50-51,1986 にあります。
5.1988.7.8 千葉県 Nさん。無灯火、ノーヘルで頭蓋骨骨折で即死。(TJ誌 4(13):38-39,1988)
6.1988.9.3 千葉県 Oさん(47才)。頭蓋骨骨折で即死。(TJ誌 4(12):27,1988)
7.1989.8.13 千葉県 山本光宏選手。頚椎骨折の重傷、その後懸命のリハビリを続け、競技者として復活。
8.1993.6.27 静岡県 Sさん。クラブ練習会で駐車中のワゴン車にノーブレーキで追突、即死。(TJ誌 9(11):60-61,1993)
海外でもクリスチャン・ブストスやマーク・アレンといった有名選手までがバイクで交通事故により大怪我をしている。また2002.1.12オーストラリアの若手で今後の活躍が期待されていたルーク・ハロップ選手(24才)が早朝練習中に無謀運転の車に跳ねられて亡くなるという痛ましい事故の報告がありました。交通規制のかけられた大会中でさえ危ないのに、交通規制のされていない公道でエアロポジションで乗ることはまさしく自殺行為であるという認識を持った方がよいと思います。大会中だけでなく、大会前にもヘルメットをかぶらずに乗っている選手が失格の対象となるというルールは厳しいようですが、選手自身の安全と大会の存続のためには当然のルールであろうと思います。
【ラン】
ランに入って起こる事故で最も重大なものは、脱水症あるいは熱中症とそれに続いて起こる多臓器不全です。過去に3件の死亡事故が報告されています。
1.1988.8.21 第3回酒田トライアスロンおしんレース全国大会 地元の選手がゴール直前に脱水症で倒れ、心不全で死亡。(TJ誌 4(12):31,1988)(TJ誌 4(13):75,1988)
2.同じ年、やはり東北の方のレースでもう1件の死亡事故が報告されているはずですが、資料不明。
3.1995.8.6 ジャパン・トライアスロン・エキデンin新旭 Hさん(吹田市、35才)。ラン9km地点で倒れ、10分後に救急車が到着、心肺蘇生を行いながら病院へ搬送するも、約1時間後に死亡を確認。死亡診断書には「不整脈による急性心不全」と記された。(TJ誌 11(15):58-60,1995)
4.2002.7.7 富山新港・海王丸トライアスロン2002大会 Nさん(67才男性、富山県)ランゴール手前30mでよろめいて、倒れる。直ちに本部にいた医療チームがかけつけ、心マッサージを行い、新湊市民病院へ搬送するが、蘇生せず。「急性心不全」による病死と診断される。気温30℃、湿度は高かった。家族の話や本人が周囲に語っていた内容では、心臓病の持病があり、春先から通院していたという。(実行委員長高安氏の報告書より)
鬼束らは長良川大会の経験から熱射病(熱中症)に対する対策を重視している。(「トライアスロン競技における熱射病の血液生化学的検討」鬼束惇義ほか、日救急医誌 3(5):342,1992)(「トライアスロン競技における熱射病4例の検討」荒川博徳ほか、日救急医誌 2(5):840,1991)(「トライアスロン大会の医事運営-7回にわたる長良川国際大会における経験を中心として」渡辺郁雄ほか、岐阜県医師会医学雑誌 7(1):408,1994)
勝村先生はレースの総距離が短いほど全障害の中で外傷の占める割合が多くなり、総距離が長くなるほど脱水症の割合が増加すると述べている。(「トライアスロンにおける障害と救護体制」勝村俊仁ほか、日救急医誌 2(5):840,1991)
松原らは皆生大会で競技前後の心電図変化を調べて50才以上のトライアスリート20名中3名に異常心電図がみられたと述べている。(「トライアスロン競技前後の心電図変化-50才以上の高齢トライアスリートについて-」松原康博ほか、臨床スポーツ医学 12(4):433-437,1995)
中野はまだトライアスロンでは報告がないが、横紋筋融解症の起こる可能性について警告している。(「トライアスロン競技を観て想う-急激な運動後に起こる横紋筋融解症」中野 徹、新医療 13(8):19-20,1986)
私も1994年蒲郡オレンジトライアスロンで多数の脱水症を経験し、東三医学会で報告しました。(東三医学会誌 17,p6-9,1995)
ランにおける脱水症対策は選手への啓蒙が重要ですが、当日の気象状況に注意し、発生が予測されるような場合は医療テントの位置、十分な点滴の準備、また救急車の進入経路や病院への搬送経路などについて事前のシミュレーションが必要です。
まとめ
以上のように日本におけるトライアスロンの事故史を振り返ってみると、現在あるルールがなぜ出来たのか納得がいく部分が多々あるかと思います。エアロバーという新しい器材が開発されて、その使い方が慣れていない時に起こった悲しい事故を経て、その乗り方、形状についても細かいルールが決められていったわけです。現在のルールも決して完全ではないわけで、新たな器材の開発で新たな問題が起きることも十分考えられるわけです。そのときに、大事なのは安全への配慮であることで、最後はそこに戻って考えるという姿勢を持ち続けたいと思います。
論文要旨
トライアスロン事故史からみたルールの変遷
愛知県トライアスロン協会 竹内元一
日本におけるトライアスロンで過去に各パートごとにどのような事故があり、それがルールをどのように変えてきたかにスポットを当ててみた、いわゆる日本におけるトライアスロン事故史の集大成です。競技規則は公正と安全のためにあるわけですが、大会の存続のためにはまず安全の確保が最重要課題です。現在のルールは完全でも絶対のものでもないわけで、ルールを議論するときには最初に原点に戻って安全の確保のためにはということをいつも考える習慣が必要だと思いこのテーマを取り上げました。