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「脱成長」経済の典型コッツウォルズの豊かな田舎暮らし。「イギリスの秋」をアップして6回目。5回連載してきた記事はすべて「経済成長」は停滞したままのイギリスだけれどゆっくりした時間が流れる田舎の風景が現代に生きる人々の心豊かにしている。中世の面影をそのままにとどめて、現代に生きるコッツウォルズはその典型。コッツウォルズの最南端に位置していて、イギリスで最も古い家並みを残している村カッスル・クーム(Castle Combe)コッツウォルズではお馴染みの蜂蜜色した石の家が続く町並み。17世紀には羊毛の集散地として栄え、イギリスの羊毛産業を支配した時代もあったが、羊毛産業の衰退とともに、産業革命の「経済成長」から疎外され、中世のまま封印されて、時が止まってしまった村。往時の繁栄をそのままとどめて、ゆたりと静かに時間が流れている。ウイリアム・モリス(William Morris)(1834-1896)(ウィリアム・モリスの看板を掲げた民宿のようなレストラン。中に入れば、モリス風のインテリアになっているのだろうか?)ウイリアム・モリスの生きた19世紀後半は、世界の先陣をきって、産業革命が遂行され、その成果を享受していたイギリス。工場で大量生産された商品が溢れていた時代にウイリアム・モリスはモリス商会を設立して、中世の職人技を範とした織物を自らで制作しようとした。織物を昔の方法で染色し、手織りのできる職人に織らせようとした。キャベツとブドウのタペストリー1879年の夏、コッツウォルズのケルムスコット(モリスが住んだ村)の家でモリスが初めて制作したタペストリー。モリスのデザインした壁紙やプリント織物は「パターン・デザイニング」と呼ばれ、モダンデザインの父と呼ばれているという。彼のデザインのモチーフは、コッツウオルズの豊かな自然、美しい風景の中から生まれた。イチゴを啄ばむ小鳥(Strawberry Thief 1883年・Indigo-discharged and block-printed cotton)当時、イギリスのプリント織物は「安物」の大量生産とフランスの流行を模倣した「高級品」に二極分解していた。このような時代にモリスの中世の職人技を駆使した織物は時代錯誤と揶揄されていた。(現代ではウイリアムモリスのテキストタイルは、家具、壁紙、カーテンや絨毯などのデザインとして、現代の人々の人気を得ている)カッスル・クームの秋を彩っていたたわわに実る紅い実。来たるべき厳しい冬が急ぎやって来る前に秋色に光る実は小鳥さんたちのご馳走になっていることでしょう。その紅の鮮やかさ、葉っぱのグリーンの深さモリスのテキストタイル(textile)にそのままでもなりそうな秋の色チューリップとヤナギ(Indigo-discharge wood-block printed fabric)無駄のないとても洗練された線で描かれた都会的なデザイン。このようなデザインで布張りされた家具は素敵ですね。モリスはこのようにデザインを自ら生み出し、染めや織も自分で創り出した。モリスは資本主義、機械工業が生み出した大量生産、大量消費に「アーツ・アンド・クラフツ(芸術と手仕事・工芸)」の運動を通して異議を唱えた。更にモリスは産業革命が社会にもたらしている非人間的な現実にも激しく抗議して、当時勢いを増し始めていた社会主義運動に傾倒し、社会主義連盟に加入し活動した。このように芸術家であり社会主義思想家でもあるモリスの著作や活動は、日本にも大きな影響を与えている。芥川龍之介の東京帝国大学の卒業論文は「ウイリアムモリス研究」であったし、宮沢賢治が岩手国民高等学校で講義した「農民芸術概要綱要」はモリスの影響を強く受けている。又、自然が無作為に破壊されていくことに警鐘を鳴らし、その思想は、後にナショナルトラストの運動へと繋がっていった。コッツウォルズの鄙びた田舎とは全く異なる優雅で洗練された都会的な南コッツウォルズの街バース(Bath)(ローマ人が築いた浴場跡)バースは「温泉」の町その歴史はローマ帝国の支配下にあった2千年前にさかのぼる。ローマ人がこの地の「鉱泉」に目をつけ、温泉を開いたのが始まりである。「風呂」の語源・bathはこの町の名前に由来するという。18世紀になって、当時の貴族たちは、この地を一大社交場にした。イギリスの上流階級の人々が集う場所として、贅を尽くした建物が次々に建てられた。その往時そのままに、ロンドンに劣らぬ華麗な街並みが今もそのままにあるバースその歴史ある街角に集う人々奏でている調べは?街角の馬車も川に行き交うナローボートも今も変わらぬ景色エイヴォン川に架かる美しい橋橋の向こう広がる秋色の街並と丘その町の郊外に建つロイヤル・クレセント 三日月型の優雅な曲線を描く建物、王宮のような建築物。何とこれはテラスハウス様式の集合住宅だという。1767年~1774年にかけて建てられた住宅現在もこの建物には人が住み生活しているというから驚き。もちろん庶民には縁のない高級住宅ではあるが。一部ほホテルになっている。コッツウォルズの村々の家々も、都会的なバースの建造物も100年~200年の歳月を経てもなお人々がそこで生活している。現役の建造物として活躍している。(博物館ではない)このモノに対する態度考え方は日本人としては考えさせられる。現在、日本では、経済成長のためのインフレターゲット、2パーセントを掲げて夢よもう一度借金をどんどんして、国がグローバル経済の競争に勝つべき旗振りの先頭に立とうとしている。(経済成長しないと日本国の将来は絶望的とさえ言っている)大量消費をすることが経済成長であると消費をあおる社会が文化を壊し、人の心を荒廃させる。グローバル経済とは、その最たるもの。イギリスの田舎の豊かさは、経済の脱成長、脱グローバル化にある。そして、古いものを受け継ぎ、現代に再生させる技の巧みさモノそのものが「使い捨て」を目的に作られていない。そのようなモノだけが時空を超えて生き続けている。ヨーロッパは全体的に政治家は「経済成長」を目指しているが、市民たちはそれとは次元を異にしたところで文化を作り、低成長の社会でも、健全に心豊かに生きようとしているのではないだろうか。世界で最も早く資本主義経済に突入した欧州、その意味で来るべき社会はどうあるべきかのもっとも先頭を走っている。社会の底流では「経済成長」には幸せを感じない人々が着実に増え、着実に心豊かに生活を築こうとしているように見える。(イギリス寸描は今回で最終回)
2013.01.18
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コッツウォルズ(Cotswolds)地域は、ロンドンの西200キロメーターの所にある丘陵地帯。遥か向こうに点在する町や家、その周辺に広がる丘、晩秋の牧草地は冷たい風が吹き抜ける枯れ野。 コッツウォルズのコッツ(Cots)は羊小屋、ウォルズ(wolds)は丘を意味する。「羊が丘」というところか。14世紀から15世紀にかけて、羊毛産業の絶頂期を迎えたイギリス。コッツウォルズは世界最高級の羊毛生産地として繁栄し、その財で羊毛商人たちは豪華な家々を建てた。(ボートン・オン・ザ・ウォター、Bourton-on-the-water : 美しい小川と石橋。小川にはカモや白鳥が泳ぐ。橋を渡れば、ライムストーンの人家が立ち並ぶ。)コッツウォルズの風景の典型、ライムストーンの家並み蜂蜜色した壁の家々一(ボートン・オン・ザ・ウォターのライムストーンの家並み。200年の時空を超えて今もある)蜂蜜色の柔らかな黄と黄葉の黄が見事にハーモーニーして秋色のコッツウォルズ(ボートン・オン・ザ・ウォターのホテルの紅葉。あざやかなオレンジが鄙びた風景に色を添える)この地域は石灰岩の地層が横たわっており、少し掘り起こせば、ライムストーンが簡単に手に入る。この地方の家々の壁が蜂蜜色なのは、この石のせいである。(バイべリー:Bibury ライムストーンの鄙びた家並みと秋の庭。村全体が公園のよう。) 300年におよぶ長い時間を呼吸して、ライムストーンの壁は微妙な色あいに移ろって現代の田園風景にしっとりと溶け込んでいる。コッツウォルズ地方の中央に位置するバイベリー:画家でもあり、詩人でもあり、社会思想家でもあるウイリアム・モリスをして、「イングランドで最も美しい村」と言わしめたバイべリー。紅葉した蔦のからまるホテルのライムストーンの壁も秋色(バイベリーの墓地)繁栄したころの村の羊毛商人たちのお墓だろうか?300年余りの風雪に耐えて、苔むす墓石。静かな村のなかに黙して佇む墓群。私たちに時の重さを伝えている。あり余る富に任せて、当時としては豪華な家並みが村ごとに作られた。その往時の姿を今にとどめて、中世にタイムスプリットできる田園風景。コッツウォルズ地方の北端にあるストラットフォード・アポン・エイヴォンは(Stratford-upon-Avon)古くから農作物の集散地、職人も多く集まり町は活気に溢れ、ギルドを母体とする自治組織によって運営される、豊かで自由な雰囲気の街であった。 白壁と木組みの家並みが美しいストラットフォード・アポン・エイヴォンの街のストリートこの町は文豪シェークスピアが生まれ育った町でもある。 (シェークスピアの生家)シェークスピアは1564年4月(ガリレオを同年)にこの街に皮革製品を扱う職人・商人を父とする裕福な家に8人の兄弟の長男として生まれた。彼の幼い時、父親は町長にもなり、町一番の名士であったが、少年期には経済的に行き詰まり、没落した。(ストラットフォード・アポン・エイヴォンの街を走るバス。シェークスピアの像が描かれている) 豊かな富、自由な雰囲気や、美しい豊かな自然溢れる町と彼の生い立ちの紆余曲折が、後に不朽の名作を創造する源泉となった。時代や人種を超えて、今なお人々の心に鮮烈に生き続けているシェークスピアが創造した人物たち。シェークスピアの名前を知らない人でもハムレットやロミオやジュリェットやシャイロックなど、現代の多くの人が一度は耳にした人物たち。(シェークスピアの妻・アン・ハサウェイの家。彼は18歳のとき26歳のアン・ハサウェイと結婚。5か月後に長女誕生。20歳の時には双子が誕生。20歳でもう3児の父親。しかし、彼は人間について、さまざまな事を学んだトラットフォードをやがて一人で出てロンドンへ。)シェークスピアはルネッサンス期の人である。中世がキリスト教神学に支配され、神が世界の中心、すべてが神を頂点とする世界に組み込まれ、人々もキリスト教の倫理観に従属して生きていた。ルネッサンスはこの中世の神学から解き放たれ、ギリシャ・ローマの古典の大らかな人間性にあこがれ、人間を謳歌しようとする文芸・芸術の人間再生運動である。(シェークスピアの妻・アン・ハサウェイの家。立派な茅葺の家。夫シェークスピアは20歳から20数年間ロンドンで劇団作家として活動。ロンドンに出てから5年ほどで頭角を現し、それから20数年で30数編の戯曲を書いた。)シェークスピアが創作した劇中人物たちは、ギリシャ・ローマ時代に手本を求めながらもギリシャ劇を止揚して、人間の深い内面を暴き出して、それを生きた劇中人物として形象化した。それまでの演劇が言葉に縛られ教条的になっていた人物に生きたリアリティを与えて、劇中で躍動する人物をシェークスピアは創りだした。人間の価値観を認め、「自我」を発見した人物像、まさに、シェークピアは中世の人間像とは対極にある「近代」の人間像を形象化した。シェークスピア劇が、21世紀においても、さまざまな解釈で演じられているのは、このシェークスピアが創造した人物の革新性にある。シェークスピアの作品は汲めども尽きない近代の人間の本質をその深いところで形象化している。18世紀になると、イギリス産業革命を推進した羊毛産業は、綿織物やシルクにその座を奪われ、コッツウォルズは衰退した。産業革命の原動力となった石炭産地と工業地帯を結ぶ鉄道網から外れたコッツウォルズは、時代の波から取り残され、美しい自然と古い町並みがそのまま残された。シェークスピアの演劇にはイギリスガーデンを四季おりおりに彩るバラやハーブが劇中の小道具として巧みに配置されている。シェークスピアの植物にたいする深い造詣、これは、もちろん、この豊かで美しいコッツウォルズの自然の中で育まれたものである。そして、300年後の今なお、シェークスピアの生きた同じ自然がコッツウォルズの田園風景のなかに息づいているのを知るのである。
2012.12.20
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ウェッジウッド(Wedgwood)はジョサイア・ウェッジウッドによって1759年に設立された。200年余りの長きにわたり製造を続けて世に製品を出してきた世界においても最大級の陶磁器メーカーである。その陶磁器メーカーのビジターセンターと博物館にも秋 200年余りの製陶のサンプルや作品を保存し、2011 年には「英国ユネスコ世界の記憶遺産」に選定されている英国の製陶の歴史を見ることのできるミュジアム。1774年、創業者が製陶作品の型を保存するために作られたミュジアムは、2008年には、歴史的な作品の保存、展示と販売促進のビジターセンターを併設した総合的なミュジアムとして開館した。 (Josiah Wedgewood (1730-95) ウェッジウッド社の創業者。製陶業の家に生まれる。1754年からは、陶芸家トマス・ウィールドの工房で働き、その独創的な(セッキ)の技法を習得。59年に独立。65年には、王室の保護を受け、クリームウェアの改良に成功。「queensware」と呼ばれるセッキを創製。このクィーンズウェアの成功が更なる会社の発展へと繋がった。更に、産業革命による蒸気動力をいち早く採用したり、高温時計を発明するなど、製陶業の近代化の基礎を築いた)更に古代ローマ、ギリシャ陶器を模倣したバザルトウェア(basaltware)、カメオ細工(cameo)のような精セッキ・ジャスパーウェァ(jasperware)ジョサイアの開発したこれらの陶器は、それまでの陶器とは、質、量ともに一段と進化し、ほぼ現代の陶器と繋がっている。ジョサイアの追及した陶製技術の革新性は、産業革命期の技術革新と結びつき規模の大きな工場での生産へと発展。 カメオ・グラスとは、濃いコバルトブルーのガラスに乳白色のガラスを被せ、それを削って文様を浮き彫りにする技法。古代ローマ時代のガラス製品の装飾技法を模して陶器の製作技法のなかで実現しよとしたjasperware。ジョサイア・ウェッジウッドは、この技法の完成に膨大な時間と労力をかけている。そしてこのジャスパー製品はウェッジウッド社の最も代表的な製品となった。ウェッジウッドの「ポートランドの壺」(原作は古代ローマ皇帝の所有とされているカメオ細工のガラスの壺。最後の所有者が英国のポートランド公爵であったことによりこの名前がある。)ウェッジウッドの「ポートランドの壺」はジャスパー陶芸技法の最高峰。ジョサイア・ウェッジウッドの長きにわたる研究、試作の繰り返しによって完成したものである。この原作の壺は日本でいえば弥生文化期にエジプト・アレキサンドリアのガラス職人が作ったもの。ローマ皇帝が命じて作らせたものという。ジョサイアはこのガラスの壺を陶器で複製した。(この壺はウェッジウッド社の商標にもなっている。)当時、上流階級では、中国から輸入されていた白い磁器が大人気。高い需要があり、高価なものであった。ウェッジウッドはその中国の磁器に模した練り土を作るのに成功。「Kutani Crane」このような図柄は日本や中国の陶磁器の影響を受けている。ウェッジウッド社は1812年、独自のbone chinaを創り上げた。ボンチャイナは中国の薄く堅牢な白の磁器を模してウェッジウッドが独自に創り出したもの。このように近代陶芸史に大きな足跡を残してきたウェッジウッド社は、今、どのような姿になっているか。1986年には、クリスタルガラスメーカーのWaterford Glass Groupに合併され、2009年には経営破綻。同年、アメリカのKPS Capital Partnersに買収され、現在はこの投資会社が親会社となり経営再建している。厳しい経営の合理化で、1500部門の仕事はカットされ、英国の800人余りの労働者が首切られた。採算部門だけが残され、経営効率化、コストダウンのため、多くの仕事がアジア(インドネシア)へ移転した。投資会社KPS Capital Partersの経営方針のなかで展開されているビジターセンター&ミュージアムを覗いてみるとショールームデザイナーズブランドによるお皿デザイナー・Jasper Conranの白い磁器(Bone china)の皿 ビジターセンターの喫茶、ウェッジウッド社、オリジナルのティーカップと皿でのティータイムアウトレットもある。50パーセントから70パーセントも値引きする製品とは?(それほどの値引きする商品をつくっているとは)ノベルティもあるねぇ このレディーは€100もする。高いねぇいかにコストダウンしてモノを作るかが商品にも現れていて、人の心をつかむ器がないねぇ。。ジョサイア・ウェッジウッドが次々に世に出した革新的な陶器、その当時のこころはどこに?私は1300年余の歴史をもつ陶磁器産地に住んでいる。わが町にもこれとほぼ同じ「ビジターセンターや博物館」がある。その運営の仕方は全く同じといっていい。しかし、かって繁栄していた中小の陶磁器工場は、現在、はぼすべてが破綻している。なぜ、破綻したか?セト・ノベルティ(レースはすべて陶製)(マドモアゼル 1988 テーケー名古屋人形製陶株式会社)このような陶器の置物を輸出用につくり、円安時代には、輸出品として隆盛きわめ、この地域独自のものを創り出す職人を多数輩出した。現在は壊滅。)コスト効率や採算だけを重視した社会は大切なものを失くしている。字数オーバーのため、この続きは次回に。
2012.11.17
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ウエストンバート国立森林公園は(Westonbirt Arboretum)温帯気候の樹木園として世界最大級の森林公園の一つで3000種以上の木々や灌木が植えられている。 ヴィクトリア朝の最盛期、19世紀半ばに富裕な地主:ロバート・スティナー・ホルフォードにより創立され、1956年には森林委員会に引き継がれ現在に至っている。600エーカーの敷地に3000種1万8000本余りの樹木灌木が植えられている。そのうち何種類かは原産地では絶滅が危惧されている貴重な植物があるという。200年近い歳月をかけて、創り上げられてきた樹木園。その歳月の重さを感じる公園内の樹木たち。イロハモミジ燃える公園(モミジの葉っぱの図案がある標識。)その中の樹木の一つに、とりわけ秋にはひときわ美しい日本原産のカエデのコレクションがある。(Japanese Maple Oultivar Collection)日本のイロハモミジ燃える園内鮮やかな赤イギリスの秋は黄色や茶褐色の黄葉が多いなか、とりわけこの澄んだ赤は美しく魅力的。 日本のモミジの紅より更に深く更にあでやか。世界的にも紅葉で有名なこの樹木園。創設者親子の初めての植樹の時からそれを受け継いで現在に至るまでイギリスの気候に合わせた種の改良や質の向上を重ねるなど、長い年月をかけて、創り上げられてきた樹木の歴史があると言う。心のこもった手入れがなされた長い歳月があるからこそ異国のこの地でカエデはこんなにも見事に紅葉している。10月末日の園内はすでに落葉の季節赤と黄の織りなす大地このピンクの花は何かしら?このような枝ぶりで晩秋にピンクの花咲かせているのかと思いきや、よくよく見るとこれはマユミの実果実は4つに割れて、赤い種子をだしている。マユミ(檀)はニシキギの仲間の落葉小高木日本の雑木林や山地に普通に見かける。(私の散歩道にもあります)裸木になった雑木林に紅い実がブラブラぶら下がりとても目立つ。マユミの名は昔この木で弓を作ったことに由来する。この黄葉している樹木は?しなやかな枝、繊細な葉っぱ日本ならカツラの黄葉と言いたいところだが。。。さて、ウエストンバード森林公園のくろぐろとした森に冷気一層冷たく夜のとばり降りようとしている。冷たい暗い夕暮れ。200年近い歳月をこの地でいのち繋いできた樹木たち。その木々の姿のなかに自然を愛し、共生して生き続けようとするイギリス人の心意気がある。今年の日本の紅葉イギリスのこの森林公園と比べのは憚れるが、私の朝の散歩コースの一つに愛知森林公園がある。この公園にも植物園があり、尾張東部丘陵地帯に生えている樹木を観察できる森がある。(宅地開発で、今では身近に見られなくなっている木々)今、その森は秋たけなわ今年の紅葉は酷暑の夏、いつまでも続いた高温(10月初めまで30℃前後)10月末より、急激な低温、初冬となり、木々もその急激な変化に対応できないのか、同じ樹木でも個体差大きく、紅葉時期がまちまちで、一気に燃える華やかさがない。これは、モミジの紅葉。緑の葉あり、紅い葉あり、落葉した葉あり、手前のサクラの葉っぱは、すでに枯れて落下。朝もやの森林公園シイの大樹の向こうに色づき始めた木々例年なら、これからが紅葉の見ごろとなるのだが、冷たい木枯らしに見舞われること度々の樹木たち紅葉せぬまま散り急いでいる。朝陽に燃える銀杏。黄色の葉っぱは例年のごとく鮮やかなもの多いが、サクラなど黄色から赤へと変身していく葉っぱたちは、ほとんどが赤くなる前に枯れて赤茶けて落下している。最も日本の秋らしさの特徴である黄から赤へのグラデーションが今年はほぼない。燃える赤が少ない。(巨木モミジバフウの見事な紅葉)今年の日本は日本の秋が、ほぼないまま冬に突入しようとしている。樹木たちも面喰い大急ぎで冬支度に取り掛かっている。愛知森林公園全体の敷地面積468ha(4.6平方キロメートル)、1906年宮内省所管の御料地を買受け、砂礫土壌の荒廃した土地を森に造り上げてきた。その後、その一部を紆余曲折の歴史を重ねて、現在の森林公園となり、市民の憩う総合公園となった。イギリスのウエストンバード国立樹木園は世界中から観光客が訪れるが、我の散歩コースの森林公園は、人口に膾炙しておらず、比べるのもおこがましいが、都市化して、崩れ行く森の砦になっている点では似ているのでは。人間が愛情込めて手入れして守っている森であるという共通点がる。(森林公園の紅葉の写真は11月12日に撮影。By fujiko)
2012.11.08
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ポントカサルテ水道橋と運河(Pontcysysllte Aqueduct and Canal)(渓谷を一跨ぎ、ポントカサルテ水道橋を遠望)世界で最も早く産業革命期を迎え、近現代の資本主義経済の確立発展に先駆的役割を果たしたイギリス。このポントカサルテ水道橋と運河はそんなイギリスの産業革命期に建造された。全長307メートル、幅3.7メートル、深さ1.6メートル、高さ38メートルの巨大な橋、イングランドとウェールズにまたがる渓谷をひとまたぎで通行可能にした、運河である。この巨大な橋の上を水が通り、荷役船が通行したというから驚きである。橋を建造した技術の高さや資材などその膨大なこと。(手前の水が橋に通水されている水。眼下にディ川が流れる)人類がかって経験したことのない科学技術の革新と人間の万能感を謳歌する時代の到来を予感するに十分な建造物である。秋色のディ渓谷を眼下に見下ろし、遥か彼方の丘の町へとつながる水道橋。(水道橋からウェールズ側を見晴らす景色)このポントカサルテの水道橋と運河は1805年に完成され、イギリスでもっとも高く、最も長い水道橋である。イギリスには3500kmにも及ぶ内陸水路のネットワークがあり、産業革命時代には荷の主要な運搬手段であった。橋の上はこのような水路となっており、その側面に船引き道が張り出して設けられている。水道の脇には歩道があり、歩行者は船引き道の外側の端で欄干によって保護されている。(橋の運河をを航行するナロウボート)産業革命時代には、この水路をナロウボート(narrow boat)という荷役船が通行した。 狭い運河を航行するために幅が狭くひょろ長い型をしている船。しかも、無動力で、初期は人が先導する馬が船を曳いたという。先導したのは多くは子供であったという。(ナロウボート:イングランドとウェールズの狭い運河に合わせた、幅の狭い船。18世紀から20世紀に作られた荷役船は陸路交通の発達により1945年から65年ごろにほぼ途絶えた。現代のナロウボートは、伝統的なボートを基本としながらも住宅・レジャー用という現代人の目的に合わせて作られている。)カントリーサイドと古いもの大好きなイギリス人たち、スローライフのスタイルで生活することを願っている人にはにぴったり。現代の喧騒から離れてのんびりゆったりと旅する人たたちにお気に入りの道具として、ナローボートは再興された。時速6キロあまり、のんびりとゆっくりと景色を見ながら、小川をゆく人たち。自分で閘門を開閉して進むボート。現代のナローボートは、イギリスの産業革命時代の過酷な労働とは無縁の生活に潤いや楽しみを与えるものになって甦っている。(ナロウボートの船尾。舵は後部にある)この細長い船内には、日常生活をすることのできる、キッチン、風呂、トイレ、寝室などがあり、テレビをみたり、パソコンを使う設備まで整い、船上で生活しながら何日も運河めぐりの休暇を楽しむことが出来る。(ナロウボートのキッチン)このような旅の楽しみ方、暮らしぶりはいかにもイギリス。イギリスらしい。イギリスは世界で最も早く資本主義経済が成熟し、その矛盾や問題を最も早く経験し、現在に至っている国である。低成長の経済がもう何十年も続いている国である。でも、人々の暮らしはゆったりと心豊かと言えないだろうか。
2012.11.06
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イギリスの北西部の田舎地方の秋を堪能したMr.Danjoseからの写真だより。(チェスターの夕暮れ)1回目はワーズワースの詩やベアトリクス・ポターの小説に登場する湖水地方。嵐が荒れ狂う荒涼とした荒野、イングランド北部の丘を舞台に繰り広げられる、長編小説「嵐が丘」;この物語の人間の激しい情念の相克は、まさに「風雨荒れ狂う荒涼とした荒野」そのもの。その作者、エミリー・ブロンテのゆかりの地ハワース(Haworth)10月の終わりのハーワスはもうすでに冬の気配。寒々とした荒野に垂れこめる雲あの厳しい暗い冬の到来を予感させる空模様。 石畳の路地スレートの外壁外壁に立ち登るツタの葉っぱも色づいて路地にも枯葉舞う。ブロンデ姉妹が過ごした1840年代もこんな寂しいたたずまいの町ではなかったかと思わせる時間が止まったかのような町ハワースの路地ブロンテをしのぶ鄙びたミュージアムにも落葉して裸木の木々や黄葉した木々が寒々として。氷河時代の痕跡色濃く残り、渓谷沿いに無数の湖が点在する湖水地方(Lake District)の入り口ウインダミア(Windermere)嵐よぶ灰色の雲が垂れ込める空を映して、グレーの湖面。ウインダミア湖湖面の色と湖岸の紅葉の色のコントラストはまさに一幅の水彩画のよう。濃いグリーンの常緑樹がアクセントとなって静かな色のハーモニーを奏でている。日本の秋のあの目くるめく鮮やかな紅や黄の色の洪水とは異なるイングランドの秋の色ベアトリクス・ポターの愛した湖水地方ピーターラビットの活躍するこの森と丘と湖水ピーターラビットの家ベアトリクス・ポター(Beatrix Potter)はこの湖水地方に住み、育った。丘や森や湖水は彼女の友であり、その自然に深く抱かれて成長した。絵本「ピーターラビットのおはなし」のあのやわらかでやさしい絵はポターの幼い日々の生活そのもの。大人になって、この湖水地方の豊かな自然を保護するナショナルトラストの運動につながっていく。イギリスの田舎は、人の手が加えられて保護されている豊かさ美しさ。 晩秋のアジサイの花その枯れた色、ドライフラワーのよう。夏の涼しい地方のアジサイの花は冬でもこのようにしっかりと花をつけている。羊が群れる丘と石垣は、湖水地方の田舎の風景の定番。その垣根も秋の色。丘では羊さんたち丘一面に散らばって草を食んでいる。荒野の景観の一部となって、観光客の目を楽しませている車中から撮影したウインダミアの秋イングランドの秋には珍しい真っ赤な紅葉樹ススキの穂も揺れ灰白色の波。嵐よぶ雲も立ち込めて、10月末の湖水地方の秋。
2012.11.04
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You tubeより松田聖子の「ブルージュの鐘」をshare。早春のブルージュ(1)(2)(カテゴリ・ヨーロッパ寸描、8/23&9/10)をアップし終えて、松田聖子若かりし頃に「ブルージュの鐘」という歌を歌っている動画がありましたので、紹介します。動画の写真は夏のブルージュの写真です。早春のブルージュとは異なる明るいブルージュの街です。それに比べて、早春のブルージュはちょぴり憂いに満ちて幻想的、これまたいいですね。
2012.09.17
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愛の泉公園古都ブルージュの街の入り口にある可愛らしい牧歌的な公園・愛の泉公園と愛の池(minnewater) (この池の名前、Minnewaterは、Minneはオランダ語でloveを意味する。ここからthe lake of love、愛の泉という呼び名が生まれたのか?でも実際は、昔は波止場、その後は運河の水量調節湖。Minnewaterはcommon waterに翻訳できる Water van het gemeenに由来するという説もある。)早春の池は来るべき春の前のざわめきに満ちて芽吹きのときを待っている。名前まで「愛の池」というロマンティクなこの池はブルージュがヨーロッパの交易の中心として繁栄した時代には世界の貿易船が航行した波止場であった。そして、港としての役目が終ってからは、運河の水量を調整する貯水湖としての役割を担っている。写真左に見える建物はさる貴族の家である。まるでおとぎの国のお城のよう。しっとりと灰色にくすんだ早春の景色に溶け込んでいる。(池のほとりに立つ水門の家・運河の貯水量を調節するきわめて実利的な機能をもつ建物ながら、湖の景色にぴったりと溶け込む、重みのある建物。16世紀に建てられたもの。)そしてその池に遊ぶ白鳥ブルージュの街のシンボルでもある白鳥、この白鳥にまつわる伝説。15世紀、市民に圧倒的人気を得ていた君主ブルゴーニュ公爵家のマリーの死後、その夫、ハプスブルグ家のマクシミリアン皇帝(後に神聖ローマ帝国の皇帝)が後継者の座につきブルージュを支配した。その頃、交易の中心としていた繁栄を極めたブルージュを自分の支配下に置こうと神聖ローマ帝国に組み入れようとした。1488年、自治都市として市民の財力強大で、自由な雰囲気のブルージュの市民たちは、そのマクシミリアンの支配(自治権の制限と重税)に激しく抵抗し、マクシミリアンを幽閉し、その臣下である行政官ランシャルを死刑にした。その後、権力を回復したマクシミリアンはブルージュの市民に、その罪を永遠に忘れないように、臣下ピーター・ランシャルの家紋である白鳥を住民たちに永久に飼うように命じて、池や運河にたくさんの白鳥を放ったのである。ちなみに、臣下の名、Pietaer Lanchalsはlong neckを意味する。19世紀来、このような白鳥にまつわる伝説が流布したという。このお話はブルージュの栄枯盛衰の歴史を物語ると同時におとぎの国のような街並みの運河や湖に優雅に戯れる白鳥たちをいっそうロマンあふれるものにしている。(馬の水飲み場)さらにロマンティクに公園を馬車に乗って散策することもできる。静かな田園的な景色にゆったりと馬車が行く。オランダと同様にベルギーも自転車の国この公園にも自転車がこのようにあちこちに溢れています。中世の自立した女性の生活を垣間見るペギン会修道院中世ヨーロッパ、女性は従属的な生き方を強いられていて人生の選択肢は限られていた時代。ペギン会は、このような女性の自立を支援する修道院として生まれた。あくまで自身で生計を立て、自立的生活を営む女性たちの共同生活の場としての修道院。その生活様式を後世に伝えるものとして、フランドル地方にある13件の修道院が世界遺産になっている。その中のひとつブルージュのペギン会修道院どっしりとした煉瓦造りの入り口をくぐれば、赤い屋根の白壁の家が立ち並ぶ、黒々とした幹の大樹が天に競って聳え、水仙の花咲く早春の中庭は静謐な敬虔な空気流れる別世界。外の喧騒とは別世界の修道院中庭芽吹き始めた若草から長い厳しい冬に耐えて地中からすくっと立ち上がって、咲く黄色の水仙の花々が来るべき明るい春を告げている800年前、新しい生き方を求めて、敬虔な祈りと活動的な自立ある生活をして、日々過ごしていた女性たちも、この庭に長い厳しい冬のあと、この明るい水仙の花を見たか。それは、待ちわびた春の訪れ。当時、財を成した豊かな商人たちが建てた家。典型的なBrugeois archtecture様式。フランドルに特徴的な三角形の破風、急こう配の屋根など中世の面影そのままに残す煉瓦造り家々。修道院から一歩外に踏み出せば、ワッフルのお店ブルージュはワッフルでも有名。ブルージュワッフルとしてその名は世界に知られている。ブルージュワッフルの最もポピュラーな型。その上にのっかっている生クリームやイチゴ。素朴でシンプル。春を告げるクリスマスローズも咲いているね。北海から8マイルのところに位置するブルージュは海の幸も豊か。ムール貝のワイン蒸し。1200グラムとは大量なこと。郊外のバス停には数ヶ国語のこんな大きな看板が。日本語の看板もありました。「お越しいただき、誠にありがとうございます。ブルージュでまたお会いしましょう。」と文字が読めますね。いかにも観光の街らしい。古都、ブルージュの街路樹はまだ芽吹きの少し前、春の予感を孕んだ街路樹の枝々が3月の冷たい風にざわめいていました。その樹木の根元ではクロッカスが一斉に咲く早春のブルージュ。写真;Mr.Danjose 文;fujiko 早春のブルージュ(1)(2)で完。次回はブリュッセルをアップする予定です。
2012.09.10
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今に生きる中世の街ブルージュ(Brugge・ブルッヘ)はベルギーの古都、中世にはヨーロッパの一大貿易拠点として繁栄したが、その後、15世紀になると経済上の重要性をうしなっって衰退。ベルギーの作家ローデンバッハの「死の街ブルージュ」を新聞フィガロが連載したことで、急に脚光を浴びるようになった19世紀末。衰退の一途をたどり、廃墟に化していた400年余りの後、観光都市として復活した。早春の街・ブルージュは木々が芽吹く前の胎動をはらみながらもしっとりと落ち着いたくすんだ色でたたずんでいる。街に張り巡らされた運河、船での交易に便利な港町。北海に出る玄関口として、13世紀ヨーロッパをリードする金融・貿易の一大拠点となり、栄華を極めたブルージュ。その面影を今に残す運河やその街並み。石造りの古い橋が街のあちこちにあり、オレンジ色のとがった屋根、煉瓦造りの白い壁フランドル地方特有の家並みが続く運河沿い。鄙びた家並みを水面に映して優雅に白鳥が泳ぐ。まさにおとぎの国。日本で言えば関ヶ原の合戦の頃に建てられた家。400年余りの時空を超えて。今、ここにたたずむ古民家。運河の向こうに霞む鐘楼教会の権力がヨーロッパを席巻し、王がその権威のもと市民や農民を実質支配し強権を築いた中世の時代に交易により裕福になった市民たちが自らの力で建てた鐘楼 高さ80m、366段の螺旋階段をもつ巨大な塔47個の組鐘(カリヨン)は、15分おきに美しい音色で時を告げている。自分たちの街に自分たちの手で市民階級が時を刻む鐘楼を建てるなどということはこの時代にあっては稀有なこと。 (マルクト広場から見上げて撮影。余りの高さに、鐘楼の上部、下部と2場面にして撮影。下の写真がその下部。)街の中心に聳えるこの鐘楼こそブルージュ市民の自治の象徴。ブルージュが繁栄した理由のひとつは、時代によって君主は変えるが、どこにも所属せず自分たちの土地は自分たちで治める「自治権」を持っていた事。この自由な雰囲気が自由な貿易を認め金融・貿易都市としての繁栄をもたらした。その鐘楼の聳えるマルクト広場鐘楼の左には州庁舎や郵便局。その昔、裕福な市民たちが住み生活した家々、ブルージュで最も古いと言われている建築群がこの広場を囲んでいる。広場では高校生の一行が記念撮影していた。これらの建築物が、現在も現役として使われているというのがすごいところ。ブルージュの街全体が、「屋根のない美術館」と言われている所以である。ベルギー、フランス北部、オランダ南部のフランドル地方は、古くからアマ(亜麻)の産地で、アマから作られたリネンが特産物。リネンは人類最古の歴史をもつ繊維。ヨーロッパで長い歴史を紡いできた衣料。この織物の技術が、後に毛織物の技術につながり、市民社会の豊かな富の源泉になった。ブルージュのレースはこのような繊維の歴史の中で生まれた。ブルージュのレースは今も伝統工芸品となって、街のあちらこちらにレースの専門店がある。古いその家屋にはレース飾りの窓その昔、女たちが一心に糸と格闘し、繊細に紡いでいたであろうその女たちの根気のいる労働の息遣いが聞こえてきそうな街。ちょっと一休み街角のカフェ中世ヨーロッパの街のつくりそのままに街のあちらこちらにある広場市民が集まりおどったり、歌ったりおしゃべりしたり、集会を開いたり、人にやさしい街のつくりそのままに今も人々の暮らしに安らぎをあたえている空間。現代の喧騒や無機質な都市と無縁の静かな古都ブルージュまだ春浅き灰色にくすんだ早春のブルージュにはゆったりとした時が流れる。早春のヨーロッパ第5回目 写真:Mr.Danjose 文:fujiko 自由都市・ブルージュ ベルギーの古都ブルージュには、13世紀にはハンザ同盟の四大在外商館のひとつが置かれ、ヨーロッパを代表する貿易拠点として栄えた。その後、世界最初の両替所が作られ、世界の金融センターの役割も果たしていた。 15世紀になるとブルージュは王権による「自治権」の制限と重税による疲弊。運河が北海からの砂に埋まり、貿易拠点としての立地も失うなど、さらにはオランダ独立の原因となる八十年戦争の戦場になるなど、ブルージュは荒廃し、歴史の表舞台から消えていった。以後400年余り、フランドル地方は最も貧しい地域となって、人々から忘れられていた。 1892年、ベルギー生まれの詩人で作家・ローデンバッハが「死の街ブルージュ」という小説をフランスの新聞フィガロに発表した。この連載小説をきっかけにブルージュは観光都市として蘇り、世の注目を集め、現在に至っている。 「死の街ブルージュ」は窪田般彌訳で岩波文庫にあります。
2012.08.23
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「フランダースの犬」の舞台アントワープ(Antwerpen)アントワープはベルギーのフランダース地域・アントワープ州の州都でベルギー第2の都市。日本人にとって、馴染み深い、童話」「フランダースの犬」の舞台となった街でもある。アントワープ大聖堂(onze-Lieve-Vrouwekathedraal)(聖母大聖堂)街のランドーマークでもあるアントワープ聖母大聖堂10世紀に聖母に捧げられた礼拝堂の場所に1351年に建設が開始され、170年後の1521年に建築の第一段階が終了し、その後未完のまま現在に至っている。ゴシック様式の大聖堂である。大聖堂は7つの側廊と125の柱があるが、5つの塔のうち1塔だけが完成。その塔の高さは、123メートル。塔はあくまでも高く天に伸びる。低地地方・ネーデルランド最大級の聖堂である。大聖堂の内部は、バロック様式とネオクラッシク様式が絶妙に混在する。バロック絵画の巨匠、ルーベンスの4つの祭壇画がある。聖母マリアの被昇天(Assumption of the Virgin)大聖堂の主祭壇に飾られているマリア被昇天(1626)「フランダースの犬」のネロ少年がまだ見ぬ母の面影と重ね、見ることを願望した絵。(当時、観覧するのに銀貨が要り、貧しいネロにはかなわなかった)キリスト昇架(The Elevation of the Cross )画家になる夢もくだかれ、傷心のネロは厳しい吹雪の中、大聖堂へと向かう。そして、力尽き、雲間から射した一筋の月光に照らされた祭壇のルーベンスの絵画にうっとりと見とれながら、愛犬パトラッシュを固く抱きしめたまま、ともに息絶えた。この物語の最期の舞台はこのルーベンスの「キリスト降架」の前である。キリスト降架(Descent From the Cross)そのルーベンスは(Peter Paul Rubens)17世紀バロック期のベルギー・フランドルを代表する画家、バロック時代のヨーロッパを代表する画家である。ルネッサンス期の均整のとれた構図や理想化された人物表現とは一線をを画し、動きの多い劇的な構図、人物のの激しい身振り、華麗な色彩、女神像にみられる豊満な裸体表現などバロック絵画の特徴がこれらの祭壇画には十二分に発揮されている。「フランダースの犬」 (日本人の観光客のためにか、大聖堂を出るとこのような碑がある)日本ではとてもよく知られて、子供たちに愛されている「フランダースの犬」原作はイギリスの作家ウィーダが1872年に書いたもの。「フランダースの犬」はベルギーでも出版されたが、あまり有名ではない。司馬遼太郎は「街道をゆく」の「オランダ紀行」で、その不人気の理由を、オランダでは「19世紀末頃から年少者に自立をうながす気分が出てきた。『15にもなってただ打ちひしがれているとは何事か、なぜ雄々しく自分の人生を切り拓こうとしなかったのか』という批判がつよくなった。」と書いている。その大聖堂の向かいには、「ネロ」というベーカリーがある。そのお店では、少年ネロと愛犬パトラッシュを型どったチョコレートを売っている。お店「ネロ」 (これも日本人のためのお土産店なのかしら。それとも日本びいきのフランドル人の酔狂からか。)アントワープ市庁舎この市庁舎は「フランダースの犬」の中でネロ少年が最後の望みをかけた絵画コンクールの結果発表があった場所でもある。アントワープ大聖堂とすぐ目と鼻の先にあるアントワープ市庁舎1561年から64年かけて建立されたルネッサンス様式の市庁舎。その中心広場を取り巻く中世の同業者組合・ギルドハウスの建築群。その重厚な街並みが、当時の繁栄を今に伝えている。そして、その街並みは現代でもなお生活の場そのもの。博物館入りした街並みではない。(マルクト広場:中世のギルトハウスが並ぶ。1500年代、コスモポリタン的な商業都市として好況を呈したその歴史をそのままに残したマルクト広場) 護衛バイクかっこいいバイクに出くわしたと思ったら、何とその先にはマティルダ女王がおられた。気さくな雰囲気、市民に囲まれ談笑しておられるご様子。女王と市民の距離の近さが感じられほほえましい。アントワープ港ヨーロッパ第2位の規模を誇るアントワープ港、16世紀前半、ヨーロッパ各地からの交易の拠点として活況を呈した港。当時の繁栄の拠点であった。早春のアントワープ港はアントワープの街を遠景にして、早春の空を水面に映し、満々と水を湛えて静寂のなかにあった。アントウェルペンの表記について外国の地名や人名を日本語表記するとき、どうするかいつも迷うところであるが、今回は英語読みをカタカナ表記とした。近年、外国の地名、人名はその国の言葉の音で表すことが一般化しており(高校の地理の教科書など)アントワープはアントウエルペン(Antwerpen)と表記されることが多いが、私たちの年代の日本人はアントワープの英語読みに馴染みがあるので、それをここでは使用した。
2012.06.19
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デン・ハーグ(Den Haag)はアムステルダム、ロッテルダムに次ぐオランダの第3の都市であり、首都機能(政府、中央官庁、王室、国会など)のほとんどがこの都市にあり、政治の中心都市ある。更に、国連機関の国際司法裁判所や国際刑事裁判所などもあり、インターナショナルな都市でもある。時空を超えて今にある重厚な建物群ビネンホフ 政治の中枢機能が集中する。フフェイオファ池からのビネンホフを眺める。ビンホネ一帯は1230年、ホラント伯フロリス4世が狩猟の場とするために、フフェイオファの沼に沿って土地を購入し、住居を設けたのが始まりという。ビネンホフの建築群はこのように13世紀の初めから建設が始まり、連綿と受け継がれ、800年余り経た今もなお現役の国会議事堂や総理府、外務省など政府機関の建物として使われている。13世紀にその原型が作られた騎士の館(リッデルザール)は現在は国会議事堂、王の執務室になっている。ビネンホフの隣接地、写真では左端の白い建物はマウリッツハイス今回の旅のお目当てのひとつマウリッツハイス王立美術館である。マウリッツハイス美術館この建物ももともとはオランダ領ブラジル総督・ヨハン・マウリッツ候の邸宅であった。オランダの黄金期17世紀半ばに建てられたオランダ古典様式建築の代表作である。この美術館、規模はあまり大きくないが、17・18世紀のオランダ、ベルギーなどの巨匠たちの絵画の名品をを収蔵している。レンブラントの自画像が美術館の入り口の案内役。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」も入り口で出迎えています。この美術館は世界に30点しかないフェルメールの作品のうち3点を収蔵しており、世界中のフェルメールファンがたくさん遠くから訪れる。深いブルーのターバン、神秘的な眼差し、暗い背景から浮かび出るこの少女の表情は多くのフェルメールのファンを惹きつけてやまない。「真珠の耳飾りの少女」フェルメールの故郷を描いた「デルフトの眺望」この絵はフランスの作家プルーストの「失われた時を求めて」に重要なモチーフを与えた作品でもある。後世に残された作品が少ないフェルメールに比べ同時代のレンブラントの作品は500点余り残っているという。そのレンブラントの作品もこの美術館はもちろん収蔵いている。「自画像」と「ニコラス・テュルグ博士の解剖学講義」レンブラントを集団肖像画の画家としての名を確立したこの絵。解剖している現場をこのように絵に描くとは衝撃的。見ているひとりひとりの表情が生き生きしている。とても生々しい。これは1600年代の絵であるが、遅れること100年1774年(江戸時代)に、日本では、杉田玄白たちがオランダ語から翻訳した「解体新書」を完成させたのである。レンブラントのこの絵はオランダ医学と日本医学との関わりに思い及ばせる。とても興味深い。(鎖国で太平の世の眠りの中にあったニッポンと世界の海を股にかけて活躍したオランダ、その違い正に、今の日本にも通ずるものあるのでは。)デン・ハーグ市内の3月初めの公園ハーグの公園芽吹き前の公園、うごめいているいのち、萌黄色に煙っている木々。大地は若草に染まりその若緑のなかからクロッカスが一斉に花咲かせている。冷たい硬い大地突き破り春つげに来たよ、デン・ハーグの街に。。苔むす樹木古い街並みが大切に守られ現代と同居している街デン・ハーグ長い歴史とともに生きてきた公園の木々、幹にむす苔は木々も、古い建造物と同様に人々に大切に見守られ育てられてきた証だ。公園の樹木も街の人々とともに長い歴史を紡いできた。デン・ハーグの海岸・スヘフェニンゲン(Schveningen Beach)その名は日本語の「助平人間」と語呂が似通う面白い地名。夏には海水浴場で賑わう、リゾート地でもある。この地の名物料理ニシンを食べた。塩漬けにしたニシンを刺身のような切り身にしたものであった。ニシンを売るお店屋さん北海の海の幸が並んでいる店頭。お客さん、今、財布からお金だして、ニシンを買っているよ。昔は、きっとニシンの大魚で沸いた漁港だったのでしょうね。当地の人々はニシンは塩味で生で食べる。しかも、食べる人は顔を上げ、ニシンの尾っぽを持って、ぶら下げ、頭から飲み込むように食べるとのことです。それほどにニシンは新鮮で美味しいものだったのでしょうかねぇ。(お正月に昆布巻きに巻いたニシンしか食べたことのない富士子婆としては、ちょっと理解しがたい食べ方ですが)北海を望む海岸。昔は漁港として栄えた海岸。漁業が栄えたころの昔の漁船も鎮座して早春の北海は波静かであった。下のゴッホの絵のなかにある船上の海岸に置かれている漁船と同じもの。ゴッホの描いた漁船のこの絵は2002年にゴッホ美術館から盗まれ、現在も不明のまま。 「マウリッツハイス美術館展」日本で開催日本では、2012年は「フェルメール・イヤー」と言われています。すでに終った展覧会も含めて、フェルメールの作品が6点も日本にやって来るからです。30点のフェルメール作品の中の6点も日本に来ることになります。これから開催される「マウリッツハイス美術館展」は以下のようです。6月30日~9月17日:東京美術館9月29日~2013年1月6日:神戸市立博物館
2012.06.06
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アムステルダム(Amsterdam)は運河が街を縦横に走る。北のヴェネツィアと呼ばれているほどに運河が都市機能と深く結びついて発展してきた街・アムステルダム。河床の方が街路よりも高い運河は肌寒い3月の曇り空を映し出して鉛色の水満々。その両端の街路樹の木々はまだ早春のそれ。裸木の枝をざわめかしている。16世紀以降17世紀にかけてアムステルダムは海運貿易のヨーロッパの中心地として繁栄した。オランダが世界の海を闊歩し豪商たちが巨万の富を築いた時代17世紀。その時代の富裕なブルジョワたちの邸宅群が今もそのままの姿で並ぶ運河沿いの街並み。正面を飾る三角破風壁は17世紀前半のオランダの豪商たちが好んで取り入れた建築様式。その面影を今も残した美しい街並み。アムステル川とシンゲル運河の合流点に位置するムントタワー(ムントタワーのムント(munt)とは「貨幣、鋳造する」を意味する。1672年、フランスが侵略した際、この塔を貨幣鋳造所にしたことに由来する。)17世紀までアムステルダムはシンゲル運河沿いに城壁が築かれ、街を取り囲んでいたが、街の発展と共に城壁は取り壊され、この塔だけが残された。自転車、自転車、自転車あふれる街アムステルダム運河に架かる橋の上にも自転車街路樹の下にも自転車オランダは自転車が重要な交通手段の一つと言われる国。自転車専用レーンがほぼすべての幹線道路に設けられ、平坦地のオランダにはうってつけの交通手段・自転車。アムステルダムも道幅の狭い旧市街地ではトラムとともに重要な交通手段になっている。小回りできるし環境にもやさしいし便利な乗り物 しかし、至る所に駐輪されて「そこのけそこのけ自転車が通る」状態でわがもの顔の自転車歩行者にはかなり迷惑、危険な面もある。今回の旅のお目当ては美術館めぐり。アムステルダムではアムステルダム国立博物館とゴッホ美術館を訪ねました。あいにく雨が激しく降り始め、写真撮影が思うに任せぬ状態でしたので、30年前に訪れた時の国立博物館の写真を持ち出してみました。今は社会の中堅となり、社会の第一線で活躍している中高年の面々の幼い日の姿も写真のなかに鎮座して、懐かしい写真です。30年後の今も変わらぬままの姿の博物館。幼い日々の子供たちの姿が時間の流れの長さを感じさせてくれます。夏のアムステルダムの国立博物館。街路樹も濃い緑です。それに比べ早春の雨にけむる国立博物館は 震える裸木は寒々として重々しく沈んでいます。国立博物館内静かな落ち着いた雰囲気の館内で絵を鑑賞している人たち 17世紀はオランダが海上帝国を作り上げ世界の富がオランダに集中し繁栄した時代。新しく勃興してきた市民階級がその富を独占した。その豪商たちを描いたレンブラントの「織物商組合の幹部たち」レンブラントの描いた人物たちはそのオランダの黄金期の中心的な担い手たちである。レンブラント以前に描かれた軍隊や自警団の集団肖像画は不動な姿勢のもであった。レンブラントの肖像画はその従来の技法を打破し、躍動する人物を物語性を持って描いている。レンブラントのこの「夜警」はその代表作品でもある。画面の巨大さや光と影。大胆な動きなどダイナミックな流れとなって力強い。その革新性はまさに17世紀の富裕な商人たちの自由奔放さ、世界を闊歩する商人たちの強烈なエネルギーがレンブラントをしてこのような巨大な絵を描かせたのではないだろうか。「夜警」が完成されたのは、まさにオランダ黄金時代の絶頂期・1642年であった。レンブラントと同じオランダの17世紀を代表する画家フェルメールの活躍した17世紀後半はバブル景気に沸いた黄金期は去り、冬の時代へと下降していく時代であった。しかし、市民階級の台頭は社会のなかで確固たるものになり、ブルジョワジーが社会の全面で活躍する流れは加速する。フェルメール「牛乳を注ぐ女」がっしりとした腰働く女性のたくましい体、このような女性像が絵に描かれたのはこれまでなかったこと。静逸な空間にどっしりとしたたくましい女がもくもくと日常をこなしている。社会は確実に動いている。国立博物館と近接する国立ゴッホ美術館重厚な建物の国立博物館とは対照的にモダンな建物のゴッホ美術館。フィンセント・ファン・ゴッホの初期から晩年までの作品を一堂に集めてゴッホをとことん堪能できる。ゴッホ美術館は撮影禁止のため、美術館の写真は残念ながら撮影できませんでしたが、再び30年前の写真の登場。この美術館入り口のオブジェがいかにもゴッホ美術館らしく面白い。 (30年前の写真がこのように保存され今にあるとは素晴らしい。)3月初旬、アムステルダムを訪れた日は天候が悪く、時々激しく雨が降る小寒い日でした。アムステルダムの写真は寒い雨模様の冬空を映して暗く沈んでいましたが美術館での名画鑑賞はこころ弾む楽しいひと時でした。次回はハーグの街をアップします。(by Danjose)
2012.04.23
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昔のたたずまい今も残す村ザーンセスカンスアムステルダムから車で30分のところに、昔の面影そのままの農村風景が広がるザーンセスカンスといういう村がある。オランダといえば風車オランダは国土の3割は海面下にある低湿地の国。そんな低湿地の排水をするに必要であった水車、いまではその役割を終えてしまったが、オランダの絵のような田園風景にはめ込まれ昔ながらの農村のたたずまいを保ち、観光客の目を楽しませている。しかし、それは厳しい水との闘いの中で暮らしを築いてきたオランダの人々の心の証なのかもしれない。早春の川辺には枯れたアシの葉そよぎ、来るべき春の芽吹きの準備をしている。泥炭地に特有な植生・アシの繁茂は、人工的に洗練された田園風景のなかにあって何かしらほっとする空間。湿地のなかの暮らしの中で生まれた靴木靴オランダといえば風車&木靴観光客には馴染みのアイテム。低湿地の暮らしの中では木靴は水にぬれても、木が水分を吸い込んで膨張し足が冷えない。(木靴工房)革や布の靴が水を染み込ませしまうのに比べてとても重宝なものであった。長時間の農作業などにはなくてはならぬもの木靴。 日本には、その昔、稲藁から作った藁草履があった。私の子供のころは、親たちの作ったわら草履をまだ履いて遊んでいた。オランダの木靴を思うと何かしら日本の藁草履を連想する。今は使われていないもの、しかし観光用に今も生きている。それぞれのお国柄を色濃く表現しているもの。木靴と藁草履遠目には額縁の中の絵のように美しい村も村の中に入れば人々の暮らしがある。郵便ポストがあり、庭木を剪定するおじさんがおり、チーズ工場で一心不乱にお掃除しているおばあさんがいるチーズ工房酪農国でもあるオランダはチーズの年間生産量は約70万トンにもなり、そのうち50万トンは輸出しているという。美味しいそうなチーズが並ぶチーズ工房の棚そして、この村には何と今も1700年代の古い民家が暮らしのなかにある。1794年建てられたこの古民家の装飾は海上商業で富を築き繁栄した17世紀オランダを象徴している。1734年に建てられた古民家Anno 1734の銘が装飾されている オランダといえばチューリップでもDanjose夫妻が訪れた3月上旬はまだまだ寒くチューリップにはお目にかかれず。寒さに震えてクロッカスが春の訪れの近いことを告げていました。 Mr.&Mrs.Danjoseが2012年3/6~3/13にオランダ、ベルギー、フランスに遊びました。世界の美術館めぐりを趣味として、美術に高い見識のMr.Danjose、今回もその美術館をめぐりが目的の旅でした。まずは、早春のオランダの旅のたよりの写真をアップしました。オランダでは、古い田舎の300年も前の家々が今も保存され、そこで普通に日常生活を営んでいる人々がいる。日本ではとても考えられないことですね。先日アップした「美夜之窯」陶房は3月末日で閉鎖され、いずれ壊される運命ですが、この陶房の古民家もたぶん100年を超える立派なものです。しかしまもなく灰と化します。このようなことは日本の至るところに今進行しています。陶房の周りの自然とが一体となって消滅していくという現実があります。このような日本と古いものを継承して今も生き続けているオランダの違いはどこからくるのでしょうか。
2012.04.12
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