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今年の元日、大相撲解説者・出羽錦忠雄さんが、79歳で亡くなった。出羽錦さん(田子ノ浦親方)が現役の頃から好きな力士の一人だった。印象に残る一番は、あの大横綱・大鵬を決め出しで土俵下に投げる豪快な正攻法の相撲である。今の力士には見られない、毅然とした土俵作法は見事であった。土俵を離れてからの出羽錦さんは、巧みな話術と人間味のあふれる笑顔で、大相撲解説者として一世を風靡した。確かに他の相撲上がりの人たちとは一味も二味も違っていた。NHKの相撲実況アナウンサー・内藤勝人氏は「力士として25年、親方として25年、解説者として10年。人生の一から十まで、すべてを相撲から学んだ」と述べている。聞くところによると、晩年までユーモア精神があったという。昨年12月末、紀宮さまの婚約記者会見が行われることを知ると、出羽錦さんは、娘さんに「じゃぁ、うちへのあいさつは夕方ごろかぁ」と、とぼけてみせたという。実に巧まざるユーモアである。相撲解説のとき、即席の俳句や和歌を披露したのも懐かしい。彼は生粋の江戸っ子だったのか、日本舞踊の素養もあったと聞いている。妻、一男一女、孫八人に囲まれて、78年の人生を元日に終えた。出羽錦さんらしい日を選んだものだ。
2005年01月30日
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昭和60年(1985)といえば、もう20年も前のことである。当代團十郎が十二代目を襲名したころ、村上元三が、次のように書いている。『歌舞伎役者は、立役も女形も同様で、芸と共に舞台に出たときの花というものが欠けてはならない。これは何も大輪の菊のような、華やかさだけではなく、ひっそりと咲いて、舞台に美しい彩を添える花もある。 十一代市川團十郎は、まだ九代目市川高麗蔵だったころ、松竹から東宝劇団に参加したが、恵まれた舞台とは言えなかったった。長谷川伸先生の「瞼の母」で端敵(はがたき)の素盲(すめくら)の金五郎などを演じていたが、花どころではない、陽かげでしおれている草のようであった。それが松竹へ戻り、父の松本幸四郎のもとで、市川宗家の市川三升の養子になり、九代市川海老蔵をついで、次第に莟(つぼみ)がふくらみはじめた。終戦後、昭和21年に「助六」を演じたころから、花は見事に咲いてきた。いろんな舞台が数えられるが、文字通り花も実もある海老様時代が出現した。敗戦で打ちひしがれていた世の中で、ことに歌舞伎好きの人々にとって、明るい光がさした、と言っても大げさではなかった。 市川宗家の十八番狂言を次々に手がけ、古典歌舞伎はもちろん、世話物を演じても艶があった。ことに大仏次郎氏が海老蔵のために書いた「若き日の信長」はじめ一連の新作は、次代に受けつがれている。 口下手で癇癪持ちで、ちょっと曲ると手がつけられない、と楽屋うちでは腫れ物にさわるように扱われたという。しかし、実際は筋道を立てて話をすると、すぐにわかってくれた。 昭和37年に十一代團十郎を襲名、四月と五月の二ヶ月、歌舞伎座で行われた披露興行は、戦後はじめての華々しいイベントであった。これから役者として円熟の境に入る、というまだ五十六歳で、昭和四十年に世を去った。惜しいという言葉などでは言いつくせない、いくら惜しんでも足りぬ死であった。 実子の夏雄は、昭和二十八年に初舞台を踏み、五年後に新之助を襲名した。父の團十郎は新之助に芝居を教えるとき、じれったくなると叱るより先に手が飛んだ。しかし稽古を離れると、まことに子に甘い父であった。その実際をいくつか見て、ほほえましかった。 その父に死別したのは、新之助にとって大へんな打撃だったに違いないが、叔父の松本幸四郎(のちの白鸚)が健在だったし、尾上松緑が父代りになって、きびしく仕込んでくれた。うしろには、父團十郎も一座をしていた菊五郎劇団があり、勉強をする場がいつも与えられていた。ちょうど尾上菊之助(現菊五郎)、尾上辰之助とならんで三之助時代といわれ、舞台に花を咲かせた。まだ見かけだけの花だったが、ちょうどいい機会に三之助が人気を集めて、若いスターの乏しかった歌舞伎界に活気を与えた。その三之助時代、古典をやれば眼をおおいたくなる舞台を見せたり、台辞(せりふ)の切れが悪い、と劇評家に叩かれた。しかし三之助時代の花は、実を伴わない花ではなかった。父が気短かだったと言われたのに反して、新之助はおっとり型で、役について注意しても、こちらが忘れたころ反応が返ってくる、ということもあった。しかし、昭和四十四年に十代海老蔵を襲名するころから、本人の自覚が確かなものになり、いろんな役に挑んで新鮮な魅力を感じさせてくれた。』
2005年01月27日
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大相撲初場所は、千秋楽を待たずに横綱朝青龍の優勝が決まってしまった。そんなに大きい力士ではないが、抜群の強さを持っている。この調子だと全勝優勝も夢ではない。今場所は横綱を期待された魁皇が崩れて途中休場した。来場所は一転して「角番」となる。また今度こそ、大関かと言われた若の里も、まさかの四連敗を喫し、絶望的となる。大関陣は先場所、武双山が引退、残った千代大海が弱っているのが歴然たる相撲である。「関脇が強い場所はおもしろい」と言われているが、今場所10勝すれば、奇跡の大関カンバックという栃東は「もう一番」というところまできている。もう一人の「かつての大関」雅山は、往年の勢いを取り戻しているので、期待したい。それにしても、全勝の横綱を追いかけるのが、新小結の白鵬である。貴乃花を彷彿とさせる「強さと柔らかさ」は、まだ19歳という若さで土俵上の姿には余裕さえ感じる。末恐ろしい相撲だ。横綱と同様、かれもモンゴル出身である。その他モンゴル勢は多い。また、これまでは考えられなかったのは、外国人力士が綺羅星の如くである。横綱のほか、幕内だけで白鵬、旭天鵬、旭鷲山、朝赤龍、安馬、時天空がいる。グルジア出身の黒海、ブルガリア出身の琴欧州、ロシア出身の露鵬、とすっかりインターナショナルである。とばかり笑っていられない。大相撲は日本の国技である。幕内最高優勝者には天皇賜杯が贈られる。ここで何とか日本人力士の強いのが出てきてもらわねば、国技が泣く。
2005年01月22日
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明治42年(1909)1月6日、七代目松本幸四郎の長男として生まれる。本名、堀越治雄。弟に八代目松本幸四郎(後の初代白鸚)と二代目尾上松緑。大正4年(1915)1月、帝国劇場で松本金太郎と名のって初舞台(6歳)。昭和4年(1929)4月、帝国劇場で九代目市川高麗蔵と改名(21歳)。昭和14年(1939)に市川三升(十代目團十郎)の養子となる。昭和15年(1940)5月、東京歌舞伎座で「外郎売」で九代目市川海老蔵を襲名(32歳)。昭和16年(1941)太平洋戦争始まる。慰問興行などに従う。戦後の荒廃した歌舞伎界に、十五代目羽左衛門を偲ばせる美男役者として台頭する。昭和21年(1946)6月、東京劇場で助六を演じ、人気が出る(38歳)。昭和26年(1951)3月、歌舞伎座で舟橋聖一訳の『源氏物語』の光君を演じて大好評を得る。このころから「海老さま」の愛称で満都の子女を魅惑する。(43歳)。昭和31年(1956)に養父三升が没し、周囲の十一代目襲名の期待が高まったが、大きすぎる名跡を継ぐことに本人の逡巡もあり、なかなか実現には至らなかった(48歳)。昭和37年(1962)4月、歌舞伎座で十一代目團十郎襲名(54歳)。九代目が没してから59年間にわたって空白だった市川團十郎が誕生した。十一代目の魅力は、なんといっても並外れた美男ぶりであったが、風姿がよく、おのずから高い気品が備わっていた。また口跡のすばらしさ、音域の高低も他の追従を許さなかった。また、美男のうちに、どことなく翳のある役者だった。文字通り昭和歌舞伎の華を代表する役者であった。しかし、「佳人薄命」を地でゆくように、わずか二年半で團十郎時代の幕を引き、昭和40年(1965)11月10日(56歳)で、没した。芸風は不器用と言われながらも誠実な人格を芸に現し、気骨ある風采、華やかな容姿で一世を風靡した。当り役は、古典では助六、盛綱、富樫、与三郎、五郎蔵、清心など。新作では源氏物語、若き日の信長、魔界の道真、築山殿始末などが挙げられる。
2005年01月21日
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明治15年(1882)日本橋の豪商稲延利兵衛の次男として生まれる。慶応義塾を卒業後、九代目の長女実子の聟となった。九代目没後の明治43年(1910)、突然役者を志し、上方役者の初代中村鴈治郎を頼って巡業先を訪ね、ひそかに端役で舞台を踏んだ。同年10月大阪中座にて、本名の堀越福三郎を芸名として正式に役者として披露をする(29歳)。大正6年(1917)11月、歌舞伎座で『矢の根』を演じ、五代目市川三升と改名(36歳)。素人が中年過ぎてから踏み込んだ役者修行だったから、所詮技芸に難があり、彼の努力にかかわらず役者としての評価はかんばしいものではなかった。しかし、つねに市川宗家としての権威を守り抜こうとする意欲と責任感を持ち、未曾有の團十郎空白期間、宗家としてなすべき役を勤める。『解脱』『不破』『象引』『押戻』『嫐』『七つ面』『蛇柳』などの埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演して見せたことが、特筆すべき業績であろう。昭和31年(1956)2月1日没(73歳)。告別式の当日、後継者の海老蔵(十一代目團十郎)が故人に十代目團十郎の名跡を追贈した。
2005年01月20日
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七代目の五男。本名、堀越秀。生まれて7日目に河原崎座の座元、河原崎権之助の養子となり、河原崎長十郎と名のった。養家では厳しい教育を受ける。嘉永5年(1852)9月、河原崎権十郎と改名。その前後は、河原崎座の若太夫として別格の処遇を受け、子役から立役に進んで役者としての修行を積んだ。嘉永7年(1854)8月、兄の八代目が自殺(19歳)。その翌年養家の河原崎座が焼失し、興行権を失ったため、安政4年(1857)養父とともに市村座へ出ることとなり、やがて大役を演ずるようになる(20歳)。明治元年(1868)9月、養父権之助が強盗に殺害されるという悲惨な事件に遭ったため、養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年3月、七代目河原崎権之助を襲名。市村座の座頭の地位に座った(32歳)。明治6年(1873)9月、義弟の蝠次郎に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升と改名(36歳)。明治7年(1874)7月、芝新堀に河原崎座を建て、これを置き土産にして市川家に戻り、ただちに九代目團十郎を襲名(37歳)。河原崎座の座頭となった。明治9年(1876)9月より、守田座の座頭となる。明治11年(1878)6月には、移転、焼失などを経て近代的な大劇場として再建築された新富座(もとの守田座)で、九代目は従来の歌舞伎の演技・演出を大胆に変えたり、写実主義的な「活歴物」と呼ばれる新作の芝居を積極的に上演するなど、演劇改良運動に力を注ぎ始める(41歳)。しかし、長い間江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買う。明治20年(1887)、井上馨邸における天覧劇に、五代目菊五郎らとともに、明治天皇の前で『勧進帳』『高時』を上演。役者の社会的身分の向上を実現した(50歳)。新歌舞伎十八番(その数は18種に限定せず、実際には32種とも、40種ともいう)を制定。明治27年(1894)ごろからは、再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになる(57歳)。九代目が活歴時代に創造した「肚芸」と呼ばれる心理主義的な表現方法は、古典歌舞創造法に応用され、近代歌舞伎の体質に大きな影響を与えた。それ以外にも「九代目の型」「成田屋の型」として尊重される数々の狂言の演出を、現代歌舞伎に残した。風采、弁舌、所作に優れ、歴史に忠実な解釈をみせ、時代・。世話に長じ、立役・敵役・女形を兼ねたが、本領は時代物。高尚な能楽を取り入れた。当り役は、弁慶・高時・大森彦七・紅葉狩・娘道成寺・助六・暫・鏡獅子・熊谷・松王丸・重盛・春日局・政岡・地震加藤・伊勢三郎・仲光・酒井の太鼓・勝元など。明治36年(1903)9月13日没(66歳)。
2005年01月19日
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《八代目團十郎》 七代目の長男。文政6年(1823)生後1ヶ月余りで、新之助の名で市村座の顔見世に碓氷貞光一子荒童丸の役で舞台に出る。文政8年(1825)10月、生まれた弟に新之助の名を譲り、自身は六代目海老蔵を襲名(3歳)。天保3年(1832)3月、市村座で「助六由縁江戸桜」の助六で、八代目團十郎を襲名(10歳)。八代目はこのとき外郎売ととらや藤吉を演じた。天保9年、17歳「伊達」の男之助を演じ、初座頭となる。この時代、天保の改革の一環としての弾圧が始まり、江戸の興行界は危機的な時期を迎えた。江戸三座は強制的に浅草の猿若町へ移転させられたのである。都心を離れた所へ移され、当初は客足も減ってしまったが、あまり時を経ずして以前にも増す賑わいを取り戻したが、その原動力には八代目の人気が大きかったといえよう。八代目は面長で非常な美男子であった。代々の團十郎とは違った型の風姿を備えていた。粋で、上品で、色気があり、それでいていや味がなく、澄ましていても愛嬌があった。音声は甲走って高く、さわやかで朗々とした名調子だったという。また、親孝行でも知られ、父の七代目が追放された時、毎朝精進茶断ちをして、蔵前の成田不動の旅所に日参し、父の無事と赦免を祈った。これを理由に町奉行から表彰され、銭十貫文を貰ったという。当時、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶の水で、白粉を溶かすと美貌になれるという噂があり、一徳利一分で飛ぶように売れたという。また、八代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と表書きして、御殿女中たちが錦の守り袋に入れ、肌守りにしていたとの伝説もあった。嘉永7年6月、大坂にいた父海老蔵を訪ねようと江戸を発つ。途中の名古屋で興行中の父と合流し、舞台に出演。7月28日には、父と道頓堀中の芝居へ船乗り込みをした。そして、大坂での初日を迎えた8月6日の朝、島の内御前町の旅館植久の一室で自殺してしまった(32歳)。原因は不明。美貌で生涯独身を通した八代目の人気は死後も衰えず、300種を超える膨大な死絵が出版された。当り役は切られ与三郎・田舎源氏・児雷也・和籐内・助六など。
2005年01月18日
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《七代目團十郎》五代目の孫にあたる。寛政6年(1794)8月、新之助と名のって初舞台。寛政8年(1796)11月河原崎座の顔見世に、わずか5歳で初めての『暫』を演じる。寛政11年(1799)5月に、六代目が急逝したため、翌12年(1800)11月、市村座の顔見世でにわかに七代目團十郎を襲名することになった(13歳)。文化3年(1806)、祖父の五代目が没し、青年團十郎は激しい劇界の荒波に投げ出されることとなる(16歳)。文化・文政期には、並み居る名優に囲まれて、七代目も芸を磨き芸域を広げていった。四代目鶴屋南北の狂言の中で、強烈な個性を発揮。『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門に代表される、「色悪」という役どころを確立。天保3年(1832)3月、市村座で息子の海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自分は五代目海老蔵になる(42歳)。同時に歌舞伎十八番を制定。天保11年(1840)3月、初代團十郎の百九十年記念興行として『勧進帳』を初演、一世一代の弁慶を勤める。(松羽目物の始まり)。天保13年(1842)4月6日、奢侈を禁じる天保の改革により、七代目は南町奉行所に召喚され、手鎖のうえ、家主の預かりになる。さらに6月22日には江戸十里四方追放の刑に処せられる。江戸を追放された七代目は、成田屋七左衛門と改名し、6月25日江戸を発ち成田山新勝寺延命院に寓居する。翌年2月には富士根方(静岡県)の眼医伊達本益を頼り、1、2ヶ月滞在。その後大坂へ上る。以後は大坂に住み、京、大津、桑名などの芝居にも出る。その際の名は、市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田七左衛門などを使った。嘉永2年(1849)12月26日の特赦により、ようやく追放赦免の沙汰が出た。翌3年正月16日に江戸にすぐ帰るようにという書状が届き、慌ただしく出発。2月29日江戸に着く。しかし、気ままな暮らしが気に入っていたのか、その後も何度か旅興行に出る。二人の妻と三人の愛妾を持ち、七男五女の子福者だったが、複雑な状態であったため家庭内の揉め事も多かった。嘉永7年(1854)8月、大坂・京都を中心とした旅興行の途中、江戸から呼び寄せた八代目の自殺という不幸に見舞われる。安政5年(1858)5月、6年ぶりに江戸へ戻り、市村座に出演。安政6年(1859)中村座で『根元草摺引』の曾我五郎を演じたのを最後に、3月23日没(69歳)。俳名を、三升・白猿・夜雨庵・二九亭・寿海老人・子福長者。小柄で眼が大きく、弁舌優れ、荒事、和事、生世話、実悪、色悪、安敵、老け役、所作、女形を兼ね、三世尾上菊五郎との共演に名作が多い。当り役は、由良之助・松王・熊谷・実盛・長兵衛・和藤内・樋口・権八・光秀・伊右衛門・仁木・岩藤・山姥など。七男五女の子福者であった。
2005年01月17日
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《六代目團十郎》 五代目の子であるが、門弟の市川升蔵が引き取り、いったん五代目の従弟にあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子になるが、天明2年(1781)4歳の時、改めて五代目の養子になる。 天明3年(1782)正月、中村座の『七種粧曽我』の座頭・徳都役で徳蔵の名で初舞台(5歳)。同年11月、中村座で四代目海老蔵を襲名。寛政3年(1791)11月、市村座顔見世で六代目團十郎を襲名(14歳)。寛政8年(1796)に五代目が引退したため、19歳の青年、團十郎にかけられる期待はいよいよ大きく、責任も重かった。若くて花のある美男役者だったらしく、楽屋口で出待ちをする娘たちがいたという。また、似顔絵からみると鼻筋の通った高い鼻と眉毛の形に特徴があり、父の五代目譲りの愛嬌のある風貌だったと想像される。当たり芸として力弥・伊豆の次郎・不破伴作・曽我の五郎・定九郎・雛鳥・頼光・加藤清正・渡海屋銀平・いがみの権太・荒獅子男之助・助六など。寛政11年(1799)3月、初めて家の芸の助六を演じ大当たりをとったが、翌月風邪のために休演、「こはいかに折れし三升の菖蒲太刀」という句を残し、寛政11年(1799)5月13日没(22歳)。
2005年01月16日
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《五代目團十郎》四代目の実子。彼の活躍した安永(1772~81)・天明(1781~89)から寛政(1789~1801)の時期は、江戸歌舞伎はまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代であった。宝暦4年(1754)正月、中村座「百千鳥艶郷曽我」で松本幸蔵の名で初舞台(14歳)。同年11月父松本幸四郎が、四代目團十郎を襲名したため、その名跡を継ぎ三代目松本幸四郎となった。明和7年(1770)11月、中村座で「暫」を演じ、五代目團十郎を襲名(30歳)。父四代目は旧名幸四郎に戻る。翌8年春、「堺町曽我年代記」で助六と五郎を演じた(31歳)。五代目は、その容貌・体格ともに父の四代目とよく似ていた。芸風も父に似て、幸四郎時代には景清など実悪系統の役を得意にし、認められていた。團十郎襲名後は、意識的に実事に精進、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助を團十郎として初めて演じたのも五代目だった。また、これまでの團十郎が演じなかった純粋な女形の役も勤めたり、道化、侠客など芸域を広げ、さらに、その頃出てきた新演出法の早変わりで何役も一人で演じた。寛政3年(1791)11月、市村座で、息子の海老蔵に六代目團十郎を襲名させ、自分は鰕蔵と改名した(51歳)。鰕は天鰕の意味で、"祖父や父親の海老には及びません"という遜った気持ちを表す文字であったという。当たり役は、将門・鳴神・毛抜・外郎売・牢破り景清・幡随院長兵衛・岩永・岩藤・累など。狂歌俳諧をたしなみ、「友なしの猿」「五百崎蟲評判」「徒然吾妻詞」などの著述我残っている。晩年は病気がちとなり、寛政8年(1796)11月、都座で一世一代の興行を行って引退、本所牛島の反古庵に隠居して、成田屋七左衛門と称する。世俗を超えた風雅の生活に入り、多くの文人と交流した(56歳)。特に『歌舞妓年代記』の編者として有名な烏亭焉馬とは義兄弟の契りを結ぶ仲だった。文化3年(1806)10月30日、前日より催されていた句会半ばに没(66歳)。
2005年01月15日
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《四代目團十郎》江戸堺町の芝居茶屋、和泉屋勘十郎の次男であるが、実は二代目團十郎の妾腹の子とも言われていた。3歳の時、初代松本幸四郎の養子になり、9歳の時松本七蔵と名乗って、享保四年、森田座の「傾城紫手綱」で、菓子折りのなかから現われて鎌髭の荒事を演じたのが初舞台。24歳までは女形として舞台に立っていたが、享保の末から立役に転じ、享保20年(1735)11月、二代目が海老蔵、升五郎が三代目團十郎を襲名した興行で七蔵も二代目松本幸四郎を襲名(25歳)。宝暦4年(1754)11月、12年間空白だった團十郎の名跡を切望し、海老蔵(二代目團十郎)の養子となり、四代目團十郎を襲名(44歳)。明和7年(1770)実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を襲名させ、自分はいったん旧名の幸四郎に戻る(60歳)。安永5年(1776)、市村座公演の千龝楽、にわかに剃髪し引退。随念と名乗り深川木場の自宅に引きこもり、侠客や俳諧仲間と交遊。皆から親しみを込めて「木場の親玉」と呼ばれた(66歳)。五代目團十郎、四代目幸四郎、初代中村仲蔵らの門弟を集めて「修行講」と呼ぶ演技の研究会を開いた。俳名を海丸・五粒・三升・夜雨庵などと名乗った。身体が長大で芸風は実悪にすぐれ、声量も豊かで、荒事、実悪、道化、女形も兼ねていた。当たり役は、松王丸、景清、工藤、師直、熊谷、為朝、由比正雪など。安永7年(1778)2月25日没(68歳)。
2005年01月14日
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《三代目團十郎》享保6年(1721)、初代團十郎の高弟三升屋助十郎の子として生まれる。享保10年(1725)、4歳で二代目團十郎の養子となる。享保12年(1727)、中村座の顔見世に市川升五郎と名のって初舞台(7歳)。享保20年(1735)、市村座の顔見世で三代目市川團十郎を襲名(15歳)。寛保元年(1741)、養父の海老蔵(二代目團十郎)とともに大坂へ上ったが、すぐに発病して江戸へ戻る(21歳)。寛保2年(1742)2月27日没(22歳)。艾(もぐさ)売りの台詞、役者苗字名所尽くしの台詞、養父の白酒売りと掛け合いで演じた禿(かむろ)の台詞、「暫」の大文字和漢の台詞など、若さにものを言わせた長台詞を得意とし、また享保二十年正月に、「振分髪初買曽我」で虚無僧の五郎を演じたのが当たり役といわれている。「甲子夜話」を著した松浦静山侯は團十郎贔屓で、当時三代目に尺八を贈ったりした。三代目は夭折したため、「多芸」と言われ、将来を期待されていたが、芸風の確立を見ることはできなかった。妻は八代目羽左衛門の女、その一女かめは五代目團十郎に嫁した。その死を悼み海老蔵(二代目團十郎)は「梅散るや三年飼ふたきりぎりす」の句を手向けた。早過ぎる死により、以後十年余りの間、市川團十郎の名跡は空白期間を持つことになる。
2005年01月13日
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《二代團十郎》 初代が成田不動尊に祈願をこめて、授かった子であるという噂があり、「不動の申し子」ともいわれた。元禄10年(1697)5月、中村座で初代が演じた『兵根元曾我』での山伏通力坊の役を演じたのが初舞台(10歳)。元禄17年(1704)、父の突然の死に遭う。同年7月、山村座で二代目團十郎を襲名(17歳)。二代目は豪放な荒事芸ばかりでなく、和事、実事・濡れ・やつしなど幅広い芸域を持つことができた。二代目は曽根崎心中の徳兵衛など、近松門左衛門作の世話物の主人公も演じて成功した。正徳3年(1713)4月、山村座の『花館愛護桜』の二番目に助六を初演(26歳)。36年後の寛延2年(1749)、二代目62歳で三度目に演じた舞台によって、ほぼ現行に近い扮装と演出の「助六」劇が完成された。正徳4年(1714)絵島生島事件に巻き込まれるが、軽い処分ですむ(27歳)。二代目は、初代から継承した芸を洗練させたほか、『助六』『矢の根』『毛抜』など、のちの歌舞伎十八番に含まれることになる新しい荒事芸も創始、いわゆる家の芸を確立した。それを可能にしたのは、二代目の演技が荒事の骨法を基本にしながら、和事風のやわらか味をも取り入れていく新しいタイプの表現法であったためである。やがて、それが当時の江戸文化の気風と合って、絶大な人気を集めるようになる。隈取りの様式性を完成させたのも彼の功績だった。享保6年(1721)には、千両の給金を与えられる「千両役者」となる(34歳)。享保20年(1735)養子の升五郎に三代目團十郎を襲名させ、自らは二代目海老蔵となった(48歳)。寛保元年(1741)大坂に上る。『毛抜』の粂寺弾正を初演し、実事の芸が上方においても認められる。しかし、その大坂滞在中、三代目の訃報を聞く(54歳)。失意にひるまず大坂の舞台を勤め、翌年の9月に江戸に帰る(55歳)。宝暦4年(1754)11月、二代目松本幸四郎(44歳)を養子に迎え、四代目團十郎を襲名させる(67歳)。初代同様、俳諧を能くする文化人でもあった。俳名は、三升・才牛・栢莚。江戸の町人社会において「市川團十郎」が別格の役者として尊敬されることになる基礎を固めた。宝暦8年(1758)9月24日没(71歳)。
2005年01月12日
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團十郎代々《初代團十郎》祖先は武田家の臣、下総に住み、堀越姓を名乗る。父は、顔役で人望厚く「面疵の重蔵」などとあだ名された侠客、唐犬十右衛門とも親交があったとか。十二歳で市川海老蔵として、中村座で初舞台。後に段十郎と称す。貞享2年(1685)市村座における『金平六条通』の坂田金平役が荒事の創始とする説が有力である(26歳)。当時江戸で人気を集めていた人形芝居の金平浄瑠璃からヒントを得たと伝えられる。金平浄瑠璃の内容は、坂田金時の子金平が超人的な怪力を発揮して、頼光四天王の子どもたちとともに鬼神・妖怪や悪人どもを退治する有様を描き、人形が岩を割る、首を引き抜くなどの荒っぽい演出だったという。江戸歌舞伎の中では、團十郎以前から荒々しい武者が立ち回りをする「荒武者事」と呼ぶ演技類型(パターン)が形成されていて、敵役系統のものと奴系統のものがあったが、團十郎はそれらを統合し、敵役をやっつける正義の味方として演じる新しい荒武者事を創始した。それが「荒事」である。主人公が大切(一日の狂言の最後)に荒(現)人神の分身となって立ち現れる、いわゆる「神霊事」の演出を伴っていたことが、従来の単なる「荒いこと」と團十郎の「荒事」とを分ける決定的な違いだった。上方の俳人、椎本才麿に入門、俳名を才牛とし、役者の雅号俳名の最初とされる。学問・文芸に才能があり、狂言作者としても活躍。「三升屋兵庫」というペンネームを使ったこともある。元禄17年(1704)2月19日、四十五歳の時、市村座の『わたまし十二段』に佐藤忠信の役で出演中、役者の生島半六に舞台で刺し殺された。(45歳)。
2005年01月11日
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大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます国民の祝日。1948(昭和23)年7月公布・施行の祝日法によって制定され、当初は1月15日だったが、2000(平成12)年から1月第2月曜日に変更された。「民法」第3条に満二十歳ヲ以テ成年トスとあり、法律上、独立の社会人としての地位が与えられ、選挙権が与えられる。この日には、各市町村で満20歳に達した人を招いて「成人式」が行われ、講演会やパーティーを開いたり、記念品を贈ったりする。しかし、各地で「荒れる成人式」という記事が目につく。今どきの成人に、わざわざ一箇所に集めて、下らん話を聞かせたり、お祝い品を上げたりする必要があるのか‥。昔は、男子には元服・褌祝い、女子には裳着・結髪等があった。明治時代以降は男子には徴兵検査がこれに代った。しかし、こんにち20歳だからといって、特別に節目とも思えない。請売りの話だが「二十歳になったから、煙草やめる」と、嘯いた奴があったとか。成人式に集まる若者の形(なり)を見ても、女性は振袖を着るのはいいが、猫も杓子も白い襟巻き風のものを首に巻きつけ、男性は「七五三」の帰りかとでも言いたいような着物を着ているのはいいとしても、歩き方一つできないようでは、二十歳になって、今一度、自分の居所探しをしてもらいたいようにも思う。それに、一月の第二月曜日にしたのは、いかがなものか‥。概して祝日を第○月曜日とかに変えたことで、なにがメリットなのか、デメリットなのかを、お役人たちに考え直してもらいたい。
2005年01月10日
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日記に書き込めなくなって、往生しております。飛鳥1128さんから、「どうしたら復活できるか」のヒントをいただき、試行してみましたが、やはり根っからのパソコン音痴には、無理でした。ところが、メールに「日記への道」がありましたので、藁をも掴む思いで、今こうして書き込んでおります。もし、この方法が成功いたしましたら、これで暫くは続けていきたいと思っております。どうぞ、さるのちえを温かく見守ってやってくださいませ。これが成功でしたら、歌舞伎、方言など、書き込みたいテーマがあります。では、これにて、本日は、チョ~ン!
2005年01月08日
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