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-小麦粉記-
司書室プレリュード・
「今夜は居間の明かりをつけっぱなしにしておかないとだめだぜ?空き巣に入られるぞ」
「そうですね、母にも言われました」
玄関の鍵を開けてから、先輩に向き直ってお礼を言う。
「高梨先輩、今日はありがとうございました。ご飯、美味しかったです。本当に」
「あぁ、また近いうちに来いよ。今度はタランボの天ぷら作ってやっるから」
「そうですね、きっとないと思いますけど。それじゃあ、おやすみなさいです、先輩」
「おう。おやすみ、池ノ内。気をつけろよ」
先輩はそういって、自転車にまたがった。ドアを閉め際に
「先輩、前々から言おうとしてたんですけど、先輩の言ってた喫茶店、明日連れてってくださいね」と付け加える。
先輩は手を上げながら「あ、そうだったな。わかった、明日だ」とライトもつけずに帰っていった。
自分の立てる足音と、冷蔵庫のうなる音しか聞こえない居間の電気のスイッチをつけて、二階の部屋に上がる。
机のそばにカバンを置いて、さっさと着替える。そしてそのままベッドの上にゴロンとあおむけに転がった。天井の汚れが、じぃっと私を見つめていた。
結局、結局私は鉄子さんの話を聞くことにした。私が先輩のことを好きかどうかなんてこの際どうでもよくて、とりあえず先輩の話を聞いてみた。
今は、聞かないほうが良かったともおもうし、聞いてよかったともおもう。
「圭吾が好きだったっていう先輩のこと。早智子ちゃんって言うんだけどね、去年まで図書局にいた女の子。不良っぽくて学校に馴染んでなかったアイツが図書局に入ったのも早智子ちゃんのお陰だし、居場所を作ってくれたのも早智子ちゃん。
あの子、圭吾のお母さん、つまり私の姉に似ててさ、厳しいんだけど優しいというか、そういう感じの子なのよ。圭吾はすぐに早智子先輩にzっこんほれ込んで、きっと早智子ちゃんの方も圭吾のことを好きだたんだと思うわ。それで、ちょうど去年の今頃に圭吾が告白したんだけど、あえなく玉砕。落ち込んでたわね。果てしなく。
その頃から小説を書き始めたのかしら。きっとそれで先輩に対する思いが暴走しないようにしてたみたいだけど、ある日、寝ている早智子ちゃんの唇を奪っちゃったのね。「やっぱ、だめだ。俺、耐えられなかった」っていって。それ以来早智子ちゃんと圭吾は、好き会ってるのにお互い遠慮がちになって、それでも卒業がちかくなってからは少しは関係修復したみたいだけど、そんな感じで卒業。悪いことに圭吾はあの子のこと引きずっててね。まぁ確かに、圭吾にとって最高に相性のいい先輩だったし、早智子ちゃんにとっても大事な後輩だったんでしょうよ。
早智子先輩は自分の事を嫌いになってふったわけじゃない
そう、俺はまだ先輩のことが好きだし、先輩だって俺のことは嫌ってはいないわけなんだ。ナノになぜ、俺は拒絶されるんだ?なぜ、俺は、先輩に振り向いてもらえなかったんだ?俺はどうすればいいんだ?どうしたら先輩は俺のことを見てくれるんだ?
どうしたらいいんですか早智子先輩?
っていうかんじ。寝言でよく言ってたわよ。
「先輩、どうすればいいっすか」って。たぶんアイツの頭の中では、これが口癖になってるわね。
まだアイツは、未練たらたらなわけ。きっと本人だってわかってるのよ?早智子ちゃんはもう卒業して戻ってこないし、戻ってきたとしても今までと変わらない、良い先輩後輩の関係にしかならないってことを。でもね、逆に戻ってこないのがわかってるからこそ、あきらめられないのよ。頭の中でどんどん美化されて、女神さまみたいになってるから。
でもさ、あんたと圭吾を見てると、なんていうか、安心してみていられるんだよね。ふられた後の圭吾といったら、どうやって先輩のことを振り向かせることができるか、もしくは忘れられるかってことで相当無理してたみたいだけど、あんたのまえじゃあ無理してない感じがするんだよ。きっとそれはさよりちゃん、あんたのおかげさ。
だから、私としては、圭吾のことをもっと見てほしいんだ。あとね、もっと甘えてやってくれ。あいつは愛情を注ぐことには心血を注いできたけど、愛情を向けられることには飢えてるんだ。
だから、さ。好きだとか、好きじゃないとかは別にしても、後輩が先輩に甘えることは変なことじゃないだろう?きっとアイツもそれに答えてくれるし、それを望んでる。
圭吾のこと、よろしく頼むよ。」
そんなこといわれたって、私にそんな義務はない。
早智子先輩がどんな人なんて全然知らないし、その人のことを高梨先輩が忘れられないなんて、私にとってはどうでもいいことだ。しったこっちゃない。卒業した人に未練たらたらな先輩なんて、女々しくて格好悪い。不良っぽいくせに女々しいなんて、湿気ったTシャツみたいに情けない。あの体格とあの顔で「せんぱぁい、どうすりゃいいですかねぇ?」なんて口癖をいってたら、もうサイアクだ。シュワルツネッガーがナメクジにびびってる映画があったとしても、その情けなさにはかなわない。
だけど。もし鉄子さんの話が本当だったとしても、先輩は、私の前では頼れる先輩なんだ。鉄子さんに頼まれなくったって、私は十分すぎるほど甘えている。先輩に対して「不良っぽいから嫌い」とか「自分でやりますから手を出さないでください」なんていってるのも、先輩に甘えているからだ。きっと。
先輩が風邪でもひいて、図書室に一人でいるのは、とても寂しい。一人で学校を帰るとしたら、たぶん物凄く寂しい。小説を書くのだって、先輩がいなきゃ、この間みたいないい作品はできなかった。一人じゃできなかった。先輩がいなかったら、きっと私は、図書局に入ることもなく、小説を書くこともなく、局の冊子がきっかけでできた友達もいなかったはずだ。
私が図書局に入ろうとした、私が小説を書き続けるきっかけになったあの小説は、きっと高梨先輩がかいた話なんだ。先輩は別人だといっていたけれど、鉄子さんが話してくれた去年の先輩の話は、私がよんだ小説のストーリーだった。
私は、とっくの昔から高梨先輩に憧れてて、今じゃ先輩がいなきゃ、全然ダメになっちゃうじゃないか。
先輩のことが…
と、そこまで考えて頭を振って、電気を消して眠ることにした。
何年かぶりに、ゆっくり、優しく、熟睡した。
翌日。約束どおりに先輩お勧めだという喫茶店につれて来てもらった。そのため図書室は早めに閉めてしまっている。放課後に自習に来た人たちにはわるいけど、そこは本当は当番なのに一度も来たことのない図書「委員」に文句を言ってもらいたいと思う。
先輩みたいな人はそもそもはいっちゃいけないだろうと思うような可愛らしい喫茶店で、なぜこんな店を先輩が知っているのかはかなりの疑問だったけれど、それは店に入ってすぐに判明した。
「イラッシャイマセー!って、あれ、高梨君じゃない!久しぶりねぇ」
「あ、小春先輩。ご無沙汰してます」
と、どうやら顔見知りの先輩が働いているお店だった。そりゃそうだ。そうでもなきゃ先輩みたいな人がこんなお店を知っているはずがない。合わな過ぎる。奈良の大仏が十字架をもっているくらいありえない。
「おい池ノ内。お前さっきから俺の顔見て眉間にしわ寄せながら何を納得してるんだ?おおかた失礼なことを考えてるんだろう。俺にはこの店は合わないとかなんとか」
「そうですね。その通りです。先輩もわかってるじゃないですか。さしずめ神社の屋根に大きな十字架が建ってるくらい合わないなぁ…って先輩止めてくださいやめて!髪引っ張らないでくださいゴムが抜けます!」
「あれ?その子、彼女?可愛いじゃない!」
「いやいや、彼女なんかじゃないですよ。こんな生意気な面した奴は趣味じゃないですから。図書局の後輩の池ノ内です。ほれ、お前も」
「あ、こんにちは。池ノ内さよりです。…前の図書局の先輩ですか?」
「そうそう。もと副局長。あ、ごめん!いま仕事中だから話はあとでね。取り敢えず座ってて」
そういってぱたぱたと奥に消えて行った。
「それじゃ、座ろうぜ」
「そうですね」
先輩と私は窓際のテーブルに座って、メニューを開いた。確かに先輩の言うとおり、安くてたくさんメニューがある。
「ここはな、珈琲がおいしいんだ。あとはこれだ。オムライス…はもう夕食時だから止めておこうか。じゃあなんだろうなぁ」
「あ、私甘いものがいいです」
「ふむ。じゃこれだ、白玉あんこ。今の時期だとこれが一番かな」
そういって先輩はさっきの先輩に「すいません、珈琲二つと白玉あんこ二つ」と頼んだ。どうやら私たちが来たときから珈琲はいれはじめていたらしく、すぐにいい香りのする珈琲が綺麗な模様のはいったカップで運ばれてきた。ますます先輩にはあわないけれど、一口飲むと今まで飲んだどの珈琲よりも美味しくて、まさに舌から痺れるように感動した。
「本当に美味しいですねこの珈琲!こんなの飲んだことありません」
「だろ?そこまで喜ばれると、つれてきてよかったよ。だいぶ遅れちゃったからな。お、白玉あんこもきたぜ」
屈託なく笑う先輩と向かい合って、おいしい珈琲を飲んで、上品な甘さの白玉あんこを食べる。窓からは六月の柔らかい日差しが入ってきて、ぽかぽかと気持ちがいい。不良っぽいけど結構優しい先輩と、生意気な後輩の、今の関係。とても楽で、穏やかで、気持ちのいい関係。この関係がいつまでも続いて欲しいという想いは、私の胸の中にはっきりとある。
だけど。目の前でパクパクと白玉を食べて、冊子の売り上げや評判なんかを楽しそうに話す先輩のことを、もっと近くにいたい、もっと触れたい、先輩、先輩、先輩…
あれ、どうしたんだろ?急に今のシュチュエーションが恥ずかしくなってきた。なんで?
きっと、私が先輩のことを○○だと認識し始めたから。わかってる。でもそんなこと、いまさら意識したって、急に関係が変わるわけじゃないんだ。○○だからって、そんなもの、とっくの昔からそうじゃないの。
急に思案にふけった私を怪訝そうにみた先輩に、できるだけいつものように笑って、理性じゃ抑えることの出来ない顔の紅潮を誤魔化そうとしたけど、あっさりばれた。
「おい池ノ内、おまえちょっと顔赤いぞ?気分でも悪いのか?」
「あ、すいません。全然、全然大丈夫です」むしろ先輩のせいで、少し気分がいいくらいですから。
「先輩、今度の冊子は、どうしますか」
「そうだな、もうそろそろ取り掛からないとまずいよなぁ。今回も書くんだろ?小説」
「そうですね。今回はもう少し簡単で、読んでる人も解ける謎とかをちりばめた推理ものにしようかなと思ってます」
「ふぅん。推理ものなんてよく思いつくよな。池ノ内の小説はさ、やっぱりまだまだ文章力はないけど、構成力は抜群だと思うぜ。キャラもちゃんと立ってるし、展開も上手い。ただ心理描写がどうしてもおろそかになりがちだ。主人公の心理描写が曖昧だからわかりにくいところがぽろぽろとでてくる。と、まぁこの間の小説を読んで思ったことだ」
「そうですね。やっぱり一度そういう風に読んでもらえると自分では気がつかないところも言ってもらえるので助かります。でもまぁ、結構ムカつきますけどね」
「たしかになぁ」と申し訳なさそうに先輩は笑った。
「俺も一度書いた小説を学校の先生に見せたことがあるんだよ。まぁ自分でも大した作品じゃなくのはわかってたんだ。原稿用紙三枚で書いた短編小説。オチが考えらんなくて取り敢えず軟着陸させたら「オチがないから全然面白くない」って何の前ふりもなく言うんだぜ?「僕が読んでも全然面白くないものコレ」っていって笑いながら印刷した紙をバーンって机に叩いて。正直ぶん殴ろうと思ったぜその教師の顔を。頭の中で「てめぇの干からびた脳味噌はもう面白いって言うものがどういうものかわからねぇんだよこのボケナスビが!」っと思いながら「あはは、そうですよね。やっぱりオチがないですよねー」って無理やり笑いを貼り付けて、その教師の忠告を聞いてたんだよ。やっぱり作品に対して批評してくれる人って貴重だからな。素直に話は聞いたけど、やっぱいまだに素直になりきれないね。今でもあの教師の顔見ただけでぶん殴りたくなる。奴のお陰で、無理やりでも一応のオチをつけるように気をつけて書くようになって、まだましな作品を書けるようになったけど、やっぱりさ、俺としてはあの作品は、結構いい発想だと思って書いたんだ。たとえオチがだめだめでも、その発想くらいは褒めてくれたら、「面白くない」って言われてもきっと気にはならなかった。むしろ今度はもっといい作品をもってこようと思ったな。きっと」
そこで一旦珈琲に口をつけて、先輩はまた話しだした。
「でも、俺の今の考えって、甘いと思うんだ。全然、全然甘い。あの教師はくそみてぇにムカつくかど、実際俺も甘かったんだ。あの後色々言ってきたんだよ。こんなオチにして書いてみたらどうだ、こんな風にかいてみたらどうだって。俺はどれもやらなかった。書いた作品を批評されるならまだしも、そいつの色を俺の作品には絶対に混ぜたくなかったんだ。あんたの批評は聞くけれど、あんたの考える小説には絶対にしない。絶対にしねぇよ!って。本人にはいってないけどね。だけどさ、それも俺が小意地になってるだけなんだ。実際、そいつの言うとおりの小説にしたら、きっと面白くなったはずなんだ。だからさ、池ノ内」
「…はい」
「お前は、俺みたいになるなよ?いつまでも前のことに引きずられるな。素直になれ。たとえどんな人の、どんな辛い批評を聞いても、怒りを出すな。表面では従順になれ。心の中の怒りを、次の小説にぶつけるくらいにしろ。そいつが批評したことを踏まえて、今度はそいつの予想の45度斜め上を行く作品を書け。どんなにコケにされても、俺みたいに意地になるな。自分の書いた作品に無駄な愛着をかけるな。こう言い聞かせろ。「自分は、自分が思っているほど有能じゃない」って。だからさ、いろんな人に見てもらえ。いろんな感想をきけ。たくさんぶちのめされろ。そうじゃないと、いい作品なんて書けやしないさ」
それからこう付け加えた。
「その代わりといっちゃなんだけど、俺はお前の作品が、どんなにひどい作品だって、その中のひとかけらのいいとこを見つけて、褒めてやるからさ。冊子を作るときは俺もズケズケいうけど、ちゃんと出来上がったら、絶対いいとこをみつけて、褒めてやる」
「先輩…」
先輩の最後の一言は、褒めて欲しかったなぁという声に聞こえた。それを、褒めてやると言ってくれる先輩に、わたしにアドバイスしてくれた先輩に、「わかりました」と答えた。
私だってそう簡単に素直になんてなれやしない。いまだって、本当に言いたかったのは「ありがとうございます、先輩」だったって言うのに。
その翌日から冊子作りが始まった。
私はパソコンが使えないから先輩が買ってきたノートに手書きで書く。ノートに書いていると授業中にも書けるから便利なのだ。中間試験が迫っていたけど、私にとってはそんなものより小説を書くほうが大事だった。授業を「書く」か「寝る」のどっちかにしか使わず、ホームルームが終わったとたんに先輩のいる司書室に向かう。友達はそんな私をみて、ケラケラと笑った。
司書室では先輩が私のかいた原稿をパソコンに打ち込んでゆく。その間も私はノートに書いてゆく。先輩が買ってきたノートはミシン目がついていて、切り離しが可能だった。打ち込んでいくと同時に、自分のアレンジを加えた先輩バージョンも作っていた。器用なことをする。
六時を過ぎたらまたいつものように先輩が私の家まで送ってくれていた。この前先輩に夕食をご馳走になってことを母に話したらわざわざ玄関まで出てきた。一瞬先輩の外見を見て怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに笑って「いつもお世話になっています」「いえいえとんでもないわはは」というようなやり取りをしていた。母の高梨先輩への印象はおおむね好印象だったようなので、少しほっとした。
二週間後。新しい冊子は、できたにはできた。小説も先輩のお陰でおかしな部分を直せて、今回の冊子も、中間考査の後だし、きっとよく売れるはずだった。
でも、いま、先輩がいない。きっとしばらくは口も聞いてくれないはずだ。
要は私の甘えすぎで、ひどいことを言ってしまった。小さい子供が、母親の神経を逆なでするようなことを言ってしまうのとおなじで、甘えすぎた私は、調子に乗っていたのだ。
先輩が直したところで、最後に一つだけ私が気に入っているところがあった。そこはのこして欲しかったんですけど、ということでちょっとした口論の末、一応私が折れた。確かに先輩の言うとおりだと思う部分もあったし訂正されたのは悔しかったけど「表現はいい感じだから、次の小説でつかえ」とも言ってくれた。そこで終了、完了、丸く収まって、平和に冊子が出来上がるはずなのに、下川君というあーもう思い出しただけでうっとおしい奴が現れた。
「そこはさよりさんの文のままがいいんじゃないかなぁ」なんて、どこで話を聞いていたのか、先輩がいなくなったときにひょこひょこ出てきやがって、一応折れたとはいえ私の中でもくすぶっていたものもあったわけで、先輩が出かけているあいだ、少し愚痴を聞いてもらった。いつもうっとおしいばかりだから、たまには愚痴ぐらい聞いてもらってもいいだろうと思って。そして、何を思ったか私は、「行こう行こう」という下川君といっしょになって先輩にもう一回話しを付けに行った。で、先輩がキレた。初めて先輩に、怒られた。
先輩が戻ってきてから、私と下川君は原稿を持って行った。下川君はニヤニヤしていたけど、このときはそんなに気にならなかった。
「先輩、さっきの文ですけど」
「ん?あぁあれか。あの文章が好きで、それを生かしたいなら、もう少しテーマのある小説に…」
「あ、いえ、そうじゃなくて、私はこの小説で使いたいんです」
「…いや、やっぱりあの一文はこの小説にはそぐわねぇ。今回の小説は軽いのりの謎解き小説なんだ。そこにマジメな一文を差し込むのも、まぁ悪くはないけどどうしても違和感がるって、さっきもいっただろ?」
と、そこで下川君が前に出てきた。
「なんだお前。下川だよな。何しに来た」
「あーいえいえ、俺が言ったんですよ。直す前の文章のほうがいいって」
「…おい」
「でもですね高梨先輩。俺、思うんですけど、そうやって批判してばっかりで、それじゃあ彼女もやる気をなくしてしまいますよ。折角書いたんだから、褒めてあげないと。そもそも高梨先輩には、さよりさんの小説にあれこれ言う資格、あるんですか?自分で小説も書かないくせに、よくも人の小説に文句つけられますね」
先輩の目が、深くなった気がしたけれど、気がつかなかった下川君はそのまま続けた。
「俺はまぁ、前に書いた小説が文学賞に入ったし、そこそこの実力はあるつもりですけど、先輩なんてただの図書局の本の好きな人でしょうよ。そんな人にぼろくそにいわれて、さよりさんがかわいそうじゃないですか。俺だったら書く気になり、ません…よ?」
と、ようやく先輩の雰囲気に気がついた下川君が話をやめた。
ただ、先輩の目は彼ではなくて、私のほうをじっと見ていた。私もじっと見返した。きっと下川君にいろいろ言われたせいで、調子に乗っていた。じゃなきゃあんなこと、絶対にできない。
「池ノ内。今の、お前が話したのか」
「…そうですね。半分くらいはちょっと愚痴りましたけど」
「お前、もう、書く気にはならねぇのか」
「いえ、別にそこまでは」
「俺が小説を書かないくせに、と思ってるのか」
「たまに、それは、思います」と正直ところを話した。私が小説を再開するきっかけになった去年の学園祭の小説は、きっと先輩が書いたのだろうと想像がついていたのでまったく小説を書かないくせにとは思わなかったが、今小説を書いていないくせに、とは思ったことが何度かは、ある。
そうすると、先輩が、一瞬険悪な雰囲気を引っ込めて、というよりも、顔の血の気がさぁっと引いて、泣きそうな顔になった。しまった、と思ったときにはもう遅くて。ついに先輩がキレた。
「池ノ内。確かに俺にお前の文章を見直す資格があるのかといわれりゃ、あるとは断言できねぇよ?だがよ、確かにいろんな人に見せろといったが、よりによってこんな(と先輩は下川君を指した)ボンクラに見せた挙句一緒になって文句をつけに来るとは、さすがに思いもしねぇぞ?あの一文はいいものがあった。けどこの小説にはそぐわないから次で使えといったんだ。わかったっていったじゃねぇか。それをこんな奴に一回褒められただけでしゃあしゃあともどってくるんじゃねぇよ!何人にみせた?え?てめぇに好意的な奴に見せて、前の気を引こう引くとそればっかり考えてる奴の軽い褒め言葉は、俺が考えて、何回も何回も見直した上で直したほうがいいと思って行った言葉よりもいいものだったのかよ!俺だってわかってるっていってんだろ!悔しいのはわかってんだよ!それでもいい小説に仕上げてもらいたくて!池ノ内が本当にいい小説だと褒められる顔がみてぇから、俺は毎回毎回お前にうらまれるのを!びくびくしながら訂正してんだよ!いったい何回読み返したと思ってるんだ!どうしたらお前の考えに沿えるように直せるか、どうしたらお前のやる気を持たせつつ訂正させるか何時間悩んだと思ってるんだ?どれだけお前のことを考えて…それを、こんな……いや、いい。俺よりもそっちのボンクラのほうがいいっていうなら、それでいいぜ池ノ内。お前の好きなように出せよ。俺に見せて直されるより、こいつに見せて褒められるほうが嬉しいもんな。そうだよな。わるかったよ、やる気をなくさせて。すきにしろよ。」
そういって、先輩はカバンを持たずにどこかへ行ってしまった。
「やっぱりあの先輩、噂の通りヤバイんだって。雰囲気とか、あんまり近寄んないほうがいい。危険だよ。図書局やめたら?サッカー部のマネージャーに来いよ」という下川君を廊下に蹴りだして、それで今に至る。
サイアクだった。言っちゃいけないことを、言ってしまった。直接私が言ったわけじゃないけれど、それでも私が言ったのとおんなじことだ。そういうことを下川君に漏らしたんだから。
もういつも帰る六時を過ぎていたけど、先輩は帰ってこない。
私がいる図書局には、もう帰ってこないのかもしれない。下川君の言うとおり、やめたほうがいいのかもしれない。でもそうしたら廃局だ。
もう学園祭の準備を始めているところもあるらしい。私もきっと、先輩と一緒に学園祭号を出すんだともっていた。そのときには、先輩にも小説を書いてもらおうと思ってた。私が立ち直るきっかけをくれた小説を書いたのは、きっと高梨先輩で、そのことだってお礼がしたかった。どんな小説を書いてくれるのか、楽しみだった。
なにより、先輩と一緒に小説を書けることが、楽しみだったって言うのに、さ。
今だって、一緒に小説を書いてもらってたって言うのに、私は、本当に、くだらない、ばか、あほ、まぬけ。
喫茶店で言われたばかりのことを、速攻でぶち破った。先輩をひどく傷つけてしまった。
くたくたになって床にヘタっているカバンを見たら、涙が出てきてしまった。
先輩が、どれだけ私のことをちゃんと見てくれてるかも知らずに、好き勝手言って、先輩、先輩。
─俺だってわかってるっていってんだろ!悔しいのはわかってんだよ!それでもいい小説に仕上げてもらいたくて!池ノ内が本当にいい小説だと褒められる顔がみてぇから!俺は毎回毎回お前にうらまれるのをびくびくしながら訂正してんだよ!いったい何回読み返したと思ってるんだ!どうしたらお前の考えに沿えるように直せるか、どうしたらお前のやる気を持たせつつ訂正させるか何時間悩んだと思ってるんだ?どれだけお前のことを考えて…─
ぐっと胸が痛くなって、もう耐えられなかった。私が一方的に悪いって言うのに、先輩は私のことを、考えていてくれたのに、肝心のわたしはなんにも考えてなくて、好きだとか好きじゃないとか、そんなことばっかに気を取られて、本質を見失って!
本当に先輩のことを好きなら、先輩のことを考えなきゃいけないっていうのに、自分の中で一人で考えて!
先輩のカバンについたほこりをほろって、机の上に置いたけれど、逆になみだが落ちて汚れてしまった。あきっぱなしの中身には教科書なんか入ってなくて、かわりに紙の束が入っていた。
私の原稿を印刷したやつだった。一つ目は先輩のアレンジで、二つ目は私の原稿そのままで、赤ペンと、青ペンがたくさん入っていて、鉛筆でこまごまと書いている。
赤ペンが直したほうがいいところで、青ペンがいいところらしかった。全部とおして見ると、先輩が私に指摘した以上に、もっと多く赤ペンが引かれていて、その上に鉛筆でなにか書かれていた。
─この部分はあまりよくないけれど、ここまで直してしまうと池ノ内はイラつくだろう─
─少々表現が変。けど、コレは池ノ内の小説で、俺の小説じゃない。これはこれでいいか─
─池ノ内流ののいい文章。心地いいテンポ─
─これも良くないが、ここまで細かいとやる気をなくすだろう。次に改善させる─
─次に書いた小説で、この文章は使わせる。とてもいい一文。ぐっと来る。ただこの小説にはそぐわない。とてもいい、一文。俺には、書けない、池ノ内の、生きた一文。もっと池ノ内の人間がでる、最高の小説で使わせてあげたい─
「せんぱぁい…うっく、ごめんなさい。ごめんな、さい」
声まで出して、泣いてしまった。原稿にぽとぽと涙が落ちて、赤ペンの線が滲んだ。
下校時間を過ぎても先輩は帰ってこなかった。学生会長が戸締りに来て、私を見てびっくりしたけれど、事情を話したら、納得していた。
「アイツはね、それくらい君の事を考えていたんだ。高梨がそこまで他人のことを考えるなんて、滅多に無い。大丈夫。ほとぼりがさめるまで、少し君も心を落ち着かせてみなさい。高梨は、大事な後輩を泣かせてほったらかしにしておくような男じゃないさ」
そういって励ましてくれたけれど、一人で通る帰り道は、寂しかった。横でチキチキ自転車を押している先輩がいなくて、また泣きそうになった。
しばらくして会ったら、素直に謝ろう。
そして私の小説を、もっと直してくださいと、お願いしよう。
だから今日は、少し眠ろう。
明日から、先輩が直してくれたところをもとに、もっといい作品に仕上げることにしよう。
だから先輩には悪いけど、かってにカバンの中身を持ち出した。
だけど、今日の私は、サイアクだった。謝らないと気がすまなかった。
「先輩。ごめんなさい」と、昨日まで先輩がいた空間に、謝った。
その言葉は、群青色に染まり始めた湿った空気に、とけて広がって、消えていった。
一番いて欲しい人が、一番いて欲しいときに、一番遠くへ行ってしまった。
「先輩の、ばか。いっつもみたいに笑ってくださいよ。頭なでてくださいよ。先輩の、ばか」
私が一番、ばかだった。
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