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-小麦粉記-
まぐろっ!! 下
センター試験も間近に迫り、部室に来なくなって久しい後輩への未練も、だんだんあきらめになってきた頃
その佐山が、部室で眠りこけていた。
昨日見かけたときは伸ばしていた髪を可愛らしくゴムやピンで留めていたけれど、俺の座る位置で机に突っ伏している佐山の神は、いつかの懐かしいシンプルなポニーテール。いつかのようにキレイに掃除されたほこりの飛んでいない部室。穴を開けた壁には俺のよく聞く歌手のポスター。スイッチの入った電気ヒーター。二人の人間。後輩と俺。
外はもう根雪が汚くなっている。
「…さやまー」と声をかけるも、起きる気配はない。
前まで佐山が座っていた席に腰を下ろして、スースーと規則正しく息をする後輩の寝顔をしばらく眺めてみた。ちくしょう、かわいいじゃねぇか。
部室に来る前に、佐山のクラスの女の子たちが話している内容を聞いていた。自動販売機に並んでいる最中だ。
「ねぇ、佐山さんどこに行ったかしってる? っていうかお昼からみてないんだけど、サボリ?」
少し派手目なネックレスをつけた女の子が「佐山」の名前を出したのが耳に入って、さりげなく立ち聞きしてしまった。いや、別に聞こうと思っていなくても声がでかいんで自然と聞こえてしまうのだが。
「あ、わたしもきこうと思ってた。どっかいっちゃったみたいだけど、わかんない。…最近よく話すけど、そこまでは別に知らないや」と、隣にいた巨乳。
「ねー。急になんか明るくなったよねー。でもさ、まだイマイチわかんないっていうかさ、なんかそういう人って信用できなくない? たぶん、素の性格わるいよ。絶対」そう言った女の顔をさりげなく見てみると、ピアスをしている。引き千切りたいような感情をそっとしまって、だまって何人か先の奴が缶コーヒーを取り出すのを見ていた。
「わかるわかる。なんか笑ってるくせにバカにしてるみたいなさ。しかもこの間、井川クンと帰ってたんだよ! マジなにさまなのよ」とネックレス。井川という男は、この間窓から見えた奴かもしれない。
「あ、きいた? 井川クン、あの子に告ったら、断られたって…」と巨乳。
「はー? 意味わかんない。何それ、ムカツク。え、ほんとに断ったの!?」いきなり馬鹿でかい声を出すピアス。
「マジで。はっきり言って感じ悪くしたしー。井川クンに告られてなにことわってんの? みたいな。ウチらもなんかバカにされた感じだしー」巨乳。
それ以上聞くに耐えなかったから買おうとした缶コーヒーを断念して、少し担任に呼ばれて話をしたあと部室に向かったら、佐山が寝ていた。
ちょっと寒そうに見えたので、三年間着古してくたくたになったコートをぱさっとかけてやる。すこし身をよじって、枕にしている腕を伸ばし、コートを自分に引き寄せてすっぽりおさまりやがった。
イロイロしてみたかったけど、それ以上、なにもしない。
たとえ学校に俺と、この小さい後輩しかいなくても、俺は何もしないだろう。据え膳食わぬは男の恥じだが、据え膳に手を伸ばさぬのも、時によっては男の誉れじゃないかとも思う。
ウソをついた。そりゃただのいいわけだ。
要するに、俺はビビッている。恐がっている。それだけだ。
佐山のことは、好きだ。
だけどそれは、ふつうに付き合ったりするような「好き」ではなくて、もっと家族的な、そういう「好き」の部類に入る。だから佐山の前では気張ることもないし、かっこつけることも無い。
ふつう、好きな女の子の前だったら少しくらい見栄をはって注目されたいなんて思うけれど、佐山の前ではそんなことを思ったことも無い。
その佐山は、俺なんか気にもしないですぅすぅ眠っている。曇り空だったから、五時でもう窓の外は暗い。
彼女は要らない。家族が欲しい。
それは、いままでちゃんとした人付き合いをしてこなかった俺のたわごとかもしれない。
その点、佐山は努力した。笑顔を身に付け、明るく振舞い、クラスメイトと笑いあっていた。
「前向きになる」って奴を、ちゃんとこなしていた。
昔の俺とは大違いだ。俺は、佐山みたいにはできなかった。
言い訳をすれば、心の中が、表面で明るくふるまうごとに健康じゃなくなっていったから、俺は世に言う「前向き」にはなりきれなかった。
六時を回った頃になってようやく佐山がもぞもぞと目を覚ました。
「ぅんー、あれ、部室…。先輩、コート? って、あれ、先輩? なんでこんなところに入るんですか!?」と、寝こけていた後輩はがばっと起きるなりムカデを見るような目つきで俺を睨む。
久しぶりに間近で聞いた佐山の声の調子は、いつかの後輩の声でもなく、明るくふるまっていた佐山の声でもない。いままで聞いたことがないくらいにとげとげしく、俺を刺した。
「俺が毎日ここにいるの、知ってんだろ」
佐山が俺のコートをばさりと落とし、唇を舐める。
「知ってましたけどさっき先生に呼び出されてましたよね。フツーそのまま帰りません? わざわざいないときを見計らってきたって言うのにどうして先輩は邪魔するんですか。…あぁ、なるほど、先輩の動物じみた野生の勘で縄張りに侵入したわたしに気がついて「ここは俺の部屋だからお前みたいなのはさっさと出て行け」って言うことですね。わかりましたよ! すぐに出て行きますからっ! どうせわたしのこと、嫌ってるならさっさとそう言ってくれればよかったじゃないですか…。それを、あんな、回りくどいやり方で追い出したくせに、ちょっと戻ってみただけなのに…!」
声の調子が、痛々しすぎる。
「さやまっ!」と、気が付いたらダッシュで部室から出ようとしていた佐山に吼えていた。がっちり腕をつかんで、引き止める。
「行くな、待て。少しはなしを聞かせろ」
「…いやですよぅ。なんでこれ以上先輩と顔を突き合せなきゃなんないんですか、手、離してください」
「話せば離す。十分でいい。座れ」
「…十分で済むような話なら、別にしなくてもいいじゃないですか。どうせわたしは十分で済む人間なんですから」
そういって俺を見上げた佐山に、なにか、どうしようもないような感覚を覚えてぐらり・ぐらりと俺を揺らした。
このまま掴んでつぶしてしまいそうな、華奢な腕。赤くなっている額。濡れた唇、荒い呼吸。上下する小さな胸、怒りで上気した首筋。身体は小さいくせに高いプライド。
夕方の井戸のそこみたいな光を灯した、本気で怒って悲しんでいる涙の瞳。
暗い部室を照らすのは卓上蛍光灯と、電気ヒーターのオレンジ色のスイッチ。佐山が上がった息を整える吐息。俺の頭の中に響く、大音量の不協和音。
ぐらぐらする胸を必死に押さえながら、ゆっくり、佐山の腕から手を放す。肩を落としてうなだれる後輩、やり場をなくした腕を下ろした俺。
うるさすぎる沈黙が部室に満ちた。
しばらくして学校のすぐ上を通る飛行機の轟音で沈黙は破れ、「はぁ…」とため息をついた佐山は、俺に背を向けてふるふると頭を揺らした。
「…先輩。なんで、引き止めるんですか。私のこと、顔も見たくないくらい嫌いなんじゃないですか?」
「どうして、そんなことになってる。俺は佐山を嫌ってもいないし、追い出したりだってしていないはずだ。佐山こそ、なんで出て行った」
佐山の目に、ギラリと火ありが反射する。
突然置きっぱなしにしていたあのパンパンのかばんを引っつかみ、机の上に中身をブチまけた。バタバタと音を立てて本がこぼれ落ちていく。そして、「コレ書いたの、先輩ですもんね」と最後に落ちてきたルーズリーフを拾い、俺に見せた。─前向きいなるために必要なこと─とタイトルが付いた、あの覚書。
「その一・たぶん笑顔。ニコニコしていればたぶんナントカなるかもしれない」
「その二・最後まで話を聞いてみる」
「その三・自分から話しかける? 自分のペースとか話に持ち込めば、きっとうまくいく」
「その四・とりあえず人の言うことには同意しておく?」
「その五・頭から否定しない。婉曲、婉曲」
「その六・やはり笑顔」
「その七・先輩には、会わない。」
「その八・たぶん、居心地がよすぎて、ちゃんと頭が働かないし、素の言葉が出てしまうから。」
「その九・変わりたいのに、変わらなくても無条件で受け入れてくれる人のところへはいけない」
「その十・人付き合いは疲れるものと覚悟する」
一つ一つ、バカに丁寧に読み上げる。
「わたしがまぐろになりたい。前向きになりたいって行った次の日に、たまたま先輩より早く部室に行ったら、なぜか掃除用具のロッカーが半開きでこんなかばんが入ってました。わたしも先輩も掃除しないし、誰もあけないはずなのにかばんが入ってたら、当然先輩しかいないと思うじゃないですか。でもって、中身を見たら、いっぱい自分を変えるみたいな本が入ってたから、前の日の話を聞いて先輩がわたしに参考になるようにくれたと思ってたんです」
ルーズリーフを持った左腕を下ろし、俺を睨みつけていた視線も床に落ち、その左手から紙のつぶれる音がした。
「わたしは、嬉しかったんです。先輩が、ちゃんとわたしのことを考えていろんな本を貸してくれたんだって、思ってました。貸してくれた本を参考にして、先輩によく思われる「明るい後輩」になろうと思いました。でも、でも、このルーズリーフに…、先輩は…」
そこで佐山は言葉をなくし、再びムカデをいるような目つきで俺を睨みつける。
俺も負けずに、佐山の瞳を見返した。
「佐山。いまのは、本当の話だな。だとすると、この本とかばんも、そのルーズリーフも、俺がお前に仕向けたモノだって、そう言うんだな」
場の空気がチッと点火されて、部室中に蔓延した感情のガソリンに火が付いて燃え上がる。わかってる、わざと、火をつけた。
佐山は完全に俺があのかばんを用意し、ルーズリーフの内容を書き込んで自分に仕向けたと思っている。たぶん、今の佐山の状態だったらまともに誤解を解くのは、ムリだ。ただでさえ何故かひねくれまくった性格の後輩が、いつのまにかここまで痛めつけられて、怪我した動物みたいに俺に噛み付いている。この際、噛み付かれるだけ噛付かれてみよう。佐山が、きっと泣きつかれて、落ち着いてくれること待つ。
佐山は、俺の後輩だ。俺は、佐山の先輩だ。そしてたぶん、もっと近しい、家族にも似た、そんな関係だった。恋人ではなかったけれど、もう恋人である必要は、なかった。
佐山となら、きっと大丈夫だ。
そう腹を決めて、燃え上がる瞳で俺を見つめる後輩に、ギッタギタに噛ませるための腕を、差し出した。
「…先輩、それ、わたしがうそ言ってると思ってます? そしたら、わたし、どうしたらいかわかんないです。先輩以外に、誰がいるんですか。わざわざわたしが「明るい、前向きな人間になりたい」って言うことを打ち明けた翌日に具体的な「前向き」の参考を欲しいと思っていることを知った上で部室に先回りしてこのかばんと本とルーズリーフを置く人が、この世に何人いるって言うんですか。回りくどくお前のみたいな根暗でネガティブな奴は嫌いで見るのもいやだからさっさと本でも読んで目障りにならない程度に明るくなって目の前から消えてくれなんていってくる人なんて、先輩以外にいないじゃないですか!!!!! しかも、わたしが明るくなって話す相手ができたときに先輩のことが話題に乗っても大丈夫なように「笑いながら同意した」なんて親切にテンプレートな具体例まで書き置いて、そこまでしてわたしとの縁をぶった切りたかったんですかって感心さえしましたよ! …たしかにわたしは、自分でもいやな人間だってわかってました。それでも、そんな汚いやり方で人を遠ざけたりは絶対にしません。遠ざけるほどの友達もいないけど、人の弱みとか、大事にしてる思いに付け込んでぐさぐさにするようなことだって、絶対にしません! 先輩は、先輩はそうやってわたしを追い出して、自分はのうのうと部室を占領してました。どうなったと思います? 先輩は、もちろんここまでちゃぁんと計算済みだったんでしょうね。わたしの居場所が、なくなるってこと。次の日から、先輩がくれた本を読んで、なんとかクラスに馴染んで居場所を作ろうとしました。明るく、前向きな女の子を振舞ってみましたよ。思いのほか順調に居場所ができて、何故か知りませんけどうまくいきすぎちゃいました。先輩の本のおかげ、です。居場所ができたはいいけれど、いっつもバカみたいに笑顔貼り付けて、それこそ先輩の書いたとおりにしましたよ。聞きたくも無い話を聞いてため息を無理やり笑い声に変えて、見たくもないテレビ番組をみて周りの話に合わせたりもしました。けど、どこにいったって神経はぎりぎりしてて、全然楽しくなんかなくて。前まで先輩の言ったことを、半分わざと後ろ向きに捕らえて「先輩はわたしに部活を辞めろっていうんですね」みたいなことは言ってきましたけど、心のそこから本気でそう思ったことなんてありませんでした。でも、そうしているうちは、他人と話すときみたいに神経が緊張することもなかった。先輩だって、毎回呆れた顔して「いや、ちがうから」って、決まったような会話をしてましたけど、先輩が本当にわたしを嫌っていたなんて、思ってませんでした…。それなのに、中途半端に引き止めたりして、残酷すぎます。そうやって先輩と、何の気兼ねもなしに、家族みたいに遠慮なく言い合えるのをちょっと楽しんでたのは、わたしだけだったんですか」
佐山の決壊が切れた。
「わたしがいままで生きてて心が一番楽だったときのことも、仕事と男のことしか考えてない母さんと酒びたりの父さんと家にいるよりもずっと安心できたのも先輩のおかげだったのに、全部。ウソだったんですか? 先輩がわたしみたいなのに付き合ってくれた話とか、時間とか、空気とか、全部先輩は嫌いな後輩にテキトウに愛想をふっていただけで、そろそろ卒業でだからどっかに消えてもらおうって、そう言いたかったんですね? ひどいよせんぱい。いいだけ餌付けしておいて、あとはポイだなんて。ひどいよ、最初ッからいってくれば、せんぱいに面倒くさいこと言ったりしなかったし、ひねくれたことしたり、変に甘えたりしなかったのに、どうして今まで黙って付き合ってくれてたんですか? どうしてそんな、残酷な…」
そう言っている間、佐山はずっと、俺の胸に頭突きをしながら、泣いていた。
「先輩だけだったのに…」
佐山が、俺のシャツを握り締めて、目をこする。もうぐしゃぐしゃで、俺を責める力もなくして、それでも額をぶつけてくる佐山の身体を、ぎゅっと、不器用に、引き寄せた、
「どうして…」
「俺も、佐山と同じように思っていたから、だ」
佐山が、俺に額をつけたまま首を横に振った。
「…嘘ですよ。じゃあなんで、追い出したんですか」
「…あれは、佐山に仕向けたものじゃない。ついさっき思い出した。だからまず、コレはわかってくれ。俺は佐山を、追い出したりしない。絶対」
俺の腕に収まっている後輩が、ひくとしゃくって震えた。
「それじゃ、なんですか。また、わたしの後ろ向きの勘違いだなんて、そんなこと…」
「わかってるじゃねぇか。その通りだ。お前の、ただの、勘違いだ。あれは、一年の頃の俺が前向きになろうとしたグッズを誰も空けない掃除用具箱に突っ込んでおいたのを、俺が忘れてお前が見つけただけの話だ。怒っていい。昔好きになった不良の先輩の気を引くために、なんとかしようとした、名残だよ。結局その先輩とは、一回だけ寝ただけだ。「あんたじゃないあんたと、付き合う気はないから。悔しかったら、きちんと「自分」でぶつかってきなよ」ってさ。それだけの、話だ。あんな本読んでたことも、あんなこと書いたことも、すっかりわすれてた。人間、いやだったことはすぐに忘れてしまうって、本当らしいな。だからさ、佐山が出て行く必要も、なんにもなかった。俺の、佐山への態度は、変わってないよ」
佐山が、ぎゅっと俺の胸に顔を押し付けて抱きついてくる。二つ下の後輩の、甘い香りが疲れた頭にしみこんできた。くたびれきった余韻の部室で、佐山の声がくぐもって聞こえた。
「…土台、わたしに、世の中一般で言う「明るい女の子」なんてムリなんです。明るい子になんて、なれませんよ。蛾は、蝶にはなれません。フランス語じゃどっちも一緒だなんていったらはり倒しますよ。わたしみたいな人間は、どうあがいたって、まぐろにはなれないんですよ」
「さやま…」
「勘違いとか、先輩に嫌われたとか、もう、疲れました。いっきに叫んでしまうと、あんがいスッキリするんですね。疲れてるだけかもしれないですけど」
「あぁ」
「せんぱい、まぐろには、なれないんですよ。わたしは。明るい、前向きな人には、なれなかったんですよ。だって、表面で笑ってたって、中身で笑ってなくちゃ、笑顔じゃないですから。前向きって、なれる人と、なれない人が、決まってるんですよ。きっと。どんな風なんでしょうね、前向きになれる人って。前向きに生きている人から見える風景って、どんな感じなんでしょうね」
そういって、佐山は俺から手を離し、一歩下った。それまで彼女と触れ合っていた部分が、灼熱のように熱くて、手をぎゅっとにぎってみる。
「お前さ、前向きの意味、わかってねぇよ」
そう、できるだけ静かに言ってみた。しょんぼりと立っている後輩をしっかり見据えて。
「…うるさいです。前だってキチンといえなかったくせに。教えてくださいよ、前向きの意味。ちゃんと話してくれたら、たぶん、ちゃんと、なりますから。これから、うまく、まわるような気がしますから」
そういった佐山の口調は、もうさっきまでの火のついた声じゃない。
深呼吸して、頭をめぐらせた。
「佐山。笑うことが前向きじゃない。みんなでわいわい明るくふるまうことが、本当の意味での「前向き」じゃないんだ。考え方が後ろ向きだって構わない。要は、心が健康か、どうかなんだよ。心が健康なら、いくら後ろ向きな奴だって、ちゃんと明日を見すえて生きていける。心が健康じゃない奴は、どんなに明るくったって、ちゃんとは生きていけないんだと思う。人ってさ、その人の本質、素のままでいるときが一番いい表情してるんだって、知ってるか。お前の、不機嫌そうな、なんだか文句ありげな顔。部室にいるときに俺に見せる顔。変に作った笑い顔よりも、俺と話しててむくれたときの表情が、一番、佐山だった。一番自分らしくいられるときが、「前向き」って奴になれるときだ」
「…なんですか、それ。それじゃずっと不機嫌でいろって言ってるみたいじゃないですか。そんな子と言ってわたしのストレスw増大させてノイローゼを発症させてここから追い出そうっていうことですね。わかりましたよ。出て行きますから」
そういったくせにもう一回頭突きうをしてきた佐山の顔は、不機嫌そうな、なんだか文句ありげな、それでも、一番力の抜けたいい表情だった。
「佐山、ちゃんと勉強しておけ。いいか、今のおまえの成績からいうと、1日六時間、それをつづけろ」
「なんですか、それ。わたしが先輩の前にいると目障りだからだまって部屋に引きこもって勉強してろって、そういうんですね。しかもそんなに勉強したら、ノイローゼで死にます。遺書には先輩のせいだって書いておきます」
「なんでそうなるんだ? おい、よく聞け。てめぇが俺の大学に来るには、それくらいの努力が必要なんだよこの数学評定ギリギリ2の野郎が。俺がないしょで補習手伝わなきゃ留年だったろうが」
「…わたしは野郎じゃありません。しかも補習は先輩が勝手に手伝いにきただけです。それになんでわたしが先輩のいる大学に進まなくちゃいけないんですか。ムリに決まってるでしょ。偏差値30ですよ、わたし。先輩の大学、偏差値いくらか知ってます? 70です。あーもーどうして卒業式だっていうのに感傷的な話もできないんですか。先輩のやぼ」
「お前、卒業式なんだからウソでも「先輩のいる大学にいけるように、わたし、頑張ります」とか可愛げのあること言えねぇのかよ」
「わたしがそんなこというように見えますか? しかも合格発表は明日じゃないですか。なにをもう合格した気分でいるんです? 落ちてるかもしれないのに」
「………」
そとで、他の卒業生たちがわいわい騒いでいて、すこし離れた部室にはあの独特の雰囲気がうっすら漂っていた。卒業式の、微妙に香ばしい、そんな空気。
「先輩、大学は別にしても、もう毎日は、会わないんですもんね」
机に腰掛けた後輩が、いつの間にかまた真っ赤にしためで、俺を見上げている。
「あぁ」
おれも、たぶん、目が赤い。仕方が無い、卒業なんだ。
「でもまぁ、別にさみしくはないです。先輩に彼女ができても、わたしが留年しても、先輩は先輩だし、わたしはわたしです。どんなに表面が変わっても、状況がかわっても、時間がたっても、それは変わんないって思ってます。「先輩」と「わたし」の関係って、まぐろが生まれた場所からどんどん遠ざかって、世界を巡っても、いつかちゃんと自分の生まれた海に戻っているような、そんな感じだと、思い込みます。…わかりにくくていいんです。本能っていうか、自分の奥底でわかってるような、ねぇ、故郷みたいな、家族みたいな、そんな感じの…」
俺と佐山の二人だけの部室に、春の風が吹き込んだ。
たぶんいま、俺たちは前向きだ。
「佐山。すしを食いにいこう。まぐろを食べよう。 俺がおごるから」
「はぁ?」と眉間にしわを寄せた後輩を、本当の家族にしようと思った。
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