-小麦粉記-

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図書室にアンプ~中條~



『図書室にアンプ』

 そもそも、図書室というのは『静かにする』ところであって、『本を読む』だったり『勉強する』だったりすることはいいとしても決して大声で怒鳴りたてたり大音量を響かせたりする場所じゃあない。当然だ。そんなことをしたら司書室にいる英語教諭 元咲絵里子(25)が「なんだなんだなんだぁ?」といつもの口癖+こめかみに青筋たてて金属バッドを片手に飛び出してくるだろうし、ほとんど誰も来ない図書室における常連にして唯一の利用者である青柳三鈴(18)もそんなことをした奴をただじゃおかないはずだ。いつか卒業していった誰かが残した『図書室はお静かに』なんていうことをかわいいレイアウトでかいた画用紙も、無言のうちに抗議をするに違いない。たとえ長年の直射日光によって色あせていても、そのメッセージに遜色はない。

 もともと、『アンプ』というのは『増幅する』というような意味合いの英単語で、とりあえずエレキギターとかベースとか、そのあたりの楽器の出力としての使われ方が一般的だと思う。例えばギターとアンプをシールドでつないでボリュームを調整し、大きな音を出す。難しい話をしたら長々となりそうだけど、とりあえずは『アンプ』を知らない人にそれが何たるかを説明するにはそれくらいがベストだと思う。電気な楽器の音を出すスピーカー、と言ってもいいかもしれない。(正確には『音量つまみ』の無いものが『スピーカー』で、音量つまみのあるものが『アンプ』という区別らしい)大きいものはコンサートやライヴで使う巨大なものから、小さいものは手のひらに乗るくらいのアンプもある。どれにしても『音を出す』ことには変わりない。居場所としてはコンサート・ホール、ライヴ会場、スタジオ、それに学校にある軽音楽部の部室とか、個人の家とか、いろいろだ。
 この『アンプ』、実際に使ったことのある人でなくてもよくわかると思うけど、かなりでかい音を出す。あたりまえだ。音を増幅させる機械からでかい音が出なけりゃ詐欺である。狭くて汚く、アンプが何台かとドラムとキーボードとギター・ベース・ヴォーカルが入ればもはや歩く隙間も無いボロスタジオで練習したり、小さいライヴハウスの最前線で三時間もガンガン聴いていれば二日は耳がよく聞こえなくなるなんてことはざらだ。
 だからいくら『表現の自由』を掲げたとしても『公共の福利』の観点から鑑みて、図書室という静かにすべき場所で『アンプ』を持ち込んだりスイッチを入れたり、ましてや楽器をつないで例えば泣きのギターをかき鳴らす、なんてことをするべきではないことは一般的な常識だ。あくまで『アンプ』を使用するのは、防音設備の整った場所や大きな音を鳴らしても問題の無い場所に限られるべきである。

 最近は豚もペットとしての市民権を得つつあり、ミニブタなんかはセレブなマダムに飼われてパールなアクセサリーを身に付けることもあるのかもしれない。たぶん、あるんじゃないかと思うな。きっとそのときにこそ『豚に真珠』のもう一つの意味合いが実態を得るのかもしれないけれど、そんなことを考えるのもまた『無意味』だ。
 その点、『図書室にアンプ』というのは、なかなかに斬新である。
 どちらも『誰か』が『何か』を『表現』するための『アウトプット』の結果であり、前者はそれを収集・保存・公開し、後者はそれをカタチ(というか、音)にしている。
 似たもの同士であるのに、お互いの特性から絶対に相容れない存在だ。CDがある大きな図書館でヘッドホンをつけて音楽を鑑賞したり、たくさんの本がある個人の部屋でギターを弾きまくるというのとは訳が違うぜ。
『図書室にアンプ』だ。

 元咲先生は何も言わずに俺を見つめた後に本気か冗談か内線で保健室へ電話をかけて養護教諭を呼び出そうとしたし、青柳は読みかけていた『夢野久作全集二巻』をパタンと閉め、いつもの醒めた顔にさらに冷たさをブレンドしたような表情で俺を眺めていた。

 静かな図書室にいて、心地のよい空間でモノを読むことを好む人もいれば、ライブを聴いたり、自分で楽器を弾いたりしてアンプのある場所にいて音を聴くのを好む人もいる。性質は違うかもしれない。けれど、両者の本質は似たものだ。たぶん間違っていないと思う。どちらも『表現』されたものを読み、聴くことが好きなんだから。
 しかしそれでも『図書室にアンプ』というのは、今の話を踏まえて五百歩譲ったところでありえない話だ。
 自分で『豚に真珠』のことわざを引き合いに出してるくらいだからそのくらいの自覚は持っているし、たぶん常識だって無いわけじゃない。ただ『中学生はエロ本を読んではいけない』という事が常識だということを知っている中学生はいても、積極的にそれを守っている奴はほんの少数なのは間違いないのだ。『常識』を『知っていること』と『従うこと』はまた別問題であると俺は思う。

 だから、例えばマジで『図書室にアンプ』を持ち込んだとしても、中学生がエロ本を読み漁って右手の上下運動に耽るのと同レベルであって、特に気にすることではない。するべきではない。俺はそう思いたい。
 だから、例えば台車から重たいアンプを下ろした先が、『三島由紀夫全集』のまん前だったとしても、中学生が初めて夢精したときのような微笑ましい出来事であって、黙ってみて見ぬふりをしてあげるくらいのことなのだ。
 ただし中には『中学生はエロ本を読むべきではない』などということを本気で考えている人もいるわけで、そうすると当然『図書室にアンプ』を持ち込むことに納得のいく説明を求める人も、いるわけだ。

「中條君。あたしさぁ、中條君ってバカな奴だとは思ってたけど、限度を知らないアホだとは思ってなかったな。だから図書室でタバコ吸っても、勝手に本を持ち帰っても、司書室のパソコンでエロサイトを開いててもなんにもいわなかった。けどさ、今回は申し開きによってはあんたに対する評価を下方修正しなきゃいけないかもしれないんだけど、その辺どう思ってる?」
 と、愛用の金属バットを杖のようにしながら話す元咲先生。いつも思うけど『竹刀』ならまだしも『金属バット』で殴られた日にゃただじゃすまないと思うんだけど、その辺教師としてどう思ってるんだろう。
 一方、青柳はあいかわらず腕を組みながら何も言わずに、俺が腰掛けている黒い箱を眺めている。少し長めの髪の毛が、耳からこぼれて顔にかかっている。
「とりあえず二人ともさ、途中で殴ったり蹴ったりは無しだぜ? いろいろと訳があるんだよ。訳が。俺だって『図書室にアンプ』が似つかわしくないどころか先生に対しちゃ喧嘩売ってると思われてもしゃあないことくらいはわかってる。別にいきなりこのアンプにギターをつないでフィードバック奏法をやらかそうと思ったわけじゃないし、このベースもシールドが接触不良で音も出ないしさ。ちょ、先生、バット構えんなよ」


『図書室にアンプ』



 木曜日。週一回の登校日で、教室の掃除と担任の「じゃ、風邪引くなよ。また来週」という不真面目な帰りのホームルームを終え、いつものように図書室へと向かう最中だった。
「中條、ちょっと頼みがある。前に俺たちがお前にどんなひでぇことをしたかを忘れたわけじゃない。どの面下げて、って思うかもしれないけど、頼れるのはお前だけなんだ。マジで、頼む。橘光紀、一生の頼みだ!」
 と、昔組んでいたバンド仲間の橘が、やたらと悲壮な顔をして俺のところに駆けつけてきた。たぶん図書室の前あたりで待ち伏せしてたんだろうと思う。
 橘が無理やりつれてきたのか後ろのほうで小倉もいたけれど、奴はイライラとした顔のまま、俺のことを睨んでいた。半年以上疎遠になっていた、というよりはお互い避けていたのをなぜまた俺と関わろうとするのかがよくわからなかったものの、それでもバンドがうやむやのまま俺が抜けるまでは一番仲がよかった橘の『一生の頼み』とやらを聞かずに無視するほど俺の精神は強靭じゃない。
「どうしたのさ。またツケの代金を支払ってくれなんていわれても、さすがに今回はムリだよ」
 すこし意地の悪い返答をすると、案の定橘は顔をしかめた。
「う、すまない。あのことは、マジですまないと思ってる。だから顔を合わせるのも避けてた。ぶっ殺されても仕方が無いと思ってる。というか、そうされたほうがよかったかもしれない。その件については好きにしてくれていいんだ……今回はそういうことじゃないんだけど……とりあえず話だけでも聞いてくれないか? 頼む」
 昔の爽やかな橘だったら、こんな話し方はしなかった。そう思いながらも「廊下で話すのもなんだし」と近くの理科準備室に向かった。古くなったドアノブは、力任せに回すと難なく磨耗して古くなった鍵が簡単にぶっ壊れ、ドアが開いた。
 理科準備室の机にあったビーカーやらフラスコやらを中身ごと窓の外に放り投げ、開いたスペースに腰掛ける。橘も俺に倣って向かいに座り、小倉はなにやらブツブツと呟きながら壁に寄りかかっていた。
「それで、頼みごとってのはなんだ? なんだかしらないけど、あんまり俺に期待されても困るな」
「いや、ムリにとは言わない。聞いてくれるだけでも構わないさ。今は、中條が俺の話を聞いてくれるっていうだけでオレは嬉しいよ。正直、無視されるか怒られるかと思ってた」
 もう昔みたいに気軽な話なんかはできないほど橘と俺との間に溝があることがはっきりわかって、少し落ち込んだ。
「お前も知ってるかもしれないけどよ、俺等が卒業したら軽音部が取り潰されるんだ。それは仕方が無いってのはわかってる。どうせ後輩もいないし、いまさらこの学校でバンドを組む奴なんていないと思うしさ。したらよ、あの部室が空いちまうってことで、吹奏楽の連中に譲ることになったんだ。一応あの部室、普通の教室使ってるけど吸音材とか貼っただろ?」
「あの部室は昔から吹奏楽が目をつけてたからなぁ。神崎の奴は俺が抜けた頃からいろいろ手を回してたみたいだ。その前からも軽音に入りたいと思ってたりした新入生にあることないこと吹き込んで吹奏楽に引き込んでたし。実際俺たちも素行がよかったわけじゃないし、学校としてもさっさと潰したかったんじゃねぇのかな。軽音が部屋を『譲る』、というよりは『接収される』って感じだろ」
「確かにそうだ。で、部屋の明け渡しが明後日までなんだ」
「明後日?」
 そりゃまた早すぎる期日だ。それにまだ卒業までしばらく日数はある。
「たぶん、神崎がうるさくやったらしい。「新入部員を見込んで新しい楽器を買ったから、その分スペースも欲しい。今年のコンクールも全国大会まで後一歩だった。地区大会で銅賞だったウチの高校も、進学以外での知名度も上がる。試験を受けに来る生徒も増える。それに引き換え軽音楽部は学校の面汚しだし、奴等に部室をやりぱなしにしておけば、卒業までにまた何かやらかすかもしれない」なんてことを教頭に進言したって、用務員の遠藤さんが言ってた」
「なるほどね」
 神崎のやりそうなことだ。奴の顔まで目に浮かぶ。きっと『卒業した後も後輩や学校のことを気にかけるような模範的な優良生徒』の表情を使って情熱的に訴えたに違いない。性格はともかくも可愛い顔立ちなことは認めるにやぶさかではないし、ちょっと色気を使ったりでもしたら教頭なんてホイホイだ。神崎が国立大学の推薦をもらったのも、教頭その他数名の教師が何枚か噛んでいるというのを聞いたことがある。みんな、神崎の手のひらで踊らされていることに気がついていない。
 窓の外から、駐車場でロングトーンの練習をしているホルンとトロンボーンの音が聞こえてきた。まだ寒いのに、マジメだねぇ。
「一応部屋はほとんど片付けた。譜面台は全部連中にやればいいし、ソファとかマイクとかはもともと学校のだからほっといた。ドラムセットは斉藤の私物だから持って帰ってもらったし、ガラクタも全部売るか捨てるかして片をつけた。持ち主不明のベースが一本残ったけど、それくらいならまだいい」
 そこで橘がいったん言葉を切った。
「中條に頼みたいのは、最後に残ったやつでさ…」
 譜面台、ソファ、ドラム、ギター、ベース、キーボード、エフェクター、マイク、シールドの束、エロ本、小型テレビ、ポータブルDVDプレイヤー、エロDVDの詰まったCDケース、スコア、コンドームの箱、その他ガラクタ。軽音の部室にあるものといえば、そのくらいだ。あとは、
「ベースのアンプだ」と、壁に寄りかかったままの小倉がはじめてはっきりとモノを言った。
「あのクソデケェベースアンプだよ。林の野郎がどっかからもらってきたアンプが、どこへもいけねぇで部室でデンと鎮座してやがるんだ。林は冬休みあたりから連絡がつかねぇし、たとえコンタクトが取れたとしてもあいつはボロアパート住まいだ。とてもじゃねぇがアンプを置く場所なんてある以前に部屋にはいらねぇ。他のアンプは全員持って帰った。俺の部屋も自分のキーボードとアンプで満足に歩けやしねぇし、他のみんなもおんなじようなもんだ。どこかに運ぶにしても、あのサイズだとそうそう簡単に置かしてくれるところがねぇし、お前の部屋もムリなことはわかってる。けど、明後日までにはあの部屋から運び出さなきゃ、また神崎がらみで教頭からどんなイチャモンつけられるかわかったもんじゃねぇだろ?」
 小倉が、その痩身を俺のほうに傾け自嘲的な薄ら笑いを浮かべながら、空のフラスコを手に取りホルンとトロンボーンのタンギング練習が聞こえる窓の外へと思いっきりブン投げる。三秒後にガラスの割れる耳障りな音とそれまで鳴っていた金管楽器の音が止み、代わりに女の子の悲鳴が聞こえてきた。
 一瞬、理科準備室に沈黙がおりる。
 橘と顔を見合わせた。次に二人で小倉のほうを振り返る。
 なんとなく、三人でニヤッと笑った。そのニヤリ笑いはいつの間にかクスクスへと変わり、「せんぱぁい! あそこの窓からなんか落ちてきたぁ!」という声が窓の外から聞こえたときにはいつの間にか下卑たゲラゲラ笑いに変っていた。
 小倉がタバコとドラッグのやりすぎで痩せた身体に似合わないおおきな声で話し始めた。
「吹奏楽の連中ってのは、どうしてああもガキ臭くてくだらねぇんだ? あいつらは『自分の音楽』って奴がわかってねぇ。何故自分が楽器を演奏しているかなんて、きっと考えたことも無いぜ。今だってそうだ、何人かでぴったりそろった練習の繰り返しばっかり。先公に指示されるままにpianissimoからcrescendoまでみんなに合わせて吹いてるだけだ。楽譜をもらっても、そいつを自分の視点で考えることをしないで、みんなと同じ、息を合わせて、気持ちを一つに。ふざけてんのかっつーの」
 なんだか小倉は、いい感じでキマってしまっていた。彼の相変わらずキレた演説を、俺と橘は久しぶりに清聴することにする。たぶんそれは、さっき戻りかけた俺たちの関係の名残を、出来るだけ長く引き伸ばしたかっただけなのかもしれない。
「いいか? 中條、橘。一つの楽譜を三人が見たら、それぞれ三様の捕らえ方があるはずじゃねぇか。同じ演奏を聴いたって、三様の聴き方があるはずだ。絶対に、ただ一つの例外も無く同じ感覚を共有することなんてありえねぇんだ。気持ちを一つにすることなんて、絶対にかなわねぇ。それをムリにあわせようとしたところで、それは個人個人の持っているイメージを削って似たようなものにしているだけの塊だ。例えばよ、『サボテンを作る』とかかれた紙と粘土を三十人が渡されて、三十人が『サボテン』を作ったとする。そいつらは全てみんな『サボテン』であるにもかかわらずただの一つとして同じ『サボテン』になることはありえねぇ。だがそれを、全員一緒のみんな同じようなものにしようとしたら、たぶん一センチくらいの丸い粘土が三十個並ぶだけだってことは、目に見えてる。それは、たとえ『サボテン』だとしても見る価値の無いものに成り下がるぜ。それでも、個人が最初に作ったサボテンが自分のイメージするサボテンならまだいいがなあ、最初っから『みんなと同じサボテン』を作ることしか考えなかったら、だれも何も考えることをしねぇ。思考の放棄だぜ。考えることを捨てて、無知蒙昧のまま、せっかく『音楽』っていう『創造』をしているっていうのに誰も何一つとして『想像』していないわけだ。『サボテン』はただの丸い玉にしかならねぇ。例え指揮者がいたとしても、結果はそうかわりゃしねぇよ。少しばかり形の整った、個人個人の感じた突起をそぎ落として出来たただの塊だ。吹奏楽の連中がやってることは、そんなことだぜくそったれがよ! てめぇらはゲロクソだ! 音楽をやる資格なんてほとんど誰も持ってねぇんだよ貴様等はよ! そんなてめぇらに俺たちが必死こいて『音楽』をやってきた部室を渡すなんて考えただけでくそったれだぜ! 『自分』を考えない奴は人間失格だコラァ!」
 ガチャリと、理科準備室のドアが、開いた。
 激昂した小倉が俺の胸倉を掴んで、俺の顔とタバコ一本分の距離もないところで目を血走らせ、橘がのけぞっていたところだった。
 くしゅくしゅした髪がよく似合う、目と胸が大きい女が、
「…それでも、あたしたちは、みんなで一つの演奏をするのよ。気持ちは通じ合うって、あたしは思ってる。小倉がどう思ってるかは知らないけど、あんたたちみたいなのがやるのが『音楽』だっていうなら…あたしは『人間失格』でいいわよ。たった5人しかいないバンドだっていうのに、結局バラバラになってその『音楽』すら出来なくなるくらいなら、みんなで一つの演奏を目指して小倉のいう『自分』を考えることなく、あたしたちの『音楽』をするほうがましだもの。…さっき窓からビーカーかフラスコ投げたの、あんたたちでしょ。中條もいい加減このバカ連中とつるむのをやめたと思ってたのに、やっぱりアンタも同じような人間なんだ。人に心配かけさせて自分がよけりゃいいような。まぁどうでもいいけど、さっさとあのアンプ片付けてよね。明後日までだから。もし間に合わなかったら捨てるけど、あんたたちにはその方がいいんじゃない? じゃ、あたしは帰るから」
「神崎、」
 ガチャリと、理科準備室のドアが閉まった。
 三秒間の沈黙。
「こうなったのも、全部てめぇのせいだぜ、中條。お前が抜けなきゃ、こんなことにはならなかった。アンプの責任は、お前が取れ」
 そういって、急激にテンションを下げて俺の胸倉から手を離した小倉も、ドアから出て行った。
 理科準備室には、俺と橘が、惚けたように風に吹かれていた。


 しきりに謝る橘を無理やり帰らせた俺は、一人で軽音楽部の部室へと向かった。
 途中で教頭とすれ違い、お互いに遠慮なく露骨な軽蔑の視線を交わした他は、学校の様子はまったくいつもの通りだった。
 まだ高校の教育課程を残した一年二年は教師の書く板書をノートに書き取り、それが終わっていれば部活動に精を出したり遊んで歩いたり、受験の終わった、もしくは大学へ進学しない三年は残されたモラトリアムを談笑で浪費し、まだ二次試験がのこっている連中は最後の追い込みをかけている。
 ぬるい。
 三年間、何をやっても、高校なんてぬるい場所だ。
 神崎のいうとおり、たった五人しかいないバンドは、たった一つの出来事でばらばらになったし、無論もう音楽なんて流れなかった。
 橘は惰性でギターをやっていたようだけど、キーボードの小倉はアルコールとドラッグに漬かって、ドラムの斉藤は夢から醒めたように受験勉強にいそしみ、アンプを置いて行ったベースの林は、ふらふらとしながら最近どこかへ姿を消した。
 バンドがバラけた直接の原因であるヴォーカルの俺は図書室に引きこもり、青柳三鈴との会話も無い読書空間に居場所を求めた。
 それまでも頻繁に図書室へと通ってはいたし、それまでは何度か見かけたくらいのクールな美人で割りと名の知られた青柳が放課後の図書室に来ても、彼女の無駄口をひらかない性格のおかげで静かなものだった。
 たぶん、今日も図書室で夢野久作とか久生十蘭とか小栗虫太郎とかその辺の全集を読んでるはずだ。いつか青柳が珍しく口を開いたときに、面白い話を聞いたことがある。
 ─面白い本を読んでるとさぁ、ときどきどうしようもなくなるほど暴力的になることがあるのよね。中條はない? そんなこと。まぁいいんだけど。まだわたしはドラッグとかそういうのは試したことが無いんだけど、なんていうか、読んでてキマっちゃうときとか、そういうことが、たまに。本から顔を上げて見えるもの全部が新しく新鮮に見えて、それをわたしは全部ぜんぶゼンブぶっ壊したいって思うわけ。手当たり次第に心の中で悪態をつけて、手のひらは自然にグーになってる。物凄いストレス、ってうか精神的な負荷がかかってるのがわかるんだけど、それが愉しくてしょうがない。激烈にイラついてるんだけど、それが同時に心が高くに飛んでいくような快感なわけ。変でしょ、わたし。そんなときに眼中にもない男の子から告白されてもさ、どうしようもないわけ。だからついいっちゃったのよ。
「わたしと付き合うなら、週に一回はケツの穴にキュウリを突っ込むことになるけど、いい?」って─
 青柳三鈴の名前を有名にした事件が起きた次の日のことで、なぜかそれが俺に対する言い訳のように聞こえたからよく覚えている。
 剣道部の主将が、たくさんの人がいる玄関広間で青柳にコクったとき、彼女が振り言葉として言った言葉が「ケツにキュウリ」。それまでも『男になびかないクールビューティー』で有名だった青柳をさらに有名にした事件だった。『大衆の前でコクる』という戦法で連戦練磨だった剣道部主将もこれにはしばらく再起不能だったという話を聞く。青柳は男嫌いだというような噂もすぐに流れ、実はサディストだったというような話もすぐに広まった。青柳様にならキュウリを突っ込まれたいという輩も少数いたようだ。
 ただし図書室にいる青柳は、ただのすました顔をした美人で、それ以上でもなくそれ以下でもなく、歌わなくなった俺のことも別に構うわけでもなく、ただ本を読んでいた。

 昔は物置だったという軽音部の教室は、橘が言ったとおりにきれいに片付けられていた。
 俺がいたころはいつだってカップラーメンの容器だとかエロマンガだとかそんなものでぐちゃぐちゃだったのに、いまは何も無い。みんなで金を出し合って買った吸音材を貼り付けた壁の落書きも消され、さっぱりしたものだった。
 部屋の隅にいながらも圧倒的な存在感を放つ、個人が使うにはいささかでかすぎるベースアンプをのぞけば、の話だが。
「どうしようか。ねぇ、アンプ」と、誰もいないことをいいことにいつの間にか夕日になっていた太陽に照らされているアンプに話しかける。脇にはベースが一本立てかけてあった。
 ペタペタとそのゴツイ表面に手をのせて、途方にくれるポーズをとってみた。
「お前のご主人様はどこにいっちゃったんだ? 林の奴に放浪癖があるのは知ってたけど、今回はよっと長すぎやしないか。可愛い彼女だっているのにさ、面倒ごとを残して消えるのは、ずるいぜ」
 面倒ごとから手を引いて、誰かに合わせることから逃げた俺が言えたことでもない。
「なんてことはなかったんだ。俺が、ただ黙っていつものように振る舞えば良かったものを、こわしただけだ」
 アンプは黙っている。当然だ。素面の状態でアンプの話し声が聞こえたら気味が悪い。
 強烈な西日が、教室の中を橙色にする。グラウンドに野球部の声が聞こえ、上の階からチューバの低い音が響いている。
 きっとこのまま、俺は何もせずに高校を卒業する。
 親戚の知り合いの従姉妹が経営する小さな貿易会社に就職が決まって、とりあえず月に13万の給料がもらえることは万が一が無い限り確実だ。
 それでも、どうにも心のほうは煮えきっていない。
 このまま終わってしまっていいものか。
 そういう思いはあるものの、別段何かをしようかと思っているかといえばそうではない。
 行き場をなくしたベースアンプに寄りかかって、行き場の無いもやもやした気持ちを遊ばせる。
 答えなんて、求めちゃいなかった。

「中條」
 と、無遠慮な声が聞こえて、いつの間にかうとうとし始めていた意識を声のほうに向けた。
「……神崎」
 首からストラップにつないだサックスを下げた神崎が、まぶしそうにしながら戸口に立っていた。
「入っても、いいかな」と、珍しく柔らかいというか丁寧な態度で俺に話しかけてくる。
「別に、どうせあと少しでお前ら…というか吹奏楽の部屋になるんだから、別に了解をとらなくったっていいだろ」
 すこしスネたように聞こえたのかもしれない。神崎は鼻で笑った。
「そのあと少しの間は、一応あんたたち軽音の部屋なんだし」
「でも、俺はもう軽音じゃない」
「それはあんたが勝手に思ってるだけで、他がどう思ってるか知らないだけじゃない? 少なくとも、橘と小倉は中條が帰ってくるのを待ってた。ヴォーカルを他から補充するっていうことは、考えなかったみたいだけど」
 さっきは怒っていたくせに、やけに気持ちの切り替えが上手い。
 手をかざしながら俺の隣まで歩いてきて、太陽を背にして窓に寄りかかる神崎。空っぽの教室には窓の枠を隔てて、長く伸びた神崎の影と、アンプと俺の影が並んでいる。俗に言う『いい雰囲気』というようなシュチュエーションになるのかもしれないけれど、俺と神崎じゃそういうことにはならない。
「さっき小倉に言われたこと、実はちょっと気にしてたりする」と、何の脈略もなく神崎が言う。
「自分の音楽ってやつ。もうすぐ卒業しちゃうけど、果たしてこのままでいいのか、悪いのか。吹奏楽部を、地区大会銅賞レベルから全国大会の一歩手前のブロック大会ダメ金レベルにまで上がったけど、自慢じゃないけどわたしがいなかったらそうはならなかったと思う。……いやな女だと思ってるでしょ。その通り、嫌な女です。成績とか人脈とかはいろんな計算してきたけど、部活に関しては滅私奉公。模範演奏を完璧に頭に叩き込んで、硬貨を作る鋳型のような枠を作り上げて部の連中をぎちぎちに詰め込んでやった。出来上がったのは統率の取れた演奏。ノウハウは今の部長に残してあるから、たぶん来年は全国に進むはずね」
 そこで神崎は、一度言葉を切った。
 俺は、アンプを撫でながら黙って話を聞いていた。
 実のところ、神崎とこんなに長く、落ち着いて話を聞くのは、三年間で初めてだったりする。
「部活を引退した後も、今もこうして練習に首を出したりしてるけど……一度離れてみたら、なんだかばかばかしくなっちゃってね。小倉にはカッコつけたこといったけど、みんな自分で考えようとしない、くだらない演奏ばっかり。『思いを一つに、気持ちをこめて』なんて合奏の前にみんなで斉唱するんだけど、『思い』も『気持ち』も、『考える』もんじゃなのよ。小倉の言うとおり、『自分の音楽』を持ってなくて、それはあたしも同じだった」
 神崎が、俺のほうを向いた。
「アンプ。はやくどこかに片付けてよね。あと、三日だから」
 そのまま、神崎は部屋から出て行った。
「なんだか、ヘビィな話をきいたな」と、俺はアンプに話しかける。
 当然、アンプは答えない。


「というわけで、少しの間だけでいいから図書室にこのアンプ、置かせて欲しいんだ。元咲先生には悪いと思うけど、この図書室たってほとんど人来ないじゃないか。もう今日でリミットなんだ。ここにおいてもらうか、さもなくば廃棄処分。しかも粗大ゴミ料金俺持ちで。だからさ、頼むよ」
 「吹奏楽が軽音の部室を奪ったからアンプの行きどころがない」という説明を聞いて、かちりと凍ったように動かない元咲絵里子(25)彼氏イナイ歴10年。
 青柳はさっさと興味をなくしたのか、アレだけ凝視していたわりにはアンプから目を離して帰りの支度を始めている。
「本当にいろいろ探したんでしょうねぇ。どっかで引き受けてくれるところ、本当にないの?」
「あったらココにはきませんよ。こんなにでかいと運ぶのも軽トラ使わないといけないし」
 ホントはたいして探していない。三日前に神崎の話を聞いた後に、ポンと思いついただけだ。
「はぁ。図書室にアンプだなんて、こりゃまた教頭に知られたらネチられそうなネタねぇ」
 そういいながら元咲先生は司書室に引き返して行った。なんだかんだ言って、三年間いつも見方をしてもらって、今もまた、もう卒業するっていうときに持ち込んだ面倒も引き受けてくれる。そのうち恩返ししなきゃならない。
 そんなことを思いながらアンプを固定し、ついでに壊れているらしいベースも立てかけ、かばんを取ろうとしたところで青柳が俺のことを見ているのに気がついた。
「……、どうした?」
「んー。あのさ、中條」
「あ?」
「そのベース、もしかして『いらない子』?」
 青柳、妙な例え方をする。
「一応持ち主は不明だし、なんか壊れてるみたいだから青柳の言うとおり『いらない子』と言いやあ、『いらない子』だけど」
「じゃあ、わたしがもらっても問題ないよね」
「あぁ、いいけど……」
 青柳が、ベースを? どちらかというと清楚なイメージや、いつもの本を読んでいる姿しか観たことがないせいか、どうも青柳とベースがうまくかみ合わない。俺の勝手なイメージといえば、それまでだけれど。
 そうこうしているうちにさっさとベースを持ってきた青柳だったが、かばんとベースを並べてピタリと動きを止めた。
 大体考えていることはわかる。
「中條。このベースさ、ソフトケースないの? これじゃあ持っていけない」
 案の定だ。
「ちょっと来いよ。吹奏楽の楽器庫を間借りしてたスペースにふたつくらい余ってるはずなんだ……」
 青柳は、「ふぅん」といいながら俺の背中の真後ろについてくる。


「で、次はどっち」
「右」
「了解」
 やり取りする言葉は、かなり短い。単語レベルだ。三歳児だってもう少しましな会話をするんじゃないだろうか。
 バンドを抜けて図書室に引きこもった頃からやたらといっしょになる時間が増えていたとはいえ、青柳と三分以上続いた会話は無い。青柳の無駄口を開かず、俺も受身な会話が多い性格なのもあるが、俺と青柳の話のネタの少なさも一役買っている。
 何より、俺が青柳のことをほとんど知らないのだ。
 こっちは高校に入ってからずっとマイクをにぎって叫んでいただけだし、青柳と一緒のクラスになったことも無ければ、すれ違っても目もあわせなかった。俺だって健全な男子なので下半身に脳味噌があるし同学年の美人の名前と顔くらいは知っていたけれど、成績優良素行良好浮ついた噂の一つすらないクールビューティーが、成績不良素行不良暴力沙汰は数知れずの俺のことを知っていたかはかなり疑わしい。
 それでもいつの間にか青柳は俺のことを、さもずっと前から読んでいたように『中條』と呼び捨てにし、なぜか今もこうして並んで自転車を押している。
 壊れているベースが入ったソフトカバーのストラップが服越しい食い込み、ちょっと肩を揺らして位置を変えた。青柳がこれを背負って自転車に乗るのは、たぶんかなりきつかったはずだ。
『重たいからさ、俺が担いで、家まで持ってってやるよ』というような俺の提案は、人間として間違っちゃいない。そう思う。なにも家まで送ってあわよくば送り狼……なんてことは考えてない。
 日はもうすっかり暮れている。高級住宅が立ち並ぶ整理された街並みが藍色のもやに飲まれて、他の地区にらべて狭い間隔で並ぶ街灯が、まだそこまで暗くは無い道をぼんやりと照らしていた。そこを、なぜか自転車に乗らずに手で押して歩く青柳にあわせて、俺もベースを肩に自転車を押す。それが青柳なりの『ベースを肩にかけて自転車は運転しづらいのでは』という配慮だったのならうれしいけれど、肩の痛みを考えれば、別にベースを担いだところで運転の妨げにはならない自転車でさっさと行けば良い。青柳だってまさか毎日自転車を押して帰っているわけでもあるまい。
 けれど、まぁ、美人と一緒に学校帰りをゆっくりするのも、かなり悪くなかったわけで
「それじゃ、ありがと、中條」
 と「ここが家」とも「もうすぐつく」とも何にもいわずに、突然大きな家の前でベースをもどすよう手を差し伸べられたときは、それなりに名残惜しかった。肩にかかる痛みと重みと、青柳とのほぼ無言の帰り道がgive and takeならば、それは良いgive and takeだ。
「青柳」と、最後に一度くらいはまともな会話をしようと、ドアノブに手をかけた青柳に声をかける。
「……なに?」
「そのベース、壊れてるって知ってるんだろ? そんなものもらって、どうするのさ」
 一瞬、の、間。
「いいじゃない、別に。それとも、理由を教えなきゃ持ってきてやったことの割りにあわないとか?」
 ショートの髪が、振り返りざまに揺れる。……顔に似合わず、ひねた奴。
「いや、そうじゃないけど。ただ単に、どうするのかなって」
「………」
 しばらく(といっても10秒くらい)ドアを開いたまま青柳は黙り、ほとんど引きずりそうなベースをずり上げ、
「中條。ウチ、上がってく?」
 と、ずいぶん大胆なことを言った。
「………」
 それは、さすがに、まずくないか?
「冗談だけど」
「………」
 冗談、
「じゃあね、中條。また明日、10時には図書室、開けておいて」
 そういって、モノを飲み込む途中のような顔の俺を置きっぱなしのまま、青柳の家のはドアがカチャと閉まった。
 もしかして聞かれたくなかったことを聞いてきた俺を黙らせるための「ウチ、上がってく?」だったとしたら。
 それは、どうなんだろう。

 全く正反対の方向にある自宅に帰り母親の「おせぇよなにやってんだよ」という声を背中で聴いて、部屋で一発、青柳で抜いた。青柳で抜いたのは、初めてだったような気がする。
 その晩、青柳のアソコにシールドを突っ込んで、図書室においてあるベースアンプから流れる音楽を聴く夢を見た。


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