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大分県の国東半島、その付け根の御許山(標高647m)山麓の小椋山山頂に鎮座する宇佐神宮。全国約44,000社の八幡宮の総本社で豊前国一之宮。本殿は上宮と小椋山山麓に鎮座する下宮からなり、山麓には複数の社が祀られています。今回大分県を訪れた神社の中では、ツアーバスが一番訪れると想定した神社。想定に反し観光バスの姿はなく、食事処や土産物屋が軒を連ねる長い表参道に人影はまばらだった。表参道社頭、朱の明神鳥居と右に社標。社頭の狛犬。社頭全景。広い境内の参道には多くの鳥居が建つ、何れも額はない。鳥居左の由緒。全国四万社あまりの八幡社の総本宮。神代に比売大神が馬城の峰(大元山)に降臨された宇佐の地に、欽明天皇32年(572)に応神天皇の御神霊が八幡大神としてあらわれ、宇佐各地を御巡幸の後、神亀2年(725)亀山の一之御殿に御鎮座になりました。天平5年(733)比売大神を二之御殿、弘仁14年(823)に神功皇后が三之御殿に鎮祭された。皇室より我国鎮護の大社として崇敬篤く、八幡大神が東大寺大仏建立援助のため上洛、和気清麻呂が皇統護持にかかわる神託をうけた故事から、伊勢神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられている。宇佐神宮の散策マップ。丸の部分が表参道の大鳥居、歩いたルートを矢印で表しています。広大な社地、周辺には多くの寺社があり、見所も多く短時間で全てを参拝するのは難しい。神橋。寄藻川に架かる優雅な曲線を描く橋。神橋を過ぎ参道を進むと年代を感じさせる狛犬と鳥居が現れます。鳥居右に鎮座するのが黒男神社。(写真は三枚貼り合わせ)黒男神社全景。古くから大鳥居の外に鎮座し、八幡大神をお護りする武内宿禰命を祭神とする神社。檜皮葺で朱と白壁のコントラストが鮮やかな佇まい、長寿、忠誠、奉仕などのご神徳が授かれる。この鳥居から参道は更に続き、杜の中へ消えていく。表参道右は授与所、左奥に手水舎、左手前が絵馬殿。参道左に護皇神社、大尾神社に続く大尾参道が伸びている。授与所、御朱印はこちらです。参道左の菱形池には二つの小島があります。写真の小島には能舞台と木匠祖神社、その奥の小島には水分神社が鎮座しています。手水舎の水盤は大きさ日本一と書かれている。宇佐神宮の摂社春宮神社。春宮とは皇太子を指し、応神天皇の子である道稚郎子命が祀らている。室町以前に創建されたとされ、現在の社は昭和11年(1936)の再建。真っすぐ続いた表参道は祓所で二手に分かれ、左は上宮と下宮へ続く参道、右は八坂神社、弥勒寺跡にへ続きます。上宮に続く参道に建つ鳥居と酒納所。下宮に続く参道の鳥居と由緒。参拝当日鳥居は修復工事が進められていた。下宮由緒御祭神一之御殿 / 八幡大神(応神天皇)二之御殿 / 比売大神三之御殿 / 神功皇后下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810~824)に上宮の分神を鎮祭し創祀された。古くは御炊殿とも云われ、神前にお供えする御饌を炊く竈殿(下宮授与所)があり、農業・漁業はじめ一般産業の発展充実を守護する神。上宮同様歴代皇室はじめ国民の崇敬篤く、宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」とされるほど親しまれている。一之御殿には八幡大神を顕しになった大神比義の神霊が祀られた大神祖神社が相殿として奉斎されている。祓所から右手の参道を進んだ先の八坂神社。朱の玉垣で囲われた神域には二つの石の明神鳥居があり、神域には二本の巨樹が聳えている。八坂神社解説明治維新まではここには弥勒寺と称した薬師如来を本尊とした神宮寺が鎮座していた。この八坂神社は弥勒寺守護神としてお祀りされたもの。祭神は須佐之男命、別名牛頭天王と称する。疫病鎮静のため創建された京都・八坂神社と共に疫厄消除の御神徳で知られる。神仏習合における須佐之男命の本地仏が薬師如来であることから、八坂神社では悪疫退散を祈る鎮疫祭が毎年2月13日に斎行され、諸病災禍の祓除と国土安寧が祈念されて来た。檜皮葺流造の本殿、御神木の幹が大きいため小さく見える。蟇股の透彫りの龍はカラフルに彩られ美しい。弥勒寺跡。八坂神社の先にあり、礎石らしき石群が点在するのみ。そこには嘗ての伽藍を記した応永の八幡宮古図の写しが掲げられていた。講堂と金堂らしき姿が描かれ、その下に八坂神社の姿や北側(右)には多宝塔の姿があり、738年頃に建立された神仏習合時の伽藍が描かれている。修復中の鳥居をくぐり下宮へ。神門の先に見えるのが解説にあった竈殿(下宮授与所)にあたるのだろうか。神門をくぐって側面から八幡造りの社殿を見る。創建は810~824年頃とされ、左から一之御殿、二之御殿、三之御殿。現在の社殿は昭和16年(1941)に再建されたもの。同一の祭神をお祀りする上宮と下宮、上宮は国家の神として、下宮は庶民の神として崇められたとも云う。下宮から表参道に戻り、上宮に続く鳥居をくぐるとなだらかな石段が続く。参道の左右は樫や楠木を主とした杜が迫り神々しさが増してくる。参道右側の若宮神社。八幡大神の若宮仁徳天皇と四人の皇子が祀られている。上宮西大門前に建つ鳥居。よく見かける鳥居は、鳥居の柱を結ぶ貫と島木の間に額を付けるための額束が付きます。ここまで見てきた鳥居同様に額束がなく、柱上部に台輪が乗せられた宇佐鳥居と呼ばれるもの。中でもこの木造鳥居は有形指定文化財に指定されている。鳥居の先に見えている西大門は当日修復作業中。最近の工事シートは良くできており、門の姿がシートに描かれており遠目に見ると違和感がなく、一瞬かすみ目が酷くなったかと勘違いしたが、味気ない無地のシートに比べれば好感が持てる。西大門をくぐると目の前は本殿の西側にあたる西中門、拝殿にあたる南楼門はここから左に進みます。西中門脇の由緒。「祭神一之御殿 八幡大神(応神天皇)二之御殿 比賣大神三之御殿 神功皇后宇佐神宮は全国八幡社の総本宮、勅祭の大社であり、伊勢神宮につぐ宗廟、我朝の太祖として歴代天皇から崇敬を受けてきた。 私たちの先祖は全国各地に宇佐の八幡宮をお迎えし氏神や鎮守の社とした。神代の三神比賣大神が降臨された宇佐の地に、約1400年前の欽明天皇32年(571)、応神天皇の御神霊がはじめて八幡大神として現れ、各地を巡行後、この亀山に鎮まった。のちの弘仁14年(823)年、応神天皇の母君神功皇后をお祀りし三殿が鎮座した」南楼門。左の大きな楠木の脇には八子神社が祀られています。下宮同様、左から一之御殿、二之御殿、三之御殿と並ぶ。朱が鮮やかな南楼門は勅使門とも呼ばれ、この先の中殿、その奥に各本殿が横並びで建ち、西側から見ると前後に連なる屋根がMの形をした八幡造。本殿域左に北辰神社、春日神社、右側に住吉神社が鎮座しています。参拝を終え西大門前から参道を戻る。右側に下る脇参道があり、そこに鎮座するのが亀山神社。上宮の鎮座する小惊山(亀山)の山神、大山積命を祀る神社。参道を更に下り菱形池に出る。池の畔を左に進むと池の小島に水分神社が鎮座する。当日、菱形池に架けられた小さな橋が渡れず全景のみで参拝は出来なかった。水の神様高龗神をお祀りし他四柱が祀られている。対岸には写真の御霊水がある。往古から清水の湧く三つの霊泉があり、今も神社の祭典にはこの清水がお供えされる。自由に持ち帰れますが飲用不適なので自宅の神棚のお供えに使われます。菱形池の小島に建つ能舞台と木匠祖神社。赤い太鼓橋で結ばれています、この時期の菱形池は寂しい限りですが、時期ともなれば原始蓮が咲き誇るようです。ここから表参道に戻り大尾参道へ。大尾参道。毎年8月1日にはこの参道では欽明天皇の御代に始まった流鏑馬神事が行われる。大尾参道の遥か先には大尾神社の赤い宇佐鳥居と狛犬の姿が見える。ここから長い石段を登り、突き当りを左に行くと八幡大神を祀る大尾神社、右に進むと和気清麻呂朝臣命を祀る護皇神社が鎮座します…が随分遠そうだ。参道中ほどに鎮座する頓宮までとしよう。頓宮。菱形池の東に鎮座し仮殿、御仮屋とも呼ばれる御旅所。夏越神幸祭の際、三神は3基の神輿にのせられ、上宮から頓宮へ巡幸ののち遷御される。現在の頓宮は昭和7年(1932)に新築されたもの。古くは33年毎に式年遷宮が行われ、頓宮一帯は上宮、下宮、若宮の白木造りの仮殿が建てられたが、中世戦乱により次第に行われなくなった。新築される以前の頓宮は延宝8年(1680)に神橋付近に建てられており、昭和初期まで使用されていた。頓宮全景。祭礼以外はこちらに三神はおられません。上本殿は檜皮葺の流麗な弧を描く流造、夏越神幸祭が行われる間の2泊3日をこちらに祀られます。下神輿庫。三神が乗せられる3基の神輿が保管される。宇佐神宮、全国の八幡宮の総本社に相応しい歴史と嘗ての神仏習合の名残を感じさせる一之宮らしい風格のあるものだった。豊前国一之宮 宇佐神宮創建 / 神亀2年(725)主祭神 / 八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后境内社 / 若宮神社、水分神社、亀山神社、春宮神社、八坂神社、黒尾神社、他。所在地 / 大分県宇佐市南宇佐2859参拝日 / 2022/10/28関連記事 / 伽藍岳噴火口跡と地蔵堂塚原温泉から宇佐神宮車移動 / 県道616号線経由九州自動車道経由45分程
2023.01.31
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三重県桑名市住吉町「住吉神社」国営木曽三川公園「桑名七里の渡し公園」目の前には木曽三川の一つ揖斐川が目の前を流れる。神社は揖斐川堤防上に鎮座し境内からは揖斐長良の流れ、上流には長良川河口堤や遠く多度の山々を一望できる。古くは七里の渡し、蛤や白魚等の漁場、木曽三川がひとつに交わる地の利から物流の拠点として栄え、当時の様子は様々な地史の挿絵にも残されています。上住吉樋門。揖斐川の堤防に設けられた巨大な回転式の水門で内陸の住吉浦を結ぶ。2002年に設置されたもので、ここから少し上流に1902年に作られた木曽・長良の二つの河川を繋ぐ船頭平閘門がありますが、100年の技術の違いが至る所に見て取れる。下堤防内陸側の住吉浦に残る煉瓦蔵。三棟の煉瓦造りの蔵は明治20年頃に創建されたもの。当初は五棟連続の木造蔵だっと伝わり、明治28年に焼失し煉瓦造で再建されましたが、昭和20年の戦災で西側の2棟を失い現在の姿となる。こうした光景からも舟の拠点だった事が窺われます。上桑名七里の渡し公園の西側に建つ「六華苑」。西洋化に向け突き進んでいた頃の1913年に実業家の邸宅として造られた洋館、現在は文化財として公開されている。下堤に造られた七里の渡し公園、視界を遮るもののない景観の中に住吉神社が鎮座する。公園と堤防は県道で隔てられ、堤防側に大きな駐車場が確保されており、車の場合はここを利用するといいだろう。周辺マップ。鎮座地は右上になります。堤防沿いの歩道から見る住吉社全景。訪れたのは昨年の12/14、この日は寒気が迫る風の強い日で、空模様は猫の目のように変わり、黒雲は雪を持ってくるじゃなかろうかと思わせる陽気だった。風を遮るものがなく、吹きっ晒しの鎮座地は寒さが身に染みる。入母屋銅板葺の平入で本殿と拝殿が一体となったもの、棟には外削ぎの置き千木と5本の鰹木が施されています。遮るものの無い社殿はすっきりとした佇まいで、鳥居の立つ南東に向け参道が伸びている。社頭全景。左に住吉神社社標と一対の石灯籠があり、一ノ鳥居は明神、ニノ鳥居と三ノ鳥居は神明鳥居を構えています。燈籠の竿には天明8年(1788)に寄進されたことを伝えている。最新の長良川河口堤と3世紀前に造られた燈籠、大きな傷みもなく今も綺麗な状態を保っています。ニノ鳥居と左の建屋は休息所、雨雲が来たらここに避難だ。手水鉢(寄進年未確認)。住吉社の龍は立派な弧を描いた髭と角を持ったもので、目の周りを見ると随分とお歳を召された様子。住吉神社由緒から桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港「十楽の津」と呼ばれ、木材や米などの集散する商業都市として発展。ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から廻船業者が集まっていた。これらの人達により航海の安全を祈願するため、正徳5年(1715)、摂津の國「住吉大社」より勧請し「住吉神社」が建立された。社頭の石鳥居、石灯篭は江戸時代の材木商が、狛犬は明治中頃に備中や阿波の國の廻船業者により寄進された。近年、西船馬町鎮座の「玉重稲荷」を合祀、桑名宗社境外末社として西船馬町が奉仕。平成15年に揖斐川防潮堤の高潮対策として改修整備に伴い、社殿を新たに建替。往古より、元旦には初日の出が鳥居の真ん中から上がる光景は今も変わる事はない。伊勢大橋、多度山方面の眺めは、水郷桑名の趣があり七里の渡しと共に水郷巡りの拠点。住吉神社祭神 表筒男神、中筒男神、底筒男神。 息長帯姫命(神功皇后)。合祀 天照大神(明治40) 住吉町・東太一丸神明社(明治40) 倉稲魂命(玉重稲荷)例祭日 5月第三日曜日ニノ鳥居から社殿の眺め。ここから先の参道は提灯掛けが連なり、祭礼や初詣の時には多くの提灯が吊るされ、参道の趣は増す事だろう。左側に二つの句碑が立っていました。社殿全景。一対の白い狛犬が守護し社殿前に三ノ鳥居。白が冴える綺麗な狛犬。阿形は玉を咥え、吽形にはやんちゃな子が寄り添う、青空の下なら一層白が際立つだろう。寄進年を見忘れましたが由緒には明治中頃とありましたが、台座と比較すると白い狛犬は二代目か?社殿の額「住吉大明神」とある。大きな流れ沿いで海も近い鎮座地に相応しい神社。こちらへは志摩に向かう旅の途中で訪れたが、旅も航海の一つ、安全を祈願させてもらいました。こぢんまりとして瀟洒な外観の社殿。境内も綺麗に手入れされ気持ちよく訪れる事ができます。無人のため御朱印の有無は定かではありませんが、近隣の桑名宗社や桑名神社などで尋ねると何か分かるやも知れません。境内の句碑、地元俳句会が建立したもののようで、「水神に守られ冬も大河なり」とありました。まさに神に守られている地域です。境内から社頭の眺め。この先から昇る朝陽はきっと綺麗なものだろう。周りに遮るものがない社地だけに、朝な夕なは別の表情を魅せてくれるかもしれない。風がない時に再び尋ねよう。住吉神社創建 / 正徳5年(1715)祭神 / 表筒男神、中筒男神、底筒男神、神功皇后合祀 / 天照大神、倉稲魂命所在地 / 三重県桑名市住吉町公共交通機関アクセス / 近鉄桑名駅から東へ徒歩20分程関連記事 / ・北桑名総社 北桑名神社 (桑名市堤原7)・幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日・船頭平閘門と国営木曽三川公園船頭平河川公園の蓮・『住吉大社』青春18切符で大阪へ
2023.01.28
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名古屋は雪雲が流れ込み雪の舞う寒いではじまったツアーが中止になったからではないだろうが昨晩から「明日はCostcoに行こう」とかみさんが騒いでいた。家を出る頃は大したことなかった雪車の外気温時計は1℃を指していた雪のせいか普段は交通量の多い通りも妙に空いており10時にCostco守山倉庫店に到着した頃は結構な勢いで降ってきた店内も意外に人は少なく、かみさんの主食オートミールとサーモン等買い求め、店内を一回り。下は篭に入れられていた、フォーチュンロール40㌢ほどの黒い恵方巻の様なロールケーキ見た目は甘々のロールケーキだが一口食べるとほんのりきな粉の風味が漂い、時折姿をみせる黒豆が和テイストなケーキで結構おいしかった。※個人的感想…体調管理のオートミールとは真逆なんじゃない?とか思ったりもする。幸運の恵方巻、これがしばらく続く…という事だ、ハーフサイズがあってもいい。Costcoは安いんだか、高いんだか麻痺してくる。かみさん曰くCostco詣はレジャーらしい、gram単価で計り知れないものがあるようだ。雪の日のCostcoは道路も店内も普段より空いていました。
2023.01.27
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瑠璃光院から左京区南禅寺福地町にある南禅寺までは電車とバスを乗り継いで小一時間の移動。バス停から結構歩いて中門に到着。中門全景。時間は11時頃、活発に動き出す時間なので致し方ない。東寺、東福寺、瑠璃光院を訪れてきたが、紅葉の南禅寺の混雑は別格。門前の通りは駐車場待ちの観光バスやマイカーが数珠つなぎ、しっちゃかめっちゃか状態。これらを誘導する誘導員もこれでは大変だ。この中門手前の駐車場に拳龍池と呼ばれる小さな小池とその先に勅使門が建っています。勅使門は御所にあった「日の御門」を移築した檜皮葺の趣のある門。門前の駐車場に隣接しており、駐車中の車や途切れる事のない参拝者で全景を収めるのは諦めた。混雑する中門をくぐり広々とした境内に入れば、参拝者は分散するので入口ほどではなかった。参拝者の目的は皆同じ、紅葉を愛でに訪れる。思い思いの紅葉を写真に収め、海外から訪れた人には、赤く染まった山々とそこに建つ寺社の風景は思い出に残る事だろう、撮ってと頼まれればお気に召すまで撮ってあげよう。三門。永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進で建立された南禅寺の正門。応安年間に改築されましたが文安4年に焼失し、現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うため再建されたと云う。入母屋瓦葺で二層の五間三戸の二重門で左右に山廊が付くもの。南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で山号は瑞龍山と称し、釈迦如来を本尊とする寺院。建立以来幾度も火災に遭い、明徳4年(1393)、文安4年(1447)の南禅寺大火、応仁元年(1467)の応仁の乱など伽藍を失いますが、その都度再建されてきました。法(はつ)堂。伽藍の中心的建造物。建立当初の堂は、応仁、文明の乱で焼失し、文明11年(1479)頃に再建され、慶長11年(1606)豊臣秀頼により大改築を受けます。明治28年(1895)火災で焼失、現在の姿は明治24年(1909)に再建されたもの。堂内には本尊の釈迦如来坐像が祀られ、少し屈んで天井を見上げれば一面に天井画が描かれています。法堂天井に描かれた「幡龍」今尾景年(1845~1924)画伯の手により描かれたもの。天井でとぐろを巻き如意宝珠を掴んだ大きな龍がこちらを睨んでいる。本坊、大方丈。左側に杮葺きの大方丈、小方丈を連ねた建物。大方丈は内陣、御昼の間、鳴滝の間、麝香の間、鶴の間、西の間、柳の間、六畳、狭屋の間、広縁を持つ入母屋瓦葺。小方丈は虎の間、三室(九畳、六畳、二十畳)、広縁があり、庭園はさることながら室内の桃山時代に描かれた障壁画は見応えがある。残念ながらオリジナルは保存され、目にするものはデジタル画像を元に江戸初期から中期の色合いで復元されたもので、その描写は眼を見張るものがある。建仁寺の風神雷神図屏風もオリジナルは保存し、同様の技術で復元されたものが展示されていました。玄関を入った正面に祀られる韋駄尊天。因みに、御朱印、御朱印帳はこちらの本坊で頂きます。南禅寺大方丈庭園、前方は法堂。敷砂に描かれる箒目、陽が傾きだすと陰影が強調され一層はっきり浮き立ってくる。六道庭。方丈や小方丈の枯山水とは趣が変り、一面杉苔に覆われた庭に景石が配され、六道輪廻(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界)の戒めの庭とされる。華厳庭付近で見かけた手水は一枚の鏡、周囲の紅葉と花を水面に映し込んでいた。 本坊左に唐破風が印象的な特別な行事の時だけ使用される大玄関。常住とも呼ばれ衆僧の生活の場であり、寺務所でもある。最勝院山門。 疎水トンネルの手前に鎮座し、駒道智大僧正を祀るため創建された寺院。鎌倉時代の高僧「最勝院駒道智大僧正」は関白「九条道家」の子に生まれ、比叡山で修行した後に三井寺の管長、禅林寺の住持を務め、晩年はこの地に陰棲し、駒ヶ滝の地で入滅したとされる。寺名は院号を取って最勝院と呼ぶ事になった。入滅の地駒ヶ滝はここから200㍍程山を登ったところで、現在は奥の院となっている。明治末までは南禅寺寺務所あたりにあり、最勝院般若殿と呼ばれていたと伝わるが、大正6年(1917)に現在地へ移転した。額には「駒大僧正」とあり、堂内には駒道智大僧正が祀られています。南禅寺本坊の裏手にあたり、意外にここまで訪れる参拝者は少なく、静かで落ち着いた境内。水路閣。南禅寺境内の南東にある水路で、紀元前に造られ今も一部現役のローマ水道をイメージさせる。こちらは明治20年(1887)に着工、翌年竣工した琵琶湖疏水分線の一部。南禅寺境内を通すため景観保護に留意して建てられた煉瓦造りのアーチ橋。ドラマのロケでも使われる事から知名度があがったのかもしれない。京都市指定史跡、近代化遺産、琵琶湖疏水の一部として国の史跡に指定されている。急速に近代化を目指した頃の日本を象徴する建造物。現在身近に作られるものは総じてデザインは温かみのない無機質なものばかり、遊びと云うのか装飾と云うのか形容しがたいけれど何か温もりがない。南禅寺境内にあり、ロケ地で知られる場所だけで人は集まるのだろうか。遠く琵琶湖からこの水道橋に導かれた流れは、最勝院門前を流れトンネルの中に消えていきます。トンネルを経て水は更に下った流れていき、日本庭園や市内に分水されている。永観堂橋から分水された疎水の流れは、身近で見かける淀んだ水とは比べ物にならない。「川の汚れは心の汚れ」どこかで聞いたスローガンですが正にそう感じる。京都の流れはどこか心を癒すものがある。南禅寺の拝観時間は8:40からとありました、参拝は朝一番が静かでいいのかも知れません。群虎図を描いた南禅寺御朱印帳。南禅寺山号 / 瑞龍山開山 / 無関普門(大明国師)開基 / 亀山法皇宗派 / 臨済宗南禅寺派創建 / 正応4年(1291)本尊 / 釈迦如来所在地 / 京都府京都市左京区南禅寺福地町86参拝日 / 2022/11/25瑠璃光院から公共交通機関で南禅寺 / 約1時間関連記事 / 瑠璃光院
2023.01.27
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2023年1月17・18日、今年最初の一之宮巡りとして神奈川県鎌倉方面まで出かけてきました。大河も終わったし、春節前なら比較的空いているかな?そんな目論見でお国の支援を利用し訪れました。今回は相模国一之宮二社の巡拝。混むイメージしかない鎌倉です、目的地を詰め込まず時間に余裕を持ったスケジュール。なので新幹線も空いた列車を待って乗る、ノープランでの移動。名古屋を7時台の新幹線で発ち、新横浜から在来線で最初の目的地円覚寺の最寄り駅北鎌倉駅到着が10:00頃。駅前で見かけたマンホール、波を背景に山ユリと銀杏がデザインされているが、左下はなんだろう鳥か?円覚寺は駅を降りたすぐ左に総門が見えます。総門前の円覚寺解説。鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋から無学祖元禅師を招き、国家の鎮護と禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を敵味方の区別なく平等に弔うため創建された寺院。時宗は18歳で執権につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依したとされます。円覚寺の寺名の由来は、建立の際に大乗経典の「円覚経」が出土したことから来ているとされ、山号の瑞鹿山の由来は仏殿開堂落慶の折、無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まったという逸話から来ているようです。それを裏付けるかの様に境内の山肌にポッカリと開いた穴があり、白鹿洞と名付けられています。ここから白鹿達が出て来たんだねと感じさせる。総門全景。左に「北条時宗公御廟所」の石標と右に「臨済宗大本山 円覚寺」の寺号標。鎮座地は六国見山の南西の麓に位置し、山名から分かるように六つの國(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を見渡せるという。なのでこの総門と山門、弁天堂などは石段を昇る必要がありますが、主な伽藍へは平坦な参道が続いています。…鎌倉の寺社は石段が多かった、かみさんの某国製モニターによれば二日間で40階上ったと出ていた。山門前の石段を上れば山門だ。こうして見る門は天明5年(1785)に再建され、扁額の円覚興聖禅寺の文字は伏見上皇の勅筆によるものとされます。門は桁行(棟側)三間(柱間)、梁行(妻側)二間の入母屋二層で、柱だけの吹き抜け。正面の軒に唐破風が施されている。仏殿。本尊の宝冠釈迦如来を祀る建物。現在の姿は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、昭和39年(1964)に再建されたもの。堂内の宝冠釈迦如来と天井画。再建後に描かれた白龍図の天井画で、倒壊前の仏殿に描かれていたのかは分からない。意外に参拝客は少なかったが、すれ違う時に耳に入ってくる言葉は大国の言語が多かった。写真は仏殿付近で咲き始めた梅。円覚寺開山 / 無学祖元開基 / 北条時宗創建 / 弘安5年(1282)山号 / 瑞鹿山宗旨・宗派 / 臨済宗・円覚寺派本尊 / 宝冠釈迦如来所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内409円覚寺を後に徒歩で県道21号線を南東に向かい建長寺に向かう。円覚寺から約20分程で建長寺に到着。時間は12時頃、建長寺脇の天心庵で昼食を摂る。上建長寺発祥とされる建長汁と塩むすびのセット(990円)。もれなく鎌倉野菜たっぷりのデドックスウオーターが出され鎌倉らしい。店内から建長寺門前が一望でき、混み具合が一目瞭然。観光バスが着くと一時的に列ができますが、風のように過ぎ去り滞在時間は短いようです。下店内から併設された座禅堂を見ることができる。天心庵所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内7建長寺総門前。さて行ってみようか。建長寺の始まりは建長5年(1253)に遡り、先の円覚寺の創建より四半世紀前の鎌倉幕府5代執権北条時頼により建立された臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は地蔵菩薩。当初は多宝塔のある伽藍だったとされ、正応6年(1293)の鎌倉大地震で大半が倒壊、炎上。正和4年(1315)、応永23年(1416)等火災に見舞われ創建当初の建物は残っておらず都度再建された、しかし関東大震災でも被災し、その後修復された姿が健在のもの。創建当初のもので残るものは建長7年(1255)に鋳造された国宝の梵鐘が唯一残る。写真の総門に掲げられた「巨福山」の額、「巨」に点が書かれている、何気に読めてしまうところが怖い。山門。造りや外観は円覚寺山門と同様のもので「建長興国禅寺」の扁額が掛かる。現在の門は安永4年(1775)のもの。伽藍配置も円覚寺に通じるもので、山門の先には写真の仏殿が配置されています。正保4年(1647)に芝の増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋をこちらに移築したもの。内部に本尊の地蔵菩薩が安置されている。上仏殿前の香炉に施された龍?の飾り。下仏殿内。中央に本尊の地蔵菩薩と格子天井には鳳凰らしき絵が一面に描かれ、壁面や梁など緻密な透彫りが施され内部は見所が多い、しかし剥離や脱色が目立ち修復が必要な時期に来ている。法堂。文化11年(1814)に再建された入母屋二重屋根の関東最大の法堂。法堂内部は本尊の千手観音と建長寺創建750年を記念し天井に描かれた雲竜図が見応えがある。また球を握る龍の指を見比べると、こちらは5本指、円覚寺の龍は3本と違いがある。因みに焼失前の首里城の龍は4本、元々五本指の龍は中国皇帝のみ用いる事を許されたものらしいが、日本に伝来する過程で変容していったようです。円覚寺の天井画も素晴らしいが個人的にはこちらの雲竜図がお気に入り。総門から主な伽藍のある境内は石段もなく内心喜んだが、境内最奥部にあり、明治23年(1890)静岡県の奥山方広寺から勧請され、多くの天狗に守られる建長寺鎮守の半僧坊までの石段はきつかった。ここまで上れば南に相模湾と鎌倉市街地、西方向は運が良ければ富士山も拝めると云う。写真は半僧坊から建長寺の眺め。建長寺開山 / 蘭渓道隆開基 / 北条時頼創建 / 建長5年(1253)山号 / 巨福山宗旨・宗派 / 臨済宗建長寺派本尊 / 地蔵菩薩所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内8左の山を越えれば次の目的地「鶴岡八幡宮」だ、総門から県道21号線を南下し徒歩で10分程とグーグル先生は云うものの、上り疲れた足の事までは考慮してくれない。鶴岡八幡宮の今宮を参拝し、鶴岡八幡宮の太鼓橋まで30分を要する事になる。鶴岡八幡宮今宮。建長寺から県道沿いの緩やかな下り坂を進むと、鶴岡八幡宮の駐車場が見えてきます。そこから左の細い路地に進み、突き当りを左に進むと今宮が鎮座しています。位置的には鶴岡八幡宮本殿の裏山にある神域の大臣山西側になるだろうか。時間は14:15。鶴岡八幡宮の境外末社の今宮は、承久の乱(1221)で鎌倉幕府に敗れ、隠岐に流されその後亡くなった後鳥羽、土御門、順徳の各上皇を祀る。建立には宝治元年(1247)国中に広がった飢饉や疫病が上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために神社を建立したという。社殿は一間社流造で近年建替えられたようで全てが新しいものだった。鶴岡八幡宮境外の山の影で、参拝者もなくひっそり鎮座する佇まいは物寂しさがある。鶴岡八幡宮 今宮創建 / 宝治元年(1247)祭神 / 後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇所在地 / 神奈川県鎌倉市18では本日の宿に向かおう、その前に恐らく人で溢れる鶴岡八幡宮の様子見に。鶴岡八幡宮三ノ鳥居へは14:40着。この時間にしてこれ以上カメラを下に向けると、写り込んだ人を修正するのは大変だ。参拝予定は明日でしたが、参拝と御朱印を頂き、明朝改めて出直す事にした。太鼓橋右の源氏池に浮かぶ中の島に鎮座する旗上弁財天社。ここはまだそれほど参拝客も多くはなく、御朱印を頂くまでの間こちらを参拝。上現在の社殿は八幡宮御創建800年(昭和55年)に、古図をもとに復元されたもの。寿永元年(1182)、頼朝は若宮大路を造営、その際に琵琶小路に祀られていた弁財天を遷したのが現在の旗上弁財天社の始まりのようです。境内には頼朝の旗上げにちなみ、白地に二引きの奉納幟がはためいています。下社殿後方に回り込むと、赤い玉垣に囲われた一画に政子石が安置されています。頼朝が政子の安産を祈願したとされる陰陽石で、子宝、夫婦円満、恋愛成就の御利益があるという。かみさんと合流しニノ鳥居脇のホテルに向かおう。ホテルメトロポリタン鎌倉。ニノ鳥居の脇にありここを拠点に観光するならいいロケーション。建物や客室は新しく綺麗でサービスもそれなりに良く不満はない。ここからは個人の感想。朝な夕なの眺望が望める訳でもないので、朝食プラン付きで東向きの安価な部屋をチョイスした。ビジネスホテルと捉えると価格設定が高い。朝食は一階のcafe&meal無地で朝食となる。建長汁の付く和食をかみさん、おやじは洋食を選択したが、和食に付く鯵の干物は脂が抜け、パサパサで全く美味しくはなかった。野菜はフレッシュで良かった、パンの種類は少なかった。口コミは信用しないが、総じて鯵の干物とジャコは好評だった。ジャコはどこまでも普通、兎に角、干物は焼き方と提供までの時間に問題あるのか残念だった。まるで残業で午前様となり、作り置きされた干物を焼きなおした時の味わいで、海が近い鎌倉ながらガッカリした。素泊まりで普通に外食の方がいいかもしれない。宿で足を休め、小町通で晩御飯の前に頼朝を祀る白旗神社と頼朝の墓、法華堂跡を訪れてきました。宿からだと鶴岡八幡社の東隣に位置し約20分程の場所に鎮座します。写真は白旗神社と頼朝の墓の入口。石段の先が頼朝の墓で、石段左に源 頼朝公を祀る白旗神社。創建は明治5年(1872)で勝運の神様として親しまれている。ここまでの道すがら、頼朝を慕う地元の方の思いが伝わる掲示物を多く見ることが出来た。石段を上った先の源 頼朝公の石塔がある。戦乱の時代を走り抜け鎌倉幕府を築いた頼朝がここに鎮まり、この塔は後の島津藩主だった島津重豪により整備されたものと云う。ここからすぐ東に頼朝の持仏堂だった法華堂跡があり、法華堂に頼朝が葬られ、頼朝の墓所として信仰されていたとある。堂は後に廃絶しましたが、現在は礎石跡などが保存されており、この一帯がその跡とされるそうです。すぐ近くなので法華堂跡に向かいます。法華堂跡へは石段の前から右に少し歩けば写真の燈籠が立つ石段の前に至ります。そこから上ると視界が開け右側に「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)と記された石標が立っていた。源頼朝墓は先の解説から、ここにあった法華堂と分かるけれど義時墓?あれぇ伊豆ではなかったの?上法華堂(頼朝の墳墓堂)跡。頼朝没後幕府創始者の墳墓堂として後の武将から信仰を集め、鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続するも、17世紀初頭までには堂舎はなくなり、石造の墓塔が立てられていたと云う。現在の墓域は安永8年(1779)島津藩主島津重豪により整備されたものとされる。あれ?義時の墓所はどこ?よもやこの先の二つの石段の先か?下石段左洞窟。ここは13~15世紀頃の横穴式墳墓で鎌倉幕府の御家人三浦氏が供養されている。宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人がここ源頼朝法華堂に籠り自害したとされ、ここで供養が行われていたと云う。義時の墓所は?石段の先は写真の様な三つの横穴式墳墓があり、奥から毛利秀光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいました。あれぇ、義時の墓見逃したか。法華堂跡に戻ると案内板があり、そこには北条義時法華堂と書かれ以下のように解説されていた。「吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂は、延慶3年(1310)の焼失以降どの資料からもその名が見られなくなっていました。平成17年(2005)に発掘調査が行われ堂跡が確認された事で、この場所に北条義時法華堂が建立されていた事が明らかとなりました」とある。法華堂は二つあったのかい?時間ばかりが過ぎよく分からなくなってきた。小町通のソーセージ屋の閉店も迫っている、ここで諦めて戻る事にする。史跡法華堂跡所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5どうにか閉店間際の腸詰屋小町に滑り込み、ソーセージと地ビールでモヤモヤを消し去る。この通りのお店は意外に閉店が早く18:00にはシャッターが下ろされる。美味しいビールとソーセージで軽く一杯。腸詰屋鎌倉小町所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下1-4-20さて次は小町通りを南下し丸七商店街の焼き鳥屋でフィニッシュ。アーケードのある丸七商店街は寿司屋、立ち飲み屋などディープな雰囲気があり面白い。立ち寄ったのは「立呑焼鳥 天昇」ここで焼き鳥を食べながら酒を飲み仕上げ。カウンターだけの立ち飲み屋で価格もリーズナブルで焼き鳥も美味しかった。仕事帰りの常連客で賑わっていた。立呑焼鳥 天昇所在地 / 神奈川県鎌倉市小町1-3-4あとは地元の銭湯があればいいのだが、ない。神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮)鎌倉初日移動ルート / こちら参拝日 / 2023/01/17
2023.01.26
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こんな寒波の中、ツアー催行は無理だろう。賢明な判断だろう。少し残念だが、ここは縁がなかったと諦めるしかない。ん? 既に代替案を模索中のかみさん。酒が飲めればどこでもお供させてもらいましょう。
2023.01.25
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越前方向を巡る日帰りバスツアーの予定を立てていますが、この寒波では催行中止だろうなぁ。自分は雪の大瀧神社にナイフビレッジ、かみさんは手漉き和紙体験にせいこ釜飯、魅力的なんだが。いまだ連絡はないので催行されるつもりではいるものの…若い頃なら深夜の山道に出かけているだろう。しかし日中の移動はリスクだらけ、周りが動かなかったり、スリップに遭遇すれば巻き添えが関の山。今年の冬は冬タイヤは絶対、そこにチェンとスコップ、寝袋はmustで積んでおいた方がいいのかも。今回は連れて行ってもらうだけに、内心雪道が楽しみですが、催行側なら高速が止まれば中止にするだろう。ただでさえ、現地は大変な目に遭っているだけに、不慣れな街の人は近づかない方が賢明なんだろう。
2023.01.25
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湯布院から県道617号線、616号線経由で北東に向かう事約30分。標高1,045mの伽藍岳中腹にある塚原温泉火口乃湯へ到着。ここで車を降りると風向きにより硫黄臭が漂ってくる。駐車場には写真の塚原温泉火口乃湯の他、受付事務所、家族湯、露天風呂の建屋が建つ。因みに専用トイレはなく、この棟の設備を利用する事になります。入浴はしなかったが、ここに来るまでの道のり、噴気を上げる伽藍岳、もやがかかった山々の景観は秘湯の趣があってとても魅かれる。この火口乃湯の開湯は、平安時代に源 為朝が湯だまりで傷を癒す鹿の姿を見て温泉を発見したしたのが始まりと伝わります。その泉質はpH1.9の強酸性で鉄イオンの含有量は全国1位、酸性度、アルミニウムは全国2位の含有量とかで、皮膚炎、切傷、火傷、婦人病、五十肩など様々な症状に有効とされ、日本の三大薬湯(諸説あり)に数えられると云う。宿泊施設はなく夕刻に施設を閉じる日帰り入浴(内湯500円)のみ。伽藍岳噴火口跡へは受付事務所で見学料200円を支払い、火口乃湯の建屋後方から続く整備された山道を5分程登っていきます。樹々に囲まれた山道は最初勾配が緩やかですが、歩き始めてしばらくすると斜度はきつくなり、一息入れたくなるほどのものでした。やがて樹々は減り前方の視界が広がると、靄の先に伽藍岳の斜面が間近に迫り、硫黄臭を伴う噴気があたり一面を覆う別世界となります。樹々は明らかに減り、山肌には硫黄の黄色が至る所で目にします。そして右手に目を転じれば…そこは地獄。伽藍岳の約800メートルの中腹に樹々もなく山肌が露わになった一帯が広がる。火口跡とはあるが、活動が休止したわけでもなく、目立つ噴気だけで三つの噴気孔あり、現在も活発に活動を続けています。別府の地獄巡り以上の荒々しい地獄の世界が広がっている。別名硫黄山と呼ばれるようで、名の通りまさに硫黄の山。鉛色の空の下、吹き上げ続ける白い噴気と荒涼とした景観は圧倒される。伽藍岳噴火口跡の見学できる範囲は柵で囲われ、それ以外はほぼ立ち入り禁止。一番手前の噴気孔は写真のように陥没しており、ここには熱水を湛える小池があるようです。残念ながら訪れた当日は枯れあがり底が露出した状態。この状態が平時なのか、池があるのが本来の姿なのかは分かりませんが、ここが別府八湯(浜脇、別府、観海寺、堀田、明礬、鉄輪、柴石、亀川)の湯の源だとも云われます。こうした穴ぼこは泥火山と呼ばれ、形成され始めたのは1995年(気象庁有史以降の火山活動)と最近の事。現在も活発に活動している証でもある。最近メディアで湧出量が多いとされる別府や湯布院の一部に湯温低下や蒸気量の減少が現れているという記事を見た。あるべき池の姿が消えているのを見ると、そうした記事は強ち誇張したものではない気がしてくる。絶妙の需給バランスで成立する台地の恵みも、過度に人の手が入ると容易に姿を変え警鐘を鳴らす。写真は展望所右手の一画。右手の小高い丘の頂まで行きましたが、山の頂付近の裏側に小さな石の祠が祀られていました。樹々に隠れる様に佇む石の祠。踏み跡も残り人の出入りはあるようでした。近付いて見ると祠の先に燈籠もあり、どうやら下から参拝道があったようです。祠には扉はなく、祠の前にはお供えもあり今も参拝に訪れる方があるようです。祠の中には三体の地蔵と天照皇大神宮の御札。御布施の一部が腐食するような環境という事です。燈籠の竿には享保(1716~1736)の元号が刻まれていました。伽藍岳噴火口跡は以前は珪石の露天掘りが行われていたそうで、2000年代を迎える前にコスト面で輸入品に対抗できず1990年には廃坑の道を辿ったとされます。その一端に1995年に出現した噴気を上げる泥火山の影響もあるのだろう。泥火山が出来る以前は別府白土として地域に潤いをもたらし、人の往来のあった天国だったのかも知れない、歯車の狂った今は人の通わぬ地獄です。干上がった泥火山は今も少しずつ浸食が進み成長しているとも云われます。因みに伽藍岳が直近で目覚めたのは貞観9年(867)とされ、少し寝すぎにも思われる。せめてここから離れるまでは目覚めないで欲しい、そう願いたくなる世界です。伽藍岳噴火口跡と地蔵堂所在地 / 大分県由布市湯布院町塚原佛山寺から塚原温泉車移動 / 県道617号線経由25分程訪問日 / 2022/10/28関連記事 / 龍峩山 佛山寺 (由布市湯布院)
2023.01.22
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名古屋市守山区深沢 神明社。庄内川左岸の小高い丘の上に鎮座し、境内北側の眼下には庄内川の流れが迫る。そこに架かる吉根(きっこ)橋を越えた対岸に密蔵院の多宝塔の相輪も見えるはず。鎮座地周辺の眺望の利く立地条件から、嘗ては吉根城が築城されていた時期もあったと云う。社地東側からの眺め。石垣が積まれた社地は城の雰囲気が漂うが、残念ながら遺構ではなく社殿造営時の新しい石垣。吉根橋から南は比較的なだらか丘陵地が続き古くから人が居住し、社地東方一帯は7世紀後半に築造されたとされる上島古墳群が点在し、神明社境内東側の小高く盛られた部分は上島3号古墳の名残だとされる。現状は城や古墳の遺構は残ってはいない。神明社社頭全景。社地南側は嘗ては田畑が広がる丘陵地、現在は宅地化により田畑は姿を消し、住宅が広がる一帯に変貌しています。南向きの社頭右側に社標(2007年寄進)が立ち、神明鳥居の先に拝殿、鞘堂の社殿が建っています。小高い高台の社地は社殿の三方を杜が取り囲み、社殿後方は庄内川に向け切れ落ちています。境内左の手水舎から社殿の眺め。拝殿全景。拝殿は切妻瓦葺で四方吹き抜けのもの。左側の境内には由緒碑、神明用水碑、水神などが祀られています。上鈴紐の下ろされた拝殿から本殿方向の眺め。下神明社の額。拝殿先の鞘堂、中に祀られている本殿の姿まで見て取れない。「神明社由緒。祭神 天照皇大神例祭日 10月21日宝暦年間編纂の張州府志に「八幡祠吉根村在り 配享天王白山」神明社同村に在り」と記されり。社伝によると享保元年(1724)遷座された古社である。大正8年2月八幡神社に合祀。昭和48年、八幡神社飛地境内神社創立」とある。ここで云う八幡神社とは個性的な容姿の狛犬がいる吉根八幡神社を指しているのだろう。上は1891年(明治24)頃の吉根神明社周辺地図。当時の地図を見ると〇で囲った中に鳥居の印が確認できます、由緒の「享保元年(1724)遷座」は吉根八幡神社の飛地だったこの地に遷座したということだろうか。仮にそうであれば、嘗ての神明社は庄内川左岸の河畔に鎮座していた事になる。しかし現在の地図にこの印も現在の鳥居の印はなく、この印が神明社を指すものかは確証がない。そもそも庄内川自体、年代により流れを変えるので、河畔沿いに鎮座していたものが遷されたとしても不自然ではない。由緒と照らしていくと、地図の鳥居は享保元年(1724)遷座した際の位置で、大正8年に吉根八幡神社に遷座されたとあるように、事実、大正9年の地図からはこの場所から鳥居の印は消えていました。また、境内西側に吉根用水碑が立っています。これは、明治8~9年(1875~1876)にかけて現在の吉根橋下流に、吉根の田畑に水を安定供給する目的から神明用水が造られましたが、その工事と吉根八幡神社への遷座は年代から見て関連はなさそう。となると遷座の理由の一端に流れを変える庄内川や護岸整備、周辺の造成が背景にあったのかもしれない。それらが落ち着いた後の昭和48年、改めて吉根八幡神社から等高線の頂の当地に遷座したという事だろうか。境内西側の吉根用水碑(右)と水神さま。ここから右手は庄内川にかけて切れ落ちている、水神さまは恐らく下に祀られていたものを昭和48年の社殿創立時にこちらに祀ったものかもしれない。一面宅地が広がったとはいえ、今も左岸西側には田畑が残り、実りをもたらす水神さまは重要な存在だ。水神さまから境内東の眺め。社殿後方の盛られた部分が上島3号古墳の痕跡を感じさせる。今は鬱蒼とした杜に包まれていますが、その昔はこの立地を生かし吉根城が築城された。天正13年(1585)に記された織田信雄分限帳に当地を納めた「北野彦四郎」の名があり、彼が城主だと思われ、この高みは物見櫓を建てられるなどして利用されたようです。現状では城の遺構らしきものは垣間見ることは出来ませんが、庄内川へ切れ落ちる高台は北からの動向や、南の龍泉寺街道も把握できる立地だった事だろう。上島3号古墳の墳丘?の頂に玉垣に囲われた一画があります。墳丘へは南側に付けられた石段から向かう事が出来ます。右側に山之神社の社標(2005年寄進)が立てられています。頂きの神域には二つの岩が祀られていました。どちらも角の取れた岩で、右には山神と刻まれていますが、左は一部欠落し下の文字「神」しか読み取れないが、こちらも恐らく山神なんだろう。丘陵地は切り開かれ、住宅や商業施設が立ち並ぶこの地にあって、周辺に祀られていたものがこの地に纏められたものだろうか。山神さま右手から望む庄内川上流。これだけ高低差があるので相当遠くまで眺望が利き、大雨が降ると今でも表情を変えていく庄内川ですが増水の心配はいらないだろう。ここから上流正面に見える守山PA辺りで川は大きく左に蛇行しています、30年以上前の話ですが以前はカヤックを漕いだり、フライを振るには絶好の瀬がありましたが、当時とは水深も流れも随分表情を変えています。今思えば神明社がここに創立されて間もない頃だったようです。神明社境内から南を望む。久しく訪れていなかっただけに住環境の良さは驚くばかり。そんな環境に変貌した今であっても、吉根一帯は大きな川とは堤防一つで接していることに変わりはなく、自然を司る神さまは等閑には出来ない存在だろう。吉根 神明社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神境内社 / 山神、水神所在地 / 名古屋市守山区深沢1-1102参拝日 / 2023/01/10関連記事 / 『八幡神社』名古屋市守山区吉根南、密蔵院
2023.01.21
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佛山寺が鎮座する布院町川上。由布の街並みの北東の外れに位置し、いかにも川の上流なんだろうなぁと感じさせる地名。北に由布岳が聳え、ここから西に向かって徐々に平坦地になっていく。由布の町で迎えた二日目、今日も天気には恵まれそうです。靄に包まれた幻想的な金鱗湖と自然の恵みをもたらしてくれる背後に聳える由布岳。なにかの存在を感じない訳にはいかないだろう。龍峩山佛山寺。金鱗湖からの道すがらで見かけた茅葺屋根の鐘楼門。この趣のある門を構える佛山寺は是非とも見ておきたい。佛山寺は地元の人々にとって重要な存在のひとつ。今から約1,000年前の康保年間(964~968)、性空上人(910~1007)が九州行脚の際に日向國霧島神社でのお告げに従い、由布岳で経を唱えると「具一切功徳 慈眼視衆生(一切の功徳をそなえ、慈しみの眼で迷える者たちを見つめる)」と鳴動する岩があったという。性空はその岩の一部を持ち帰り、一体の観音像を刻し庵を結び祀ったのが佛山寺の起りだという。以来、由布の霊場の本拠地とされ、往時には多くの末寺を従えていたという。しかし慶長大地震(1605)により、本尊は山谷に転落してしまい、当時の由布の村人の手により現在の場所に移したと伝わるようです。この御本尊は由布霊山観音と呼ばれ秘仏として護り継がれ、その姿を拝めるのは33年毎の御開帳の時、それが2022年だったようで、残念ながら当日は御開帳期間は過ぎ拝むことはできなかった、次の御開帳は33年後、かみさんなら拝められそうだ。また、金鱗湖の湖中に立つ鳥居は明治の神仏分離に伴って天祖神社に移し替えられたもの。先に掲載した宇奈岐日女神社とは江戸時代まで習合されていたようで、後の神仏分離により今の姿になったと云う。写真の茅葺屋根の鐘楼門は元禄時代(1688~1704)に建てられたものとされ、平成6年(1994)に火災で本堂を焼失したそうです。幸いこの門は焼失を免れ龍峩山の山号額も誇らし気に見える。消失した本堂も当時は茅葺のもので、伽藍全体が茅葺屋根だったようです。由布の土地柄に溶け込んだ趣のある姿だったんだろう。その姿を想像すると白川郷の明善寺の伽藍が思い浮かぶ。佛山寺。平成6年の火災後に再建されたもので茅葺ではないものの落ち着いた佇まいのものです。本殿の棟には鰹木や千木の様な構造物が見られます、なんと呼ぶのか分かりません。勝手な推測でしかないけれど白川郷の茅葺屋根の棟の造りに似ており、茅葺当時の名残をここに留めたのかも知れません。何れにしても天祖神社やこの本堂と鐘楼門の棟はあまり見慣れないものです。本堂の額。揮毫は達筆過ぎて読めません。本堂の戸は閉じられ内部は拝めなかったがこちらで拝ませてもらいました。ガラス戸に鐘楼門と紅葉が映り込み、これはこれで…境内から望む鐘楼門。こちらから見る茅葺屋根には苔や若木が芽生えていました。そろそろ葺き替えが迫っているのかも。この門素朴でいい。宿への道すがら、収穫を終えた田んぼの朝露が、漸くとどきはじめた陽射しで輝いていた。佛山寺宗派 / 臨済宗妙心寺派山号 / 龍峩山本尊 / 由布霊山観音創建年 / 康保年間(964~968)開基 / 性空所在地 / 大分県由布市湯布院町川上1879関連記事 / 天祖神社、宇奈岐日女神社(大分県由布市湯布院)、白川郷「松原山明善寺」、「霧島神宮」鹿児島県霧島市
2023.01.20
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由布岳南西の麓にある金鱗湖、湖面から湧き上がる靄で知られる湖ですが。湖の南東を眺めると、湖中から立つ鳥居が見えます、そこが天祖(てんそ)神社。由布院の代名詞的な存在となった金鱗湖、湖底や周辺から僅かに温泉を含んだ湧水が湧き出し、気温が低い日は湖面一面が靄に覆われ幻想的な光景を見せてくれます。日中気温が上がると靄は消え、普通の小さな湖の姿に戻ります、風がなければ湖面に景色が映りこんで別の美しさがあります。訪れたのは10/27、この時期の湯布院の紅葉は色付き始めたくらいだろうか。本格的に真紅に染まると赤い湖面に白い鳥居が綺麗だろう。鳥居後方の建物が社殿で、石垣左側に小川が流れ込れ込んでいる。天祖神社社頭。石の明神鳥居に掛けられた額には「天祖神社」とある。鳥居は天保7年(1836)に寄進されたもの。境内左の手水舎、鉢には龍はいないが、由布岳から恵みの湧き水が注がれている。奥は神楽殿だろうか。対岸では韓国から訪れた観光客に写真撮影を依頼されることが多かったが、不思議に神社の方までは訪れないように見えた。拝殿は銅葺屋根の入母屋造りで妻側に扉はなく開け放たれている。拝殿軒下の由緒。「天祖神社鎮座地 大分県誘因町大字川上字弓矢175番地御祭神 天御中主命、素戔嗚男命、加具土命、事代主命御由緒 第12代景行天皇御宇12年、速津媛に勅して皇祖霊神を祀りたるを当神社の創始となす。明治9年村社に列せらる。」景行天皇12年は先に掲載した宇奈岐日女神社と同年代の創始となる。佇まいから想像できない気の遠くなる歴史を持っている神社。拝殿から本殿方向。格子扉の先に狛犬の姿があり、奥の本殿には中央に天祖神、向かって右に八坂神社、左に金刀比羅神社の三社が祀られていると云う。参拝。 社殿全景。入母屋銅板葺の鞘堂の中に本殿が祀られていますが全容は分からない。棟の先端に突き出たこれ、舟の櫓に見えなくもない。お目にかかるのは初めてかも知れない、シンプルでいいスタイルじゃないかな。穂高神社の鰹木にも似ていますが呼称や用途は分からない。置き千木や鰹木の様に一種の飾りだろうか。鬼板の先端には左巴の紋が入っていました。金鱗湖の湖中から立つ鳥居、この先から誰を向かえるものだろう、この金鱗湖に住む龍神だろうか。この金鱗湖は天祖神社の神域なのだろうか。この鳥居は、ここから南東に少し離れた佛山寺境内に鎮座していた金刀比羅神社のもの、明治政府の神仏分離令に伴い境内から天祖神社に遷座、移設されたもの。往古の湯布院は湖だったとも云われ、そこを切り開いたとされるのが宇奈岐日女だとされる。この湖はその名残なんだろうか、そんな妄想さえ広がる。鳥居の上で羽を休める鵜の姿がある、これで湖面に靄が立っていれば神秘的な光景なんだが。明日は早起きしてそんな光景に出会える事を願い、宿に戻って温泉に浸かろう翌朝の金鱗湖。湖は昨日の表情とは違う姿を見せてくれた。対岸の天祖神社の鳥居も神秘的な趣をみせてくれました。靄に包まれた水面に悠然と泳ぐ龍の姿…鵜だな。天祖(てんそ)神社創建 / 景行天皇12年(82)祭神 / 天御中主命、素戔嗚男命、軻遇突智命、事代主命鎮座地 / 大分県由布市湯布院町大字川上字弓矢175番地参拝日 /2022/10/27関連記事 / 大分県(湯布院・宇佐神宮)一之宮巡りDAY4、宇奈岐日女神社(大分県由布市湯布院)
2023.01.19
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以前から一度は秋の瑠璃光院を訪れたかったが、漸く訪れる機会に恵まれた。拝観には事前予約(日時)が必要で、日々進む紅葉前線を想定し一か八かで決めるしかない。新幹線の車窓から見える山々は、意外に早く紅葉が進んでいたため半ば諦めていた。八瀬比叡山口宿を取った三条から瑠璃光院へは、京阪本線と叡山電鉄を乗り継ぎ、レトロ感漂う一両編成の電車で終着駅の八瀬比叡山口まで30分程。駅舎全景。瑠璃光院の最寄り駅「八瀬比叡山口」から瑠璃光院へは高野川を渡れば目と鼻の先。なんですが、当日は駅から対岸を結ぶ橋が工事中で渡れず、上流の橋まで遠回りしなければならなかった。無量寿山光明寺 瑠璃光院山門9:00開門の20分前に到着しました。既に山門前には大勢の拝観者で溢れていた。webから特別拝観(2,000円)は20分間隔の事前予約、入場は時間毎に列が決められ、20分間隔で入場するシステム。この背後は長蛇の列ができ、これ以上カメラは左に向けられない。山門左の脇扉に「茶庵 喜鶴亭」の木札。瑠璃光院は明治の実業家「田中源太郎」が設けた庵として始まり、後に明治の元勲三条実美が、当時の庵に「喜鶴亭」と名づけたと云う。やがて所有者変え、昭和初期に数寄屋造りに改修、別荘や料亭として使われていたという。その後、岐阜市金竜町に鎮座し延喜式神名帳にも載る「無量寿山光明寺」の別院になった。本尊は阿弥陀如来。普段の瑠璃光院は拝観は出来ませんが、特別拝観の時のみ、こうして解放される。この八瀬そのものは、奈良時代の壬申の乱で、背中に矢傷を負った大海人皇子(後の天武天皇)が八瀬の釜風呂で矢傷を癒やされて以来、平安貴族や武家時代を通じて安らぎの場として脚光を浴びたとされ、「矢背」とも記されたようです。瑠璃光院には数少ない八瀬の釜風呂や文化財が公開されていますが、個人的には季節ごとに表情を変える庭を愛でる寺の印象がある。いよいよ開門。僧侶の挨拶とお願いが周知され、時間毎に山門をくぐっていく。山門右に「無量寿山光明寺 瑠璃光院」の寺名札。検温と料金を支払い境内へ。苔生した庭と樹々の緑、そこに終盤を迎えた紅葉の赤が入り混じり、しっとりとした光景が広がる。山門から玄関までの緩やかな参道脇は紅葉と苔が美しく、石楠花の木も多く植えられ、四季折々の表情を魅せてくれるようだ。紅葉も終盤。臥龍の庭から喜鶴亭、書院方向。書院二階の写経机に写り込む紅葉。この黒漆の写経机に映り込む紅葉を見たいがために訪れています。やはり当日では紅葉には遅かった、それなりに思い描いていた光景を目の当たりに出来て十分満足。靑紅葉の写り込む光景もさぞかし綺麗だろう。入場は20分間隔で制限されていたが、退場には制限がない。根気があれば一日中表情を変えていく姿を捉える事が出来る。綺麗な紅葉を前に後方では写真撮影の順番待ちができる。撮りたい衝動を抑えきれず、撮影する人を押すものだから、静かな書院に罵声が飛び交う場面もありげんなりする。一人2分も待てば事足ります。群集後方の屏風。穆(ぼく)王図屏風 西王母・穆王図。狩野派の山本探淵の作。聖衆来迎図多くの菩薩をともなった阿弥陀如来が、極楽浄土から雲に乗って臨終の者のところに現れるようすが描かれたもの。室町時代に描かれたもの。本尊の阿弥陀如来像。書院二階から眺める紅葉。書院一階から山門側の苔庭。ピークを過ぎた紅葉は少しがっかりだったが、庭の片隅で咲く山茶花の赤は色鮮やかだった。書院一階から瑠璃の庭。瑠璃色に輝く浄土の世界を表わした主庭で数十種の苔の絨毯の中に細いせせらぎが流れています。二階の混み方に対し、一階はさほどでもなく、磨き抜かれた廊下に映り込む紅葉も同様に美しいものがある。意外にこの一階の方がいいのかも。正面に回り込みたいところですが、結構な人が陣取りなかなか空きそうになかった。緑の絨毯は色鮮やかだ。瑠璃光院の紅葉を十分堪能し山門へ。山門正面を撮りたいところですが…帰り際見かけた瑠璃光院解説。瑠璃光院の紅葉や靑紅葉、苔むした庭園は間違いなく美しいものがあります。実際に訪れた感想。特別拝観でしか入れないプレミア感は感じるけれど、庭を眺めてなんぼの拝観料に対し、坐して眺める余裕もなく、日常から離れて静かな書院を訪れ、罵声が飛び交う現実を目の当たりにすると、どこか検討の余地がある様に感じた。駅に向かう道すがら、誰からも愛でられることのない紅葉の絨毯を見かけた。瑠璃光院 (秋の特別拝観)所在地 / 京都市左京区上高野東山55番地訪問日 / 2022/11/25公共交通機関アクセス / 三条から京阪本線と叡山電鉄を乗り継ぎ30分程関連記事 / 京都一泊二日 (東寺・東福寺・瑠璃光院・南禅寺)
2023.01.16
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1/6新年早々ネスカフェバリスタが再起不能。諦めて同機種をweb上から手配し、漸く手元に配送されて来た。機種も変わらず何の嬉しさもなく。正直、短命な消耗品として見ているこのマシン、僅かに安い一つ下の機種も考えたが給水タンクの容量が小さく使い慣れた同機種とした。到着後開封・セットし初期に行う御呪いを行う。coffeeを入れず給水タンクに水を入れ本体内部の配管をお湯で潤すセレモニーを運転開始!……ん? ウントモスントモ云わない。こんなことは初めてだ。ネスカフェサイトで調べて見れば「初期にこうした症状があり。そうした場合は1時間程その状態で放置し再運転」とあり。しばらく放置し再運転するも改善されず。メーカー保証もあり中の様子を見ることも出来ず、言われたことを繰り返すも変わらず。結局かみさんがメーカーに問い合わせ、交換となる。ここに至る過程でもメーカー窓口のマニュアルに沿った運転をさせられ(既に実施済みにも拘らず)、動作の結果や表示の報告など繰り返し(既に実施済みと何度も云ってます、若干切れ気味)しながら「それでは交換手配に…」と随分と長い時間を費やしてからの結果だった。対応を聞いていて「交換するの?しないの?」と云いたかったが窓口の対応もいい事からじっと見守っていた。要はこのマシン、初期不良も多く、製品寿命もバラツキ幅が大きい代物だという事です。辛うじてメーカー窓口の好対応で持っているようなもの。これが変な日本語対応なら金輪際買わないと感じた。ボタン押すだけでcoffeeハイ!からまた遠のくけれど、普通に作る事に抵抗のない自分には影響はないけれど、泡泡が飲みたい彼女にしてみれば代替の到着は待ち遠しいだろう。…無事に動くかは不透明ですが。※消耗部品販売もなく、意固地に分解を拒む構造で買い替えを促しながら、こうしたトラブルが散見され、その都度回収した製品の行方がとても気になる。どこの大国で製造しているかしらないがQCの意識はないのだろうか?よもや廃棄? だとすれば資源を無駄に使い捨て、専用窓口の維持コストを掛けてでもペイできる製造原価とは?ロス分は専用coffeeで回収できる程上乗せされている?くれぐれもweb販売業者や配送業者の問題でない事だけは書いておこう。一杯のcoffeeを飲むのにえらくエネルギーがいるものだ。代替の到着が楽しみだ。関連記事 / 2023/1/6バリスタ逝く
2023.01.15
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豊田市駒場町神明社。訪れたのは昨年の12/28。毎年親戚が恒例の墓参りのついでに野菜を届けてくれていたが「野菜を自分で取りに来てくれ」の一言からだった。やはり収穫応援はその付箋だったようだ。二回目ながら今も方向感覚は怪しく、早い話が道に迷い出会ったのが駒場の神明社だった。鎮座地のすぐ南を流れる逢妻男川の右岸に位置し、北に流れる逢妻女川と挟まれており、北から東にかけ見通しの効く長閑な田畑が広がる。駒場集落の北外れにあり、町内は対面通行の狭い生活道が続き、馴染みのない者が運転するに気が抜けない。社頭は南西向きにあり、北に長い社地を持つ。社頭から一見すると間口はさほど広くはないが、奥で大きく広がりゆとりすら感じられる。鳥居から眺める境内。正面に拝殿、左側に複数の境内社祀られています。鳥居右側の由緒。「神明社豊田市駒場町西埜中55番地鎮座。祭神 天照大神由緒 当社は延喜式外の旧社であって、大宝2年(702)10月持統天皇三河国を御巡幸の際勅使を得て氏神として鎮祭せられたという。当部落は往古海浜に臨み小浜の里と称し、当社を小浜の明神と称した。其の後部落名が駒場に変わったのは、第92代伏見天皇の御代と伝わるが、この地名の起源は部落が鎌倉街道沿線にあって人馬の往繁く、且つ燐村知立の馬市に進まる人馬の宿泊地となったからであろう。いらい氏子の崇敬愈々篤く、常に祭祀を重んじ、社殿の修復に心掛ける等奉仕の真心を捧げた。明治5年村社に列し、同40年10月26日神饌幣帛供進神社に指定された。本神社例祭は古くは旧暦8月16日であったが農業事情の変化に依り改変あり現在10月に奉仕せらる。」とある。駒場となったのが由緒にある伏見天皇の御代(1287~1298年)とすると駒場の地名も随分と歴史がある。地名はその地を語る写し鏡のようなもの。徳川時代に東海道が整備され池鯉鮒が宿場として栄え、歌川広重の東海道五十三次にも多くの馬が描かれた光景が残りますが、伏見天皇の御代となると東海道が整備される以前の鎌倉街道時代から駒場はそうした場所だったのが窺える。神社も地名も誇るべき長い歴史を持っている。鳥居をくぐった左に境内社、左から参拝して行きます。末社の稲荷社。「稲荷社(1766)棟札に明治3年再建の棟札がある。祭神 倉稲魂命由緒不詳なるも元西埜中の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社の秋葉社(1836)。「天保7年(6かも?)再建の棟札が残る。祭神 火之迦具土命由緒不詳なるも元金山の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社の熊野社(1561)。「永禄4年再建の棟札が残る。祭神 速玉之男神 他由緒不詳なるも元平古の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社の厳島社(1838)。こちらは残念ながら脱色が著しく読み取れなかった。「天保9年(8か?)再建の棟札が残る祭神 市杵島姫命?????」立派な燈籠の先の拝殿。入母屋瓦葺で千鳥破風の付くシックな拝殿です。この日は丁度新年を迎える門松の準備で真っ最中だった。額は神明社。江戸時代末期から大正時代の子爵三室戸和光(みむろど まさみつ)の揮毫によるもの。拝殿左の御霊社。御霊社の右から奥に参道は続き本殿後方の境内社に続く。ここからだと神明造の本殿が見通せます、鰹木は6本、内削ぎ千木が付く。本殿全景。天照大神らしい陽射しで明るく照らされた本殿域。参道を奥に進んだ本殿後方に四つの鳥居が並ぶ。これらの境内社も周辺から遷座されたもの。正面末社から手前に参拝して行きます。末社 山神社 街道組(1756)棟札に宝暦6年の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元下馬の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」唯一コンクリート造りで淡いクリーム色社殿で棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付く。末社 山神社 北組(1757)棟札に宝暦7年再建の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元南土用林の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社 山神社 荒井組(1802)棟札に享和2年再建の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元雲目の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」末社 山神社 寺内組(1824)棟札に文政7年再建の棟札がある。祭神 大山祇神由緒 元鐘塚の林中に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」社名の下の西暦表記が創建なのか再建をさすものかよく分からなかったが、稲荷社以外の末社は再建時期を西暦表示したものと思われます。周辺の地区で祀られていた社の氏子たちはここ神明社に集う。いずれも創建は分からないにしても、再建時期の棟札が残り、元の鎮座地まで遡れる記録がある。我家のあたりも嘗ては田んぼが広がり小さな集落が点在し、それぞれ小さな社があったのですが、遷座ではなく廃社の道を辿って行き、田舎臭い町名も耳当たりの良いものに変っていきました。切り捨てるのは容易、先人の思いを存続させるのは容易な事ではない。神明社本殿後方から拝殿方向の眺め。拝殿右の手水舎。今は手持無沙汰の龍も間もなく大忙しか。そういえば狛犬の顔ぶれを撮るのを忘れていたようです。駒場(こまんば)神明社創建 / 大宝2年(702)祭神 / 天照大神境内社 / 稲荷社、秋葉社、熊野社、厳島社、御霊社、山神社参拝日 / 2022/12/28所在地 / 豊田市駒場町西埜中55関連記事 / 知立市八橋 「日吉山王社」日吉神社から車移動 / 北西へ約10分もういい加減道草もしてられん、青虫一杯の野菜を収穫しに行こう。この後、野菜の他に跡取り不在の親戚の墓参りを頼まれる(やはりこれか)…切り捨てるのは容易、先人の思いを存続させるのは容易な事ではない…。我家の息子達にとってやがて寺や墓も負担になってしまうのか…
2023.01.14
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桑名と云えば食べるものだと蛤と焼きたての安永餅が思い浮かびます。東海道53次の41番目の宿場宮宿と42番目の桑名宿を結ぶ海上輸送の要衝、七里の渡しはよく耳にします。船に揺られて辿り着くとそこが伊勢国の東の入口にあたります。訪れたのは12/14、暖かい日が続いていたが、生憎と空はどんよりと鉛色で風が強く寒い日だった。桑名駅から美濃街道を東に、七里の渡し方向に向かう道すがらのマンホールには桑名を象徴する様々なデザインが施されていて寒空を歩いていても楽しめる。美濃街道が通る桑名市堤原7に写真の北桑名総社北桑名神社が鎮座します。社頭右には地蔵堂があり、左に木造の神明鳥居が立ち、その奥に東を向いて社殿が並ぶ。 社頭全景。鳥居の右に北桑名総社 北桑名神社の社標(大正11)、左に持統天皇御舊跡と刻まれた石標が立っています。時の朝廷に対し大海人皇子(後の天武天皇)が決起した壬申の乱(672年)では、鸕野皇女(後の持統天皇)らを桑名に残し、大海人皇子は戦場の舞台となる不破関に向かったとされます。その間、鸕野皇女が桑名の拠点としたのが北桑名神社とされ、ここから戦場の支援や決起が失敗した場合の逃走ルートとしたのかもしれない。燈籠は文政8年(1825の寄進)と刻まれている。社頭の北桑名総社北桑名神社由緒書、そこには以下のように記されている。当社は、江戸時代始めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも、「今一色神明社」とも称された今一色の産土神。明治41年、太一丸にあった「太一丸神明社」、宝殿町にあった「佐乃冨神社」を合祀、「北桑名総社北桑名神社」と改称。昭和12年、社殿等の大改修がおこなわれ立派な社殿神舎に成るも、おしくも先の大戦で全て焼失。戦後、氏子、崇敬者の協賛により本殿、拝殿等逐次再建され、今日に至る。御祭神 天照大神、鵜葦不含尊(神武天皇の父)、高水上命(伊勢の豪族)、須佐之男尊、天兒屋根尊、持統天皇、大山祇命祭日 大祭(8月15~16日)、小祭(敬老の日)、新嘗祭(11月23日)、元旦祭(1月1日)(上は久波奈名所図会、この合祀した二社が描かれています)三崎神明社桑名の地は古代文書によれば、自凝洲崎、加艮洲崎、泡洲崎の三つの洲に分かれていた。自凝洲崎に江ノ奥の記載があり、このあたりに社が奉斎され「江ノ奥神明」とも「三崎大神明」とも呼ばれていた。江戸時代の始め、慶長年中桑名藩による町割りや開発が行われ、時の城主本多忠政侯が神殿神舎を寄進、慶長19年8月現在地に遷宮。郷土史によれば、当社は踊りで有名で、江戸時代60年周期で「お陰参り」が盛んに行われた、それに伴い当社への参拝も多く、関東人群参の社であったと伝わる。佐乃富神社・中臣神社両社とも延喜式内の古社(「延喜神名帳」に記載されている全国の由緒ある神社)で代々の桑名城主の崇敬があり、寛永20年松平定綱侯が神殿神舎を建立。壬申の乱(672)が起こり大海人皇子(後の天武天皇)は一族を連れて桑名郡家に着き、妻の菟野皇女(後の持統天皇)と幼い草壁皇子を桑名郡家に残し戦場となる不破へと向かい、戦いは大海人軍が勝利、桑名の地にもどられました。この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、それが当社であると伝えらる。蒐野皇女に対する奉仕と功労により蒐野皇女より「硯と鏡」を賜り、社宝として当社に伝承されてきた。五霊神社当社の境内神社で明治41年合祀の際、この地に点在していた小祀を一社に統合、奉斉。「赤神様」とも呼ばれ、桑名藩主の御命により防火の神八天宮(火産御霊神)を祀り災害がないことを祈った。御祭神 火産御霊神、宇迦御霊神、大物主神、神功皇后、菅原道真公現在の北桑名神社の社殿は戦災後の昭和44年に本殿が竣工し、今の姿に至っている。上は当地の明治24年(1891)頃と右は現在の河川の比較、僅か100年少々前ですら流れが大きく変えられた事に改めて驚く。七里の渡し跡はほぼ中央に位置し、海路で伊勢を訪れる参拝客はここで伊勢の地を踏みしめる事になる、当然ながらそこには城(桑名城)も築かれた。残念ながら明治24年の地図には鳥居は示されていなかった。神門。切妻瓦葺の四脚門。参道左に手水舎があり、参道はこの先から右に折れ社殿へ続く。手水舎。拝殿前の狛犬(寄進年未確認)。大きな口を開け、一部彩色され化粧が施されている。拝殿全景。切妻瓦葺で唐破風向拝が付く。拝殿額は北桑名神社。拝殿から屋根が設けられ神明造の本殿へ繋がる。鰹木は4本、内削ぎの千木が付く。本殿前の小さな狛犬。 拝殿前の狛犬に比べるとこちらは少し年季が入っていそう。拝殿左に八天宮、稲荷大明神、金刀比羅宮、天神社、船魂社を祀る五霊神社。祭神は八天宮(火産御霊神)、稲荷大明神(宇迦御魂神)、金刀比羅宮(大物主神)、天神社(菅原道真)、船魂社(神功皇后)。北桑名総社北桑名神社全景。空襲で荒廃した戦後の当地に氏子、崇敬者らの思いから再興された神社だ。帖付地蔵尊。調べて見たが謂れや年代等見付けられなかったが、堂内には赤い前掛けを付けてもらった石の地蔵が一体安置されています。北桑名総社 北桑名神社創建 / 不明祭神 / 天照大御神、鵜葦不合尊、高水上命、須佐之男命、天兒屋根尊、持統天皇、大山祇命境内社 / 五霊社参拝日 / 2022/12/14所在地 / 三重県桑名市堤原7桑名駅から徒歩ルート / 東へ徒歩10分程参拝日 / 2022/12/14関連記事 / 幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日
2023.01.13
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別府市を後に由布岳を回り込んで由布市湯布院町へ。眼下に湯布院を望む狭霧台駐車場から由布岳を眺める。 その姿は無意識のうちに、50肩であがらないはずの腕を上げ、写真に収めたくなる程雄大なのものだった。JR由布院駅から2~3分程北東へ進む、湯布院町川上の五差路交差点、交通量はそこそこあり、人の大来も多い交差点ですが、信号はなくても円滑に流れている事に驚きを感じる。 宇奈岐日女(うなぎひめ)神社の大鳥居はこの交差点に聳えている。ここから南東15分程の所に宇奈岐日女神社が鎮座します。往古の湯布院は湖だったされ、そこを切り開いたとされるのが宇奈岐日女。 かつての湖は緑豊かな盆地となり、その南東の木綿山に宇奈岐日女神社の社叢が広がります。樹々の間から鮮やかな朱色の本殿の姿が望めます。宇奈岐日女神社社頭。 左に参拝者駐車場も用意されていました。上 石の明神鳥居と「縣社宇奈岐日女神社」の扁額。下 鳥居右の記念碑の下にも旧の扁額「式内宇奈岐日女神社」が置かれています。災害復旧記念碑、碑の後ろで待機していたボランティア解説員の猫。平成3年の台風19号で神木や建造物はかってない災害を被ったにゃん。 半壊 拝殿、神門、末社一社。全壊 末社二社、神輿殿、神楽殿。 倒木 144本、約600立方㍍。倒木は幹回り3㍍を越えるもの、にゃんと28本、樹高最長は55㍍、樹齢は600年。 倒木の一部は神楽殿拝殿等に倒伏したものもあり、復旧には危険を伴ったにゃん。と仰る。解説猫の話を聞いて参道を進む、解説猫に気に入られたのかずっと後をついてきた。 参道左の由緒。「宇奈岐日女神社。 鎮座地 湯布院町大字川上六所2220番地祭神 国常立尊、国狭槌尊、彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、神倭磐余彦尊、神渟名川耳尊。 由緒創祀は景行天皇の御宇、一二年冬十月。 嘉祥二年(849)六月「従五位下」(続日本後紀)。元慶七年(883)九月二日「正五位下」(三代実録)に叙されている。 延長五年(927)「延喜式神明帳」に列記された式内社である。明治六年(1873)郷社、大正一二年(1923)県社に列せられる。」由緒に記されていないが江戸時代までは、ここから北へ徒歩15分程に鎮座する佛山寺(上)と習合していたそうだ。 それも後の神仏分離により今の姿になったと云う。宇奈岐日女神社は祭神の六柱から「六所宮」、鎮座地から「木綿ノ神社」とも呼ばれるようです。由緒書きから参道を進む、左に手水舎と右に四方吹き抜けの神楽殿らしき建物があり、その先に四つ脚の神門がはっきりと見えてくる。 解説猫も忙しいのかここでお別れ、再びもとのポジションへ戻っていった。参道の先の狛犬と神門。神門前で参道を守護する狛犬(吽形)。 寄進年を見忘れたが、ふさふさとした尾と垂れ耳で愛嬌ある表情を持つもの。同(阿形)。 どちらも赤褐色の彩色が施されていたのか、一部にこうした色が残る。写真ではサイズ感は伝わらないが結構大きな姿の狛犬です。上品な美しさを持つ神門に程よく調和する大きな額。 その先に社殿を望む。神門から社殿域の眺め。境内から見た神門。 白壁で繋がり上品な朱で彩られた四つ脚の門、朱の扉には十六菊花の紋が金色に輝いている。境内右に御神木の切株、手前に小さな狛犬が守護している。 解説は以下。「御神木の切株。 平成3年9月27日、台風19号により参道、社殿に倒伏した杉。140本やむなく伐採処理し切株の大なるものをここに残置する。 幹回り 右(写真奥)が9㍍、中央が7㍍、左が7.5㍍。樹高の最長は55㍍、樹齢は最高600年と推定される。」 万物には神が宿り、自然を尊ぶ日本人の誇れる自然観がここに現れている。この神社の始まりも往古は湖だったと云われる由布の町を、豊かな農地に変えたと伝わる宇奈岐(うなぎ)日女やその土壌を育み日々仰ぎ見るお山、由布岳に対する畏敬の念から起きているのでは。切株の前に佇む小さな狛犬。 平成に残置された切株と同時期に造られたものではないのかも知れない、風貌や年代はもはや分からい。境内右手の朱の社は御年神社。境内左手に注連縄の吊るされた建物があり、全ての扉を開け放つと神楽殿の様な気がしなくもないが用途は分からなかった。拝殿に続く神橋の手前に六所様の湧水。 写真左手に苔むした龍口が見えます。社殿域の周囲を神池が堀の様に取り囲んでいますが、苔むした龍口は山がもたらす豊かな水を神池に注ぎこんでいます。神橋から拝殿の眺め。 神池に浮かぶ小島の上に社殿が建てられ、左右に石橋で繋がれた社が二社鎮座します。拝殿左側に鎮座する改正(ただす)社。拝殿の右側に鎮座するのは厳島神社。 豊かな緑に包まれ、絶え間なく注がれる水は澄み、静かな境内は龍口から流れ落ちる水音が心地いい。とても居心地のいい空間でした。拝殿は入母屋銅板葺で千鳥破風と大きな向拝が付く。 派手な意匠もなく、周囲の景観に溶け込むような落ち着いた佇まい。拝殿額は「宇奈岐日女神社」 神祇伯稚冨王書とあり、1700年代の神祇官長官の揮毫によるもの。神池に浮かぶ社殿全景。本殿は流造で緑の杜にあって白と朱の本殿の存在が浮き立っている。本殿両脇の苔むした素朴な狛犬。 これも相当年季を重ねているのだろう、阿形はともなく吽形の顔は読み取れない。拝殿から神門、社頭方向を眺める。 多国語が飛び交う湯の坪街道の賑わいと比べ、ここは訪れる参拝者もまばらで、実に伸び伸びとしてリラックスできる神社です。宇奈岐日女神社 創建 / 景行天皇12年(82)祭神 / 国常立尊、国狭槌尊、彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、神倭磐余彦尊、神渟名川耳尊 境内社 / 御年神社、改正社、厳島神社所在地 / 大分県由布市湯布院町川上2220 参拝日 / 2022/10/27関連記事 / 八幡竈門神社(大分県別府市内竈) 、大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY3 八幡竈門神社から宇奈岐日女神社車ルート / 移動時間約50分大鳥居から社頭まで徒歩ルート / 南東に15分程
2023.01.10
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御鍬神社から逢妻男川方向の北へ車で5分程進み八橋町寺内地内に鎮座する「日吉山王社」へ。伊勢物語にも詠われ、かきつばたで知られる無量寿寺の西隣が日吉山王社。社頭右に日吉神社社号標があり、玉砂利の敷き詰められた境内の少し先に鳥居を構えています。当日は八橋史跡保存館から境内奥に車を乗り入れ駐車させていただいた。保存館付近の八橋かきつばた園の案内板。自分だけかもしれないが、八橋と云えば無量寿寺とかきつばたとなりますが、この日吉山王社も長い歴史を誇る神社です。社頭の八橋日吉山王社。「御祭神 大山昨命創立 慶雲元年(704) 無量寿寺開祖の密園法師が寺の創建に際し、守護神として境内に勧請安置された。以来、無量寿寺住職により代々奉仕されてきた。 明治4年神仏分離により境内に境界を設け、町内氏子の氏神としてお祀りされてきた。合祀社 小舎 神明社、八朔社、八坂神社。大舎 天神社、弁財天、山ノ神、明神社、八幡社、秋葉社、春埜山、白山社。 稲荷社例祭日 10月14日 (5月) 」とある。飛鳥時代の無量寿寺創建にあたり、山門鎮護神として京都府宮津の日吉山王宮から勧請される。明治6年に村内各処に祀られていた社を神社境内に遷座。明治34年知立皇大神を勧請する際に社殿新築。昭和34年8月の伊勢湾台風で被災、拝殿を改築。昭和43年に合祀殿を新築、末社11社を奉斎。創建以来1300年の長きに渡り八橋の集落と無量寿寺を見護り続けてきた神社だ。ここを訪れたのは畑仕事の応援で駆り出された2022/11/24。花の時期に来たことはないが、この時期は訪れる参拝者もなく閑散とした静かな境内だった。参道から眺める境内は正面の拝殿、右が無量寿寺本堂、左から手水舎、社務所、大舎と続き、拝殿左に小舎と稲荷社が主な伽藍。手水舎と龍口。 瓦葺のシンプルな手水舎の下では、この時期でも大忙しの龍がいた。水を注ぐ龍の姿がいきいきとして見栄えがいいものです。末社8社を祀る大舎。大所帯故に大きな額です。社名の横にしるされた月日は祭礼日なのかな。賑やかな大舎一つお参りするだけでも、大概の無理難題を聞き入れてもらえそうだ。鈴は鳴らせなかったがならしたつもりでパン〃。拝殿と左の小舎、右の瓦葺の建物は無量寿寺本堂。拝殿前には一対の狛犬が守護する。小舎全景。八坂神社、八朔社、神明社をお祀りする。小舎の左には豊川稲荷社。入母屋瓦葺の落ち着いた佇まいの拝殿。軒丸瓦には神紋の双葉葵の紋が入る。狛犬は大正10年に寄進と読めたが違うやも。この日は雲一つない青い空が広がっていた。拝殿額は日吉山王社。無量寿寺境内から見る日吉山王社本殿。 高い塀と垣根が寺と神社を隔て本殿の造りや本殿域を垣間見ることは出来なかった。日吉山王社を訪れ、無量寿寺や杜若同様にもっと脚光を浴びてもいいのでは、そんな印象を受けました。無量寿寺のこの時期は杜若も枯れ寂しい限りですが、境内で見かけた幾つかの碑もあり、改めて掲載する事にします。日吉山王社創建 / 慶雲元年(704)祭神 / 大山昨命境内社 / 神明社、八朔社、八坂神社、天神社、弁財天、山ノ神、明神社、八幡社、秋葉社、春埜山、白山社、稲荷社 所在地 / 知立市八橋町寺内65-1不乗森神社から御鍬神社👉八橋日吉山王社 / 車移動で5分程関連記事 / 御鍬神社参拝日 / 2022/11/24
2023.01.09
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名古屋市中区錦1「泥江(ひじえ)縣神社」、個人的にとても思い出深い神社。 若い頃、先輩や同僚と「料亭でたらふく飲み食いしてみよう」なる暴挙を催した。相場も知らない若造がバブルに浮かれ常軌を逸していた時期ならでは事。案の定、帰りの電車賃も使い果たし、ひたすら歩いて家路を目指した事がある。今思えば笑い話でしかないけれど、家に着いた頃の朝陽が綺麗だったことを覚えている。その時こちら泥江(ひじえ)縣神社の社頭で若造4人が座り込み、休憩させて頂いたのは間違いない。当時と何か変わったのかと自分に問うと・・・よく覚えていない、ただ堀川を越え東を向いて歩いた道路左の神社だった。以後、馬車馬のように働き(働かされ)、二度と訪れる余裕はなかったが、そんな時代も卒業し、こうして訪れる機会が得られたことは当時が懐かしくもあり、再訪できたことがありがたくも思える。本題に戻らないといけない。由緒祭神 三女神、応神天皇、神功皇后当社は尾張本国帳に従三位泥江(ひじえ)縣天神とあり。清和天皇 貞観元年(859)豊前の國(大分県)の宇佐八幡宮から勧請された。当時の境内は八丁(1丁=約109㍍)四方あり、応永26年(1419)修繕、遷宮。社殿は古社寺保護建築物に指定されている。徳川時代には藩主を初め一般民衆の崇敬厚く、広井の八幡と称し親しまれ、大祭には豪華な神輿をはじめ、氏子、各町の笠鉾車が出て白山神社への神輿渡御武者行列などあり、名古屋の名物だった。昭和20年3月19日の戦災で焼失するも復興されるも、昭和41年不審火により再度焼失した。二度の火災でも御神体は焼失を免れ、社殿は再興され現在に至る。また、市教育委員会解説に境内縮小の経緯について触れられていた。「慶長の検地・町割、戦後の道路整備等で減少。例祭日は神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出たという、七代藩主・宗春の頃には、境内に芝居小屋も作られた」とあった。上は尾張名所図会巻之二に廣井八幡宮として現在の泥江縣神社の挿絵が記されていた。由緒にある様に当時の伽藍の大きさと本殿左の相殿を始はじめ、多くの境内社が祀られていた事が挿絵からも見て取れ、記述にも「末社、神明社、熊野社、熱田社、洲原社、三狐神社、浅間社、兒御前社、恵比須社、その他に小祠が多し」とある。以前掲載した白山神社(中区丸の内1)は応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。また、由緒に記されていた神輿渡御武者行列の様子も描かれ、ここにはその山車も享保9年(1724)焼失した事も記されていた。創建は貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請されたのが起り。祭神は三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)、応神天皇、神功皇后。応永26年(1419)修繕、遷宮。検地、町割、戦後の道路整備等で境内規模を縮小。昭和20年戦災で焼失再建。昭和41年不審火で焼失再建。まず社頭は桜通りと錦通りの間にある袋町通り。ビルの谷間に挟まれ、南を向いて鎮座している。石鳥居と右に社標が立ち、参道の直ぐ先に赤い拝殿が見えています。鳥居をくぐった境内の眺め。ビルの森の中にイチョウの樹をはじめ緑豊かなリアルな杜が残されています。参道右の手水舎。長い髭を持つ龍口。水を自在に操る事から手水鉢に龍はつきもの。想像上のもので角は鹿、耳は牛、頭はラクダ、目はうさぎ、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、腹は蛟、項は蛇をモチーフにデザインされるそうで、天井に描かれる龍もそうした意匠で描かれているという。それぞれ個性があり、滑稽なものや、この龍の様に凛々しいものもあり面白い。ただ、最近こうした物を1gramの価値として捉え、持ち去る輩がいると聞く。神社で龍を眺めていると疑われるやもしれない。参道左の石、謂れはよく分からなかった。拝殿正面全景。連子窓の緑に朱と白、境内のイチョウの黄色と鮮やか。拝殿前の狛犬は昭和24年(1949)、戦災で焼失後に寄進されたもの。神紋は橘。拝殿額は八幡宮。八のモチーフは八幡神の使いとされる鳩がモチーフになっているのは良く知られています。拝殿から本殿方向の眺め。拝殿左から流造の本殿の眺め。本殿左の錦稲荷社。こちらは稲荷神の使い、巻物と球を咥えた狐。錦稲荷社の詳細は分からなかった。錦稲荷社の左に御神木の大きな公孫樹が聳え、その前に小さな祠が祀られています。座布団の上に、恰も大きな口を開けた鰐のような岩が祀られています。持ち上げていいものか、撫でるものなのか詳細は分からないが、水や御神酒はかけてはいけない作法のようで、賽銭を供えいつものお願いをして拝んでみた。拝殿右の境内社。間口の狭い社頭から見ると社殿域は狭い印象を持ちますが、拝殿右に広がりを持ち、二つの鳥居と二つの相殿と中央に蛭子社が鎮座します。ビルの谷間の緑のオアシスのようだ。参道右の手水鉢、年代は不明。左後方には昇竜見返り之楠と呼ばれる大楠が聳えている。境内社。右の相殿は左から五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社。中央の流造の社が蛭子社。左の相殿には菅原天神社、秋葉社、住吉社が祀られています。鳥居から先の蛭子社。蛭子社の前にあるつんぼ蛭子の話。参拝者はこの社に詣でる前に社殿後方に廻り、社殿の腰板を小石か拳を持ってトン〃と叩いて音を立ててから正面に廻り願い事を述べる。こちらの神さまはつんぼでなので参拝者の願い事がよく聞き取れない事から、こちらから神さまに気付いてもらい拝む風習が生まれたと云う。戦後教育の中で何事も理詰めの思想を尊重する傾向にあるが、空想性に結びついた情と云うものが、人に潤いを与える上に重要な心的要素と捉えると、この話は貴いもの。現在は吊るされている小槌で版木をトン〃と叩いた後に願言葉を唱えると願い事が成就する。このご利益にあやかるため県内、県外からも参拝に訪れる。黒い魚梆を見れば塗装も剥がれ多くの願いを叶えて来たことが伺われます。蛭子社の黒ずんだ小さな狛犬は大正10年(1921)に寄進されたもの。戦災以降二度の火災を見てきたはずだ。泥江(ひじえ)縣神社創建 / 貞観元年(859)祭神 / 三女神、応神天皇、神功皇后境内社 / 錦稲荷社、五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社、蛭子社、菅原天神社、秋葉社、住吉社。所在地 / 名古屋市中区錦1-7-29参拝日 / 2022/12/08関連記事 / 白山神社(中区丸の内1)、大分県(湯布院・宇佐神宮)一之宮巡りDAY4)公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線6番出口から徒歩10分程
2023.01.08
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京都市東山区本町に鎮座する東福寺。東寺から市バスで東福寺バス停を降車し、目の前の県道143号線を越え南に10分程の場所にあります。訪れたのは2022/11/24、この時期は臥雲橋や通天橋から紅葉を望むスポットとして知られます。東福寺の拝観は瑠璃光院の様に予約制ではないので、紅葉のピーク時は身動きが取れない程の混雑を見せ、お目当ての臥雲橋や通天橋から眺める紅葉は写真撮影も制限され、立ち止まる事すらできないと云う。バス停から東福寺日下門が近づくにつれ、人波は徐々に増え、「つい2、3日前は少し早いかと思っていたら一気ですわ」そんな声が盛んに聞こえて来た。こうして見上げる紅葉もピークを過ぎ、散るばかりの状態。善慧院などの塔頭寺院が立ち並ぶ小路を南に向かうと、道幅一杯に広がっていた人波は対面通行の臥雲橋で一気に集中する。これでも少ない方なんだろう、当日は写真撮影や立ち止まる等の制限の呼びかけはされていなかった。上臥雲橋入口。下写真は通天橋から臥雲橋と東福寺方丈の紅葉。この上流側の偃月橋と合わせ三つの木造橋廊が架かり、紅葉の見え方は其々の美しさを持っている。臥雲橋を渡り東福寺日下門。 ここから東福寺境内へ。観光バスの入りのタイミングに遭遇すると一時的に人波が増え、広い境内に入ればそれも緩和するのだが波が引くまでは思うに任せない状態になる、特に困るのは女性トイレで長蛇の列が伸びていた。まず東福寺の始まりは鎌倉時代に遡り、当時の摂政九條道家が、南都最大の規模だった東大寺につぎ、教行は興福寺にならうという意味から、「東」と「福」の字を取り、北都最大の大伽藍を造営させたのが慧日山東福寺の始まり。嘉禎2年(1236)から建長7年(1255)の19年を費やし完成され、開山は日本最初の国師聖一国師で、当初は天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学の寺として巨大な伽藍を誇ったとされます。その伽藍も鎌倉末期初め火災により幾度か伽藍を焼失、直近では明治14年(1881)の火災で本堂、法堂、庫裏など焼失、都度再建され現在の姿になったと云う。臨済宗東福寺派の大本山の寺院で山号は慧日山。本尊は釈迦如来をお祀りする寺院。禅堂。日下門から境内に入った右側の建物で、裳階の付いた単層切妻造で白壁と華頭窓の美しい建物。貞和3年(1347)に再建された我国最大、最古の座禅道場と云う。本堂(仏殿兼法堂)当初は新大仏と呼ばれ、南都の大佛を彷彿とさせる釈迦如来像が安置されていたされ、元応元年(1319)の火災によって当初の釈迦仏像は焼失、その後明治の大火で大仏は一部を残し焼け落ち、昭和9年(1934)に再建された重層入母屋造の本堂内には、三聖寺の釈迦如来、万寿寺から移された迦葉阿難立像をお祀りしているという。本堂正面の眺めは大仏殿の趣を感じる威風堂々とした外観の巨大な建築物。昭和の木造建築物では最大のものだそうだ。扁額には「毘盧宝殿」とあり賀陽宮恒憲王の揮毫。三門(国宝)室町初期に再建された二層の門で有料拝観ですが、上層に安置される釈迦三尊、十六羅漢像を拝観でき、内部の天井や柱には明兆と弟子の手による彩色画が施されており、階段は急ですが上る価値はある。思遠池から三門正面の眺め。蓮が植えられ暑い夏の早朝、三門に蓮の花が彩りを添えてくれそうです。秋同様に混むのかなぁ、いやぁやはり混むのだろう…ここは京都だ。三門扁額「玅雲閣」、足利義持の揮毫。思遠池の右から五社成就宮(五社大明神)へ。ここは東福寺にあって意外に訪れる人は少なく、本来の静かな境内が続く。東福寺の鎮守で石清水八幡、賀茂神社、伏見稲荷、春日大社、日吉大社の五社が祀られています。上参道左側の魔王石(右)。魔王石には鞍馬山の魔王が降臨したといわれるそうだ。十三重の石塔(左)九条道家が東福寺創立を祈願し創立した十三重の石塔で一番下に梵字が刻まれていた。下五社成就宮(五社大明神)は藤原忠平が延長3年(925)に創建され、安土桃山時代には廃絶した法性寺の鎮守だったとされます。寛元元年(1241)東福寺の鎮守として社殿が建立されたが、文明11年(1479)には焼失、後に再建されたもの。石段の先で拝殿を守護する狛犬。年代を見忘れましたが、小さいながら肉付きの良い姿で、歯を剥き出しにした吽形は今にも飛び掛かってきそうな勢いがある。唐屋根の拝所内の扁額。石清水八幡、賀茂神社、伏見稲荷、春日大社、日吉大社の御祭神。稲荷の使い、狐の姿がある。本殿は檜皮葺の一間社流造。下の境内は人で溢れているが、こちらを訪れる方は殆どいないようです。江戸時代に建てられた切妻瓦葺屋根の鐘楼。梵鐘に年号は刻まれていたが元号が読み取れなかった。上鐘楼後方に石碑と地蔵郡。下その左側の荒熊大神。石の明神鳥居の先に祀られる荒熊大神の祠。三門を眺める高台に鎮座する五社成就宮には神仏習合の名残が残る、東福寺境内の人波をしばし避けるにはお勧めのスポットかもしれない。庫裏全景。この左に方丈と方丈庭園があり、庭園拝観券や御朱印はこちらで頂ける。方丈は僧侶(方丈さま)の住居や執務室、書院、訪れた者と応接するための建物で、ある意味寺の顔と云ってもいいかもしれない。現在の建物は明治14年の火災により焼失し、明治23年(1890)に再建されたものだされます。恩賜門。方丈再建に伴い昭憲皇太后より下賜された向唐破風の門で方丈への表門。檜皮葺で門の扉に大きな菊花紋の彫りが施され、門全体に細かな彫りが施されている。方丈庭園南庭。方丈そのものが明治に入り再建されており、その後の昭和14年に作庭家・重森三玲により作庭されたもので、方丈を中心に東西南北と庭園を持つのは他に類を見ないという。作庭にあたっては、本坊内にあった材料は廃棄することなく再利用し、禅の教えである「一切の無駄をしてはならない」という教えに従う条件が与えられたという。そうして出来上がったのが方丈庭園で最初に見えるのが南庭。一面白川砂が敷かれ、砂紋の中に石組と奥に苔に包まれた築山があり、京都五山を表現したものと云う。2014年に「国指定名勝」に登録されている。西庭。白川砂の庭にサツキと葛石で伝統的な市松模様を描いたもので、本坊の廃材、敷石の縁石を再利用したもの。晩秋の西庭は白と緑の市松模様に紅葉の赤も加わり、雲一つない?青空を背景に鮮やかさを増している。北庭。こちらの素材も勅使門から方丈にかけて敷かれていた切石を再利用してできたもので、西庭の大きな市松模様に対し、苔の緑と石の白さで小市松模様を描いている。一面苔庭にはない、苔の美しさが見られ、四庭のなかでは一番のお気に入り。混んでなければ座り込んでじっと眺めていられる。東庭。白川砂と円柱、奥の苔庭と生垣、これらを全てで夜空に輝く北斗七星を表しているという。白川洲の中に立つ七本の円柱も廃材とされてしまう礎石が再利用されている。禅の教えを貫き、廃棄されるものに新たな息吹を与え人を感動させる、それが方丈庭園。方丈から通天橋拝観受付方向の眺め。受付や通天橋(右)方向を行き交う人は随分と少なくなったので券を買い求め通天橋方向に向かいます。後方の方型屋根の建物は経堂。通天橋天授6年(1380)、春屋妙葩により本堂と開山堂を結び、洗玉澗を渡る橋廊として架けたとされます。橋の入口には通天の額が掛けられている。通天橋入口付近の紅葉。通天橋から右手の方丈の眺め。ここから眺める渓谷・洗玉潤の紅葉は絶景そのもの。黄金色に染める三ツ葉楓は聖一国師(円爾)が宋から伝えた唐楓だと云う。円爾は34歳で宋へ留学、40歳で帰国し教え以外にもお茶や水車を用いて蕎麦を曳く技術など様々なものを日本に伝承した。この通天橋を渡ると東福寺の建立を円爾が見守った開山堂(常楽庵)に続く。上通天橋から廻廊を上ると楼門へと続く。下開山堂(常楽庵)。円爾は開山堂に隣接する普門寺(普門院)に居住し、弘安3年(1280)、79歳で入定した地。正面の開山堂上部の伝衣(でんね)閣には阿弥陀如来立像、布袋和尚坐像、薬師如来坐像が祀られ、聖一国師(円爾)を祀る。現在の建物は文政2年(1819)に焼失後に再建されたもので、広い庭を囲むように普門院と開山堂の伽藍が配置されています。愛染堂。開山堂伽藍の西に建ち、杮葺で朱塗りの八角堂。南北朝時代の建築とされ、江戸時代まで東福寺北隣にあった塔頭三聖寺の愛染堂で、昭和9年の室戸台風で倒壊し、この地に移転、修理されたもの。堂内に宝塔形の厨子を安置し、鎌倉時代のものとされる愛染明王坐像が安置されている。諸々の苦悩から救い、愛と尊敬の心を与え、悪縁を絶ち、全ての人に安寧を授け、女性には良縁を授けて頂けると云う。ここを訪れる若い衆の姿が少ないのは、満たされているのだろうか。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、近代に入り規模は縮小したとはいえ、東福寺は今も塔頭25寺を誇る大寺院である。東福寺山号 / 慧日山宗派 / 臨済宗東福寺派創建 / 嘉禎2年(1236)開基 / 九条道家開山 / 円爾本尊 / 釈迦如来所在地 / 京都府京都市東山区本町15-778東寺からバス👉徒歩 / 南へ徒歩10分程参拝日 / 2022/11/24関連記事・教王護国寺(東寺) 2 大師堂(御影堂・不動堂)・京都一泊二日 (東寺・東福寺・瑠璃光院・南禅寺)
2023.01.07
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簡単にcoffeeが出てきてとても便利なネスカフェバリスタ。これが何台目か分からない。今朝、給水タンクの下から水漏れし様子を見るとタンクと本体の接続部分から漏水していることが判明した。給水タンク自体の底にある逆止弁はしっかり水を止めてくれている、本体接続側のパッキン劣化から漏水している可能性が非常に高い。大体こうした所には丸い形のパッキンが付いているもんだ。代えりゃ復活するだろうと安易に考えていた。上が本体側の接続口。既にパッキンを取り去り内部が露わになっているが、底にはフィルターが収まり、外す前はフィルターの外周に丸リングのパッキンがあるものと思わせる光景だった。過去の機種も使い込むと不具合が発生し分解してきたが、こんな分かりやすい個所は初めて、これなら楽勝だァ。かみさんはYouTubeで「バリスタ水漏れ」で調べ、結構シンプルなパッキンでサイズも分かったので早速買いに(@180)出かけて行った。その間もパッキンに食添用のグリスを塗って漏れを確認するも変わらない。右が複数のYouTubeで交換実績のあったもの、フィルターが付いた状態だと正にこの形態に見えていたので、取り外しにかかる。接続口の内周に沿ってパッキンを引き出す、随分と手強い、更に引き抜くと買ってきたものと全く違う形状のパッキンが現れた。これ、どう見ても合わないやね。最初の写真にある比較的新しいバリスタ(現在と同機種)のパッキンは本体接続ホースにフィルターとタンク接続口のパッキンが一体になっており旧来の様に丸いリング状のパッキンではありません。つまり部品販売しない限り復旧は無理です。奥に見える白いホース接続口に外したパッキンの先端が接続される一体物。毎度〃分解し、YouTubeにも別機種の成功事例は載っています。しかしこの機種はそうした事を断固拒否し、新たなマシン購入を促すバージョンアップされた構造が各所に見られます。それはネジ一つにも現れ、これまで分解できていた専用ビットでも合わないビスが一部使われていたり、手持ちのビットでは全てのネジが外せない。メーカー側の断固として分解させない、買い替えを促す意図が伝わってきます。その最たるものが一体式パッキンの仕様変更に現れているかもしれません。ヘビーユーザーとはいえ、マシンの寿命が短い。たかが水封パーツ一つで廃棄するなんて、資源を使い捨てる時代はとうに終わっているはずなのに。あの白いホースと水道や外付けタンクに直結してやれば使えそうなんですが・・・・・負けた。新しいマシンに変えよう、しかし純正coffeeは断じて買わない。社外品が入れれないように口を加工しても、社外品のcoffeeは充填できる、せめてそこだけは譲れない。個人的には湯を入れてcoffee作ればいいんだが、泡泡のカフェラテが飲みたいかみさんにしてみれば欠かせないアイテムのようだ。2023/1/6バリスタ逝く。安価な外部タンクとホースを繋ぐのも捨てきれないナ、廃棄せずしばらく考えて見よう。
2023.01.06
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御鍬神社から旧東海道を西に越え、車で2~3分程の知立市牛田町。住宅の立ち並ぶ一画に豊かな杜の中に鎮座する神社が牛田八幡社。神社周辺には参拝者駐車場は見当たらず、正参道脇の僅かな余地があり、そこに駐車させて頂いた。牛田八幡社正参道全景。南を向いて鳥居を構えているが、社標や常夜灯の姿は見受けられなかった。以前の参道はもう少し南まで伸びていたのかもしれない。鳥居をくぐり、僅かばかりの石段を上れば広い境内が広がり、その先に瓦葺の拝殿が望める。拝殿は入母屋瓦葺でその手前に一対の狛犬が守護している。 拝殿の右側に覆殿がある、参拝当日は社殿の補修工事の最中だった。濃い杜に周囲を囲まれている境内ですが、陽射しが差し込み明るい印象を受けました。境内の右に祀られているのが清霊社。名が示す様に、当地から故郷のために命を捧げた方々の英霊をお祀りする社。境内左の手水舎。境内は西側にも脇参道があり、そこには鳥居(大正3年寄進だった気がします)と社号標が立っています。拝殿西側からの眺め。 入母屋瓦葺で、鈴や賽銭箱は見当たらなかったがこちらで参拝させて頂きました。拝殿後方で本殿域を囲う壁と一体となり、左手の扉が開け放たれており、拝殿の先にある幣殿まで立ち入ることが出来ました。以前掲載した御鍬神社もそうでしたが、幣殿からの参拝が許されているようです。となると、拝殿としたこの建物は神楽殿なのかもしれない、そんな気がしてならない。拝殿前を守護する狛犬は大正11年(1922)に寄進されたもの。この当時であれば大陸で生まれたものではないだろう。拝殿右手から本殿域に入る。ここにも塀があり、本殿を囲むように写真の幣殿に繋がっています。社殿域を俯瞰して見ると恐らく「日」の形をしているはず。橘の紋が神紋のようで瓦の至る所に刻まれています。 社殿そのものには人目を引き付ける派手な飾り金具は見当たらないが、目貫などに施された虎や龍の彫刻には拘りを感じる。橘紋。幣殿内の額は「村社 八幡社」とある、本殿域は広々とした印象を受け、摂社などは見受けられなかった。本殿の造りはよく分からなかったが、二本の柱が見える事から流造かと思われます。鈴紐こそ下ろされてはいなかったが、幣殿には賽銭箱もあり改めて参拝。牛田 八幡社社記によると以下のように記されています。御祭神 / 誉田別尊祭礼日 / 新年祭・1月、祈年祭・3月、例大祭・10月、新嘗祭・12月、月次祭・毎月境内社 / 祇園社、社口社、稲荷社、稲荷社、山ノ神社、山ノ神社、山ノ神社、清霊社由緒 / 鎌倉時代の建久年間(1190~1199)源頼朝の目代(代官)は、鎌倉街道の南を流れる猿波川左岸の湯山に城を築き、源氏の守護神鶴岡八幡宮をこの地に勧請したのが始まり。創建時期は明確にはなりませんが、かなりの古社なのは間違いないようです。本殿域左の境内から眺める本殿。流造ではなく、入母屋瓦葺の平入本殿の様で、幣殿から見えていた柱は、長く突き出た向拝を支える向拝柱が見えていたようです。境内西側の参道と参道脇の社記。鎌倉街道と東海道と二つの交通の要衝を間近に控え、往古からこの町の移り変わりを見続けて来たのが牛田八幡社のようだ。 拝殿右側の相殿に七社が祀られているようです。7社相殿。内部左から山ノ神社、稲荷社(左上)、社口社、山ノ神社(右上)、祇園社、山ノ神社(左下)、稲荷社(右下)。稲荷社の一社を除いた6社は、何れも周辺の集落や寺で祀られていたものを遷座したもの。田畑が広がる地域ですが、市街化に伴いこちらに纏められた、牛田八幡社はこの辺り一帯の氏神です。牛田 八幡社創建 / 不明祭神 / 誉田別尊所在地 / 知立市牛田町宮本14参拝日 /2022/11/12不乗森神社👉御鍬神社👉牛田八幡社車移動 / 御鍬神社から西へ2~3分関連記事 / 御鍬神社
2023.01.04
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五条橋の袂に佇む屋根神様から江川線沿いに少々北上し西区幅下方面へ。途中慶栄寺北側を歩いていると、12月に入ったと云うのに淡いピンクの桜が咲き誇っていた。 彩りが寂しくなっていくこの時期、この色合いは妙に嬉しくなる。県道200号線を渡り那古野から幅下へ、右手の大通りは江川線。 高速の高架が架けられて以降、以前目にしていた周囲の光景と今の光景の違いに馴染んでいない。横を走る江川線は、名の通り嘗て庄内川から導いた庄内用水を分流した江川が流れていたことから来ている。 この辺りは菓子問屋の店舗が連なり、昭和の頃には相当賑わいを見せ「新道・明道町の菓子問屋」とも云われていたそうです。今は往事の賑わいこそないものの、そうした店舗が残り、菓子問屋街の名残を感じさせます。 写真は神社社頭(左側)方向の眺め。現在の江川はほゞ川の面影はなく、名からその存在を知るのみです。 名古屋城下は清須越で開けていきますが、当時は堀川沿いの四間道を境に西が幅下で東を幅上と分けられ、当時の幅下の西端は江川まで、それより西は湿潤な土地を利用した水田が広がっていた。上は1898年(明治31)頃の幅下界隈、右がほゞ現在の幅下。 当時ですら、西に稲田の広がる端っこの名残を感じさせます、江川はそうした田畑を潤す役割もあったはずです。隅田神社(須佐之男 伽具土神社)は江川線沿いの菓子卸市場と包装用品の店舗に挟まれ、僅かな間口の奥に鎮座します。 この僅かな間口と建物と同化した鳥居の存在は歩道を歩いていても見落としてしまいそうだ。鳥居左の由緒書き。 「隅田神社祭神 須佐之男大神、伽具土大神。摂社は隅田開運稲荷神社、柳龍神社。 創祀は元禄初年(1688)とされ、大祭は10月1~2日。創祀当時、この地域は江川(現在の江川線)の東に沿った農村でした。 元禄の初め熱病の流行と村内で起きた火事をきっかけに、熱病防止と安全祈願のために祭神二柱を祀る。文政8年(1825)、畑地が開かれ町屋が形成されますが、低湿地で、大雨の時に池のようになる場所だった。 そうした環境もあり人家は西北の隅に追いやられました、隅田の由来はそこから来ているとされる。戦後、新道の菓子問屋街はこの辺りまで拡大し、昭和40年代までは特に賑わった。駄菓子を入れた缶を積み重ね、大風呂敷で包んで背負って運ぶ「カンカン部隊」は有名だった。 一つの神社を一町内の氏子だけでお祀りしている事、菓子問屋街の中の神社という点が特徴。」社頭から石畳の参道の眺め、正面には東側の道路が見通せる。 社殿は参道左側にあるようです。参道から鳥居を見上げるればすぐ上を高架が横切り、左右は建物に挟まれ見上げる空がとても小さい。参道右側の常夜塔。 珍しい形をしており、火袋は三つ巴の紋が入れられ、一見すると太鼓のようにも見える。笠にあたる部分はなく、宝珠にあたる部分に鶏が乗る。 名古屋ではあまり見かけない諫鼓(かんこ)型と呼ばれる石灯籠。諫鼓とは昔の中国で、君主に対して物申す時に民衆が打つために設けられた太鼓を指し、鶏は鶏の鳴き声によって君主に善政を促し、人々を警醒する想像上の鶏だとか。 「諫鼓鶏」は、善政を願い諫鼓を鳴らす必要がない世の中で、太鼓の上に止まる鶏も逃げない善政に満ちた世であれ。というような意味が込められているそうですよ、とてもタイムリーなことがこの灯篭に込められている。岸田さん、太鼓の音は聞こえないかい?参道を進むと右側に阿形のみの小型の狛犬がいる。 左側が社殿のようで覆屋の下に社の姿が見られます。参道右で独り境内を守護する小さな狛犬。 赤い首輪を付けてもらい可愛い姿をしている、良く見れば右側が欠落し痛々しい姿だ。この狛犬の向かいが覆い屋。 奥行きがなく全景も撮れないほど限られたスペースに、巧みに三社を覆う覆屋が立てられています。その社の前を守護する一対の狛犬(1934)覆屋の下に祀られている三社。 中央の社が須佐之男大神、伽具土大神の二社相殿、左右に棟持柱が見えるので神明造か、右は狛狐の姿がある事から隅田開運稲荷神社と思われます。 そして左の社が柳龍神社と思われます。三社ともに檜皮葺屋根で、隅田開運稲荷神社と柳龍神社は流造。 社頭の解説にあったように流行病と火災をきっかけに、元禄初年(1688)に須佐之男大神、伽具土大神をお祀りした。家屋が連なり、湿潤な土地柄から生まれたであろう禍を、二度と経験したくない気持ちから生まれた神社なんだろう。 そして江川を前にして水を鎮める意味合いから柳龍神社が、商いや農業を生業とする人々が稲荷神を祀っていったのだろう、これら三社が同時期に祀られたものなのかは定かではない。参道を通り抜け東の通りから眺める隅田神社。 鳥居こそないが、左の社標には「須佐之男神社、伽具土神社」とある。玉垣と二本の御神木が聳え、こちらから眺めれば神社としての佇まいが感じられる。 幅下学区(西区)の紹介の中に、幅下町が菓子問屋街として賑わった当時の事が紹介されていた。一部抜粋。 「藩政以前のこの辺りは、名古屋城と碁盤割商人街が那古野台地に築かれ、堀川沿いの四間道より東が幅上、西が幅下とされた。西側でも士分以上の侍屋敷町と製造業や卸問屋業等の、美濃路沿いの米蔵のある旧名古屋村の辺りを「幅下」と呼んだのが学区名の由来と伝えられている。江川線を挟んで東西に一歩入ると菓子問屋の街になる。 この地域の菓子は俗に駄菓子といわれる煎餅や飴等が中心で、元禄7年(1694)に新道が開通した年の暮れに初代笠屋与八(現・古橋製菓(株))が門前町の供物菓子からはじめた。文政の頃(1818年から1830年)から盛況を見せ始め、本格的になったのは内外に販路を拡張した関東大震災の頃である。 この界隈は昭和46年(1971年)まで路面電車が縦横に走り、「新道・明道町の菓子問屋」といわれて多くの住民が菓子類の製造・販売に携わった。通りには店舗が連なって朝早くから「カンカン部隊」等の利用客で賑わう日本有数の菓子問屋街だった。 現在は社会の変化と人々の嗜好の変化により、店舗数もかなり減少したが、この街の菓子問屋はこれからもたくましく存続していくことを町の人は願っている。」嘗ての活気のある問屋街を取り戻す事は、通りを見つめる狛犬も願っているに違いない。隅田神社(須佐之男 伽具土神社) 創建 / 元禄初年(1688)祭神 / 須佐之男大神、伽具土大神 境内社 / 隅田開運稲荷神社、柳龍神社所在地 / 名古屋市西区幅下2-19 参拝日 / 2022/12/08関連記事 / 五条橋の袂に佇む屋根神様 (西区那古野1) 多賀宮から徒歩 / 五条橋の屋根神様から北へ徒歩10分程
2023.01.03
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八幡竈門神社。 血の池地獄から山間に鎮座する八幡竈門神社までは車で北に10分程の移動時間。別府湾を眼下に見下ろす高台に鎮座し、鳥居から眺める朝陽が美しい事で知られる。駐車場の直ぐ脇に立つ石の明神鳥居は北参道の鳥居。 社殿は亀山の東斜面の頂に鎮座しており、正参道は麓の県道218号線沿いの石段を上ると一ノ鳥居があり拝殿に続きます。麓には駐車場は見当たらず、この駐車場を利用すれば拝殿前に容易に辿り着けます。 額には八幡竈門神社と刻まれている。 某アニメの主人公の名と神社名が同じで、境内には鬼が作った99段の階段や鬼の石草履など鬼と所縁もある事から、アニメファンが訪れるという。鳥居右の手水舎、後方の建物は多賀神社。 鳥居をくぐると左に社務所、正面に神楽殿、右側に一段上がって社殿が鎮座します。拝殿右の多賀神社。 滋賀県の多賀神社を本社としますが、いつ頃この地に勧請されたものか詳細は不明。拝殿内には古めかしい神輿が安置されていた。 祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命御神徳 虫鎮、延命長寿の守護神社殿全景。入母屋瓦葺の平入で前後に千鳥破風、唐破風が付くもので、創建1270年祭に合わせ改築されたようです。 創建が神亀4年(727)とされるので平成に入ってからですか、社務所、拝殿、本殿に傷みが少ないのもそうした事もあるのか。拝殿に続く石段の脇に一対の狛犬と拝殿右に亀の姿が見られる。昭和3年(1928)に寄進された狛犬。 筋骨隆々とした体つきで小さな角を持ち、大きな口を開けた愛嬌のある顔つき。八幡竈門神社由緒。「仁徳天皇(在位312~399年)御宇のとき曰く、日本武尊および神功皇后(200年頃説)が西征のとき豊後州速見郡竈門荘亀山に行宮(天皇行幸の仮宮)を造る。 このとき国常立尊、天照大御神を始め三十三神を奉斎する。次に聖武天皇(在位724~749年)の御宇、神亀四年(727年)三月十五日豊前国宇佐より仲哀天皇、応神天皇の神霊が竈門荘宝城峯に降臨する。 山麓において大神諸男と大神豊永(竈門宮宮司)が相議し、御越山に遷座奉る。既にして亀山の桜樹の枝上に現れる。 再び竈門宮に奉斎する(例大祭桜会祭の紀元)。併せて三十五神となる。既に竈門宮と称す。 次いで淳和天皇(在位823~833年)の御宇、天長三年(826年)宇佐より神功皇后の神霊を迎え、併せて三十六神となる。このときより八幡竈門宮と称する。八幡竈門宮伝記より大祭 4月1日御神幸、4月3日御還幸、例祭4月15日 多賀神社祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命 虫鎮、延命長寿の守護神」拝殿正面から眺め。 拝殿天井には龍の天井絵が描かれており、龍はアニメでも登場するらしい。拝殿額「八幡竈門神社」 アニメの影響力は絶大で、それ以前は訪れなかった年代層が巡礼に訪れるようになったという。拝所から幣殿方向の眺め。 神紋は左三つ巴のようです。竈門の謂れを調べて見たが竈門荘から来ているのか、すぐ近くのかまど地獄から来ているものか、分からなかったが、アニメの主人公の苗字から来ているものではないよネ。拝殿天井絵。 宝珠を握りしめた白龍が天井から睨みを利かせている。本殿は銅板葺の三間社流造。 千木は内削ぎで三面に高欄が付き脇障子に繋がる、外観の装飾は控えめなもの。拝殿左の魂依の木。 幹に大きな空洞がある樹齢約500年とされるイチイガシ。別府市の保護樹に指定されています。 ここから更に左奥に進むと境内社が並んで祀られています。熊野社。 切妻瓦葺で比較的新しい社殿、三重県の熊野大社から勧請し熊野権現をお祀りするのだろう、詳細について語られていない。熊野社左に鎮座する亀山稲荷大明神。 こちらも創建等の詳細は不明。稲荷社左の石碑、この左に鬼の石草履と呼ばれる三本指の足跡に似た岩があり、足を入れるとパワーが湧き出るのだとか。鬼の足指が三本なのは貪欲、嫉妬、愚痴を現しており、知性と慈悲が欠けているからだとされます。 ここにも鬼の存在がある。神楽殿。 別府湾を見通せる境内の東に建ち、三方が吹き抜けのもの。ここでは大晦日から元旦にかけ、今年一年の無事や家内安全などを祈願し竈門神楽が奉納されるそうで、演目の中には、八岐大蛇を神様が退治し、お姫様を助けるという演目「大蛇退治」が奉納されるという。 刻々と明け行く東の空を眺めれば、別府湾から上る美しい初日の出が拝めると云う。拝殿全景。 普段の境内は静かさに包まれていますが、大みそかには神楽と初詣、そして初日の出を目当てに参拝客で賑わうのだろう。拝殿から別府湾の眺め。 二つの鳥居が立っており、春分の日(3月21日)と秋分の日(9月23日)には、二つの鳥居の真正面から昇る朝陽が拝めるそうです。鳥居の左右に安置された赤茶けた丸いものは機雷。 水中に敷設され、行き交う艦艇がこれに触れると爆発するもので第一次世界大戦(1914~1918)の戦勝を祈願し、旧海軍の有志により昭和3年(1928)一対奉納されたものだとか。鳥居から一段降りた参道の左右に立てられている石灯籠。 享保19年(1734)当時の代官岡田庄太夫が寄進したもので、創建が神亀四年(727)と長い歴史を誇る八幡竈門神社の境内寄進物では最古のものだという。手水舎、手水鉢(上)と左の「鬼が造った99の石段」解説(右)。 解説は以下「昔、亀川の竈門に悪鬼が住んでいた。 毎夜現れては人々を食い殺し郷を荒らしまわっていた。里人は八幡様に鬼の退治を祈願した。 八幡様は鬼に、一晩の内に100の石段を造ったら毎年人間を生贄に与えよう、しかし出来なければ今後里に出てきてはならないと約束をしたという。鬼は承知してあちらこちらの谷や川から石を運び石段を造り始めた。 99段造った時、神様が「まだできぬか」と鬼に声をかけ、鬼はその言葉に一息つき「あと一段」と云った時に一番鶏が鳴き夜が明けてしまった。鬼は驚き逃げていき、二度と里に現れる事はなかった。 石段を見ると下の方は丁寧に作っていますが、上の方に行くにつれて大雑把に造られている」これもアニメのストーリーそのもの、暗闇が少しずつ明けはじめ、焦る鬼の心理が結果に表れている。 八幡様はそれを見越して声掛けをして手を休ませたのだろう。折角あと一段まで造り、日の出を迎え、朝陽から逃げる時に鬼が残していったのが「鬼の石草履」ということだ。 ・・・似たような話は西寒多神社の「鬼の歯形石」でも聞いたような。あれは「一晩で橋を架ければ食べられよう」と云う約束で、最後は橋が完成する直前で鶏の鳴き真似を信じ込んで鬼が逃げ去った話だった。 鬼は頑張っても報われないのだ。鬼が造った石の参道、麓の鳥居から数えるとこの鳥居(1929寄進)はニノ鳥居になるのだろうか。ここから下を眺めれば、鬼が必至で造った99段の石段が麓に続いています。 一年に二回、この延長線上から昇る朝陽はさぞかし絶景だろう。下は八幡竈門神社HPで掲載されていた映像をお借りさせてもらいました。こんな綺麗な光景が見られるのであれば、この目に収めるためもう一度訪れるしかない。 運よく春分の日と秋分の日に別府に滞在の際は八幡竈門神社の日の出は外せない場所です。とはいえ、これも天気次第。こんな綺麗な朝陽が差し込んでも鬼は愛でる事できない。急いで造ったとされる終盤の石段。 それでも綺麗に造られている気もするが。社名と云い、鬼に纏わる伝説と云い、アニメファンが訪れるのも分かるような気がする。八幡竈門神社 創建 / 神亀四年(727)祭神は以下。 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、国常立尊、天照大御神、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命、素戔鳴尊、天忍穂耳命、天穂日命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、天兒屋根命、活津彦根命、天津彦根命、櫲樟日命、天太玉命、経津主命、武甕槌命、建御名方命、大山祇命、加茂別雷命、大山咋命、高龗神、倉稲魂命、大物主命、天照大御神荒魂、丹生都比賣命、金山彦命、日本武尊、宮簀媛命、豊姫命、カゴ坂皇子、忍熊皇子。境内社 / 多賀神社、熊野社、亀山稲荷大明神 所在地 / 大分県別府市内竈1900参拝日 / 2022/10/27 関連記事 / 豊後一ノ宮 西寒多(ささむた)神社(大分県大分市寒田) 、別府白龍稻荷大神(海地獄敷園内)おにやまホテルから車移動 / 北に20分程
2023.01.02
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新しい年を迎えこの一年が全ての人にとって平穏な年になりますように
2023.01.01
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