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小さな家庭菜園で毎年自家製野菜を楽しんでいますが、今日はスベリヒユについて取り上げます。毎年家庭菜園用の土を買ってきます。その土には種をまいたわけでも、植えた訳でもないのに色んな植物が芽吹いてきます。写真のポーチュラカや松葉牡丹に似たスベリヒユ。いつもはここまで生い茂る前に雑草として抜いてしまいますが、今年は特別。春先にかみさんが年代物の花の種を撒き、その中にポーチュラカも混じっていた事から怪しいなと思いながらも、迂闊に抜くに抜けずポーチュラカの花が咲くのを楽しみに毎日水やりをしてきた。しかし一向に大きな花を付ける気配はない。最近茎の先をよく見ると黄色の小さな花を付けているのに気が付き、漸くスベリヒユと分かった。雑草をここまで大きく育ててしまった。このスベリヒユ、雑草とされますが実は立派に食用となるようです。元来スベリヒユを食用とする地域や国があるようで調理の仕方も様々で、一般的には湯通ししてお浸しやからしマヨネーズであえ物にするのが王道らしい。ならばせっかく育てたスベリヒユ、食して見ることにした。収穫。こうして見ると美味しそうに見えてくる、まずはそのまま食べてみる。自分の感想、えぐみはなく、食感があり、僅かにモロヘイヤ風の粘り、口の中に僅かに青臭さ(言い方を変えると自然の風味)。自分なりの用途・ぼやけた野菜サラダのアクセントに混ぜる・さくっと天ぷら・西洋風のあえ物・納豆に混ぜ込む取り敢えず天ぷらを作るとかみさんが怒るので、こそっとマヨネーズ和えに挑戦。茎、葉の順で軽く湯がいてみた。冷水で冷やして器に盛りつけ。あえて混ぜ込まず、マヨとからし、なんとなく鰹節。実食ぜんぜん問題なく普通に美味しく、充分一品になり、湯がいてしまったがサラダでも十分な素材かと思う。では効能は? 調べてみると「天然の抗生物質とも呼ばれ、抗菌作用や消炎作用、解毒作用、利尿作用の効果がある。腹痛や下痢を抑え、整腸作用、葉の汁はニキビや湿疹、虫刺されに有効な成分が含まれています」とある。では栄養素は?オメガ3脂肪酸やビタミンA、ビタミンC、ビタミンB群、マグネシウム、マンガン、カリウム、銅、鉄、リン、カルシウムなどのビタミン・ミネラルを含み、雑草として駆除するには捨てがたい。ただ、シュウ酸を含むので生で大量に摂取すると結石の要因になるらしく、湯がいて食べるのがお勧めの様です。そんな植物なら今日も水をやろう。この横に花が植えてあるのだがスベリヒユの繁殖力は強く、覆われてしまっている。あれから日が経つが体調に変調はない。スベリヒユ、雑草として忌み嫌い引き抜く前に一度食べて見てもいい食材かも知れない。
2023.08.31
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有馬稲荷神社。灘の酒蔵巡りで訪れ、有馬温泉のTokyu Harvest Club有馬六彩に宿泊した際、宿のほゞ目の前に社頭を構える有馬稲荷神社を見かけ、早朝に訪れ参拝させてもらいました。社頭全景。早朝の凛とした雰囲気の中、朱の明神鳥居が一層は鮮やかに写る。社頭右に「稲荷神社」社標が立ち、鳥居の先の石段正面に賽銭箱が見えます。社頭右の有馬稲荷神社解説。「舒明天皇、孝徳天皇(600年代)有馬温泉行幸の際、杉ヶ谷に行宮の守護神として祀られた始まり。射場山の中腹でこぶしの花をはじめ四季折々の花の名所となっている」有馬温泉を最初に発見したのは神代の昔、大已貴命と少彦名命の二柱の神とされ。存在が知られるようになったのが、舒明天皇(593〜641)、孝徳天皇(596〜654)の頃、両天皇の行幸を機に有馬の湯が知られる様になったとされます。有馬稲荷神社は有馬温泉とともに現在まで受け継がれている古社の様です。鳥居右に苔に包まれそうなこま狐達が早朝に訪れた見知らぬおやじを見つめている。鳥居扁額は「有馬稲荷神社」、視線の先には行く気も萎えるような石段が続く。石段脇に二つの社標、寄進年は見ていませんが以前赤く塗られていたよう痕跡。そして石段の真ん中に賽銭箱が置かれ、左脇にはモノレール。かみさんを誘うも「がんばってね」と言うのも頷ける。ここは萎えておいた方がいいのだろうか、そんな気持ちと鬩ぎ合いながら登り始める。昨晩は足の疲れを有馬の湯が癒したくれたが、取り敢えず一旦ここで足を止め一休み。起き掛けの体に石段は当然の様に応えるが、あの鳥居まで行けば行くか、戻るか判断できるだろう。願わくば「鳥居の先に社殿が広がる」であってほしい。ニノ鳥居までやってきた。その先には社殿は広がっていなかった。参道は鳥居から右方向の斜面に延々と続いているようだ。左の看板に残り200㍍とある、それなら登ってみようと進む事を選択。この看板がなければ先の見えない登り坂はパスしていたかも知れない。参道には参拝者を励ます様に看板が立てられている。・・・まだ続くか。なんとなく境内が見えてきた、まさに「やったー」の気分。紫陽花が咲き残る参道を手水舎に向け進む。手水舎全景、残念ながら清水は注がれていなかった。手水舎から左方向に社殿が広がっています。正面が社務所で右手の一段上がった境内に拝殿がある。石垣に掲げられていた解説。「有馬稲荷大明神が鎮座する射場山は、阪神淡路大震災で大きく地割れが生じ山が動きましたが、神さまを祀る有馬稲荷神社はほとんど被害を受ける事はなかった。」有馬稲荷と龍神さま・孝徳天皇没後社殿を再建。・鎌倉幕府に政権を奪われた後鳥羽天皇は、自分で作った刀と龍神の彫物を社殿再建時に奉納、武家政権の打倒を祈願した」という。・慶応4年(1868)有栖川宮織仁親王の令旨で永世宮家の祈願所とされ、後の昭和27年(1952)には、高松宮宣仁親王の参拝もあった。拝殿正面全景。入母屋銅葺屋根で桁行、梁行き3間の平入拝殿で四方吹き抜けのもので、周囲は高縁で囲われています。拝殿前の年季の入った狛狐(寄進年未確認)。兵庫県神社庁の当社解説によれば以下の様に書かれていました。・主祭神 倉稲魂命。・祭事 初午大祭には採燈大ごま修供行を斎行し、無病息災・家内安全・家業繁栄を祈願、併せて立春を祝い大ごま行を行なう。・奥宮には古長大神・恒長大神を祀り、末社粟島神社には粟島大神、大宮姫大神、白霊大神を祀り、湯山稲荷神社には大島豊永大神を祀る。・由緒舒明天皇・孝徳天皇(630~670)有馬温泉行幸の際、有馬字杉が谷に有馬行宮(杉が谷行宮)が造営された。この有馬行宮の守護神として稲荷大神を勧請し、有馬稲荷の源となる。以来、有馬行宮の跡に鎮座し、星霜千数百年の間、幾多の変遷あるも常に皇室の崇敬厚く、慶応4年(1868)5月9日、有栖川宮熾仁親王殿下のご令旨を賜り、永世宮家のご祈願所となる。以来同宮家各親王殿下のご祈願ご参拝数度にわたる。明治22年(1889)9月14日に有栖川宮親王・同妃殿下のご参拝があり、その後、久邇宮親王・同妃殿下、昭和27年(1952)には、高松宮親王殿下がご参拝された。明治37年(1962)5月9日、丹波・丹後・但馬の三丹州を見下ろす海抜689メートルの射場山(功地山)の中つ処に、この山の古長大神(フルオサ)・恒長大神(ツネオサ)のお導きにより、在来の古松老杉清泉奇石の他、新たに四季の花木を植え、高潔優美の霊境となすことを目的として現在地に移転造営する。」明治37年(1962)に現在地に遷座しているようで、造営当初の有馬字杉が谷とは地図で見ると炭酸泉源公園のある辺りとなります。拝殿前から本殿方向の眺め。中央の柱に木札が掛けられていますが「有栖川」までは読み取れますがそれより下は読み取れなかった。拝殿の先で更に石垣で一段高く積み上げられ、その上に本殿域があります。拝殿右側の境内社。鳥居のある手前の神社は粟島神社で祭神は粟島大神、大宮姫大神、白霊大神の三柱を祀る。その後方は湯山稲荷で祭神は大島豊永大神。右手の石碑の脇にも小さな社が祀られているが詳細は不明、但し小さな狐が祀られており稲荷なのは間違いなさそうです。粟島神社。三社相殿の社の前には複数の小さな狐が守護しています。石碑右の不明社、こちらにも狐の姿。湯山稲荷は境内から望遠で撮ってみたが、手振れが酷く掲載できる代物ではないので見送りますが、前記した2社の様に社の前に白い狐の姿は見られなかった。拝殿左側から境内の眺め。拝殿を回り込めば石段を上り本殿域に行けます。本殿域の入口から本殿方向の眺め。本殿域は透塀で囲まれ、神門をくぐると本殿を望むことが出来ます。まずはこちらで参拝させて頂き、神門をくぐらせてもらう。本殿全景。大きな切妻屋根を二本の掘っ立て柱が支え、鰹木は中央と左端の2本。参拝を済ませ神門前から拝殿方向を見下ろす。深い軒を持つ屋根の姿は翼を広げた鳥が羽ばたくようにも見えます。拝殿前から望む有馬温泉の眺望。前夜からの雨が残りガスッてますが、萎える気持ちに打ち勝ってあの石段を登った者だけしか拝めない眺望です。登ってきた以上今度は下らねば、躓かないように気を付けて降りていこう。ニノ鳥居から社頭を見下ろす。ゆっくり確実に社頭に戻り、宿の朝風呂に浸かり足の疲れを癒してもらおう。有馬稲荷神社創建 / 孝徳天皇(600年代)祭神 / 倉稲魂命、古長大神・恒長大神境内社 / ・粟島神社祭神 / 粟島大神、大宮姫大神、白霊大神・湯山稲荷祭神 / 島豊永大神・不明社所在地 / 神戸市北区有馬町1745公共交通機関アクセス / 神戸電鉄「有馬温泉駅」下車、徒歩20分参拝日 / 2023/07/08関連記事 / ・有馬六彩・灘五郷酒蔵巡り(魚崎・御影郷・西郷)・神戸市灘区大石南町 「住吉神社」・神戸市灘区「若宮神社」
2023.08.30
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2023/08/21~08/23かねてから用意していた二泊三日のキャンプに出掛けてきました。場所は御嶽の北嶺にあたる岐阜県高山市朝日町胡桃島にある「くるみ温泉&キャンプ」通勤ラッシュ前の時間を狙って、荷物満載の軽で名古屋を出発。ひたすら下道と国道41号線で約4時間、途中美濃太田で朝食、萩原のバローで食材の買い足し、道の駅ひだ朝日村で昼食、地元の酒屋で酒を買い求めるなどしてチェックインの13時に合わせ朝日村に到着。軽で2泊のキャンプは初めての経験、重たいビールや酒を積み、荷物一杯の軽では秋神ダム付近の坂道になると悲鳴をあげ、いかにも辛そうに上ってきましたが、胡桃島あたりでは比較的急坂もなく平静に走ってくることが出来ます。燃費の悪い大きな四駆でなくとも、意外に軽のナンチャッテ四駆で十分かもしれない。写真はキャンプ場下流の宮の前付近から秋神川上流の眺め。写真は県道435号線沿いのくるみ温泉&キャンプ入口。秋神川左岸沿いの温泉宿とキャンプ施設を併設したもので、こちらのキャンプ場利用者は好きなだけ温泉に浸かる事ができ、尚且つ目の前を流れる秋神川で魚と戯れる事も出来る。しかもサイトへの乗り入れも車高が低い軽でも底を打つようなことはなく、スタックするような荒れた所もない。リスクを避けたい向きには安心して利用できるキャンプ場。チェックインは13:00、チェックアウトは12:00となっています。基本料金は1サイト3000円~一人1500円で車一台がサイトに横付けできる。くるみ温泉全景。県道沿いの立地ですが、行き交う車の交通量が少ないので静かな山小屋風の宿。宿の右手に細い沢が流れており、橋を渡った右側がキャンプサイト。橋の上から沢を覗けば、清らかな流れの中に梅花藻も自生する。下流は繁殖のため立ち入りが禁止されていますが、橋から上流は魚のつかみ取りエリア。細く浅い緩やかな流れなので、子供につかみ取りを体験させるには安心できる。左手は宿に宿泊している方専用のBBQエリア。サイト南側の眺め。バンガロー、コテージが点在し、それ以外はオートキャンプサイト。写真中央にサニタリー棟がありますが、寒い時期の食器洗いには嬉しい温水が出る。テント設営。利用したサイトは北外れのトイレに近い場所を選択。トイレは出来て日も浅く、スタッフの方が毎日清掃してくれるので設備も綺麗で異臭もしない。車を目隠し代わりにして秋神川沿いにテント、メッシュタープ、フライシートを設営。設営時に黒い雲が流れ込み、通り雨に見舞われましたが、それもすぐに上がり、濡れ鼠にならずに車の積み荷を全て展開、薪に火を付けたところで一息入れてビールで乾杯。台風以降、高山や下呂付近で雨雲が湧く傾向だったので、設営・撤収時は降られるものと覚悟しましたが滞在期間中に酷い雨に降られる事もなく嬉しい誤算。キャンプ場の標高がそれほど高くないので陽射しがあると暑く、長袖の出番はなかった。しかし暑いとは言っても山だけに、名古屋のジメッとした暑さとは違い、木陰や川から吹き上げる風は心地よい。一息入れて宿泊者の特権、宿の岩風呂でひと汗流す。利用者は営業時間内に何度利用しても無料。休憩室もあり、そちらではビールやcoffeeもあるので温泉三昧を味わえる。岩風呂。宿なのでドライヤー、シャンプー類もあり、タオル一つあれば問題ない。また、宿に宿泊者がいれば朝8時から利用できる。温泉はやや薄い茶色を帯びた無臭の冷泉で僅かに鉄分を感じるもの。ここから南に濁河温泉がありますが、あの湯の様に白いタオルが赤く染まるようなことはない。効能は筋肉痛、関節痛、冷え性に効果があるようです。入浴施設のあるキャンプ場は見かけますが、家族4人で入ると一回数百円、結構な金額になる。サイト利用料は多少高目かも知れませんが、この部分を考えるとそうとは思えないかな。サイトで見られる自然。地名が胡桃島、宿はくるみ温泉と付くだけに一帯には胡桃の樹が無数に見られ、その他にも蕗やウド、タラの樹など春には食材に困らない。当然、これらの実りを糧とする動物も豊富で、猿・イノシシ・熊・蛇は当たり前のように生息しています。サイトから眺める秋神川、このあたりは深い淵や激流もないので親水エリアとして整備され、河原に降りる階段やベンチが置かれており、目の届く範囲でライフジャケットを付けたうえで子供を遊ばせるには良い場所。秋神川上流の眺め。ここから少し奥に氷点下の森があり、山路を更に進めば鈴蘭高原に続きます。下流の眺め。魚と戯れたければ宿で遊猟証も販売されており、翌日のものも交付してもらえます。日中は川遊びで賑わっていましたが、翌日の朝に毛鉤を流して見ました。人が頻繁に出入りする場所でも、毛鉤を目がけ岩の下から様子を見に来る小さな岩魚の姿を見かけました。残念ながら写真に収める事は出来ませんでしたが、川を吹き抜ける風と水の冷たさは久し振りに感じるもの。沢に分け入る脚力も衰え、これが年相応なのかもしれない。初日の晩御飯。最近このパターンが多い。朝日村の酒屋さんで手に入れた「氷中貯蔵 氷点下の森 熊の涙」蔵元は高山の「平瀬酒造」、こちらで瓶詰めされ、氷点下の森の貯蔵タンクに貯蔵されたもの。少し値段は高いが、白ワインに通じる芳醇な味わいのお酒で、貯蔵数量が2000本ということからこの地域でしか流通しないそうです。個人的にロックで飲むのがいいかもしれない、飲んで外す事はないと思います。サニタリー棟。綺麗に管理され、残飯はチェックイン時に渡される専用の水切り袋に入れサイトに持ち帰り、自宅で処分するシステム。サイトから出る廃棄物で唯一回収してもらえるものは、撒きを燃やした後の炭と灰のみ。後で出てきますが、サイトにおいても食糧や食べ残し、焼き網などは寝る前に車に入れておくのがいいでしょう。薪は家から持参した元ウッドデッキをカットしたもの。解体後2年過ぎてもキャンプの回数が少ないだけに一向に減らない。嵩張るだけに頑張って燃やそう。昨年コストコで買ったLEDソーラーランタン、防災用で買ったがキャンプの定番になった。タープ内で食事用に使っていたガスランタンから、これに変えましたが、使い方を間違えていたようです。LEDは眩しいくらいに明るく、重宝しますが、これは屋外の誘蛾灯として使用すべきもので、タープ内で使用しない方がいい。理由は簡単、LEDは発熱する事もなく、火を使わないので安全ですが、虫は寄って来るが殺せない。このサイトは川も近い事もあり写真の様にカゲロウや多様な虫が寄ってきます。カゲロウは悪さはしないが、羽蟻は困ったものでテーブルが羽蟻だらけとなりました。速攻ガスランタンに代え、LEDランタンはテントの前に誘蛾灯として置き換えた。ガスランタンだと飛んできた羽蟻は熱で死に、マントルで焼かれていく。この灯色はタープ内の用途には向かない、そもそもソーラーなので外で使う方が合っている。くるみ温泉&キャンプの夜。県道を行き交う車も全くなく、サイトの明りと、周辺に付けられたソーラー照明の明りのみ。一歩外に出ると真っ暗、天気が良ければ頭上には満天の星空がきらめく事だろう。滞在中は雲が多く生憎そんな光景には出くわさなかった。小鷹神社。キャンプ場から30分程下流方向に歩いた宮之前地区に鎮座する神社。県道脇に一ノ鳥居があり、そこから続く参道は遥か先の山の入口に立つ二ノ鳥居に続いています。創祀や由緒の詳細は不明ですが、明治44年(1911)に字川島より無格社の山神神社を合祀したとあります。祭神は大己貴大神、少名彦神、大山積大神をお祀りするようです。所在地 / 岐阜県高山市朝日町宮之前字森下247番地上は小鷹神社ニノ鳥居付近に普通に置かれた獣捕獲用の罠。下は県道435号線沿いで見かけた光景。県道沿いには地元の方がコスモスや季節の花が植えられ、歩いていても退屈する事はない。上の写真の様に県道沿いには人形の姿をよく見かける。上は夏水仙と呼ばれるもので、ユリのような花を除けば彼岸花そっくり。山里に夏の終わりを告げる秋桜が咲き誇っていた。上宮前公民館付近で道路際に馬頭観音像を安置した小さな祠があり足を止めて見たが、その右脇に立つこの建物は集落の不動堂。下水口商店。キャンプ場やGマップ上では営業していると書いてあったので訪れましたが、既に廃業されていました。さて、ここから上桑之島バス停から秋神川を渡り右岸沿いを歩いてキャンプ場に戻ろうとした際、橋の袂で雑草狩りをされていた地元の方に声をかけた時の話を書き留めておきます。・つい先ほど上流の唐谷橋付近で草刈り中「熊」を見かけた。・唐谷橋付近の草刈りを諦めここを刈り出した。・ここから右岸沿いに唐谷橋方向には行かない方がいい。・最近の熊は人を見かけても自ら逃げず、後ろから人に寄ってくる。・熊鈴は全く意味がないから。・小鷹神社の罠はイノシシ用だが、そこに熊が掛かる。・身の丈程に伸びた草を刈るのは面倒だが、熊の姿が見えるようにするために必要。・猿も多いので集団に囲まれたら恐怖。その他に7/28朝日町西洞でクマに襲われた時の状況などの話を聞かせてもらいました。内容は「罠にかかった熊に銃口を向けていた際に、背後から別の熊に襲われた」というもの。道路沿いの人形も人口減少に伴い自ら作って置いているとの事だった。もはや、獣の方が人の数を上回り、人に対する恐怖心は持っていない事は地元の方の話からも伝わってきます。こうした話は当地だけの話ではなく、どこに行っても同様で出逢った時は諦めるしかない。色々な要因はあるものの、過度の鳥獣保護が招いた結果なのかもしれない。積極的に食べるしかない。今時の獣は草や木の実で地道に空腹を満たすより、こうしたものがあれば手っ取り早くて美味しいのは知っています。キャンプ場全体が残飯や焼いたままの網を放置すれば誘っているようなものです。寝る前にはそうしたものは「車に入れ、残飯やごみは持ち帰る事」とルールが決められているキャンプ場が多いのもそうした意味もあります。その日熊が目撃された唐谷橋はキャンプ場から下流に徒歩5分程。川沿いに上がってくると真っ先に現れるサイトが自分たちのサイト。最後の晩は一人火を燃やし続け、テント外周に常夜灯としてランタンを二つ吊るし、枕元にはナイフとライト、ロッドケースを置いて寝る事にした。昔はこんな事を気にしたことはなかったのだが…もっとも、当時は何処に行くのも相棒(ハスキー)が一緒に寝ていたから安心できたのかもしれない。今夜も星は見れなかったなぁ。翌朝は朝風呂に浸かり、朝御飯を食べ終え、雲を見ながらのんびりと撤収、11時にcheck out。帰途、萩原のバローで荘川の鶏ちゃんを買い占め、飛騨金山のおおふく屋で昼食の蕎麦を食べ、下川辺の養老軒(定休日のはずが臨時営業)に立ち寄って夕方には家に帰り着いた。蒸しっとした暑さが名古屋に戻って来た実感として感じる。「くるみ温泉&キャンプ」は軽でもストレスなく辿り着け、オーナーやスタッフもフレンドリーで好印象。唯一、夜間は誰も見えないようで、夜間サニタリー棟を利用した際に隣接する灰の収集場所で火がくすぶっておりバケツで消化したが、これも利用者が悪いのでしょうが、そうしたところまで巡回がされていないようです。リピートするかと聞かれれば、この時期は虫が多くて暑いので春先か晩秋なら訪れてみたいところ。何もせず、渓流のせせらぎを聞きながらのんびりし、温泉に浸かり、飲んだくれるには良い場所です。くるみ温泉&キャンプ所在地 / 岐阜県高山市朝日町胡桃島8HP / くるみ温泉&キャンプ利用日 / 2023/08/21~08/23名古屋から車ルート / 国道41号線利用約150㌔、3時間半。関連記事 / キャンプ前準備
2023.08.27
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前回掲載した桑名市出口に鎮座する豊受大神社を後に、社地北側を東西に延びる農免道路を西に向けて走る事約5分程、道路左側に平方神明社の杜が見えてきます。社地西側から眺める平方神明社、所在地は桑名市長島町平方になります。神社西側に社頭に通じる細い生活道路があり、社頭付近に駐車余地がありました。目の前の農免道路、あまり聞き慣れないものですが、農林漁業事業者が使用する燃料の揮発油税を減税しない代わりに、事業者の利便性を図るため揮発油税を財源に作られた道路で、日頃走る一般道とは少し性格の違うもの。上の地図の赤のマーカーが鎮座地になります。農免通りを西に走れば移動時間は5分もかからない距離になります。南向きの平方神明社社頭全景。石の神明鳥居(寄進年未確認)とその先に神社門があり、左右の石壁は門と一体になっています。鳥居から境内の眺め。参道右に手水鉢、社標は見逃したのか見当たらなかった。手水鉢に龍の姿は見られなかった。注連縄が吊るされた門から境内の狛犬と拝殿を眺める。拝殿は四方板壁でガラスの格子窓が入った入母屋瓦葺のもの。手前で白い体の狛犬(寄進年未確認)が守護している。吽形は前脚の間に球持ちの子供を連れ、阿形は口の中に球を咥えたもので、大きな鼻と大きな垂れ耳、クルクルの巻き髪が個性的。社殿は手前の拝殿とその後方の覆殿の構成。境内を見渡すが由緒は公開されていないようです。三重県神社庁で平方神明社について以下の様に紹介されていました。「当社の創祀については詳にし難い。社伝によれば、慶安3年(1650)9月洪水により漂着した御神体を村民が奉祀したのが創始とされている。さらに当社が神明社として天照大神を勧請したのは文化14年(1817)8月とも伝えられている。江戸時代を通じ平方の産土神及び神明社として村民の篤い崇敬をうけている。」江戸時代の平方神明社の鎮座地は、長島藩領の伊勢国桑名郡平方村に鎮座し、これまで参拝した神社同様、木曽・長良・揖斐川の木曽三川が河口付近で複雑に交わるデルタ地帯で、歴史的にも自然と人が鬩ぎ合ってきた場所で、幾度となく水害による凶作に見舞われ、集落や農地を護るため周囲を堤で囲う輪中が築かれてきました。覆殿。背丈を優に超える高さまで川石を積み上げ、その上に切妻瓦葺建屋が建てられています。水害による凶作は、米を税として納める農家には死活問題で、地元の地史によれば、延宝3年(1675)困窮する一帯の百姓は秋の検見舂法(けみつきほう)の免除を求め、代表者一行が江戸幕府評定所に直訴に向かったが、彼らの訴えは実る事はなく、それに加わった者は罰せられ、代表者は処刑されたという。この地の百姓ために立ち上がり処刑された者たちは義民となり、当地の井桁堤に小さな祠が建てられ祀られ続けてきたが大正に入ってから当社に合祀されたそうです。主祭神は天照大神ですが、12名の義民と産土神が祀られています。覆殿正面。急な石段ですが、左右に手摺もあるので心強い。内部の様子を窺うも本殿は見ることは出来ず、こちらで参拝させてもらいました。覆殿後方から社頭方向の眺め。この石積みの高さは、拝殿の軒先の高さを上回るほどに積まれています。なんとしてもここは護る、そんな意思が現れている。社地は程よく風が通る杜に包まれ、境内も雑草が刈り取られ手入れが行き届いていました。そうしたこともあり境内で蚊に襲われる事はなかった。覆殿後方の農免道路には、近鉄長島駅から出ている長島ルートのバス停が立っており、その名も「平方神社」だった。循環バスに乗れば輪中を徘徊するには都合がいいかもしれないが本数が……狭い道が多い輪中にあって免税は免れなかったが立派な道が伸びています。平方神明社創建 / 慶安3年(1650)祭神 / 天照大神、義民、産土神所在地 / 三重県桑名市長島町平方953参拝日 / 2023/07/21豊受大神社から農免道路を西へ / 車で5分程関連記事 / ・豊受大神社・小島八剣神社・八剱神社(桑名市長島町中川)・楠神社・八幡神社(森川花はす田と船頭平河川公園近況)
2023.08.26
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室町時代に創建以降、玉野町の歴史を見続けてきた太平寺。玉野町には南北朝時代の悲話に纏わる太平寺を初めとする神社仏閣や古墳など存在し興味深い土地柄です。太平寺の西隣に今回掲載する玉宮稲荷大明神が鎮座します。太平寺の山門から白壁沿いに西に向かうと赤い稲荷鳥居が見えてきます。こちらが玉宮稲荷大明神、太平寺の山門から2分も歩けば見えてくると思います。玉宮稲荷大明神社頭。太平寺の鎮守社なのだろうか、周囲には墓石もあり、参道脇には多くの地蔵が安置されています。社頭から石段が続き、微妙に右に左に曲がり、目の前の高みに続いています。石段の中ほどから狛狐の守護する稲荷鳥居が始まり、その上の拝所まで連なります。鳥居右手の石標は庚申塔。鳥居前を守護する狛狐。台座に平成11年(1999)に玉宮稲荷大明神の移設・新築とあり、それに伴い寄進されたもののようです。移築とありますが、以前の鎮座地については不明。太平寺のHPで当社の絵が出てくるところから、冒頭推測で太平寺の鎮守社では?と書きました。そうした視線から以前は境内に鎮座し、こちらに遷座したものなのかもしれません。玉宮稲荷大明神については太平寺HPや由緒など紹介されておらず詳細は良く分かりません。鳥居扁額「玉宮稲荷大明神」稲荷鳥居は中ほどで一旦途切れ、そこに踊り場があります、ここまで来ると鳥居の先の拝所も見えてきます。踊り場右側に覆屋があり、一体の石像が安置されていました。像の上に「靑麻神社」とある。名古屋では2017年に那古野神社を訪れた際、境内社で見かけた記憶がありますが、当時の写真を調べて見るが見当たらず、纏めてもいないようです。再訪して名古屋東照宮と合わせて掲載しなければ、いずれにせよ余り馴染みのない神社。本宮は宮城県仙台市の「青麻(あおそ)神社」のようで、目の病に御利益があるという。右側に「起元2536年」と刻まれています、神武天皇の即位(紀元前660)から起算するので1876年(明治9)に安置されたものと思われます。踊り場の左は荒れた斜面が上に続き、その斜面に複数の石祠が作られ石仏が安置されているようです。鳥居の先の拝所。四方を腰壁で囲った切妻瓦葺で正面に賽銭箱が置かれ、左手にはお神酒も供えられ、時折参拝者は訪れているようです。拝所から鞘殿の眺め。鞘殿正面、銅葺屋根の切妻で正面はガラスの格子扉。鞘殿の軒下に鈴が吊るされており、正面まで上がってみました。こちらでもう一度参拝させてもらい、本殿は見えないかと中を窺うも外光がガラスに反射し様子は分からなかった。玉宮稲荷大明神について調べてみましたが、太平寺の過去の住職により勧請され、戦後に社殿を改修し、平成11年に建替えられたようですが、元の鎮座地や創建時期の詳細には出逢えなかった。毎年、旧暦の初午(今年は2/5)の日に油あげやお頭付きを供え、多くの参拝者が訪れる様で、御利益は物を無くしたときにお参りすると、失せ物が出てくるそうです。鞘殿から拝所の眺め。短い距離ですが覆い殿までの石段は結構な斜度があります。見つめる先は玉野の町とその先にある一面の青田、今頃は稲穂も垂れている事だろう。拝所から社頭の眺め。大したことのない傾斜ですが、躓けば只事では済まない、手摺を掴んで降りていきます。社頭に戻り西方向から見る社殿全景。玉宮稲荷大明神遠景、前方が太平寺で中央の石碑は玉野地区の英霊碑が建てられています。玉宮稲荷大明神を後にして、西に向かい次の目的地を目指します。玉宮稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 靑麻神社所在地 / 春日井市玉野町1129普光山太平寺から玉宮稲荷大明神 / 徒歩2~3分関連記事 /・普光山太平寺・信清神社・後醍醐なか刀自媛大神(春日井市玉野町)・御所中明神・高蔵寺第5号墳(春日井市玉野町)・津島神社(春日井市玉野町)・五社神社(春日井市玉野町)・皇大神宮 山住彦大神(春日井市玉野台1)
2023.08.25
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電動キックボードと同等のスピードで立て続けに来襲した台風も過ぎ去り、台風一過好天を期待していたが、そうした期待とは裏腹に不安定な天気が続くようです。今年はキャンプに行きたいと騒いでいなかった事もあり、未だ計画を組めないでいた。追い打ちをかけるように燃料高騰の逆風が吹き荒れ、荷室や走行性能で余裕のある大きな四駆で行く気にはなれず、自分の車の出動回数は毎年〃減ってきている。レンタカーにしても移動コストは同じこと、だからと言って電車で…というわけにもいかない。折しも夏休みという事もあり、子育て世代は子供達に色々な経験をさせてやりたいもの。子供は成長と共に少しずつ離れていくので、子育て世帯には高い教育費となるけれど、相手にしてもらえるうちにいろんな経験を積ませてやってください。それにしてもこの逆風はどの世代でも同じだと思う、何をするにもおいそれと行動できなくなっている。そんな状況ですが、軽で二泊三日のキャンプに行く計画を立てました。余裕の車に対し制約の多い軽で確実に行けるキャンプ場選びをかみさんに任せていましたが、それも決まり、今日一日かけて持ち物リストと用品の機能確認を始めました。基本日程は二泊三日初めての経験です。おやじ一人ならタープとテントがあれば事足りるがそんな訳にもいかない。積んでいきたいのは以下。※は忘れちゃいけないもの、・は最悪なくてもいいもの。※メッシュタープ 済※テント 済※インナーマット、グランドシート 済・ヘキサタープ(降雨時設営・撤収用) 済※折り畳みテーブル・キッチンテーブル・済・荷物用テーブル 済※食材+酒 ※ペグ・ポール・ランタンスタンド ※ガス2バーナー ボンベ2本 済※ターボバーナー、ガスランタン、マントル確認済 (大・小)、ボンベ1.5本 済※水タンク ・タンクスタンド 済 ※赤玉・防虫スプレー 済※シュラフ 済※エアーベッド、コンプレッサー 済・車用コンプレッサー 済※椅子2脚 済※LEDランタン(大・小) 済・クーラーBOX皿板 済・携帯バッテリー・車載TV※焚火台 済・炭・薪 済・着火剤 済※クーラーボックス×2 済※着替、雨具 済・釣り竿、ナイフ 済まだ抜けがあるかも知れないが、撤収時雨なら押し込むことになる、テトリスの様にきっちり積み込んではそんな時放り込めない、果たして積めるかどうか。近くに渓流もあり朝夕毛鉤を振れそうなので、少し大きめの毛鉤を2本作ってみた。シラハエ用よりは少し手間をかけ、黒い体に孔雀の羽をぐるぐる巻きにして毛むくじゃらにしてみた。毛むくじゃらにしてから、白い羽の先端を2枚鈎に結び止めます。雰囲気は虫の羽をイメージしています。次に白黒のグリズリーと呼ばれる羽を一枚、二枚鈎に巻き止めます。そしてぐるぐると巻き進めていきます。完成。後で多少散髪して完成です。もう一つは黒い体に白い羽を止め、黒い羽2枚を巻き止めていきます。写真は1回目を巻き終わったところ、巻き切れなかった部分は切り取ります。その後、残った一枚を再び巻いて行き、同様に巻き切れなかった部分は切り取ります。黒い体の羽を付けた得体の知れない虫らしき毛鉤の完成。先日作ったシラハエ用の毛鉤を含めこの4本を持って行こうと思います。これをシラハエ用の竿で振ってみよう、釣れなくて結構、運悪く釣られてしまった魚は記念撮影の後放流です。今回のキャンプの献立に魚を想定していないそうなので、気は楽です。今日作った2本があれば1・2時間は楽しめるだろう、後はこの毛鉤が見えるかどうか。10㍍は怪しいが5㍍なら見えるだろう、たぶん…しかし釣竿は一番優先順位が低いのでスペースがあれば持って行く程度、一度車に全部積み込んで見よう。後は天気だよねぇ、ここんところ山の天気は荒れているようなので、雨キャンプを覚悟した方がよさそうです。
2023.08.24
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灘五郷。西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷の5つの地域を指し、一帯には名だたる酒蔵が連なる酒処。一泊二日でこちちらを訪れ、初日は西郷、御影郷、魚崎郷の酒蔵を歩いて訪れました。1995年1月17日 当地を襲った阪神淡路大震災は6434名の尊い命と、インフラや日常の生活基盤に甚大な被害を与えました、灘五郷の酒蔵もまた同様。こと酒蔵に限れば表向き何事もなかったかのように復興し、灘の酒造りを見ることが出来ました。当地の酒蔵や出逢った神社には震災の爪痕を残すものも見られました。初日は西郷、御影郷、魚崎郷の酒蔵を訪れた後、阪神本線大石駅から三宮で神戸電鉄有馬線に乗り換え今夜の宿有馬温泉に移動しました。大石駅から有馬温泉駅まで乗り継ぎが良ければ1時間ほどの移動時間。有馬温泉駅、若かりし頃には社員全員で旅行する文化があり、半ば強制参加の社員旅行が全盛の時代で、有馬温泉にも訪れた記憶があります、今となっては当時何処に宿泊したのか覚えてはいませんが。時代も変わり、そうしたイベントも姿を変え旅館にしても、そうした時代の大宴会場は形態を変え、今では○○会社御一行様にお目にかかる機会はなくなったように思う。駅に降り立ち、ここから宿までは南方向の炭酸泉源公園を目指し湯本坂を上っていきます。湯本坂の途中で見かけた妬(うわなり)の湯と社。間欠泉で今は湧出しないようですが、江戸時代には盛んに活動していたようです。当時の地誌にうわなりの湯について記述があるようで、着飾った女性が温泉の前に立つと嫉妬して湯を激しく吹き上げ、自分の醜い心や、悪口を並べ立てても吹き上げて止まらなくなるという。社の正体は分かりませんが温泉の神さまが祀られているのかもしれない。電柱の前の飛び出し注意?看板、少年の顔が強烈に印象に残った。この少年の看板の右に上に続く小路があり、そこを進むと嫉妬深い妬泉源塔が見えてきます。妬泉源塔。今は鎮まっていますが、ひょっとしてひょっとするかも。再びあの不気味な飛び出しおじさんの看板に戻り、たんさん坂方面へ。坂を上った左の炭酸泉源公園。台地から勢いよく炭酸泉が噴き出し、昔は温泉に砂糖を溶かしサイダーとして飲まれていた。古くは毒水と呼ばれ近づくものすらいなかった云う、その湯が炭酸泉として検定を合格し認知される様になったのは明治6年と新しい。飲適なんだろう、紙コップが置かれ味わってみたが、……僅かに鉄分と炭酸を感じる生温い湯。宿はこの目の前、チェックインを済ませ一杯飲みたい、やはり冷えたビールが一番。有馬六彩。ホテル入口まではたんさん坂を更に上った先となり、こちらからエレベーターを乗り継ぎロビーへ。傾斜地にあるため致し方ないのか。ホテル正面。有馬温泉駅から送迎車も出ていますので歩くのが苦手な向きはそちらの利用が正解です。坂しかありません。入口はガラスのない真っ黒の二枚扉、自動扉なんだがメガネを付けていないのでどこが扉なのか分かりづらい。普通スタッフが入口に一人やそこらいるものなんだが。扉の先は直ぐに右に曲げられロビーに続く、通路にはガラスが入れられ外が見えるのだが。入口の扉はしっくりこないものがある。ロビー全景。正面テラスに水盤があり温泉街を見渡す事が出来る。客室通路は全体的に照明落し過ぎで自分には暗く感じた。客室。可もなく不可もなく。眺望。日中はあれだけ天気も良く暑かったが、空は今にも泣きだしそう。まずは偵察のため大浴場で汗を流す、大浴場は内湯の銀湯と露天風呂の金湯の二つの湯舟があり、どちらも濃さの違いはあるものの茶色の湯。効能は神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩という事で五十肩のかみさんには良さそうだ。かみさんに報告、私服のまま浴場に向かっていった。このホテルは客室と浴場は浴衣のまま移動できるが、それ以外の食事やロビーで新聞読みたいと思っても着替えなくてはならず、結構面倒くさい。その間、部屋のベランダで涼みながら冷たいビールを飲みながら一休み。夕食はバイキング。適当に種類も豊富で、どこぞのホテルより質は良かった。何処に行っても刺身か寿司が美味しければ事足りるが、デザートやフルーツは種類があまりないようで、かみさんは多少物足りなかったようです。昼間に酒を結構飲んだこともあり、珍しくビールだけで酒まで辿り着けなかった。翌早朝、ホテル南の有馬稲荷神社を訪れた。この写真をかみさんに送り朝散歩に誘ったが、この石段を見て「頑張ってね」の返事。ゴールの見えない石段は起き掛けの体にはきついものがあったが、上まで登ってきました。ひと汗かいてホテルに戻り、朝風呂に浸かり朝食の後宿を後にする。今日の予定は温泉街の土産物屋や社寺を訪れ、その後西宮郷の酒蔵を訪れます。有馬六彩の印象。施設自体に不満はなく、スタッフも大勢いると思われますが、館内やホールで接する事がなくチョットした事を尋ねたくても着替えてフロントを尋ねる事に不便を感じた。インバウンド需要で宿泊単価はどんどん上がっていますが、国内の利用者の多くは価格に見合う施設やサービスなのかに重きを置く様になり、別の選択肢を探す様になります。こちらを再訪するかと問われれば、優待券があって当地に目的があり、ペットがいれば再訪するかもしれない。有馬六彩所在地 / 兵庫県神戸市北区有馬町341-1大石駅から神戸三宮駅乗り換え、有馬温泉駅 / 約1時間有馬温泉駅から六彩まで徒歩 / 約20分程
2023.08.21
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輪中の神社巡りも5社目となります。前回記載した小島八劔神社から一路東名阪長島ICを目指し、そこから南に続く県道7号線を南下します。大蔵団地口の交差点を過ぎ2本目を右折し、西に進み一つ目の交差点を過ぎた一本目を左折した先が豊受大神社になります。小島八劔神社から車での移動時間は約5分程の距離になります。遂にこれまでのマップも使えなくなり、少し引いていますので概ねの位置として参考にしてください。左が1891年頃の地図で右が現在、赤のマーカーが鎮座地になります。東側から豊受大神社の社地全景。社頭は南東向きに鳥居を構え、境内に大きな樹々はなく、陽当たり、風通しともにいい神社です。社地の前に生活道路がありますが、路上に駐停車する余地はありません。鳥居右側の手水鉢。社頭の斜景。石の神明鳥居が建ち、二段に積まれた石垣の上に狛犬、社殿が建てられています社頭全景。左に「豊受大神社」の社標、鳥居右手に手水鉢と由緒が掲げられています。見あげる高さに「現在の満潮位」を示す表示板、ここがこの日の最高位。どのように制御しているかは不明ですが、この辺りは平時に於ても海水面以下、この表示板の更に上には「伊勢湾台風の水位」を示す表示板がある。万里の長城の様に続く高く盛られた堤は平穏な日常を支えてくれている。鳥居から眺める社殿全景、左の建物は出口町の集会所が隣接しています。いずれも高い土台が作られ、その上に建てられています。水と鬩ぎ合って来た一帯は古くから続く農家の基礎も、こうした石垣の上に住居が築かれる水屋造りが残っています、新しく建てられた住宅の基礎の高さを見ると大きな違いを感じます。社頭右の豊受大神社由緒、内容は以下。「当神社は文政四年(1821)9月、北出口村のこの地にご先祖を初め、村人により勧請奉斎されたもの。御祭神 豊受大神(伊勢神宮)食の神、宇迦之御魂命(稲荷社合祀)。嘉永元年(1847)に小島申澪切れ洪水の直撃を受けて流失、転居し、この神社だけが取り残された。その後は付近に耕地を持つ農家六戸余りが、この社を維持した。いつの時代にか地区住民も増え、社も元に戻り、神の御加護により氏子の安全と発展を守護、現在に至る。今後神様のお恵みをお忘れなくご協力くださる様お願いいたします。資料 長島神社誌祭事1月1日 元旦祭、1月上旬 新年祭及び豊受大神社総会5月下旬 神社境内清掃、春の小祭(野上り祭)7月中旬 神社境内清掃9月上旬 神社境内清掃10月中旬 太鼓、鉦練習、秋の大祭(祭礼、山車、神輿練り)12月下旬 大晦日及び初詣準備12月31日 年越し祭」とある。社紋は五七の桐のようです。住民総がかりで地域を守護する神社の境内清掃が行われているようです。自分の地域にも昔は社がありました、以前はそうした住民総出のイベントがあり、子供ながら引っ張られていった記憶があります。そうした事も代が変り、新たに移り住む人も増え、地域のイベントは面倒なものとされ衰退化し、それと共に社も廃社となっていきました。同じように地域総出の側溝掃除や雑草除去も廃止になり、地域住民の顔は見えなくなり、地域が纏まるのは運動会の綱引きくらいのもの。「郷に入っては郷に従え」、「相身互い」などは疾うの昔に死語となり、町内会にも子供会にも加わらない個が密集するだけの地域になりました。低成長時代を生き、子育て支援や育休もなく、制度改革の線引きの対象となる時代を乗り越え、地域活動に加わりながら子供を巣立たせた立場から見ると、「なぜ二人でコントロールできないの?」と尋ねたくなる理由ばかりのように思えてならない。なにも切り捨てず個だけで成し遂げようとすれば無理がある、何を切り捨てるかだと思うのだが。この地のように一つに纏まれるのはある意味羨ましいと感じる、何かあれば地域一体となって乗り越えていけるものを、敢えてその機会を摘んでいる気がしてならない。出口集落のコミュニティーの中核をなす木造瓦葺切妻造の拝殿。守護する狛犬は平成7年(1995)寄進のもの。牙は強烈だが体格は子犬かな。拝殿には賽銭箱が見当たらず参拝だけさせてもらいました。値上げの嵐が吹きすさぶ昨今、「せめて米は豊作で価格が安定しますように」と願ってみた、…無理だわなぁ、燃料も肥料も自給できないのだから。「田んぼやらない?」という話もあるが、野菜すら満足に育てられない自分に育てる自信も技術もない。種から育て収穫に持っていける農家さんのknow-howは尊敬に値する、そうした手間の末に収穫したものは個として達成感があるだろう。そこで終わらず、凶作や豊作を左右する自然(かみさま)への感謝の念を忘れることなく、神社が建てられ祭りとして集落で共有する。農村に鎮座する神社は我が町の神社の様に忘れ去られる事はないだろう。社殿全景。切妻瓦葺の覆殿。納められている本殿は見ることが出来なかった。現在の社殿はさほど傷みもなく、綺麗に清掃された境内もあり、荒れた印象は全くありません。寄進物の多くは平成に入り寄進されたものが主で、この時期に手が入れられたのかもしれません。拝殿前から社頭の眺め。目の前の神明鳥居は決して小さなものでありませんが、笠木の高さは目線の高さとほゞ同じ。当日の満潮水位は右手に見える社標の高さの2/3の位置にあたります、この高さは輪中の郷に祀られた神社の姿なのかもしれない。駐車余地は社頭左の集会所前に軽がなんとか入るスペースがありますが、普通車が停められる奥行きはありません。豊受大神社創建 / 文政四年(1821)祭神 / 豊受大神、宇迦之御魂神所在地 / 三重県桑名市出口372参拝日 / 2023/07/21小島八劔神社から車移動 / 東名阪長島ICから県道7号線を南下5分程公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋線長島駅から北へ徒歩15分程関連記事 / 小島八劔神社
2023.08.20
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清信神社から中央線沿いを戻り、JR中央線第一新街道踏切を西に直進すると次の目的地太平寺の門前に至ります。移動時間は徒歩で5分もかからないでしょう。右手に春日井市生活改善センターの施設があり、その西側が太平寺の参道となります。参道右に「臨済宗妙心寺派 太平寺」の寺標が立ち、参道はその先の杜に続いています。参道を隔てて左側に「尾張三弘法第三番札所」の石標があります。参道の先は石垣と白壁が連なり山門に続きます。切妻瓦葺の山門の前に「名勝虎鬆(こしゅ)庭園」の石標が立つ。山門軒丸瓦に文字が入るが…太平寺?だろうか、読めません。山門の額「太平禅寺」玉野の歴史を伝える寺で、後醍醐なか刀自媛大神や御所中明神でも出て来た、なか媛一行の位牌を安置するお寺。その他にも町内を流れる玉野用水の創設者・加藤助左衛門はじめ、名宮大工・川地白河守、漢方医・小島小太郎、村の歴代庄屋、組頭らの位牌が安置されているという。玉野村に伝わる伝記の人や村出身の賢人たちが眠り、その他にも中央線敷設工事の犠牲者の碑など玉野の歴史を伝えるお寺と言えます。太平寺の寺宝の一つに尾張藩主・徳川義直公が玉野川を渡船されたおりに使われた催(かい)2本が下賜(現在1本)されており、貴重な宝物が数多くあるといいます。境内から山門の眺め、境内左側に手水石や聖観世音菩薩像などが安置されている。大きな自然石をくり抜いた手水鉢。臨済宗妙心寺派・普光山太平寺本堂全景。玉野町住民の多くを檀家に持ち、身近な存在の寺です。太平寺は、明應6年8月(1497年)に尾張の国・春日井郡水野村(太平山)に寂曳和尚が定光寺の末寺として開山、創建された寺で、本尊は木像立像の聖観世音菩薩です。HPによれば「寛文年間尾州春日井郡覚書帳(1660 ~ 1672)によれば、平紫山・泰平寺は定光寺の末寺となっています。山号・寺名の変更はあるが、宝永6年2月(1709)に9世・知鞭和尚が本堂を改築、水野村を始め玉野村の人々が檀家になり隆盛を極めました。「泰平寺」の檀家だった玉野村の人達は玉野川を“岩割瀬の渡し”を利用し太平山中にある泰平寺に行くのは不便なことから、寺を玉野村内に建立する事を働きかけました。移設先は玉野村南屋敷の有力な檀家が用地を提供するとともに多額な建立費を負担、檀家の支援により玉野村内に寺が完成しました。寺は弘化3年(1846)に火災で全焼し、跡地に仮本堂を建立しました。12世・全密和尚は、檀家の協力を得て玉野村新田に本堂を新築再興させました。13世・戒宗和尚は平地ではなく丘陵地(現在地)に本堂および山門を建立(大正11年11月)し再建しました。現在は16世・峯仙和尚が立派に檀家をお守りしておられます」名勝虎鬆庭。本殿の南一面に作られた枯山水の庭園。写真は白く飛んでしまいましたが、砂紋が入り手入れされた庭園は禅寺らしい趣があります。庭園西側に建てられた堂。尾張三弘法第三番札所の一つである冬至弘法大師のお堂。弘法大師霊場、各地に似た名称があり、札所一覧は良く分からない。年2回、地域の人々によって扉が開かれるそうだ。堂の左側に複数の石像があり、達磨大師らしき像も見られます。本堂左の納骨堂から玉宮稲荷大明神方向の眺め。室町時代から玉野町の歴史を見続け、当地の発展に寄与した様々な人々を弔い、趣のある庭を持つのが太平寺です。普光山太平寺宗派 / 臨済宗妙心寺派創建 / 明應6年8月(1497年)本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 春日井市玉野町1108信清神社から徒歩 / 西へ5分関連記事 /・信清神社・後醍醐なか刀自媛大神(春日井市玉野町)・御所中明神・高蔵寺第5号墳(春日井市玉野町)・津島神社(春日井市玉野町)・五社神社(春日井市玉野町)・皇大神宮 山住彦大神(春日井市玉野台1)
2023.08.19
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2023/07/07~08にかけて、兵庫県神戸市の灘の酒蔵と有馬温泉を訪れました。名古屋から電車を乗り継ぎ阪神電鉄魚崎駅に降り立った。ここから徒歩で灘五郷の一つ魚崎から御影郷、西郷まで初日に訪れた酒蔵を掲載します。まず駅を降りたつと写真の「灘は日本一の酒どころ」の看板が目に飛び込んでくる。ここから左の魚崎方向に向かい南下しながら酒蔵巡りのスタート。上は駅から5分程の桜正宗記念館付近の酒蔵マップ。桜正宗記念館。こちらはスルーして最初の目的地に浜福鶴に向かう。ホームセンターのある交差点を左に向かうと正面左に赤レンガの煙突が見えてきます。以下は浜福鶴HPより。「江戸時代の後期、現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた初代小山屋又兵衛が、この灘の土地で杜氏として学んだことが、浜福鶴とその親会社にあたる小山本家酒造の始まりです。灘で学び、埼玉へと渡り歩き、酒造りに邁進した又兵衛の情熱は代々受け継がれ、1989年には所縁のある灘で、浜福鶴の前身にあたる当時の「福鶴」と力を合わせ、伝統の酒造りを継承していくことになりました。」こちらでは工場見学をさせて頂きました。プラントの一部写真。施設内では酒造りの工程を資料で学び、最後に販売所で試飲をしましたが、たまたまだろうが買うかどうか分からない国内の見学者より、大陸から訪れた爆買いを期待できる見学者を優先する傾向があり、無料試飲だけ味わって次に向かいました。小山本家酒造浜福鶴所在地 / 神戸市東灘区魚崎南町4-4-6休業日・営業時間 / 毎月曜日・10:00~17:00(有料きき酒処は16:15まで)酒蔵通りをに西に向かい、右手に一時期よく飲んでいた剣菱酒造魚崎蔵を見て、住吉川に架かる島崎橋を渡り少し行くと菊正宗酒造 菊正宗酒造記念館に至ります、移動時間は約10分。馴染みのある酒で脳裏には今もCMのフレーズと美味しそうな肴の映像が摺り込まれています。創業は万治2年(1659)とされ、押しも押されもせぬビッグブランド。神戸・御影の本嘉納家本宅屋敷内に1659年(万治2)に建てられた旧酒造記念館を、昭和35年に現在の地に移築し、酒造記念館として保存・一般開放したもの。平成7年1月17日の阪神淡路大震災によって倒壊、平成11年1月25日に復興されたもので、展示用品は震災を免れ、昔ながら酒造りの様子を伺い知る事が出来ます。一通り見学を終えるとコースの出口が販売・試飲エリア。無料試飲のよく分からない僅かな量に比べれば、有料試飲は程よい量があり、香りも味わいも素人には分かりやすい。一つ提案、有料試飲のコインは交換機にしてはどうだろうか?外国人観光客が大量買いし、混雑するレジに試飲コインを買い求めるため並ぶ、実に無駄。灘の酒蔵全般で感じた事は、とにかく円の価値が下がっているのを実感する。有料試飲で左の三銘柄を試飲しましたが、左から三番目の「百黙純米大吟醸」が好み味だった。菊正宗酒造 菊正宗酒造記念館営業時間 / 午前9:30~午後4:30休館日 / 年末年始所在地 / 神戸市東灘区魚崎西町1-9-1菊正宗酒造から西に徒歩10分程の場所にある、白鶴酒造資料館。白鶴というと個人的には電車旅で良く買い求めるカップ酒でお馴染みだ。灘五郷のひとつ、御影郷の地で材木屋治兵衛が1743年(寛保3)に酒造業を始めたのが始まり。資料館は昭和40年代中頃まで実際に清酒醸造に使われていた本店壱号蔵を改造して開設されたもので、内部は昔ながらの酒造工程をそのまま保存し、作業内容を再現するため、人形が配置されるなど、清酒が生まれるまでをわかりやすく展示しています。而今に目が行く、米を通じて各地の蔵元と繋がっていく。こちらもコインで有料試飲ができる、人を介さないこのシステムで良いんじゃないだろうか。白鶴酒造資料館開館時間 / 9:30~16:30休館日 / お盆、年末年始所在地 / 神戸市東灘区住吉南町4-5-5次に訪れたのは東灘区御影塚町1の福寿の蔵元 神戸酒心館。白鶴酒造資料館から一旦南に進み、灘浜住吉川線に出て、港沿いに右方向へ進みます。御影塚3丁目交差点の手前を右に直進すると神戸酒心館の長屋門の前に出ます。所要時間は概ね20分程でした。施設は4つの蔵を改修した観光施設があり、料亭も併設されています。こちらでは東明蔵というショップに立ち寄ってみました。創業が宝暦元年(1751)、手造りにこだわる酒蔵として「福寿」の名を守り続けています。こちらで試飲させて頂いた三銘柄。何れも自分には美味しいお酒でしたが、かみさんの好みではなく購入は見送り。福寿の蔵元 神戸酒心館営業時間 / 未確認定休日 / 年中無休所在地 / 神戸市東灘区御影塚町1-8-17福寿の蔵元 神戸酒心館から西国浜街道を西に向かい、新在家若宮神社を経て、西郷酒蔵の道を更に西に進み、都賀川を越えれば沢の鶴資料館到着です。概ね30分程の移動時間です。既に掲載した神戸市灘区大石南町に鎮座する住吉神社の西隣りとなります。1717年(享保2)創業の沢の鶴は、米屋を営む初代が、副業として酒造りを始めたことから始まります。を発祥としています。酒名の由来についてHPでは以下の様に語っています。「太陽の神・天照大神を伊勢にお祀りしたとき、伊雑の沢で頻りに鳥の鳴く声が聞こえたので、いぶかしく思った倭姫命がその啼き声の主をたずねたところ、真っ白な鶴がたわわに実った稲穂をくわえながら鳴いているのを見つけた。鳥ですら田を作って大神へ神饌を奉るのかと深く慈しんだ倭姫命は、伊佐波登美神に命じてその稲穂から酒を醸させ、初めて大神に供え奉るとともに、その鶴を大歳神(おおとしのかみ=五穀の神)と呼んで大切にした…」という伊雑の宮伊勢(伊勢内宮と同じ地位を許されている別宮)の縁起が元になっています。」ビッグブランドだけに何気にどこかで口にしているはず。上は資料館入口。施設は阪神・淡路大震災により建物は全壊、1999年に免震システムを施し復興されたもの。施設は昔の酒造りで使われていた道具が工程毎に展示され、当時の酒造りの様子を知る事が出来、別棟に試飲・販売スペースがあります。下は涼しい館内に入ると真っ先に目に入ってくる神棚。槽場。渋袋に入れた醪を重ね、てこの原理で酒を搾り、垂壷と呼ばれる壺に酒を受ける作業場。震災による倒壊から復興作業中に偶然見つかった遺構。館内二階中央に一際目を引く和船の模型。西宮市内の宮水井戸、その地下から湧き出る地下水を仕込み水とするため、当時は樽に入れられ海上輸送されていたという。現在も仕込み水はタンクローリーで運ばれているという。当時は仕込みに欠かせない水のサスティナブルなど考えられてはいなかっただろうが、時代も変わり持続可能な水源維持のため、酒造会社による水源保全活動と水の収支を管理しているようです。そうした活動から宮水は今も安定して恵みを与え続けているという。以前に滋賀の酒蔵を訪れ試飲させて頂いた時に「飲み残しはしないように」と盛んに訴えていた事がある。自社製品の誇りもあるだろう、しかし一番は自然の恵みと共に酒造りを営んでいる者の思いが言葉に現れている。有料・無料試飲にかかわらず、飲み切った後に「おいしいね」と一言添えるのが作り手へのお礼かも知れない。出来上がった酒は灘の酒として樽廻船で江戸を始め全国に流通し名を馳せて行った。街角の酒屋さんや居酒屋にはこうしたポスターが必ず貼られていたものです。最近は酒屋自体が減り、あまり見かけなくなりました。見学棟から試飲・販売棟の間には竹石大明神が祀られています。朱の玉垣に囲まれた一画に、鳥居と社が祀られ、敷地には石臼が置かれています。酒造と神様はつきもの、酒蔵入口で見かける杉玉、その下に吊るされている小さな木札には酒の発祥の地とされる「三輪明神」の名が記されていたりします。この神社は沢の鶴の私的神社と思われます。竹石大明神。詳細は分かりませんが、祭神は稲倉魂命かと思われます。販売棟内。伝統的な日本酒だけでなく、時代やニーズに合わせ、当然ながら海外を意識した多様な商品が販売されています。無料試飲、当日の二銘柄。各酒蔵では、とても美味しい酒が提供されます、そうしたものは非売品で貴重な体験が出来ますが駄々をこねても販売はしてもらえません。ここを訪れた者しか味わえないものです。沢の鶴資料館開館時間 / 午前10:00~午後4:00休館日 / 毎週水曜日、盆休み、年末年始所在地 / 兵庫県神戸市灘区大石南町1-29-1魚崎からはじまり御影郷、西郷の一部の酒蔵しか巡れていませんが、美味しいお酒を堪能し気分は絶好調。重いリュックを背負い、ここから大石駅に向かい今夜の宿有馬温泉に向かいました。当日の大まかなルートはこちら、コース距離は6㌔程。訪問日 / 2023/07/07関連記事 / 神戸市灘区「若宮神社」、神戸市灘区大石南町 「住吉神社」・一部定休日の蔵もあり事前に調べていくといいかもしれない。・外国人観光客の集団に遭遇すると接客はそちらに力点が置かれるようです。・無料試飲は倉によって量はバラバラ、これで決めろ呟きたくなる量の蔵もあり、有料試飲がお勧め。
2023.08.18
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危険な暑さが続く毎日、日中は外出せずオオタニサンの応援に徹している。休みなく出場し続けるオオタニサンの思いとは裏腹に、チームはなんだか覇気がない。討ち取られたっていい、下を向かず悔しさをもっと表に出してもいいように思う。このままレギュラーシーズンで終わってしまいそうな予感が漂う。そんなこって最近は夕涼みがてらに近くの河原へ散歩に出かけるのがお決まりのコースとなってきた。夕刻ともなると川面には虫を追うシラハエの姿をよく見かける。そんな光景を見ると老眼を忘れて見えもしない毛鉤を振りたくなる。この時期は産卵を控え、真赤な婚姻色で身を纏ったシラハエに出逢える時期。6年前の事、実に30年振りに毛鉤を作ってみたが、手元がさっぱり見えなくて悪戦苦闘、2本作るのが精一杯で強烈に視力の衰えを実感しました。性懲りもなく久し振りに再び毛鉤を作ってみた。持っているツールや素材は既に30年は過ぎたもの、シラハエサイズの針とスレッドがなく買い足しに行きましたが、昔に比べ針やスレッドの価格は驚くようなだった。針のサイズは#18、やや大きなサイズですが、この大きさが視力の限界。10㍍程先なら何とかシルエットで分かる・・・かもしれない。ツールも色々揃えたけれど、使う物はだいたいこれだけあれば事足りる。手の込んだ毛鉤を作る視力もないので、ボデーと羽を巻くだけのシンプルなものが一番。シラハエ用は昔からこれで十分楽しめたので今回も同じ。6年前は一回りも大きな針を使ってみましたが、それでさえ自分にイラつくほど苦労したが、今回は無理を承知で小さめのサイズにして見た。下糸(スレッド)で針の胴体に下巻して……スレッドに黒の毛糸(フライライト)を絡ませて……ぐるぐると巻き付けていって、なんとなく虫の胴体の形に似せて形作り、ウィップフィニッシャー(糸縛り器)でスレッドを針に縛り、余計なもじゃもじゃを切り落として散髪。ビンテージ物の黒の羽を二枚。それを先端にスレッドで巻き留めて、クモの糸のようなスレッドが切れても羽が外れないように、ここでも糸縛り器で巻き留めます。ハックルプライヤー(羽挟み金具)を羽の先端を挟み、ぐるぐる巻き付け、先端で再び糸縛り器で巻き留め、ハックルプライヤーで挟んでいて巻けなかった羽を切り落とす。二枚目の羽も同じ要領でぐるぐると巻き、毛むくじゃらにして糸縛り器巻き留めますが、縛り目は1枚目に以上に何回〃も巻き留めます、接着剤で固めないので2枚目の縛りはしっかりと。そして最後にスレッドを切って毛むくじゃら完成。左が羽二枚のもの、右は1枚のもの。二枚のものは水面に浮きやすく、風で水面を転がり虫が動いて見える。一枚のものは沈みやすく、水面より少し下(つまり見えない)で釣り糸の張りや、竿先の感覚で魚を感じ取る場合に使います。毛むくじゃらで虫っぽくないかもしれませんが、形態に拘るよりその時期の虫の大きさに合わせ、自分が見やすい物を作った方がいいかもしれない。どれだけ忠実に虫に似せて作っても釣れる時はなんでも釣れる傾向にあります。若い頃作ったイミテーション毛鉤、時間と手間をかけ作り上げても一回魚が針掛かりすると原形はなくなります。一日1本の針で楽しむ(針の交換は面倒)には無理がある、そんなことから未だに在庫として残っています。加齢にともない拡大鏡がなければさっぱり見えないだけに、シンプルで見やすく、簡単に作れるものが一番。これで針は出来た、立て続けに襲来する台風が過ぎ去った後、夕方の散歩にはポケットに忍ばせて河原に降りてみよう、あわよくば婚姻色のシラハエを写真に収めることが出来るかもしれない。それにしても矢継ぎ早に来襲する台風、コースや速度、気圧にしても経験したことない勢力のものばかり。今回は名古屋から見ると直撃を免れても、西に被害が及びそうです、そこには息子も生活しています。もう少し早く過ぎ去ってもらいたいものです。備えはしてあるものの、取り越し苦労は何度しても構わない、麻痺するよりはいい。その日は必ず訪れます。関連記事 / 2?年ぶりの毛ばり作り
2023.08.15
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三重県桑名市小島、小島 八剣神社。前回掲載した中川の八剣神社から小島 八剣神社へは、木曽川右岸の堤防道路と並行して走る一般道を南下し、東名阪自動車道をくぐった先の小島集落に鎮座します。いつもの様に赤のマーカーが鎮座地になります。この地図もそろそろ限界かな。小島八剣神社の西側まではセンターラインのある広目の道路ですが、神社はそこから一本東の筋になり、そこからの道幅は普通に狭い。社頭全景。鳥居左に一台分の駐車スペースがあるようですが、三叉路の交差点角になり、中途半端に停めると交通の妨げになります。社頭は南向きに神明鳥居を構え、右に手水舎がありその右に大正3年(1917)寄進の「八剣神社」の社標があります。鳥居から境内の眺め。周囲は大きな樹々で囲われていますが、境内の日当たりは良く、風の通りもいいのでこの時期気になる蚊の心配はなかった。鳥居から先の石段を上がった先に境内が広がり、拝殿と鞘殿が建てられています。手前の常夜灯の寄進年は昭和61年(1986)のもの。境内左に小島八剱神社の由緒があり、内容は以下。「元和年間(十七世紀はじめ)まで東川村と称されていた小島村(現・小島)はもともと中川村(現・中川)の八剣神社の氏子でした。熱田神宮別宮の八剣宮の祭神・熱田大神(神体・草薙神剣)を祀る同社は1553年(天文22)に創建されました。伊勢の神宮・内宮を総本社とする神明社でなく、熱田神宮ゆかりの八剣神社の氏子であったことは、このあたりが当時、伊勢国より尾張国の文化の影響を強く受けていたことを表しています。ただし、東川村の人々がいつ同社の氏子になったかは定かではありません。中川村の八剱神社は、その後、兵乱と洪水によって荒廃しました。1586年(天正14)に発生した天正地震は、長島城の天守を倒壊させるなど甚大な被害を及ぼしたので、その 影響を受けた可能性もあります。当時、東川村にあったとされる稲荷社(由緒不明)も全壊したと記録されています。1589年(天正17)、東川村の人々は中川村(現・間々)、殿名村の三ヶ村の人々とともに、中川村に八剣神社を再興しました。時代が下るとともに長島の開発は進み、各村の人口も増加、経済力も向上しましたので1651年(慶安4)の殿名村、1766年(明和3)間々村に続き、1793年(寛政5)に小島村も分配して現在地に八剣神社(当社)を造営し、その氏子となりました。同年に遷宮が行われ、中川村の八剣神社の旧社殿を譲渡されたことが棟札から分かっています。遷宮式典は1795年(寛政7)に実施され、その後、現在に至るまで小島の人々に崇敬され、大切に守られています。1887年(明治20)、1917年(大正六)、1953年(昭和28)、1986年(昭和61)に遷宮が行われました。1953年建立の旧本殿は現本殿東隣に保存されています。穀物の神とされる宇迦之御魂神を祀る稲荷社が1761年(宝暦11)に、海上安全に御利益があるとされる金毘羅大権現を祀る金比羅社が1839年(天保10)に、それぞれ勧請されましたが、1915年(大正4)に両社とも本殿に合祀されました。境内の南東角には薬師堂があります。小島のある人が、出水後に木曽川で拾い上げた薬師如来木像を祀るため、1954年(昭和29)年に建立されたと伝えられています。毎年9月には薬師祭が催され、延命地蔵院(西川)の住職により法要が営まれています。境内の南に立つスダジイの古木は日通り約430㌢の巨木で、複数の幹が癒着して一体化したものです。小島の人々は古くからこの木を神聖なものとしてに大切にしています。このスダジイの西隣には1959年(昭和34)年の伊勢湾台風後まで木造の石取祭車庫がありました。1817年(文化14)に桑名宗社の氏子である某町で作られた祭車が、長島の他地区に保管された後、小島村のものとなって保管されていました。伊勢湾台風で祭車庫が被害を受けたのを機に、桑名市宝殿町に売却され、現在も「宝町」が使用しています。桑名石取祭に参加するものとしては最古の祭車です。小島では1890年(明治23)から養蚕が始まり、1897年(明治30)年には稚蚕の共同飼育が始まりました。1960年(昭和35)には小島稚蚕共同飼育場が当社境内の南東角に建設され、養蚕が行われなくなった後は集会所として利用されていました。当社では以下の祭事が行われています。1月・祈年祭(初湯)、5月・農上祭(農神) 、9月・大祭、新嘗祭、薬師祭、10月・小祭、稲荷祭」中川八剱神社の由緒もそうですが、こちらの小島八剣神社も、起こりから現在に至るまで分かりやすく纏めて掲示されているのに驚くと共に、この後参拝して行く神社でも同様の由緒が掲げられていました。境内西側から社殿全景、拝殿右奥の建物が旧本殿。拝殿前を守護する狛犬、寄進年は昭和28年(1953)。拝殿全景、入母屋瓦葺の妻入りで、大棟に桐と菊の紋が入る。拝殿外観とマッチした味わいのある額は「八剣神社」後方の本殿全景。岩を組み、高く築かれた本殿域に鞘殿が建てられています。鞘殿は切妻瓦葺で本殿の造りは不明です。降り棟の先端に波を模した飾り瓦がつき、火事、水害の災いから逃れたい、その現れだろう。集会所左の注連縄が張られたシダジイの古木、樹齢は不明。複数の幹が一つとなっているさまがよく分かる、なんとなく核家族化が進んだ今を風刺しているようにも見えてくる、「一人より二人、寄り添えば強くなる」とでも語っているようだ。幹の上や朽ちた枝は押さえられていますが、幹は今も新芽が青々と芽吹いています。小島八剣神社創建 / 1793年(寛政5)祭神 / 熱田大神、宇迦之御魂神、金毘羅大権現所在地 / 三重県桑名市小島421 八剱神社より南下4~5分程参拝日 / 2023/07/21関連記事 /・八剱神社(桑名市長島町中川)・楠神社・八幡神社(森川花はす田と船頭平河川公園近況)・七里の渡し跡と蟠龍櫓(水門統合管理所)・船頭平閘門と国営木曽三川公園船頭平河川公園・桑名宗社(桑名神社・中臣神社)
2023.08.14
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新在家若宮神社から西郷酒蔵の道を西へ進み、沢の鶴の工場西外れの三叉路を左に曲がり都賀川に架かる昌平橋を渡ります。そこから沢の鶴資料館方面に向かうと住吉神社に至ります、移動時間は約10分程です。Gマップ上一部遠回りを指示しますが、酒蔵の道を突き進んでください。「西郷酒蔵の道」を突き進んだ三叉路から、今歩いて来た道を振り返る。右が沢の鶴の工場で屋外タンクが立ち並ぶ。プラント化された大規模な醸造施設を一度も見た事は無いが、冷媒で温度管理された二重構造の醸造タンクなんだろうか、とすれば中身は美味しいお酒がタップリ。プラントの道沿いの壁には、所々に酒造りの歴史や震災前の姿を伝える写真が埋め込まれています。三叉路から左に進む。所々こうした案内板も有り心強い。ここから道なりに西に進み昌平橋から都賀川を渡ります。川面に浮かぶカルガモたちが妙に気持ちよく見える。この日は川面に足を突っ込んで冷やしたい陽気だった。住吉神社の社頭は橋を渡ったら左に曲がり、その先で右に曲がれば社頭に至ります。交差点の角地に南向きの住吉神社社頭が現れます。社頭全景。周囲を玉垣が囲い、石の明神鳥居の左に社標が建てられています。住吉神社社標。赤茶けた社標は昭和30年(1955)に寄進されたもの。鳥居の額は「住吉神社」。鳥居は平成10年(1998)に建立されたもので、1995年の阪神淡路大震災後に復興されたもの。兵庫県神社庁による当社解説は以下となっていました。「主祭神 天照皇大神、配祀神 表筒男命、中筒男命、底筒男命。例祭日 5月5日。当社は、「敏馬(みぬめ)神社御旅所」として、大石に鎮座している。旧記は元文年間(1736~)の大石村の大火により焼失してしまったが、旧聞によると、「御神体は天和年間(1681~)に大石村の海中より御出現され、社殿を造営し奉斎した」、また、「大石は、上古、神を祀る氏が居住する地で、名を生石と称えた。神功皇后朝鮮出兵の時、この地の舟人が召され勲功を立て米18石を賜り、その光栄を後世に記すため、十八を合わして大とし、生石から大石に改称した」とのことである。社殿は、文化11年(1814)と昭和10年(1935)に改築したが、阪神淡路大震災にて倒壊し、平成14年(2002)に再建。神社西隣に「沢の鶴資料館」(県指定文化財)があるように、大石は、江戸時代中期より、酒造業、江戸へ酒を運ぶ廻船業大いに栄え、彼らの庇護を得ようと、多くの文人(俳人与謝蕪村その門弟呉春・大魯など)が訪れ、地元より、松岡士川・士巧など有名な俳人を多く輩出した。境内には、蕪村の「畑打ちの眼をはなれずよ摩耶ケ獄」の句碑がある。」とても分かりやすく纏められ、地方から訪れた者には兵庫県神社庁のHPは有難い存在だ。一対の常夜灯と正面の拝殿。常夜灯の竿には文化11年(1814)寄進と刻まれていた。笠の一部が欠け落ち、ここでも震災のものと思われる傷跡が残されていました。参道左の手水舎。RC造りの入母屋銅葺屋根の拝殿は千鳥破風と向拝を持つもの。参道右手の石標には「敏馬神社御旅所 住吉神社」とある。御旅所とは時折見かけます、祭礼の時に本宮の御神体が一時宿泊する場所で、普段は不在の所が多く、中には地の神様をお祀りしている御旅所もありますが、こちらは後者で普段でも地の神様はお見えになります。神社庁の解説では主祭神 天照皇大神、配祀神 表筒男命、中筒男命、底筒男命とあります。筋肉質の狛犬。吽形は角を持つもので、昭和10年(1935)に寄進されたもの。拝殿内の眺め。本殿前にも一対の狛犬が守護しているようです。右三つ巴と五瓜?の紋が見えますが神紋は定かではありません。本殿左に二つの岩が安置されています。右の岩には正一位彦九郎大明神と刻まれていますが、左は不明。何れも詳細は分からなかった。解説にあった「蕪村の「畑打ちの眼をはなれずよ摩耶ケ獄」の句碑」については見逃してしまったようです。阪神淡路大震災で社殿が倒壊するなど大きな被害を受けた住吉神社ですが、若宮神社同様に氏子や崇敬者に寄り震災から復興を遂げています。御神体の起こりが若宮神社、住吉神社共によく似ており、敏馬の海には不思議が満載のようだ。社地の道を隔てた西隣は沢の鶴資料館。誰が教えた訳でもない醸造の起りもまた不思議なものがある。住吉神社創建 / (伝)天和年間(1681~)祭神 / 天照皇大神配祀神 / 表筒男命、中筒男命、底筒男命所在地 / 神戸市灘区大石南町1-1-20参拝日 / 2023/07/07新在家若宮神社から徒歩で住吉神社 / 西に約10分(西郷酒蔵の道は西進できます)関連記事 / 神戸市灘区「若宮神社」
2023.08.13
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春日井市玉野町鎮座信清(のぶせい)神社。後醍醐なか刀自媛大神から中央線を越え、線路沿いに東へ向かい徒歩10分程で信清神社に到着します。鎮座地は玉野川(庄内川)右岸の玉野地区にあって、最東端と云っても過言ではない場所に鎮座します。鎮座地は赤のマーカーになり、北側には新しい町玉野台が迫ってきています。地図上で信清神社が示されるのは昭和42年(1967)以降からでした。現在見る玉野川(庄内川)の姿はさほど荒々しい川の表情はないけれど、江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張名所図会春日井郡の編には、荒々しい玉野川の姿が描かれています。現在の高蔵寺駅から少し上流の鹿乗渕(かのりふち)と呼ばれた場所から、玉野町方向の上流を描いたものと思われます。正確な場所は特定できませんが、その名を留めた鹿乗橋が今も存在しています。玉野地内の最東端にあるJR中央線第一新街道踏切を南側から北側方向を眺める。いつもの様に書きますが、町内の道は狭いので軽ならともかく、大きな車で分け入らない事に限ります。信清神社はこの踏切を渡って線路沿いを右(東方向)に進みます。来たねぇ。行ったねぇ。神社は道なりに左に進んだ左側に鎮座します、駐車余地、転回余地はないとしておきます。信清神社全景。民家の敷地入口の左側に門柱のように信清神社の社標が立っています。社殿は切妻瓦葺で四方吹き抜けの拝殿?と同様の覆屋の二つの建物。周辺には狛犬、神社由緒などは見当たらなかった。色々と調べて見たが詳細は分からなかったが、玉川小学校の校区の歴史を紹介したHPがとても良く調べられており、そこから当神社の紹介を引用させて頂きます。「玉野の東の端に信清神社があります。今では、玉野台団地がすぐ上まで迫っていますが、以前は県道下半田川・春日井線から少し北に入った所で、人家もまばらでした。言い伝えによれば、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで負傷した落武者が、この地で亡くなりました。その後、落武者の霊を慰めるために村人達が小さな墓石を建てたということです。墓の北側には小さな池があり、そばに大きな松の木がありました。この松の大木は昭和の初め頃朽ちて倒れてしまいましたが、その松材でお堂を建て、子供達の「山の子」のこもり堂として使われていました。そのためか、信清神社のことを近所の人達は「大松様」と呼んでいます。現在のお堂は、梶田松園(しょうえん)さんが中心になり、二軒家の人々によって昭和57年(1982)に建てられたものです。「信清神社」の名も、梶田松園さんが命名されたそうです。この神社には、三つの社があります。中央にあるのが信清様で、広瀬信次郎という武士の霊が祀られています。右側にあって風雨にさらされたように見える社は、「山の神」とか「井戸神様」などと呼ばれていたもので、篠原左衛門尉(さえもんのじょう)忠孝と遠山左衛門尉頼房(とうやまさえもんおじょう よりふさ)という二人の武士の霊が祀られています。この二人の武士も小牧・長久手の戦いの落武者で、以前は二軒家の山の中の沢水のわき出る所の近くに小さな墓石が二つあったそうです。左側の社には、秋葉様と天王様が祀られています。昭和10年(1935)頃に玉野にはやり病が広まり、二軒家でも何人かの子供が亡くなりました。そこで、疫病退散を願って津島神社から天王様を迎えて祀ったといわれています。」玉野町は決して大きな町ではありませんが、地域に鎮座する社寺其々がなんらかの形で結びつき、皇大神宮山住彦大神の由緒にもあったように、流行病に見舞われ神社も祀られていったようです。そして、古い土地柄もあり武士との縁もあったようで、その都度村人により供養され、後醍醐なか刀自媛大神のように、今もその思いは大切に受け継がれ、語り継がれている。それら単に不吉な事象を恐れての行動だけでないような気がする、土地柄は人柄も育むものかもしれない。社頭から社殿の眺め。拝殿中央の床の板はなんだろうか?気になったが見忘れました。拝殿先の覆殿の中央の社殿が広瀬信次郎をお祀りする信清様。右が篠原左衛門尉忠孝と遠山左衛門尉頼房の二人の武士の霊が祀られています。左が秋葉様と天王様の相殿のようです。新しい榊が供えられ、創建時の思いは今も継がれているようです。比較的新しく創建された小さな神社と云われるかもしれませんが、歴史の有無や規模で推し量れない人の思いが伝わってくる神社です。信清神社創建 / 昭和57年(1982)信清様祭神 / 広瀬信次郎井戸神様祭神 / 篠原左衛門尉忠孝、遠山左衛門尉頼房秋葉社・津島社祭神 / 火之迦具土大神、牛頭天王または建速須佐之男命所在地 / 春日井市玉野町1041参拝日 / 2023/07/14後醍醐なか刀自媛大神から徒歩で信清神社 / 東へ約10分関連記事 / ・後醍醐なか刀自媛大神(春日井市玉野町)・御所中明神・高蔵寺第5号墳(春日井市玉野町)・津島神社(春日井市玉野町)・五社神社(春日井市玉野町)・皇大神宮 山住彦大神(春日井市玉野台1)
2023.08.12
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8/4コストコへ買い物ついでにコストコガスステーションで給油してきました。直前のnewsで次回翌週入荷分から販売価格が上がるとの報道や、夏休みに突入した影響もあるのだろう。この日は異常なまでに列が伸び、主要道まで給油待ちの列が伸びバスの運行に影響が出る始末。近頃ガソリン価格が@180円が当たり前だったが、今日のnews映像には一部地域で@200円に到達したとも聞く。上は当日のレシート、僅か1週間前は163円だったが、どこまで上がるのだろう。御存知のように補助金も打ち切られ、円の価値も下がり、今後ガソリン価格が下がる要因はない。そもそもガソリン価格の半分は税金。ガソリン税53.8円(揮発油税48.6円、地方揮発油税5.2円)+石油石炭税2.04円+温暖化対策税0.76円が課税され、そこに消費税が加わります。この日はliter163円なのでざっくり110円となります。元凶は自民党政権時の1974年に、道路整備財源を名目として道路特定財源「1リットル53.8円」の「暫定税率」の適用から始まってます。それ以来、暫定税率は恒久税となり用途も一般財源となるなど目的外として使われる打ち出の小槌となっています。それは現在に至っても聖域のように手が付けられることなく引き継がれてきているものです。そもそも自動車重量税として道路利用する受益者負担はそこで徴収されています。2010年に当時の民主党政権時に『トリガー条項』が成立し、連続して3カ月のガソリンの平均小売価格が、1リットルあたり160円を超えたとき、暫定税率の適用を停止するものです。ガソリン価格は物流コストに跳ね上がり、モノの価格は上がっていく事になります。こうした状態時に発動すべきための条項があるのです。補助金とて消費者には不透明で、レシートには記載されていない。原油輸入価格が上がると次回納入分から値上げとは言うが、いつ納入されたものか利用者には明示もなく週が変ればちゃっかり価格は改定されている。これ以外にも政府は企業に対し補助金と称して金をばら撒いて来た。雇用調整助成金にしても目的外で使用されるなど、利用者に転嫁されていない事例もある。子育て支援も結構、年収の壁も結構、老朽原発稼働も結構、防衛費増も結構、他国へ資金援助も結構なことです、ただ金額をばら撒くのではなく確実に対象者へ届く見える形で支援し、バラ色の将来を実現するための具体策を自ら丁寧に示すのが首相や与党の責任だと思うが。世襲の廃止、議員定数削減、定年制、議員特権や手当の見直しなど、自らが示せるものもあるだろうが。世襲で首相になる事が目的の現首相や団体とズブ〃の現与党ではトリガーを引く英断はしないだろう。彼らには今日の支持率は気になるが、ガソリン価格は興味もないし、肌で実感する事はないのだろう。補助金打ち切るならトリガーを引く、要件は満たしているはずだ。物価は更に跳ね上がり、何より気になる支持率も更に下がるのではないかな。意見を主張しない大人しい国民ながら、そろそろ声に出し主張すべきときに来ているのでは?
2023.08.11
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いつもの様に朝一番に我家のミニトマトを収穫していた時のこと。小さな庭にはいつもの様に蜂が飛び交っていた。いつもの様に追い払い収穫を済ませ部屋に戻る、なんだか髪の毛の中で何かがうごめく。反射的に手で払った瞬間に手のひらに痛みを感じると同時に、部屋の中に黒い物体が羽ばたいた。とっさに新聞で叩き落すと、さっき外で飛び交ってた黒いやつだ。頭髪に潜り込んでいたようで、おやじに触られたもんだから刺すしかなかったようだ。すぐに水で濯ぎ、刺された場所らしき所を指で挟み、毒を押し出そうとしたが針が残っている訳でもなく、患部もよく分からない。ステロイド、ヒスタミン混合の薬を塗布し、今は保冷剤で冷やしているが少しづつ腫れが出てきたようだ。問題はこの物体がなにかが問題。普段熊蜂とばかり思っていたが、体調30mmほどの黒い物体を調べて見るとタイワンクマバチのようだ。名の通り外来種。その口の威力は木などに取り付き穴を開けるほどの威力があり、さらに針を持ち怒ると刺すようだ。針が残る種類なのか否かは分からなかった。この黒いやつはこれまで見逃してきたが、穴まで開ける外来種となると対応を変えるしかなさそうだ。幸いアナフィラキシー症状もないようなので、様子を見る事にします。刺されているのは黄色の範囲だと思われ、拡大しても針が残っている様子はないようなのでやや安心。まじまじ見る手のひらに妙な傷、なんだぁ?心当たりがない。痛くも痒くもないのでタイワンクマバチの仕業ではないかもしれない。昨日までDIYでロール網戸を取り付けていたがその時の物かぁ?それにしても徐々に指の付け根が腫れ、鈍痛がある。しばしキーは叩けなくなりそうだ。・・・・皿洗い、免除してくれるかなぁ
2023.08.09
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前回は愛知県から三重県に移り、楠神社まで訪れました、今回はそこから東の田んぼの中に鎮座する八剱神社を掲載します。ここでも最初にお伝えしておくこととして、八剱神社周辺に路上駐車できる余地はありません。社頭の前まで細い道がありますがその先は行き止まり、路肩に僅かなスペースはありますが、転回は軽でも厄介、出来なければバックで戻る事になります。カルチャービレッジ輪中ドーム駐車場に車を停め、楠神社を経由し10分程東に歩き八剱神社に向かう事を勧めます。今回当地を訪れ感じた事ですが、折り畳み自転車を積んで回るのが一番いいかもしれない。神社北側の農道から社地全景。一面田んぼの中に、濃い緑の杜を持つ社地は南北に長く、南側に鳥居を構えています。鳥居側の農道、鳥居に続く道に駐車余地は全くありません、唯一余地があったのは杜の東側のみです。八剱神社の鎮座地は赤のマーカー部分になります。所在地は三重県桑名市長島町中川、明治の頃と比較して農地には碁盤の目のように農道が張り巡らされています。南側の社頭から見る社地全景。田んぼの中に幟旗がはためく姿は日本の原風景を見るようだろう。参道には石の神明鳥居が立ち、その先に一対の常夜灯があります。一ノ鳥居。柱に刻まれた寄進年は大正の元年又は七年?車は路肩の草むらに停めさせていただきました。社頭。ニノ鳥居も神明造、鳥居右に村社八剱神社の社標(寄進年未確認)。境内右に八剱神社の由緒と左に手水舎があります。由緒の内容は以下。「中川 八剱神社当社は1553(天文22)年に創建され、翌1554(天文23)年に熱田神宮の別宮である八剱宮の祭神・熱田大神(神体・草薙神劔)が勧請されました。長島に5社ある八剱神社のうちで最も古い八剱神社です。伊勢神宮・内宮を総本社とする神明神社でなく、熱田神宮ゆかりの八剱神社が勧請されたことは、このあたりが当時、伊勢国より尾張国の文化の影響を強く受けていたことを表しています。木曽川の外、「甚平兵山」と称された島にあったとされますが、その詳しい位置は定かでありません。神主は八幡神社(西外面)の神主が兼務したとされ、その後も八幡神社の神主が代々兼務したと考えられます。江戸時代には伊藤氏が、明治時代以降は諸戸氏がこれを務めています。長島一向一揆の頃、外島対馬外記という浪人が阿部氏から社を預っていましたが、病死したとされています。その住所は「神田」の字で二町歩余の社領地となっていたと伝えられています(位置は不明)。社は兵乱と洪水で荒廃してしまいました。1586(天正14)年に発生した天正地震は、長島城の天守を倒壊させるなど長島にも甚大な被害を及ぼしましたので、その被害を受けた可能性もあります。1589(天正17)年、中川、東川(現・小島)、捶(現・聞々)、殿名の四ヶ村の人々が、現在地に設けた新たな社地に遷宮して再興し、産土神として崇敬しました。時代が下るとともに長島の開発は進み、各村の人口も増加、経済力も向上しましたので1651(慶安4)年には殿名村が分祀して殿名新田に社を造営し、東殿名村とともにその氏子となりました。1697(元禄10年の記録によると、当時の氏子は中川、小島、間々、三ツ屋(現・押付)の四ヶ村とされています。その後、1766(明和3)年には間々村が、1793(寛政5)年の遷宮に際して小島村が、1813(文化10)年には押付がそれぞれ分祀して各村に社を造営し、その氏子となりました。1859(安政6)年には三百年祭が行われ、神主・伊藤筑前正重曉が詠歌「草なきてむれいするよりみももとせ いつきまつれる八剱のみや」を残しました。1880(明治13年には村社に列せられました。中川の寺田下(位置は不明)には天照大神を祭神とする神明神社(由緒不明)がありましたが、1907(明治40年に当社に合祀されました。本殿の中には木製で金色の狛犬が置かれています。吽形の狛犬の足に、行方不明者の住所、氏名を紙に書いて結びつけておくと、その行方不明者を足止めし、発見できるという言い伝えがあります。なお、前述の他に1844年、1880年、1902年、1920年に遷宮が行われたことが棟札などに記録されています。当社では毎年、以下の祭事が執り行われています。一月・新年祭(初湯) 、五月・農上祭(農上) 、九月・小祭、御礼祭 、十月大祭、十一月·新首禁」事前の下調べで八剱神社が多いことに気付いていましたが、1553(天文22)年の創建以降、農地の広がりと集落の広がりに応じ、この神社から次々に分祀されていったようです。この由緒書きは初めて訪れた者にも分かりやすく、細かく記されています。創建当時の木曽三川は明治頃の川筋の比ではなく、島々が点在する様相だったことでしょう。上は桑名市の蟠龍櫓(水門統合管理所)にある治水の歴史。宝暦の治水、明治の治水に伴い三川の流れの変化が一目でわかります。この地は治水と新田開発の歴史の場で、古くから自然と人の鬩ぎあいの最前線として先人の志により今がある。素朴な手水舎。手水鉢の寄進年を探して見ましたがよく分からなかった。境内、社頭の農道には敷き詰めたように小さな椎の実(自信なし)が落ちており、踏みしめると玉砂利を踏みしめたような音がします。これらが椎の実であれば、米が不作の時など貴重な食料として重宝したのかも知れない。参道から社殿の眺め。常夜灯の先で一対の狛犬が社殿を守護しています。狛犬。吽形は鋭い牙を見せ頬を膨らませ、今にも吠え掛からんばかりの表情。拝殿は切妻瓦葺で額はない。右側から本殿方向へ。角の取れた石が積み上げ、更に岩を組み、そこに切妻瓦葺の覆殿が建てられています。石段正面に立つと覆殿は見上げる位置にあります。山のようなこの高さが必要な土地柄なのが伝わってきます。覆殿内の本殿。銅葺屋根の流造だろうか、由緒にある不明者を足止めしてくれる金色の狛犬が僅かに写り込んでいます。一ノ鳥居から南方向の稲田の眺め。社頭から東の眺め、集落や豊かな稲田を護っている最前線が延々と続く堤。以前は100年に一度の大雨とか言われていたが、昨今の事象はそれを上回る異常なもの、いま目にする事象に備え、後世に繋げるのが今を取り仕切っている、世襲で成り上がった権力者のすべきことだろうが、上様は絵空事は語れるが、具体策を語れないからさっぱり読めない。八剱神社創建 / 1553年(天文22)祭神 / 熱田大神、天照大神所在地 / 三重県桑名市長島町中川258楠神社から車移動 / 東に5分カルチャービレッジ輪中ドーム駐車場から楠神社経由徒歩 / 15分程関連記事 / ・楠神社・七里の渡し跡と蟠龍櫓(水門統合管理所)・船頭平閘門と国営木曽三川公園船頭平河川公園
2023.08.08
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先に掲載した群馬県太田市徳川町の徳川東照宮を後にして、今回の旅程の最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」に向け、最寄りの「道の駅ちちぶ」を目指してひとっ走り、移動時間は約70分程。道の駅から徒歩10分程で秩父神社社頭に到着。秩父神社前交差点の北角に位置し、右手に国幣小社秩父神社の社号標が立ち、大きな石の鳥居とその前を守護する大きな狛犬が視界に入る。骨太で胸板の厚い凛々しい姿の狛犬は、写真から大きさは伝わらないが、台座を含めると見上げるほどの高さがある。上は栞にあった境内マップ。広い境内は神門を境に大きく二つに分かれ、鳥居をくぐった先の境内は手水舎、神楽殿、神馬舎が建てられています。手水舎脇の秩父神社由緒、内容は以下。「秩父神社当社は市の中央柞の森に鎮座し秩父地方の総社であり、延喜式神名帳にものっている。二千有余年の歴史をもつ関東屈指の古社であります。人皇十代崇神天皇の御代、知々夫彦命がその祖神八意思兼命を奉祀したのに始まるといわれております。一、御社殿現在の社殿は天正二十年德川家康の寄進により建立されたもので、見事な権現造りです。特に、「つなぎの龍」と子育ての虎は名工「左甚五郎」の作といわれています。一、御祭神八意思兼命(政治、学問、工業、開運の祖神) 知和夫彦命(郷土開拓の神)天之御中主神(宇宙創造神、俗に北斗七星の神として夢見様といわれる)秩父宮雍仁親王一、神祭礼二月 節分祭(古式による鬼やらい行事が行われる)四月 四日御田植祭七月二十日 夏祭り(川瀬祭り)、 悪疫祓いの行事神輿を荒川にもみ込み、屋台笠鉾も曳きまわされる。十二月三日 秩父夜祭り(冬季例大祭)、 日本三大曳山祭の一つで国指定重要民俗資料秩父祭屋台、笠鉾六基が県指定無形文化財の秩父屋台ばやしのりズムに乗って街中を夜を徹して曳かれる。」手水舎。銅葺屋根の切妻で第一印象は地味に見えますが、妻壁などには細かな彫が施されています。妻壁と梁の彫飾り。彫の深い獅子が描かれた木鼻。桁の装飾、手水舎ながら手間を掛けて作られています。龍は不在ですが、平成の名水百選の水源に名を連ねる武甲山伏流水が滾々と湧きだしています。左手の入母屋銅葺屋根の建物で、重要無形民俗文化財に指定されている秩父神楽が奉納される。神楽殿右に見える石段は白虎門の入口。参道先の神門は左右に透塀と連なっており、その先に拝殿の姿がある。神門。現在の門が築かれた年代は紹介されておらず不明ですが、切妻瓦葺で朱塗りの四脚門は上品な華やかさを漂わせている。拝殿。入母屋銅葺屋根で千鳥破風、唐破風向拝、周囲に高欄が付き、各所に金色の飾り金具が施されている。壁面の周囲に施された華麗な彫飾りに視線はひきつけられる。権現造の社殿は永禄12年(1569)に戦禍により焼失、後の天正20年(1592)、徳川家康により寄進されたもので、江戸時代初期の様式を留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。拝殿左(西側)の白虎門と右の石は神降石。この辺りに東向きに2社、南向きに1社の境内社が祀られています。左が柞稲荷神社。祭神は商売繁盛の神、倉稲魂命。例祭日は3月第二日曜。右が諏訪神社。祭神は風水守護、旅行安全の神、建御名方神、八坂刀賣神。南向きの1社は日御碕宮。祭神は悪疫退散の神、須佐乃男神。例祭日は7月20日。日御碕宮後方に聳える秩父御柱、左の解説は以下。「秩父神社大祭信州諏訪本宮に倣い、境内諏訪社も香場町民挙りて例大祭宵宮に「山出し」された「御柱」を当所南方より番場妙見通りを「里曵き」し同日夕刻「建御柱」を執行するものなり第一回昭和63年卯歳9月26日、第二回平成4年申歳9月26日、第三回平成10年寅歳9月26日、第四回平成16年申歳9月26日、第五回平成21年丑歳9月26日、第六回平成27年未歳9月26日」右の建物は神様にお供えする食事の準備を行う神饌所。秩父神社拝殿正面の眺め、鮮やかに彩られた彫物は拝殿のみならず本殿にも及ぶ。拝殿正面の彫飾り。左右の4間に4頭の親の虎と2頭の子供の虎が描かれ、否が応でもその姿は視界に入ってきます。子宝・子育ての虎(左甚五郎作)。正面左の二間の右側に描かれているもので、子虎とたわむれる母虎の姿が描かれており、左甚五郎が子育ての大切さ、家康の威厳とご祭神を守護する神使として彫ったものと伝えられています。拝殿左側(西面)。拝殿左側(西面)。幣殿左側(西面)。本殿左側(西面)。本殿左側(西面)の龍の左下の三猿。日光東照宮の「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の姿とは違い、「よく見て・よく聞いて・よく話す」を現しているとされ「お元気三猿」と呼ばれるもの。拝殿右(東面)の彫飾り。西側の松に対し東側のこちらは梅が描かれ、東西で対になるのか?幣殿右側(東面)。色鮮やかな彫飾りは、秩父神社御鎮座2100年奉祝事業として2019年から本殿の修復が作業が始まり、昨年拝殿正面の修復を終え、2023年10月の作業終了を目指し、現在は本殿北側の修復作業が行われていました。本殿右側(東面)。少しデザインは違いますが西面と同じように色鮮やかに彩色された龍の姿がある。つなぎの龍。左甚五郎作でこの龍の彫飾りには不思議な伝説が伝わるという。「その昔、秩父札所15番少林寺近くに「天ヶ池」と呼ばれる池があり、そこに棲みついた龍が夜な夜な暴れ、その際にはこの彫刻の下に水溜りが出来たという、この彫物の龍を鎖で繋ぎ留めたところ、その後龍が現れる事はなかった」という伝説がある。古来地域の四方は青龍・朱雀・白虎・玄武の四神が守っていると信じられ、この彫刻も表鬼門にあたる東北を守護している。(因みに西の門は白虎門と呼ばれていますが、東門もありますがそれは青龍門とは言わないようです)本殿後方(北側)から拝殿方向の眺め。参拝当日はネットで覆われ修復作業中で見る事は出来ませんでしたが、この面には、体は南、頭を北に向けた北辰の梟が描かれているという。修復作業を垣間見たが、おやじの日曜大工の塗装とは違い、剥離・修復・下地処理が入念に行われ、手間と根気のいる地道な作業が続けられていた。本殿の両横に祀られている社。上本殿左側に祀られている伊勢の外宮・豊受大神宮、祭神は豊受大御神、日の神に仕え五穀豊穣の神様。下本殿右側に祀られている伊勢の内宮・皇大神宮、天照大御神、日本の総氏神様。天神地祇社。本殿後方の東西に長い社で両脇に額殿が付く。社の中央にある解説は以下。「天神地祇社平安時代から中世にかけて、朝廷の「二十二社」奉幣制度と共に、全国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。かつて秩父地方は、知知夫国として独立した存在でありましたが、その当時には既に武藏國に属しており、現在の東京都府中市に鎮座致します大国魂神社(別称六所宮)が武蔵国の総社とされ、その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。古くから当神社の境内社の一つとされて参りましたこの天神地祇社は、全国の一ノ宮(計七十五座) お祀りしています。これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的にも珍しいものと思います。何故、このような形でお祀りされたのかは定かでは ありませんが、一説によると当社のご祭神である八意思兼命が多くの神々の意見を緩められ、折々の ご聖断を下される神様として古典神話の中で活躍されていることから、たくさんの一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われています。ともあれ、これも秩父の歴史風土に深く根差した独自の信仰の表れであると云えるかもしれません。この天神地祇社それぞれのご神前にお参りすることによって、合せて全国の一ノ宮を遙拝することになります。」埴山大神・田村大神・石上大神・軻遇突智大神、若狭比古大神・大物忌大神・罔象女大神・句句津馳大神、津島大神・真墨田大神・金山大神・木船大神、天手長大神・和多津美大神・杵築大神・枚聞大神・丹生大神、南方大神・安房大神・中山大神・安任大神・箱崎八幡大神、砥鹿大神・都々古和気大神・白山比咩大神・籠大神・西寒多大神、伊射波大神・寒川大神・香取大神・倭文大神・鹿児島大神、松尾大神・都佐大神・春日大神・粟鹿大神・伊和大神。中央に天神地祇社。そこから右に続き、加茂大神・大鳥大神・鹿嶋大神・出雲大神・吉備津大神、三輪大神・都波岐大神・二荒大神・玉前大神・渡津大神、宇佐八幡大神・都濃大神・玉祖大神・水無大神・宇倍大神、高良大神・高瀬大神・住吉大神・建部大神・由良姫大神、浅間大神・大麻比古大神・枚岡大神・貫前大神・龍田大神、氣多大神・熊野大神・敢国大神・氷川大神、弥彦大神・厳島大神・阿蘇大神・氣比大神、廣瀬大神・三島大神・物部大神・事麻智大神。全て順番通りなのか少し怪しいが、随分巡拝して来たつもりですが、部屋に貼ってある全国一ノ宮マップが塗り潰せないでいる、ここで全国網羅され御朱印が頂ければ(頂けません)ここで良いんじゃない?、フリマで手に入れればいいんじゃないと思いたくなるが、巡拝しての御朱印だし、訪れなければ出逢えない感動もある。今回訪れた貫前神社と秩父神社の2社は訪れてこそのもの。境内東に柞の禊川と呼ばれる澄んだ流れがあります。古来秩父神社の社叢は「柞の杜」と称されていたそうで、それに因んでこの御手洗川を柞の禊川と呼ぶのだという。その付近の境内に西を向いて三社が祀られています。右から東照宮、祭神は徳川家康。中央が菅原道真をお祀りする天満天神社。左が禍津日社、祭神は禍津日神。境内から神門、社頭の眺め。左側には社務所、神馬舎があります。東照宮右側にスロープがあるので、石段を上ることなく境内にアクセスが出来ます。今回の旅も秩父神社で終わりを迎えます。道中諏訪湖から一山超えた山間の集落で、水田に佇む神社を見かけたのが気になり、あわよくば夕焼けが写り込んだ神社の姿が見られるかと同じ道を辿ったが、それはちょっと無理があった。名古屋まで決められた法定速度で350㌔、先は長い。父父夫國総鎮守 秩父神社創建 / 崇神天皇10年祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)所在地 / 埼玉県秩父市番場町1-3道の駅ちちぶから徒歩10分参拝日 / 2023/05/12関連記事 / 車中泊で巡る#2「世良田東照宮」と「父父夫國総鎮守 秩父神社」・上野國一之宮 貫前神社・貫前神社末社 「日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮」・臨江閣(群馬県前橋市)・村社 雷電神社(群馬県前橋市平和町1)・前橋東照宮・前橋東照宮「営築稲荷神社」と「前橋護国神社」・世良田東照宮・開運稲荷社・日枝社・長楽寺(世良田東照宮)・徳川東照宮(群馬県太田市徳川町)
2023.08.07
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愛西市の八幡社から今回の目的地楠神社までは県道168号線を南下、愛知県県境を越え三重県に。堤防右側の「西川➡」と「輪中の郷」の看板から堤防を下りて西川地内の楠神社までは移動時間約5分程。鎮座地は集落から少し離れた北に位置し、周囲はこうした稲田が広がり、東西どちらを眺めても堤防が視界に入り、送電塔が延々と連なっていく光景が広がっています。社地東側の全景。杜は楠木を主とし、境内を覆う様に伸び伸びと枝を伸ばし聳え立つ。社地の南側には三つの石碑が建てられ、ひと際高く聳える楠の右に社標と石の神明鳥居を構えています。参拝者駐車場はなく、周囲の道幅は狭く対面通行なので、大きな車で踏み込みむと駐車余地捜しに苦労すると思います。場所を確認したら、近くの木曽三川公園カルチャービレッジに駐車、水を持って5分程歩いて訪れる事を勧めます。因みに往復約2000歩は歩けます。三つの碑は日支事変、大東亜戦争、日露戦役記念碑、国を護るため当地から出征された方々の慰霊碑。右手の社頭全景。東を向いて立つ鳥居と左手の「村社 楠神社」の社号標、寄進年は大正13年(1924)とある。神社南側の田んぼ脇に咲くひまわり。南側にも鳥居があり、参道は楠木の杜に包まれた拝殿に伸びています。社頭には僅かばかりの駐車スペースはありますが、参拝駐車可なのかは定かではない。ここちらが正参道になるようですので拝殿に向かう。境内右の手水舎。龍は休み。冒頭の東向きの脇参道。境内の楠神社由緒、内容は以下。「神社の地はもともと西川八幡社の地であり、この西川八幡社が長島北部地区で最古の神社です。天正16年(1588年・豊臣秀吉の時代)平方村(長島町平方)の農夫・西村孫左衛門が篠橋川(現在の木曽川)で漁をしていたところ、魚は取れずに青紅石がかかり邪魔になるので川に投げ捨てて網を入れると青紅石が又掛かった。もう一度同じことが起きたので、不審に思ってその石を堤に置いて、改めて網を入れたところ大漁であった。その夜夢のお告に『青紅石を西川村(長島町西川)の産土神として祀り、八幡宮と崇め申すべし』とあったので、西川村の長の彦左衛門に相談した。西川村の長も同じ夢を見たとゆう。それで西川の地蔵屋敷に社祠を造営して、その石を西川村の産土神(生まれた土地の神)とし八幡宮としたという伝説がある。社の東八町路はクスノキの枝が四方数町にわたって覆っていた。その森の中に八幡社が鎮座していた。そのクスノキの大樹を文禄慶長(1592年)の豊臣秀吉の朝鮮征伐にこれを伐り、軍艦阿宝丸を建造したといわれている。現在も切株が成長し、拝殿の奥、本殿の東側に切株から生えたひこばが大樹となって残っている。後の『村』の基となっている。1592年頃に切られた、クスノキがその当時すでに相当の巨木であったこと、また当地が『地蔵屋敷』と称されていたことを考えると、青紅石が祀られる以前から、この地に何らかの寺社のようなものがあったかもしれないが、記録が存在しないため不明である。明治11年(1878年) 編成法により、西川村・新所村・松之木村・杉江村・上坂手村・下阪手村・千倉村が『楠村』となり、かっての村は大字となった。明治40年(1907年)8月三重県令の一村一社に合祀の通達により、明治42年5月15日に神社7社と境内社17社を、西川八幡社の社地に合祀し、楠神社とした。合祀した神社は、西川八幡社(1588年造営)・下坂手神明社(1615年造営)・上坂手社(1707年造営)・千倉神明社(1650年造営)・新所春日社(1651年造営) ・松之木内母山社(1718年造営)・杉江稲荷社(1838年造営)の社と境内社十七社で楠神社となった。大正14年(1925年)御遷宮を行い現在の本殿となり、昭和53年(1978年)拝殿と社務所が建替えられた。」 祭神が記されていると有難いが、主祭神は誉田別尊だと思われますが詳細は分からない。楠神社の歴史はこの由緒だけで十分語られ、初めて訪れた者にも分かりやすい。それにしても、昔から網には魚意外にも色々なものが掛かってくる、ここは青紅石が事の起こりのようです。青紅石がどんな鉱石か知らないが、磨けば宝石となるやもしれない、それを一度は川に捨てたか…そりゃあ石にしてみれば何度も掛かってやりたくなるもの。社名や境内の楠木から、楠木に纏わる不思議な事象があったのかと思っていたが、楠神社の御神体は豊漁をもたらした不思議な青紅石という事です。参道から拝殿の眺め。拝殿は切妻瓦葺の平入で向拝が付き、手前に一対の狛犬が守護する。狛犬は子付き、玉持ちのものでよく耳にする岡崎型。向拝を見上げれば社殿を覆う楠木、拝殿額は「楠神社」。拝殿額の揮毫は熱田神宮宮司によるもの。拝殿内部。フォーカスが甘く載せていませんが、右手に奉納額や太鼓が置かれています。拝殿左の参道は奥の本殿域に通じている。石垣を高く積み、本殿の周囲を玉垣が囲みます、本殿域左側に境内社が一社祀られています。神明造で内削ぎ千木と5本の鰹木が付く、社名札はなく詳細は分かりません。本殿域全景。本殿は神明造で内削ぎ千木と6本の鰹木が付く。本殿右の大楠。ほゞ平坦な輪中には樹々が生い茂る山はなく、大きな影を落とす樹々が聳える場所は古くからある神社の杜だけかもしれない。秀吉の軍船にも用いられたとされる楠木は、今も代を変えて空に向かって大きく枝葉を広げています。秀吉の時代は今より広い楠の森が存在していたのでしょう。今回訪れた神社の中にあって、大きな杜を持っている楠神社、長島北部では最古とされるのも頷ける。参道から社頭の眺め。輪中を歩くと陽射しを遮るものが少ない、こうした木陰はオアシスのような存在です。さて次の目的地に向け、カルチャービレッジに停めた車に戻ろう、今頃車内は灼熱の地獄だろう。それにしても帽子では役不足、大きな日傘が欲しい。楠神社創建 / 天正16年(1588)祭神 / 誉田別尊(応神天皇)他境内社 / 不明社1社所在地 / 三重県桑名市長島町西川2196参拝日 / 2023/07/21八幡神社から車移動 / 県道168号線を南下5分。関連記事 / 八幡神社(森川花はす田と船頭平河川公園近況)
2023.08.04
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鯎川が玉野川(庄内川)と合流する辺りから東にかけての玉野川右岸は、田園地帯が広がっています。前回はその西外れの御所中明神・高蔵寺第5号墳を訪れました。今回は田園地帯の東外れに鎮座する「後醍醐なか刀自媛大神」に向かいます。鎮座地は赤のマーカーになります。東外れの集落と青田の光景。目的地まではゆっくり歩いても10分はかからないでしょう。後醍醐なか刀自媛大神へは集落西側の写真の小径を道なり進みます。小径はすぐ先で左に向きを変え、目の前に二つの石碑と社が見えてきます。こちらが後醍醐なか刀自媛大神。二つの石碑は「玉野町南島 後醍醐なか刀自媛大神を護る会」により、昭和63年(1988)に建てられたもので、背面に刻まれた多くの寄進者により、後醍醐なか刀自媛大神を支えているのが窺われます。後醍醐なか刀自媛大神側面の眺め。右手の民家の敷地の一部が社地としてあてがわれたのか、三角形の社地はけっして広くはないけれど、境内は雑草もなく、とても綺麗に手入れされているのには驚いた。東向きに建てられた社殿の後方に慰霊碑と後醍醐なか刀自媛大神の慰霊碑が立てられ、社地の左に後醍醐なか刀自媛大神の解説が立てられています。入口から社殿と後醍醐なか刀自媛大神の慰霊碑。社殿の陰になり写っていませんが、社殿左に、なか媛の随行者で北朝に討たれた28名の名が記された慰霊碑があります。由来。「後醍醐「なか媛」様の由来(通称 御所なか様)元号が建武と改められた1330年頃の事です。忠誠、裏切、勝者、非業の死とすさまじい戦乱乱世の時代(南北朝時代)のことであるとされています。都を落ちのびて信濃の国への道すがら、玉野の地内に一夜の宿をとった一行(三十五名位)があった。後醍醐天皇の忠臣達である。ところが何者かに知られることとなり敵方(足利軍)に密告され一夜のうちに闇討ちの憂き目に合いまし た。「なか媛」は敵に打たれるより、下臣にと自らの命を断ちました。他の武士たちは、無念、残念、口惜しいと口走りながら最期の場所となった所が、この地であります。運よく戦い抜いて玉野川を上り、遠く恵那の地まで逃げのびた者が二名居たとされます。恵那の地に着いても安住の地はなく、霊を慰める所もなく、再び玉野に戻り百姓に身をやつし「なか嬢」一行の霊を祭ったとされております。」碑文にある「忠誠、裏切、勝者、非業」当時の人々は信義を重んじながらもこの時代を生きただろう。それでも裏切は絶えず、争いは繰り返され、勝者の裏に必ず「敗者」の姿がある。いつの世も、どちらに付くかで勝者と敗者の道に分かれ、勝者とてやがて敗者となる。700年の学びの時を経た現代ですら身近にも、国内・世界を見渡してもやっている事はなにも変わらない。幸せな事に判断を誤っても命までは取られないが、昨今起きている事を思うと重い選択を迫られているような気がしてならない。後方左には無念の死を遂げた28名の名が記された慰霊碑と一間社流造りの社殿。右手の「後醍醐なか刀自媛大神霊斎場」の石標も昭和63年(1988)に寄進されたもの。一行を弔ったとされる2名の下臣達の血筋が、今も玉野に続いているのか定かではないが、有志によりこうして護られ、次の世代に受け継がれていくのだろう。次の目的地は中央本線を越え玉野町の東外れに向かいます。後醍醐なか刀自媛大神創建 / 不明祭神 / 後醍醐なか刀自媛大神他所在地 / 春日井市玉野町5玉川大神から後醍醐なか刀自媛大神まで徒歩ルート / 東へ約10分程参拝日 / 2023/07/14関連記事 / ・御所中明神・高蔵寺第5号墳(春日井市玉野町)・津島神社(春日井市玉野町)・五社神社(春日井市玉野町)
2023.08.03
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世良田東照宮からの引き続きとなる今回は、世良田東照宮から南東1.7㌔ほど先に鎮座する徳川東照宮となります。世良田東照宮から、一面に広がる畑の中を歩いて向かいましたが、あまりの陽ざしの強さと暑さから駐車場に戻り車で移動する事にしました。新田荘歴史資料館駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程の移動時間、エアコンが効きだす前に現地に到着。駐車場は永徳寺前の「縁切寺万徳寺遺跡駐車場」に駐車、そこから万徳寺の北隣りに鎮座する徳川東照宮社頭までは徒歩2分程。鎮座地は利根川支流の早川左岸の万徳寺遺跡公園の北側に鎮座し、社頭右の小さな公園と隣接しています。縁切寺万徳寺遺跡公園マップ。徳川東照宮はマップ右上の方位マークあたりになります。万徳寺本堂。太田市の解説では以下のように書かれていた。「徳川満徳寺は、江戸時代に鎌倉東慶寺と並んで女性を救済するという縁切りの特権を認められた尼寺です。満徳寺由緒書等によれば、鎌倉時代、徳川氏の祖新田(世良田・徳川)義季を開基とし、義季の娘浄念比丘尼(じょうねんびくに)を開山として創建されたと伝えられる。代々の住職は新田氏一族の子女が住持となりました。新田氏の衰退と共に荒廃していったが、天正19年(1591)徳川家康より徳川郷内に朱印地100石を拝領、衰退していた寺を復興させました。大阪夏の陣(1615)の後、2代将軍徳川秀忠の娘千姫が豊臣家と縁を切るために入寺(実際は待女が入寺)し、離婚後再婚した例にならい、縁切寺法の特権が幕府に容認されたと伝えられます。明治5年(1872)廃寺となり、現在は縁切寺満徳寺遺跡公園として、本堂・門・庭園等を復元し、資料館を開設して一般公開をしている。」現在は復元された一部の建物と往古の建造物の礎石が残り、史跡公園として整備され、園内には満徳寺資料館がある。徳川東照宮全景。社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。徳川東照宮の鎮座地は、往古は新田義重の四男新田義季の館跡とされ、社地の東側に義季の父にあたる新田義重夫妻の墓がある。社頭から境内の眺め。左に徳川義季公館址の石標、右の社標には「??東照宮」と刻まれているように見えますが、自然劣化によるものなのか、意図的なものなのか、はたまた錯覚か文字?として識別できなかった。参道から少し奥まった場所に石の明神鳥居(寄進年未確認)が建てられ、参道はその先の社殿に繋がっています。社頭右の公園脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。「徳川氏発祥の地尾島町江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれ徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、後に明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、明治40年(1907)に郷内4社の末社が合祀されたようです。鳥居扁額は「東照宮」、いつ頃のものだろうか随分と歴史を感じさせる。常夜灯から拝殿の眺め。燈籠の寄進年は文化8年(1811)とある。拝殿左の手水舎。大棟や鬼瓦には三つ葉葵の紋、軒丸瓦には三つ巴の紋が入ります。現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺の権現堂を大正3年(1924)に移築し拝殿としたものとされます。徳川東照宮の創建については世良田東照宮のHPの中で「寛永21年(1644)世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立。祭祀は正田家が執り行い、世良田東照宮と同様に4月17日と正月に限り庶民の参拝を許可しました。」とありました。この事から徳川東照宮の創建は寛永21年(1644)と見てもいいかもしれません。向拝を支える手挟みの彫飾り。木鼻は牡丹、向拝の彫飾りは龍と蓑亀?、鷹が描かれている。徳川郷の鎮守として崇められる徳川東照宮。葱畑を隔ててお互いに見える距離にありながら、世良田東照宮と徳川東照宮は随分と境遇は違うようです。御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。徳川東照宮創建 / 寛永21年(1644)祭神 / 東照大権現合祀 / 徳川郷内4社所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1世良田東照宮からアクセス / 徒歩20分、車で5分関連記事 / ・車中泊で巡る#2「世良田東照宮」と「父父夫國総鎮守 秩父神社」・開運稲荷社・日枝社・長楽寺(世良田東照宮)・『親氏公行場跡』 松平郷
2023.08.02
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暑い日が続きます、昨日(7/30)は涼を求めて蒲郡市で開催された「蒲郡まつり納涼花火大会」に出かけてきました。移動はもちろん電車、この日沿線では国府夏まつりや豊田おいでんまつり花火大会など行われる事もあり浴衣姿の人を多く見かけました。混雑は覚悟の上で金山からJRを利用、列車は席にも空きがあり、エアコンの効いた電車に揺られ小一時間で蒲郡に到着。ホームに降り立つとそこからメイン会場の竹島埠頭までは見物客の人波が続き、周辺は交通規制も行われ大混雑。駅の南にあるスーパーでビールや日本酒、酒のつまみなど買い求める。店内は同じ目的の買い物客で溢れ、レジも女子トイレも大渋滞。普段の賑わいを知らないが、花火大会当日は店にとっては稼ぎ時、地元の方の日々の買い物には苦労する日だろう。買い物とトイレを済ませ、人波とは逆の竹島水族館方向へ10分程歩く。竹島ベイパーク。一面芝が張られ、心地よい海風が抜ける花火見物にいい場所だった。一見ガラガラに見えますが、相当消した状態。公園はテントやタープが張られキャンプ場と見紛うばかり。シートと椅子をセットして夕陽を眺めながら乾杯。東には夕陽に照らされ老舗ホテルを望み、竹島もすぐ近く。海辺に陣をとれば眺めもいいのだろうが、海岸線はコンクリートなので放射熱で暑いだろう。バッタや虫はいるが芝生の上は心地のいいもの。納涼花火大会は悪夢のようなコロナ禍に於ても、2020年は中止となったが、21年は無観客、22年から通常開催となり継続され蒲郡の夏の風物詩を彩ってきました。打ち上げ開始は19:30から21:00。手元が明るいうちに食事を済ませ、酒を飲みながら花火見物。空気を震わせ間近で花開く花火、その都度拍手や歓声が起こり、皆空を見上げていた。大の大人ですらこの日ばかりは歓喜の声が自然に出てくる。携帯を構え写真を撮るおやじの前で、一心に空を見入ってずっと立ちつくす一人の子供の姿がとても印象的だった。竹島埠頭周辺で打ち上げられる花火の数は約5000発。その中には直径650㍍に広がる三尺玉3発が含まれ、次々に夏の夜空を彩った。三尺玉は県内の花火大会では蒲郡まつりのみだという。色とりどりの花火が夏の夜空に輝いた、因みにテーマは「輝」だという。ほぼ定刻通りクライマックスのスターマインが打ち上げられと同時に、観客は一斉に立ち上がり家路に着き始める。少し出遅れた感があった。その足でJR蒲郡駅に向かうと、ホームへの立ち入り制限が行われ長蛇の列ができ、最後尾は駅の外にまで繋がり、いつ乗れるのか分からない状態。こうなるだろうと、時間を潰すため予め数件の居酒屋をピックアップしていたが、いずれもお休みか空席無し。それでもどこかないかと探し求め、駅北の地下街を訪れた。ここは日本一短い地下街として一部に知られています。地下街入口はタイムスリップしたかのように、それまでの混雑とはかけ離れた別世界への入り口だった。外のトイレは長蛇の列でしたが、地下街のトイレはガラガラだった。蒲郡北駅前地下街全景。数件の飲食店があり、どことなく昭和の趣が漂う。ここで焼き鳥でも思っていたがカウンターは満席、ここでも空振り。駅の混雑が収まるまで一時避難、そんな甘い作戦は無理なようだ。ここは諦めて列に並ぶか、遠回りだが名鉄で少しでも西に進むかの二択。駅に戻るとJRは更に列が伸び、名鉄蒲郡線で吉良吉田、名鉄西尾線に乗り換え新安城、名古屋本線で金山に向かう。何れもエアコンの効いた車内の席に座る事が出来ノンビリ名古屋に向け移動、金山で乗った名城線が最終電車だった。この際どいタイミングはどこかで記憶がある、大分の寺社を巡りセントレアに降りたち、事故で常滑線が止まり海の孤島になった時以来の事だ。家に帰りTVを付けるとオオタニサンの試合が間もなく始まる時間、これは寝る訳にもいかない。蒲郡まつり納涼花火大会、帰りは苦労しましたが夏の風物詩を存分に味わえいい一日が過ごせた。それにしても、花火に見入り立ち尽くす少年の後ろ姿、載せたいがそうはいかんご時世なんだよねぇ。彼にとっても夏休みの日記の良い一ページが刻まれたはずだ。因みに車も事故渋滞があったりと大変だったようです。蒲郡竹島ベイパーク所在地 / 蒲郡市松原町蒲郡北駅前地下街所在地 / 蒲郡市元町金山駅から蒲郡竹島ベイパーク公共交通機関 / JR東海道線で約1時間
2023.08.01
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