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無印良品津南キャンプ場で迎えた新潟県最終日。朝食を作る頃には雨が降り出し、タープの中での朝御飯となる。降ったり止んだり繰り返しで、タープの中で用品を片付け車に積み込みを終え、残るはタープのみ。風雨も強く雨雲レーダーによれば、20分も我慢すれば一瞬雲が抜ける予報だったのでしばらく待機。最近の雨雲レーダーは随分と信用できる。20分後「撤収しな」とばかりに、風も雨もピタッとやみその間に撤収。車に積み込んだころ再び雨が降り出す。チェックアウトを終え、この地方では知られた「塚田そば店」と最終日の目標「越後一宮 居多神社」に向け、国道253号線で一路直江津方向へ。直江津までは約1時間50分程、峠越えのウネウネ道が続く。豪雪地帯ならではの神社を巡る予定でいましたが、どうもキャンセルされてしまったようです。ポツリと「あの寺社はいかない?」と聞くとすっかり忘れていたようです。峠を越えて上越市浦川原区の国道近くの神社二社に寄り道する事になり、導いてくれたのが写真の剣神社。新潟県上越市東部に位置する浦川原区は、旧東頸城郡浦川原村にあたり、上越市との合併に伴い2005年誕生した地域自治区。東頸城丘陵の西端に位置し、西に頸城平野の東端にあたり、区内を流れる保倉川右岸に鎮座します。ここまで下りてくると豪雪地らしい神社の姿とは少し違ってくる。それでも屋根の傾斜はそれなりにきつい。社殿は切妻屋根の平入拝殿と幣殿、鞘殿がひとつに繋がったもの。上剣神社社頭全景。正面の鳥居は平成12年奉納のもので額には「剣神社」とあり、手前の石灯籠は大正10年寄進のものです。当神社の詳細について新潟県神社庁上越市の神社一覧に登録がありましたが、創建や祭神などの情報は得られなかった。左に「有明荘」という施設があり、調べて見ましたがこちらも公民館なのかよくわからなかった。当地には「浦川原村史」という地史があるようなので、閲覧申請をしていますが、現状ではこれ以上の情報はありません。下拝殿内部の様子。内部の木札から以下の改修履歴が掲げられていました。・大正10年(1921)本社殿修膳。・平成10年(1998)には拝殿改修。大正時代の木札が本社殿修膳とあるので、創建は明治・江戸時代にまで遡るかも知れません。拝殿内には「剣神社」の拝殿額と左右に一対の随神が安置され、大正15年に奉納された戦艦長門の写真が奉納されており、幣殿内にも随神の姿が見られました。祭神は推測になりますが素盞嗚大神、氣比大神、忍熊王かと思われます。今のところ剣神社についての情報はこの程度しかありません。剣神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 新潟県上越市浦川原区横川254津南キャンプ場から剣神社 / 国道117号線津南駅入口左折、県道405号線で津南駅前を右折、県道49号線、国道353号線、国道253号線で直江津方向へ約1時間40分程。剣神社を後にして、再び国道253号線(ほくほく街道)に戻り5~6分程先の浦川原区飯室の「石動神社」へ参拝に立ち寄りました。国道の飯室山西の信号を右折し、右側の杉の杜に包まれて石動神社は鎮座します。こちらも新潟県神社庁上越市の神社一覧に石動(いするぎ)神社の登録はあったがそれ以上の情報は得られらかった。石動神社は、北陸地方の山岳信仰で、富山県と石川県の境にある石動山を本山とする石動信仰で、祭神は石動彦(石動権現)を祀る神社のようです。神社一覧を見る限り、この辺りには石動神社が多く祀られている様に思えました。下の写真は神社後方から見た社殿の全景。社殿は奥の拝殿と本殿までがひとつ繋がりで、社殿を支える高い基礎が積雪の多さを感じさせます。石動(いするぎ)神社創建 / 不明祭神 / 石動権現所在地 / 新潟県上越市浦川原区飯室474自分の目的地だった、豪雪地帯の神社の姿とは少し違いますが、これだけ高い基礎の神社もあまり見た記憶もない。そう自分を言い聞かせて、再び国道に戻り保倉川沿いに直江津方向の「塚田そば店」までは20分少々。保倉川が合流する関川に架かる直江津橋を渡ってすぐに左折し、信越本線を越えた左側に目的地の塚田そば店があります。外観は普通の町のそば屋さん、時間が昼時なので大きな駐車場は満車。ところが回転がいいのか次から次に車が出ていくので駐車場待ちは僅かです。安い・早い・旨いが売りのこのお店、営業時間は朝8時から18時。券売機でうどん・そば・中華麺の何れかと、トッピングを選択しカウンターで渡すと手際よくさっとカウンターに出てくる。所謂セルフうどんに近いが、一切客は手を出さなくてもいい。写真は「天玉中華」出汁が効いた共通の汁に中華麺が入り天ぷら・玉子が乗ったもの、ネギをタップリ盛ってくれて380円。これにおにぎり90円を追加しても懐に優しい庶民の味方、地元のソウルフードだ。正直、和風の出汁に中華麺は如何なものかと思っていたが、食べて見ると実に美味しい。名古屋にも「うちゅう・うそ」として知られる店もあるが、この高くなりすぎて価格では食べれない。庶民には有難い存在だ。塚田そば店所在地 / 新潟県上越市東雲町1-1-6目的のひとつをクリアして、ここから約10分程西にある越後一宮居多神社と五智国分寺に向かう。上居多神社社頭、道路向かいの駐車場に駐車すれば目の前です。社頭から石段を上ると鳥居があり、広い境内に社殿が現れます。この鳥居、実は二ノ鳥居で、一ノ鳥居跡は社頭から真っすぐ伸びる参道の先の古い社号標が立つあたりとなります。五智国分寺は一ノ鳥居跡から左に進んだ先になります。下越後一宮 居多神社全景。境内右側には境内社の高皇産霊神、神皇産霊神を祀る雁田神社と本殿右側に稲荷神社が祀られています。居多神社の祭神は大国主神、奴奈川姫、建御名方神(諏訪神)を祭神とする古社で創建は不明。祥元元年(1207)親鸞上人が越後国府に配流となり、居多ヶ浜に上陸、最初に参拝したのが越後一宮 居多神社とされ、その時「すゑ遠く法を守らせ居多(こた)の神 弥陀と衆生のあらん限りは」と詠み神前に供えて祈願したところ、一夜にして境内の葦が片葉になったという。この片葉の葦は「親鸞上人越後七不思議」のひとつとされ、社頭右手の社標周辺で見ることができます。親鸞上人は後の建保2年(1214)に常陸国に旅立つまでの越後で生活した。境内右に親鸞上人の像が立てられています。平成20年(2008)に現在の綺麗な新社殿となる。それだけに特に魅かれるものはないかもしれないが、広々とした明るい境内に建つ社殿は立派なものです。社頭から道路を渡り参道を進むと一ノ鳥居跡に出ます。鳥居は既になくなり、古い社標や常夜灯が残るのみです。写真の右手に進めば五智国分寺は目と鼻の先です。越後一宮 居多神社創建 / 不明祭神 / 大国主神、奴奈川姫、建御名方神(栞より)境内社 / 雁田神社、稲荷神社所在地 / 新潟県上越市五智6-1-11五智国分寺上五智国分寺門前の全景。南向きに伽藍が配置され、参道の先に仁王門を構えています。五智国分寺は天台宗の寺院で、山号は安国山、院号を華蔵院と称し五智如来を本尊とします。広い境内の右側に上越地方唯一残る三重塔、左に経蔵と白山神社(現在再建中)が鎮座します。正面の本堂とこの地に上陸した親鸞上人が草庵を構えた竹之内草庵が主な伽藍。開基や創建時期は定かではなく、寺伝によれば永禄5年(1562)、上杉謙信により現在地に移転・再興されたとされます。移転前の場所については諸説あるようで、海岸浸食で没したとする説もあるようです。下仁王門。天保6年(1835)に建てられた切妻屋根の三間一戸の八脚門。扁額は「安國山」、左右の間に安置されている仁王像は天保7年(1836)のものとされる。現在の本堂は平成9年(1997)に再建されており、この仁王門も近年屋根は吹き替えられているようです。竹之内草庵の手前に親鸞上人像が安置され、左手の岩に親鸞上人が腰掛けたとされる腰掛石がある。当地には空海も訪れ、本尊の五智如来は空海が安置したものといい、松尾芭蕉もこの地を訪れ、その際に詠んだ句碑が残されています。五智国分寺宗派 / 天台宗山号 / 安国山院号 / 華蔵院 開基・創建 / 不明本尊 / 五智如来所在地 / 新潟県上越市五智3-20-21以上で最終日の目的地は全てクリア、時計を見れば既に14時になろかと云うところ。あまりの暑さにお茶をしながらクールダウンし、地元のスーパーでこの地の食材や酒を買い求め高速に乗る。岡谷の分岐の工事の影響は大きく、車線規制区間は40㌔以上で流れているのだが、その流れにスムーズに合流できない者、車間を取らずブレーキばかり踏む者、全体の流れは止まる。帰りの中央道上りの多治見土岐の工事区間では追突事故が起きたばかりで通行止めになっていました。車間をとって50㌔規制の流れに乗ることができないんだろう。降りるに降りられない後続のドライバーにとっては傍迷惑な話だ。下りはいたって順調で夕方には守山のCostcoで給油して日暮れまでには帰宅できました。久し振りのキャンプ、無印良品津南キャンプ場は空いていてなかなか良かった。難があるとすれば、標高が低く暑いのと風呂がないのが残念ですが、次回は釣竿を持って長期滞在したい。また、キャンプ場までの道が酷評されますがあんなものでしょう。個人的には三つのキャンプ場で一番快適なのはやはり南乗鞍だと思いますが、施設の更新(特に釣り桟橋)がされず、無印自体あまり積極的にこの事業やりたくないような気がしてならない。かみさん曰く「キャンプブームは去った」ということのようだ、クマをはじめとする野生動物も増え被害も頻発しています、キャンプはリスクが伴うのでTVに感化され、流行でやるものではないのかもしれない。訪問日 / 2024/07/18・19・20関連記事・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 1『無印良品津南キャンプ場』・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 2『清津峡とへぎ蕎麦』
2024.07.31
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手早く朝食を済ませ、二日目の最大のポイント清津峡に向かいます。キャンプ場から約1時間の移動時間で、なんとか9時前に清津峡駐車場に辿り着きたい。8時45分清津峡第1駐車場到着。なんといいますか、web情報の一部に開坑時間が9時とあったのでそれに合わせてきましたが、既に開抗しており、一歩出遅れ感がありましたが、入坑時は100㍍間隔に来場者が訪れる程度。10時を過ぎると観光バスが訪れ収拾がつかなくなります。ここで改めて書いておきます。・開坑時間 8時30分~17時まで(最終入場は16時30分)・12月~2月末 9時~16時(最終入場は16時)・繁忙期は事前予約制なので飛び入りは無理、公式HPで確認する事を勧めます 尚、大地の芸術祭開催中の2024年7月13日(土)~2024年11月10日(日)のすべての、土・日・祝日、及 び、8/2、8/13~8/16、10/21~11/8 の平日も予約対象となります。駐車場からは清津川左岸沿いの歩道を進み、清津峡渓谷トンネルを目指してください。券売機はトンネル内にあります。写真上はトンネル入り口で、ここから750㍍先に目的地のパノラマステーションがあります。あの写真の場所に立つには、素足かサンダルに履き替えないと立てません。湿気はありますが、外気温とは比較にならない程涼しいので長い道のりも苦にはならないか。内部の照明の色合いも何種類かあり、これもアートの一環と云う事です。途中の歩道や天井にも足跡や絵が描かれた痕跡が見られます。この坑道左に4カ所の見晴所あり、そこから外を眺めると柱状節理の切り立った崖の下を流れる清津川が見られます。写真は第三見晴所。この他にもトイレ内部から清津峡が眺められるアートがありましたが、真剣に利用したい向きにはなんとも落ち着けないトイレだと思います。そんな中、第三見晴所は何を表現したのか分からないが幻想的な空間を作り出していた。外を眺めると目の前に自然が作り出した柱状節理のアートが迫り、その壁を削り取るように白い流れの清津川が流れています。自然のアートに見惚れるが、まずは第四見晴所を目差します。最深部の第四見晴所。かみさんが是非とも見ておきたいと思っていたところです。水面が落ち着くまで待ちたいところですが、次から次に訪れるので思うに任せない。この場所が一番綺麗に見れるのは、恐らく雪景色の時ではないだろうか。では、おいらも見に行ってみるか。見晴所から自然が作り出した大地の裂け目、清津川と柱状節理のV字谷。切り立った岩壁の左には古い観光道が見られ、更に上流に続いています。清津峡は黒部渓谷、大杉谷とともに日本三大渓谷のひとつに数えられ、雪深いこの地の雪解け水が作り出したもので、1949年に上信越高原国立公園に指定以降、温泉街の整備とともに訪れる人が増え、遊歩道も造られましたが1988年の落石事故で通行禁止となりました。今ではあの遊歩道を通れるのはカモシカくらい。1996年、遊歩道に代わりにこのトンネルが開坑され、安全に清津峡の景観を眺められるようになりました。トンネル開坑後一時は観光客で賑わうも、じり貧となり、2018年の大地の芸術祭でアートの一環としてトンネル内部を改修し、この絵が話題となり訪れる人が増えたようです。兵庫県の玄武洞や日光華厳の滝など柱状節理は各地で見られますが、この規模のものは初めて見るかもしれない。左が清津峡の模型。左の大地の裂け目が清津峡で右がトンネル。トンネル内には清津峡の航空写真や郷土の解説など展示され、子供の社会化教育にはいいかもしれません。駐車場への帰り道、清津川の川原で見かけたカモシカ。こちらに渡りたかったのかもしれない、しかし対岸の人影に気付き再び山に消えていった。この辺りではこうした野生動物に出逢う事も出来るが、右の黒いのには間違っても出逢いたくない。清津峡渓谷トンネル所在地 / 新潟県十日町市小出無印良品津南キャンプ場から清津峡移動時間 / 国道117号線、国道353号線経由で約1時間程。10時清津峡を後にして麓の「ゆくら妻有」で温泉に浸かる。清津峡から清津川の下流15分程の十日町芋川乙にある日帰り入浴施設。津南キャンプ場にはコインシャワーはあるものの、乗鞍のような入浴施設がなく、山を下りて最寄りの温泉に行く事になります。こちらの施設は天然温泉の露天風呂と内湯があり、くつろぎスペースもあり一日温泉三昧も可能。この時間だと農作業帰りの地元の方が汗を流していくくらいで、長々とくつろぐ人はあまりいない。ボディーソープ、シャンプーもあり手ぶらでも問題なし、昼食の時間までこちらでゆっくりする。ゆくら妻有所在地 / 新潟県十日町市芋川乙3263 3267のんびり湯に浸かり、そろそろ昼食を食べに国道117号線を15分程走って「名代生そば 由屋」に向かう。11時30分、名代生そば 由屋到着。こちらで名物のへぎ蕎麦を食べる事に。オーダーしたのはへぎ蕎麦中と野菜天ぷら。へぎ蕎麦は地元の玄そばを石臼でひき、ふのりでつないで打つたもので、普通の蕎麦の印象で食べると物足りないかもしれません。薬味ねぎとからしで食べる、そばつゆは甘めで出汁が効いたもの。上へぎ蕎麦中、玉の大きさが分からず中にしたが、ほぼ70と60歳の二人が食べるには小へぎで十分だった。蕎麦なんですが、蕎麦の香りや風味を味わうものではなく、歯ごたえと喉越しを楽しむものかもしれない。下野菜天、ひとつが大きく食べ応えがあった。人気店なのか他府県ナンバーの車が多かった。名代生そば 由屋所在地 / 新潟県十日町市土市第4区営業日 / 月、水、金、土、日、祝営業時間 / 10:30〜16:00前後に閉店蕎麦と天ぷらでお腹一杯、帰り道で今晩の食材と給油を済ませサイトに戻る事にした。17時頃、訳あり物件D9に到着。既に月が顔を出していた、天気予報を見ると撤収する明日は雨の予報もある。雨の撤収は勘弁願いたいので、腹ごなしにテントのみ撤収し今夜は車で寝る事にした。テントも撤収し、車も傾斜に合わせて移動完了。雨除けのブルーシートも張り終え日が暮れるのを待つ。結果的に翌朝雨が降り、このブルーシートのお陰でタープ以外は濡らさずに撤収できました。胃の中でまだ蕎麦が頑張っているので、最終日は地元のポークと鳥肉メインの焼き肉だけで済ませる。酒は苗場山、これに漬物とチーズで完璧。かみさんは早々と車に入り就寝、家から持参した薪も燃やし切りたいので一人黙々と火を焚いていた。この晩は前日の様な星空は望めず、黒雲の先に遠く稲光も見え、やはり明日の雨は避けられそうにないようです。『清津峡とへぎ蕎麦』訪問日 / 2024/07/19関連記事 /・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 1『無印良品津南キャンプ場』過去記事・二荒山神社摂社「華厳神社」・玄武洞
2024.07.30
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白鳥町中津屋地内の白山神社から車で10分程北上し、白鳥IC東方の白鳥町那留に鎮座する海上神明神社にやってきました。社地西側の生活道路から東海自動車道の眺め。鎮座地は白鳥IC東方の丘陵地の上に鎮座しますが、生活道路沿いに鳥居や社標がなく、なかなか社頭を見つけられず、何度かこの景色を見る事になりました。車で探していてはらちが明かないので、周辺の退避場に駐車して徒歩で徘徊。海上神明神社への入口は写真の細い道を上り切った先になります。社標は道路沿いに立っていないので、写真の「郡上宝暦義民碑」の解説板が目印になります。「この坂上、丸山公園の西側に・・・・・・」読めない。宝暦時代のこのあたり、美濃国郡上藩の藩領で、山間地でけっして石高は多くなく、農民は重い年貢に苦しみ、一揆が頻発し郡上一揆として一帯に連鎖していった。那留ヶ野の地もまたその一つで、宝暦5年(1755)、各地の農民約70名がこの地に集まり盟約を結び連判状を作成、江戸に向かい直訴を行う手段と実行の場となった。丸山公園には命を顧みず行動した義民達の碑があるようです。解説板から上り坂を進むと中程に鳥居と社標が立てられています。通りからここまで奥まっていると神社があるとは分からないはずです。上り坂中程に昭和24年に寄進された神明鳥居と右に「神明神社」社標。そこから少し離れた先に狛犬が安置されています。鳥居の先の狛犬。年代を見忘れましたが、阿形は前脚の置き方、顔つきに愛嬌がある。狛犬からもうひと上りすると、小高い山の頂に鎮座する社殿が見えてきます。境内左の石碑と石灯籠。那留の集落を見渡せる高みに建てられた郡上宝暦義民碑。傍らの解説。「那留ヶ野・帳締谷今から約230年前、郡上宝暦騒動の際、上之保筋百姓衆の集まった那留ヶ野は、西方眼下に開けた一帯の地で、薮原と雑木で人家なく、大勢の人の集まった所は今はないが子持杉の近くであった。その杉のほとりからから北へ流れる帳締谷の近くが百姓有志が笠連判状に盟約したところである。」盟約の場となった帳締谷は高速工事に伴い変貌し、密かに集まれるような場所でもなく、子持杉も現在は残っていないようです。郡上周辺にはこうした義民の碑は各地で見ることができます。高速の開通は確かに便利にはなりましたが、高速が無い時代の林道や渓流など当時の姿から一変した事は身をもって感じます。境内最深部の社殿。右手の朱の鳥居の稲荷神社、左が神明社。神明社社殿。切妻平入で赤い鋼板屋根の拝殿は雪深い土地でよく見かける。先日新潟に出かけてきましたが、向こうでは屋根の傾斜が更にきつく、身の丈程の基礎の上に鞘殿が建てられ、本殿の姿はなかなか見る事ができなかった。ここ白鳥も以前は豪雪地帯で、四駆でも往生したことがあります、今は昔ほど雪も積もらないのかもしれない。鞘殿脇の海上神明神社の解説は以下。「当社は天照大神を御祭りし、徳高く特に乳児に母乳を授けられることが往古より伝わる。乳の出ぬ人が神様にお供えしたお饌米を御粥にして炊いて食べると不思議に霊験あらたかでありましたので、お参り出願者が多くなり、一般の参拝する者が多くなりました。」岐阜県神社庁の海上神明神社紹介文は以下。「創立の時期は不明ですが、中世の神仏習合の誤った説により、天照大神を弥勒菩薩と誤解し、最終的に地名となりました。文化・文政の頃、伊勢外宮の御師である御鍬様を迎えて当地に来て、五穀豊穣を祈願し、岩瀬、赤谷、中野、尾神郷など五つの村の守護神として崇敬されました。創立以来、何度も再建され、明治維新の際に村社に列せられました。祭礼8月25日」鞘殿内の本殿両脇に随神が安置されています。境内右の整田碑と稲荷社。朱の明神鳥居を二つ構え、その先の覆屋の下に流造の社殿があります。では参拝させてもらいます。狐の姿はなく、朱の鳥居がなければ稲荷社とは見えません、手前の台に昭和53年稲荷堂改築とあるので間違いないでしょう。この稲荷の創建等の詳細は調べて見ましたが手掛かりなしでした。海上神明神社創建 / 不明祭神 / 天照大神境内社 / 稲荷社祭礼 / 8月25日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町那留1502−523参拝日 /2024/6/19中津屋白山神社から車アクセス / 白鳥インターチェンジ東方の海上神明神社まで約10分程。関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社
2024.07.29
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7月18~20日にかけて、無印良品津南キャンプ場を拠点にして清津峡と越後一宮を訪れてきました。トピックスを三回に分けて掲載します。今回は津南キャンプ場。ずっと天候が安定せず、混みあう夏休みを前にして最後のチャンス。半ば雨に降られるのは覚悟して出かけてきました。名古屋から6:30に高速を乗り継ぎ、リニューアル工事の対面通行区間を経ながら岡谷まで順調に辿り着きましたが、岡谷から長野自動車道への分岐が現在工事中で名古屋方面・東京方面から合流するのに、我先に突っ込むものだから車両の流れが止まり多少渋滞。合流すれば40㌔で流れているので、我先に突っ込んできてブレーキを踏めば渋滞を助長させる。車間をとって交互に合流させてやれば、40㌔の流れは止まらないはずなのに・・・。名古屋から豊田飯山ICで一般道に降り、国道117号線を北上、休憩2回含め約5時間で「道の駅 花の駅千曲川」到着。スキーで訪れると道沿いは雪の壁が出来、一晩で車が埋まる、そんな豪雪地帯の印象だった。道路の印象は様変わりし、当時のランドマークだったドライブインは悉く姿を消し、位置や距離が掴めなくなり、ナビがなければ感で走れなくなった。道の駅 花の駅千曲川全景。比較的最近できたようで、飲食店や食品販売もあり施設全体綺麗。モンベルも併設されており、キャンプ用品やクマ除けスプレーなど補充ができるのが嬉しいかも。また、花の駅千曲川の裏側にはAコープもあり、食料品も手に入るでここで全て調達も可能。こちらで地元の酒を買い求め、軽く昼食をとって再出発。キャンプ場は13時がチェックインなので、ここまで来たらキャンプ場までの時間は読めるので、涼しいここで時間調整。道の駅 花の駅千曲川所在地 / 長野県飯山市常盤742513時30分、無印良品津南キャンプ場センターハウス到着。写真はセンターハウス後方のフライ・ルアー専用の池。小さい池ですがほぼ全周フライが振れそうです、魚も飛び跳ねており楽しめるかもしれません。今回は食事のメニューに魚はないので、何も持ってこなかった。ここで受付とレアなアルコールを補充しサイトに向かう。上がサイトマップ。難あり物件は赤丸部分、EサイトCサイトの上の道路沿いに沢が流れているので土砂降りは注意が必要で、水平な好物件は一部水溜りも見られ、テント設営は考えないと水浸しになるやも。また、C・Dサイトは山の斜面からの風が吹き抜けるのでタープの高さは状況に応じ変えないといけない。無印のキャンプ場は以前は会員しか利用できず、キャンプマナーも良く、年に何回か無料のイベントが行われたり、サイト・サニタリー棟の管理が良く、息子達が付き合ってくれたころはよく訪れました。嬬恋と南乗鞍とここ津南の三か所があり、こちらに訪れるのははじめて。その後、利用制限がなくなり、予約システムやサイト別の料金体系の導入により多少魅力に欠ける。サイトは主に傾斜のあるなしで、4,000~6,000円の料金体系、まるで不動産物件。サイトD9の口コミでは「クセあり、傾斜に不満」の口コミが多かったが敢えてD9を予約、料金は2,500円。傾斜が強い、クセありの判断基準が良く分からないので、怖いもの見たさで敢えて選んでみたが、水平と比較すれば傾斜はあるが、全く問題ない。この広いサイトを自由に使える。サイトは直火禁止、周囲に草が多いので焚火の管理が問われます。サイトの三方は、子供の背丈ほどのススキが垣根の様に残され、視線は気にならない反面、小さな子供は目を離すと見失いかねません、その昔、南乗鞍で子供が迷い大騒ぎになった事例もあります。サイトから徒歩1分程度にあるサニタリー棟と右手のピークが津南キャンプ場のシンボル山伏山。施設は毎日2度清掃され、使用時に思わず引いてしまうようなこともない。センターハウスの方に熊情報を聞いたところ「30年近くサイトでクマはでていない」とのこと。事前に新潟の情報を調べて来たが、確認されるのは集落のある谷沿いに集中しています。人が多いので目撃される訳で、この三日間全サイト利用者は3組ほど、C・D・Eサイトに我家だけ。目は4つしかない、いない訳がなかろう、寝る時は食材やごみは車に入れておいた方がいいでしょう。全て設営完了。黒い雲が湧きひょっとすると降られるかもしれない、タープもあるが結局張らなかった。サイトの傾斜は車の傾き方から判断してください、傾斜があるので大降りしても水浸しになることはないだろう。個人的にこのサイトは穴場だと思います、口コミは信頼できない。とはいえニーズが増えれば物件価格も跳ね上がるので、表向きはお勧めしません。漸くキャンプデビュー。なかなか育てるには時間がかかりそう。一息入れて広大なキャンプ場を散策、こうしたエコハウスもある。車道沿いには見事な山ぶどう、乗鞍ではこれを収穫しワインを作る教室も開かれていました。ひと回りを終えサイトに戻る。南乗鞍の標高1600㍍と比較すると、津南の標高は903㍍と低いので風が通ればそこそこ涼しいが、爽やかさという点では南乗鞍と比較にならない、暑くて湿度が高い。これ、センターハウスで販売していた「未来のレモンサワー」地域限定商品で名古屋は飛ばされ手に入らなかったが、よもや新潟で手に入るとは。味はともかく、蓋を開けるとレモンスライスが浮いているのは「未来」だけのことはある。毎分1000canを越える製造工程で、充填前にこのスライスを確実に入れる技術が気になるところ。甘くなく、後味もスッキリしておりビールよりいいかもしれない。初日の晩御飯。アヒージョとコストコのロールパンを冷凍し、現地で焼くものがメインでカプレーゼを付けた。まだイタリアを引きずっている。パンは寝る前に翌日のフレンチトーストのため漬け込んでおく。メニューはかみさんまかせ、ここはワインを買ってくるべきだったかも。自分は、野沢菜と酒があれば満足なんですが。写真の酒は花の駅千曲川で手に入れた「北光純米スパークリング」、飯山市の酒蔵「角口酒造店」のもので、自然発酵だけで強烈に発泡するので開栓時とても気を遣う。癖もなく爽やかな飲み心地。二日目の早朝。D9サイトから四方の眺め。上段左が北方向、右が東方向、昨晩は台風のような強風に見舞われ、夜中に一度飛び起きて外に出たが雨ではなく、後方の樹々の葉のすれる音が雨音のように聞こえ、あまりの風の強さに、立てただけのタープがなぎ倒される勢いだったのでペグを打ち、ロープで固定した。その間の星空が綺麗だったのが印象に残りました。下段左が南方向、右が西方向。黒い雲が来ると風が強まるが、辛うじて雨はない。手早く朝食を済ませ、二日目の最大のポイント清津峡へ向かいます。キャンプ場から約1時間の移動時間で、なんとか9時前に清津峡駐車場に辿り着きたい。無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 1『無印良品津南キャンプ場』所在地 / 新潟県中魚沼郡津南町上郷寺石 丙782−5宿泊日 / 2024年7月18~20日
2024.07.26
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奈良時代に開湯とされる古湯玉造温泉で迎えた島根県最終日。今日も暑くなりそうな一日のはじまりは、玉造温泉街を流れる玉湯川を車で2.3分程上流に走った先の玉作湯神社へ。宿から玉湯川上流の眺め、この道を先に進んだ信号の角に玉作湯神社の社頭があります。玉作湯神社駐車場着。大型車なら10台ほど駐車できる無料駐車場があり、早い時間帯なら余裕で駐車できます。写真は駐車場から見る一ノ鳥居。鳥居をくぐった左側に社務所があり、大きな願いのある方は、こちらで「叶い石」とお守り袋、願い札のセットを購入し参拝に向かいます。もっとも、黙っていても「叶い石如何ですかぁ」と積極的に声がかかるはずです。玉作湯神社「当社は奈良時代の「出雲風土記」天平5年(733)に記される古社で、玉作の神 「櫛明玉命」と国造りと温泉療法の神 「大名持命」と温泉守護の「少彦名命」の三柱を祀っています。 神社境内は国指定史跡出雲玉作跡(宮ノ前地区)の一画にあたり、歌仙山周辺では最古の玉作り遺跡で、弥生時代末から玉作りが行われていました。江戸時代には「湯姫大明神」、「湯舩大明神」等と呼ばれ、藩主の崇敬も厚く、隣接する玉造御茶屋(松江藩の静養施設)に松江藩主が訪れる際には、必ず玉作湯神社に参詣しています。 藩主から神社へ品々の寄進もあり、それらは現在も玉作湯神社に保管されています。明治時代以後、天皇即位の式典に際しては、ここで作られた瑪瑙・碧玉製品が献上されていた。」祭神の櫛明玉命は、三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉をこの地で造られたと伝わり、神社には多数の勾玉や管玉が社宝として保管されているという。 延長5年(927)の延喜式神名帳の記載は「玉作湯神社」が1座、「同社坐韓国伊太氐(からくにいたて)神社」の2座とあり、櫛明玉命が玉作の神、大名持命と少彦名命が温泉守護の神。それぞれ「出雲国風土記」(天平5年)に記された「玉作湯社」と「由宇社」に比定されるという。また、永禄元年(1558)の棟札に「湯姫大明神」、享和3年(1803)には、7代藩主の松平治郷より「湖南玉造薬泉神社」銘の額が奉納されており、明治維新後、社号は「玉作湯神社」に戻されたという。また、配祀神の「五十猛神」は往古の坐韓国伊太氐の祭神。ニノ鳥居と左に二つの石標があり、柱の左の「神陵之杜」と記された石標は大正12年に寄進されたもの。更に上を見上げた自然石が社号標で「式内 玉作湯神社」と記されています。社殿は正面の石段を上り切ると見えてきます。石段から上の眺め、石段中ほどに踊り場があり、文久二年(1862)寄進の石灯籠と狛犬が安置されています。寄進年未確認の狛犬。踊り場の右側に開けた敷地があり、写真の出雲玉作跡出土品収蔵庫が建てられています。玉作湯社 出雲玉作跡出土品収蔵庫解説は以下。「古代の住居形ハニワを模した建築 で、昭和35年に完成しました。 鉄筋コンクリート平屋建、約20㎡の広さがあります。この中には古代玉作りに関する資料約700点が収蔵されています。 各種の玉類未成品と玉磨き砥石からなり、そのうち玉類184点、砥石162 点、古代ガラスー括は、昭和14年と33年に国の重要文化財に指定されて います。古くからの伝世品を除くと、大部分が町内の玉作り遺跡から採集されたもので、住民が発見の都度神社に 奉納したものです。 収集は明治以降のことですが、文化財の保護に深い関心を寄せられた玉作湯神社歴代宮司の熱心な指導によるものです。玉作湯神社は、玉作りの祖神とされる櫛明玉命のほか、湯神2柱を祭神としています。 (収蔵庫見学希望の方は、宮司宅までご連絡ください)昭和59年11月玉湯町教育委員会 」とあります。 当日は扉が閉じられており、非公開と思い込んでいましたが、宮司さんに連絡すればこの内部は拝観できるようです。文化庁の解説「昭和44年から46年の発掘調査で工房跡などから出土した一括遺物である。 出雲玉作は、すでに古記録にもみえて、古くより著名である。遺跡は花仙山の近くにあり、そこから産する碧玉(へきぎよく)・瑪瑙(めのう)・水晶・滑石(かつせき)などの玉材から、玉類の製作が行われ、遺物の多くは未製品であるが、勾玉、管玉、臼玉などの玉類の製作過程を知ることができ、玉類生産の状況が窺える重要な資料である」 とあった。 保管品の画像では、我々が見慣れた勾玉、管玉とは程遠い製造途中のものばかりで、ここからあの形にするにはどれ程の手間と根気を要したものか想像がつかない。時短が好まれる昨今、それとは真逆の手間と根気をかけて作っていた痕跡が出雲玉作史跡公園で見られるそうです。石段を上り切った先の境内の全景。正面が社殿で右方向に境内社や湯山遥拝殿があります。石段脇の狛犬。境内右の手水舎。拝殿横の「玉作湯神社と玉造温泉」解説から一部抜粋。 「玉作湯神社と玉造温泉之由来一.玉作湯神社(内務大臣指定史蹟保存地) 御祭神、櫛明玉神(八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神)、大名持神・少彦名神(当地温泉発見、温泉守護、温泉療法、薬、秘呪の祖神)、五十猛神(同社座、韓國伊太弖社、植林・殖産・産業振興の祖神)。玉作湯神社は、玉造温泉、玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であります。 「貞觀13年11月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今は此の地の氏神で旧県社であります。櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。 天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」と見えています。社宝1.上代各種玉類184点(重要文化財) 2.上代玉磨砥162点(重要文化財) 3.上代ガラス製造ルツボ片と上代ガラス一括(重要文化財)三.玉造温泉 玉造温泉は少彦名命の御発見と伝えられ、JR玉造温泉駅から玉造川に沿って上ること約2㌔、玉造郷にあって玉造川の清流を挟み、要害山、花仙山の二山を負って多くの人家が相連なり渓間の一小区をなしています。「出雲國風土記」意宇郡の条に「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。 國造、神吉詞を奏しに朝廷に参向する際に、御沐の忌玉作る、故に忌部という川の邊に湯をだし、出湯の在る所、海陸に亘り男女老少、道を行き交い、或は海中の洲に日々集い市を成し繽紛燕会ぶ。 一度濯げは形容端正しく、再び湯あみすれば万病ことごとく除く。古より今に至るまで験を得ずということなし、故に俗人神湯といえり」と記されています。拝殿額は「縣社玉作湯神社」拝殿から本殿に続く階段の眺め。神紋は「二重亀甲に丸玉管玉勾玉」。境内右の境内社と右手の湯山遥拝殿。そこに至る参道を守護する狛犬。御納社。玉宮神社。祭神は玉祖命。三種の神器の八尺瓊勾玉を作った神とされ玉造の神。遥拝所左手の湯山神蹟。後方の湯山(要害山)を御神体と捉え崇めるのがこちら、御神体の湯山には中世の山城 玉造要害山城址が築かれたようです。一ノ鳥居の右から上っていけば辿り着けるようです。湯山遥拝殿の解説から抜粋。御祭神は湯山主命(大己貴神)湯山主命は温泉守護、温泉療法・諸病平などの守護神。往時より近里・遠群はじめ地域住民から篤く信仰され古歌にも詠われた。神社宮山に続く玉作要害山は、往古「湯山」と称され、その谷を湯谷と呼ばれていたことが古書に記されている。その湯山の主が湯山主命であり、今も広く景仰されている。この遥拝所は古事記編纂1300年、出雲国風土記編纂1280年を記念し遥拝所を整備したもの。湯山遥拝殿、湯山主命をお祀りします。遥拝所内部には自然崇拝を色濃く感じさせる御神木らしき切株と、二重亀甲に丸玉管玉勾玉の紋が入った古い棟飾りが安置されていました。玉宮神社の左側の境内社。朱の鳥居に続く石段の先に安置されている狛犬。年代は良く分からなかった。鳥居の正面の稲荷神社。 祭神は稲倉魂命。社の後方の斜面の前に年代物の狛狐があり、その先の祠には無数の狐が安置されています。さながら狐の巣穴のようでもある。稲荷社の左の境内社三社。右から澤玉神社で、祭神は猿田彦命。中央が福徳神社で祭神が大國主命。左が素鵞神社・記加羅志神社、素盞鳴尊をお祀りする。境内社から眺める玉作湯神社の入母屋平入の拝殿と大社造の本殿。本殿は安政4年(1857)の造営とされ、棟には外削ぎの置き千木と三本の鰹木が載る。創建は不明で、幾度となく造営と社名変更を繰り返し現在の玉作湯神社に至っています。本殿後方の山肌にある「願い石」。 湯山主之大神として大己貴命が祀られている。注連縄で張られたほぼ球体の岩が願い石、人の手で加工した岩ではなく、自然が作り出したもの。 社務所で授けてもらった叶い石で願い石に触れ、願をかけると、願い石のパワーが叶い石に移り願いが叶うと信じられている。元々は往古の勾玉工房の職人が、いい勾玉ができるとここを訪れ、神に感謝と次への願いをかけてお参りしたのが起源のようです。 出雲には緑色の青めのうが採れる花仙山があり、特に花仙山で採れる青めのうは世界的にも珍重されるほど良質な緑色で、採掘量も安定したのは花仙山だけと言われたそうです。弥生時代から古墳時代にかけ、花仙山で青めのうが発見されてからは、それまでヒスイや水晶で作られていた勾玉は青めのうが主流となっていき、北は北海道、南は九州の広い範囲の古墳から花仙山の青めのうの勾玉が見つかっているそうです。 古代人にとって青は命の源の色として、その勾玉は特別ものだったのでしょう。右手の「真王の泉」の石標の左の丸石、その上に石が置かれていますが、その石が正に青めのうの原石で、コツコツ手をかけて勾玉に姿を変えていきます。電動工具もない時代の手間と根気の結晶が勾玉。拝殿北側の御神楽殿・神饌所の眺め。この一画にも二社の境内社が祀られています。大物主命を祀る金刀比羅神社。湯姫大明神社の祭神は湯姫大明神。本殿側面の眺め、定番の大社造りですが、拝殿から上に伸びる階隠しは、珍柱の入る妻壁と同じ幅で本殿に接続するもの。天下の名湯玉造温泉や勾玉の原料を育んだ自然を持つこの地、玉造温泉に宿泊したら是非とも参拝しておきたい神社だと思います。時間に余裕があれば古墳や出雲玉作史跡公園にも訪れたいところです。玉作湯神社創建 / 不明祭神 / 櫛明玉命、大名持命、少彦名命、五十猛神境内社 / 湯姫大明神社、金刀比羅神社、澤玉神社、福徳神社、素鵞神社・記加羅志神社、稲荷神社、玉宮神社等所在地 / 島根県松江市玉湯町玉造508関連記事 /・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』・松江市八雲町『志田備神社』・意宇六社 2/6 『神魂(かもす)神社』・意宇六社 3/6 『八重垣神社』
2024.07.25
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郡上市大和町河辺の河邊神社から国道156号線を7.5㌔北上すると、長良川右岸に見えていた東海北陸自動車道は、高い高架を連ね長良川と国道の上を横切ります。今回掲載する中津屋 白山神社はこの高架の手前から右折し、約300㍍先の右に社頭を構えています。河邊神社からの移動は10分程、駐車スペースは鳥居の先の右側に木陰に包まれた駐車場があります。駐車場の片隅に苔に包まれた手水鉢があり、絶えることなく清水が注がれ、木陰と相まって涼を感じるスポット。社殿はこの左の緑濃い森に包まれ鎮座します。右手には見上げる高さに東海北陸自動車道が続いています。鎮座地は古くは美濃国郡上郡中津屋村で、高山や越前、霊峰白山に至る主要なルートになっていた。1889年の町村制により中津屋村、1897年合併により上保村発足とともに中津屋村は廃止、その後の町村合併で白鳥町、2004年の町村合併で現在の郡上市白鳥町中津屋になったようです。社頭全景。社頭の両脇に二つの石標があり、左の自然石には「長瀧寺六谷六院ノ一十禅寺」と記された寺号標、右手は「村社白山神社」と刻まれた社号標があります。石の明神鳥居から先に社殿がありますが、ここには息の切れる石段はありません。長瀧寺とは養老元年(717)に泰澄大師が創建されたとされ、白山信仰のため美濃と越前と加賀に馬場を開き、美濃馬場の中心的存在が現在の長瀧寺、長瀧白山神社になります。鎌倉時代は六谷六院、神社三十、三百六十坊と栄え、旧高山市を含む広大な神領域を有していたとされます。十禅寺はその一つで、ここ白山神社は神仏習合の寺で、その後十禅寺廃寺に伴い白山神社として現在に至るようです。石の明神鳥居には御大典記念と彫られていたので、昭和3年に寄進されたものだと思います。参道の先の境内は一段上がり、広い境内となっています。背の高い針葉樹の杜に佇む白山神社の社殿。二段目の広い境内、右に手水舎、更に一段上の境内に拝殿が建てられています。境内をひと回りしましたが白山神社の由緒は見当たらず、岐阜神社庁の当社詳細に目を通す。「主祭神 伊弉冉尊。由来 元正天皇の養老年中(717-724)泰澄大師加賀国白山開基の際、此の地に天台宗の一寺を建立。寺号を東永山十禅寺と称し、同時に一神社を併設し、氏神として伊弉冊尊を祀り、白山神社と称せり。其の後幾星霜を経て十禅寺は廃寺となり、村民は白山神社を氏神として尊崇し境内を広め、社殿を改築して尊厳を保ち、今日に至る。祭礼 9月15日」とありました。長瀧神社の創建が養老元年(717)とされ、追随するように十禅寺が創建されたようですが、広い境内に十禅寺の名残は見られません。手水舎の前にある石灯籠。年代は未確認ですが、この灯篭も苔に包まれようとしています。手水舎と手水鉢。山の恵みが絶えることなく注がれている。苔生した石垣と安政3年(1856)と刻まれた石灯籠。社殿全景。本殿はもう一段上げられ、大きな覆屋を神門と透塀が囲っています。拝殿正面全景。切妻平入で向拝が付くもので、全周はガラス戸なので内部の印象はとても明るい。社殿はこの拝殿とその先の覆屋の下に河邊神社同様の唐破風が付く一間社流造の本殿。拝殿内から本殿域の眺め。内部は、河邊神社と類似した梁の上に組物と蟇股が全周に施されています。拝殿左から見る本殿域。近年補修されているようで、拝殿も本殿も綺麗な状態です。神門脇の狛犬、これはライオンか。神門から本殿の眺め。一間社流造と思われ、斜めから近づけず詳細は良く見えなかったが、こうして見る限り木鼻、向拝の龍など彫が施されています。本殿の扉に五七の桐紋が入れられ、脇障子などの装飾にも抜かりはない。ガラス張りの拝殿から鳥居方向の眺め。境内から社頭方向を眺める。陽光が降り注ぎ、危険な暑さの外と比べ、境内は別世界、杜を吹き抜ける風は心地よく、とても居心地のいい神社でした。中津屋 白山神社創建 / 養老年中(717-724)祭神 / 伊弉冉尊祭礼 / 9月15日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町中津屋1228-1参拝日 / 2024/6/19関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社過去記事・「白山長瀧寺と長瀧白山神社」・「洲原神社」岐阜県美濃市・福井県勝山市平泉寺町 「平泉寺 白山神社」・加賀國一之宮白山比咩神社
2024.07.24
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意宇六社の神魂神社から約10分程西の松江市佐草町に鎮座する意宇六社の一社八重垣神社。社頭は県道246号線沿いの松江市佐草町に鎮座しています。写真の夫婦椿が神社の目印になるかもしれない。この夫婦椿、その昔稲田姫命が二本の椿を地面に立てたものが芽吹き出し、地上で一体となったとされ、連理性を持つ事から稀にハート形の葉が出ることがあり、一心同体・愛の象徴のシンボルとされる。推定樹齢400年と云われ、この夫婦椿を含め、八重垣神社境内には子宝椿、乙女椿の三本があります。神社は県道を挟んだ道路沿いに鳥居を構えています。木造明神鳥居と左に手水舎、随神門の先に社殿が広がる。鳥居の扁額は八重垣神社。八重垣神社境内マップ。鎮座地は馬橋川支流の山口川(大神川)を挟んで東側に社殿、西側の佐久佐女の森の中に鏡の池、奥の宮天鏡神社が鎮座します。こちらも意宇六社の一つ、というより良縁を求め水占いに訪れる縁結びの神社として認知度が高いかも知れない。そうした事から、八重垣神社を訪れる若い参拝者が多く、神職も常駐し御朱印も手にすることができる。大きな手水鉢に注がれる冷たい清水が、少し眠気が襲っていた自分を呼び戻してくれた。5月も終わりを迎えるとは思えない程、梅雨を飛び越えた夏の陽気を思わせる。随神門から境内の眺め。右手が社務所、正面の社殿と左右に境内社、左に宝物収蔵庫が主な建物になります。随神門の左右の間から向かい合う様に随神と木製の狛犬が安置されている。門をくぐると狛犬があります。空を見上げて吠えている姿だろうか、風化も著しい頭部は原形を留めていない。八重垣神社由来記「早く出雲の八重垣様に縁の結びが願いたい」という歌は出雲において最も古い民謡で、御祭神も八岐大蛇を退治し、高天原第一の英雄素盞鳴尊と国の乙女の花とうたわれた稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。素盞鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際、斐の川上から七里を離れた佐久佐女の森(奥の院)が安全な場所であるとしてえらび大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなさいました。そして大蛇を退治し、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という喜びの歌をうたい両親の許しを得て「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通り、この佐草の地に宮造りして御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をひらき掠奪結婚から正式結婚の範を示し出雲の縁結びの大神として、又家庭和合の、子孫繁栄、安産、災難除、和歌の祖神として古来朝廷国司藩主の崇敬が厚く御神徳高い神国出雲の古社であり名社であります。」雲陽誌意宇郡 2の佐草 八重垣社長文の記述があり、鳥居の前の連理の椿など記されています。以下書き出しの一部から抜粋。「風土記に佐久佐の社あり 本社稲田姫で素盞鳴 大己貴尊を配合してまつる、左の社は脚摩乳で、古素盞鳴尊簸の川上にいたりたまい 国つ神脚摩乳手摩乳の童女稲田姫のために八岐の大蛇を斬給い」、「大神川のから少し奥の八重垣の鏡の池の上に小社あり鏡の宮と号す、稲田姫をまつる」とある。また、年代は記されていませんが、大江朝臣輝元(1553-1625)が八重垣神社を再建した棟札についても触れられていました。創建時期は定かではないですが、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで稲田姫との住居を構えたのが、ここから約20分程南の雲南市大東町須賀とされ、その地に鎮座する須我神社に創建されたのがはじまりのようです。後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。その佐久佐神社は延喜式神名帳(927)にも記載され、当社の他に松江市大草町の六社神社も論社とされるようです。八重垣神社は佐久佐神社を合祀し、明治の一時期佐久佐神社と称したようですが、八重垣神社に改称されたようです。神国島根(昭和16)の縣社八重垣神社(佐久佐神社)以下のような内容が記されていました。「当社は八束郡大庭村大字佐草字八雲床の鎮座であるが、社内に当国の古社佐久佐神社が坐す。元来佐久佐神社は風土記意宇郡の條に、大草郷、郡家南西二里一百廿歩、須佐乎命の御子青幡佐久佐日古命坐す。大草という名前が古くからあり、同じ名前の社に佐久佐社と記されています。その祭神は大原郡の高麻山とも関連があり、古い伝承によれば、神須佐能哀命の子である青幡佐草日古命がこの山で初めて麻を蒔いたとされ、そのため、山の名前が高麻山となる、佐草は麻を指すと考えられます。当社は仁寿元年(851)に出雲国の青幡佐草壮丁命に従五位下、貞観7年(865)に従五位上、同13年に正五位下、元慶2年(878)に正五位上を授けられた社で、承暦4年(1080)に神祇官の祓いを受けた神社の中で、当国の三社の中に数えられる名社です。中世以降、社号は失われ、現在は当社の相殿にしか残っていません。しかし、当社の鎮座地は佐草であり、奉仕する社家は別火の佐草氏です。康暦3年、文安2年、同6年、康正2年などの安国寺の文書には佐草社と記されており、また、別火が奉仕していたことも記されており、この社が八重垣神社であることは明らかです。佐久佐の社号が八重垣に変わったのはいつか。応永元年(1394)の古棟札には「八重垣御杜二柱大神者、陰陽交泰和歌之鴻基」とあり、文亀3年(1503)の神名帳の頭注には「佐久佐、稲田姫」とあります。これらの記録や塵袋、樋河上天淵記などから、その時期を推測することができます。当社は毛利氏から尊敬と信頼を受け、輝元、元春、元秋、佐世元嘉、黒川元格などから寄進状や社領内の禁制などを受けています。天正13年(1585)には毛利氏から能義、神門、大原の三郡の棟別銭を使って建設するよう命じている。慶長6年には堀尾吉晴が佐草の中で42石の神田を寄進し、松平氏は社領を30石と定めました。別火、筒取、藤宮寺の三つの屋敷には竿不入の特権を与え、宮大工、宮山大工、宮山廻ら、御供田、宮百姓などの屋敷を設け建設も藩費によって行われました。そのため、同じ村の真名井神社の文書に「神魂、伊弊諾、八重垣社の儀式は、古代から国内の特別な神社に属し、杵築、御碕、佐陀の合わせて6ヶ所は、元祖以来出雲の6社として設置され、代々社参、代参があり、毎年祈祷を奉仕する社柄だ」と記されています。明治維新の際には、式社号を復活させて八重垣神社(祭神は素盞鳴尊・稲田姫命)を相殿とし、郷社に列せられた。しかし、大正11年に再び式社号を廃止して八重垣神社として県社に列せられました。現在の境内は、本宮の社域(665坪)と奥宮社域(542坪)の二区に分かれ、老木の森の中に大社造りの14尺四方の柿葺きの本殿以下、幣殿、拝殿、神饌所、社務所、随神門、手水舎、伊勢宮、天鏡、脚摩乳、手摩乳、貴布禰、山神などの墳内神社が並んでいます。奥宮の境内には鏡池、蓮理椿、夫婦杉など、人々に親しまれるものがあります。」境内は社殿左右に境内社が祀られており、祭神の素戔嗚尊と稲田姫命を祀る本殿は、こちらも大社造り。正面の大注連縄が架けられた拝殿は1964年に再建されたもので、本殿は江戸中期のものという。本殿内部に描かれていた重要文化財の神像の壁画は、現在宝物収蔵庫に収蔵され拝観できる。拝殿額は「八重垣神社」神紋は二重亀甲に剣花菱。拝殿左から社殿全景。拝殿右手を奥に進むと写真の二社が祀られています。右手は日本の総氏神 伊勢宮、天照大神を祀る。左が脚摩乳神社、稲田姫の父親である脚摩乳と譽田別命を合祀。伊勢宮の右から奥に進むと写真の小さな石祠や御神木がある。拝殿左から大社造の本殿の眺め、祭神は素盞嗚尊と稲田姫命で3本の鰹木と内削ぎの置き千木が施されています。千木の削ぎ方、鰹木が奇数か偶数かで男神か女神か分かるとも云われますが、それからすれば稲田姫命を意識したものだろうか。それらに該当しない事例も多くあるので、個人的にそうした見方はしない。それより、内部で素盞嗚尊と稲田姫命が隣り合っているのか、向かい合っているのかそちらに興味が湧きます。本殿左の二社。右が手摩乳神社で稲田姫命の母神手摩乳を祀る。左が貴布禰神社で高龗命と倉稲魂命を祀り、水と五穀豊穣の神が祀られています。八重垣御神水。境内左の小さな狛犬が置かれた社日社。社名の社日とは春分、秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を指すようで、農耕に関わる天照大神、倉稲魂命、埴安姫命、少彦名命、大己貴命の五柱のお祀りしています。山神神社。八重垣神社の末社で、祭神は大山祇命を祀ります。以前は佐草の里西側の山中、金起の旧街道沿いに祀ってあったものを明治頃に境内に遷座した神社。手作りの男根を奉納するのが習わしとかで、巨大な一物が置かれています。山・農耕の守護神、夫婦和合を始め、昔より安産・授児子宝及び下半身の病に霊験あらたかだという。境内左から佐久佐女の森の鏡池へ向かいます。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治にする際、森の大杉の周囲に八つの垣根(大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣)「八重垣」を造り、稲田姫命を守ったとされ、今も一部地名などに残っています。身隠神事が執り行なわれる「夫婦杉」、縁結び占いの「鏡の池」も、この森の中にあります。社務所で占い用紙を買い求め、鏡の池に向かいましょう。鏡の池(縁結び占いの池)。この泉に浮かせ、紙の中央に10円又は100円硬貨を乗せ、沈むまでの時間と沈んだ場所により縁を占うもの。15分以内に沈めば縁が早く、それ以上だと縁は遅くなり、近くで沈めば身近な人、遠くで沈むと遠方の人と縁が結ばれるという。また、用紙の上をヤモリが乗って沈むと更に縁が早くなるともいう。占っている若い衆は、時計を見ながら一心に水面の占い用紙が沈むのを見守っている。占いの作法。因みに10円硬貨の重量は4.5g、100円硬貨は4.8gのようです。10円が縁起が悪いから5円にすると3.75gなんだとか。既婚のおじぃさん・おばぁさん(最近このように呼ばれるととても落ち込む)は、池の奥の稲田姫命を祀る天鏡神社にお参り。鏡の池にはモリアオガエルも生息しており、これが乗っかって沈めた場合はどうなるのかなぁ。佐久佐女の森に包まれた鏡の池の奥にひっそりと鎮座する天鏡神社。祭神は稲田姫命、八岐大蛇から避難中に稲田姫命が使用された鏡の池を見下ろす様に鎮座します。意宇六社 八重垣神社創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命、青幡佐久佐日古命境内社 / 伊勢宮、脚摩乳神社、手摩乳神社、貴布禰神社、社日社、山神神社、天鏡神社例祭日 / 祈年祭・身隠神事 5月3日、例祭 10月20日、新嘗祭・還幸祭 12月15日、大祓6月30日、12月31日所在地 / 島根県松江市佐草町227神魂神社から八重垣神社車アクセス / 国道432号線北上、大庭地内の信号を左折し県道247号線を西へ向かい、県道246号線で南進。移動時間は約10分程。参拝日 / 2024/05/24関連記事 /・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』・松江市八雲町『志田備神社』・意宇六社 2/6 『神魂(かもす)神社』
2024.07.23
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岐阜県郡上市大和町河辺に鎮座する「河邉(河辺)神社」。スキーやキャンプなどで郡上方向に向け国道156号線を走行すると、大和町河辺地内で右側に立派な杉の巨木が視界に入ってきます。国道脇に鳥居が建てられていますが、その存在以上に二本の杉の巨木が河邉(河辺)神社の存在をアピールしています。国道から郡上方向の眺め。社頭は国道脇の大和南小学校の北に隣接するようにあり、篠脇山西麗に東西に長い社地を持っています。この辺りは郡上郡山田荘に属し、江戸時代この地域一帯は郡上藩領となっていた地域。町の沿革は明治30年(1897)に徳永村、河辺村、神路村、牧村、古道村、栗巣村が合併し山田村となり、昭和30年(1955) 西川村、弥富村と合併し大和村となり、昭和60年(1985)に現在の大和町になった。個人的に、村が合併し、町に変わり、郡上市(2004)になって以降、地名はしっくりしなくなってきた。社頭全景。石段右に「郷社 河邊神社」社号標、正面に石の明神鳥居を構えています。鳥居は大正15年(1926)に寄進されたもの。社殿は鳥居の先に見える神楽殿と後方の篠脇山の斜面に付けられた長い石段の先の拝殿、本殿が主な社殿となります。狛犬は昭和7年(1932)に寄進されたもので、境内石段脇の一対の常夜灯は昭和11年(1936)に寄進されたものです。境内に神社由緒は見当たらず、岐阜県神社庁から河邊神社を調べたところ以下の内容でした。「慶長年中(1596-1615)火災に罹り古書類等焼失し、其の記事不詳なるが、僧空海が御神体を彫刻したるものと傳へ、旧藩時代は権現神社と称せしを明治の初年に河邊神社と改称する。河邊部落民全体の氏神として崇敬するに因る。」村名を冠する河邉(河辺)神社、大和村史など探して見るが、非公開で図書館に行かねばならないようで詳細は分からなかった。境内は、神楽殿と右に手水舎、左右に収蔵庫があります。広い境内の右から社殿の眺め。手水舎。自然石をくり抜いた大きな鉢で、鉢の裏側は見なかったが、ひょっとして寄進年が刻まれていたかもしれない。神楽殿と書いてみたものの、ひょっとしてこれが拝殿になるのか。この先から石段を登った先に拝殿と更に上に本殿があります。上の拝殿を幣殿と捉えると、この建物は拝殿なのかもしれません。ここでは神楽殿として続けます。広い境内の最深部に建てられており、境内で祭りが催行され、河邊の氏神に奉納されるのだろう。内部から本殿に向かう石段方向の眺め。壁の上の梁を見渡すと、組物と蟇股が全周に渡って施されており、大きな切妻屋根は柱と共にこれで支えています。こうした造りはあまり見た記憶がなく、外の景色が見える欄間のような手の込んだ作りになっています。神楽殿裏側から本殿に続く石段と左の境内社。境内社には社名札がなく詳細は分からなかった。靴も履き替え、熊鈴も付けた、体がほぐれていない朝一番の石段登り、行ってみるか。先も見えないような長さの石段ではありませんが、角の取れた古い石段で、そこそこ斜度もあるので踏み外す事もあります、手摺はとても有難い。篠脇山の西斜面にも漸く陽射しが入り始めました。石段の数を数えて見ようと両指までは数えたが、いつしか分からなくなった。そんなころ上を見上げるとゴールが見えてきます。参道はここから左に向きを変え、拝殿に続きます。樹々に包まれ、陽に照らされた拝殿の姿が神々しい見える。拝殿から本殿の眺め。比較的新しい建物で、拝殿や神楽殿に扁額は見かけなかった。まずは鈴を鳴らして参拝。拝殿左から本殿域の眺め。最初見た時は流造の大きな本殿だなぁと思ったが、これは覆屋でした。覆屋の周囲を黒い板塀で囲い神門に繋がり、本殿は大きな覆屋の下に建てられています。神門前から覆屋を見上げる。板塀と覆屋側面の幕で本殿の様子は良く見えない。神門の格子戸から見た本殿。虹梁、蟇股、扉に至る迄、細かな彫飾りが施されており、扉の前に個性的な姿の小さな狛犬が安置されています。ここに祀られているのは蔵王権現。神門右から覆屋と本殿の眺め。本殿の造りは恐らく流造りでしょう。慶長年中(1596-1615)火災で資料を焼失とありますが、本殿も被災したのか定かではありませんが、現状を見る限り酷い劣化も見られず、大きな覆屋がしっかりと本殿を保護しているようです。拝殿から登ってきた道を見下ろす。国道からどれだけ標高があるのか分かりませんが、樹々の隙間から国道を走る車は随分と見下ろす高さにあります。この篠脇山の東側の山頂には、鎌倉時代末期に築城され、東氏が約230年間居城したとされる篠脇城址がありますが天正14年(1541)に廃城となっており、神社が資料焼失した頃とも近く、関連の有無が気になってきます。さて、また石段に戻ってきました、下りとは言っても朝一番はきついものがある。なんとか無事に戻ってこられました、照らされた境内はとても暑そうな感じです。河邉(河辺)神社創建 / 慶長年中(1596-1615)以前祭神 / 蔵王権現境内社 / 不明社1社祭礼 / 9月16日所在地 / 岐阜県郡上市大和町河辺955-1 伊岐神社から県道343号線、国道156号線で約60分参拝日 / 2024/6/17関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社
2024.07.20
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岐阜県関市肥田瀬の国道418号線肥田瀬交差点の北東角に鎮座する金幣社 伊岐神社。石徹白白山中居神社に向かう途中に朱の両部鳥居が目に止まり立ち寄ってみました。国道から眺める社頭全景。北側の金龍山を背にして、ほゞ南向きに社頭を構えており、社頭の前を国道が横切っています。道路からは一対の常夜灯、「金幣社伊岐神社」と刻まれた社号標と石の明神鳥居があり、その先の朱塗られた両部鳥居が存在感があります。鳥居左側に広場があり、駐車場所に困る事はないと思います。社頭の南側を長良川鉄道が横切っており、最寄りの関富岡駅からなら5分もあれば神社に着ける距離です。社地南側に綺麗な流れがあり、神橋の右の由緒の内容は以下。「御祭神 伊邪那岐大神、伊邪那美大神境内神社加茂神社、稲荷神社、白山神社、御鍬神社、伊社神社創立寛永20年 明正天皇代西紀1643年主な祭日元旦祭 1月1日、交通安全厄除祈願祭祈年祭 2月18日例大祭 4月第2土・日曜日甘酒祭 10月9日 白山社合祀祭七五三祭 11月日曜日新嘗祭 12月14日除夜祭 12月31日月次祭 每月第2日曜日 誕生祭金幣社 伊岐神社」岐阜県神社庁による解説は以下の内容でした。「寛文20年6月奉伊岐大明神鎮座造立。文化6年5月瑞垣造立。天保2年11月社殿修復。文久2年8月社殿再造立。明治33年神籬修繕。大正15年4月石鳥居造立。昭和2年1月社務所建立。昭和6年4月石神籬改造。明治6年旧社格郷社に列し、昭和36年10月吉日金幣社に昇格、近在近郷の崇敬を得て今日に至る。「甘酒祭、10月9日」江戸時代元禄6年、この地方が大旱魃に見舞われ隣村の大平賀から引用する肥田瀬用水が不足し、関係する村々で争論が起こり江戸表までの訴訟となり、翌年元禄7年奉行所からの栽許があり、水争いは円満に解決しました。これを祝い今日では10月9日神前に氏子等が甘酒を供えて祭典を行います。市無形文化財 奉納獅子舞 例祭、始楽、本楽に奉納」どこぞの県以上に詳細に記されていました。美濃国加茂郡誌加茂郡編(1921)豊岡村肥田瀬「鄉社 伊岐神社」の記述は以下。「富岡村大字肥田瀬字立岩鎮座 (境內4966坪)祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神。由緒 勸請年紀詳にならず。文久2年(1861)8月再與、明治6年(1869)郷社に列せらる。境内社、加茂神社 別雷神を祭る。稲荷神社、倉稲魂命を祭る。御鍬神社、保食神を祭る。伊岐神社 岩長姬之命を祭る。勸請年紀詳ならず。明治42年(1909)3月3日、字通前769番地より移転奉祀出願。同年3月31日許可を得て同年5月移転合祀せり。白山神社 白山姫命、倉稲魂命、天照大御神、柯過突智命、建速須佐之男命を祭る。明治42年(1909)12月1日字立岩無格社白山神社、字上屋敷無格社愛宕神社、字北田無格社稲荷神社、字北 田無格社津島神社、字梅の木無格社神明神社の五社を合併し白山神社の社号を冠し境内に移転奉祀出願。同年12月10日許可を得、大正2年(1913)4月1日移転合祀せり。」とあった。 津保川から引き込まれた用水に架かけられた神橋を渡り境内へ。右には「郷社伊岐神社」と刻まれた社号標。左は「金幣社伊岐神社」と二つの社標が建てられています。岐阜の神社を訪れると金幣社、銀幣社、白幣社と記された社標を見かけます。近代社格制度の廃止により、神社の大小を問わず負担金が一律になり、不公平が発生するため、昭和27年(1952)に岐阜県神社庁が献幣使参向神社を指定したもので岐阜県独自の制度です。参道左の手水舎と鳥居、その先の拝殿の眺め。金龍山の山陰になり、境内にようやく朝陽が差し込み、朱の両部鳥居が鮮やかに輝きだす。扁額は「伊諾社」社殿は入母屋瓦葺の拝殿・幣殿・本殿で、本殿は一間社流造で脇障子、妻壁、虹梁には見事な彫が施されています。本殿域両脇に摂社が祀られ、境内左右に境内社が祀られています。昭和36年(1961)寄進の狛犬。梁間3間、桁行5間の入母屋瓦葺の四方吹き抜けの平入拝殿で、踊り場の先の幣殿に続きます。拝殿右側から見た社殿と境内社。本殿域右側の全景。本殿は一間社流造で脇障子や桁隠しなどの彫飾りは手が込んでいます。右側に見世棚造りの摂社が祀られています。右側の摂社は別雷神を祀る加茂神社。右の境内社は社名札はないが社標に「白山社 神明社、津島社合祀」と記されています。合祀の上にも文字が刻まれていましたが読み取れなかった。美濃国加茂郡誌によれば白山社には倉稲魂命、柯過突智命も合祀されているとある。白山社から刻々と影が小さくなる拝殿、社頭方向を望む。拝殿左の「伊社神社」の眺め。美濃国加茂郡誌には「伊岐神社」として表記されています。鳥居をくぐった右にも古い社標があり、こちらも「伊社神社」と記されていました。何れの社標も寄進年は未確認です。伊社神社は明治42年(1909)に字通前769番地より移転されたもので、岩長姬之命が祀られています。右手の社は保食神を祀る「御鍬社」で、この一画は二人の女神の神域。本殿域左の眺め。本殿の海老虹梁には龍が施され、妻壁や脇障子にも彫が施されており、見応えがある。こちらにも摂社が祀られていました。小さな狛狐が守護する「稲荷神社」で祭神は倉稲魂命をお祀りします。拝殿から南側の社頭の眺め。通勤のため国道を走る車も少しづつ増えて来た。金幣社 伊岐神社創建 / 寛永20年(1643)祭神 / 伊弉諾尊、伊弉冉尊境内社 / 加茂神社、稲荷神社、白山神社、御鍬神社、伊社神社、愛宕神社、稲荷神社、津島神社、神明社祭礼 / 4月15日、甘酒祭 10月9日所在地 / 岐阜県関市肥田瀬1263-1 名古屋から一般道で約90分参拝日 / 2024/6/17関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる
2024.07.19
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先に掲載した志田備神社から、意宇六社2社目となる『神魂(かもす)神社』に向かいます。西岩坂農道を東に向かい、国道432号線で左折、しばらく直進し県道248号線に入り、ひたすら直進すると三叉路で突き当りになります、その前が神魂神社になります。三叉路の左に無料駐車場が用意されています。移動時間は約15分程、距離は約6.6㌔。鎮座地は室山の北嶺に位置し、ここから北は松江平野が広がっています。この辺り一帯は出雲国造館跡推定地とされ、古くから開けた地域で古墳群や古代寺院の遺跡など見所が多い。駐車場から少し下った先にある一ノ鳥居へ向かいます。ここから社殿に向かいます。鳥居は木造の両部鳥居で、ここから桜並木の参道の先に木造の二ノ鳥居を構えています。ニノ鳥居と社標。右手の駐車場からだと、ここから境内に向かいがちですが、一ノ鳥居まで僅かな距離なのでそこから境内に向かいたいもの。ここから参道を少し進んだ右手に境内に続く石段があり、その先に社殿が広がっています。神魂(かもす)神社社標。最初この字を見て二人とも「かもす」とは読めなかった。角が取れた石段から神魂(かもす)神社拝殿の眺め。苔生した手水鉢に流れ落ちる清水は涼を与えてくれます。竹の柄杓は良く考えたものです。手水鉢から左に進めば女坂を経て境内に至り、更に先に向かうと高校入口があり、敷地内の山の斜面に神魂神社の奥宮、磐座があるようですが部外者が入れる雰囲気ではなかった。手水鉢の正面の石段が男坂。石段の下からでも拝殿が見える距離で、勾配もさほどではないので、角が取れた不規則に積まれた石段に注意して上れば大丈夫。神魂(かもす)神社案内。「御祭神 伊弉再大神、伊弉諾大神。 当社は出雲国造の大祖天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建。以来天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕された。大社移住後、「神火相続式」は奉仕のため、「古伝新嘗祭」は参列のため参向されている。本殿は室町時代初期、正平元年(1346)建立の大社造で、その大きさは三間四方高さ四丈あり出雲大社本殿 とは規模を異にするか、床が高く、木太く、とくに宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として昭和27年3月国宝に指定されている。本殿内は狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面にて囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。祈年祭 四月十八日例祭 十月十八日、神在祭 十一月十一日、新嘗祭 十二月十三日」文政9年(1822)の「雲陽史意宇群2」には大庭社として長文の記述があり、その中から一部抜粋し現代の言葉に置き換えた内容は以下。「大庭社は伊弉冊尊の神社で、正殿は東を向いています。内殿は右側から入り、西を向いています。一般的な神社とは異なり、祠官によれば、この神は伊弉諾尊よりも先に神界を去ったため、神魂(かんみたま)明神とも呼ばれます。奈美尊の神魂(かんみたま)が静坐所は神納山と呼ばれ、そこから15町離れた現在の地に移されました。杵築国造の代替わりの火嗣というのは、この神社に来た時のことを指しています。」神納山は大庭町の南東の八雲町日吉にあり、走ってきた国道432号線沿いにあり、亡くなった伊弉再大神は比婆山と呼ばれたこの山に葬られたといいます。石段を上り切ると左右に広い境内となり、写真は境内左から社殿の眺め。境内右手の社務所と後方は右から御釜宮、熊野社、伊勢社、杵築社の眺め。拝殿と本殿の眺め。拝殿は木造切妻造の桧皮葺の妻入りで、正面に庇が付き、大社造りの檜皮葺の本殿と調和している。境内右手の御釜宮から境内社と本殿の眺め。右手の御釜宮は毎年12月13日にお釜神事が行われ、その際使用される注連縄が張られたお釜が安置されているようですが、当日は内部は見られなかった。訪れた時間が16時近かった事もあるからか、社務所、境内に神職の姿は見られなかった。御釜宮の左の社は熊野社で速玉男命、事解男命、菊理姫命が祀られています。右が伊勢社で天照大神、月夜見神を祀ります。左が杵築社で神素嗚嗚尊、葦原醜男命(大国主命)が祀られています。神魂神社本殿は現存する大社造としては最古(1346年)のものとされ、心御柱の古材に「正平元年丙戌十一月日」の墨書銘も見つかったようです。雲陽史には天正年中(1573-1592)大江輝元が造営と記され、その後も代々国主により護られてきた。出雲大社の現在の本殿が延享元年(1744)に造営とされるので、更に古い時代の大社造りの姿を留めたものです。出雲国造が二十五代まで奉仕し、杵築の地に移住された後も新嘗祭参列、神火相続式執行の為、現在も参向されている。本殿は東向きに建ち、心御柱と右手の宇豆柱との間に板塀を背にして北を向いて御神座があると云う。大社造には男造と女造と二つの様式があり、出雲大社の様に御神座が本殿右のものを男造、神魂神社の様に左にあるものを女造と呼ばれる。伊弉冊大神、伊弉諾大神をお祀りします。出雲大社の巨大な本殿は近寄る事も出来なかったが、国宝に指定されている神魂神社本殿は、間近でひと回りできます。棟には3本の鰹木と水平に切られた内削ぎの置き千木が載り、二重亀甲に「有」の神紋が入る。本殿左の境内社。右が貴布祢稲荷両神社の相殿で左側に倉稲魂神を祀る稲荷社、右が闇龗神を祀る貴布祢社が祀られており、左の見世棚造りの社は外山社で鸕鷀草葺不合尊、他1柱が祀られている。寄進年不明の狛狐。肉付きのいい容姿は犬のように見えなくもない。社殿の床下にも複数の像が置かれていますが、狐と書いては見たが自信がなくなる。外山社左の境内社。右側の社は荒神社で祭神は興津彦命、他2柱を祀る。神籬の左の社は蛭子命を祀る蛭子社、左が武勇社で経津主命、他2柱を祀ります。最古の大社造を残す神魂神社、過度に観光化されておらず、訪れる参拝客は僅かでした。神域らしい静かな空間に手水鉢に流れ落ちる清水の音すら聞こえる。心を癒してくれる神社だと思います。意宇六社 神魂(かもす)神社 創建 / 不明祭神 / 伊弉冊大神、伊弉諾大神例祭日 / 10月18日、12月13日境内社 / 御釜宮、熊野社、伊勢社、杵築社、貴布祢稲荷両神社、外山社、荒神社、蛭子社、武勇社所在地 / 島根県島根県松江市大庭町563志田備神社から神魂(かもす)神社車アクセス / 西岩坂農道を東へ、国道432号線を左折、直進県道248号線を直進、突き当りの神魂神社まで15分程。参拝日 / 2024/05/24関連記事 /・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』・松江市八雲町『志田備神社』
2024.07.18
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廣澤天神から北上し東海環状自動車道を越えたところで右折し、高架を南下します。三叉路で左折し、県道349号線を150m進んだところで、細い路地を右折すると猿投町地家の秋葉神社に到着します。移動時間はおおよそ10分です。県道から細い道で右折し坂を上り切れば写真の秋葉神社が現れます。左の塔は県道からでも見えるので目標になると思います。上の地図の左は明治24年頃のもので、鎮座地の地家 秋葉神社を赤枠で示しています。ここまで来ると数分もあれば猿投神社の社頭も見えてきます。当時の地図には鳥居の印もなく、比較とする現在の地図にも示されていません。秋葉神社について調べて見ましたが、愛知県神社庁、西加茂郡志や豊田市の解説にも触れられておらず、由緒創建時期については全く分かりません。なのでここに秋葉神社があります程度の参拝して来た情報以外のものがありません。鎮座地は県道東側の果樹園が広がる高台にあたり、社頭から南を眺めると東海環状自動車道の高架が延々と続いています。秋葉神社社頭全景。県道からここに至る迄に鳥居はなく、見落としているかもしれませんが社標も見当たらなかった。県道から狭い道を上ってくると、車の駐車余地、転回スペースが心配になりますが社地左側が広場になっておりこちらで駐車も転回も可能です。境内の全景。社地右手に寄進年不明の一基の常夜灯があり、竿には秋葉山、大明神と彫られています。その後方に手水鉢が置かれています。社殿は中央の舞殿と奥に本殿・境内社・役行者などが祀られています。常夜灯と手水鉢。珍しい形のもので、寄進年を探しましたが分からなかった。舞殿から本殿方向の眺め。舞殿には建立や再建時期を知る棟札はなく、お手上げです。本殿、境内社の全景。石の祠や板宮造りの社が横一列に配されています。左の山神様。春になると里に下り田畑に豊穣をもたらし、秋を迎えると再び山に戻る山に宿る神さまで、農村地では大切にされる神様。その右手の二つも山神様でした。これは…、周辺の開発によりここに遷されたものだろうか。石の社は文字が見当たらず詳細は不明。右の板宮造りの社も社名札はなくよく分からなかった。その右の大きな社が恐らく秋葉神社だと思われます。境内の右側の二社。左の小さな石標には文字が刻まれていましたが、○○大明〇としか読み取れず、詳細は分からなかった。右手の覆屋には一体の石像が安置されていました。中には高下駄を履いて坐る役行者像が祀られていました。境内東から社殿全景。全く詳細は掴めなかったが、猿投神社の社頭南にあたり、東西に長い地家地区のほゞ中心に鎮座する秋葉神社、集落の金運や招福・防火の神として、多くの山の神と共にこの地の守護として祀られたものだろう。今回の猿投山周辺の神社巡りはここ秋葉神社で終わる事にして、改めて八柱神社など訪れる事にします。地家 秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神境内社 / ・・・所在地 / 豊田市猿投町地家75車アクセス / 広沢天神から秋葉神社移動時間約10分参拝日 / 2024/06/07関連記事・秋葉社 豊田市乙部町北屋敷・八柱神社 豊田市乙部町北屋敷・本徳 八柱神社・八柱神社 豊田市舞木町中屋・下大坪 稲荷神社・畑中 建速神社・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2024.07.17
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先般かみさんがイタリア旅行に行った際、土産に買って来たビアレッティ モカ・エキスプレス。外観だけ眺め、その後出番もなく箱に入ったままで眠っていた。梅雨明けもゴールが見えて来て、キャンプを楽しみつつ一宮巡りも計画している。という事で、現地で困らないように予め使い勝手を試してみた。独身時代はキャンプの時は主にサイホンを愛用していましたが、移動中の荷崩れでフラスコを割って以来、家専用となり、結婚後はペーパードリッパーでcoffeeを入れていました。しかし、紙を使うとゴミが増え、消耗品もあるのでビアレッティ モカ・エキスプレスは気になる存在でした。国内でも手に入るので、円の価値がない今、買ってくる必要はないと言っていたのですが、現地で見て一目惚れして衝動買いしたらしい。下がそのビアレッティ モカ・エキスプレス2cupの現物。ビアレッティは創業1933年とイタリアでは一家に一台は必ずある代物で、現地の人は小さなカップに一杯飲んで出かけるらしい。素材はアルミニウム製でこのタイプはIHには対応せず、直火で使うもの。なのでこれは育てるコーヒーメーカーです。新品なので銀ピカで綺麗ですが、これが黒ずんで、内部にもcoffeeの色が付く様になれば一人前。2カップ用のサイズは上の幅が取っ手込みで約14㌢×底部が約8㌢×高さ14.5㌢程。本体構造は写真左の水を入れる八角形のものがボイラーとcoffee豆を入れるロート状のバスケット、右側のサーバーと呼ばれる物の三点構成。この2カップ仕様で約80CCのcoffeeがサーバーに抽出されます。本体重量は約300gで手のひらサイズのコンパクトで持ち運びにも便利です。使用していくなかで消耗品となるのがサーバーとボイラーを密閉する白いパッキン、これがどの程度耐久性があるのか今は未知数ですが、廃棄物はバスケットに残る残渣のみで、キャンプ準備ではcoffeeと水、コンロがあれば事足ります。少なくても紙の在庫確認は不要。多言語の小さな文字で書かれた取説に、初めて使用する際は内部のアルミ粕を除去するため、三回程テスト抽出して欲しいと書いてあります。使い方は規定量の水をボイラーに入れ、バスケットの面まで豆を入れボイラーにセット、最後にサーバーとボイラーを締めこんで完成。この状態でコンロに載せ、弱火で過熱するボコボコと音がすれば、抽出され始めた合図。上は抽出中のサーバー内の様子。中央の突起から抽出液が出なくなればボイラーの水が全て抽出された証。後は火を止めて、カップに注げはハイお待ち、美味しいコーヒーの出来上がりだよ。手入れは洗剤や金属たわしでゴシゴシは厳禁。水で手洗いするだけでOK、煤とcoffeeの色を付けていくのが使い込んだ証となります。今回はテスト抽出だけで味わっていませんが、豆を挽いて高圧抽出しているので美味しいことは間違いない。軽い・丈夫・コンパクトなので軽のグーローブボックスにも入りました。早くキャンプで使いたいものですが、まだ天候は安定しないので、夏休み前に安定して欲しいところ。
2024.07.14
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建速神社から広沢川上流に鎮座する廣澤神社までは移動時間約5分程になります。名古屋から猿投グリーンロードで訪れるなら加納ICで降り、加納インター東の三叉路を左折、藤岡飯野方面に向かい、1分程先で左折してください。写真は左折ケ所から北の眺め、正面に愛知環状自動車道の高架見えてきます。左折ケ所には写真の猿投山西回り登山道入口の看板が立っています。狭い道です、ここから神社に至る道は更に狭くなりガードレールもありません、幅寄せ、バックが出来ない人は立ち入らない方がいいでしょう。上は今回の目的地廣澤神社の鎮座地を赤枠で示しています、黄色の枠は猿投神社になります。猿投神社は猿投山周辺の神社を巡り、最後の目的地としているのでなかなか到達しませんが、廣澤神社が猿投神社の境外末社なので気持ち近づいた気になります。写真は廣澤神社の向かいにある登山者用駐車場から、今走ってきた道(右側)と右に広沢川を見ています。猿投山は猿投神社から何度か登っていますが、この西回り登山道から上った事がなく、猿投神社西の宮、東の宮参拝はここから目指したいと考えています。この辺りに立てられているウオーキングマップ。ウオーキングとあるとお手軽に登れるように感じますが、しっかりと足ごしらえし、水、防虫スプレー、熊鈴など最低限の装備は必要です。猪・カモシカ・蛇などいても不思議ではないかも知れないね。ここ何年か熊情報だけは見るようにしていますが、年初から6月までは猿投山の熊目撃情報は上がっていなかった。渓流に分け入っていた頃の熊はお互いに見かけると離れていったが、新世代の熊は寄ってくるらしいので困ったものだ。駐車場の横を流れる広沢川。陽射しは強烈ですが、水が流れ落ちる音、吹き抜ける風は心地いい。廣澤神社頭の眺め。社頭は駐車場の向かいにあり、普通車なら4・5台は駐車できそうですが、奥に作業小屋があり、そこへの道筋は塞げません。正面の林道はこの先更に狭くなり、道も荒れており猿投七滝までは車で行けるようです。社頭全景。右手に廣澤神社社標、社名の上に何か書かれているのだが読み取れなかった。駐車場の向かいにある石の神明鳥居は平成5年(1993)に建てられたもの。その傍らに広沢天神の由緒があり、そこに書かれている内容は以下。「広沢神社(広沢天神)猿投山西入口の広沢川に面した場所に鎮座し、学問と医薬を司る神として信仰のある少名彦命を祭神に祀っています。少名彦命は、出雲大社の祭神大国主命と共に国をつくり固めた神でもあります。平安時代の延長5年(927)に編さんされた法律書「延喜式」に加茂郡七社の一つとして記されています。他に江戸時代の慶安2年(1649)の三河国神名帳にもその名が見られます。」因みに延喜式の「加茂郡七社」とは以下の七社を指します。・野見神社 豊田市野見山・野神社 豊田市榊野町見切・兵主神社 豊田市荒井町松島・射穂神社 豊田市保見町北山・狭投神社(三河国三宮)・東の宮・西の宮 豊田市猿投町大城・廣澤神社 豊田市猿投町小黒見・灰寶神社 豊田市越戸町松葉廣澤神社もともとは広沢川が流れるこの地に古くから鎮座していました。しかし、明治政府による神社合祀令(1906)により明治から昭和の間は広沢川から離れ、猿投神社へ合祀されていました。神社合祀令は、明治41年(1908)の第2次西園寺内閣の内務大臣平田東助が推し進めたもので、神社合祀令の名のもと、それに関わる者の私腹を潤した政策だ。国営放送の朝ドラ、植物学者槙野万太郎を題材にした「らんまん」のなかにも、神社合併が近代化への道筋という名のもとに、神社や社叢が姿を消す環境破壊に対し、植物学者の視点から憂慮する姿が描かれていた。ドラマに登場した南方熊楠は「神社合祀に関する意見」として白井光太郎に書簡を送り、政府に意見を発表しており、そのなかで神社合祀令の裏で神社・神域という特別な空間が育んできた資産を買い叩き、地元に還元する事もなく、高額で転売し推進派の私腹を肥やしている事にも触れている。現在は故郷の広沢川の傍らに猿投神社の境外末社広沢天神として戻されています。古い資料が見つからず、猿投神社に遷される前の鎮座地が定かではありませんが、古い元号の常夜灯や下流の開発状況から見ても鎮座地が大きく変わってはいないのかもしれません。なんたら支援金、なんたら補助金と称しては金をばら撒き、一向に根源を改めず一部の者を潤すだけの現状と何ら体質的に変わってはいない。鳥居の先右手に自然石の常夜灯があり、先は登山道のような参道が奥に続いています。車はあるが人の気配のない鬱蒼とした緑の参道両脇。広沢天神の白い幟が連なる姿は心なしかホッとする。狭い参道の少し先から開けた杉林に変わり、斜面に先に社が見えてきます。社と右側の登山道は頻繁に人の往来があるのか道はしっかりとしていました。杉林の中に佇む社に続く石段は、手前に一対の常夜灯があり、そこから社までは不揃いな石で組まれた石段が伸びています。常夜灯の竿を見ると安永(1772-1781)の元号が見られ、当時の村人の思いがここに残されています。石段から見上げる廣澤神社社殿。樹々の隙間から差し込む陽射しは神秘的な雰囲気を演出します。供えられている榊は新しく、御神酒も供えられており、大切にされているようです。人気のない境内に一人身を置くと、いつもより強く拍手する自分がいる。右手の登山道から眺める社殿の全景。神明造で鰹木は4本、千木は外削ぎのもの。ここから上に続く登山道、西に向かって続いているようですが、何処に繋がるのか分かりません。白地図とコンパスもなく迂闊に知らない道には入らない方がよさそうです。社殿後方から社頭の眺め。社殿が鎮座するここは涼しく居心地がいい。まだ、6月だと云うのに木陰から一歩外に出ると真夏並みの強烈な暑さが襲ってきます。道中の道さえ問題なければ、駐車場からここまでは普段靴で訪れる事が出来ます。猿投神社境外摂社 広沢天神創建 / 不明祭神 / 少名彦命境内社 / ・・・所在地 / 豊田市猿投町小黒見車アクセス / 畑中 建速神社から広沢川上流に向かい広沢天神まで移動時間約5分参拝日 / 2024/06/07関連記事・秋葉社 豊田市乙部町北屋敷・八柱神社 豊田市乙部町北屋敷・本徳 八柱神社・八柱神社 豊田市舞木町中屋・下大坪 稲荷神社・畑中 建速神社
2024.07.13
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熊野大社から県道53号線を少し戻り、西岩坂農道(国道432号線方向)に入り桑並大橋を渡り切ったら左に進み、三叉路で左に進みます。三叉路に志田備神社の看板が出ているので、それに従えば八雲町西岩坂地内に鎮座する神社に辿り着けます。ただ、社頭が幹線道路から少し東に離れているので、目標は道路沿いの桑並ポケットパークになります。ここに車を駐車して田んぼの中を少し歩けば社頭です。熊野大社から移動時間は約10分程になります。上は桑並ポケットパークから社頭方向の眺め。写真の桑並集落の東に見える里山が鎮座地で、田んぼの先の杜の入口に白い鳥居の姿が見えると思います。近くまで車で行きたいところですが、農道に駐車余地はなく、作業の邪魔になるので諦めて歩きましょう。田んぼや水路にはオタマジャクシにどじょう・小魚の姿も見られ、稲田の上を吹き抜ける風は心地いいものですょ。田んぼの先の杜にぽっかり開いた参道と鳥居が近づいてきた。こうした所には当然のように蛇や得体の知れない獣もいるはずです。かみさんは杜の日陰を求め一人でがんがん先に行くのはいいが、すぐには駆け付けられない。社頭から境内方向の眺め。石段の先に石造明神鳥居、手前に狛犬と自然石の常夜灯、右に社標があります。さらに上方に随神門と社殿が見えています。鳥居の先でかみさんの足は止まり、なにやらじっと上を眺めています。右は志田備神社社標と阿形、左が吽形と常夜灯。いずれも寄進年は未確認ですが、相当な年月を経ているようです。鳥居の額は「志田備神社」実は熊野大社の観光マップに志田備神社とシイの巨木の案内があり寄ってみました。右手に聳えているのがスダジイの古木、どうやらこの樹に見惚れていたようだ。志田備神社随神門と社殿の眺め。石段の右に小幹がありシイの巨木に通じています。境内には一際巨大なスダジイが二本聳えており、御神木は境内の右側に更に風格のある巨樹が聳えており、樹齢は300年以上とされます。石段脇のシイ。樹齢何年か定かではないですが、この樹だけでも自然への畏敬の念を抱きます。幹の一部は空洞になり、土に戻ろうとしていますが、枝は緑の葉を茂らせ樹勢は衰えていません。この堂々とした姿は、ただの樹ではなく精霊や白蛇の存在を信じたくもなる。ここから随神門と拝殿の眺め。石段の前には苔生した狛犬と注連柱がある。出雲形の狛犬の寄進年は未確認ですが、かなり年季は入っているようです。志田備神社は巨大なスダジイに注目を浴びますが、志田備神社そのものは出雲風土記(733)や雲陽誌(1717)などにも社名が見られるかなりの古社で、訪れる価値のある神社だと思います。随神門の奉納額。年代は不明ですが、以前は4枚に絵が描かれていたと思われます、今は二枚しか残っていません。顔料の色は鮮やかに残り、中央は弁慶と左は牛若丸を描いたものと思われます。年代は不明ですが、全て揃っていないのが残念です。拝殿から入母屋銅葺屋根の随神門。境内に由緒はなく、創建時期やその他詳細は不明です。雲陽誌には、西岩坂桑並部落の中央山腹に位置し、王子権現といわれていたが、尼子の兵火により古文書宝物等は残っておらず、出雲風土記写本にも志田備社として名が現れます。また、志田備神社には応永10年(1403)「磐坂桑並志多美権現一宇」と書かれた棟札を所蔵するそうです。慶長10年(1605)の「岩坂桑次王子権現社一宇」と書かれた棟札も残るようで、一時期において志多備神社は王子権現とも称されたようで、現在の志多備神社に改称された時期が明治35年(1902)と云う事なので神仏分離政策により出雲風土記当時の志田備社に立ち戻ったと思われます。社殿の改築歴も定かではなく、随神門はじめ社殿の屋根だけ見れば最後の改修からさほど経過していないかもしれません。拝殿正面全景。切妻平入の拝殿も屋根は葺き替えられているようです。社殿東側から見た全景。切妻平入拝殿と幣殿が、大社造の本殿を繋いでいる、手前の大社造の境内社は社名不明。島根県神社庁による解説は以下。御祭神祭神 伊弉諾尊、伊弉册尊例祭 10月9日御神徳 五穀豊穣・諸業繁栄・家内安全・開運厄除・延命長寿由緒・特殊神事 雲陽誌には王子権現といわれていた。境内には日本一大きいスダジイの木があり、この地区の荒神様の依代として崇められ、10月9日には総荒神として30mほどの大蛇を作りお祭りを行っている。境内社については詳細は不明ですが、神社庁の情報以外に配祀神に天照大神、月夜見命、保食命、天能利刀神を祀るようです。大きな社殿ではないかも知れませんが、高く聳える樹々に包まれ、静寂の中に佇む社殿の姿は神々しいものがあります。本殿は外削ぎの置き千木と3本の鰹木で、手前の不明社は内削ぎの置き千木と3本の鰹木が載り、鬼や棟飾りには五三桐の紋が入る。境内の日本一大きなスダジイについて解説は整備されていますが、古くから意宇郡西磐坂集落を見守り続けている神社の由緒についても整備されるといいのだが。さて、日本一のスダジイを拝むとしよう。上は境内右のシイの解説。「村指定天然記念物スダジイ(二本)このスダジイは、桑並地区を守る総荒神が宿る神木です。胸高周囲十一・四㍍、樹高約二十㍍で、樹幹は地上三㍍にあたりで九本に分かれ(一本は枯れている) 四方に枝葉を広げています。枝張りは、東西約二十㍍、南北約三十三㍍で、樹齢は確かでなく推定数百年と言われている日本一のシイの巨木です。志田備神社参道傍にあるスダジイは、胸高周囲六㍍、樹高約十八㍍、枝張りは東西約十七㍍、南北約十九㍍です。神社の周囲一帯は、スダジイの森になっており、学術上でも貴重な存在として残っています」古くから西磐坂集落の荒神様の依代として崇められ、10月9日には総荒神として、藁を綯い30㍍ほどの縄の大蛇を作り、このシイの幹に巻き付けるお祭りが行われるという。シイの幹周り。蛇のようにうねうねと枝が四方に分かれ、それらが上下左右に広がり、この一本だけでも一つの森を形作っています。すぐ下には石段脇のシイが聳えており、集落から見る志田備神社の杜はこの二本により形作られているといっても過言ではありません。出雲の国の八岐大蛇伝説を感じさせるかのように、幹には朽ちた縄の大蛇が絡みついています。神社とともにこの集落と人々を守ってきた神の宿る樹だ。枝は横に広がり、何本かの支え木なしにはもはや自立できない程。志田備神社やこの老木を支えているのは、支え木ではなく、この集落の僅かな世帯の氏子達が支えている。御神木の周辺には、敷き詰められたようにシイの実が落ちており、踏みしめるとカリッ〃と乾いた音がする、今は人も獣も食べる事もなくなり、食べ方も忘れられていくのかもしれない。稲田から眺めるスダジイの姿、一本の樹がお椀を伏せたように見事な丸い形見せている。志田備神社 創建 / 不明祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊御神徳 / 五穀豊穣、諸業繁栄、家内安全、開運厄除、延命長寿例祭日 / 10月9日境内社 / 不明所在地 / 島根県松江市八雲町西岩坂1589参拝日 / 2024/05/24関連記事 /・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』
2024.07.12
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多国籍言語が飛び交い、大撮影会場の出雲大社を後にして、山陰自動車道で東方向の松江市に向かいます。市内から国道432号線を南下し、八雲町東岩坂地内から県道53号線で八雲町熊野地内の出雲国一之宮 熊野大社に向かいます。片側一車線ですが交通量は少なく、我先にとばかり無意味に詰め寄る車もなく、制限速度+メーター誤差順守、歩行者がいる横断歩道では必ず譲りながらも所要時間は約1時間少々。道路と車は一流でも法令順守意識は後進国以下の名古屋の様な事はない。上は県道を走っていると県道右側の白い一ノ鳥居と左に「出雲国一之宮 熊野大社」の社号標が最初に視界に入る。この先の右側に無料駐車場が用意されています。この形の狛犬も見慣れてきます。鎮座地は八雲町熊野にあり、かつての意宇郡にあります。意宇郡の由来は八束水臣津野命が国引きを終えた際、国引きを意恵(終わる)と言ったことから意恵(おえ)郡と呼ばれ、後に「意宇郡」と呼ぶようになったそうです。意宇六社とは意宇郡48座のうち、特に出雲国造家と所縁の深い、熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社を「意宇六社」として、これらを巡拝する「意宇六社」参りが古くから行われていた。参拝客で溢れる出雲大社にくらべ、歴史のある意宇六社の中には訪れる参拝客が少ない神社もあり、現在も「意宇六社めぐり」としてNPO法人によるポスターが掲げられ参拝客の誘致に積極的だ。ここ熊野大社は出雲国一之宮であり、意宇六社めぐりの六社のひとつ。意宇六社めぐりといっても、無人の神社などもあり御朱印が揃うわけでも、参拝記念となる特別なイベントはありません。しかし、自然豊かな神話の国、出雲の景観に包まれ、普段では感じる事のない日本の原風景を感じさせる神社が多く、個人的には意宇六社めぐりを勧めたい。上は松江市南部に位置する八雲の観光マップ。熊野大社はマップ左中央に位置し、八雲の観光スポットの南端といってもいいかもしれません。熊野集落の西側を意宇川が流れ中海へ注ぎます。下は駐車場付近の出雲国一之宮熊野大社の解説。出雲國一之宮 熊野大社神祖熊野大神櫛御気野命(カブロギクマノノオオカミクシミケヌノミコト)を主祭神として境内中央正面の御本殿にお祀りしており、この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の御尊称です。他、境内右手に御后神の奇稲田姫をお祀りする稲田神社、左手に御母神の伊弉冉尊をお祀りする伊邪那美 神社、また荒神社や稲荷神社があります。他にも随神門、鑽火殿、舞殿、環翠亭(休憩所)等様々な社殿、建物があります。特に鑽火殿は当社独特の社殿で、萱葺きの屋根に四方の壁を檜の皮で覆い、竹でできた縁がめぐらされており、発火の神器である燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりぎね)が奉安されています。毎年の鑽火祭や出雲大社宮司(出雲國造)の襲職時の火継式斎行の大切な祭場となる社殿であります。熊野大社は「日本火出初之社」とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮で、出雲国造本来の奉斎社であります。創建については諸説あるようで、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説があるようで、社伝にはここ熊野村の住人が紀伊国に移住したとき、その分霊を勧請したのが熊野本宮大社であるとされているようです。熊野本宮大社の由緒には出雲はじめ、そうした記載は見られません。しかし和歌山県御坊市の熊野神社の伝記には「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当地に熊野神が一時留まりませる」ということが社由緒に記されているとも云われます。駐車場から西に直進する石造の明神鳥居が立っていますが、これは県道沿いの鳥居から数えるとニノ鳥居になります。ニノ鳥居から意宇川に架かる朱塗りの橋は八雲橋の眺め。下は熊野大社「上の宮跡」の解説。この意宇川の川上五百㍍ 御笠山の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在 の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上の宮」「下の宮」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の 形態をとりました。「上の宮」には紀伊国の熊野信仰の影響をうけ伊弉冉尊·事解男神·速玉男神等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大神・須戔鳴尊等を祀る神社が造営されておりました。明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社 制度の改正を機に「下の宮」であった現在の熊野大社へ 奉遷合祀されました。「上の宮跡」背後の御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けらています。また登山道途中には、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りると言う御神水 「明見水」が巨岩から滴り落ちています。熊野大社 上は八雲橋右手の由緒。出雲國一之 延喜式名神大社 熊野大社 御祭神 神祖熊野大神櫛御気野命 御神名は素戔鳴尊の御尊称で、神祖とは出雲大社の大国主神を始め神々の親なる神、御気野とは御食を主として人びとの衣食住に広く、尊い御神威をみちびかれて日ごとに蘇生の縁を結ばれるムスビノ大神との意です。御由緒日本書紀(720)は659年に出雲国造が斉明天皇の勅で厳神の宮を造営したと記し、出雲国風土記(733)は国内の186社で大社の称号を有する神社として熊野大社と杵築大社(出雲大社)を掲げ「出雲国一之宮」の 崇敬を表しています。特に、ご祭神が初めて鑽火されたので日本火出初社とも称します。古来、出雲国造(出雲大社宮司)の襲職は神聖な鑽火器拝戴の儀式を参向して仕える伝統があり、今も変ることなく行われています。御祭日は省略。下は八雲橋から三ノ鳥居、社殿の眺め。ここまで鳥居や参道を見てくると一ノ鳥だけが妙に右にずれています。一ノ鳥居とニノ鳥居の寄進年や八雲橋の架橋年度など調べていませんが、駐車場造成時に一ノ鳥居が移設されたのか、もともとそれらはなく橋の先に見えている三ノ鳥居が社頭だったのかもしれません。八雲橋から八雲山の東麗を流れる意宇川上流の眺め。往古はこの上流の天狗山にあったものが、中世に上の宮、下の宮と二社祭祀され、現在は現熊野大社の下の宮になりました。ここから徒歩5分程先に上の宮の跡地に至るという、更に斜面を登ると熊野大社元宮遥拝所があり。往古の熊野大社があった磐座のある天狗山(熊野山)が望め、熊野山と神が降臨した大きな岩を崇敬する自然崇拝がはじまりのようです。八雲橋から三ノ鳥居の眺め。木造の明神鳥居で扁額はなく、左に手水舎があります。正面の随神門と拝殿に架けられた二つの大注連縄が見えます。手水舎・手水鉢。現在の手水舎は昭和41年(1966)に新築されたもの。鳥居右の境内マップ。社殿は随神門の先の拝殿と奥に本殿と伊邪那美神社、稲田神社、境内左に荒神社、稲荷神社が祀られ、境内左の鑽火殿と右に舞殿が主な社殿となります。熊野大社は「出雲國風土記」(733)に熊野大社、「延喜式神名帳」(927)に熊野坐神社とあり、日本火出初神社とも称され、古来杵築大社(出雲大社)と並び出雲の國の大社と遇され、上古朝廷の崇敬も篤く、殖産興業・招福縁結・厄除の大神として庶民の信仰も深い神代の頃から続く神社。仁壽元年(851)従三位、貞観9年(867)正二位の神階を給い、明治4年(1871)國幣中社、大正5年(1916)國幣大社に列格された。出雲大社宮司の襲職は、当社から燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。手水舎から随神門に向かう僅かばかりの石段を上れば、広々とした境内に至ります。随神門の右に見えている檜皮葺の建物は舞殿。石段を上ると苔むした一対の狛犬が出迎えてくれます。大きな注連縄が張られている随神門。切妻平入の桁行三間梁間二間の八脚門で両脇の間は、三方板張りで随神を拝む側は格子なっており、古い写真では以前は檜皮葺の屋根だったようです。社の伝承を纏めた大正12年(1923)編集の「熊野大社誌造営」には「天文兵火以前の構造は今知る可らす永禄八年毛利元就再建し文政四年大雪僵松の為壊に依り改築爾来数回の修理を加へ明治19年(1886)改築是現在の規模なり」とあることから、随神門は境内の神社同様に古い時代から建てられていたと思われます。明治19年改築、昭和3年(1928)にも改築されたようで、左右の間には櫛磐間戸神、豊磐間戸神が鎮座しています。随神門から見た拝殿。熊野大社は火の発祥地とされ、古くは日本火出初社と呼ばれていたようで、熊野大神櫛御気野命(素戔嗚尊)を祀ります。大きな注連縄が吊るされた拝殿は昭和53年(1978)に建てられ、昭和59年(1984)に拡張工事が行われたようです。拝殿建造以前は境内右側の舞殿が拝殿の役割を担っていたようです。鬼には一重亀甲に「大」の文字が入る。本殿は外削ぎの置き千木と三本の鰹木が載ります。大社造りの本殿。神社解説は以下。熊野大社のご祭神熊野大神がお祀りされています。大社造り。入母屋の妻入り。内部は田の字型の4つの部分に分かれています。現在のものの軸立は昭和23年(1948)、屋根は檜皮葺きであったが、昭和53年(1978)銅板葺きに改めました。現在の社殿は昭和53年(1978)に幣殿と拝殿を増築して完成しました。原始は現在の「天狗山」の山頂付近にある巨大な岩(磐座)があり、そこに祭祀され、その地は「元宮ヶ成」と呼ばれています。祭日10月14日熊野大神櫛御気野命は素戔嗚尊の別名と考えられるようですが、第84代出雲国造によれば「祭神はどこまでも熊野の大神であり、櫛御気野命で穀物霊」とする説もある。本殿域左の大社造りの伊邪那美神社。祭神 伊弉冉尊配祀速玉之男命、事解之男命、大田神、衢神、埴山姫命、天児屋根命合祀王子神、素戔嗚尊、大山祇神、戸山祇神、事代主命、応神天皇、山雷神、爾保津姫命、羽山祇神、岐神、長道磐神、煩神、開囓神、千敷神、大雷、火雷、土雷、稚雷、黒雷、山雷、野雷、裂雷、菊利姫命、泉守道人命祭日 10月15日素戔嗚尊の御母神がお祀りされています。もともと熊野大社から400mほど離れた「上の宮」で祀られていましたが、明治39年(1906)、政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の神社を明治41年(1908)に稲田神社と伊邪那美神社に合祀しました。伊邪那美神社には19社が祀られています。拝殿から続く透塀はこの四脚門に続き、こちらから参拝します。千木・鰹木は本殿と同じで戸や鬼には神紋が入る。伊邪那美神社左の朱の鳥居は熊野稲荷神社、右の鳥居が荒神社。荒神社祭神 素戔嗚尊相殿 高龗、闇龗、闇罔象祭日 11月1日素戔嗚尊がお祀りされています。明治39年政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の荒神、水神、氏神を明治41年に合祀しました。相殿に祀られている三神は甘雨を降らし、霖雨を止める神との深厚な信仰があります。また、この社の右横奥には「御神水」が湧き出ていて頂けるようになっています。祭神 倉稲魂神祭日 8月1日素戔嗚尊の御子神がお祀りされています。人間が生きるに欠くことの出来ない『米』をはじめとする食物を豊饒に霊幸え給う神です。本殿域右の稲田神社。本殿は見世棚造りで、神門の造りも伊邪那美神社とは違うもの。祭神奇稲田姫、足名椎命、手名椎命配祀御前神、速玉之男命、奇八玉命合祀火知命、建御名方命、大物主神祭日 4月13日素戔嗚尊の御后神がお祀りされています。明治39年政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の神社を明治41年に稲田神社と伊邪那美神社に合祀しました。稲田神社には6社が祀られ、現在の社殿は明治42年(1909)に建てられたものです。境内右の舞殿。境内で唯一の入母屋檜皮葺きで、現在の舞殿は、もともとは拝殿として利用されていたもの。昭和53年(1978)の造宮の際に舞殿として移し変えられたもの、四方の蔀戸は常に開け放たれているそうです。舞殿内部の壁には昔の様子を描いた奉納額が掛けられていましたが、元号など見られなかった。元は拝殿だったこの舞殿、現在は神楽や舞いが奉納され、節分には豆まきが行われるという。境内左の鑚火殿。萱葺きの切妻屋根で、四方の壁は全面檜の皮で覆われ、竹で縁をめぐらして檜皮の壁を抑え込むもので、小さな茶室では見た記憶はありますが、これだけの大きさのものははじめて見る。鑚火祭の舞台となる場所で、内部には燧杵・燧臼が保管されています。又、出雲國造の「火継式」に使われます。この建物は大正4年(1915)、鑚火祭が熊野大社で行われるようになったことから翌年氏子により建てられ、現在の鑚火殿は平成3年に再建されたものという。出雲国一之宮 熊野大社 創建 / 不明祭神 / 熊野大神櫛御気野命例祭日 / 10月14日、主祭典 / 節分祭・御櫛祭・鑽火祭・御狩祭境内社 / 荒神社、熊野稲荷神社、稲田神社、伊邪那美神社所在地 / 島根県松江市八雲町熊野2451参拝日 / 2024/05/24関連記事 /・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』
2024.07.11
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下大坪稲荷神社から東の籠川を上流に向け5分程走り、豊田市猿投町畑中地内の建速神社に向かいます。赤枠で示したところが鎮座地で、社地の少し南側で広沢川が籠川に合流します。二つの川に挟まれた畑中集落の南外れに建速神社が鎮座します。広沢川沿いに続く車幅一杯の狭い道を奥に進めば猿投神社の境外末社広沢天神に至ります。もっとも、建速神社に至る道も十分狭く、道を譲る、幅寄せ、それら苦手な人は踏み込まない方が賢明。畑中集落の交差点の左に社頭があり、写真右手に天王森公民館があります。社頭全景。社頭左に常夜灯が一基、右手に平成6年(1994)寄進の「天王森 建速神社」の社標があります。拝殿は瓦葺の四方吹き抜けの妻入りで、拝殿のすぐ奥に本殿域が迫ります。拝殿から本殿域の眺め。建速神社の由緒は西加茂郡誌の畑中で社名の建速神社や津島社として調べて見ましたが、記載されておらず詳細は不明でした。外観から年月を経た印象はなく、規模の小さな新しい神社と捉えられるかもしれません。しかし、その認識もすぐにあらためることになるでしょう。社頭左の常夜灯の竿には江戸時代末期の文化3年(1806)寄進と刻まれています。これが創建時期とは言えませんが、何世代に渡って守り継がれてきた畑中集落の守り神です。拝殿左の「猿投下切 棒の手 鎌田流顕彰碑」碑文は以下。最盛期猿投神社棒の手奉納は十三合宿百八十六ヶ村 明治初期の太政官布告により禁止明治六年林光治郎近田政吉外数名が猿投神社から通行手形を拝領三河鎌田流宗家四代目深田佐平汎昌氏から心技習得 明治九年九月目録伝授 猿投下切 鎌田流棒の手発足なり明治十二年十归奉納再開 今日に至る令和三年十月吉日境内の苔むした手水鉢。境内の建速神社由緒。猿投町の4つの嶋(地家・神郷・洞・下切) のうち、下切の嶋の神社として祭られています。嶋は現在の大字に相当し、猿投神社の大祭には献馬を奉納する単位でもある。創建年代は定かではなく、素佐男命を祭神として います。この神社の祭りは天王祭と呼ばれており、山車の上で演奏される祭りの太鼓ばやしは独特の音を響かせます。7月に行われる「天王祭り」の祭事は、津島の天王祭の流れをくみ、「猿投打ち囃子太鼓保存会」による奉納打ち囃子が披露されるそうです。公民館の前の広い空き地は、棒の手や祭りの際に使われる広場なんだろう。本殿域全景。一対の常夜灯と狛犬が安置され、本殿域を囲む白塀は神門へ繋がっている。神門正面全景。狛犬は昭和10年(1935)に寄進されたもので、白い台座は平成に入り奉納されたもの。社殿全体は酷い痛みも見られず、氏子らから適時補修されているようです。訪れた時は境内のいろはもみじの緑がとても鮮やかな時期でした。神門の格子から本殿域を眺める、右の建速須佐之男命を祀る社と左に摂社がありますが社名まで分からなかった。拝殿から籠川方向の眺め、既に田植えを終え鮮やかな緑の絨毯が広がっています。この稲の穂が下がり始めるころ、普段は静かな建速神社に祭りが奉納され、住民が集い賑わうのだろう。建速神社は籠川を鎮め、稲の生育を見守るように鎮座しています。建速神社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命境内社 / 不明社所在地 / 豊田市猿投町畑中9車アクセス / 下大坪稲荷神社から東に向かい籠川右岸を上流へ、猿投グリーンロードをくぐり建速神社まで移動時間約5分参拝日 / 2024/06/07関連記事・秋葉社 豊田市乙部町北屋敷・八柱神社 豊田市乙部町北屋敷・本徳 八柱神社・八柱神社 豊田市舞木町中屋・下大坪 稲荷神社
2024.07.08
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舞木町八柱神社から今回紹介する下大坪稲荷神社へは、籠川上流を車で5分程の加納町下大坪地内に鎮座します。鎮座地は猿投山南麗の加納川と籠川に挟まれた丘陵地の裾にあたり、南の矢作川にかけて広がる扇状地。江戸時代は加茂郡加納村で、明治になって西加茂郡に編入、その後広沢村大字加納、猿投村大字加納、猿投町大字加納を経て、1967年豊田市大字加納、1970年に現在の豊田市加納町となる。加納駐在所から見た稲荷神社社頭。明治時代の加納集落の北外れに位置し、右手に大正6年に(1917)に寄進された村社稲荷神社の社号標があります。後方に太い幹の楠木が聳えています、以前はここから参道が続いたようです。一ノ鳥居は石造の神明鳥居で大正11年(1922)に寄進年されたものです。両部鳥居から境内の眺め。玉垣で社地が囲われていないので鳥居両脇から境内に駐車可能です。木造の両部鳥居、前後の控柱ががっちりと鳥居を支えています。鳥居の扁額には「正一位 稲荷大明神」とあります。参道左側に単独で一社祀られていましたが、個人祭祀の社の様にも見え、これ以上近寄らなかったので詳細は不明。境内左に豊田市消防団第2分団第一部の詰所と火の見櫓が聳えています。高層建築がなく、周囲を見通せるこの地域では今も現役。社殿全景。左に手水舎、社務所で中央に拝殿・本殿と続き、本殿の左右に境内社の姿があります。拝殿全景。瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの、飾りを拝したシンプルなものです。境内左の手水舎。手水石の左に天保の元号が刻まれている様です。色々調整してみましたが、明確にならず、その様に見えます。加納稲荷神社由来は以下。御祭神 主神 豊受大神、相殿 天照大神、熱田大神配杞 富士浅间神社、津島神社、熊野神社、藤原良基神靈、白山神社、秋葉神社鎮座地 豊田市加納町下大坪1番地御神徳豊受大神は伊勢外宮に祀られ 衣食住の神として信仰され配祀された神と共に家内安全・商売繁昌・進学修業に霊験あらたかな神である。創立の由来天授元年(1375)足利氏の重臣 中条秀長が西三河北辺の地加納村に故郷の氏神富士浅間大権現をお迎え祭祀したと伝う。その後慶長5年(1600)庄屋の要請で足助荘より成瀬三成が移り住み、その子成瀬誉一が初代神主となりお仕えしていた、伊勢神宮から豊受大神の御分身をお迎えして以来稲荷大権現と称するように なった。享保18年(1733)神主成賴伝蔵のとき藤山から現在地に遷座され今に至る。由来にある藤山とは。鎮座地から南西に約1㌖の猿投中学校西交差点の西側にあたり、藤山古墳がある加納町藤山付近を指していると思われます。西加茂郡志の記述によれば以下の内容。所在地 大字加納社格 村社稲荷神社祭神 豊受姫命創建 不詳祭礼 10月14日境内 三反八畝十三歩氏子 一二三戸手水舎から社殿全景の眺め。手前を拝殿とするとその先は幣殿?舞殿?なのかなぁ。拝殿から本殿方向の眺め。拝殿の先の建物の用途は良く分かりません。右は神楽殿で良いのかな。内部の木札によると平成元年に社殿の改修が行われたようです。神門と本殿域の正面全景。四対の常夜灯のうち、内側のものは平成に寄進されたものですが、他はいずれも寄進年を見ていません。其々寄進年は違う様で、見た目では外塀横のものが一番古そうです。神門の飾り瓦に狐の姿、棟には鯱の姿がある。本殿と左の境内社。稲荷と云えば狛狐でしょう。ここに至る迄、狐の姿は見られなかったが、神門から先の本殿域で本殿を守護しているのかもしれません。左から熊野社、白山社、津島社、秋葉社の四社と右の石の社の社名は不明。正面に文字が刻まれているような気もするのだが。境内社から稲荷神社社殿と境内の全景。本殿は棟持柱が見えるので神明造、水平にカットされた内削ぎ千木で、6本の鰹木が施されています。本殿右の境内社。手前に石の社と奥に三社相殿と石の社が祀られています。手前の社は山神。2020年に周辺の山からこちらに遷座されたもの。境内にはこの他にも二基の石の社がありますが、周辺の開発によりこちらに遷されて来たものと思われます、要因の一つに1972年に完成した猿投グリーンロードもあるのだろう。三社相殿の社名札はなく、見た目に三社が祀られている、右の石の社も社名など詳細は不明。由緒にある社の数と合わない。神門前から社頭方向の眺め。天授元年の富士浅間大権現の祭祀にはじまり、後に稲荷神社と移り変わりながらも、創建以来緑豊かな加納の集落を見守り続けてきた神社です。下大坪 稲荷神社創建 / 天授元年(1375)祭神 / 豊受大神境内社 / 熊野社、白山社、津島社、秋葉社、山神、他所在地 / 豊田市加納町下大坪3車アクセス / 舞木町八柱神社から北へ猿投中学校西交差点を右折、籠川を渡り左折、移動時間約5分参拝日 / 2024/06/07関連記事・秋葉社 豊田市乙部町北屋敷・八柱神社 豊田市乙部町北屋敷・本徳 八柱神社・八柱神社 豊田市舞木町中屋
2024.07.07
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本徳八柱神社から東へ、籠川に架かる舞木橋の手前を右に曲がり、籠川沿いを少し下っていくと右側に舞木町の八柱神社の杜が見えてきます。籠川右岸堤防から八柱神社の全景。杜の南側に社頭があり、僅かばかり駐車余地もありました。写真は籠川下流方向の眺め。ひと昔前は稲田が中心だったようですが、今では果樹栽培が盛んに行われており、猿投一帯は桃の栽培が盛んに行われており、春には一面に桃の花が広がるだろう。所在地は豊田市舞木町中屋で、江戸期は加茂郡舞木村で明治11年(1878)西加茂郡に所属、明治22年(1889)に広沢村、明治39年(1906)猿投村へ、昭和28年(1953)猿投町、昭和42年(1967)に豊田市の大字となり同45年(1970)現在の豊田市舞木町になりました。上の地図は明治24年(1891)の鎮座地で当時の舞木集落の南外れに鳥居の姿が記されています。境内に由緒がなく、はっきりと云えませんが、先に訪れた本徳の八柱神社では元禄2年(1689)寄進の常夜灯もあった事から、舞木の八柱神社の創建時期も江戸時代の集落の氏神として祀られていたと思われます。いつもの様に大正15年(1926)出版の西加茂郡誌から舞木 八柱神社を調べて見ました。その内容は以下になります。「村社 八柱神社祭神 八王子創建 不詳祭日 不明境内 一反六畝氏子 五七戸」と記載されていました。この辺り八柱神社が多い地域で、それらを訪れると古い社標や藤岡神社の様に八柱神社の社標など見かけ、古くは八王子権現または八王子社と呼ばれていた名残が残ります。それらは明治政府の神仏分離により八柱神社に改められていったと思われます。もう少し他の地史をあたると詳細な内容も出てくるのかもしれません。舞木 八柱神社鳥居前から境内全景。右手に社標、石の明神鳥居の先に社務所、社殿が建てられています。右手の社標は大正11年(1922)に寄進されたもので、正面の鳥居は平成16年(2004)と比較的新しい。鳥居扁額は八柱神社。境内の社殿全景。右手の樹々の間に石碑があるようです。境内西側の脇参道には手水鉢と秋葉山常夜灯が建てられています。右手の碑は慰霊碑のようです。拝殿は切妻瓦葺の妻入りで四方吹き抜けの木像拝殿。拝殿額と懸魚、全体的な意匠は控え目なもの。本殿域全景。社殿は乙部の八柱神社や本徳の八柱神社にも通じるもので、本殿域を中門、透塀が囲み、中門前に一対の狛犬と右手に石の社が祀られています。中門前の狛犬、寄進年が良く分からなかったが、境内の寄進物に大正以前の元号は見当たらず、常夜灯左の三基の石柱に、平成25年(2013)改築と記されていました。社殿全体の綺麗な印象はそうした事もあるのでしょう。中門から本殿域の眺め。本殿域には神明造の本殿と常夜灯以外に社は見当たりません。祭神は多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、天忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須卑命の五男三女の神々が祀られています。社殿右横の大きな石の社が唯一の境内社ですが社名が見当たらない。脇参道に秋葉山の常夜灯がありますが、社は見当たらないことから、この石の社が秋葉山なのかもしれません。それにしても八柱神社が多い、神仏分離以前は牛頭天王の8人の眷属神(相光・魔王・俱魔良・徳達神・良侍・達尼漢・侍神相・宅相神)を信仰していた。北に猿投神社、籠川左岸には飛鳥時代の寺とされる舞木廃寺跡がありますが、この地域に八王子信仰を広めた中心的存在がなになのかは分からない。舞木町 八柱神社創建 / 不明祭神 / 八王子境内社 / 不明社一社所在地 / 豊田市舞木町中屋車アクセス / 本徳八柱神社から東へ、籠川に架かる舞木橋の手前を右折、移動時間約5分参拝日 / 2024/06/07関連記事 /・秋葉社 豊田市乙部町北屋敷・八柱神社 豊田市乙部町北屋敷・本徳 八柱神社
2024.07.06
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出雲大社3の今回は、大注連縄で知られる神楽殿とその右側を流れる素鵞川の上流に鎮座する境外摂社 大穴持御子神社を掲載します。上は出雲大社境内図で赤枠部分が訪れた所になります。神楽殿へは社務所北側の参道を西に向かい、素鵞川を渡れば神楽殿の社標の前に続きます。往古の出雲大社本殿と同じ高さの国旗掲揚塔の南には写真の祓社、金刀比羅宮の二社が鎮座します。写真は境内から二社を見ており、手前が金刀比羅宮、奥が祓社となります。祓社。二ノ鳥居の下り参道右に鎮座する祓社と同様で、瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神の祓戸四柱を祀っております。違いがあるとすれば、由緒の下の因幡の素兎をモチーフにした兎があるかないかだと思います。この兎出雲大社境内にはデザインの違う66羽の兎像があるようです。祓社は平成26年(2014)に創建された新しい社で、由緒・祭日の内容は下り参道の祓社の由緒と内容は同じです。祓社の左に鎮座する金刀比羅宮。ここにはこんぴら船に乗った2羽の兎の姿があります。由緒は以下。祭神 大物主神大物主神は大国主大神の別名で、大国主大神の幸魂・奇魂とされ、神名の如く万物の根源を司る神様で殖産・医薬・技芸の御利益があり、漁業や航路安全の御神徳があるとされます。祭日 4月1日。神楽殿。本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれ、明治に入り、出雲大社教設立後は出雲大社教の神殿としても使用され、祈祷や結婚式などの祭事行事が執り行われる場所です。内部の広さは270畳もあるという。神楽殿は元々は風調館という千家国造家の大広間として使われていた場所で、昭和56年(1981)に現在の巨大な和洋折衷の建物に建替えられたもの。出雲大社の第一印象と云えば、大注連縄が思い浮かびます。その大注連縄は神楽殿の向拝の下に吊るされたものを指します。大社の拝殿でも書きましたが、吊られた大注連縄の大きさが約6.5㍍、重さは1.5㌧あり、全長はミニバンより大きなものでした。この神楽殿の大注連縄は長さで倍、重さは5倍と観光バス並みの巨大なものになります。その注連縄を吊るす吊り木も半端なものでは耐えられません。飯南町産の根元の太さ65㌢以上、長さ20㍍以上の真っ直ぐな檜が使われるそうです。大注連縄に吊り下がる三つの円錐形のものは〆の子と呼ばれるもので、〆の子ひとつの大きさが直径1.7㍍、高さ2.1㍍、重さ300㎏あるそうです。向拝下から神楽殿の眺め。左右の大きな狛犬とその上の大きな額が視界に入ってきます。額には神光満殿と書かれています。神の光が満ち溢れる神殿と捉えればいいのかな。建物が和洋折衷と書いたように、神社としては異例とも思えるステンドグラスが入れられています。木造狛犬。対比するものがないので実感はないが、恐らく人の身の丈を越える大きなものだろう。出雲大社では兎や亀は良く見かけますが、狛犬の姿はあまり見かけません。神楽殿の右の軒下を奥に進むと神楽殿後方の神座と鎮守社に続きます。鎮守社は出雲大社境内摂末社には該当しない宮司家の祖先神や天満宮などが祀られています。鎮守社全景。正面に門柱の後方に控柱を設けた趣のある腕木門があり、その先の左に天満宮、向かい合う様に火守社、姥神社、門の正面に稲荷社 倉稲魂命、秋葉神の6社が祀られています。シンプルな門ですが腕木や蟇股には手間をかけた彫が施されています。天満宮祭神は菅原道真を祀ります。管原氏は相撲の祖の出雲国造家13代の野見宿禰命からの分流。出雲国造家の始祖の天穂日命の系譜結ばれる。祭日は4月1日、8月3.4日。姥神社(右)と火守社姥神社祭神は伊弉諾尊・伊弉冉命、代々出雲国造公の神霊、千家家親族神霊を祀る。祭日は4月1日。火守社祭神は猿田彦命を祀ります。猿田彦命は道・衢などの誤りなき道行き、導きの神様です。七十五代俊勝公は出雲大社の延享遷宮を奉仕。現今境内の基本はこの時以来の構えです。天德日命が大国主大神の祭主を仕えて以来、同命の嫡孫の代代の出雲国造公は大神の出雲大社宮司を仕え来ています。その神銃・道統の揺るぎなき道行きの見守り神です。祭日は4月1日。正面に鎮座する三社、左から稲荷社、天夷島命社・荒神社、天穂日命。稲荷社御祭神 倉稲魂命、秋葉神倉稲魂命は、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子神で、稲をはじめさまざまな作物など諸々の豊饒を 司られる神様です。「稲荷‐いなり」は豊かな捻りの「稲生り‐いねなり」に由来し、諸々の産業の生成発展、商売繁盛などの御神徳が敬仰され、昔から全国の里々家々でおまつりされています。秋葉神は大難除けの神様です。祭日 旧曆初午日、4月1日。天夷島命社・荒神社御祭神 天夷島命、仲津彦命、仲津姫命、五十猛神天夷島命は、天穂日命の御子神で出雲国造家第二代の神祖です。天穂日命と共に御力を尽され、高天原から神宝を将来して大国主大神の宮居に奉られ、始祖天德日命を継いで大神の祭主と仕えられました。仲津彦命・仲津姫命は素盞鳴尊の御孫神で憲神、五十猛神は同尊の御子神です。祭日 4月1日。天穗日命社御祭神 天穗日命天穂日命は、御皇室の神祖である天照大神の第二の御子神で、出雲国造家(出雲大社宮司家)の始めの神祖です。大国主大神の天つ神への国譲りに御力を尽され、天つ神による大国主大神の御神殿造営と共じ祭主となられました。以来、天穂日命の子孫は代々継承し出雲国造を称し、祭主(宮司)として仕え来て現在八十四代です。祭日 4月1日 。上は稲荷社の狛狐で下は天夷島命社・荒神社の……寄進年どうこう以前の話で、外観は相当な年月を経たものに見えます。神楽殿から素鵞川左岸を遡り、出雲大社摂社大穴持御子神社に向かいます。最初は舗装路が続きますが、一つ目の橋の右手からは山道に変わります。写真は橋の袂にある道案内、未舗装が合わない方は舗装路をそのまま進めば社の後方に続いています。大穴持御子神社へはここから約10分程になります。案内の内容は以下。「福迎の社ご案内摂社 三歳社(大穴持御子神社)祭神 事代主神、高比売命、御年神由緒三歳社は延喜式内社で、大国主大神の御子神である事代主神を主祭神とし、同じく御子神である高比売命、そして穀物の神である御年神を合祀します。殊に事代主神は「えびすさま」として信仰の篤い神であり、大国主大神に国土奉還のご進言をなされ、天孫 降臨に御力を尽くされた神です。毎年1月3日には午前一時より「福迎祭」が斎行され、終日に亘り多くの参拝者がこの参道を行き交い、縁起の「福柴・福茅」を戴き、1年の福を迎えて幸縁を祈ります。祭日 1月3日・10月6日」当日こちらを参拝し、頂いた福柴・福茅を自宅に持ち帰れば幸縁が訪れると云う事です。素鵞川沿いの杉並木に古くからの参道が続いており、所々に道案内もあり道に迷う事はないでしょう。目的地の大穴持御子神社(三歳社)この先にある橋を渡った右上です。素鵞川と二つ目の橋。橋を渡ると右上に社の姿が見えています。大穴持御子神社(三歳社)全景。境内は右手に今は使われていない手水鉢と社のみ。延喜式神明帳(927)に記されている古社で、正面・側面ともに一間の杮葺きの社。すぐ上手が道路で、時に車往来がありますが、走り去れば素鵞川のせせらぎと鳥がさえずる杜に包まれた社は神秘的で、外国語が飛び交う出雲大社の中にあって、神話の世界を体感できる唯一の場かもしれません。出雲大社摂社解説は以下の内容(一部割愛)「大穴持御子神社(三歳社)御祭神 事代主神、高比売神、御子神由緒事代主神、高比売神は大国主大神の御子神であり、国土経営に際して大神を助け力を尽くされた神様です。後世、大年神の御子神年神を合祀し三歳社と称します。」祭日 1月3日・10月6日」全て参拝できませんでしたが、ここから出雲そばを食べに行く事にします。前にも書いたように、出雲大社への参拝は海外の観光客が少ない時間、朝・夕が一番です。出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』創建 / 不明祭神 / 大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神境内社 / 荒神社、天穂日命社、稲荷社、天神社、天満宮等所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東 真名井194-3関連記事 /・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』
2024.07.05
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出雲大社2、今回は大社の右手を流れる吉野川の対岸にある北島出雲国造館を紹介します。現地へは銅鳥居から吉野川を渡り、社家通りを1.2分程度進んだ左側にあります。この北島出雲国造館からさらに東へ進むと、出雲大社境外摂社の神魂伊能知奴志神社に到着します。私は訪れることができませんでしたが、北島出雲国造館からはわずか2~3分程度の距離にあったようです。出雲教 北島出雲国造館大門。外観からは、それが寺なのか神社なのか判断が難しいです。大門の左には宗教法人出雲教の木札が掛けられています。往古の出雲大社の出雲国造家は南北朝時代まで一子相伝で継がれてきました。ある時期から、千家家と北島家の二家がともに出雲国造を名乗り、祭祀を分担していたようです。明治以降は、千家家が大社の宮司を務めるようになりました。併せて神仏分離により千家家は出雲大社教、北島氏が出雲教と独自の布教活動を立ち上げ全国に広められて行き、出雲教は天穂日命の子孫、出雲國造北島家に伝わる祭祀の道に従い、御神徳を人々に広め、導くことを主な目的として明治15年に設立されたという。こうした継承に纏わる話は身近にも大なり小なり起こります、大社の宮司継承に関する内容は参拝に訪れた者には理解しにくいものかもしれません。そうした問題からか、大社の境内マップには北島出雲国造館の名はありますが、施設などは記されていません。社家通り沿いの北島国造館大門の解説。松江藩主 松平定保が安政6年(1860)に武運長久、子孫繁栄、国土安全、如意満足を記念して奉納されたもの。正面の大注連縄は寛永元年以来、出雲市灘分町、平田町の龍神講社より奉納を受けたもので、長さは5.5㍍で中央の太さは約3㍍ある。大門をくぐり境内に入ると、大きな注連縄が架けられた建物が神殿になります。現在の神殿は昭和30年(1955)に建てられたもので、古くは出雲大社の背後に聳える八雲山の麓にあったようですが、寛文4年(1664)の正遷宮う境内拡張に伴い八雲山々麓の旧宅から現在の亀山々麓の現在地に移転しました。神殿左の出雲教由緒は以下のように書かれています。「出雲教は天穂日命(神代の昔出雲大社創建のとき御神勅により大神様に神勤奉仕された天照皇大神の第二の御子神)の正系の子孫出雲国造北島家に伝わる祭祀の道を通し、大国主大神の御神徳を広く世に広めることを主たる目的とする神道教団です。教団としては明治13年、出雲大社の崇敬講として設立された「出雲北島教会」に始まり、戦後昭和27年に宗教法人「出雲教」として認証を受け今日に到っています。出雲教は幽事をつかさどられる大国主大神様にお仕えしお祀りするという出雲大社創建の精神を基としています。そして出雲大社という神社と、その御神徳を拡める教団としての出雲教を区別し、北島国造館に総本院を置いて全国各地に分院教会を設け布教活動を行っている」神殿には大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神を祀ります。大注連縄から神殿内の眺め、折しも朝拝が行われていました。神殿の左側の境内は、心字池を中心とした手入れされた国造邸庭園が広がっています。別名を竜虎の庭と呼ばれているようです。写真は心字池の畔で甲羅干しをする亀たち、亀甲紋が勢揃い。写真は心字池の対岸に春日造りの社が祀られています。左は亀の尾の瀧で、吉野川から心字池に導かれているようです。こちらは菅原道真をお祀りする天満宮、右には沢山の絵馬が架けられています。例祭 8月3・4日。左手に御仮殿 山王社の札が立っており、周囲を見渡しましたが社は見つからず、後に調べて見ると札の後方の斜面の途中に祀られていたようです。亀の楽園。国造館の背後の山は亀山と呼ばれていますが、山の形が亀の甲羅の形に似ていることに由来するようです。小島に鎮座する天神社と亀の尾の瀧。祭神 少名毘古那神医薬、農業、酒造、温泉の守護神で病気平癒、身体健康、医療業、農業、酒造業隆昌などの御神徳がある。例祭日 8月4日左の天神社 由緒「御祭神 少名毘古那神少名毘古那神は『日本書紀』に「大己貴命と力を 合わせ、心を一つにして天下を経営され、人々と家畜の ために、病気になったときの治療の仕方を定め、鳥獣や 昆虫の災いを祓うためのまじないの方法を定められた神であり、人々は今に至るまでことごとくこの神のおかげを蒙っている」とあり、各地に伝えられている風土記にも登場されています。島根県内で、この神様をお祀りした神社は一二九社あるといわれていますが、主祭神としてお祀りされている神社は少なく(二五社)、全国的にも大己貴神(大国 主神)と合わせてお祀りされている神社が多く見受け られます。このように少名毘古那神は大国主神と深いご縁にある神様ですが、なぜか出雲大社の摂社・末社ではな く、出雲国造家の邸内社にお祀りされてきており、寛文の屋敷替えにあたって現在の心字池中之島の小祠 に遷しお祀りされ今日に至っています。」右は亀の尾の瀧の解説「水は能野川(吉野川)の上流から引かれている。名称は明治の重臣・東久世伯爵が御参拝の折りに読まれた歌、「萬代を かけずくだけぬいはがねを つたいて落つる 亀の尾の瀧」に由来する」この瀧の水源となる吉野川は、寛文の造営時に出雲大社を水害から防ぐ目的から当時の建城技術を集めて整備された川だと言われています。出雲大社境内左の七口門から吉野川を越えた先の北島出雲国造館境内の御三社。この門の右手に四脚門がありますが、御三社を参拝し心字池、神殿と参拝したため、四脚門は帰りに撮ろうと思いながら撮り忘れました。中門前から御三社の眺め。御三社は令和4年(2022)に出雲教設立百四十年記念事業として建替えられており、この門もその際に建て替えられたものと思われます。御三社境内の全景。境内の右側を進むと心字池の天神社に続いています。御三社の出雲形狛犬、寄進年は未確認。令和4年(2022)に建て替えられた事もあり三つの社は綺麗なものでした。本殿域前の解説。右から三宝荒神を祀る荒神社、中央が天穂日命社で天穂日命をお祀りし、左の社が稲荷社、宇迦之御霊神を祀ります。国造館HPの三社の解説は以下。荒神社三宝荒神がお祀りされ、山の神・屋敷神・氏神として崇められています。又、皇祖天照大御神も合祀されています。祭日 2月17日天穂日命社北島國造家の始祖天穂日命がお祀りされ、その垂訓を立教の本旨としています。祭日 2月17日稲荷社宇迦之御魂神がお祀りされ、穀物食物神・商売繁盛の神としてご崇敬頂いております。祭日 旧暦2月の初午の日(旧暦のため毎年日時は変動)寛文七年の大遷宮に伴う國造館移設に合わせ、この三社も現在地に遷座されたもので、創建時期は不明。境内から大門と社家通りの眺め。出雲大社境内の参拝者の多くは、この通りを訪れないようなので、人波を避けて静かな出雲の雰囲気に浸りながら歩くのには良い通りだと思います。神魂伊能知奴志神社や眞名井の清水を巡るなら門を出て左、出雲蕎麦なら右ですね。北島出雲国造館創建 / 不明祭神 / 大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神境内社 / 荒神社、天穂日命社、稲荷社、天神社、天満宮等所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東 真名井194-3関連記事 /・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社
2024.07.02
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前回掲載した乙部町の八柱神社から車で北へ5分程度、本徳川の上流の森前地区に鎮座する八柱神社を紹介します。上の写真は、本徳川の左岸から見た本徳八柱神社の社叢全景です。周囲は田植えを終えた田圃と民家が点在しており、西側の里山の先には多くの民家が集まる保見団地が広がっています。上の写真は、大正時代とほぼ現在の鎮座地の違いを示しています。当然のことながら、この頃は保見団地が造成される前で、猿投山から続く里山が広がる地域で、本徳集落の西外れに神社が鎮座しています。 地図上の鎮座地に鳥居が記されるのは昭和34年(1959)になってからですが、これだけで神社の歴史が浅いとは限りません。本徳川から見た対岸の社叢と社頭の風景です。古墳を思わせる小山の上に神社が鎮座し、周囲は杉を中心とした杜に囲まれています。社頭には神馬像と一対の常夜灯、そして木造の両部鳥居が設置されています。これは社頭の正面からの眺めです。鳥居の先から続く石段が境内に繋がっており、拝殿は目の前に見えます。これは木造両部鳥居から拝殿方向の眺め。鳥居の扁額は八柱神社とあります。これは拝殿の前から本殿方向への社殿の眺めです。左手には社務所があり、正面の拝殿の奥には本殿が見え、その左側には境内社があるようです。これは拝殿から見た本殿の眺めです。石垣で本殿域を築き上げ、周囲は透かし塀で囲み、その中に本殿が祀られています。これは拝殿の側面からの眺めで、桁行3間、梁行2間の瓦葺きで四方が吹き抜けの構造です。こうして見ると、拝殿というより舞殿が正解かもしれません。これは本殿の左側から見た本殿域の全景です。正面には一対の常夜灯があり、本殿に続く石段の両脇には小さな狛犬が守護しています。左側の塀は一枚欠けてしまったようですが、そのおかげで本殿域の様子を一望することができました。これは境内の左側にある境内社の眺めです。 右側から順に、水神、豊受大神、秋葉神社があります。そして、左側には津島神社が祀られています。津島神社の左側には、岩が積み上げられた高台の上に、山丸三の紋が刻まれた霊神碑が立っています。これは境内社から見た社殿の全景です。これは本殿の左側から見た本殿域の眺めです。本殿の左側には石の祠がありますが、詳細は不明です。 本殿は銅葺きの屋根を持つ一間社流造りで、細部の意匠は控えめですが、鬼板には右二つ巴の紋が施されています。本殿の正面から見た本殿域の眺めで、中門はなく本殿域全体が一望できます。これは石段の脇にある小さな狛犬です。残念ながら寄進年を確認するのを忘れてしまい、その年代は不明です。 手前の常夜灯が昭和24年(1949)に寄進されたもので、狛犬も同じ年代に寄進された可能性があります。本殿域には三基の石祠が安置されていますが、どれも文字などは確認できず、詳細は不明です。上の写真は、本殿の左側にある石祠です。本殿右側の石祠。猿投山東部の神社には由緒書きが整備されていましたが、南部のこの辺りはそうした由緒書きは整備されていないようです。ここまで目にした寄進物は昭和のものが目に付きます。大正15年(1926)出版の西加茂郡誌から本徳八柱神社を調べて見ました。その内容は以下になります。「村社 八柱神社祭神 八王子創建 不詳祭日 不明境内 一反二畝1歩氏子 二一戸」と記載されていました。また、帰り際に社頭の常夜灯の竿の部分に「元禄2年(1689)」の元号を見つけました。 下の写真がそれで「元禄」と読めます。このことから、創建は江戸時代前期にまで遡る可能性があります。八王子を祀る八王子神社や八柱神社がこの地域には多く鎮座します。まだ全てを訪れることはできていませんが、これらの神社の多くは、この時期に各集落ごとに創建されたものである可能性が高いです。境内から社頭の両部鳥居と常夜灯、神馬像の眺め。この高台から、江戸時代から今日まで本徳の集落を見守り続けてきたのが本徳 八柱神社です。八柱神社創建 / 不明祭神 / 八王子境内社 / 水神、豊受大神、秋葉神社、津島神社他所在地 / 豊田市本徳町森前104参拝日 / 2024/06/07車アクセス / 乙部八柱神社から北へ、本徳川に架かる前田橋の手前で左折、川沿いに上流へ、移動時間約5分参拝日 / 2024/06/07関連記事 /・秋葉社 豊田市乙部町北屋敷・八柱神社 豊田市乙部町北屋敷
2024.07.01
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