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今日、1月31日、東京で財務省職員登庁時間帯に合わせて、「財務省解体デモ」が行われました。今回が3回目ということです。このデモが行われていることは、メディアではほとんど報道されていません。国から情報を得て、世間に発信する業界にとって、報道を行うことで排除されることは今後の活動に重大な影響を与える恐れがあります。メディアは編集段階から国に対する忖度を行い、フィルタリングされた情報しか流さないことが懸念されます。国にとって不都合な情報は、その恩恵を受ける業界でも不都合な事実となり得ます。こうした内容については、事実の公表すら行われず、デモの趣旨も表に出されません。もし自分が若い頃に報道の立場にいたら、間違いなく取り上げていたでしょう。現在の報道の自由とは本質的に違うものであり、不都合な事実が伝えられない現状を再認識する必要があります。庶民にはゴシップ記事やアイドルの不祥事など、関心度の高い報道を繰り返し、不都合な事実に対し視線が向かないように情報操作されていることを再認識して、自分なりの判断をする必要があります。日本も意思表示ができる国になってきたようですが、暴動を起こす国にだけはしたくありません。それは国の政策次第であり、今後の対応にかかっていると思います。さてどこの局が触れるのだろうか、興味深く見て見よう。
2025.01.31
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1月18日、名鉄の「150年以上続く伝統の味を守る『尾張屋』『ナカモみそ』の礎を体感コース」を歩いてきました。名鉄名古屋本線「須ヶ口駅」をスタート→小場塚弁財天→尾張屋守口漬老舗→庄内川水防センター→ナカモみそ→日本最古の歩道橋跡→壱番屋記念館などのチェックポイントを経て名鉄犬山線「中小田井駅」をゴールとする全長約8kmほどのコース。コースは旧美濃街道を通ることから、古い町並みに鎮座する神社や屋根神さまが見られることを期待し、チェックポイント以外はルートから脱線することが多く、ゴールも地下鉄庄内緑地公園としていました。須ヶ口駅南出口。須ヶ口駅でルートマップを頂き、いざスタート、県道126号線(旧美濃街道)を南方向に向かいます。駅から約6分ほど、約400メートルの旧美濃街道沿いに鎮座する須佐之男社に立ち寄りました。 所在地は清須市須ケ口2110。神社境内右手に旗本公民館分館があります。 街道沿いのこの辺りの町名は、現在須ケ口となっていますが、ここに来る途中「旗本」バス停を見かけました、そしてここ「旗本」公民館。ここから少し北に「外町」がありますが、由来は清須城外堀の旧称「外町」から来ているという。「旗本」と名が残ることから、街道沿いには旗本屋敷や茶屋・商店が軒を連ね、今よりも活気があったと思われます。 尾張名所図会の挿絵には、顔を隠しながら遊女を求める武士の姿は描かれていましたが、当神社の記述は見られなかった。過去の地図では明治から昭和55年以前には鳥居の印がなく、昭和55年から記されるようになりますが、それをもって新しいと決めつけることは出来ません。境内には明治の元号が刻まれた寄進物もあり、江戸末期にはここに鎮座していたと考えられます。web情報によれば、「慶長12年(1607)に津島神社から勧請し、津島社と呼ばれていた」とされますが、参考文献が不明なため、ここでは創建時期は不明とさせて頂きます。右手の須佐之男社社標は昭和10年(1935)に寄進されたもの。石の神明鳥居は明治41年(1908)に寄進されたものです。鳥居をくぐると左側に手水鉢と生け込み燈籠が見える。竿に銘文が刻まれていましたが、私には全文を読み取れなかった。舞殿。木造瓦葺の四方吹き抜けで、妻壁に掲げられる大きな神額が目を引く。須佐之男社扁額。舞殿から拝殿方向の眺め。舞殿全景。この後方が旗本公民館分館。木造瓦葺の横拝殿で、右手の社務所とは屋根で繋がっています。拝殿前の石の賽銭箱は面白い構造で、地下に埋設された箱に収まるようになっている。なくならない賽銭泥棒、これくらい必要な時代なんだろう。拝殿前の昭和7年(1932)に寄進された狛犬。いい顔つきをしています。蟇股の龍、長い髭と生々しい鱗のディテールが際立っており、目を引きつけるポイントです。格子戸から本殿域の眺め。本殿の左右に境内社が祀られています、本殿の造りはここからでは良く分かりません。どうやら流造のようですが、境内社の社名までは分かりません。拝殿左から本殿の眺め。右の燈籠の竿には寄進者と「東京市」の銘が見られ、明治頃に東京の崇敬者から寄進されたようです。清須にありながら、関東から寄進を受けるとは。本殿域後方は線路が迫り、赤い車両の姿見られます。この写真に写っているのは名鉄電車の新川検車支区です。左に見える森が須佐之男社の杜です。ここは車両の点検や事故時の運行整理の拠点で、最大78両を収容できるそうで、さまざまな車両を見ることができます。ちなみに、この日はドクターイエローが走るとのことでした。新川近くの新幹線橋脚付近には長いレンズを持った鉄道マニアが陣取っていたそうです。須佐之男社から南に進み、コースに復帰し新川沿いを上流に向かいます。コースは「清須市役所交差点」を右折し新川小橋を渡るのですが、我家はこのまま直進し、「清須市役所北交差点」まで遡り、さらに直進し新幹線の高架方向に向かいました。須佐之男社(清須市須ケ口)祭神 / 須佐之男命創建 / 不明 境内社 / 不明氏子域 / 不明例祭 / 不明兼務社 / 不明 所在地 / 清須市須ケ口2110参拝日 / 2025/01/18関連記事
2025.01.30
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北新町平池交差点を左折し北新田川に架かる橋の手前を左折し川沿いに進みます。川沿いに駐車余地があるので車はそこに停めて、少し自分の足で歩きましょう。北新田川堤の道路は車一台がやっとの幅員の狭い道路で、散策をされる方も有り、路駐は避けて道路脇の余地に停め近隣の方に迷惑だけはかけたくないものです。左の田畑の中ほどに朱の鳥居と小さな森が見えますが、そこが目的地の狐塚稲荷社です。この道路を少し先に進むと、左に細い道が伸び、稲荷社に続いています。上は明治頃とほぼ現在の鎮座地周辺の地図。岩藤神明社から車で2~3分程の位置になります。周囲は田畑が広がり、明治の頃と現在の景色は大きく変わっていません。大きく変わったとすれば、東名高速とその後造られた日進JCと名古屋瀬戸道路の無機質な高架橋が視界を遮っています。冬枯れた田畑の中の朱の鳥居と小さな森の緑がとても存在感がある。冷たい流れの中で小魚を求めて佇む鷺の姿。飛び去る訳でもなく、一定の距離を保ちながらじっと小魚を探しているが、少しでも距離を縮めると飛び立つ態勢に切り替わる。食事のお邪魔なので遠巻きに通り過ぎる。狐塚稲荷社の遠景、このすぐ南には岩藤川が流れています。東側の北新町相野山に鎮座する相野山八幡神社の由緒によれば、岩藤川と北新田川に挟まれたこの辺り一帯は、慶安元年(1652)に北新田開墾のため三河各地から移り住んだ入植者により開かれた地域とされます。それに伴い創建されたのが相野山八幡神社で、北新田川を境にして岩崎町、岩崎川を隔てて岩藤町と接しています。稲荷社は現在の北新町の西外れ狐塚の田畑の中に鎮座地します。近隣の兼務社と思われる主たる神社に目を通しましたが、新田開発に伴い祀られたものか、近年に入り祀られたものか、創建や由緒について分からず、明治までの地図には鳥居の印は見られず、航空写真を見る限り、昭和36年には畑の中に神社が確認できます。神社全景。多くの奉納鳥居が立ち並び、鳥居をくぐり左に180度曲がった先に本殿が建てられています。鳥居の扁額には狐塚稲荷社とあります。社名の狐塚は地名からか、社名から地名がついたものか分かりません。比較的新しい奉納鳥居の先は休耕田が迫り、長い社地は確保できなかったようです。左に回り込むと本殿前にも奉納鳥居が建てられ、その先の基壇の上に朱色の覆屋が建てられています。覆屋の中の本殿は石の社。稲荷社とありますが、覆屋や境内には狐感は見られません。新しい花も供えられており、今も崇敬されているようです。そして、ここに訪れるのは崇敬者だけではなさそうですね。黒い扉に付けられた痕跡は何を物語っているのだろうか。近くの相野山八幡神社の社頭には「イノシシ出没注意」の看板もありました、猿投山では熊やニホンカモシカも現れます。開発されたとはいえ緑が多く残る地域、何がいても不思議ではありません。意外に神社の主、狐の散歩道なのかもしれない。田畑の中にポツンと佇む狐塚稲荷社、好きな光景です。怪しい色の雲も流れてきました。鷺のように飛んで帰れれば、信号待ちや渋滞もないのだろうが、そろそろ帰途に着く事にします。狐塚稲荷社祭神 / 不明創建 / 不明 境内社 / ・・・氏子域 / ・・・例祭 / ・・・兼務社 / ・・・ 所在地 / 日進市北新町狐塚参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社・白山宮・岩崎神明社 ・岩藤神明社過去記事・相野山 八幡神社
2025.01.29
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岩崎神明社から県道217号線を東に進み、日進JC方向に車を走らせ、県道233号線と交わる岩崎交差点を目指してください。目的地の岩藤神明社は、岩崎交差点の突き当たりに位置しています。県道から境内駐車場へのアプローチは少し手間取るかもしれません。交差点の突き当たりは、ガードレールが続いて入口がないように見えますが、正面にガードレールの切れ間があるので、そこに入っていくと境内に入れます。写真の社頭は、県道233号線沿いにほぼ南向きに社殿が建てられており、右手に岩藤公民館、社頭の手前が消防団詰所で、この一画が地域のコミュニティーの中心となっているようです。社地の後方には天白川の支流岩藤川が流れています。社頭右に神明社の社標(平成12年)、左に造営記念碑(平成12年)が立てられており、石の神明鳥居の先に神明造の社殿、社殿左に境内社が纏められています。鳥居から社殿の眺め。寄進年は比較的新しく、平成12年(2000)に寄進されたものでした。境内左の手水舎、手水鉢。境内右から社殿の全景。平成12年に新たに刷新されたようで、外観に傷みはなく綺麗な社殿です。境内の由緒、内容は以下。「岩藤神明社由緒当地は正保3年(1646)岩崎越、本郷越、岩作越、又三河寺部越よりの祖十一戸が移住し新田を起こす、その後岩崎村、藤島村の両村名より岩藤新田村となる。岩藤神明社は寛文13年3月(1673)に創建され、岩藤新田村(現岩藤町)の氏神として祀る。(区保存資料より抄出)現在では合祀されている天王社の祭(天王祭り)が毎年7月に盛大に行われる。旧御社殿は上葺の棟札より明治17年に再建し、昭和5年12月に建立されたもので、以後改修を重ねたが永年の風雪による老朽化が著しく、この度境内地の有効利用も考慮し旧本段より北側に全面御造営された。祭神 天照皇大神祭神 須佐之男神祭神 大山津見神御造営概要境内地 約1,111平方米(約336坪)本殿、祝詞殿、拝殿(木造平屋建鋼板葺)、47,59平方米(14.39坪)造営期間 発足 平成10年2月11日完成 平成12年5月14日造営総額 7,300万円余」愛知県神社庁に登録があり、岩藤神明社の情報は以下のようなものでした。「祭神:天照皇大神氏子域:日進市岩藤町例祭:10月第1日曜日兼務社:白山宮」明治当時から神社西側の通りは、現在の長久手市岩作と日進市岩崎を結ぶ古くからの道で、外観は新しいが、長く受け継がれてきた神社です。拝殿正面全景。拝殿に続く石段の前で一対の狛犬が守護する。左手の境内社と石碑の眺め。狛犬は昭和5年(1930)に寄進されたもので、刷新される前から神社を守護してきた面々です。この時期のものだと、後に大陸から輸入されてくるものとは違い、風貌に貫禄が漂います。拝殿全景。拝殿額は神明社。拝殿から本殿方向の眺め。内部は木の温もりを感じさせるもので、五七の桐が神紋のようです。大きな鏡の先の3枚の扉に天照皇大神、須佐之男神、大山津見神が祀られています。拝殿から南側の社頭の眺め。前を横切るのが県道233号線になります。拝殿左の板宮造の境内社二社。社名や由緒は分かりません。境内社の奥の記念碑と忠魂碑、その奥に注連縄の張られた岩が視界に入ります。岩に近寄ってみると、それは庚申塔でした。年代は確認していません。古くからの道筋、そこに出来た集落に庚申講が広まっていたのだろう。現在も続いているのか定かではないけれど、こうした碑の近くには集会場が作られ、庚申の日には人びとが集い、寝てしまうと動きだす三尸虫を封じるため、一晩中飲食をしながら過ごしたそうだ。今のように娯楽もない時代なので、真に封じるのが目的なのか、菓子を持ち寄り情報交換することが楽しみだったのか微妙かも知れないが、市街地で見かけることもなくなりました。社殿西側から眺める社殿。本殿は神明造のようで、内削ぎの千木は見られますが、鰹木の数までは確認できなかった。本殿後方の御神木。社地裏側の岩藤川の細い流れ、正面の橋の名は「天王橋」。毎年7月に行われる岩藤天王祭では、日進市唯一の山車が曳き回されます。この祭り、昭和の一時期に中止されていたそうですが、昭和56年から再び行われるようになった聞きます。ちょうちん車と呼ばれるこの山車は、社殿右の大きな保管庫の中でその日を待っているようです。岩藤神明社祭神 / 天照皇大神、須佐之男神、大山津見神創建 / 寛文13年3月(1673)境内社 / 不明社2社氏子域 / 日進市岩藤町例祭 / 10月第1日曜日兼務社 / 白山宮所在地 / 日進市岩藤町所寒525-1参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社・白山宮・岩崎神明社
2025.01.28
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日進市本郷町宮下の白山宮から車で県道57号線を北上し、岩崎交差点を左折して右側の丘陵地に鎮座する岩崎神明社までは、所要時間約5~6分ほどです。社頭左には大きな参拝者駐車場もあり、車の駐車場所には困りません。岩崎神明社は、愛知県日進市岩崎町に位置する神社で、岩崎町の人々にとって重要な拠り所であり、古くから多くの参拝者を迎えてきました。今回は、岩崎神明社の歴史、見どころ、などご紹介します。社頭は生活道路に面しており、東側は児童公園と接しています。参道の右側には「神明神社」の社標(1929)があり、長い参道が鳥居に続いています。社殿はほぼ南向きに建てられています。上は明治時代の地図です。当時はまだ現在のように宅地化が進んでおらず、岩崎村の外れに鳥居の姿が見られます。社頭の前の道は西に続き、現在の県道217号線となり、梅森坂交差点に至る古くからの道のようです。丘陵の高みから、南の集落を見守るように社殿が鎮座します。長い参道の中ほどから見る社殿の眺めは、郊外の神社らしい広々とした境内と大きな空が広がっています。参道先の石段から鳥居と社殿の眺め。石の神明鳥居と右側に手水舎があり、鳥居正面に切妻屋根の拝殿と右側に境内社がまとめられています。手水舎、手水鉢。左の石碑は由緒書き。内容は以下。「当社は天照皇大御神を奉祀し、文明5年(1473)巳9月創立。元当社は赤池村の氏神なり。丹羽帯刀没落後、岩﨑北髙上地内の台地にあり。その後更に現在の処に移し祀ると伝え、この地域住民の守護神として深い信仰をあつめている。然るところ昭和34年(1959)伊勢湾台風以来、度々の災害により境内地は土砂崩壊、陥没等により本殿周辺はもとより諸施設は危険状態となったので協議の上安泰を期するため、この地に境内地を移転し本殿、祝詞殿、拝殿、社務所等の造営並に境内一般の整備を行い、神社の面目を一新した。ここにその概要を録して記念となす。昭和48年9月16日」と詳細に書かれており、地史の確認まではしていません。愛知県神社庁に登録がありましたが、内容的には由緒を越えるものは記されておらず、神職不在の神社で白山宮が兼務社という事だけは分かりました。境内右から社殿の全景。一対の狛犬が守護する拝殿は神明造のコンクリート製で6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。境内右側の境内社。左から須佐之男社・神明神社・御鍬社・熱田社・山神社が祀られています。拝殿前を守護する狛犬は昭和48年(1973)に寄進されたもの。拝殿正面の眺め。岩崎神明社の社殿は拝殿・祝詞殿がコンクリート造りで、本殿域の本殿は白壁に囲われているため、見通せませんが木造の神明造の様です。外観は現代的な素材を使いながらも伝統的な様式を保っています。神社は地域の祭りや行事を通じて、地域のコミュニティ活性化に一役買っています。周囲は静かな住宅街で、ストレス社会の現代、誰しも抱える日常生活の悩みや不安から一時的に解放し、心の安らぎを感じることができます。拝殿に掲げられた扁額は「神明社」拝殿左から見た本殿。 棟持ち柱が神明造のトレードマークです。大棟に載せられた内削ぎ千木と6本の鰹木。ご存知のように千木は、屋根の両端に取り付けられる装飾部材です。水平にカットされた内削ぎ千木は女神を祀るともされ、垂直にカットされた外削ぎ千木は男神を祀る神社に取り付けられるとされていますが、実際には女神でありながら外削ぎの千木がある場合もあります。屋根の上に水平に取り付けられる丸太状の飾り鰹木は、その数が偶数なら女神、奇数なら男神を祀るとされていますが、こちらも同様で一概にそうとは言えない場合もあります。長い歴史のある神社だと過程で祭神が変わったりする場合もあるので、装飾として捉えるのがいいかもしれませんね。参拝を終え、拝殿から社頭を眺める。鳥居は昭和9年(1934)に寄進されたものです。社頭左の庚申塔。 庚申信仰に基づいて建てられたもので、その始まりは古く、平安時代に大陸から伝わったものとも言われます。庚申信仰は、人の体内に三尸虫(さんしちゅう)という虫がいると信じられ、60日ごとに巡ってくる庚申の日の夜に天帝に悪事を報告するとされ、その結果早死にすると信じられたようです。三尸虫が報告に行く庚申の日の夜は眠らずに徹夜して語り合い、猿田彦や青面金剛を拝むなどして、三尸虫が報告に行くことを避ける目的で行われ、江戸時代には庶民の間で広く広まったようです。こうした庚申塔は、街道沿いや村落の入り口などに置かれ、ある種村の守り神としての役割も持っていたと言われます。この庚申塔が移設されたものか定かではありませんが、明治の地図では、牧野池に通じるこの通りは古くからの道と見られるため、銘文は残念ながら読み取れず時代も分かりませんが、この道沿いにあったものと思われます。周辺には岩崎城や天白川沿いには飯田街道が東西に延びています。また、岩崎城古墳、白山古墳があり、これらの立地からも、この地域は古くから歴史的に重要な場所であったと思われます。写真は社地東側の児童公園の脇にある地蔵堂。ひと昔前、地域に安置されていたものが、宅地化にともないここに集約されたものだろうか。やさしい表情の地蔵さんに問いかけても、一切教えてはくれるわけもなく。岩崎神明社創建 / 文明5年(1473)祭神 / 天照皇大神境内社 / 須佐之男社・神明神社・御鍬社・熱田社・山神社氏子域 / 日進市岩崎町例祭 / 9月第2日曜日兼務社 白山宮白山宮から神明社 / 車移動、北西に1.8km、約5分所在地 / 日進市岩崎町神明5-25参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社・白山宮
2025.01.25
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24日、総務省が発表した2024年通年の全国消費者物価指数について大きな違和感を覚えます。「全国消費者物価指数(20年=100、変動の大きい生鮮食品を除く)は前年に比べ2・5%上昇の107・9だった。日銀が掲げる2%の物価目標を3年連続で上回り、物価高が定着しつつある。上昇率は23年(3・1%)を下回ったものの、22年(2・3%)より高い水準だった。全522品目のうち、8割超に当たる440品目が上昇した。」とある。日本では「生鮮食品を除く総合」が「コアCPI」と呼ばれ、物価の基調を見る際には生鮮食品価格の動きが無視されることが多いです。しかし、我々が物価高を「実感」するのは、日銀や総務省がデータとして除外している生鮮食品やエネルギーの価格ではないのかい。これが政府と我々庶民の感覚の乖離要因となっています。異常気象や原油・円安要因を考慮すると、継続的な対策が取りにくい事は理解できますが、庶民から見て政府の物価対策に対し、「不満」になっている。今日、日銀政策金利の利上げが図られました、預金を持つ者には朗報だが、反面住宅ローンを抱える世代や購入を検討する者には負担増となるため、家計に与える影響は見過ごせるものではないでしょう。物価上昇を超える賃上げが行われる大企業やパワーカップルは収支がプラスとなるでしょうが、大企業・中小企業に勤務する人の割合は全体の約半数に過ぎません。他の半数は小企業・小売り・非正規雇用で働いている人たちであり、これらの人々や年金受給者は物価上昇に見合う賃上げは追いついていないのが現状です。ピラミッドの底辺を支える層に視線を向けた対策が必要だ。どうすればいいか・・・いろいろあると思うのだが、選挙やばくないですか?石破さん
2025.01.25
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日進市本郷町宮下鎮座「白山宮」野方神明社から車で北東へ5分ほど、田畑の広がる天白川右岸に、島のようにこんもりと盛り上がった森が見えてきます。今回の目的地「白山宮」はこの森のなかに鎮座します。鎮座地を南側から眺めた風景。森の入口には大きな神社幟が風に揺れています。社頭南側には広い臨時駐車場が設けられ、現在造成が進む中で、この景色もいずれ見通せなくなるのでしょう。写真は臨時駐車場から社頭の眺めです。緑豊濃い森の入口には「白山宮 初詣」と書かれた神社幟がはためき、静かな田舎の雰囲気が漂っています。社頭から参道の眺め。右手に、金色に輝く十六葉菊紋の入った白山宮の社標があり、鳥居の先から拝殿に向けて緩やかな上りのスロープが続いて行きます。鳥居は石造の明神鳥居。鳥居右の祭神記。「白山宮 御鎮座年不詳菊理媛命、伊弉冉命、大巳貴命。明治40年藤枝村より合祀。大山祇命、稲田姫命、木花開耶姫命。猿投社 天保11年勧請。大臼命。明治42年藤島より合祀。天照皇大神、大山祇命、大物主命、稲倉魂命、恩兼命、市杵島姫命、木花開耶姫命。」鳥居扁額は白山宮、右の柱に彫られているのは大巳貴命だろうか。柱の後方に白山古墳の石標が立てられています。玉垣の入口から白山古墳へ続く道の眺め。古墳はこの坂を少し上ったところにあります。白山古墳正面の眺め。正式には白山第一号墳と呼ばれるようです。鎖が張られ、これ以上は入れませんが、こうして見ると小さな円墳が二つ並んでいる様に見えます。これは一つの大きな円墳で、掘削され、石室の入口を隔てて二つの墳丘に見えているだけの様です。見えている石室入口は、周辺地域古墳を参考に復元されたようです。解説の内容は以下。「白山古墳 (白山第一号墳) 日進市指定文化財 (昭和56年)。直径約14㍍の円墳で、石組みの横穴式石室(全長7㍍、幅約2㍍)。石材は市内岩崎町の御嶽山の変成岩に似ている。副葬品は金環、鉄刀、装飾須恵器。築造は6世紀代と推定される。昭和55年に発掘調査。殆ど崩壊していた石室は、周辺地域の群集墳を参考に横穴式石室の一部を復元してある。遺物は岩崎城歴史記念館に展示。」面白いのは使用されている石は、ここから2㌔ほど北の御嶽山のものと似ているという事。手前の大岩など見ていると、御嶽山に鎮座する岩崎白山神社境内の穴不動周辺で見かけるものと確かに似ています。そうまでして誰を埋葬したのか興味が湧いてきます。岩崎城の歴史記念館付近には岩崎城古墳もあり、あそこの横穴式石室も群集墳を参考に復元されたものでした。機会をみていってみるかな。白山古墳から参道に戻り少し進むと右側に祓戸大神が祀られています。祓戸社や祓戸大神が祀られている神社では、自身の穢れを祓い清めるため最初に参拝する神様。ここから少し先で石段の参道にかわります。参道先の神馬像。参道左の境内社。右から、えびす社(北側島守護神):事代主命、神明社(丹波島守護神)、秋葉社(西側島守護神)、御嶽社:(石根島守護神)。その左の蓮理木と縁むすび社。個別の二つの株が成長と共に癒着してできるものを蓮理木と呼び、癒着の仕方も様々で特に珍しいものでもありません。こうして根元付近でひとつになり、それぞれが成長するものもあれば、途中から一つに結びつくものや、他の種類の樹と結びつくものなど多々あります。そうしたことから「縁結び」「夫婦和合」の象徴として信仰の対象とされます、信じるか信じないかは貴方次第です。この石段を上れば、趣きのある檜皮葺の手水舎と正面に風格漂う拝殿が間近になる。最後の石段の手前に百度石と一千日参拝と刻まれた石標が立っています。その奥に朱の鳥居があり、その先は龍谷寺になります。鳥居の手前から足王社の裏に続くスロープがあり、上に向かうと、白山宮の東の鳥居に続いています。そのスロープを進み境内に向かいます。すぐに白山宮東鳥居、社殿側面が現れ、左が足王社になります。このまま境内へ。社殿右側には幾つか境内社が祀られています。赤い社は稲荷社のようだ、だとすると先程の朱の鳥居はこの稲荷社のものか?、鳥居を見ておくべきだったか。右手に二社祀られています。右手の流造の社は秋葉神社、左の板宮造の社が山神社。赤い社は白山宮稲荷社。本殿域右の香良洲神社。白山宮「香良洲神社」略記。「御祭神 稚日女命(婦人の守護神)。由緒明治20年頃、近隣氏子の中に婦人病で悩む人々が多くあり、快癒を祈るため三重県津市の香良洲神社から御分霊を勧請し、覆屋を造営、祭礼を斎行。その結果、婦人病が和らいだと伝えられる。大正7年には香良洲社崇敬講社が誕生。祭礼には何万人もの参詣者があったと大正風土記に記載されています。今日では出産の母子安全や婦人病快癒を願う人々に広く崇敬されている。」立派な覆屋の中に祀られている社殿は、暗くて造りまでは分からなかった。足王社。別名サッカー神社とも呼ばれるようで、屋根の滑らかな曲線が美しいモダンな社殿。「足王社略記 祭神 足名椎神昔、藤島町には飯田街道裏街道と呼ばれた街道があり、商人や旅人達が道中の足の安全を祈願する足名椎神をお祀りする祠があった。時代の流れと共に街道を行き交う人々も少なくなり、街道隣接(藤島町大根)の個人宅に祀られていたが、終戦前後に当宮に勧請したのが起源とされる。平成13年(2001)の境内整備事業に併せ社殿も新しくなり、なでると痛みがとれるという信仰を持つ「痛みとり石」も祀られ多くの参拝者が訪れるようになった。足腰の神様から「サッカー神社」とも呼ばれるようになり、日本代表のエンブレムがはいった御守、絵馬 も授与され全国のサポーターも参拝。平成28年(2016)に、足王社新設並に境内地東面整備事業として新社殿が造営された。」その名の通り、足の神様。誰しも老いと共に直面する、足の衰えを良い方向に導いてくれる。まずはここで鏡に向かい参拝し、撫で布料500円と賽銭を納め、左から中に入り安置されている「痛みとり石」を撫で布で撫で、持ち帰って撫で布で患部を撫でると傷みが改善される御利益がある。こちらが「痛みとり石」、多くの願いを受け、石の表面はピカピカで滑らかなものです。こちらがその撫で布。拝殿正面全景。主祭神は菊理姫命で、多様な結びを授けてくれる神として知られる。拝殿前を守護する狛犬。趣きのある手水舎。軒唐破風が施され、鬼板に菊の紋も入れられ、日進総鎮護の格式の高さが窺われる。大きな自然石からくり抜いた手水鉢と龍口、龍は柄杓を近づけると清水を注いでくれる。「白山宮記一 祭神:菊理姫命、伊井冊命、大巳貴命、大山祗神、木花開耶姫命、稻田姫命。一 祭典神事:例祭十月十日、小猿投祭十月十一日、茅の輪祭七月二十八日(疫病除け輪くぐり神事)一 境内神社:猿投社、外十社一 境内地:参千九百六拾七坪(13114㎡)一 由緒:創立年代は不詳だが、縁起以前に加賀(石川県)白山の御分霊を勧請。延長5年(927)に本部岩崎の本居神に海部郡藤島神社を合祀し、5ヶ村の総氏神として崇敬される。大永3年(1523)、城主丹羽若狭守氏清が祭祀を奉修、湯立・笠おどり・棒の手・馬の塔(敵馬)の神事が氏子によって伝承され「白山の馬まつり」として親しまれるが現在は中絶している。天保12年(1842)、小塚甚太夫知隆が猿投社を建立し、三州猿投神社の御分霊を勧請し小猿投祭が始まる。明治5年(1872)に郷社。同40年(1965)に常錦供進神社。戦後宗教法人となり、昭和42年(1967)から大造営開始、社殿・境内を改築整備し「白山宮」と改称。昭和44年(1969)に5級社(旧県社)に昇格。」拝殿額。拝殿左の猿投社。流造の社殿の前に陶製の小さな狛犬の姿がある、祭神は大碓命が祀られています。大碓命は日本武尊の兄にあたり、命の墓所は豊田市の猿投神社の北に聳える猿投山の奥深く、西の宮から少し上がった高みにあります。日進の総鎮守白山宮、規模のみならず、古墳も残る長い歴史を有する神社でした。白山宮創建 / 不詳祭神 / 菊理姫命、伊井冊命、大巳貴命、大山祗神、木花開耶姫命、稻田姫命境内社 / 祓戸大神、えびす社、神明社、秋葉社、御嶽社、縁むすび社、秋葉神社、山神社、足王社、白山宮稲荷社、香良洲神社、猿投社境外社 / 高帝龍王龍神所在地 / 愛知県日進市本郷町宮下519野方神明社から白山宮 / 車移動、 距離2km、5分ほど参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社過去記事・駅ちかウォーキング2017SPRING「竹の小径から岩崎城」を歩く・『高帝龍王龍神』名古屋市名東区高針2丁目・三河国三之宮 猿投神社 5「西の宮」
2025.01.24
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牧野ヶ池緑地から今回の目的地野方神明社へは、車で南東に15分かからない距離に鎮座します。日進市役所の西方に位置し、天白川左岸に広がる田園地帯の、こんもりとした森の中に社殿があります。野方神明社の社地全景。見通しのいい田園地帯にあって、この森の存在は、日本の原風景を感じさせる佇まいです。手前の田んぼは神社の御神田のようです。上は明治と現在の地図の比較で、赤枠が鎮座地になります。当時の地図では、鎮座地南は飯田街道が東西に延びており、街道沿いに野方東、街道北側に野方西集落が点在しています。現在の鎮座地も当時と大きく変わる事はなく、天白川沿いに田畑が多く残っています。野方神明社は当時の地図にも記されており、新田開発に伴い鎮守として祀られた神社と思われます。社地は南の道路側に社頭を構えており、参道の奥に鳥居が建てられています。駐車場は社頭から参道を少し進んだ右側に駐車場がありますが、社頭入口は間口が狭く、小回りの利かない自分の車は一発で入れないので、東側の田んぼ脇の路肩に車を停め社頭へ向かいました。社頭から参道の眺め。道路を沿いに神明社の燈籠が目印で、右側が駐車場です。普通の車なら何ら問題なく入れるでしょう。参道から鳥居方向の眺め。年明け間もないこともあり、野方神明社の神社幟が立てられています。鳥居前から境内の眺め。左に社務所があり、正面の社殿とその右側に境内社が祀られています。境内右手の手水舎。手水鉢には龍のシルエットが浮かんでいます。シルエットの主はこの方。手水鉢の背面には寄進年の元文5年(1741)と刻まれていました。鎮座地の野方の名の由来は「野を起こして畑に開拓」したことから付けられたようで、この辺りの新田開発の歴史は調べていませんが、岩崎城近隣の新田開発が慶安元年(1648)に始まっていたようなので、同時期には人の手が入り、元文5年には集落は作られ、村中安全のために神社が必要とされたようです。手水舎から社殿全景。拝殿・幣殿・覆屋と右手に境内社が祀られています。愛知県神社庁に登録があり、野方神明社の内容は以下のようなものでした。「神明社祭神 天照大御神氏子地域 日進市野方町、浅田町、岩崎町、梅森町、香久山、野方町、藤塚。例祭日 10月第2日曜日。」とだけ書かれていました。当神社は神職はおらず、普段は氏子の手により維持管理され、東郷町春木狐塚に鎮座する富士浅間神社が祭祀を兼務するようです。富士浅間神社のHPには、兼務神社の詳細が記されており、野方神明社の内容は以下のようなものでした。「野方神明社御祭神 天照大御神、豊受大神、菅原道真。創建は明らかではないが、寛文覚書に「神明」と記されている事より江戸時代初期には既に祭られていたと考えられる。社蔵の棟札には元文5年(1741)、天照大御神、八幡大菩薩、春日大明神と記され、尾張誌、徇行記にも同様に記されている。この点現在と異なっている。恐らくは明治後年の強引な合祀令によるものと思われる。近年神明社では隣の田んぼにもち米を育て「御神田」として、秋には其れで餅つきをしている。野方町氏神 香具山氏神。」元文5年(1741)の棟札が残り、手水鉢にもその年号が見られるため、それが創建時期とはいえないまでも、江戸時代初期にはこの地の守り神として崇敬され、代々受け継がれて来たものと思えます。境内東側には石碑が建てられています。拝殿は瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの。神社幕の神紋は五七の桐。拝殿から本殿方向の眺め。本殿域の前を守護する狛犬。台座に文字が刻まれていたが判読できなかったが、昭和・大正時代のものではなさそうです。拝殿右から本殿の眺め。覆屋の中に祀られている本殿は千木が内削ぎなのは分かりますが、造りや鰹木などは分からなかった。本殿右の境内社。6社祀られており、右から津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社と並び、大きい板宮造りの社の社名は分からなかった。ひょっとして火伏の神だろうか。境内東の石碑。右から日清日露戦役記念碑、殉国の碑、招魂社が祀られています。社務所横の遥拝所、向きは遥か先の伊勢神宮方向を向いています。境内から社頭の眺め。鳥居は昭和59年(1984)に寄進されたものでした。野方神明社創建 / 不明、元文5年(1741)の棟札、手水鉢に同年の寄進年があり。祭神 / 天照大御神、豊受大神、菅原道真境内社 / 津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社、不明社、招魂社所在地 / 愛知県日進市野方町清水566牧野ヶ池緑地 西口南側駐車場から野方神明社 / 車移動、 距離5km、12分ほど参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社
2025.01.23
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光風園神社。梅森坂神社から次の目的地光風園神社へは、東に向かい、県道219号線の先にある東名古屋病院を目指します。Gマップのルートでは、病院敷地沿いの北側道路から行けるように示しますが、北側の道路からは病院敷地のフェンスがあり、敷地内に鎮座する光風園神社には行けません。以前、車で訪れたことがあり、その時は車を停める場所もなく、走りながら探しましたが、入口が分からず見送ったことがあります。今回は車を牧野ヶ池緑地公園に置いて来たのでその心配はない。神社参道は病院正門から左に向かい、施設北側を進み、東外れの駐車場から訪れる事になります。駐車場から北側の森の眺め。神社はこの森の中に鎮座しています。駐車場北側の森に写真の参道が作られています。参道入口には光風園神社の縦看板があり、岡の上に参道が伸びています。入口の石段の先は山道が伸びていき、その先の鳥居に続きます。木製の鳥居は二つ建てられています。一ノ鳥居の額は光風園神社。いつ頃建てられたものか分かりませんが、笠木や額は苔むし腐敗が進んでいます。その先のニノ鳥居は更に腐食が激しく、鳥居の左に手水舎、正面に本殿も見えています。冬の時期だからまだしも、草木に勢いのある時期に歩きたくない道かもしれない。手水舎と本殿。こちらの手水舎も朽ちかけています。手水鉢。正面に「文化13年丙子 奉献神明宮」と刻まれています。文化13年は西暦1816年、今から200年前に寄進されたものです。当初は神明宮と呼ばれていたようです。鎮座地は現在の名東区の東外れに位置し、日進市と隣接する丘陵地にあります。南には天白川が流れ、この地域は南垂の立地にあります。 大正9年当時の地図では、南の天白川沿いに洞、梅森の集落、北側は牧野池付近に猪高村高針、東は日進村岩崎の集落が見られますが、鎮座地周辺には集落の姿は見られませんでした。現在のように住宅地として開発が進んだのは昭和に入ってからです。神社は東名古屋病院の敷地北側に鎮座しています。東名古屋病院は、昭和15年(1940)に開設された結核療養施設である梅森光風園が前身です。昭和43年(1968)に八事療養所と合併し、国立療養所東名古屋病院となり、現在に至ります。 療養施設時代の航空写真からも、当時かなりの療養棟が建てられていたことがわかります。奇しくも、神社名はその光風園の名を冠しており、いろいろと背景を想像したくなりますが、「文化13年神明宮」の手水鉢はそのような想像を否定しているようです。それがいつから光風園となったかです。当神社の創建時期や由緒について調べて見ましたが、具体的な資料やweb情報が得られず、神社についてこれ以上書き添えることがありませんが、当初は神明宮として祀られていたのは間違いないようです。参道脇の猿の腰掛。正式名称は知りませんが、子供の頃からこのように呼んでいます。試した事はありませんが、漢方薬として煎じて飲まれたり、癌にも効くと云われたこともあるものです。これで何年物か分かりませんが、茸は裾野が広く、SNS情報から素人が迂闊に手を出すのは絶対にやめた方がいい。本殿の手前は再び石段となり、綺麗な石で作られた基壇の上に本殿が祀られています。本殿正面全景。基壇脇の貼り紙。参拝のみに留めて欲しいとのこと。既に神社の由緒を伝え、管理をする方はいないのだろうか。病院敷地にあるため、法人として賽銭の扱いに困惑している様子が伺われます。本殿域全景。神明造の社で千木は内削ぎ、鰹木は確認できるものが2本載っています。左には落ちてしまった鰹木が纏められています。最後に手が入れられたのがいつか分かりませんが、このまま朽ちていくのだろうか。本殿域から社頭方向の眺め。鳥居はともかく、200年前の先人が祀った理由を知り、本殿に一部修復の手が差し伸べられることを期待したい。山や田畑が消え住宅地に移り変わり、その土地の小さな社が消えたところで生活に影響はないのだろうが、先人達の思いはそこで途切れる。さて、牧野ヶ池緑地公園に停めた車までもう一歩きしよう。光風園神社創建 / 不明、手水鉢に文化13年神明宮の銘がある。祭神 / 不明所在地 / 名古屋市名東区梅森坂3-341-7梅森坂神社から光風園神社 / 距離0.65km、徒歩9分参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社
2025.01.20
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白美龍神社を後に、牧野ヶ池緑地公園の南側から公園東方向の梅森坂神社に向かいます。距離にして約2.4㌔、40分弱の移動距離になります。牧野ヶ池緑地公園南側の坂が多い閑静な住宅地、その一角に写真の梅森坂神社が鎮座しています。Gマップ上では梅森坂神社として表示されますが、現地を訪ねたところ梅森坂神社の社名を示す額や社標は見られず、橘の会という団体管理の神社のようで、愛知県神社庁、法人名を頼りに検索してみましたが良く分からなかった。この記事では梅森坂神社とさせてもらいます。社頭全景、良く手入れされた境内が気持ちがいい。木製鳥居を構え、玉砂利が敷き詰められた参道の先に本殿が祀られています。鳥居右手の由緒は以下内容。「主祭神 天之御中主命、天照大御神。御由緒昭和44年に世界平和と国家安泰・衆生済度のお働きの為に下がられ、翌昭和45年に橘の会を創設するも、社殿及び境内狭小の為、平成30年1月8日にこの地へ御遷座されました。」祭神の天之御中主神は古事記の天地創世・天地開闢神話の最初に登場する神で、独神となって身を隠し、唯一冒頭にしか現れない最高神とされます。天照大御神は国土創造の神、伊邪那岐、伊邪那美から生まれ、古事記や日本書紀では最高神とされる女神で皇室の祖神とされています。参道左の手水舎。参道は本殿前で左に分かれているようです。梅森坂神社本殿。4本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造で、天之御中主命、天照大御神が祀られています。本殿左の社には二見興玉大神を祀るようです。伊勢市二見の二見興玉神社から勧請されたものと思われます。興玉大神(猿田彦大神)は人々が過ち無く過ごせるように導いてくれる神とされます。お伊勢さん参りで最初に訪れる二見興玉神社は禊の神社、夫婦岩や天の岩屋は記憶に残るところ。この社の前にもお馴染みの蛙も置かれていました。小さな神社ですが、佇まいはどことなく伊勢神宮に通じる神聖さが漂う。梅森坂神社遷座 / 平成30年祭神 / 天之御中主神、天照大御神二見興玉社 / 二見興玉大神所在地 / 名古屋市名東区梅森坂西2-807白美龍神社から梅森坂神社 / 距離2.4km、徒歩34分参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社
2025.01.19
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白美龍神社。名古屋市名東区の高針ジャンクションの東に広がる牧野ヶ池緑地公園は、牧野池を中心とした芝生広場や豊かな緑が残された癒しの場です。牧野ヶ池緑地西口南側駐車場から蛇のように曲がりくねる高針ジャンクションの眺め。冬のこの時期は寒々とした光景ですが、桜の時期になると表情は華やぎます。この公園の南側はグラウンドが隣接しており、今回の目的地白美龍神(羽白美衣龍神)はグラウンドの南外れの東の森の中に鎮座します。駐車場から南のグランウンド方向に向かうと森の入口に白美龍神の幟旗が立てられています。そこから案内板に従い怪しい小道を分け入っていきます。神社へは少なくとも三つのルートがあり、駐車場北側の道路から東に進むと鳥居のある正参道ですが、社殿まで一番距離は長く、ちょっとしたトレッキング気分の道です。写真のグランウンド沿いに2カ所の参拝道があります。アンダーパスを過ぎると正面に幟が見えてくるので、そこが入口。入口全景。ここから更に右に進むと三つ目の参道がありますが、社殿までの距離は短いのですが一部段差が大きいのでお勧めしません。何れの道も粘土質なので、雨後は足元が滑りやすくなります。この道を真っすぐ登り、二股から右に進みます。二股から右の参拝道。社殿手前で少し高低差のある細い道になりますが概ね歩きやすい道が続きます。道は周りの樹々の根っこが蛇のように横切っているので足元は要注意です。高低のある道を登りきると右手に境内が見えてきます。撮影時間からみると入口からここまで7分ほどです。幟旗で境内の様子は見えませんが、多くのウオーキング客で賑わっていました。五合上池のゴルフ場フェンス際から鳥居と境内を見上げる。境内から本殿の眺め。左手では破魔矢や白蛇の御守りが売られています。蛇は財運と健康運をもたらすとされ、昔から蛇の抜け殻を財布に忍ばせると金運に恵まれると云われています。身近で蛇を見ることがなくなり、抜け殻も見かけなくなりましたが、昔は大事に忍ばせていました。しかし、減ることはあっても一向に増えないことに気付いてからは、蛇にすがるのはやめました。社殿は一部白いシートで覆われていますが、一間社流造で五合池に向かって鎮座しています。多くの幟旗がはためき、多くの方に崇敬されているのが分かります。普段は静かな境内なのですが、巳年の今年は平年以上に多くの方参拝客やTVの取材があるようです。五合池方向を撮りたくても撮れない状況でした。拝所の軒下には風鈴が吊るされ、木枯らしに吹かれて澄んだ音を奏でています。社の前に祭神である弁財天の神使とされる蛇の大好物の卵が供えられ、蛇の重軽石や蜷局を巻いた白蛇が安置されています。写真は以前訪れた時に本殿に掲示されていた由緒と平成16年(2004)中日新聞の切り抜き。左の由緒には以下のように書かれていました。「白美龍神 羽白美衣龍神「はくびりゅうじん」の由緒鎮座地 名東区猪高町大字高針山ノ中御祭神 白美龍神 女神御神徳 病気平癒・痛風・神経痛・腰から下の病・大願成就・金運・財運・商売繁盛・縁結び・家庭円満・子孫繁栄・開運除けに霊験あり。創建年 昭和28年(1953)11月27日昭和28年夏、愛知カンツリー倶楽部ゴルフコース建設に従事する人達が、大白蛇を目撃した。大白蛇は五合池の面に姿を見せて泳いだ。目撃したのは40人で恐怖のあまり、悪感、発熱、数日床に伏せ地元高針村では一日も早く白蛇をお祀りして村の隆盛と、ゴルフコース工事の安全を祈ろうという声が高まり、地元の御嶽行者に祈祷によれば、これは霊妙なる神通力を有する白蛇にしてこの地に棲。既に江戸時代に出現せられたる。ゴルフコースの建設でだんだん住み家を狭められ、ついに人前に姿を現してしまった。龍神として祀れば姿を消し祭祀怠らずは祭神として永く池に棲む大願成就の神力を発揮するものの御神を許されて、龍神として祀れば姿を消し祭祀怠らずば祭神として永く池に潜み大願成就の神力を発揮するものなりとの御神託を得たり。この神社建設には地元の人々だけでなく、当時の愛知県知事 桑原幹根氏の働きにより愛知県の財界からも寄付を集め五合池を見下ろす丘の上に造られました。建設から既に67年が経ち社の老朽化が進んでいます。御参拝の皆様と縁神様を結んで頂き奉賛金をお納めいただけると幸いです。毎月27日を以て縁日と定め春秋の二回、大祭を行うものなり。」とあります。右の新聞のコピーは「東山ゴルフ場に大蛇出現」という衝撃的な見出しとなっています。内容は「50年ぶりに社が建て替えられた」ことを報じるものでしたが、見出し以上に本文に興味が湧きました。ただ、写真からは詳細が読み取れなかった。大勢の人が目撃した大蛇は、長さ三間(約5.45㍍)あるいは三間半とも云われ、胴廻りは二尺(約0.6㍍)余りでアナコンダ並みの長さがあったようです。体が白くなる所謂アルビノは自然界では珍しい事ではないけれど、目撃当時、海外からアナコンダのような蛇が販売されていたか定かではないけれど、個人で飼っていたものが野に放たれたものと推測したい。しかし江戸時代から大蛇が目撃され、繁殖していたとなると話は変わってきます。昭和28年当時では、今のように手軽に映像に残せる時代ではないだけに、目撃談は否定できないが、工事の進捗が進むにつれ、居場所を失い姿を消したということだろうか。目撃談を通じて見えてくるのは、大蛇はただの生き物以上の存在であり、広域避難場所も担うゴルフ場開発に係わる人々にとって神の存在を示唆するものであったのだろう。金の宝珠に巻き付く神使の蛇は、左の白蛇はまだしも、右の白蛇の目つきと牙は頂けないものがあります。パンフレットではこの重軽石の愛称は巳ちゃんと呼ぶようです。愛称は可愛くて、石なんですが、個人的にはこの形態の重軽石は試さない事にしています。こちらの白龍の方かまだ受け入れやすい。巳年ということで蛇に因んで白美龍神社を参拝しました。普段は心細くなるような山の中の境内も、今年は訪れる参拝客は多そうです。白美龍神社創建 / 昭和28年(1953)、2003年遷座50周年に合わせ建て替え。祭神 / 白美龍神所在地 / 名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中参拝日 / 2025/01/09過去記事・「白美龍神(羽白美衣龍神)」
2025.01.18
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政府補助金打ち切りによるガソリン価格高騰はある程度周知されていたものの、現実にその日が訪れると看過できない金額なのを実感する。車オーナーや車が切り離せない関連企業には大きな痛手でしかない。国や政権与党は支出をやめる時は速やかに実行するが、暫定税率・二重課税の廃止は一向に現実化させない。国と歩調を合わせるように、ニュースも燃料高騰の背景や要因について報道せず、アイドルのスキャンダルなど、今さらの話題に庶民の視線を逸らせようとしている気がしてならない。何ひとつ自国で賄えず、輸入に依存するこの国にあって、円安を容認しガソリン市場価格の高騰が、車を持っていない者にも大きく影響することは誰しも理解していると思います。安くなるものは何ひとつないといっても過言ではない。東京ではキャベツ一玉1000円とも聞きますが、野菜もまた気候の影響だけではなく、使われる肥料や燃料も輸入なので安くなる要素はない。何も策を講じず補助金だけ打ち切れば、少しばかり還付金を支給し庶民の機嫌を窺おうが、円安を容認し続ける限り、家計にとっては焼け石に水。一般庶民は安い物を求め走り回る。それでも食料品の消費税免税もしようともせず、円安で恩恵を受ける輸出企業や個人から相応の受益者負担をお願いする考えもない。円安で恩恵を受ける企業は最高益を続け、札束で人材を買いあさり、税金や政党支援金として還元してくれる国や政党にとってはありがたいお得意様だろう。一方で円安の負の影響を受ける企業や庶民にその負担を強い続けている。所得の不平等さを測る指標のひとつとしてジニ係数を聞いたことはあると思います。そこから税や各種社会保険料、年金や児童手当などを差し引いた再分配所得ジニ係数があります。0から1の値で現され、係数が上がるほど格差が大きいことを指し、0.4を超えると治安が乱れ暴動などが生まれるといいます。2021年、厚労省の日本のジニ係数は0.57で、再分配所得ジニ係数が0.38とどちらも過去最大(厚労省「令和3年所得再分配調査」)を示したそうで、OECD平均のジニ係数は0.316からみると格差拡大傾向が続き、再分配所得ジニ係数も緩やかに増加傾向にあり、社会保障制度が脆弱化している事を示しています。格差社会の代表格アメリカは先進国の中では別格の0.4で、ことあるごとに乱れています。国や政権与党はそこを目指しているようです。制度や税を変えようが、日本人は主義主張を表にしたり、政策に興味を示さない国民性なので、ある意味甘く見られているのかもしれません。能登の復興の遅れもそのひとつかもしれません。あれが東京で起きればまた違ってきます。そこには首都圏と地方の格差が見え隠れします。機能の一極集中は避け、地方に分散させるとしたはずだった。楽観的に見ても、震災や噴火災害が起これば、空すら見えない建物や人の密集した都市は脆弱そのもの。東京のオフィス空き家率は約6%、住宅に至っては約10%ともいわれます。人口は40年以上前に予見されていた通り確実に減り、そこにさらに新たなインフラや住宅の建設に事欠かない。一方で被災地では落ち着いて生活する家すら持てていない方もいる。支援金や募金も総額や使途が明確にされず、過去の事例からも、影で私腹を肥やす者がいないとは言えない状況。日本人の勤勉さや道徳、倫理などは風化し、どんどん明文化しないといけない時代になってきた。いろいろな部分で分配ができていないと感じる昨今。もはや国のリーダーや政党、議員も新しい人材に刷新する必要がある。差し当たって、暫定税率と二重関税の撤廃は速やかに実施してほしい。
2025.01.17
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洲原神社から東に向かい、山王公園で左に進み勝川天王社に向かいます。上は前回使用した明治の地図で洲原神社と勝川天王社を赤枠で囲っています。目的地は赤のマーカー、ここまでの距離は約600㍍、5分もあれば移動できます。南西側から見た勝川天王社全景。昭和23年(1948)に大字勝川の一部から、勝川新町として成立した比較的新しい町名で、勝川新町のほぼ中央に位置し、南東に社頭を構えた細長い社地で一部は玉垣で囲まれています。舞殿の左側に勝川天王社の本殿が祀られています。舞殿は切妻瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのものです。社頭から社殿の全景。社頭に社標はなく、勝川天王社とありますが、赤い社の先入観も有り、天王社の実感は薄いかもしれない。しかし、ここまでくる間で見かけた公園が山王公園とあるだけに、疑ってかかってはいけないかもしれません。右の掲示板には勝川天神社(春日井市勝川町)祈願祭の案内が掲示されており、勝川天王社の祭事も兼務されているのかもしれません。新年らしい光景だ。舞殿後方の本殿。真新しい台座の上に板宮造の本殿が祀られています。本殿には社名札はなく、本殿域の玉垣にもそれらしき社名は見られなかった。玉垣は平成8年(1996)のもので、この年に手が入れられたようです。明治から現在までの地図を見る限り、ここに鳥居の印はありません。しかし、昭和20年(1945)の航空写真では一面の田圃の中に社地らしき姿が見られました。また、明治頃の地図には、現在の妙慶町3あたりに鳥居が描かれていますが、大正時代になると鳥居は消え、現在の妙慶町3に神社はありません。いろいろ瞑想したくなりますが、勝川天王社の由来や創建等は分かりません。本殿後方から社頭の眺め。何か社名に繋がるものがありそうなものですが探しきれなかったです。ムンムンとしたものがありますがここで帰途に着く事にします。勝川天王社から西へ20分程歩いて名鉄小牧線味美駅へ到着。2025年初歩きは平坦な道のりの全行程7.8km。しばらく来ていない間に川沿いは様相が変わった所も多かっただけに、川沿いを歩いてみる必要がありそうです。丁度電車が入ってきました、それに乗車し喜んで平安通まで乗って行ったは良かったが、敬老パスを利用の方は一旦、名古屋市内の味鋺駅で下車、再入場して次の電車に乗り換える事をお勧めします。(敬老パス有効区間は前提が名古屋市内での利用になります)勝川天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 春日井市勝川新町2-153十五丁公園-勝川天王社 / 北東に0.6km、8分ほど勝川天王社-味美駅 / 西へ1.2km、20分弱参拝日 / 2025/01/05関連記事・2025年初歩き1 平安通から水分橋・2025年初歩き2 水分橋から春日山古墳(春日山弁財天・春日山御嶽神社)・2025年初歩き3 十五丁公園の洲原神社過去記事・勝川#1 『勝川天神社』
2025.01.15
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春日山公園の道標から国道302号線を越え、北東へ約1.6km、徒歩25分ほど先の春日井市知多町の十五丁公園に向かいます。白山西横断地下道。勝川と枇杷島を結ぶ城北線味美駅と国道302号線を渡るための地下道。城北線は一度乗りたいとは思っていますがなかなか縁がない路線。地下道は、明り取りもあり内部は思ったより明るく、壁には子供達の絵が展示され、ギャラリーになっており、冷たいコンクリートの空間に温もりを与えてくれます。作者にとっては歳を重ねて訪れた時、子供に自慢できる思い出になるのでは。八田川。名二環(国道302号線)北側の人道橋から庄内川方向の南の眺め。こうして見ると実に怖い所だ、人の想定が自然の振舞いに通じるのだろうか、この下で地震に遭いたくない場所だ、車で名二環を走るたびにリスクを感じる構造です。知多町3の十五丁公園。春日井にあって知多町とはなにかしっくりこない。町名の由来を調べて見ると理由が分かりました。この周辺の新田開発のため、寛文3年(1663)知多郡藪村、現在の東海市養父町界隈の移住者により新田開発され、それに伴い知多東・知多屋敷と称されたようです。1891年頃の地図を見ると、犬山街道と下街道に沿って大きな集落ができていますが、八田川左岸のこの辺りは小さな集落が点在する程度で、八田川にかけて八田与吉新田が広がる地帯。田畑が消え、今のように区画整理・住宅が広がるようになったのは昭和以降のこと。今回訪れるのは十五丁公園内の北西角に鎮座する洲原神社。子どもらが遊ぶ公園に佇む神社は好きな光景です。公園内の角に玉垣で囲った社地の高い台座の上に社が祀られています。Gマップによれば「川原神社」の社名は出てくるがコメントがなく、現地を訪れても社名札はなく、裏付けとなるものが全くありません。webの川原神社情報や過去の地図をみても神社に関する情報は得られず不明社とするつもりでいました。「郷土誌かすがい」にこの神社について記述がありました。まず、この神社は川原神社ではなく「洲原神社」と呼ばれています。「郷土誌かすがい」から一部抜粋した内容は以下です。「昭和の洲原詣その2知多町の十五丁公園北西隅に洲原神社の小祠が祀られている。この社は、昭和49年まで付近の平手庸明氏宅地内に奉祀されていたが、区画整理により現在地に移され、同51年6月に移転を完了した。十五丁場洲原社創建の由緒は次のように伝えられている。天保の大飢饉がおさまった翌天保9年(1838)、この地方に害虫が大発生して農作物が食い荒らされ皆無となった。人々は雑草、木の皮まで食い尽くす悲惨な状態であったという。翌天保10年、十五丁場の集落の寄り合いで、集落のリーダーが中心になり、五穀豊穣の神として知られる美濃洲原神社を当集落へ分神として迎えることにした。毎年4、5月頃に集落の代表が洲原神社に参拝し、お札を受けてきたという。現在でも、今年の豊作を祈願して参拝する。」洲原神社は、岐阜県美濃市須原の長良川右岸に鎮座し、主祭神は伊邪那岐命を祀る古社です。周辺から田畑が減少し、農作物は作る側から買う側になってしまった今日、農作物の豊穣を祈願する習わしが今も受け継がれているのだろうか。広い意味で買う側になったとはいえ、作物の豊穣を祈願しない訳にはいかない。昨年の米不足・野菜の不作・高騰は日々実感します、ないものは金で解決できるはずもなく、作物を育てる知識と土壌を失ってはいけない。我家の猫の額ほどの小さな菜園でも最近は野菜を植える機会が多くなってきた。それとて昨今の異常気象では上手く育たなくなった、土を育てる知識がないのである。ものが無くなるとそれを盗む者が現れ、やがては豊かな土壌を盗むそんな時代になってしまうのだろうか。新田の豊穣を祈願した洲原神社、「雑草や木の皮まで食い尽くす」そんな現実が訪れないことを願いたいものだが、既に動き出している実感がありますねぇ。洲原神社創建 / 天保10年(1839)祭神 / 伊邪那岐命所在地 / 春日井市知多町3-104春日山弁才天から十五丁公園 / 北東に1.6km、25分ほど参拝日 / 2025/01/05関連記事・2025年初歩き1 平安通から水分橋・2025年初歩き2 水分橋から春日山古墳(春日山弁財天・春日山御嶽神社)過去記事・「洲原神社」
2025.01.14
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初歩き2の今回は水分橋から春日山に向かい、春日山弁財天へ参拝します。写真は水分橋から対岸の庄内用水元杁樋門方向の眺め。ちょうどこの辺りに旧名岐鉄道大曽根線(名鉄小牧線)の橋梁が架けられていた場所になります。ここから北を見ると築堤が残り徐々に高さが低くなっていきます。この先は既に一部に民家や駐車場に姿を変えています。築堤は消え、線路もなく電車も通る事はありませんが、線路内立入禁止看板が掲げられています。地上を走って来た小牧線は、ここから200㍍ほど先の県道162号線あたりから地下に消えていきます。更に北進し、味鋺駅付近から左に進路を変え、県道102号線を北上、地蔵川を渡り戸田公園に向かいます。戸田公園。地蔵川右岸沿いにある公園、この界隈には次の目的地、味美春日山古墳や白山神社の鎮座する味美二子山古墳が隣接しています。後方に見えているのは冨士山滑り台で古墳ではありません、味美春日山古墳へはここから徒歩10分ほど、ここで少し一休み。味美春日山古墳全景。古墳を含め春日山公園として整備されており、春日山弁才天は墳丘の上に祀られています。春日山には犬山街道を挟んだ二子山に鎮座する白山神社の御旅所や春日神社がありましたが、寛永年間に御旅所は春日山から現在の二子山に移され、大正7年(1918)には春日神社も白山神社に合祀されました。味美春日山古墳を南側から見た全景。古墳は6世紀後半の古墳時代のものとされる前方後円墳と云われます。実際に訪れた印象では右手が後円部で左側が前方部、中央の階段部分がくびれ部分のように感じます。春日山弁才天と御嶽神社は左の前方部に祀られています。こちらは北側から見た味美春日山古墳。春日井市古墳散策マップの春日山古墳解説は以下のようなものでした。「二子山古墳に後続すると推定され、現在は春日山公園内に保存されています。かつて巨石が掘り出され白山神社に運ばれたという記録があり、埋葬施設は横穴式石室の可能性が考えられます。」とありました。そう聞いて白山神社の写真を改めて見直すと社頭の由緒碑の台座など、それらしい岩が使われています。それほど人の手が入っていながら出土品は不明とある。敢えて古墳と言われなければ、小高い小山の上に鎮座する神社の印象しかないかも知れません古墳を実感させるものは後円部に建てられた「春日山古墳」の石柱くらいで、古墳に関する解説板など特に見られなかった。墳丘から前方部の御嶽神社の全景。右手には「南無大悲観世音菩薩、南無大師遍照金剛」の大きな石碑が建てられてます。左側の斜面に小さな社の姿があります。どうやらこちらが春日山弁才天のようです。公園南側から見る春日山弁才天。左に春日山弁才天縁起の石碑があり、社は大きく育った椎の樹の根元に祀られています。お賽銭はこの不思議な形の賽銭箱に入れます。これ、遠目には陶器なのかと思っていましたが、近寄ってよく見ると金属製のもの。この形どこかで見た事がありませんか。気体の種類は分からないですが、これはガスボンベの空容器を加工したものではないだろうか。ここに硬貨を入れると澄んだいい音が出て、いいアイディアだと感心しました。「春日山弁財天縁起この地方は、17世紀中頃までは味鏡原と呼ばれる荒れはてた原野もあったが、南西部の湿地帯では新田の開拓が始まり、人の集まりはやがて集落となり、村人の暮らしも次第に良くなり、人々は更なる平安を願い苦しい労働のなか、村の辻々には石仏を、小高い塚には祠を祀り、天災疫病等の退散を祈願し、心のよりどころとしました。江戸時代下期の頃、当村住人周左衛門は人々に請われ、護国院第廿七世實如和尚の勧めも有り、同寺境内に祀られていた大弁財天女尊をお迎えして、当春日山南西麓に祀りましたが、参拝者の不便等の為、ほどなく現在の中新町1-9-5へ遷され、以降約百四十有余年あまたの人々の信仰を集めてまいりましたが、時代変わり、再び当初の地春日山に遷座するにあたり、嘉永の昔村人が使用した礎石を新しい社の脇に据えたことを添えて略記とする。平成七年三月吉日」この弁才天はもともと、南に20分ほど歩いた庄内川右岸に鎮座する護国院から遷されたもので、護国院⇒春日山⇒中新町⇒春日山と三回も動かされたようです。具体的な創建時期は定かではないようですが、この地に戻ったのは30年前の平成7年(1995)のようです。今日も地元の方の参拝者も見え、賽銭を投じる澄んだいい音が聞こえてきます。春日山御嶽神社、ここにもあの賽銭箱が置かれています。左手に霊神碑、中央に祭神や多くの霊神を記した石碑、右手に祠が祀られ、後方にも複数の社が見られます。石碑の上部の内容は以下。「八海山大頭羅神三国狭槌尊、大己貴命、大日大聖不動明王、国常立尊、少彦名命、白川大神、三笠山刀利天宮豊斟停尊、覚明霊神、普寛霊神」霊峰御嶽は、二人の行者により開かれました。その一人、普寛霊神は王滝口修験道の開祖であり、もう一人の覚明霊神は黒沢口修験道を開いた行者で、地元牛山町出身です。出生の地でもあることから、この地域では御嶽神社はよく見かけられます。右手の祠と奥の社。カッラーン〃、参拝させてもらいます。祠の額には神變大菩薩とあります。神變大菩薩とは役小角(役行者)のことで、光格天皇より「神變大菩薩」の諡号が与えられたもので、祠の中に役行者が安置されます。後方の社、右は国府宮神社、左に稲荷大明神が祀られています。その左の二社は右が秋葉神社、左の赤い社は津島神社。その左、右から八海山、御嶽神社、白川大権現、摩利支天が祀られています。これで古墳の上に祀られている社は参拝しました、次の目的地に向かう事にします。春日山公園の東北角に写真の道標が立てられていました。もとからここにあったものか、道路整備に伴いここに移されたものかは不明ですが、すぐ近くを上街道が北へ伸びるだけに道標には違和感はない。標の一面を除いた三面には以下のように彫られています。「是よ里十八丁常安寺・天保七年(1837)丙申二月十五日・三国伝来釈迦如来 」とありました。「常安寺」とは、ここから空港方向に約2kmほどの豊山町に鎮座する常安寺を指し示すものでしょう。次の目標は、この道標から北東へ15丁ほどの15丁公園に向かいます。春日山弁才天・御嶽神社・春日山古墳弁才天創建 / 不明御嶽神社創建 / 不明境内社 / 秋葉神社、津島神社、国府宮神社、稲荷大明神所在地 / 春日井市中新町2-21訪問日 / 2025/01/05水分橋から春日山弁才天徒歩ルート / 距離2.3km、移動時間約35分参拝日 / 2025/01/05関連記事・2025年初歩き1 平安通から水分橋過去記事・味美 『白山神社』・『味鏡山 天永寺 護国院』・萬松山常安寺
2025.01.13
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息子達の帰省もあり、暮れから正月にかけては飲み食いばかり。この間、初詣以外は家からほとんど出ない生活でした。体重計を覗いてみると驚愕の結果だった、体が重いのも当然だ。撮り溜めしていた写真は使い切り、今日から平常営業です。蛇年の初歩きは余り混雑しない場所で足慣らし、という事で地下鉄名城線の平安通駅から北に向かい、三階橋の袂に鎮座する黒体龍神を参拝し、名鉄小牧線味美駅までの8kmを歩いて来ました。写真は平安通駅3番出口からの眺め、ここから左に進み矢田川・庄内川を越え、県営名古屋空港方面に向かいます。歩き始めて20分程で黒川樋門到着。庄内川から矢田川の地下を流れ導かれた水は、堀川へ用水を導くために設けたもので、ここから黒川へ流れ込みます。3連の樋門の中央に2つの石段があり、樋門の上屋は木造で復元されたもので、その下には門を上げ下げする巻上機があります。樋門後方には三階橋ポンプ場があります。樋門上部は木造の人道橋となっています。石造の黒川樋門は、明治初期の黒川開削時に原型が出来、明治43年頃の改築時に今のような姿となった。その後、取り壊されるも、昭和55年に現在の姿に復元されました。「天然プールの碑。かつてこの地には明治9~10年の黒川開削の時に造られた池があり、ここより黒門・庄内用水・御用水・志賀、上飯田用水に分水していた。いつの頃からか、この池は天然プールと呼ばれるようになり、たくさんの子供たちが水遊びに集まり、水泳や魚釣りなどの思い出を残していった。百年にわたり人々に愛されてきたこの天然プールも昭和52年の三階橋ポンプ所建設により姿を消し、今は明治末期築造の石組樋門がわずかに昔を忍ばせている。名古屋市 昭和58年8月」樋門脇の地蔵堂。以前は現在地より下流の夫婦橋の傍ら祀られていましたが、上飯田通や県道の整備に伴いこの地に遷されたもの。堂内には地蔵と馬頭観音像が安置されています。黒川樋門は令和2年景観重要建造物に指定されました。この先の三階橋ポンプ場の西隣に、荒子川に至る全長28kmの庄内用水の始点があります。三階橋から矢田川上流の眺め。対岸から三階橋と黒川樋門方向の眺め。三階橋の由来は矢田川の地下に堀川、その上に架かる橋なので三階橋と付けられたという。写真は2021年に訪れた時の右岸から三階橋方向の眺め。この堤上には赤い社が印象的な天王社が祀られていました。現在は後方の守西ポンプ場や旧名鉄小牧線の築堤が見通せるようになり、堤の上から赤い社の姿は消えていました。廃社なのか、新たな場所に移されたものか不明です。瀬古1丁目「天王社」過去記事 / 「庄内用水元杁」から瀬古1丁目「天王社」守西ポンプ場の南に残る旧名岐鉄道大曽根線(名鉄小牧線)の築堤から庄内用水元杁樋門方向の眺め。築堤には枕木はありませんが、バラストが残り、瀬古親水遊歩道沿いには橋台の遺構が残っています。旧名岐鉄道大曽根線(名鉄小牧線)は、大曽根-犬山間を結ぶ路線として計画されましたが、計画変更により、上飯田駅から新小牧駅までの路線として開業(1931)されました。後に、地下鉄上飯田連絡線の開通(2003)により、名鉄小牧線が地下鉄と接続されることになりました。旧名鉄小牧線の上飯田駅から味鋺駅までの地上区間は、これに伴い廃線となりました。二つの河川を越えることから、こうした築堤と橋台が築かれました。この橋台の脇の畑に小さな社が祀られていました。橋台と社。畑の隅の大岩の上に板宮造の社が祀られ、注連縄と榊も供えられています。消えた天王社はここに?と思いたくなりますが、過去に撮った写真の中にも小さく映り込んでおり、天王社とは別の社のようです。社名札もなく詳細は不明ですが今も崇敬されているようです。不明社創建・祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区瀬古1ここの上を電車が通り、庄内川を越えた味鋺駅で小牧線と勝川線(1937年廃線)が接続していました。左側の守山瀬古親水遊歩道の瀬古橋付近には、小牧線開業当初には瀬古駅がありましたが、1942年に廃駅となり二つの河川に挟まれたこの地区から鉄道駅はなくなりました。堀川瀬古親水遊歩道。堀川に続く流れの中には水藻がゆらめき、小魚の姿も見られ、歩いていても気持ちのいい歩道が続きます。庄内用水元杁樋門。明治10年(1877)、庄内川に架かる水分橋から矢田川の伏越間で完成するも腐朽が進み、明治43年(1910)に作られたもので「現存する重要な土木遺産2800選」に選定されています。消石灰と真砂を混ぜて捏ねられた「たたき」と呼ばれる人造石で、二つのアーチ型水門。「現存する重要な土木遺産2800選」に選定されています。樋門上部の上屋には開閉用の舵輪のようなハンドルが見られます。ここから右手が庄内川となり、目の前に県道102号線の水分橋が架かっています。水分橋に出てみて驚いた、水分橋の架かる堤の様相が一変していました。以前の堤には小さな森があり、樹々に隠されるように黒体龍神が鎮座していました。橋梁改築に伴い、鎮座地の森は伐採、土手は盛り土され、黒体龍神の姿がなくなっていました。道路を渡り、周囲を見渡してみても鳥居の姿も見られなかった。蛇年最初の参拝は黒体龍神と思い来たけれど・・・2019年当時の『黒体龍神』今ではこの杜や神社も盛り土の下になってしまったのか。山王社同様、廃社になってしまったのか?どこか近くに遷されたものか、もう一度この周囲を訪れてみようと思います。過去記事 / 『黒体龍神』水分橋から庄内用水頭首工の眺め。ここで庄内川の水位を調整し、元杁樋門に注水する堰で、明治10年(1877)の黒川開削の際の仮堰が始まりで、堰が破損・流出する都度補修を繰り返していましたが、昭和29年(1954)に現在の形になりました。以前はこの上流に小牧線の橋梁が架けられていました。黒体龍神や天王社が消えていたのは残念ですが、庄内川を渡り味鋺駅方向に向かいます。平安通駅からここまでの距離約2.5km、所要時間約40分訪問日 / 2025/01/05地下鉄名城線平安通から名鉄小牧線味美駅全ルート / 8km約2時間
2025.01.10
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春日井市味美西本町「神明社」は、県営名古屋空港の南東角に鎮座しています。写真は味美上ノ町交差点から東方向の眺めです。左右を横切るのは県道102号線(犬山街道)で、手前には県道62号線があります。直進すると名鉄小牧線の踏切があり、混雑する交差点です。江戸時代、名古屋から犬山城方面へは、清水口から安井、味鋺に向かう犬山街道(稲置街道)が利用されていました。名古屋から矢田川や庄内川を越えるあたりは低湿地帯の不便な道でしたが、明治10年(1877)の黒川開削で出た土を盛土して道路として整備されました。翌年には水分橋も架けられ、整備された道を犬山街道と呼び、後に県道となりました。以前は小牧・犬山方面に抜ける際は良く利用しましたが、なにせ片側一車線で時間の読めない道でした。今回の西本町「神明社」は、この古い道筋の味美上ノ町交差点の北角に鎮座します。社地全景。左側は県道62号線になり、県道側からだと歩道沿いに立てられた看板が目隠しとなり、社頭にあたる東側には、社標や鳥居などはなく、分かり難いかもしれません。社地には大きな樹々はなく、ガランとした社地に東向きに舞殿と本殿が建てられ、すっきりとした外観です。舞殿から本殿殿方向の眺め。瓦葺の四方吹き抜けの舞殿は、柱に筋違が入れられ重い屋根を支えています。舞殿左脇に石仏が安置されています。石仏は馬頭観音で犬山街道を向いて安置されています。光背の銘文を見忘れましたが、この風貌からすると、明治から江戸時代末期のもののように見られます。舞殿から本殿域の眺め。正面の相殿の他に右側に一社祀られています。板宮造りの相殿には四社が祀られており、左から津島神社、秋葉神社、皇大神宮、白山神社が並んでいます。神社の創建について調べましたが、以下のような結果となりました。まず、愛知県神社庁には登録がありませんでした。次に『郷土史春日井』を調べてみましたが、記述を見つけることができませんでした。また、時系列地図で明治時代まで遡って確認しても神社を示すものはなく、昭和中期の航空写真では、現在の鎮座地に街道前まで続く長い建物が建てられているのが見られます。津島神社、秋葉神社、皇大神宮の組み合わせは、地に降りた屋根神ではないかとも考えられますが、それはあくまで個人の推測に過ぎません。創建時期や由緒については、確かな情報はわかりませんでした。本殿域右側の国府宮神社。詳細はわかりません。社地北側から本殿域側面の眺め。大正時代には南側の県道はまだなく、街道沿いの上ノ町と西海道の集落の間に位置しており、こぢんまりとした神社ですが、これら集落の氏神として祀られたものでしょうか。神明社創建 / 不詳祭神 / 天照皇大神境内社 / 津島神社、秋葉神社、白山神社、国府宮神社所在地 / 春日井市味美西本町2260-2参拝日 / 2024/12/26公共交通機関 / 名鉄小牧線春日井駅から南へ徒歩20分
2025.01.09
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東郷町春木白土の山神神社から県道36号線を西へ5分程移動すると、そこはもう名古屋市緑区に入ります。神の倉交差点を右折、次の交差点を右折すれば今回の目的地「徳一稲荷」到着です。上は昭和43年頃の地図とほぼ同時期の航空写真。赤枠が「徳一稲荷」で右のマーカーが山神神社になります。鎮座地の神(かん)の倉の「神」とは、近隣の緑区熊の前に鎮座する熊野神社(左のマーカー)の所在する山を「神ノ倉」と称したことに由来するらしい。地図を見る限り、この頃でも周囲の山と谷筋に田畑が広がる一帯で民家の少ないのが分かります。これ以降、更に山は消え、急速にベッドタウンに変貌する事になります。徳一稲荷の創建は比較的新しく、地図には鳥居は描かれていませんが明治中頃の事です。明治頃だと一面山だったものと思われます。徳一稲荷は愛知県神社庁に登録がなく、徳一稲荷として宗教法人登録もみられないようです。つまり私設神社の可能性が高いかもしれません。宅地化され、新しい民家が立ち並ぶ一画に徳一稲荷の社地があります。境内へは地域の方以外の参拝を拒むもののではなく、自由に参拝できる環境です。境内全景。手入れの行き届いた植垣の中は、玉砂利が敷き詰められた手入れされた境内になっています。中央に朱の明神鳥居が立てられ、その先に板宮造りの本殿が祀られています。徳一稲荷の鳥居扁額。本殿と徳一稲荷謂れの石標。「徳一稲荷の謂れ明治の中頃、赤松の山中で村人が狐を捕えて食ってしまった。その年は、日照りで稲が枯れ、お蚕が死に絶えた。困った村人が、熱田伝馬町のわたやの婆さに拝んでもらうと、狐の祟りとお告げがあった。村人は祠や鳥居奉納して狐を手厚く供養して豊作を願った。徳一稲荷と親しまれ、以来今日まで供養が行われている。平成二十九年九月吉日有志一同。」とありました。この内容からすれば、創建は明治時代となり、祭神は所謂稲荷神ではなく、食べられた狐そのもので、その霊を鎮め、日照りを解消する目的で祀られたもの。あまり狐を食すなんて聞かないし、身近で狐は見かけないけれど、何年か前に知多四国を回っている際に、知多半島では狐が自然繁殖していると聞いたことがあります。狐はジビエとしてもあまり聞きません、その理由にエキノコックスはじめとした寄生虫の存在が知られています。加熱し、しっかり茹でて、臭みを和らげれば、味や肉質に拘らなければ食べられるようです。狐を食べたことと日照りに因果関係があるわけではありませんが、そこまで追い詰められた過去があったという事です、このような過去の出来事が神社の創建につながったのでしょう。人は普段しないことをした場合、不都合な事象を祟りとして、原因をその行為に結び付け、悔い改めるために何かをしようとします。飽食の時代に生き、肉や植物を当たり前のように食べていますが、生きものを頂く自然への畏敬の念や感謝の気持ちを忘れていないだろうか。祟りとか否定的な自分から見ると、一匹の狐の霊を鎮める徳一稲荷は、自然への感謝の気持ちを持ち続けることを伝えているように思えます。食べられてしまった狐が鎮まる板宮造りの本殿。参道から境内の全景。明治のころは樹々に包まれ、狐も生息していたであろうこの地域、今も狐はいるのだろうか。徳一稲荷創建 / 明治中期祭神 / ・・・境内社 / ・・・氏子地域 / ・・・例祭日 / ・・・参拝日 / 2024/12/05所在地 / 名古屋市緑区神の倉3山神神社から徳一稲荷車移動 / 距離1.1㌔、移動時間約5分関連記事・山神神社・白土山神神社
2025.01.08
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東郷町春木白土鎮座山神神社。東郷町と聞くと名古屋市内に住む者のイメージは遠い印象を持ちますが、昨年12月、かみさんの免許更新で天白区平針を訪れた際、更新待ちの時間を利用して訪れました。神社は運転免許試験場から東へ5-6分の東郷町の丘陵地に鎮座します。神社は南垂の丘陵地、県道36号線の白土西交差点の北側に位置します。地下鉄桜通線の徳重駅から県道36号線を東に向かい、40分(2.7㌔)ほど歩くと社頭に到着します。途中には徳重熊野社や徳一稲荷もあり、退屈せず楽しめるでしょう。鳥居は東向きに建てられ、南北に長い社地を持っています。駐車場は、この先に境内の出入り口があるので、そちらから境内に停めさせて頂きました。鳥居から見る境内の眺め。鳥居をくぐると参道は右に折れ、境内右側に昭和2年寄進の「山神神社」社標が立てられています。石灯籠の右に保存されている旧神楽殿の鬼瓦。現在の広い境内には神楽殿はありませんが、過去には神楽殿が建てられていたようです。手水鉢には水が張られ、色付いたイチョウの葉が浮かんでいました。鳥居脇の太い幹のイチョウと大正11年に寄進された石灯籠。当神社の由緒は境内で見かける事はなく、愛知県神社庁を調べて見ると、東郷町には4社の登録があり、山神神社も以下の内容で掲載されていました。「御祭神 大山咋神氏子地域 愛知郡東郷町:涼松、春木、兵庫、三ツ池、緑区:白土、東神の倉例祭日 10月第1日曜日」・・・相変わらずの内容です。当神社は神職常駐の神社ではなく、普段は氏子により管理されている神社で、祭祀は富士浅間神社(愛知郡東郷町春木狐塚3801)が兼務します。そちらのHPには以下の由緒が掲載されていました。「氏子地区が名古屋市緑区神ノ倉一帯と東郷町の白土に跨っている珍しいお宮です。由緒創建については、文化4年(1811)「奉勧請山神一社」の棟札より明らかである。また、この事は「尾張徇行記」によれば、寛政期以前に人家が無かったと記されていることよりもわかる。白土の地名の由来である磨砂の産出と共に部落が発展してきた。」とありました。東部丘陵地の宅地化による造成と共に、そこから出る磨砂土は造成資材として使われ、猿投山周辺にも大規模な採掘所があるように、この辺りでも多く産出されていたようです。磨砂土はもともと花崗岩で、そこに含まれる石英や長石が長年の風化により出来上がった土で、茶色いのは粘土状に風化した長石によるものらしい。上質なものは白みが強く焼き物の原料に使われ、猿投山で見たトロミルはそのために使われていました。また、wikiに当社の記述があり、その内容は以下のものでした。「寛政11年(1799)4月、傍示本村白土元山に勧請し奉斎。棟札には「元山を『山ノ神』と尊称し、此の地の下の磨砂を採ることを禁ず」とある。当時の氏子は8戸であり、祭礼当日には村中山へ入ることを休んで神前に集い、和楽の1日を過ごしていた。これを「山の子遊び」と言っていた。 後に、祭礼当日には平針街道を通行する人々に茶菓子、寿司および赤飯の握りなどを振る舞うことが慣わしとなった。 なお、昭和30年頃の祭礼日は10月19日とされていた。」とあります。引用先が「東郷村誌(1980)とあるので「国立国会図書館デジタルコレクション」から確認してみたいが正月休みはログインできないので後日確認します。磨砂採掘地趾。東郷町の町名由来によると「白粘土や磨砂が採掘されたので、いつの頃からか住民の間で「白土」というようになり、それが地名になった」と紹介されていました。勝手な推測ですが、古い地図から神社の存在を調べてみると、明治・大正の地図には鳥居の印はなく、当時は山と田んぼばかりで、現在の県道沿いに小さな集落が点在する程度でした。そうした場所なので、それ以前の時代に山の神が祀られていたのかもしれません。古い地図をみてみると、昭和43年の地図になって鳥居が現れます、寛政期(1789-1801)に人家が無かったとというのも頷けます。現在のような姿になったのは、周囲の景色から田畑や山の姿が消え始めた明治・大正時期だと思われます。まさにこの土地と共に生まれ、変貌を見続けてきた神社でしょう。ニノ鳥居から拝殿の眺め。鳥居の先の参道を守護する狛犬。寄進年を見忘れましたが、昭和初期か大正末期のものだと思います。鳥居から先の石段から切妻平入の拝殿の眺め。「山神神社」拝殿額。拝殿から幣殿・本殿の眺め。神紋は「折敷に縮み三文字」だろうか、あまり見覚えのない紋です。現在の社殿が修築されたのは比較的最近のようです。拝殿右から幣殿・本殿と境内社の眺め。板宮造の境内社。左が津島神社、右に秋葉神社が祀られています。本殿後方から社殿全景の眺め。本殿は神明造で大棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付きます。境内の片隅で見かけた古い社殿の解説。現在のニノ鳥居あたりに四方吹き抜けの神楽殿が描かれており、これが社頭の鬼瓦でしょう。この看板には年度の記載はありませんが、社殿建替前は磨砂採掘地趾の石標は石段左にあり、慰霊碑、津島神社が石段の両脇に祀られていたようです。上段の拝所の両脇に秋葉神社、多賀神社が祀られていたようです。多賀神社.....見落としたか?本殿左の境内社、以前はここに秋葉神社が祀られていました。現在は故郷を一望できる高みに白戸神社戦没者慰霊碑が祀られています。拝殿前から境内、白土の街の眺め。石段脇の桜の樹に絡みついたツルの紅葉がとても鮮やかでした。山神神社創建 / 寛政11年(1799)祭神 / 大山咋神境内社 / 津島神社、秋葉神社、白戸神社戦没者慰霊碑氏子地域 / 涼松、春木、兵庫、三ツ池、緑区:白土、東神の倉例祭日 / 10月第1日曜日参拝日 / 2024/12/05所在地 / 愛知郡東郷町春木白土1愛知県警察運転免許試験場から車移動 / 距離2.4㌔、移動時間約7-8分
2025.01.05
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前回の三河国三之宮 猿投神社 4「東の宮」から引き続きとなります。今回は「西の宮」、本社(里宮)と東の宮・西の宮(奥宮)の猿投三社大明神巡拝はコンプリートとなります。東の宮の参拝を終え、社頭に降りてきました。周囲の樹々の影も長くなり、明るいうちの下山を考えると西の宮は諦め、左に進むべきか悩みました。14:55暗くなる不安を抱きながらも、西陽も入るので社頭の右の細い道を西の宮に向け歩き出しました。15:01舗装された林道を5分前後下っていくと、西の宮の社頭が見えてきます。社頭全景。右手に「猿投神社 西の宮」の社標(1969)、左手にコースマップと西の宮解説が立てられています。「西の宮猿投山の西の峯にあたる山頂付近の大字鷲取にあり、猿投神社を本社とする西方の奥の宮です。創建は東の宮と同じ記録を残すところから、ほぼ同じ時期の平安時代後期と推定されます。このお宮には、南朝方の忠臣児嶋高徳が寄進した木の葉丸という長巻(太刀)があったと伝えられています。境内に観音を本尊とする寺が建っていました。ここから約200m先御墓所(大碓命の墓)大碓命は景行天皇の皇子で小碓命(日本武尊)の兄弟と言われています。猿投山で蛇に噛まれて亡くなったと伝えられ、これが縁で猿投神社の祭神として祀られています。墓所は西の宮と隣接しており、石垣に囲まれており、中は土盛の半円型になっています。土盛は七色の土を使って築かれ、棺は土器で作られたと云われています。なお、小碓命は日本武尊として有名です。西の宮から約70m先猿投地域会議」道標も整備され、所要時間も併記されており、コースは分かりやすいけれど、距離や時間はどこまでも目安。帰途は東を歩くか、西を歩くか、はたまた登山道を戻るかは、お天道様と相談です。石の神明鳥居をくぐって参拝道を登りはじめます。15:11鳥居から境内までの距離は比較的短く、10分程で上の視界が開けてきます。参拝道は一部に手摺も用意されており、東の宮と比較すれば登りやすいかもしれません。登り切ると境内が開け、正面に石の宮社殿が現れます。境内社こそないものの、礎石や社殿の造りは東の宮と同じです。15:15ベンチに腰掛け息を整えます。社殿正面全景。鰹木6本、外削ぎ千木で、軒側に向拝が付くものです。西の宮の創建も定かではなく、社頭の解説では「東の宮と同じ記録を残すところから、ほぼ同じ時期の平安時代後期と推定されます」とありますが、未詳のようです。西加茂郡誌によれば西の宮正殿の左間に大碓尊、中間に活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)、右間には大足彦忍代別尊(景行天皇)を祀り、本地仏の観世音菩薩を安置した本地堂と社を神主一人、社家一人が奉仕したとあります。右から社殿側面の眺め。社殿右側の大碓命墓への石段。15:18「景行天皇皇子 大碓命墓 宮内庁」とあります。大碓尊について「景行天皇第一皇子、景行天皇50年美濃に封じられ、景行天皇52年(122)に猿投山に登られ、蛇毒で42歳で亡くなり山上に葬られた。」とも書かれます。一方で亡くなり方は毒蛇ではなく、小碓命(日本武尊)に討伐されたとか諸説あります。どこまでいっても真実は分からないが、この高みの大碓命墓所は、「古来から垣があり御廟所として崇敬され、そのなかには土器の破片が散乱していた」という。この内容からすると、古くから古墳としてここにあったようです。明治8年(1875)に調査が行われ、大碓命の墓所であるとが治定され、周囲の玉垣など整備され、守部一人が置かれたようです。何が治定の決め手になったのか分かりませんが「景行天皇皇子 大碓命墓 宮内庁」の現実から、小碓命(日本武尊)による討伐説や蛇毒説は、もうひとひねり必要なのかな。大正9年(1919)、付近の宮山の火災で延焼し域内樹木や玉垣を焼失、翌年石垣やコンクリート製の玉垣に改築されたのが現在の墓所の姿です。現在はこの看板が示す様に宮内庁管理となっており、石段や手摺が整い、東の宮と少し違った様相です。登り始めるとすぐに道標が現れます、ここは直進です。15:201~2分程で大碓命墓所に至ります。しっかりした石垣と玉垣が墓所を囲んでいます。その玉垣の門の先には鳥居が建てられています。鳥居の先は、こんもりとした円墳状になっており、ここが大碓命の葬送地、県内にある2カ所の陵墓のひとつになります。15:24さあ、下山しよう。この日一人で登ってくるとき、小学生の低学年の集団が駆け下りてきた。その時はとても心強く感じたが、それ以降は休憩所以外、東の宮を含めてハイカーに出逢う事は少なく心細かった。ここ西の宮でもそれは同じでした。社頭が見えてきました。この林道、車でも走ってこれるだけに、罰ゲームのように歩いてくる必要はないのかもしれない。しかし、時短と称して早送りやショートカットするこのご時世、我慢する事も必要な事だと思う。15:35ここからの下山は先程下ってきた林道を東の宮まで登り、そこから登山道か林道で駐車場まで戻るか、この社頭から右手に下って本社まで戻るかの選択です。陽が傾いた樹々の中の登山道を、疲れた足で下ればろくな事はない。西側に当たる右側を下り、猿投七滝方向から下りてもいいが本社まで戻る事になります。ここは東の宮まで林道を上り、そのままクネクネ道の林道を下り御門杉に出る我慢のルートを選択しました。東の宮の分岐から林道を10分ほど下ったところで、私より年配で上を目指す二人組にすれ違いました。この時間に上を目指す人に出逢うのはトレイルランナーくらいだろうと思っていましたが、帰りを考えると高齢者(いくつを指すのか不明ですが)のハイカーにはお勧めしません。ルートも整備され、歩きやすい629㍍の低山ハイクかもしれませんが、ここは神の鎮まる山です、毒蛇に噛まれるやもしれません、油断は禁物です。17:03クネクネ道の林道を歩き、大悲殿東昌寺に戻った頃には本堂に灯りが入り、満車だった駐車場も数台の車のみとなっていました。ほんとこの時期は動ける時間の少ない事。今回は三角点までは諦め、本社・東の宮・西の宮を訪れましたが、陽が長くなった頃に三角点まで訪れて見ようと思います。三河国三之宮 猿投神社 5「西の宮・大碓命墓所」創建 / 未詳祭神 / 大碓尊、大足彦忍代別尊(景行天皇)、活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)境内社 / ・・・ 所在地 / 豊田市猿投町東の宮社頭から西の宮社頭徒歩 / 約450m6分御門杉から東の宮・西の宮・駐車場まで徒歩 / 距離11km・約3時間参拝日 / 2024/11/06関連記事・猿投神社 一之鳥居・三河国三之宮 猿投神社 1「本社」・三河国三之宮 猿投神社 2「山中観音堂・大悲殿東昌寺」・三河国三之宮 猿投神社 3「トロミル水車・水神・馬頭観音・お倉岩」・三河国三之宮 猿投神社 4「東の宮」過去記事・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2025.01.04
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2025年新年最初の記事でありながら、今だ昨年11月の猿投山山中を彷徨っています。こんな調子ですが、今年もよろしくお願いします。猿投山の御門杉から猿投神社の奥之院ともいえる、東の宮、西の宮の両宮を目指し、陽が傾きだした猿投山登山道を登り始めます。登山道は丸太の階段が整備されており、歩きやすい道が続きますが、気を抜くと痛い代償を払うことになります。13:25樹々に包まれた山道から、視界が開けると、簡易舗装された林道に出ます。そこからは道標の休憩所に向かう登山道を進みます。13:32東の宮に向け、道標に従い上を目指します。13:44休憩所付近の東海自然歩道の解説板。この時間の休憩所は下山者の方が多いように見えました。13:56ここも道標に従い右に進みます。ここから少し歩くと再び林道に出るので、左に進みます。14:00林道沿いの東の宮社頭。この付近にはトイレもあり、一息入れて水分補給するには良い場所です。社標右側の東の宮解説。「猿投山の東の峯頂上近くは、茂吉ヶ峯の地名を残し、猿投神社を本社とする東方の奥の宮です。東方の宮は室町幕府初代将軍足利尊氏寄進の槍と鏡があったと伝えられており、室町時代の貞和5年(1349)に記録のある祭礼記にその名がみられます。創建は不詳ですが平安時代後期と推定されます。このお宮にも寺院が建立されて本尊は薬師如来を安置していました。(ここから約900m先)猿投地域会議」石の神明鳥居をくぐり、東の宮までは約25分程の登りが続きます。14:13参道の眺め。東の宮が鎮座するのは、この先の猿投山東方山上の茂吉峯と呼ばれる場所に鎮座します。こうした道が続き、鈍った足は悲鳴を上げはじめる、万一フラリと左に踏み外せば・・・転げ落ちる。14:20さほど時間は過ぎていないが、この登りがやたらと長く感じます。昔は新しい靴の足慣らしに訪れたもので、三角点までは一歩きの記憶しかありません。14:23あと5分の道標。熊やら蜂やらの注意看板、看板にはないが猪や鹿だっている。注意と云われてもねぇ。こんな道の向こうからそれらが下りてきたら・・・どうしろと、「コンチワー」で許してくれる訳もなく。頼むよ、熊鈴二重連。14:24東の宮が見えてきた、周囲に獣の気配なし。右手に手水鉢、石段の前に一対の燈籠。燈籠の寄進年を見るのを忘れましたが、雰囲気は以前もこんな感じだったような・・・境内全景。社殿の手前に残る礎石、神仏分離以前に鎮座した薬師如来を安置した本地堂の名残だろうか。以前は東の宮・西の宮の神輿を、山中観音堂の御旅所に安置し、猿投神社の四方殿に御遷し、神事の後に再び御輿を両宮に担ぎ上げる猿投祀りが執り行われていたといいます。その際は近隣の三ヵ国、200近い村々から猿投神社に献馬や棒の手が奉納されたと云われます。明治・大正期にかけて、そうした往時の盛大さは徐々に衰退していったようです。14:27・・・約40年前の記憶ではこんなに綺麗じゃなかった気もするのだが。当時は見向きもせず左を通り抜けるだけだったので記憶は怪しいものがある。本殿は2年ほど前に一部修繕されたようです。そこまでは分かったけれど、約40年前が印象の通りだったのか、裏付けるものが今のところ見つからない。大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌によれば、猿投神社の勧請は「仲哀天皇元年(192)勅願により猿投山下に祀る。東の宮は成務天皇の御代本社創立に先立つ60余年前、西の宮は未詳で一説に白鳳13年(私年号684)という。東の宮正殿の左間には大碓尊、中間に大足彦忍代別尊(景行天皇)、右間には活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)を祀り、神主一人、神官二人、社家四人が本地仏の観世音を安置し、多くの僧坊の僧侶が奉仕した」と記されていました。また、大碓尊について「景行天皇第一皇子、景行天皇50年美濃に封じられ、景行天皇52年(122)に猿投山に登られ、蛇毒で42歳で亡くなり山上に葬られた。」とも書かれています。次に向かう西の宮後方の高みに大碓命墓所があり、宮内庁により治定されています。東の宮本殿正面の眺め。西加茂郡誌に「三間」とありますが、こうして見ると確かにそのように見えます。祭神は左に大碓尊、中央に大足彦忍代別尊(景行天皇)、右に活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)が祀られている。本殿右側の眺め。神明造で大棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が付き、正面の軒に向拝が付くものです。本殿域全景。東の宮には本殿の他に右側に境内社が祀られています。境内社正面。社殿の前の水が入ったPETボトルは、榊立ての水が枯れているのに気づいた方が、それで補充するため置かれているもの。この社については社名札はなく、社頭の解説、猿投町史、西加茂郡誌に記載もなく詳細は不明です。境内左から道標と東の宮の眺め。社殿左に続く登山道から猿投山の山頂までは約1km、25分の道のりです。陽も傾いているので西の宮の巡拝に向かいます。14:35社殿から堂の礎石と登ってきた参道の眺め。境内は四方を背の高い杉に包まれているので、この時間でも薄暗く感じます。静まりかえった境内に自分一人。14:36登りでは気が付かなかったが、参道の杉の樹洞に賽銭箱を発見しました。何が祀られているのか不明ですが、賽銭をいれ「変なのに出逢わないように」と自分に暗示をかける。西側が開けている参道ではまだまだ明るい。14:50無事社頭に到着。西の宮へは鳥居前の舗装路を右に下っていきます。三河国三之宮 猿投神社 4「東の宮」創建 / 不明(仲哀天皇元年(152)以前)祭神 / 大碓尊、大足彦忍代別尊(景行天皇)、活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)境内社 / 不明社1社 所在地 / 豊田市猿投町御門杉から東の宮徒歩 / 約2.1km50分参拝日 / 2024/11/06関連記事・猿投神社 一之鳥居・三河国三之宮 猿投神社 1「本社」・三河国三之宮 猿投神社 2「山中観音堂・大悲殿東昌寺」・三河国三之宮 猿投神社 3「トロミル水車・水神・馬頭観音・お倉岩」
2025.01.03
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本年もよろしくお願いいたします
2025.01.01
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